自然・文化

2017年1月29日 (日)

石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」

 昨年末、石城(いしがき)謙吉さんの講演をまとめた書籍「自然は誰のものか」(エコネットワーク発行)が出版された。石城さんは川魚をはじめとした動物の研究者であり、北大苫小牧研究林の林長として森林問題にも関わってこられた方だが、同時に自然保護にも取り組まれてこられた。植物学者の故河野昭一さんもそうだが、自分の研究に没頭するだけではなく自然保護に尽力される研究者に、心から敬意を表さずにはいられない。本書は石城さんの講演会から11話を選んで書籍にまとめたものだが、どの話しも幅広い知識と経験、深い洞察力に裏打ちされている。

 最近は講演会を聞きに行くことがめっきり減ったが、以前はときどき講演会や学習会に参加して、専門の方たちの豊富な知識のおすそ分けに預かった。ただ、悲しいかな、講演会や学習会で知り得た知識や情報のうち頭脳に鮮明に記憶されるのはごく一部であり、話しの多くはなかなか記憶として留まらない。しかし、本書のように講演者が自ら講演内容をまとめて文章として残してくださると、あとで何度も読み返すことで理解を深めることができる。しかも、石城さんの講演は実に中身が濃く、示唆に富んでいる。このような話しをまとめて書籍にした意義は大きい。

 本書のタイトルともなっている第1章の「自然は誰のものか」は1989年の講演記録だから、今から28年も前の時点での話しだ。本章では、日本の大規模開発計画が昭和35年に発足した池田内閣の「全国総合開発計画(一全総)」に端を発し、昭和44年の佐藤内閣による「第二次全国総合開発計画(二全総)」、昭和47年の田中内閣による「日本列島改造論」、昭和52年の「第三次全国総合開発計画(三全総)」、昭和62年の「第四次全国総合開発計画」やリゾート法(総合保養地域整備法)へと受け継がれてきたことが示されている。戦後の高度経済成長の中で進められていった政府の開発計画こそ、日本の自然が次々と失われていった元凶だ。

 乱開発が始まった当初から自然保護に関わってきた人々は、程度の差こそあれこうした背景を理解しているだろう。重要なのは、石城さんが明確に指摘しているように、日本の自然を滅茶苦茶にした開発計画の目的は、中央集権体制の強化と再編にあるということだ。大規模工業開発やリゾート開発の流れの根源にあったのは、国と大資本による地域収奪であり、国と大資本による経済成長のための戦略だ。だから、開発に伴って全国各地で生じた自然破壊、環境破壊に対する反対運動の大半は、まさに国や大資本との闘いだった。そして、今もその構図は続いている。リニア新幹線などはその典型だろう。

 先日、昔書いたエッセイを3編アップし、最後に青字で注釈を添えた。「シギと私」では、東京湾や有明海をはじめとした干潟が失われていったことに触れ、「」では、八ヶ岳山麓のリゾート開発について触れた。海にも山にも押し寄せた開発の嵐は、かろうじて残されていた日本の自然を切り刻み、地方を切り捨ててきた。今更ながら、そのことを痛切に感じる。

 本書では、水や川をめぐる講演も2つ取り上げられているが、実に奥深い。「人間と水」という章に出てくる信玄堤や分水の事例は、現在の治水の見直しにも役立つだろう。武田信玄は、御勅使川(みだいがわ)支流を分けて釜無川との合流点を増やすことで水の勢いを弱めたり、堤防に切れ込みを入れて水の勢いを分散させる信玄堤(霞堤)という治水工事を行った(この工事についてはこちらを参照いただきたい)。こうした手法は自然の摂理に沿った治水といえるだろう。

 また、利水と治水の両方の機能を兼ね備えていた諏訪市の角間川の分水についても取り上げているが、昔の人の知恵に驚かされる。諏訪は石城さんの故郷だが、私の生まれ故郷でもあり、角間川は子どもの頃からなじみがある川だ。石城さんによると、角間川は上流で分水され、諏訪市街の東側にある山の裏側を通って市街地側の斜面に流れ込み、さらに分水されて農業用水や生活用水として使われていたという。

 この話しを知ってすぐに頭に浮かんだのは、諏訪の茶臼山の叔母の家の近くを流れていた小さな川のことだった。子どもの頃、夏休みに叔母のところに遊びに行くと、冷たい水が勢いよく流れているその川に遊びにいったものだが、細い道にそって流れるその川は子どもながらに自然の川とはどこか違うと感じていた。そこで、インターネットで公開されている国土地理院の地図から角間川を辿ってみた。

 なるほど、角間川は上流の2カ所で分水されている。一つは蓼の海(たてのうみ)という人造湖(ため池)を経由して山の鞍部を越し、もう一つは角間新田の上流で分水され鞍部を越えている。それぞれの分水地点からは鞍部に向かって等高線に沿うように水路が掘られ、鞍部を越えて反対側の斜面へと流れているのだ。こんな上流で分水をしていたとは知らなかった。そして、叔母の家の近くに流れていた小川は、角間川の下流部で分水されたものだということも分かった。諏訪の街中にはあちこちに水路があったことは子どもながらに記憶していたが、あの水路の意味に納得した。

 人の手によって本来とは異なる水系に水を流す行為は自然の摂理に反するものだ。しかし、節度をわきまえてさえいれば大きな災害には結び付かないだろうし、むしろ洪水の抑制につながる。自然との共生を目指した先人の知恵だ。ところがダムや河川改修などの大規模な治水や利水事業によって、昔ながらの優れた利水・治水は今ではほとんど姿を消してしまった。諏訪の水路網も今は使われていないという。

 公共事業という名の元で進められたダム建設や河川改修は自然を破壊しただけではなく、ダムの放水による洪水や、河川の直線化による破堤、溢水など新たな災害を生むようにもなってきている。自然を制御しようという考えが根底から間違っていることを教えてくれる。

 本書で取り上げられている講演はいずれも充実した内容のものばかりだが、人間社会の福祉と戦争について取り上げた「動物学からみた人間」についての考察は、考えさせられることが多い。直立二足歩行によって両手を自由に使えるようになり脳が発達して文化を発展させてきた人間は、高齢者や障害者、病人などといった社会的弱者を見捨てないという他の生物には見られない独自の生き方を選んできた。このような生き方を否定するような弱者切り捨ての行く末には、人間の将来はないだろうと石城さんは言う。

 昨年は相模原の障害者施設で入所者や職員多数が殺傷されるという凄惨な事件が起きた。安倍政権は、弱者切り捨ての法案を次々と成立させているばかりか、平和憲法をかなぐり捨てて戦争ができる国へと突き進んでいる。ネットでは気に入らない者、社会的弱者を叩いて優越感に浸ろうとする人が溢れている。人間以外の生物ではありえない殺伐とした光景だ。こんなときだからこそ、福祉と戦争について取り上げたこの章は、意味深いものになっている。

2016年3月19日 (土)

小学校の卒業式での袴姿に思う

 先日、新聞に小学校の卒業式の記事が掲載されていたのだが、女の子が振袖姿で卒業証書を受け取る写真を見て目が点になった。写真をよく見ると、ほかにも振袖を着ている子が何人もいる。いったいいつから小学生が和服で卒業式に出るようになったのかと驚いたのだが、インターネットで調べてみるとどうやら数年前から振袖に袴で卒業式に出る子どもが増えており、ブームになってきているらしい。

 これにはもちろん賛否両論がある。賛成派の人の意見は「振袖や袴は日本の伝統的な正装であり、卒業式という記念の場に相応しい」、「ほとんど着ることのないスーツなどを買うならレンタルの和服の方がいい」、「振袖は親などが持っているものを着せられるので、袴だけのレンタルなら安い」などなど。しかし、私には、子どもに華美な服装をさせたいという親の見栄や満足感が先にあり、自己正当化のために後づけでこのような言い訳をしているとしか思えない。

 そもそも卒業式というのはひとつの区切りの儀式であり、通過点に過ぎない。義務教育である小学校の卒業式で正装をしなければならない理由はないし、まして日本の伝統だからという理由で和服を着る必要もなければ、お金をかける必要もない。服装は卒業式の本来の目的とは関係がないし、とってつけたように伝統に拘るのは意味不明だ。私は普段着だってまったく構わないと思っている(ジャージなどの運動着やジーンズなどは避けるべきだとは思うが)し、むしろなぜ学校が「普段着で出席するように」と言わないのかが不思議だ。私が小学校の頃は、卒業式には中学校の制服を着ていった。それは着る機会がほとんどない服にお金をかけることがないようにという学校の配慮でもあったのだろう。しかし、そういった配慮はいったいどこへいってしまったのだろうか?

 もうだいぶ前のことになるが、自然保護の集会で旭川のあるホールに行ったときのこと、ピンクや水色などの華やかでヒラヒラとしたドレスを着た子ども達が大勢いて何があるのかと不思議に思ったのだが、どうやらピアノの発表会だったらしい。しかし、いつからピアノの発表会がドレスのファッションショーのようになってしまったのかと唖然とした。私も子どものころピアノを習っていたが、発表会はいわゆる「よそゆき」程度の服装だったし、中学生のときは制服だった。しかし、最近では、発表会は日頃の練習の成果のお披露目というより、きらびやかな衣装を着ることの方が楽しみになっているのではなかろうか? あのお姫様のような衣装を着たいがために楽器を習いたいという子もいるのではないかと思ってしまうほどだ。

 成人式でも大学の卒業式でもそうだが、昨今はかつてに比べてはるかに画一的になっている。私は成人式には出席しなかったが、私の頃は振袖のほかに洋服の人もそれなりにいたと思う。今はほぼ全員が振袖だし、和服の男性もいる。まるで振袖のファッションショーと化している。大学の卒業式も同じで、私が学生の頃は袴のほかに洋装の女性も結構いて、人それぞれだった。私は卒業式以外でも着る機会のあるワンピースにした。しかし、今は袴の女性が圧倒的ではなかろうか。

 成人式も卒業式も、あるいはお稽古ごとの発表会でも、本来の目的とかけ離れ、衣装の見せびらかしの場になってしまっているように思えてならない。親も親で、子どもを着飾らせることが愛情だと思ったり、皆と同じ衣装を用意してあげないと可哀そうという感覚なのかもしれない。しかし、そこには個性のかけらもない。そして、そんな見かけばかりに拘る風潮が小学生の卒業式にまで及んでしまったというのが昨今の袴ブームなのだろう。

 こうしたブームの陰には間違いなく貸衣装業者の営利主義がある。インターネットで「小学校 卒業式 袴」と入力するとおびただしい数の貸衣装業者のサイトが出てくる。貸衣装屋こそが親の見栄と同調意識を利用してこうしたブームをつくりあげている張本人ではなかろうか。だからこそ、成人式や卒業式、発表会がファッションショー化し、全国各地で小学生の袴が流行るまでに至ったのだろう。

 ハロウィンやバレンタインのチョコレートもそうだが、日本人とは何と安易に商業主義に利用されてしまう民族なのかと思う。

2016年2月29日 (月)

十二社と熊野神社の思い出

 子どもの頃住んでいた新宿の十二社(じゅうにそう)と熊野神社には2013年に訪れているのだが、先日東京に行ったときに再び足を延ばしてみた。十二社に住んでいたのは4歳くらいから小学校4年生の夏休み前までだから、7年ほどの間でしかない。でも、東京にくるとなぜか足が向いてしまう。昔のことを懐かしく思うのはおそらく歳をとり郷愁が湧いてくるといいうこともあるのだろうが、はるか昔のこととなった自分のおぼろげな記憶の中の風景と今の変容ぶりを確かめたいのかもしれない。

 あの頃の面影が残っているのは3年とちょっと通った淀橋第六小学校、小学校の近くの児童公園、住宅街の中の狭い通り、そして熊野神社くらいだろうか。当時からそのままの建物はほとんどなく、皆、あたらしい住宅やマンションに建て替えられ50余年の歳月は景色を一変させている。当たり前といえば当たり前なのだが、やはりどこかに昔の面影を探してしまう。

 今回は1年間通った幼稚園のあった場所にも足を延ばしてみた。幼稚園がなくなっていることは知っていたが、かつて幼稚園のあった敷地は集合住宅になり、記憶の世界とはまったく違った光景が何事もなかったかのように空間を占領している。

 考えてみれば、数歳の子どもの行動範囲はなんと狭かったのだろう。地図を片手に一人で出歩いた行動圏を目で追うと、東は十二社通りを渡ったところにある熊野神社までだった。南は甲州街道、西は山手通り、北は方南通りに囲まれた、住んでいたアパートから大人の足なら片道5分程度のところが当時の私の行動圏だったことを改めて思い知った。ちょうど、こちらのブログの地図の範囲が私の行動圏とほぼ重なっている。時期も私が住んでいたときと重なる。

 もちろんそれより外側に出かけたこともあるが、そういうときはたいてい友だちと一緒だった。そういえばよく母と一緒に買い物に出かけた商店街はどこだったのだろうか? 現在の地図を見てもどこだったのか見当もつかないが、たしか方南通りを渡った先の路地だったと思う。

 あの頃はよくアパートの庭で虫とりをして遊んだ。もちろんアゲハチョウやキタテハ、シオカラトンボなどどこにでもいる普通種ばかりだったが、ときどき見かけるアオスジアゲハは別格の存在だった。黒い翅の中央にエメラルド色のグラデーションの帯が走る素晴らしく魅惑的なこのチョウがこんな都会の片隅にいることだけでも心がわくわくしたし、動きがすばやくて子どもには捕まえるのが難しいチョウだった。ときどき舞いこんでくる金属光沢に輝くタマムシにも心をときめかせたし、カマキリなども恐る恐る捕まえては遊んだものだ。夏の夕方にはどこに棲んでいるのかアブラコウモリがひらひらと舞っていた。コンクリートの冷たい建物が増えた今、はたしてどれほどの生き物が生きのこっているのだろう。

 行動圏の東の端にある熊野神社は一番変わっていない場所かもしれない。それでもあの頃とはだいぶ変わってしまったとどことなしに感じる。おそらく建物が改修されたり整地されるなどして少しずつ変化してきたのだろう。観光客の姿が見られるのもあの頃とは違う光景だ。

 熊野神社といえばやはり夏祭りの縁日が思い出される。今はどうなのか分からないが、あの頃は十二社通りから境内一杯に屋台がびっしり並び、それはそれは賑わっていた。お面、綿あめ、べっこう飴、カルメ焼き、得体の知れないジュースなどを売る屋台、金魚すくい、ヨーヨーつり、輪投げ、射撃などが所せましと並んでいた。今、境内を見回すと、この狭い場所にどうしてあれほどの屋台があったのだろうと思うくらいの広さしかない。視線の低い子どものことだから広く感じたのかもしれないが、なんだか拍子抜けするほど狭い。

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 熊野神社では梅がほころび始めていた。社務所にパンフレットが置いてあるのに気付いて手にしてみると、この界隈の歴史のことが書かれている(http://12so-kumanojinja.jp/page-01.html)。十二社の池のことも書かれているが、私が住んでいたころにもまだこの池は健在だった。ただし、有刺鉄線に囲まれて道路から緑色にどんよりと濁った池が垣間見えただけで、近寄りがたい不気味な池という印象しかなかった。だからこの池がかつて景勝地で料亭や茶屋があり、ボートや花火大会で賑わったなどということが書かれていて驚いた。神社の近くには滝もあったという。

 この池は昭和43年に埋め立てられたそうだが、以下のサイトにはかつての十二社池の写真や絵が掲載されている。

 http://ameblo.jp/sasabari/entry-11528230700.html
 http://blogs.yahoo.co.jp/shinjyukunoyamachan/2846.html 

 昔の絵や写真を見ていて思い出したのだが、私が子どもの頃は十二社のごく一部に自然のままの地形が僅かに残っていた記憶がある(もちろん現在はきれいさっぱりなくなっている)。十二社あたりの古地図(明治13年測量、24年修正)を掲載しているサイト(http://collegio.jp/?p=86)があるのだが、今の西新宿一帯は角筈(つのはず)村で、どうやら畑や竹林、雑木林などが広がっていたらしい。もちろん十二社の池も描かれている。明治時代に角筈村に住んでいた人たちが今の光景を目にしたら、腰が抜けるほど驚くに違いない。古地図を見ていると、住宅とビルで埋め尽くされた今の西新宿の変貌に呆然とするばかりだ。

 十二社や角筈という地名は私が子どもの頃も使われていたが、なぜ西新宿などというつまらない地名に変えてしまったのだろう。地形や景色は変わっても、せめて地名くらいは残しておけないものだろうか。そんなことを思いながら熊野神社を後にした。

2015年11月28日 (土)

11月の大雪と冬の木々の光景

 今年はいったいどうしたのだろうか?と思うくらい、11月に入ってから何度も雪が降った。朝起きて窓から外を見ると真っ白、という日が何回あっただろうか。真っ白の雪が地面を覆うと、ああ今年もまた長い冬の到来だとちょっと観念するのだが、今年はそんな冬の到来がいつになく早い。

 ただし、いつもなら11月に雪かきが必要なほど雪が積もることはほとんどない。本格的な積雪はたいてい12月に入ってからだ。ところが今年はどうしたことか、つい先日30センチほど雪が積もり、昨日もまた30センチほど積もった。まだ11月だというのにすっかり真冬の景色だ。

 葉を落とした落葉樹はなんとも寂しげだが、ひとたび雪を戴くといっぺんに明るく清々しい姿になる。天に向かって伸びる枝々の繊細な造形がもっとも美しく映えるのは、やはり雪を戴いたときだろう。といっても、こうした光景を楽しめるのは、降り積もった雪が風で飛ばされたり、かすかな陽射しに暖められて溶け落ちるまでのひとときなのだが。

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 落葉樹の枝が天に向かって広がっているのとは対照的に、針葉樹は濃い深緑の葉の上にこんもりと雪を戴く。針葉樹に積もった雪は面的に広がり枝を押し下げる。

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 夏の木々は生命の輝きが溢れていて躍動感があるが、雪と氷に閉ざされた季節の木々は、厳しい冬をじっと耐えるがゆえの凛とした美しさがある。

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 雪が降り積もった木々の光景を見ていると、私はなぜか幼い日の霧ヶ峰を思い出す。霧ヶ峰の強清水には父の会社の宿泊施設があり、家族でスキーに行った。強清水のあっというまに滑り降りてしまう猫の額のようなスキー場は今も健在だ。リフトが1基だけのその小さなスキー場の一角で橇遊びをしたり、転ぶとすぐに流されてしまう子ども用のつっかけ式のスキーで遊んだ記憶がある。長靴を通して伝わる雪の冷たさに半べそをかいた記憶もおぼろげながら蘇ってくる。

 あの宿の前には雪をいただいた木々が並んで木立となっていた。何の木なのか今となっては分からないが、大半は針葉樹だったと思う。カラの仲間だったろうか、ときおり小鳥のやってくるだけのモノトーンの世界、どこまでも静かな音のない世界。ほかに見るものもなく、窓からの冬の木々を飽きもせず見ていた。冬の山とはこんなにも静かなのかと子ども心に思ったものだ。雪をかぶった森林などいくらでも見ているのだけれど、考えてみたら、私が雪を戴いた針葉樹の光景をはじめて目にしたのは霧ヶ峰だったのだろう。だから、あの光景が忘れられないのかもしれない。

2015年9月26日 (土)

深刻な海岸浸食

 先日出かけた十勝の海岸(長節湖と湧洞沼の間の海岸)には2009年にイソコモリグモの調査で来ていた。その時の写真が以下。
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 侵食を抑えるために丸いコンクリートブロックが並べられており、ブロックの陸側は草地になっている。

 ところが、6年後の今年はこんな状況になっていて、ブロックの陸側の草地は消失し砂地になっていた。
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 このあたりは2009年の時点でも海岸浸食が深刻だったが、6年でそれがかなり加速していることを実感した。以前は海岸に沿って車道があったのだが、今は浸食によって通れなくなり、道が内陸側に付け替えられていた。

 このような光景は北海道の多くの海岸で見られる。日本の国土は波に削られて年々狭くなってきているのだ。

 ダムによって土砂の流下が妨げられるようになったことと、漁港などの防波堤で沿岸流の流れが変わってしまうことが海岸浸食の主な理由と考えられるのだが、人が自然の摂理に逆らうようなことをやれば、このように必ずその影響がでる。

2015年8月30日 (日)

逢坂峠を見下ろす比叡山

 今年は日本蜘蛛学会の大会が京都で開催され、大会への参加も兼ねて10日ほど京都と東京に行ってきた。そして京都滞在中に比叡山に足を伸ばした。比叡山に行ってみたいと思った理由は、関西へ向かう飛行機の中で「日本史の謎は『地形』で解ける」(竹村公太郎著 PHP文庫)という本を読んだことも関係している。

 京都市内から比叡山に行くにはいくつかのルートがあるのだが、せっかく行くのであれば京都から琵琶湖側へと抜けるコースをたどってみようと思い「比叡山横断チケット」を購入した。比叡山は、山の麓から交通機関1本で簡単に行けると思っていたのだが、調べてみるとケーブルカー、ロープウェイ、バスなどをいくつも乗り継がなければならないらしい。

 まず京阪電車の出町柳駅から叡山電車に乗って八瀬比叡登山口へ。そこから叡山ケーブルと叡山ロープウェイを乗り継ぐと比叡山頂駅に着く。この叡山ケーブルは標高差(561メートル)では日本一とのこと。京都市内の名所はどこも観光客でごった返していたし、世界文化遺産にもなっている比叡山もさぞかし混雑しているかと思ったのだが、どうやらケーブルカーやロープウェイを乗りついで比叡山に行く人はそれほど多くないようだ。ケーブルカーもロープウェイも思っていたより老朽化している上に、どことなしか裏さびれている。

 比叡山山頂駅に降りるとすぐに「ガーデンミュージアム比叡」という庭園の入口があるが、ここはパスして比叡山内シャトルバスのバス停に向かう。山頂は下界に比べるとぐっと涼しく、気持ちのいい植林地の道を5分ほど歩くと山頂バス停に着く。バス停に来て、京都駅や三条京阪と比叡山山頂を結ぶ比叡山ドライブバスが出ていることを知った。なるほど、バス一本で山頂に来られるのであれば、ケーブルカーやロープウェイがすたれるのは納得できる。しかし、バス一本で来てしまうのは何とも味気ない。山頂バス停からは琵琶湖はもちろんのこと、下界の光景がよく見渡せる。

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 さて、比叡山に来たからには延暦寺を見て回らねばならない。延暦寺は山頂から琵琶湖側にやや下ったところにある。ただし延暦寺という建物はない。いくつもの建造物が東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)という三つの区域に分かれて建てられており、それらを総称したものが延暦寺だ。根本中堂、戒壇院、大講堂などは東塔地区に、釈迦堂、にない堂、浄土院などは西塔地区に、そして横川中堂、四季講堂などは横川地区にある。それぞれの地区はやや離れているために比叡山内シャトルバスが循環している。ただし、シャトルバスは1時間に2本ほどしか運行していないので、あちこち回りたい場合は余裕をもったスケジュールを立てたほうがよさそうだ。

 比叡山の中心的な建造物は何と言っても東堂にある根本中堂だろう。ただし2016年度から大改修を行うとのことで、すでに準備が始まっていた。

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 こちらは同じく東塔の法華総持院東塔と阿弥陀堂。東塔からは下界が見渡せる。

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 そしてこちらは西塔にある釈迦堂。

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 比叡山は標高が848メートルだが、根本中堂は標高が670メートルくらいのところにある。比叡山の山肌の大半は杉などが植林された人工林だが、延暦寺の周辺には見事な杉の大木が点々とある。それにしても、今のように大型機械もない時代に、こんな山奥によくぞこれだけの立派な建造物を建てたものだと感心せずにはいられない。

 さて、杉林に囲まれた延暦寺で、私は「日本史の謎は『地形』で解ける」という本に書かれていた織田信長による延暦寺の焼き討ちのことを頭に思い浮かべた。

 延暦寺は延暦7年(788年)に最澄によって創建された。そして創建から800年ちかく経た1571年、織田信長は寺院を焼き払い、僧侶などを徹底的に殺害したとされている。今の延暦寺はその後再建されたものだ。竹村氏の著書「日本史の謎は『地形』で解ける」には、竹村氏の独自の推測による延暦寺焼き討ちの理由が綴られている。竹村氏は、これまで人文社会の観点から唱えられてきた諸説を脇に追いやり、地形から焼き討ちの謎を読み解いている。その概要は以下のようなものだ。

 日本列島の交流の中心である琵琶湖一帯と京都を行き来するには、逢坂山を通らねばならない。今も東海道線や東海道新幹線、北陸線、京阪転轍、国道1号線などが逢坂山に集中している。もちろん昔の峠道はせいぜい馬が1頭ないしは2頭が並ぶ程度の幅しかない。その狭い道を軍の隊列が通るとき、隊列は必然的に細長くなる。そこを横から攻撃されて前後の隊を切り離してしまえば、大軍を崩落させることは容易だ。なぜなら信長自身が桶狭間の戦いで、今川軍の隊列が伸びきったところを襲撃し、今川義元を打ち取った経験があるのだ。

 比叡山は逢坂山を見下ろす位置関係にある。比叡山の僧兵たちは逢坂山を行き来する侵入者を見張り待ち構えていた。僧兵たちが見張る中、足利義昭を盾にしてなんとか逢坂山を無事に通過して上洛した信長にとって、逢坂山を自由に行き来するために比叡山の焼き打ちがどうしても必要だった。これが竹村氏による延暦寺焼き討ちの理由である。

 もちろんこれは竹村氏が地形から導き出した一つの物語であり仮説にすぎない。しかし、今のような交通手段もない中で、「地形」が歴史に及ぼした影響は無視できないし、竹村氏の見方は非常に興味深いものがある。

 そして実際に比叡山山頂からの眺めは素晴らしい。延暦寺の最も東に位置する東塔からも琵琶湖側はよく見渡せるのだ。比叡山は、武装した僧兵が山の上から下界を見張り、山猿のごとく山を駆け下って侵入者を襲撃するのに格好の位置関係にある。信長が延暦寺の僧兵を心から恐れていたのは間違いなさそうだと思えてくる。

 今はすっかり観光地になった延暦寺ではあるが、森に囲まれた静寂な山奥の寺院にも血にまみれた歴史がある。権力、宗教のもとに多くの命が抹殺された歴史がある。権力とは何か、宗教とは何か・・・。焼き討ちからおよそ450年が過ぎた今、私たちは果たして血まみれた歴史から何かを学んでいるのだろうか・・・。

 東塔と西塔を巡り、東塔に戻って7分ほど歩いて琵琶湖側に下る坂本ケーブルの駅に向かった。坂本ケーブルは長さ(2,025メートル)が日本一とのこと。ケーブル坂本駅に降り立つと、一気にむし暑い空気がまとわりついてきた。ここから連絡バスに乗って京阪坂本駅に。そして京阪電車に揺られて京都市内へと戻り半日あまりの小旅行を終えた。

2014年8月28日 (木)

土砂災害を軽減させるために

 先日起きた広島での土石流災害では多数の方が亡くなり大惨事となった。その後、礼文島でも土砂崩れで住宅が押し流されお二人が亡くなった。昨年は伊豆大島で大規模な土砂災害があった。こうしたニュースを聞くたびに、未然に被害を防ぐことはできなかったのかと、やりきれない気持ちになる。

 日本では毎年のように土石流被害が繰り返される。平地が限られ人口が多いために、どうしても山が迫っているようなところに住まざるを得ないという事情があるのはわかる。しかし、もっと被害を減らす工夫はできるのではなかろうか。

 土砂災害にしても津波にしても自然の力は凄まじく、容赦なく襲いかかる。「備えあれば憂いなし」と言うが、いくら備えていても絶対に大丈夫とは言えない。まず災害が起きると想定されるところにはできる限り住まないのが望ましい。宅地を購入して家を建てるのであれば、災害の可能性も考えて場所を選ぶべきだろう。土砂崩れが起きないか、河川が溢れないか、断層はないか、液状化の恐れはないか、津波の心配はないか等々、頭に入れておくべきだ。住宅を借りるときも、災害に巻き込まれる危険性が少ない場所や建物を選ぶよう心がけた方がいい。

 危険なところを宅地にしないよう規制すべきだと思うが、宅地造成をする業者はそんなことまで考慮しない。以下の記事を参照いただきたい。

判断の大切さ 住宅地造成をしてきた料理店主の話 

 本来なら危険な地域は居住禁止にするのが望ましいのだろうが、現実に多くの人が危険な場所に住んでおり、そのような人たちを速やかに安全な場所に移住させるのも不可能だ。とすれば、危険な地域に住んでいる人は、いざという時に避難できるようにしておくしかない。

 集中豪雨を考えてみよう。土砂災害が起きるのは大雨が降り続くような時だ。しかし、バケツをひっくり返したような猛烈な雨が降っていたなら、普通、家から外に出ることすらためらってしまうだろう。避難勧告が出るまで待っていようという気持ちになるのも無理はない。

 しかし、市町村などの避難勧告が当てにできないのはこれまでの事例からも明らかだ。避難勧告は必ず出されるわけではないし、避難勧告が出たときにはすでに時遅しということもある。だから、「この雨は尋常ではない」と感じたら、自主的に避難したり、少しでも安全な場所(鉄筋の建物とか、住宅なら二階など)に移動するしかない。大雨が降り続くときは、住民自身の適切な判断が生死を分けることになる。

 避難の際も、車がある人は車で避難ということもできるが、徒歩で避難するにはかなりの覚悟がいる。傘だけではすぐにずぶぬれになるから、防水性のある雨具も用意したほうが賢明だ。また、どしゃぶりでは視界がきかず、夜などはさらに危険だ。高齢者や体の不自由な方は、ひとりでの避難はとても無理だろう。であれば、地域で連携するなどして日頃から弱者の対応を考えておくしかない。

 すみやかに避難するためにも、自分の住んでいる場所の危険性を知っておくということはとても重要なことだ。

 たいぶ前だが、郵便局に行ったら私の住んでいる地区のハザードマップが置いてあり、地滑りの危険個所が図示されていた。それまでは自分の住んでいる地域でそのような災害が起こりうるとは考えたこともなかったので、正直いってドッキリした。幸い私の住んでいるところは危険地域には入っていなかったが、危険地域には何件も家が建っている。果たしてそこに住んでいる人たちはその事実を知っているのだろうか?

 実家の近くはどうなのかと、ネットでハザードマップを調べたこともある。丘陵を切り開いた住宅地だが、近くに危険区域に指定されている崖地があった。

 日本各地を旅行しても、住宅の裏手が崖や急斜面になっているようなところはいくらでもあり、他人ごとでありながら「怖いなあ」と思ってしまう。山国の日本では、集中豪雨などで地滑りや土石流が起きそうな場所はいたるところにある。そして、昨今は土砂災害だけではなく、洪水や津波、火山など様々なハザードマップが作られるようになった。

 災害を減らすには、まずは自分が住んでいるところが危険な場所であるかどうかをハザードマップできちんと認識することが大事だろう。そして、危険区域に住んでいるのであれば、大雨などの際にはすぐに避難できるように準備しておくことが肝要だと思う。

 最後に一つ。地球温暖化の影響で異常気象が増えていると言われている。昨今の集中豪雨の増加も、その背景に人間活動が関わっている可能性がある。ならば、異常気象によって発生する自然災害は人類自身が引き起こしているわけで、単なる自然現象とは言い切れない。エネルギーの大量消費の見直しも真剣に取り組むべきではないか。

2013年6月16日 (日)

化粧品やトイレタリーの危険

 私は基本的に化粧はしないし、化粧水すらほとんど使わない。理由はいろいろある。そもそも化粧そのものにほとんど興味がなく、化粧で見栄えを良くしたいと思わない。また化粧品の匂いが苦手で、特に自動車の中など狭い空間では香料の匂いで気持ちが悪くなる。化粧品をつけたときのベタベタした感触も好きになれない。しかし、何と言っても嫌なのは、得体の知れない化学物質を肌につけるという行為だ。

 化粧品の成分にはさまざまな化学物質が含まれているが、そういうものを長時間肌につけるというのはどう考えても有害としか思えない。それに、化粧品を使わなくても肌にトラブルは生じない。だから、つける必要を感じないのだ。ごくたまに日差しの強い日に外出するとき日焼け止め入りのファンデーションをつけることがあるが、帰宅したらすぐに顔を洗う。気持ち悪くて仕方ないのだ。

 同様に毛染めもしない。最近はかなり白髪が目立つようになってきたが、白髪染めをしたいとは思わない。第一に、髪や頭皮に良いわけがないから。それに、見かけだけ若くしたいとも思わない。白髪でも生き生きとして若々しい人は沢山いるし、何も髪の毛を染めてまで歳を隠す必要もないと思う。顔はどう見てもかなりの高齢なのに髪の毛は真黒という人をたまに見かけるが、かえって不自然だ。

 女性が化粧をしたり白髪を染めるのは「マナー」「身だしなみ」などと言う人がいるが、いったい誰がそのようなことを決めたのだろう? 男性は化粧をしないのが当たり前なのに女性は化粧をするのが当然だという発想は、私にとっては性差別としか思えない。

 化粧や染髪をしたい人がするのは自由だし、それを批判するつもりはないが、化粧しないことも個人の自由でありとやかく言われる筋合いではない。しかし、化粧品を長時間つけている女性は、化学物質のことを考えないのだろうかとは思う。それに、さまざまな科学物質が入った化粧品を洗い流すのは、水質汚濁や環境汚染にもつながるだろう。

 オーストラリア発の話題とのことだが、以下のような指摘がある。

女性は化粧品・トイレタリーに含まれる化学物質を年間2キロ肌から吸収(世界の三面記事・オモロイド)

 女性は年間平均2キロ、一日当たりにすると約5.5グラムもの化学物質を肌から吸収しているという。この数字は本当だろうか?と首をひねってしまうが、考えたら肌につける化粧品のほかに、それを落とすための化粧品にも化学物質が入っている。シャンプーやリンスなども入れたら、かなりの化学物質を肌から体内に取り込んでいることは確かだと思う。

 私は髪の毛を洗うのも無添加石鹸を使っているから、シャンプーもリンスも使わない。石鹸での洗髪(リンスは酢を使用)に慣れてしまうと、市販のシャンプーはまったく使う気にならない。ボディーソープももちろん使わない。洗濯用洗剤も無添加の粉石鹸を使っている。無添加の固形石鹸と粉石鹸があれば何の不便もない。歯磨き剤も洗剤成分の入っていない「ノンフォーム」をたまに使うだけ。化粧品やトイレタリーから化学物質を吸収することはほとんどない生活をしている。

 現代人は農薬をはじめとして様々な化学物質に汚染された食べ物を食べている。大気にも化学物質が漂っている。生活自体が化学物質にまみれているのだから健康を害するのは当然だ。アレルギーが増えている背景には、こうした汚染も関係しているのだろう。せめて生活必需品ではないトイレタリーなどは、極力減らしたほうがいい。メーカーの宣伝に乗せられるのは危険だと思う。

2013年3月 3日 (日)

土木工事による防災より避難対策を重視すべき

 私はこれまで調査や旅行で道内各地にでかけているが、いつも思うのが津波や火山に対する考えが甘い人が多いのではないかということだ。

 たとえば、大津波がきたらひとたまりもない海岸に家を建てて生活している人が非常に多い。多くは漁業を生業としている人たちだ。そんなところを通るたびに、「よくこんな危険なところに住んでいるなあ・・・」と他人事ながら思ってしまう。裏手に高台や山があり容易に避難できるようなところはまだしも、背後が絶壁で簡単に避難できないようなところ、あるいは平地が広がっていて近くに高台がないところにも人々は住みついている。

 そもそも、裏手に高台があるのなら高台のほうに家を建て、海岸は番屋だけにしておけばいいのに、と思うのだが、やはり利便性を優先してしまうのだろう。それに、人というのは「自分の生きている間には大津波は来ないだろう」と高をくくってしまうのかもしれない。地震大国に住んでいる以上、大津波がくる可能性を知らないわけがない。知っていながらも利便性の方を選んでそこに住んでいるのだ。

 火山の噴火もそうだ。洞爺湖はそれなりの規模の温泉街が広がっているが、有珠山はいつ噴火してもおかしくない。有珠山の場合、噴火に備えて観測をしており、噴火の兆候が現れたらすぐに避難する体制ができてはいるが、私にしてみればなぜそんな危険なところに住みつくのかと不思議でならない。

 十勝岳の山腹にある白金温泉や十勝岳温泉も同じだ。ここでは噴火による被害を軽減させることを目的に砂防施設を整備している。たとえば、噴火に伴って発生する泥流による被害を軽減させるための砂防堰堤が美瑛川や富良野川に造られている。また、白金地区では十勝岳火山砂防情報センターという立派な施設が建設され、噴火の際の住民の避難場所にもなっている。

 しかし、泥流を流下させるための施設を造ったからといって決して安全が確保されているわけではない。大規模な泥流や火砕流が発生したなら、この程度の施設は焼け石に水だろう。住民は建造物をあきらめて避難するしかない。大規模噴火があったなら被害にあうのを承知で住んでいるということなのだろう。

 限られた住民しかいないところで、防災のための土木工事に巨額の費用をかけるべきなのだろうかと、いつも思う。

 3.11の大津波で、国は防災強化のための土木工事を加速させようとしている。堤防のかさ上げや強化、防波堤の建設などだ。しかし、なんでも土木工事で対処しようとすべきではないだろう。高台に避難できるようなところでは避難を優先すべきだし、そもそも避難するような場所がないところは、できる限り居住地にするのを避け農地などとして利用したほうがいい。少なくとも将来的にはそうしていくべきだと思う。

 3.11では函館も標高の低いところでは浸水した。釧路のようにかなりの人が住んでいて高台も近くにないところでは津波対策は必要だ。釧路市の津波のハザードマップを見たら、根室沖から十勝沖を震源とするマグニチュード8.5の地震が起き、津波の最大水位が4~13メートル(釧路港で約5メートル)、津波到達時間30~40分の場合のマップが公開されているが、もっと規模の大きな地震も想定しておく必要があるだろう。

釧路市の津波ハザードマップ 

 仮に20メートルの津波がきたら、釧路の市街地は全域が水没する。以下のサイトから浸水域の想定を見ることができる。

津波浸水マップ 

 しかし、津波を土木工事で止めようとしても限界がある。3.11の大津波で、1200億円もかけて造られた釜石の防波堤はあっけなく壊れてしまった。所詮、人が構造物で自然災害を防ごうとしても限界がある。防波堤に巨額の税金を投じるより、徒歩で避難できる範囲に点々と避難場所となる免震建造物を建てたほうがいいのではなかろうか。

 3.11以降、大地震や大津波、火山の噴火が懸念されている。地震も火山もプレートの動きと密接な関係にあるからだ。日本ではいつ大地震や大津波が起きるか分からないし、これから火山活動も活発になるだろう。箱根でも地震活動が活発化しているし、富士山も近い将来噴火する可能性が高い。しかし人々はあまりに無防備に麓に住みついてしまった。災害は忘れたころにやってくるのである。

箱根で不気味な地震が頻発 専門家は「最大の警戒が必要」 

3年で富士山は噴火する そのときに備えたほうがいい(現代ビジネス)

 大都市や近代文明は災害に弱く、火山噴火や津波などの自然災害そのものには何の手も打てない。津波被害や火山による被害が想定されるところに住んでいる人たちは、いざという時のために防災や避難について常に頭に描き準備しておいたほうがよさそうだ。

2013年2月 6日 (水)

異議申し立てや議論を嫌う人たち

 先日、ある集まりで、若い人たちが自然保護団体に入ってこないということが話題になった。これは私が関わっている自然保護団体だけの問題ではない。恐らく全国的な傾向だろう。

 私が学生の頃は、自然保護団体は若い人たちが多く活気があった。全国自然保護連合の大会なども若い人たちから年配の人たちまで集って熱い議論が展開された。ところが、今は多くの自然保護団体で高齢化が進んでいる。かつて自然保護団体で頑張っていた若い人たちが、今でもそのまま活動を担っているのだ。だから自然保護団体の中心メンバーは今では50代から70代になっていて、平均年齢が毎年1歳ずつ上がっているといっても過言ではない。若い人たちがほとんど育っていない。

 若い人たちは携帯電話やスマートフォンの普及で金銭的にも時間的にも余裕がなくなっているということもあるだろう。しかし、若者が自然保護運動に参加しなくなったのはかなり前からのことで、若者の貧困化とは直接関係がなさそうだ。

 では、若い人たちは物事に積極的に取り組むことをしなくなったのか? そんなことはない。たとえば札幌で毎年行われている「よさこいソーラン祭り」は若い人たちが始めたイベントで、参加者は圧倒的に若い人が多い。しかもすごいエネルギーだ。災害復興のボランティアに行く若者もそれなりにいる。ほかにもボランティア活動に参加する若者はある程度いると思う。若者からエネルギーがなくなったわけではないし、社会的活動に無関心というわけでもない。また自然に関心がある若者がいなくなったわけでもない。ところが自然保護団体は若者から敬遠される。なぜなのか?

 自然保護活動というのは開発行為の事業主体である行政機関や企業との交渉、話し合い、要請行動などが必須だ。つまり、理論でぶつかり合うことが避けられないし、それが運動の中心とならざるを得ない。仲良しクラブ的な感覚ではできない。しかし、今の若者はそのようなことに関わることを好まない。「よさこいソーラン祭り」もボランティア活動も、そこには「ぶつかり合い」「行政などとの対峙」がない。今の若者は「異議申し立て」することを敬遠しているとしか思えない。

 若者を見ていれば、それは自ずと納得がいく。つまり、若者たちは「周りの人の話しに合わせて浮かないようにする」「空気を読んで、その場を乱すようなことは言わない」「声の大きい人に合わせてふるまう」ということを徹底的に身につけているのだ。そうしなければいじめにあう。だから、たとえ心の中で「おかしい」と思うことがあっても、口には出さない。また自分が他者からどのように評価されるかをとても気にしている人が多い。だから意見を言うのが苦手だし、本音を隠すこともある。子どものころから、そうした感覚がしみついている。理不尽なことがあっても、なかなか「異議申し立てをする」という行動をとらず、ストレスを抱えて引きこもってしまうこともある。

 このような感覚の人たちは「異議申し立て」をすることがメインの自然保護活動は、とても馴染めないに違いない。もちろんこういった活動は楽しくもないし、理詰めの議論を要求される。

 ある教員退職者は、若者が異議申し立てをしなくなっているのは教育の影響だという。教育現場においても、異議申し立てをするような姿勢を避ける教育がなされてきたという。ここ数十年でその傾向が非常に強くなっているそうだ。

 もっとも、こうしたことを敬遠するのは、若い人に限ったことではない。異議申し立てをしない、議論を避けるという行動パターンは、私と同世代の人たちにも広く浸透してきている。波風を立てることを嫌うのだ。だからこそ、子どもたちにもそういう影響が色濃く出る。近年、それは一段と強まっているように思う。

 仲間内のメーリングなどでの議論を嫌う人も多い。たとえば自分たちのグループの運営問題ですら、議論による意思決定を敬遠する傾向がある。意見を求められても沈黙して意思表示を避けてしまう人も多い。運営について意見を述べたり議論することが「活動の足を引っ張る」「建設的ではない」と捉え、批判する人もいる。その結果、声の大きな人に従うようになってしまい対等な関係が損なわれる。議論を避けてしまえば、民主的な組織運営から遠ざかってしまう。どこかおかしくはないか。

 おそらく、ここ数十年のあいだに、教育現場も含め社会全体にそういう意識が蔓延してきているのではなかろうか。論理的に物事を考えることをやめ、体制に従ってしまうという空気が日本全体に漂っている。学校でも「考える力」を身につける教育はせず、テストの点数に重点が置かれた教育しかしない。これでは批判的な思考力が育つわけがない。国民を意のままに操りたい政府にとって「おとなしい国民」は思う壺に違いない。議論や異議申し立てをしない人たちは、権力者に支配されるしかない。

 原発事故で多くの人が安全神話に騙されていたことに目が覚めた。原子力ムラの嘘と隠蔽に大半の国民が怒り、全国で脱原発デモ、集会、電力会社への抗議行動などを繰り広げた。脱原発を求める人たちが代々木公園を埋め尽くした光景は、今までなら考えられないことだった。原発事故を契機に「異議申し立て」をする国民へと意識が変わりつつあるのだろうか?

 たしかに、あの事故で目覚めた人はそれなりにいるだろう。しかし、私には大半の人が根本的な意識変革には至っていないと思えてならない。もう原発事故のことなど忘れてしまったような人があまりに多いように見えて仕方ないからだ。

 アメリカ人にとって、はっきりと意思表示をしない日本人と話しても面白くない、という話しを聞いたことがある。日本人は逆で、協調性を重視し、議論をふっかけたり異議を唱える人を敬遠する。「議論」や「異議申し立て」をもっと前向きに捉えていく必要があるのではなかろうか。

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