2015年2月25日 (水)

中西悟堂氏の思い出

 魚住昭氏による中西悟堂氏の回想記を目にし、とても懐かしく読んだ。

わき道をゆく 第67回 もう忘れたのかと鳥は啼く(魚の目)

 中西悟堂氏は、日本野鳥の会の創設者だ。「野鳥」という言葉を生みだしたのも中西悟堂氏だ。私は高校生のときに日本野鳥の会に入会したのだが、その頃も野鳥の会の会長は中西氏で、毎月会誌をほそぼそと発行しているだけのような会だった。その頃の日本野鳥の会の会誌「野鳥」は読み物が主体の文学性の高い雑誌で、ページ数が減りカラー写真ばかりになった今の野鳥誌とはまったく趣が異なっていた。

 私が野鳥に興味を持ったのは小学校の高学年の頃だ。庭にえさ台をつくってみたり、「探鳥会」なる催しに参加したのが野鳥に興味をもつきっかけだった。それまでは昆虫は大好きだったが、とくに野鳥への関心はなかった。しかし、ひとたび野鳥に興味を持つと、今まで気がつかなかった身の回りの野鳥がなんとも新鮮に目に飛び込んできた。興味を持つというのは、こんなにも日常の世界が広がるものなのかとときめいた。

 そして、高校生のときに学校の図書室に並んでいた中西氏の「定本野鳥記」をすべて読んだのだが、今となっては内容はほとんど覚えていない。しかしはっきりと覚えているのは、中西氏の雷恐怖症。

 実は私は子どもの頃から雷が大嫌いだった。特に一人で家にいるときに雷雨になると、稲妻が見えないようにカーテンを閉め、ふとんに潜り込んだりしていた。なにがきっかけだったのか分からないが、とにかく雷が怖かった。それで、中西氏の雷恐怖症に、同じような人がいるのだと親近感がわいた。

 そんな中西氏が雷恐怖症を克服したのは、たしかフクロウの撮影のために木に登っていて雷雨に遭遇した経験だったと記憶している。あまりの恐怖で木から下りることもできずに木にしがみついていたが、そんな恐ろしい経験をしてから雷が平気になったそうだ。私は今でも雷がゴロゴロと鳴りだすと、中西氏のこのエピソードをしばしば思い出す。ただし、私は今も雷が嫌いだ。子どものときほどの恐怖感はなくなったが、やはりあの稲妻と耳をつんざく轟音は心臓に悪い。

 中西氏は僧侶でもあるのだが、山の中での修行中に小鳥たちが寄ってきて彼の体に止まるという経験をしたという話しもよく覚えている。野生の小鳥が平気で人に止まるというのは、小鳥がこの人は安全であることを悟っているからだろう。中西氏には霊感があるのだろうか・・・。何と不思議な人だろうと思った。

 私は若い頃、一年だけだが日本野鳥の会の事務所で働いていたことがある。中西悟堂氏も会議のために事務所に来ることがあった。ある日、私がトイレから事務所にもどった時、会議を終えて帰る中西氏と事務所の入口付近で鉢合わせになった。

 私は慌てて会釈をし、脇に寄って通り道を開けたのだが、何を思ったのか中西氏は立ち止り、私を頭のてっぺんからつま先までじいっと穴のあくほど見つめたのだった。そして何も言わずに見送りの人たちとドアを出ていった。当事者の私はもちろんのこと、それを見ていた事務所の人たちも、かなり不可解に思ったようだ。いったいあの時何を感じたのだろう。

 そして、まったく別の人から同じように頭のてっぺんからつま先まで、まるで品定めでもされるかのように見つめられたことがある。その人物とは男女平等や差別の撤廃を求めて活動した故市川房枝氏だ。仕事で議員会館に行って市川房枝氏に会ったのだが、職場の上司が私を市川氏に紹介したときのことだ。上司も市川氏のその様子に、かなり驚いたようだった。こんな経験は生まれてこのかた2回だけだ。

 魚住氏のエッセイを読んでいて、すっかり忘れていた若い日のことを思い出した。人の直感というのはけっこう鋭いと私は思っている。だから、たぶんお二人は直感で何か感じるものがあったのだろう。そうでなければ、初めて会った者をあれほどまじまじと見つめるといういわば失礼な態度をとるのは不可解だ。いったいお二人は言葉も交わさない私に何を感じたのだろうか?

 私は若い頃から、年齢とか肩書、経歴などに関わらず、誰でも人はみな対等だという意識が強かった。だから、著名人に会ったからといって媚びへつらうという気持ちは全くないし、そういう意識はたぶん態度にも表れていたに違いない。

 私が日本野鳥の会の事務局で働いていたときは、野鳥の会は会員も増え、野鳥の調査に関わる委託事業なども受けていて10人以上の職員を抱える組織になっていた。そして、中西悟堂氏がたまに会議に出席するときには、職員などからたいそう気を遣われ、「先生」「先生」と持ちあげられていた。もしかしたらそんな職員とは違った雰囲気を私に感じ取ったのかもしれない。

 中西氏は機械文明、消費文明の行き過ぎに警鐘を鳴らし、質素で無欲の生活を貫いていたと聞く。そんな謙虚と思える人物が、自分の創設した会の会合で「先生」「先生」と持ちあげられることをどう感じているのだろうかと、私はなんとなく気になっていた。

 国会議員だった市川房枝氏は、日頃から「先生」「先生」と持ちあげられ、周りの人たちはすごく気を遣っていた。傍からみるとその光景はちょっと異様で気持ち悪いくらいだった。市川房枝氏は、政治家として名を成してからは、常に周りの人から気を遣われ持ちあげられているのが当たり前だったに違いない。

 だから市川房枝氏にまじまじと見つめられたとき、私は、私の態度から醸し出された誰にも媚びない雰囲気を市川氏が感じ取ったのではないかと思った。人というのは、著名になり持ちあげられるのが当たり前になると、そうではない人のことがすぐにピンときて違和感を覚えるのではなかろうか。自分の周りにいる人たちとは違う私の意識が(とは言っても私はごく普通にしていただけなのだが)、あの品定めするかのような視線につながったのかもしれない。

 もうひとつ思い当たるのは化粧だ。私は若い頃から化粧をしないことを貫いてきた。そして、市川房枝氏も化粧をしないことで知られていた。だから、化粧をしていない私を見て、なにか感じたのかもしれない。もちろん、これは私の勝手な想像でしかないから、本当はまったく違う理由があったのかもしれない。

 世の中には二つのタイプの人がいる。「先生」と持ちあげられることで天狗になってしまいだんだん謙虚さを失っていく人と、決してそのようなお世辞やおだてに乗らず常に謙虚で人を差別しない人だ。悲しいかな、前者のような人は多い。はたしてお二人はどちらだったのだろうか。

 私もだんだん残された時間が少なくなってきた。残された人生、せめて謙虚さだけは失わないでいたいと思う。

2014年10月16日 (木)

蜘蛛仙人 八幡明彦さんを偲ぶ

 今年の5月31日、日本蜘蛛学会や東京蜘蛛談話会の会員であった八幡明彦さんが交通事故で亡くなられた。諸事情で蜘蛛学会の大会も欠席していた私は、八幡さんの訃報を最近になって知ったのだが、若く、また突然の悲しい知らせに残念でならない。

 私は八幡さんと親しい間柄だったわけではない。日本蜘蛛学会の大会で何度も顔を合わせているが、彼と親密に話しをした記憶もない。タランチュラを飼育したり、加治木町の蜘蛛合戦に参加するなど、かなりのクモおたくという印象を持っていたが、のちに学術面でも大変熱心な方であることを知った。

 然別湖で行われた東京蜘蛛談話会の観察・採集会の際は、一人で藪に入ってもくもくと捕虫網を振るっていた。そして採集品を管ビンに入れては私のところに持ってきて「これ何ですか?」と尋ねる。よく見ると、それらの多くは小さな幼体のクモだ。幼体だというだけでたいていのクモをすぐに釈放してしまう私は、その熱心さに驚いた。このように一人でもくもくとクモを採集するのは、いつものことらしい。

 また、彼はGIS(地理情報システム)を活用し、全国のイソコモリグモの生息可能海岸の推定も行った。単なる蜘蛛好き、蜘蛛おたくでは決してない。

 そして、八幡さんにはクモ愛好家とは異なるもう一つの顔があった。というのは、彼は東北地方太平洋沖地震の津波の被害を受けた宮城県南三陸町、旧歌津地区でテント小屋暮らしをしながら、蜘滝仙人(くもたきのりと)を名乗りって「歌津てんぐの山学校」を主宰し、復興支援だけではなく被災した子どもたちのためにさまざまな活動をしてきたのだ。

 彼の「歌津てんぐの山学校」のホームページには以下のように書かれている。

≪来歴≫
2011年3月から11月まで東日本大震災の緊急支援ボランティアを行った「RQ市民災害救援センター」の「RQ歌津センター」の活動から誕生した。
津波被害で歌津の「浜」は壊滅したが、同じく壊滅状態の志津川にある町役場からの救援の手は遅れた。ボランティアさえ来ない状況下で、町の人たちは江戸時代からの互助組織「契約会」が中心になって避難所運営をし、山の人が浜に物資を運びこんで自力で生き抜いた。2週間遅れてRQ市民災害支援センターがボランティア組織としては一番に歌津入りし、伊里前地区の契約会の紹介で、その地に土地を借りてテント村のボラセンを設営した。以来、斜面林の人の手でしか片付けられない漂着物の撤去と写真等思い出の品の洗浄、漁師さんの依頼での網のクリーニング作業、半壊した家の片付け作業、避難所や仮設住宅への支援など、しだいに地元の顔の見える関係でのお手伝いをするようになった。
そうした中で、地元に遊び場が作れないかというお母さん方の声を受け、棚田跡地の活用が始まった。夏休みには地元児童対象のサバイバル・キャンプを開催した。子供たちがキャンプ場に来てまず自作する竹のコップは、契約会の男たちが、津波翌日に竹を切って作ったコップを6月に避難所の詰め所を解散するまでずっと大切に名前を書いて使い続けたのを追体験である。このキャンプをきっかけに、毎週土日や長期休暇に子どもたちが集まる新たな遊び場となっていった。

 ボランティアとして被災地に入り、主体的かつ献身的な活動を続けるというのは誰にでもできることではない。八幡さんの尊敬すべきところは、惜しみなく他者のための活動を続ける優しさと行動力だ。地位とかお金とか名誉などとは無縁の活動であり、ここにこそ彼の人柄が滲み出ている。

 彼が地元の人たちから慕われていたことは、以下の記事でよく分かる。

「八幡明彦と共に」ご案内(あちゃあちゃ猪飼野仙人日記)

 長い髭を蓄えた風貌もテント小屋暮らしもまさに仙人だったが、無欲な生き方もまた仙人のようだった。

 あのどこか飄々とした、しかしとても真面目な八幡さんにもう会うことができないとは何とも寂しく悲しいが、心からご冥福をお祈りしたい。

2013年10月26日 (土)

他者との対話の姿勢を貫いた渡辺容子さん

 渡辺容子さんのことを書いた「『いのちを楽しむ-容子とがんの2年間』上映開始」という記事にシカゴ大学社会学教授であり、もとJANJAN記者でもあった山口一男さんからコメントをいただいた。とても共感できる内容であり、コメント欄であまり人の目に触れずに埋もれてしまうのが惜しいので、山口さんの了解を得て以下に転載させていただくことにした。

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 もとJANJANに寄稿して渡辺さんと主としてONLINE交流のあった山口です。遅ればせながら、貴女のこの記事を今日読みました。僕も渡辺容子さんと実際にお会いしたのは2回で、2回とも父上の絵の展示会でした。2回目は奇しくも松田さんが2回目に渡辺さんと会われたときと同じイベントですが、あの「絵画展示+コンサート」のイベントは数日行われたので、松田さんとは違う日だったのだと思います。

 松田さんの『容子がたり』の寄稿文のウェブでの再掲を読んで、僕も自分の寄稿文では触れなかった渡辺さんの思い出をここに書き留めておこうと思います。渡辺さんとは会ったのはたった2回でも、メール交信は多くあり、またJANJANで同じ記事にコメントをするということも多かったので多少なりとも彼女の人柄に触れることができました。

 ご存知のように渡辺さんは、望ましい社会のありかたや、自分自身の望ましい生き方について、明確な信念を持ち、またそれを言語化できる人でした。彼女が第一に望んだのは、おそらく日本の子供たちが伸び伸びと希望を持って生きられる社会の実現だと思います。だから教科書問題にせよ、他のことにせよ、子どもたちが戦前のように「国家の道具」となる道の復活を強く警戒し、また学校の「管理社会化」の中で子どもたちが夢や希望を失っていくことを心から悲しんでおられました。

 でも僕が渡辺さんに一番強くその生き方を感じたのは人との対話に見られる姿勢です。渡辺さんの信念には政治的主張が入るため、当然賛同者だけでなく批判者も多く、批判者の中には僕だったら相手にもしたくないような酷い批判をする人たちもいました。でも、貴女もご存知と思いますが、渡辺さんはそれらのすべてに人に対し心を開き、前向きに語りかけていくのです。決して自分の考えをただ押し付けるのではなく、相手の考えも理解し、分かり合える部分を広げようとする姿勢を失いません。

 今考えるのですが、渡辺さんは御自分の短い余命の自覚から、それが直接接しない日本の多くの子供の未来のことであれ、日々対話する人々との対話の内容であれ、自分の残された時間を、自分以外の人ためになることに用いようという強い気持ちがあってあのように振舞われていたのではないかと思います。黒澤明の『生きる』で癌を宣告された自治体の市民課長が、残された時間を市民の望む公園の建設に奔走する姿が描かれていますが、今思うに渡辺さんの生き方はまさに『生きる』ことは、残された自分の時間をいかに人のため、社会にため、日本の未来のために、使えるのかという思いを、具体化し行動していくことであったように感じます。人はみないづれ死を迎えますが、渡辺さんのように生きぬいた人はたぶん多くはありません。人はみなそれぞれ弱いところがあり、信念のある多くの人は批判者には心を開かず、逆に他者に心を開く多くの人は他者に引きずられ信念を持って生きられないことが多いように思います。いずれ人はみな死に、そのときは誰でも多かれ少なかれ孤独である、という事実をより自覚的に日々意識していたからこそ、渡辺さんは、信念を持ちかつ多くの人に心を開くという、困難な姿勢を貫いて生きられたのではないかとも思います。大げさな表現のようですが、渡辺さんを知って身近に人の尊厳というものを知ったと思います。とても、まねのできることではないのですが、渡辺さんの生き方は心に焼き付けておくつもりです。
山口一男

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 山口さんが書かれているように、渡辺さんは強い信念、意思を持っていてはっきりとご自分の主張をされる一方で、他者の意見にも耳を傾けて対話する姿勢を崩さない方だった。これは誰にでもできることではない。

 原発事故のあと多くの市民が脱原発、脱被ばくで活動している。しかし残念なことに、同じ目的を持ちながら他者と対話をしようとせず、自分の意見を押しつけて罵倒する人も見かける。これでは信頼が損なわれ、ぎすぎすした人間関係になってしまう。渡辺さんの「信念を持ちかつ多くの人に心を開く」という姿勢を爪の垢ほどでも持ち合わせていたなら・・・と思えてならない。

2013年6月 3日 (月)

「いのちを楽しむ-容子とがんの2年間」上映開始

 5月30日付の新婦人しんぶんの映画紹介コーナーに、2012年3月に亡くなった渡辺容子さんのドキュメンタリー映画が紹介されているのが目にとまった。さらに、5月30日の週刊金曜日にも「いのちを楽しむ-容子とがんの2年間」をテーマにした座談会が掲載されていた。

 彼女の最後の2年間が映画として劇場公開されることになったのだ。学童保育の指導員をしていた渡辺さんは40歳で乳がんを発症し、58歳で亡くなった。その最後の2年間を追ったのがこの映画(私は見ていないのだけれど・・・)。

映画『いのちを楽しむ』-容子とがんの2年間 

渡辺容子さんは私と同い年で、私が彼女にメールをしたのが知り合いになるきっかけだった。ときどきメールのやりとりをし、初めて会ったのは2010年の春。この時はほぼベッドで過ごす状態で移動には車椅子を使っていた。当時、彼女は主治医の近藤誠医師から余命一年と告げられ、なんと生前追悼集の発行を計画していた。さらに2010年の6月には車椅子で小笠原にも行った。驚いたことに、その後自転車にも乗れるほどになった。

 二度目にお会いしたのが、原発事故が起きた直後の2011年の4月。絵を書かれていたお父様の作品展を新築された家で開かれており、その際に友人たちが企画したコンサートに参加させていただいた。

 何と言っても、彼女のすごいところは正直な生き方と意志の強さ。若い頃からたくさんの文章を書き、自然や山が大好きだった。そして、お仲間たちと弁護士をつけずにいくつもの不正を追及する裁判を闘い、弁護士も顔負けの準備書面を書かれていた。乳がんを自分で見つけて主治医も自分で探し、がんやその治療について学び、抗がん剤に頼らない治療を貫いた。一時は深刻なうつ病にもなったが、それも自分で克服された。まさに、人生の分岐点で他者におもねることなく、自分の頭で考えて選択し行動してきた人だ。

 日本ではがんで亡くなる人が増えているが、大多数の人が医師から言われるままに抗がん剤治療を行いその副作用に苦しんで亡くなっていく。少なくとも私の知人などで抗がん剤治療を拒否した人は容子さんしか知らない。彼女が余命1年と告げられてからも旅行に行き、反原発運動にも参加し、ブログを書き続けることができたのも、抗がん剤治療を選択しなかったからに違いない。最期まで「自分らしく生きる」を貫かれた方だった。

 「いのちを楽しむ-容子とがんの2年間」は大きな反響を読んでいるそうだが、そんな彼女の生き方に魅かれる人が多いに違いない。

 以下は私が彼女の生前追悼集「容子語り」に寄稿したもので、お会いする前に書いたもの。

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生きることの意味を教えてくれた大切な人へ

 私が容子さんを知ったのはインターネット新聞JANJANの記事でした。彼女の記事に共感し、その記事から彼女のホームページやブログを知りました。そして、すぐにメールをして著書「負けるな子どもたち」を送っていただいたのです。直接お会いしたことはないのに、なぜか容子さんは旧知の親友のように感じられて仕方ありません。それは恐らく、容子さんの生き方や物事に対する考え方が私と大きく共通しているからでしょう。容子さんのJANJANの記事、ホームページ、ブログ、著書などを通じ、強い意志と他者に対する深い思いやりをもった同世代のひとりの女性に深く共鳴し、それ以来、会ったことはないのに、彼女は私にとってとても大きな存在になり、かけがえのない大切な人になりました。
 容子さんのブログやJANJANの記事を読めば読むほど、彼女の意見に共感すると同時に、私との共通性を感じずにはいられません。まず、社会のおかしなことに対して、声をあげて行動していく姿勢です。私自身も若い頃から自然保護運動などに参加し、今も北海道による違法伐採を問う「えりもの森裁判」に関わっているのですが、容子さんたちが杉並の不当な教科書採択問題で本人訴訟を起こして闘っていることを知り、平和を求めて困難なことにも毅然と立ち向かう姿勢や行動力に深く感銘を受けました。私利私欲のためではなく、平和な社会を守るために行動することは誰にでもできるものではありません。自分の良心に基づいて強い意志をもって行動を起こすことにおいては、私などとは比較になりません。人というのはいくらでも「あれはおかしい」「こうするべきだ」と思い、口にするものですが、社会の理不尽なことに対して実際に行動できる人はごく僅かです。がんという病になってもなお、常に前向きに闘い続ける彼女に、どれほど励まされたことでしょう。
 容子さんが、山や自然が大好きだということを知ったときも、「ああ、私と同じなんだ!」と、とても嬉しくなりました。容子さんが自然破壊を憂いている高尾山は、私が高校生のころから頻繁に通った山です。高尾山は私が野鳥の名前を覚えた山でした。沖縄の泡瀬干潟の埋め立て問題や辺野古の闘いに対する視線や願いも同じ。平和と自然というキーワードが、容子さんとの心の共通点にあるのです。
 私は高校時代から「アルプ」という山の文学雑誌を読んでいました。母が購読していたものを借りて読んでいたのです。実家を出てからは自分で購読していました。容子さんも若い頃から登山をし、「アルプ」を読んでいたことを知ったときには、とても驚いたものです。私の世代で「アルプ」を読んでいた人はそう多くはないでしょうし、同世代の購読者を知りませんでした。山や本が好きだという趣味までも一致していたことに、親しみを感じずにはいられません。
 自然を深く愛し、人間を愛する彼女の姿勢から、人が生きることの意味や大切さがひしひしと伝わってきます。人が生きていくためには、人との関わりを持たざるを得ません。人を信じることなしに社会生活を送ることはできないし、人を信じることなしに愛は生まれません。愛とは、いかに他者を信じて思いやれるかではないでしょうか。そして、そのような心の絆は直接会ったことがない人との間にも築くことができるのです。私と容子さんとの関係も、そんな信頼感で結ばれているように思います。住んでいるところは遠く離れていても、心はいつも通じ合っているし、感謝の気持ちでいっぱいです。ほんとうにありがとう。
 こんな素敵な女性だからこそ、ほんとうは追悼集の原稿など書きたくはありません。いつまでも友人として喜びや悲しみを語り、共に生き、歩み続けてほしいのです。そして、北海道の雄大な自然の中を、共に歩きたいのです。たとえそれが奇跡と言われようが、そんな奇跡が訪れることを願って止みません。
 最後に、私が容子さんのことについて自分のブログに書いた記事を転載させていただきます。

*   *   *

「人としての輝き」(2009年9月16日掲載)

 北海道新聞夕刊に「魚眼図」というコラムがあります。毎回読んでいるわけではありませんが、昨日の藤宮峯子さん(札幌医科大教授)の「生きる意味」という一文が目に留まりました。医師として末期がんの患者さんを受け持ち、以下のことに気づいたといいます。

 「運命を理不尽だとうらむところに救いはなく、運命を受け入れて初めて心が和らぐようだ。運命の流れを変えることは出来ないけれど、それに意味を持たせることが唯一人間に出来ることで、たとえ死が迫ろうとしても人としての輝きを保つことができる」

 これを読んですぐに頭に浮かんだのが渡辺容子さんです。私が渡辺さんを知ったのはJANJANの記事で、記者プロフィールから彼女のホームページとブログ(http://lumokurago.exblog.jp/)を知りました。お会いしたことはありませんが、JANJANの記事やブログを読ませていただき、その生き方や感性にとても共感を覚えたのです。はじめのうちは彼女ががん患者であることすら知りませんでした。杉並の教科書裁判を闘われ、JANJANに精力的に記事を書かれている姿からは、がん患者を想像することもできなかったのです。

 最近ではJANJANに「がんと闘わない生き方」とのタイトルで連載記事を書かれていましたが、ご自身の体験や知識をもとに書かれた一連の記事は、私にとって日本のがん検診やがん医療の実態を知ることができる有益なものでした。反論や、記事の趣旨を理解できない方などからの意見に丁寧に対応される姿勢にも共感しました。先日の「がん患者は医師言いなりでなく、知識を求め合理的選択を」という記事で連載は打ち切りとのことですが、この最後の記事で言っていることもよく理解できない方が多いことに、私は驚くばかりでした。

 がんを宣告され転移を告知されても自分自身の境遇に不平不満を言うのではなく、あくまでもそれを受け入れ、平和な社会を望みそのために努力を惜しまず、今を大切に生きる。そのような姿勢から、自然と「人としての輝き」が生まれてくるのでしょう。自分が同じ立場だったら渡辺さんのように振舞えるのだろうか、と考えてしまいました。

 不慮の事故に遭う人もいれば、不治の病を宣告される人もいます。経済的に豊かな家庭に生まれ育った人もいれば、食べていくことすら大変な家庭も少なくありません。不平等としか言いようのない社会で、輝きを失わない生き方ができるかどうかは、運命を受け入れてなお、他者のことを考えて生きられるかどうかということなのではないでしょうか。

 藤宮さんも指摘していますが、世の中には欲深いがために不平不満を言ったり仲たがいをし、今生きていることの幸せに気づかない人の何と多いことでしょう。小さなコラムが、大切なことを気付かせてくれました。

2011年11月 8日 (火)

柚木修さんと鳥仲間

 数日間東京に行ってきたのだが、6日に「柚木修さんを偲ぶ会」があり参加してきた。柚木修さんは子どもの頃から野鳥に興味を持ち、大学在学中から野鳥の観察、保護活動などに関わってきたナチュラリストだ。大学卒業後は日本野鳥の会に勤務して調査や保護活動に関わり、野鳥の会を退職した後もずっと自然に関わる仕事をしてきた。2002年には対馬に住みついてツシマヤマネコの保護に取り組んでいたのだが、2010年1月25日に59歳の若さで急逝された。

 柚木さんは若い頃から多くの方と交流があり、有志によって3月に「偲ぶ会」が企画されたのだが東日本大震災のために延期になっていた。今回、参加された方は約90名。彼の人懐こさと世話好きな性格が大勢の友人を結び付けていたのだ。私にとっては本当に久しぶりにお会いできた方たちが何人かいて、とても懐かしいひとときを過ごした。

 私が柚木さんと初めて出会ったのは千葉県の新浜だ。大学に入学して間もない頃、同じ大学の鳥友だちと二人で新浜に野鳥を見にでかけた。私は中学生の頃から野鳥に興味を持っていたが、それまでは山野の鳥ばかりみていて干潟や水辺の鳥は全くといっていいほど分からなかった。一緒に行った友だちも似たような状態。そんな二人がプロミナー(望遠鏡)をかついで水鳥の観察にのこのことでかけたのだ。

 当時の新浜は駅前の道をしばらく歩くと荒涼とした埋め立て地が広がっていて、水たまりにはバンが泳ぎ、埋め立て地にはコアジサシが舞っていた。御猟場の横の干潟もシギ・チドリが群れ、格好の観察場所だった。しかし、シギ・チの識別は難しい。それに今のようなカラーで分かりやすい図鑑もなかった。日本鳥類保護連盟の白黒図鑑が頼りなのだが、望遠鏡を使っても遠方で陽炎に揺らぐ野鳥を識別するのは至難の業だ。そんな私たちの姿を見つけ、親切に鳥の名前を教えてくれたのが柚木さんだった。

 それ以来、日本野鳥の会や多摩川の自然を守る会で活動を共にし、一年間は職場も共にした。私にとっては忘れられない水辺の鳥の先輩であり、自然保護の仲間であり、良き上司でもあった。驚いたことに、友人のRさんも柚木さんとの初めての出会いが新浜だったことをこの日のスピーチで知った。

 参加された方の中で面識のある方はおよそ三分の一の30人くらいだったと思う。30年ほど前に北海道に移住してしまった私にとっては、ほんとうに久しぶりの方もいらして学生の頃の記憶が少しずつ蘇ってきた。思い返せば、あの頃は野鳥や自然保護のことを中心に生活が回っていて、土日はほとんど家にいることがなかった。ほんとうに沢山の鳥仲間に囲まれていたのだ。

 遠く北海道で暮らしていても柚木さんが対馬で暮らしているという話が風の便りに伝わってきており、時間がとれるようになったら会いに行きたいと思っていたので、対馬に会いにいけなかったのは残念でならない。しかし、こんな同窓会のような集いの場が持てたのも柚木さんの人柄ゆえだろう。ご冥福をお祈りしたい。

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2009年9月16日 (水)

人としての輝き

 北海道新聞夕刊に「魚眼図」というコラムがあります。毎回読んでいるわけではありませんが、昨日の藤宮峯子さん(札幌医科大教授)の「生きる意味」という一文が目に留まりました。医師として末期がんの患者さんを受け持ち、以下のことに気づいたといいます。

 「運命を理不尽だとうらむところに救いはなく、運命を受け入れて初めて心が和らぐようだ。運命の流れを変えることは出来ないけれど、それに意味を持たせることが唯一人間に出来ることで、たとえ死が迫ろうとしても人としての輝きを保つことができる」

 これを読んですぐに頭に浮かんだのが渡辺容子さんです。私が渡辺さんを知ったのはJANJANの記事で、記者プロフィールから彼女のホームページとブログを知りました。お会いしたことはありませんが、JANJANの記事やブログを読ませていただき、その生き方や感性にとても共感を覚えたのです。はじめのうちは彼女ががん患者であることすら知りませんでした。杉並の教科書裁判を闘われ、JANJANに精力的に記事を書かれている姿からは、がん患者を想像することもできなかったのです。

 最近ではJANJANに「がんと闘わない生き方」とのタイトルで連載記事を書かれていましたが、ご自身の体験や知識をもとに書かれた一連の記事は、私にとって日本のがん検診やがん医療の実態を知ることができる有益なものでした。反論や、記事の趣旨を理解できない方などからの意見に丁寧に対応される姿勢にも共感しました。先日の「がん患者は医師言いなりでなく、知識を求め合理的選択を」という記事で連載は打ち切りとのことですが、この最後の記事で言っていることもよく理解できない方が多いことに、私は驚くばかりでした。

 がんを宣告され転移を告知されても自分自身の境遇に不平不満を言うのではなく、あくまでもそれを受け入れ、平和な社会を望みそのために努力を惜しまず、今を大切に生きる。そのような姿勢から、自然と「人としての輝き」が生まれてくるのでしょう。自分が同じ立場だったら渡辺さんのように振舞えるのだろうか、と考えてしまいました。

 不慮の事故に遭う人もいれば、不治の病を宣告される人もいます。経済的に豊かな家庭に生まれ育った人もいれば、食べていくことすら大変な家庭も少なくありません。不平等としか言いようのない社会で、輝きを失わない生き方ができるかどうかは、運命を受け入れてなお、他者のことを考えて生きられるかどうかということなのではないでしょうか。

 藤宮さんも指摘していますが、世の中には欲深いがために不平不満を言ったり仲たがいをし、今生きていることの幸せに気づかない人の何と多いことでしょう。小さなコラムが、大切なことを気付かせてくれました。

2008年8月19日 (火)

八木健三さんと自然保護運動

 1ヵ月ほど前のことになりますが、7月18日に北海道の自然保護運動に大きな足跡を残した八木健三先生が亡くなられました。93歳とのこと。

 私が八木先生と直接行動を共にしたのは、士幌高原道路の反対運動のときでした。当時は建設予定地で何度も調査や観察会が行われましたが、八木先生はいつもご専門の地質調査用のハンマーを片手に、大きな声で地質の解説をしてくださったことを鮮明に思い出します。当時もご高齢でしたが、足腰がとてもしっかりしていて登山も何のそのというお元気さでした。

 そして、「ナキウサギ裁判」のときには原告団長として闘われたのです。ナキウサギのぬいぐるみを片手に法廷に入られ、「ウサギではなくヤギです」とおっしゃっていたのが今でも忘れられません。

 そのナキウサギ裁判の思いが心に強く残っていたのでしょう。「えりもの森裁判」のはじめての口頭弁論のときは、ご高齢にもかかわらずお一人で裁判所まで傍聴に来てくださり、記者会見でもしっかりと発言してくださったのです。そんな行動力、そして裁判を支援してくださる熱い気持ちに私たち原告はたいへん勇気づけられたものです。

 また、大変勤勉な方で、病に倒れる前まで日本科学者会議の学習会にも参加されていたそうです。若々しい精神を持ち続けられたからこそ、90歳を越えてもなお向学心が旺盛だったのでしょう。

 私は、知床の伐採問題で揺れていた頃はほとんど自然保護運動に関っていなかったのですが、八木先生は知床の伐採問題でも大きな役割を果たされたと聞いています。千歳川法水路問題でも然り。北海道自然保護協会が最も精力的、というより果敢に自然保護に取り組んでいたのも八木先生が会長の時代だったように感じられます。とても情熱的な方でした。

 あとを継ぐ私たちは、この素晴らしい大先輩を手本としたいものです。ご冥福をお祈りいたします。

2008年1月 1日 (火)

半医半農のはげあん先生

 あけましておめでとうございます。

 「鬼蜘蛛おばさんの疑問箱」というブログタイトルからついつい批判的な記事が多くなってしまうのですが、元旦でもある今日はちょっと雰囲気を変えてユニークで魅力的な「人」について紹介しましょう。

 我が家のかかりつけのお医者さんは「はげあん診療所」の安藤御史先生。「はげあん」と聞いて?!?と思うでしょう? 「はげあん」は安藤先生のニックネームで、漢字で表すと「禿安」。風貌がご想像いただけると思います。

 もちろん、この診療所名は周囲の人たちから反対されたそうです。でも、今はみんなに「はげあん、はげあん」と呼ばれて親しまれています。髪の毛が薄くなってくると、とても気にする男性が多いですよね。でも、そんなことは一向に気にせず医院名にしてしまうなんて、なかなかたいしたもんではありませんか。

 診療所では内科も診ていますが、安藤先生の専門は整形外科です。その世界では大変有名なお医者さんなのです。

 病院勤めをやめてから、かねてからあたためていた夢を実現すべく上士幌町の町外れに土地を入手して診療所と畑をはじめました。夏は早朝から庭の畑の手入れに余念がありません。もちろん無農薬です。診療所の庭先には畑とビニールハウスがあり、診療が終るとそそくさと畑へ・・・。

 名医さんが小さな町で畑を耕しながらお医者さんを開業しているというわけです。半医半農で、シンプルライフを実践しています。現代の「あかひげ先生」といったところでしょうか。

 庭先では羊やブタも飼っています。羊は毛を刈るだけではなく食用にも。庭先で食用の家畜を飼っているなんて、今ではとても珍しいですよね。また、夏は地元の朝野球のチームで練習に励み、夜はミニバレーも。最近は熱気球にも挑戦しています。

 さらに夏になるとチェルノブイリの原発事故で被曝したベラルーシの子供たちを保養のために預かっています。その子供たちというのが大変なやんちゃ坊主ばかりなんです。日本では絶滅危惧種になってしまった、いわゆる「悪ガキ」といわれるような元気いっぱいの子供たちです。はげあん先生のバイタリティーはどこからくるのでしょうか。

 そしてもうひとつの顔は、十勝自然保護協会の会長さん。十勝自然保護協会は、かつて全国的にも知れわたった大雪山国立公園に計画された「士幌高原道路」の反対運動の矢面に立って活動したNGOです。建設をごり押ししようとする北海道と熾烈な戦いとなり、地元の新聞ではしばしば話題になりました。

 士幌高原道路の反対運動の際には全道の自然保護団体が結集し、「ナキウサギ裁判」も起こして反対運動を繰り広げ、道路建設は中止に追い込まれましたが、当時の及川裕会長のあとを引き継いで会長をしているのが安藤先生です。

 安藤先生は、反戦などの活動にも積極的に参加しています。自然保護と平和問題というのは共通しているんですよね。

 風邪が流行っているせいか、冬になってから「はげあん診療所」には大勢の患者さんが詰めかけているようです。日ごろはほとんど医者に行かない私も、昨年はアクシデントがあって右掌の小指を骨折してしまいお世話になりました。僻地医療が切り捨てられていく中で、身近に頼れるお医者さんがいるのは大助かりです。

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