観察施設の功罪
学生のころ、休みといえば望遠鏡をかついで全国の野鳥の渡来地をほっつき歩いていました。シギやチドリなどが渡来する干潟が多かったのですが、ガンやカモ、ハクチョウが渡ってくる沼、ツルの渡来地などにも行きました。
その頃はもっぱら公共交通機関と徒歩の旅です。鉄道の駅やバス停から目的地まで、1時間以上歩いて行くこともありました。
そして、どっぷりと自然につかって野鳥の観察を楽しんだものです。直射日光をさえぎるものもない炎天下を汗だくになって歩いてシギやチドリの姿を追い求めたり、冷たい風に身を縮めながら水鳥たちを観察したり・・・。
時々、「鳥を見るだけで、何が楽しいの? 物好きだねえ!」などと言われながら。そう、確かにオタクの世界でしょうね。それでも、野鳥好きの人にとっては、自然の中で鳥を見るということがたまらないのです。
その後、かつて歩きまわった水鳥の渡来地の多くに、野鳥を観察するための施設ができてしまいました。野鳥の渡来地として有名になったところを保護し、多くの人に野鳥を見てもらうために行政などが建設したのです。
大きなガラス張りの窓から、沼や干潟を一望できる観察施設が、全国にどれくらい建てられたのでしょうか。建物の中は冷暖房が完備されているところも少なくありません。暑さや寒さを我慢しなくても楽に観察できます。でも、私はどうしてもそのような施設が好きにはなれないのです。
見える景色は同じでも、ガラスで隔てられた屋内というのは「感覚」というものが欠落してしまうのです。野鳥の鳴声や風の音、葉ずれの音や肌にあたる風の感触、植物から発せられるかすかな匂い、土のぬくもり・・・。それらが全くない視界だけの世界は、もはや自然観察とはいいがたいものがあります。
「保護」のために、あるいは「自然とのふれあいや学習」のために施設が造られることが多いようですが、本当にそのような施設がなければ保護ができないのでしょうか? 観察ができないのでしょうか? あちこちに観察施設ができたというニュースを聞くたびに、なにか虚しい気持ちになってしまうのです。
数年前、サハリンを訪れました。そこには自然のままの海岸線や沼沢地がまだまだ残されていました。沖合いの岩礁にはアザラシが寝そべり、浜辺には野鳥が戯れています。人工物の何もない海岸や渓流の近くでテントを張り、釣りなどをして楽しむ人たちが大勢いました。彼らは自然の楽しみ方を心得ているのですね。
日本からは姿を消しつつある自然の原風景を目の当たりにし、どこにでも安易に施設をつくりたがる日本の人々の心の貧しさを、とても寂しく思ったものです。
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