地球温暖化による気候変動は年々深刻になるばかりだ。そして、二酸化炭素の排出を抑えるために、化石燃料から再生可能エネルギーへの転換が叫ばれている。
再生可能エネルギーとは「枯渇せずに繰り返し永続的に利用できるエネルギー」だ。石炭や石油、天然ガスあるいは原発に使うウランは有限でありいつか枯渇する。しかし、バイオマスや太陽光、風力、地熱などは「再生可能エネルギー」だという。しかし、「再生可能エネルギー=持続可能」ではない。
バイオマス、つまり薪とか木炭を燃やすのは純粋な再生可能エネルギーだ。樹木は再生産できる。ただし、成長量を上回る伐採をしたなら枯渇してしまうので、過剰な伐採は禁物だし、植林をして利用できる森林面積を維持する必要がある。化石燃料が普及していない頃は、人々は薪や木炭を暖房や調理に利用していた。樹木を過剰に伐らなければ、バイオマスは持続可能なエネルギーと言えそうだ。
しかし、それは伐採や運搬、加工などに化石燃料を使わないという条件がつく。かつては、里山から薪となる材を切り出すのは手作業で化石燃料を使うことはなかった。北海道などの雪国では、冬に山に入って木を伐り馬橇等で搬出し、川を利用して流送した。しかし、現在は伐採から枝払い、丸太づくりまで機械で行うようになってきている。そして運搬もトラックだ。つまり、バイオマスをエネルギーとして利用するにも化石燃料を使うことになる。とすると、純粋な持続可能なエネルギーとは言い難い。では、伐採や運搬を化石燃料以外のエネルギーで行えるかといえば、現時点では無理だろう。ただ、再生可能エネルギーの中では持続可能性が高い方ではないかと思う。
水力はどうだろうか。例えば水車を動力として粉を引いたり米搗きをしたり、機械を駆動させることも再生可能エネルギーと言えるだろう。風車も同様に、灌漑や製粉などに用いられた。水車や風車は人類が古くから使用している再生可能エネルギーであり、水車の回転によるエネルギーをそのまま動力として使う小規模なものであれば持続可能なエネルギーと言えそうだ。
ダムによる大規模な水力発電はどうか。水力自体は再生可能エネルギーだが、建設にはやはり化石燃料を使う。大量の砂利やセメントという資源も必要だ。そして、ダムをつくることで河川の生態系を破壊してしまう。山からの土砂の供給を止めてしまうので、川床低下や海岸浸食が進行し、その対策が必要になる。自然破壊を伴う発電は、やはり持続可能とは言い難い。しかも、日本では新たなダムの適地はほとんどなくなってきている。
太陽光も再生可能エネルギーだ。直射日光で水を温めたり、室内に太陽光を取り入れるなど、太陽の熱エネルギーをそのまま利用するなら持続可能なエネルギーだ。しかし、太陽光発電となると話は変わってくる。
近年は大規模ソーラーや風力発電の建設による自然破壊が大きな問題になっている。また太陽光パネルをつくるためには、希少金属や有害物質が使われる。太陽光パネルの場合、20~30年ほどといわれる耐用年数がきたら、新しくしなければならない。リサイクルを行ったとしても、完全にリサイクルできるわけではない。近年急激に増えたメガソーラーの寿命がきたら大量の廃棄物が生じるが、いったいどれくらいリサイクルが可能だろう? これでは持続可能とは言えない。風力発電もレアアースが不可欠だ。
電気自動車の蓄電池にもリチウムやレアアース、希少金属などが使われる。ガソリン自動車を電気自動車に置き換えたなら、膨大なリチウムやレアアースやレアメタルが必要になる。レアアースやレアメタルなどは産地が限られるということだけが問題ではない。これらを取り出すために、環境が汚染されたり採掘地での搾取労働が問題になっている。
リチウムやコバルトついて、斎藤幸平氏は「人新世の『資本論』」の中で次のように指摘している。リチウムは産地が極めて限られている。また、リチウムは乾燥した地域で時間をかけて地下水として濃縮されていくため、リチウムの採掘は大量の地下水をくみ上げることになる。これによってチリではアンデス・フラミンゴの数が減少し、住民たちが利用できる淡水が減っているという。
コバルトの採掘も、水質汚染や農作物汚染、景観破壊をおこし、奴隷労働や児童労働が蔓延しているという。リチウムやコバルトに限らず、昔から金属の採掘には環境破壊や鉱毒問題を抱えている。これでは、ちっとも「持続可能」ではない。
鉱物産出量は、増加の一途をたどる。ではリサイクルはどうか。斎藤氏は同書で「一方、リサイクルされているのはわずか8.6%で、その割合は資源消費量の急速な増大を前にしてむしろ下がっている」と記している。金属などの資源のリサイクルはまだまだ少ないし、すべてリサイクルできるわけではない。
地球温暖化対策として叫ばれる「再生可能エネルギー」は多くの場合、太陽光や風力、地熱などを利用して発電をすることを指す。しかし、前述したように、発電をするとなるとさまざまな有限な資源を使わざるを得なくなるし、自然破壊、環境破壊、環境汚染の問題がつきまとう。このような問題を棚に上げてあたかも再生可能エネルギーがクリーンであるかのように喧伝するのは騙しではないか。
化石燃料から再生可能エネルギーに変えていかねばならないのは言うまでもない。しかし、それだけでは持続可能なエネルギーということにはならない。今の私たちはあまりに「電気」に頼り過ぎてしまった。私は、電気の使用量自体を減らし、バッテリーを使う機器を減らしていく努力が不可欠だと思う。AIの開発・普及などもってのほかだ。そして、再生可能エネルギーも持続可能性の高いものを選び、できるだけ小規模で地産地消を目指すべきだろう。もちろん、前提として経済成長も止めなければならない。
気候変動対策の目安として、斎藤氏は生活の規模を1970年代後半のレベルにまで落とすという提案を支持している。1970年代後半といえば、パソコンも携帯電話も普及していなかった。それでも、不便だと感じたことはなかった。私たちは、いちど利便性を手にしてしまうと「昔のレベルに戻すことなどできない」と言う。しかし、それは「できない」というより「したくない」という方が正確だ。
SDGsつまり、持続可能な開発目標が謳われているが、再生可能エネルギーは決してクリーンではない。経済成長をしながら環境も維持し持続可能な社会をつくるなど不可能だ。本当に持続可能な社会を求めるのであれば、今の生活を根本から見直す必要があるのではないか。便利さや効率性にばかり目を奪われていたら、私たちの生存基盤である地球はどんどん傷つき汚染され、気候変動に苦しめられる。私には、科学技術で発展した人類は科学技術で滅びるのではないかと思えてならない。
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