生物学

2022年7月25日 (月)

蛾ウオッチングの楽しみ

 このところブログ更新をさぼっていたが、体調が悪いわけではない。あえて言い訳をするなら、今年は蛾ウオッチングに嵌ってしまったことが大きい。

 私は子どもの頃から虫が大好きだったが、蛾にはあまり興味を持ったことがなかった。太い胴体にふさふさした髭状の触角、鱗粉の厚くついた翅という容姿(実際には細い胴体や触角の蛾も多い)がちょっと苦手で、蝶と違って採集をしたいという気にはなれなかった。しかも大半が夜行性で種類もやたらと多く、とても調べる気になれない。もっとも、蛾の翅の模様はとても繊細で緻密なものが多く、良く見ると色彩も蝶に劣らない美しいものもいて、決して嫌いだったわけではない。

 ここ2.3年、散歩がてらに昆虫の写真を撮るようになってからも、蛾の写真は大きめで特徴的なものに限っていた。何しろ種類が多くて同定が大変なので、あまり積極的に撮る気にはなれなかったのだ。

 しかし、今年になってから「昆虫図鑑 北海道の蝶と蛾」(堀繁久、櫻井正俊著、北海道新聞社)を買ってしまい、蛾への興味が一気に高まってしまった。本書には蝶類138種。大蛾類1,503種、小蛾類1,575種の標本写真が掲載されており、北海道産の鱗翅類をほぼ網羅している。大蛾類と小蛾類を合わせると、3,080種が掲載されている。北海道産の種に限っているので、同定にはとても便利だ。

 それから、散歩コースの傍らに一晩中照明がついている場所があることも蛾ウオッチングに嵌ってしまった要因の一つだ。夜間観察まではしないが、昼間にその場所に行っても、夜に集まってきた蛾がまだかなり止まっている。そんな蛾を端から写真に収めていき、可能な限り大きさ(前翅の長さ)もメモする。そして家に帰ってから図鑑とのにらめっこが始まる。

 とにかく蛾の同定はど素人なので、雰囲気でおおよそのグループ(科や亜科など)の見当をつけて絵合わせで調べていく。そして、一致すると思われる種が見つかると、ネット検索して間違っていないかどうか確認する。野外で止まっている蛾の姿は標本写真とはだいぶ違うものが多いので、野外撮影の蛾の写真は同定にとても役に立つ。さらに、近縁種との見分け方なども書かれていることが多い。

 そうやって一種ずつ調べていくだけでかなりの時間がかかってしまう。それでも、しばしば同定できないものもあり、そのような写真はとりあえず「未同定」のフォルダーに放り込んでおく。ただ、未同定が溜まってしまうと、どうしても気になる。そこで簡単なスケッチをしておき、時々図鑑とにらめっこをする。

 夏は、庭の草取りなどでただでさえ忙しいのに、蛾の同定をしていたらそれだけで時間がどんどん過ぎてしまう。その日に撮った写真の同定が大方終わると、なんだか疲れてしまってブログを更新する気力もなくなってしまう。そんなわけで、しばらく更新をさぼってしまった。

 昆虫など大嫌いだとか興味がないという人は、そんなことをして何が楽しいのかと不思議でならないだろう。恐らく知らない人が写真を撮っている私を見たら、胡散臭い怪しい人にしか見えないと思う。私自身、生産性があるとか、何かの役に立つとは思っていない。しかし、虫好きの人にとってはこんなことがたまらなく楽しいのだ。何かに嵌るというのはそういうことなのだろう。そんなわけで、雨の日を除いて、そそくさと蛾ウオッチングに通う毎日を過ごしている。そのうち、蛾の写真もアップしたいと思う。

*下の写真は左からノコギリスズメ、モモスズメ、オオミズアオ。

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2022年6月11日 (土)

種名を知るということ

 散歩に出ると、いろいろな動植物が目に付く季節になった。子どもの頃から昆虫が好きだった私は、さまざまな虫に出会うたびに種名を知りたくなる。2年ほど前から散歩がてらに昆虫写真を撮るようになってからは、なおさら撮った昆虫の種名が気になって、家に帰ってからはまずその日に見かけた種名の分からない昆虫の名前を調べるようになった。

 かつて(今は知らないが)、日本自然保護協会は、種名だけを教えてもらって満足してしまう人を諫めるためか、種名を知ることより自分自身で観察をすることを勧めていた。しかし、私はそれにずっと違和感を持っていた。もちろん、種名など知らなくてもいろいろな動植物を観るだけで満足という人もいるだろうし、そういう人はそれでいい。しかし、多くの人は自然に興味を持てば動植物の種名を知りたがる。

 これは子どもにも言えることで、多くの子どもは物心がつくと「これ何?」と親に尋ねるようになる。子どもも動物や植物の名前を知りたがるのだ。そして、そんな時の親の対応によって、虫を好きになったり嫌いになったりが決まることも多いのだろう。

 人はなぜ種名を知りたがるのか? まず、種名を知ることでその生物が特定でき、他人にもその生物のことを伝えることができる。また、種名を知ることによってその生物について様々な情報を得ることができる。観察をするにしても、種名が分からなければその種について何が分かっており、何が分かっていないのかを調べることもできない。種名を知ることで、その生物がどのようなグループに属しているかも分かる。「種名を知る」というのは、生物に興味を持つことの基本なのだと思う。その基本を無視して「種名を知ることより観察の方が大事」というのは、どうしても賛同できない。

 そんなわけで、写真に収めた動植物は、画像とメモ(体長や環境など)を頼りにできるだけ種名を調べることにしている。ただ、昆虫の場合は外見が似ている種が複数あって写真だけでは同定できないことも少なくない。同定が難しそうだと思った時は、クモの採集用に持ち歩いている小さな管ビンに入れて持ち帰ることもある。もちろん、持ち帰っても同定できないことは多い。

 これまで2年ほど、見かけた昆虫の写真を撮っているが、なかなか種名を覚えることができない。昨年撮影しているにも関わらず、また同じ虫の写真を撮って種名を調べることなど日常茶飯事。さらに、まだまだ初めてみる昆虫に出くわす。

 私はもともと写真の趣味はないし、芸術的な写真を撮ろうという意欲もないけれど、昆虫やクモがいないかと目を凝らし、愛らしい虫たちの写真を撮ることで散歩がぐっと楽しくなったのは間違いない。人間社会は嫌なニュースばかりだが、外に出て新鮮な空気を吸い、自然の中で生き生きと動き回る生き物たちを見ることは、心身のリフレッシュにもなる。

 ということで、今後も昆虫やクモの紹介を続けていきたいと思っている。

 

2017年8月 4日 (金)

エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康

 先日、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」という本を読んだのだが、近藤氏によると血圧もコレステロールも高い人ほど長生きするというデータがあるそうだ。日本では生活習慣病の予防として血圧やコレステロール値を下げることが大事だと盛んに喧伝されている。近藤氏の言うとおり、血圧やコレステロールが高い人の方が長生きする人が多いなら、高血圧や高コレステロールが生活習慣病の原因とは言い切れない。

 私はもともと検診に関心がないのだが、癌の発症に関してもエピジェネティクスが関わっていることを知って以来、精神的に健康な人ほど病気になりにくいのではないかと考えるようになった。環境が遺伝子のスイッチの切り替えに関わっているのなら、「精神の健康」「幸福感」という心理的環境も病気などのスイッチに関わっていても不思議ではない。それが事実なら、単に血圧やコレステロール値などに気をつけていれば病気のリスクを減らせるということにはならないし、近藤氏の主張も納得できる。

 実は、こうしたことを裏付ける研究がある。

環境と遺伝子の間:あなたのエピジェネティクスは常に変化している 

 この記事で私が特に興味深いと思ったのは、「深層心理が免疫細胞のエピジェネティクスに変化をもたらす」という指摘だ。重要な部分を以下に引用しよう。

この結果によると、強い孤独感は、心臓病、アルツハイマー病、関節炎など、炎症を伴う病気のリスクを上昇させ、さらにウイルス性の風邪などにかかりやすくなることを示唆している。面白いのは、「どれだけ社会から疎外されているか」という客観的な事実ではなく、「本人がどれだけ孤独を感じているか」という主観的な感情のほうが免疫細胞との関連性が強かったことだ。

 ここで言う孤独感とは、友人や知人との交流が少ないとか、一人暮らしをしているといった単純なことではなさそうだ。友人が少なくても、あるいは一人暮らしをしていても、本人が孤独を感じていないということもある。たとえば公益性のあることにこつこつと取り組んでいるとか、公益目的に情報を発信しているというような人は、孤独感はあまりないかもしれない。たとえ多くの人に囲まれて暮らしていても、周りの人から受け入れてもらえずに寂しさを感じていれば、たぶん孤独感が強いということなのだろう。自己中、あるいは独裁的な人ほど人と他者と深い信頼関係が築けず、孤独感が強いと言えるのかもしれない。

幸福の種類によって免疫細胞の遺伝子スイッチが変化するのはにわかに信じがたいが、コール博士らが研究で得た結果とはそういうものだ。物欲を満たすことや、おいしいものを食べるという行為で得られる短期で浅いHedonicな幸福では、免疫細胞が活性化するどころか孤独感を感じているのと同じようなエピゲノムのパターンが見られた。逆に社会に貢献することで人生に意味を見出すような、深い満足感を伴うEudaenomicな幸福感では、炎症反応に関連する遺伝子が抑えられ、抗ウイルス反応に関連する遺伝子はより活性化されていた。

 この結果は非常に興味深い。目先の欲求を満たすことで得られる快楽主義的、自己満足的な幸福感は、孤独感を感じている人と同じような変化を免疫細胞にもたらすというのだ。つまり、病気のリスクを高めるように働くという。

 これに対し、社会や他者に貢献したり、よりよい人間に成長するために挑戦することで得られる幸福感は、病気になるリスクを低下させるという。

 この結果に「真の幸福感」とは何かが示されていると思う。つまり、つまり物欲によって得られる快楽や自己満足による快楽は、真の幸福とは言えないのではないかということだ。ファッションや化粧で自分を飾ることで得られる満足感なども同じではないかと思う。自分の欲求が満たされればそのときは満足感があるだろうけれど、それはずっと続くわけではない。有名になったりお金持ちになれば必ず幸せになれるとは言えないのと同じだ。

 このような浅い幸福感は、元をただせば私利私欲や損得勘定からきている。自分の利益だけを求めるところに真の幸福感はないというのは、感覚的にも理解できる。

 これに対し、社会や他者に貢献することは、私利私欲や損得勘定とは無縁のものだし、利他行為といえよう。

 人類は集団をつくり、仲間と協力して生き延びてきた。狩りをするにも外敵から身を守るにも仲間との協力が必要だし、得られた食糧も集団内で均等に分けなければ集団生活はうまくいかない。子どもや高齢者などの弱者を守るのも集団生活をしてきた人類の特徴だ。集団内で独善的にふるまっていたら仲間から信頼されないし、うまくやっていけない。こうした共同体での協力関係こそ貢献感の源であり、人はそこに自ずと幸福を感じるのだと思う。だからこそ、利他行為は病気への耐性を高めるように進化してきたのではなかろうか。

 ここで言う「貢献感による幸福感」こそ、アドラーの唱える「共同体感覚」なのだろうと思う。また「孤独感」とは、「共同体に所属できていない」ということではなかろうか。このエピジェネティクスに関する研究は、アドラー心理学が正しいことを裏付けているように思える。

 近年は競争社会や格差の拡大によって、人々がいがみ合うようになったと実感している。他人と競争し相手を蹴落として優越感に浸ろうとしたり、復讐しようとする心理は、共同体感覚とは対極にある。他人を貶め叩くことで満足感を得ようとする行為も同様で、真の幸福感とは正反対のものだろう。このような心理状態の人は精神的に健康とは言えないし、決して幸福になれないばかりか病気のリスクを自ら高めているのかもしれない。

 怒り、イライラ、憎しみなどといった感情は、自分の意志にかかっている。怒ったりイライラしたり他者を憎んでも、目の前の問題を解決するためには何の役にも立たないどころか人間関係を悪化させるだけだ。そのことを理解すれば、怒りもイライラも憎しみも消えるし、感情的にならなければ冷静に問題解決方法を探ることができる。「真の幸福感」も「健康」も、自分自身が決めている部分が大きいのかもしれない。

2014年8月16日 (土)

名誉毀損になりかねない小保方晴子さんへの不当な批判

 去る8月5日、理研の再生科学総合研究センター副所長であった笹井芳樹さんが自殺して亡くなった。STAP細胞論文では小保方晴子さんの指導に関わっていただけに、このようなことになってしまったことにとても驚いたし、残念で仕方ない。笹井さんのご冥福をお祈りしたい。

 ネットでは自殺偽装などという説もあったようだが、ご家族あての遺書もあったとのことなので自殺は間違いないだろう。

 STAP細胞問題に関しては論文に間違いがあったことは事実だが、最大の問題はそこではなく、STAP細胞自体が本当にあるのかどうかということだ。理研もこれに関しては検証実験をはじめたし、小保方さんも検証実験の参加に意欲的だったのだから、まずはこの点を確かめるのが当然だと思う。

 小保方さんの実験に関して可能性として考えられるのは以下のようなことだろう。
・小保方さんの実験は間違いはなく、STAP細胞は存在する。
・小保方さんの実験にミスあるいは細胞の取り違えなどがありSTAP細胞はできていないが、本人はSTAP細胞が作製できたと勘違いした。
・小保方さんの知らないところで、誰かが実験に用いる細胞を恣意的に入れ替えた。
・小保方さんが捏造を行った。

 私には、小保方さんの記者会見の様子から小保方さんが嘘を言っているようにはとても感じられなかったし、彼女はあくまでもSTAP細胞があると信じているとしか思えなかった。だから再現実験がうまくいかないという結果になれば、小保方さんの実験に何らかのミス、あるいは細胞の取り違えなどがあったということになるのだろうと考えていた。この場合は、もちろん不正でもなければ捏造でもない。単なる誤りである。

 ところが、7月4日に、日本分子生物学会の大隅典子理事長は研究不正の実態解明と理研の再現実験の凍結を求める声明を出した。

理事長声明『STAP細胞論文問題等への対応について、声明その3』 

 日本分子生物学会は、大隅理事長のみならず、理事や元役員の方たちも大隅理事長に同調する声明やコメントを発表している。

STAP細胞問題等についての、理事、元役員経験者からの自主的なコメント 

 STAP細胞に関しては再現実験中であり、実際に作製できたのかどうかは明らかになっていない。だからこそ理研は再現実験をしているのだ。それにも関わらず「不正」と決めつけて再現実験の凍結を求めるというのは、まるで小保方さんの実験は捏造であると言っているかのように聞こえる。分子生物学会の人たちは今の時点でなぜこんなことを主張するのか、私にはとても不可解で奇異に感じた。

 しかし、先日「一研究者・教育者の意見」というブログを知り、今回のSTAP細胞騒動のことや分子生物学会の人たちの主張の陰にあるものが見えてきた。

STAP細胞論文問題等への日本分子生物学会理事長声明について再度考える(一研究者・教育者の意見)

 このブログの著者は、大隅理事長を含め、再現実験の凍結を唱える人たちは、調査によって小保方さんは必ず有罪になると確信していると主張する。確かに、そう考えれば分子生物学会の人たちの主張が理解できる。さらに、私は気づかなかったのだが、科学ライターの片瀬久美子さんやその取り巻きの「ニセ科学批判」の方たちも大隅さんとともに小保方さん批判を展開していたことを知った。

 「可能性」を理解できない人たち(一研究者・教育者の意見)

 正直「ああ、またか・・・」と思った。菊池誠さんや片瀬久美子さんなど、「ニセ科学批判」のグループの人たちは、3.11以降、福島の原発事故による放射能汚染に関して「福島の事故程度では健康被害は生じない」とか「福島の事故で鼻血が出るというのはあり得ない」などと主張していた。少なくとも、誰も確定的なことなど言えない事故後間もない頃から、このような決めつけをしていた。それ以来、私は彼らの「科学的思考」に大いに疑問を持ち、何度か批判をしてきた。

 そして、今回の小保方さん批判。小保方さんが研究不正をしたとか捏造をしたなどということは証明されていないにも関わらず、不正だ、捏造だと決めつけて批判をしたなら、それはもはや批判を通り越したバッシングである。その批判がもし事実と異なるのであれば、批判された側は嘘をまき散らされたことで大きなショックを受けるだろうし、明らかに名誉毀損だろう。公益目的に批判をすることは意味があるが、可能性でしかない段階で、「捏造」だなどという決めつけによる批判は決してしてはならない。

 今回のSTAP細胞問題では、笹井さんが自殺をするというとても残念な結果となった。笹井さんは精神薬を飲んでいて議論も満足にできない状態だったとのことなので薬が自殺を誘発した可能性があるが、一部の科学者などによる「不正だ」「捏造だ」というバッシングも相当なストレスになったことは想像に難くない。何しろ、STAP細胞論文をめぐって、今までは一般の人には知られていなかった小保方さんや笹井さんがマスコミで大々的に報じられ、記者会見も行い、日本中の人に名前や顔が知られることとなったのだ。ただでさえ大きなストレスにさらされているときに、それに追い打ちをかけるようにバッシングがあったなら、その心理的負担は計り知れないだろう。

 私は批判精神自体は大事なことだと思っているし、私もしばしばブログで批判をする。しかし、批判をする際にはまず事実であることが前提だし、事実かどうか分からないことに関して意見を述べる場合は「推測」とか「可能性」であることを明示したり、仮定形にしなければならない。

 ところが「可能性」でしかないことをあたかも事実であるかのように決めつけて非難した今回の科学者集団による小保方さん批判は、明らかに不当なであり、度を越しているとしか言いようがない。果たして小保方さん批判を繰り返した彼ら彼女らはそのことを理解しているのだろうか。

 なお、この件については「Openブログ」も参考になる。

2013年3月17日 (日)

環境が鍵を握るエピジェネティクス

 「遺伝子決定論を論破する本『天才を考察する』」という記事で、エピジェネティクスについて「今までの生物学では遺伝をつかさどるのはDNAだとされていたが、遺伝子の働きを活性化させる仕組みがあることが分かってきた。つまり遺伝子にスイッチがあるというのだ。こういったメカニズムを解く遺伝学がエピジェネティクスである」と書いた。これは、ごくかいつまんだ説明だ。

 福岡伸一氏の説明が分かりやすいかもしれない。

エピジェネティクスとは何か?多額の研究費をかけた実験の失敗が教えてくれた生命の謎(ダイアモンドオンライン)

 もう少し具体的に説明しているのが以下。

エピジェネティック変異の遺伝メカニズムがちょっとだけ?明らかに(前編) (サイエンスあれこれ)

エピジェネティック変異の遺伝メカニズムがちょっとだけ?明らかに(後編) (サイエンスあれこれ)

 少し前までは、私たちは遺伝子によって形態上の違いが決められていると教わってきた。ところが、近年の研究で遺伝子を発現させるスイッチがあることが分かってきたのだ。DNAは確かに重要なのだが、それを発現させる装置を解き明かさなければ遺伝の本質に迫れない。そして、そのスイッチのオン、オフには環境が関わっているという。

 さらに興味深いのは、後天的なエピジェネティック変異が遺伝することがあるということだ。あれほど馬鹿にされたラマルクの「獲得形質の遺伝」もあながち間違いではなかったことになる。科学の常識はどこでひっくり返るか分からない。

 遺伝というのはかつて私たちが学校で習ったような遺伝子だけで説明できる単純なものではなく、遺伝子をとりまく実に複雑なメカニズムが隠されていたのである。しかし、環境を変えることで遺伝子のスイッチを切り替えることができるというのは実に興味深い。

 もっとも、カブトムシやクワガタを飼育している人にとっては、温度や餌、飼育容器の大きさなど環境を変えることで形態をコントロールできることは経験から分かっていたそうだ。以下のブログのカテゴリー「クワカブ飼育」の記事の数々がそれを物語っている。

クワカブ飼育(ハルのクワカブ飼育日記)

 環境によって形態も変わりうるし、後天的に獲得した形質が遺伝することもある・・・。となると、あの動物の擬態というのもエピジェネティックな変異が関係しているのだろうか、とふと思う。昆虫などの擬態には本当に驚かされるが、私はあの巧妙な擬態を見るにつけ、こんな芸当は突然変異と自然選択の積み重ねだけでは説明できないだろうとずっと思っていた。中でも私が一番驚いた擬態は、「サルオガセギス」という昆虫だ。以下の写真参照。

世界の珍中~サルオガセギス(知識の泉 Haru’s トリビア)

 サルオガセギス(海野和男のデジタル昆虫記)

 このすごい擬態が完成される過程に、エピジェネティクスというメカニズムが関わっているなら納得がいく。今西錦司氏は「進化は変わるべくして変わる」と言ったが、エピジェネティクスはまさにそれを言い当てているのではなかろうか。

 ところで、今やエピジェネティクスは医学にも進出している。

生物学を変えるエピジェネティックス (Newsweek)

 上記の記事に書かれているように、癌の発症に関してもエピジェネティックス的遺伝子変異が関わっているという。もちろんすべての癌というわけではないだろう。

 この記事ではエピジェネティック薬に言及しているが、環境を変えることで腫瘍を発症させる、あるいは腫瘍を抑制する遺伝子のスイッチを切り替えることができるのであれば、薬に頼るより環境要因を解き明かしたほうがよいのではなかろうか。もっとも、それでは医者や製薬会社は儲からないから、そういう研究はあまり進まないかもしれない。いずれにしても、エピジェネティクスの研究によって遺伝子が関わっている病気の治療に道が開ける可能性はある。個人的にはiPS細胞の研究より、こちらの方が自然の摂理にかなっていると思う。

 ごく稀な例であると思うが、進行した癌が消えたという事例をたまに聞くことがある。このような事例の中には、食生活など環境を変えることで癌の発症に関係する遺伝子のスイッチをオフに切り替えることができた例があるのかもしれない。

 現代人の多くは脂肪や糖分たっぷりの高カロリーの食事、不規則な睡眠、さまざまな添加物や農薬などが入った食品の摂取、過度のストレスなど、不健康な生活を送っている。これでは病気の遺伝子にスイッチが入るのも当然なのかもしれない。できるだけ自然の摂理に従った生活こそ免疫力を高め、病気の遺伝子の活性化を抑えるのではなかろうか。つまり、その土地で採れる食物を中心とし添加物などを極力避けた食生活、暴飲暴食を控えた節度ある食事、暗くなったら早めに寝るという生活リズム・・・。長寿遺伝子を活性化させるにはカロリー制限をするのが効果的という話しがあるが、「腹八分目に医者いらず」という格言こそ、昔の人の経験から生まれた言葉なのだろう。

 もっとも昨今のあまりに酷い政治や原発からの放射能の放出など、ストレスや健康被害の種は絶えず、今やよほど能天気な人でなければ健康的な生活は送れないのかもしれない。

2013年3月 7日 (木)

遺伝子決定論を論破する本「天才を考察する」

 先日、「天才を考察する 『生まれか育ちか』論の嘘と本当」(デイヴィッド・シェンク著、中島由華訳 早川書房)という本を読んだ。厚い本なのだが、後ろの半分は資料編なので、本文は前半分。

 少し前までは、天才は生まれつき備わっている才能であるという考えが普通だった。ところが、いわゆる天才といわれている人たちを調べてみると決してそんなことはなく、子どものころから厳しい訓練をしてきた結果だというのである。本書ではそうした事例をいくつも紹介しながら話しが展開していく。

 冒頭に登場するのが、野球界に名を残すテッド・ウィリアムズ。彼は、子どもの頃から信じがたいような訓練を積み重ねていた。彼の奇跡のような能力について、ウィリアムズ自身が努力を重ねてきた結果だと言っている。「練習、練習、練習。それがああいう能力を引き出した」「ものがよく見えたのは、それだけ真剣だったからだ。・・・・・・並はずれた視力ではなく、[並はずれた]鍛錬のおかげだった」と彼は言う。

 モーツァルトやベートーベンも然り。モーツァルトの場合、誕生直後から音楽漬けであり、家庭で最高の英才教育を受け幼い頃から猛練習してきた結果なのだという。モーツァルト自身も父親宛の手紙の中で「僕ほど作曲のために時間をかけ、熟考を重ねた者はいません」と書いているそうだ。ベートーベンも、チェロの演奏家のヨーヨー・マも同じように幼い頃から音楽に囲まれ、訓練を受けてきた。

 並はずれた才能を開花させるには、10年間で1万時間以上の訓練を続けることがひとつの条件だという。なんだか気の遠くなるような話しだが、天才というのは生まれたときから天才ではないということだ。

 アインシュタインも「私はとくに賢いわけではない」「時間をかけて問題に向きあっただけだ」と言った。粘り強い訓練と努力こそ、才能を目覚めさせる鍵となる。

 それでは、才能や能力に遺伝は関係がないのか? 著者は遺伝が才能に関係がないと言っているわけではない。かといって、「遺伝+環境」でもなく、「遺伝×環境」の相互作用だという。このあたりについては是非本書を読んでいただきたい。

 ところで、この本では最後の方で「エピジェネティクス」についても言及している。今までの生物学では遺伝をつかさどるのはDNAだとされていたが、遺伝子の働きを活性化させる仕組みがあることが分かってきた。つまり遺伝子にスイッチがあるというのだ。こういったメカニズムを解く遺伝学がエピジェネティクスである。

 本書では以下のように説明している。

 遺伝子は、われわれがどんな人間になるかを指図するものではなく、動的プロセスの主体である。遺伝子の発現のしかたは外部からもたらされる力によって調整される。「遺伝形質」はさまざまな形であらわれる。われわれは、ずっと変わらない遺伝子と、変えることができる後成遺伝物質を受け継ぐ。それから、言語、思考、態度をも受け継ぐが、それらはあとから変えることができる。さらに、生態系をも受け継ぐか、それもあとから変えることができるのだ。

 エピジェネティクスについては改めて記事として取り上げたいと思うが、環境によってもたらされた変化が遺伝するという発見は、「目からうろこ」である。

 この本を読んで、自分の子どもを特訓させようと思う親も出てくるかもしれない。しかし、神童ばかり現れたらもはや神童ではないし、むしろ気持ちが悪い。それ以前に、親の押しつけで特訓させて才能を開花させようというのは無理があるのではないか。本人の好奇心や意志、そして粘り強さがなければ天才は生まれないだろうし、子どもがみな親の望むようになるわけではない。それに神童とか天才といわれる人になることが幸せだということでもなかろう。

 昔から「好きこそものの上手なれ」などと言われているが、一つのことにのめり込むことができる人は「天才」とまではいかなくてもその道の達人になれる。一昔前には「虫博士」「鳥博士」などといわれる子ども、独楽やけん玉の名人がいくらでもいたものだ。女の子のお手玉なども、大道芸と変わらない。それだけ子どもたちが遊びの中で練習を積んだということなのだろう。

 しかし昨今の子どもたちを見ていると、夢中になってのめり込むような趣味を持っている子どもはどれほどいるのかと思う。そもそも、お稽古ごとや塾通いで遊びを存分に楽しむ時間もなさそうだ。これはこれで問題なのではなかろうか。

2012年10月10日 (水)

手放しで喜ぶ気になれないiPS細胞

 iPS細胞(人工多能性幹細胞)を作ることに成功した山中伸弥氏にノーベル医学生理学賞が贈られることが決まった。分化した成熟細胞に4つの遺伝子を組み込むことにより、分化前の状態にリセットするということを突き止めたのは注目すべき大発見だ。そうした研究が高く評価されノーベル賞の授与に至ったことは喜ばしいと思う。この分野の研究が、再生医療や難病の治療に期待されるのももっともだろう。

 またiPS細胞は、受精卵を壊してつくるES細胞(胚性幹細胞)の倫理的問題をクリアしたといわれている。しかしだからといって問題がなくなったというわけではない。

 私がどうしても引っかかるのは、人が生命現象にどこまで手を加えるべきかという問題だ。iPS細胞をつくるには、初期化をさせるために細胞に遺伝子を組み込まなければならない。つまり人工的に遺伝子を操作することが必要になってくる。そして、時間を後戻りさせるかのような細胞の初期化。こうしたことは自然の摂理に逆らう手法といっていいだろう。

 当初は4つの遺伝子を組み込むためにウイルスを用いたが、より安全な方法も開発されているという。しかし、もちろん安全性についてはまだ確立されていない。癌化の懸念もあるようだ。

 分子生物学者の福岡伸一さんは、ES細胞やiPS細胞について希望的な見方はしていないようだ。iPS細胞を作成する際の遺伝子操作の問題や、癌化の危険性を指摘している。私も似たような感覚を抱かざるを得ない。

生命観を問い直す 第10章KYな「ES細胞」はがん細胞と紙一重(academyhills)

 もちろん現段階ではiPS細胞から立体的な臓器をつくるまでには至っていないが、福岡さんの説明を読むと、はたして体外で臓器をつくることが可能なのだろうかと思ってしまう。iPS細胞から臓器をつくりだすには大きな壁があるのは確かだろう。生命というのは機械ではないのだ。またiPS細胞は、理論的には人を再生できると言われている。人の細胞からクローン人間をつくりだすことも可能ということになる。クローン技術も自然の摂理に逆行するし、人の再生などというのは決してやってはならないことだと思う。

 人類が幸福を求めて進める技術開発も、必ずといっていいほどデメリットを伴うことを見落としてならない。そして生命の本質に関わる人為操作である以上、開発された技術を応用する前に慎重さが求められなければならないだろう。

 私は、遺伝子組み換え作物は中止すべきだと思っている。種の異なる生物の遺伝子を人為的に組み込むことで、自然では決してありえない生物を作っているのが遺伝子組み換え作物だ。そうしてつくられた遺伝子組み換え作物の花粉が風によって飛散したり虫によって運ばれることで、自然界に遺伝子汚染が広まってしまうことになりかねない。とんでもないことであり自然の冒涜だ。遺伝子組み換え作物などというのはやってはいけないことだったとしか思えない。

 さらに、最近では遺伝子組み換え作物の毒性も指摘されている。

仏ルモンド紙「モンサントの遺伝子組み換え食品に毒性の疑い」 (Canard Plus)

 こういうことが生じるのは当然の成り行きだ。何しろ、生命としてあまりに不自然なものが人の技術によって作られてしまったのだ。危険性が予測されながらも強引に推し進められた結果、後になってデメリットが浮きぼりになってきた。

 従来から行われてきた交配と選抜による品種改良であれば、生態系に大きな影響を与えるようなことは考えられない。しかし、遺伝子組み換え作物は基本的なところで決定的に異なる。それは人為的な遺伝子操作だ。

 もちろん遺伝子組み換え作物とiPS細胞を同列には論じられない。しかし、生命に対して人はどこまで手を加えていいのか、という課題は共通しているように思う。

 原子力は理論的には利用が可能であっても、人類が手をつけてはならないものだったと思う。世界中に原発をつくってしまった人類は、管理のできない危険な爆弾を抱えて路頭に迷っている状態だ。一度手をつけてしまったなら、元にもどすことは容易ではない。というより不可能なのだろう。大きな過ちを犯したというほかない。

 こういうことを考えると、iPS細胞に関してもやはり手放しで喜んでばかりいられない。以下のサイトでも、警鐘を鳴らしている。

ノーベル医学生理学賞【追記】ノーベル財団の図(5号館のつぶやき)

 この記事の最後の部分を引用しておこう。

 これらの技術が簡単に応用可能になる時、その技術を使うべきかどうか、あるいはどう使うべきなのか、それを決めるのはもはや生物学者だけに任せておいて良いことではなく、すべての人類が全員で考えるべき宿題なのです。

 完全なる人災も含めて、「想定外」という言葉で言い表されるような惨事が起こらないとも言えない可能性をはらんだ技術であるということを、ここでもう一度確認しておく必要があると思います。

 人類は自然に逆らうことをやり続け、負の遺産をつくり続けている。どんなに科学が発達しても、理論的に可能であっても、手をつけてはいけない領域がある。遺伝子操作も応用の仕方によってはその領域に入るのではなかろうか。

 デメリットに目をつむってメリットばかりを追求すれば惨事にもつながりかねないし、取り返しがつかなくなることもあり得る。どんなに科学技術が発達しても、否、科学技術が発達すればするほど、私たちは節度を知り自然の摂理に逆らわないという姿勢を堅持していかなければならないと思う。

2009年11月20日 (金)

種名を知るということ

 自然観察会などに参加すると、まず参加者が興味を持つのは動植物の種名です。「あの鳥は何ですか?」「この花の名前は?」と、まずは観察対象の動植物の名前を知ろうとします。これはとても自然なことでしょう。

 ところが、名前を知ることよりも観察をすることの方が大切だという主張をされる方もいるようです。以前参加した観察会でも、そのように言っていた方がいました。おそらく観察会に参加して種名だけメモして満足してしまう人が多いことに対し、「それでは自然のしくみや大切さは理解できませんよ」と言いたいのでしょう。動植物を観察してどんな生活をしているのかを知ったり、行動や形態を観察してそれがどんな意味を持っているのかなどということに興味を抱くことが自然の理解や保護につながるのであり、名前を知るだけではあまり意味がないと考えているのかもしれません。

 しかし、「種名を知ることは重要ではない」という主張には賛同しかねます。種名というのは自然や生物を知る上での基本中の基本です。種名は、生物を認識するためにはなくてはならないものなのです。たとえばある植物をAとかBなどと呼んでみても、そうした呼称はその場でのみ通じるのであって、その植物を見ていない人にとっては何のことをいっているのかわかりません。あとでその種について調べようとしても、種名がわからなければ図鑑などで種名調べからやらなければなりませんし、素人はそこで誤同定をすることにもなりかねません。やはり、観察会などできちんと種名を教えることは大切なのです。

 また、昆虫とかクモのような小さな動物を調べる場合は、採集して標本にすることも欠かせません。残酷だという方もいると思いますが、標本にして顕微鏡で観察しなければ同定できない場合も少なくないのです。また、標本にしておけば、あとで同定に疑問が生じたときも再検討することができます。過去の同定記録が正しいかどうか確認する必要が生じることがありますが、標本がなければどうにもなりません。

 私自身も、これまでに多くの誤同定の経験がありますが、ある程度の誤同定はやむを得ないものなのです。おそらく誤同定をしたことのないクモ研究者などはいないでしょう。生物の研究者、とりわけ分類に関わっている者にとって、「標本」はなくてはならない非常に大切なものです。

 もっとも「名前などわからなくても構わないし、見るだけで楽しい」とか、「殺したくない」という方たちに、名前を覚えなさいとか、標本にしなさいなどというつもりは毛頭ありません。自然の楽しみ方は人それぞれですから。でも、そのような方にも「種名を知ることの意味」や「標本の重要性」は知っていただきたいと思います。

2009年7月 1日 (水)

生命現象と動的平衡

 私は書店で平積みにされている本を買うことはあまりないのですが、福岡伸一氏の「動的平衡」にはついつい手が出てしまいました。福岡氏の「生物と無生物の間」については「生物とは何か?」でも触れましたが、この本で福岡ワールドに魅了されてしまっていたからでしょう。一般の人には難解な分子生物学を、ご自身の体験談や比喩を取り入れ、畳み掛けるようにわかりやすく伝えていく話術はもちろんのこと、身近な話題を展開させながら「動的平衡」というテーマに収斂させていく構成は、彼の秀でた才能によるものなのでしょう。

 プロローグ「生命現象とはなにか」で、バイオテクノロジーがうまくいかないことについて「それは、端的にいえば、バイオつまり生命現象が、本来的にテクノロジーの対象となり難いものだからである。工学的な操作、産業上の企画、効率よい再現性。そのようなものになじまないものとして、生命があるからだ」と指摘し、生命とは何かと問うのです。そして最終章「生命は分子の『淀み』」で、「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答を引き出します。

 「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである」という動的平衡から発展し、「可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす『効果』であるということだ。生命現象とは構造ではなく『効果なのである』」という視点は、はっとするような新鮮さがあります。私達を形づくっている細胞が絶えず入れ替わっているというのは、言われてみれば当たり前のことでありながら、私達がひごろ動物を観察したり生物について考えるとき、ほとんど意識してこなかったことではないでしょうか。

 サスティナブル(永続的)なものは不変であるかのように見えるが、実際には動きながら平衡を保っており、その軌跡と運動のあり方が進化だといいます。そして、生命が動的平衡を保つシステムであるからこそ、バイオテクノロジーによる操作にはなじまないとして、遺伝子組み換えや臓器移植にやんわりと警鐘を鳴らします。このあたりの感性にはとても共感できます。

 生命の本質を見事に描き出し、一気に読ませる本ですが、ひとつだけ誤りを指摘しておきたいと思います。第6章「人と病原体の戦い」の中でヒョウの父親とライオンの母親から生まれた雑種であるレオポンについて、「ヒョウとライオンは厳密に言うと種は変わらない。ヒョウの分類はネコ科ヒョウ属ヒョウ亜種で、ライオンはネコ科ヒョウ属ライオン亜種。つまり種が異なるのではなく、亜種が異なる」と説明しています。しかし、ヒョウの学名はPanthera pardus、ライオンの学名はPanthera leoで、属名(Panthera)は同じですが種小名(ヒョウはPardus、ライオンはleo)は異なります(亜種同士であるなら、種小名は同じでなければなりません)。ヒョウとライオンは自然界では交雑することのない別種であり、レオポンというのは飼育下で交雑させて作り出した雑種です。このあたりは分類学者ではなく分子生物学者である福岡氏のちょっとした勘違いなのでしょう。

 本書で繰り広げられている福岡氏の示唆に富んだ指摘については、追い追い話題にしたいと思います。

2009年1月21日 (水)

人類はどうなるのか?

 昨日の記事に書いたように、18日の講演会では大雪山国立公園の高山帯で植生に大きな異変が起こっているという大変ショッキングな話を聞きました。その日の夜に放送されたNHKスペシャル「女と男」の第三弾「男が消える?」も、何ともショッキングな内容でした。予告でタイトルを見たときは環境ホルモンの話かと思ったのですが、それよりももっと本質的なことでした。

 このシリーズは一回目から興味深く見ていましたが、一番気になったのはこの第三弾。男性しかもっていないY染色体がどんどん小さくなっており、やがては消滅する運命にあるというのです。女性の場合は二本のX染色体をもっているので、染色体に異常が生じても修復することができるのに対し、一本しかないY染色体の場合は修復ができないために異常が生じた部分が欠落することで小さくなってきており、やがては消滅してしまうといいます。

 生物の基本形は雌だということはもちろん知っていましたが、Y染色体にこんなことが隠されているとは考えたこともありませんでした。

 また精子の数が減ってきているほか、活発に動きまわらない精子や異常のある精子が増えているという北欧の事例が紹介され、不妊の増加が懸念されるとのこと。人の精子が活発ではないのは、一夫一婦制によって精子の競争がなくなったからではないかとのこと。人工授精のことにまで言及されていましたが、もちろん人工授精に頼っていったら精子の劣化はさらに加速するでしょうし、そのような方法は到底賛同できません。この問題はちょっと深刻そうです。

 さて、シリーズの一回目と二回目では、女と男の違いがいろいろ紹介されていました。どうやらなんとなく感じていた以上に男女ではいろいろな差がありそうです。

 男女平等、男女共同参画などということが当たり前の社会(とはいっても細かいところではまだまだ格差が大きい)になりましたし、そのこと自体に異を唱えるつもりはありませんが、しかし生物としての役割分担とか適正というものは男女によって違うはずです。以前から感じていたことですが、すべてのことにおいて男女で同じであることがいいとも思いません。性差や個性を尊重した役割分担があってもいいのでしょう。

 女性はあくまでも子どもを産み育てる性です。かつては男性が狩猟、女性が採集・育児と役割分担をしていたのも、女性が子孫を残すという生物として最も大切な役割を担う性だからでしょう。狩猟を担っていた男性は、やはり本能的に闘争心とか独占欲が強いのかもしれません。女性が一般的に戦いを好まないのも、子どもを産み育てる性だからではないでしょうか。

 ならば、女性がもっと政治に参加することでより平和的な社会が実現できるのではないかと思います。少し前に比べたら、NGO活動に参加する女性の数はずっと増えてきたと思うのですが、女性の政治家はなかなか増えません。日本の女性は社会に関わったり自分の意見を主張することに消極的な人が多いようですが、社会を変えていく鍵は女性の意識にあるのかもしれません。

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