政治・社会

2017年11月16日 (木)

賠償金の踏み倒しは防げるのか

 「弁護士ドットコム」というサイトにこんな記事が掲載されている。

ひろゆき氏の方法はもう終わり? 賠償金「踏み倒し」撲滅へ、法制度見直し議論 

 民事訴訟で賠償金の支払い命令が出た場合、判決に従って賠償金を支払うというのは自分の行いに責任をとるという意味で当然のことだ。裁判所の命令に従わないということは法に従わないということであり、無法者といっていいだろう。ところが、ときどき支払わずに踏み倒してしまう人がいる。代表的なのが元2ちゃんねる管理人の西村博之氏だろう。彼の場合、資産があるにも関わらず踏み倒していると言われているから悪質だ。

 なぜこんなことができるのかは記事で説明されているが、現在の法律では債権者にとって債務者の財産の強制執行がとても困難だという現状がある。しかも支払わなくても刑事罰がない。踏み倒して10年たてば時効になってしまう。西村氏の場合は海外の金融機関に口座を持っていると言われており強制執行も簡単にはできない。そしてすでに時効がきているので債務はゼロだと豪語している。

 彼が2ちゃんねるの管理人を辞めたのは、ずっと支払い拒否を続けていたら賠償金が膨れ上がってくる一方だしそのうち法改正があるかもしれないしなので、管理人を辞めることで区切りをつけ、溜まった賠償金を時効に持ち込んでチャラにするという思惑があったのではなかろうか。刑事罰がないとはいえ、債務者は裁判で決まった賠償金を支払う責務があるのだから、無法者であることは確かだ。

 不法行為で民事訴訟を起こす者の多くは弁護士を雇い、裁判に費用と時間を費やす。それにも関わらず西村氏のような無法者がのさばっていたら何のために法律があり裁判があるのかということになってしまう。

 そして懸念されるのは西村氏の話しが有名であるがゆえに、この手法を真似する人がいるのではないかということだ。単に「払いたくない」「判決が納得できないから払わない」などという自分勝手な理由で支払わない人もいるだろう。このような無法者が溢れるようになれば、損害賠償訴訟が無意味になりかねない。そんなこともあって、法の抜け穴を塞ぐための検討がようやく始められたということなのだと思う。

 ただし、中には支払い能力がない人がいるのも事実だし、損害賠償によって人生が暗転してしまう人がいるのも事実だ。例えばかつて文芸社商法の批判をした冊子を配布した渡辺勝利氏は文芸社から名誉毀損と業務妨害で訴えられた裁判に敗訴してしまった。この裁判に関してはスラップだと私は考えているが、たとえ理不尽な裁判であっても確定した判決に従うというのが裁判に負けた者の責務だ。納得がいかなければ控訴せねばならないが、彼は控訴を断念した。

 ところが彼は別の裁判でも敗訴して高額の賠償金を抱えてしまった。困った彼は文芸社に頭を下げて賠償金の免除を求めたらしい。その後、彼は文芸社を擁護する側に回り、文芸社を批判していた私まで攻撃するようになった。あの気骨ある渡辺氏が賠償金が払えないゆえに文芸社に屈服せねばならないとはなんと哀れで惨いことかと思ったものだ。債務者と言えど、最低限度の生活は保証されており強制執行で身ぐるみはがされるということにはならないのだが、責任感の強い彼は支払い不能を理由に切り抜けることを良しとしなかったのかもしれない。

 ただし、債務者の支払い不能を理由に債権者が賠償金の受け取りを諦めねばならないというのもおかしな話だ。記事では払わない人の対策として賠償金を国が立て替え、国が直接加害者への取り立てを行うというノルウェーの事例も紹介されているが、債権者が泣き寝入りしないで済む仕組みも検討していくべきだろう。もっともそのためにマイナンバーを利用するという話しなら、賛同はしかねるが。

 現代はネット上に誹謗中傷、名誉毀損が溢れている。被害者がお金と時間をかけて加害者を特定し、さらにお金と時間をかけて裁判を起こしても踏み倒されたらたまらない。ネット上では無責任人間がのさばり、すでに加害者天国のような感がある。西村氏はおよそ30億もの賠償金を踏み倒したあげく時効がきたと開き直っているが、今回の見直しは遅すぎた感がある。

 いわゆるザル法は損害賠償問題に限らずいろいろなところにある。法治国家である以上、ザルの穴を塞ぐことは当然だろう。

2017年10月18日 (水)

日本人は主体性を持つことができるのだろうか?(追記あり)

 民進党・自由党の希望の党への合流劇については前回の記事「希望の党の結成で暗黒時代がやってくる」 に書いたが、私はまだこのことに拘っている。この合流劇が民主主義をないがしろにした策謀であったにも関わらずその点を指摘する意見がとても少ないことに唖然としている。そんな中で共感できるのは以下のさつきさんの記事だ。

 民主主義を破壊するマヌーバー(さつきのブログ「科学と認識」)

 さつきさんのブログから重要な部分を引用しておきたい。

 選挙民の空気や政局の風を読み、その場凌ぎの受けの良い政策を前面に立てて信を問い、権力を手に入れ、その上で本性を露わにするというのは、かつては「マヌーバー」という一言で、少なくとも左派の中では一蹴されてきたやり方だ。この言葉が最近力を持てなくなっているのは、一つには「マヌーバー」そのものが、本来、「うまく立ち回る」といったような良い意味・積極的な意味にも用いられることの多い言葉であることにも依るのだろう。「面従腹背」がウケるのもそうした背景があるかもしれない。

 しかし、マヌーバーはポピュリストの常套手段であり、少なくともこれを選挙に際して用いることは、民主主義を破壊する行為に他ならない。選択された結果が内実と乖離してしまうからだ。選挙によって何が選択されたのか、誰が正しく判断できるだろう。そうした策略は、一時的に成功したとしても絶対に長続きすることはなく、その後の反動は目を覆うばかりのものとなるだろう。この間の日本の政治の劣化・反動化がそれを証明している。トロイの木馬だとかなんだとか裏でコソコソしないで、自分が正しいと思うことを真正面から主張し、行動しないと、きっと何処か知らないところへ連れて行かれるような気がするのである。

 私は個人の人間関係においても、政治においても最も大事なのは誠実さと信頼関係だと思っている。しかし策謀(マヌーバー)というのは誠実さや信頼の対極にあるものであり、こうしたやり方は一時はうまくいったとしても結局は信頼を失い対立や混乱を生みだす。

 しかも、今回の合流という策謀は明らかに失敗し、結果的に自民党を利する方向に向かってしまったようだ。それにも関わらず、民進党支持者や自由党支持者の中に策謀を評価したり容認している人が少なからずいることは驚きだ。

 前回の記事を書いてから、今回の策謀に似た事件があったことを思い出した。士幌高原道路建設をめぐり、自然保護団体が労組に乗っ取られそうになった事件だ。「SEALDs批判に思うこと」という記事に書いているが、主要部分を以下に再掲する。

 実は、私が関わっている十勝自然保護協会は、権力と結びついた人たちによって乗っ取られかけた過去がある。士幌高原道路(道々士幌然別湖線)の建設をめぐり、会の役員が容認派(柔軟派)と反対派に真っ二つに分かれて紛糾し、闘争ともいえる状況になったのである。

 士幌町から然別湖に抜ける士幌高原道路は、自然環境に大きな影響が懸念されるということで計画が凍結されていた。それが工事再開へと舵をきったのは1983年に横路孝弘氏が北海道知事になってからである。そして、横路知事は、士幌高原道路について「地元自然保護団体のコンセンサスを得ながら取り組む」と発言し、地元自然保護団体、すなわち十勝自然保護協会の意向が大きく注目されることになった。

 知事がこのような発言をしたのは裏があった。十勝自然保護協会の役員には横路知事を支持する地区労関係者が複数存在していた。そして彼らは労組関係者を密かに入会させていた。また当時の会長が、地元の士幌町民に対し「道路をつける」と言っていたという情報がもたらされたのだ。つまりは横路知事の支援者である労組が、水面下で地元自然保護団体を乗っ取ることで道路建設を認める方向で密かに動いていたのだ。

 しかし、当時の役員の約半数はこのような政治的関わりのない純粋な市民であり、道路建設による自然破壊を危惧していた。当然、労組関係者と会長の不穏な動きが役員会で追及されることになり、答えに窮した会長と労組関係の役員たちが役員会を退席して職務を放棄してしまった。こうして、水面下で道路容認に動いた役員たちは会から出ていったのである。彼らはその後もしばらくは十勝自然保護協会を名乗っていたが、やがて消滅した。

 知事を支持する労組が知事の意向を汲んで道路建設の容認に動いたのだが、そのやり方は地元の自然保護団体に組合員を入会させて乗っ取るという策謀だった。はじめは少しずつ入会させていたのだが、1992年の定期総会の直前の役員会には183人もの入会申し込み書が持ち込まれた。この大量入会については保留扱いになったが、総会当日には動員された入会希望者が詰めかけ、それまでは20人程度だった市民団体の総会に239人もが押し寄せ廊下まで溢れ出るという前代未聞の異常事態になり、動議も出されて紛糾した。

 結局、大量入会工作は失敗し、策謀を働いた会長や労組関係者は疑惑を追及されると職務放棄をして会から出て行った。十勝自然保護協会は純粋な草の根の自然保護団体として道路反対を貫き、全道の自然保護団体とも協力して道路建設を中止に追い込むことができた。

 仮に、乗っ取り工作が成功していたとしても、反対を貫く人たちは卑劣な策謀に屈せず新たな組織を立ち上げていたに違いない。希望の党への合流を拒否した民進党議員が立憲民主党を立ちあげたように。

 民進党の合流劇とは状況こそ違うが、保守(右派)による二大政党制という目的達成のために右派系の議員を少しずつ増やしていったり、政権交代のために希望の党を乗っ取ろうとするやり方はよく似ている。

 十勝自然保護協会の乗っ取り事件で私が最も驚いたのは、労組の言いなりになって入会を申し込む組合員たちの姿だった。主体性のかけらもない、民主主義とは程遠い全体主義に染まった人たちの集団に寒気がした。

 民進党の合流劇もこの点ではほとんど同じだ。前原氏の策謀に従って踏み絵を踏んだ議員たちを見て寒気がした。そうしないと公認が得られないという事情はあるかもしれないが、策謀に反対して民進党からの公認を主張したり前原代表を解任するという選択肢だってあったはずだ。それがダメでも枝野氏が立ちあげた立憲民主党に移るという選択もできた。「前原氏に騙された」「公認が必要」という言い訳は通用しない。

 市民団体の多くは策謀などには手を染めず地道に草の根の活動をしているが、こうした組織においてもしばしば内部紛争が起きる。紛争の大半は、一部の人が勝手な行動を起こすとかルールを守らないといったことに起因する。つまり、民主的な手続きを無視したときにもめ事がおきる。まして策謀などしようものなら対立、紛争は避けられない。民主的な組織運営には策謀などあってはならないし、それこそ民主主義の冒涜だと思う。

 空気を読んで自分が傷つかないように振る舞ったり、利益や保身を優先して忖度してしまう多くの日本人は全体主義の意識の中で生きているといっても過言ではない。市民団体の乗っ取り工作に加担した労組の組合員は多くの日本人の姿でもある。右も左も関係なく、民主主義が根づいていないのが日本という国なのだろう。全体、あるいは声の大きな者に従っていれば、自分は責任を取らずにすむと思っている。権力者にとってこのような国民を操るのは容易い。しかし、それに抗う人たちも必ずいる。個人が全体主義の意識から脱却し主体性を持たない限り、この国に民主主義は根付かないのだろう。

 ただし、個人が意識を変えるのは極めて難しい。こんな風に考えたくはないが、全体主義に染まった人たちは、どん底に落ちて生死の苦しみでも味わわない限り、主体性の大切さに気付かないのかもしれない。

 他人を変えることはできないから、せめて自分だけでも誠実さと信頼を大切にし、全体主義に陥ることのないよう主体性を持った生き方をしたいと思う。

【10月19日追記】
 士幌高原道路に関しては地元士幌町の役場と農協が「悲願」として推進運動を展開した。事業主体(北海道)による説明会などには送迎バスを仕立てて住民を動員し、質疑応答になると推進側の人物が何人も質問ではなく賛成意見を延々と述べる。そして反対意見を言う人たちにヤジと罵声を浴びせた。推進のためのイベントに送迎・弁当付きで住民を動員したという話しも聞いた。道路建設に批判的な町民に圧力がかけられることもあった。

 説明会で反対意見を述べた私はヤジと罵声を浴びせられ、個人情報も探られた。道路入口ゲートでの抗議行動の際には、公安警察にも見張られた。尾行されていると感じたこともあった。

 農業が基幹産業で農協の力が絶大な地方の町では農協の方針に逆らうことは困難なのか、訳も分からず動員された町民も少なからずいたように思う。推進派の人たちの言動は、国会で議論も尽くさず強行採決をする安倍政権とひたすら彼を擁護する自民党議員の姿に酷似する。動員されても無視するという選択肢だってあるのに、黙って動員に従う町民の姿は、大量入会の企てに乗った労組組合員の姿に重なる。

2017年10月 5日 (木)

希望の党の結成で暗黒時代がやってくる(追記あり)

 民進党の解党と希望の党への合流の報道には驚くと同時に、自分の認識の甘さを痛感した。

 今回の合流劇を裏で仕切っていたのは小沢一郎氏であることはほぼ間違いない。小沢氏は、近年は山本太郎氏と組んでかなり左派と協力的なイメージを作っていた。そして野党が結集して小選挙区で候補者を一本化し、比例代表では統一名簿をつくるという「オリーブの木」構想を提案していた。この共闘を民進党・自由党・社民党・共産党の野党共闘と捉えていた人も多かったのではなかろうか。しかし、小沢氏の考えていた野党共闘とは共産党を除いた保守政党による共闘だったのだ。今回の合流劇でそのことを思い知った。

 小沢氏といえば以前から新自由主義を支持してきた人だ。小選挙区制の導入にも関わっていたし、湾岸戦争のときには自衛隊の派遣を主張した。タカ派の人物だから私も警戒は解いていなかったが、山本太郎氏の活躍などで警戒がやや緩んでいたのも事実だろう。さらに陸山会事件での不可解な強制起訴と無罪判決で冤罪被害者というイメージも広がり、自由党支持者はそれなりにいたように思う。

 安倍首相の強権政治を倒すために、ここ数年は野党4党の共闘による政権交代が頭に刷り込まれていたけれど、以下の二つの記事にあるように、小沢氏がずっと狙っていたのは保守VS保守による政権交代であり二大政党制だ。

自民党VS希望の党、烏合(うごう)の衆による権力争い、「反自民」よりも「反共産」で結束・結党(MEDIA KOKUSYO)

小沢が前原や小池新党と組み、保守新党作りを画策。前原、涙ぐましいほどの小沢G擦り寄り(日本がアブナイ!)

 後者の記事に詳しく書かれているが、小沢氏はこの保守VS保守の二大政党制をつくるためにかなり前から考え方の近い前原氏に目をつけていたらしい。前原氏も記者会見で「(平成24年12月に)下野してから、ある方を通じて小沢先生とお会いするようになり、何回も何回も食事をしたり、色んな話をさせていただく中で、自民党の権力者であったことも踏まえて素晴らしいアドバイスを多々いただいたし、この間も(希望の党との合流について)中身は別にして色んなアドバイスをいただいてきたのは事実だ」と語っている(こちらの記事参照)。

 自民党が民主党から政権を奪回して以降、小沢氏と前原氏は政権交代に向けて話し合いを重ねてきたのだろう。二人の共通認識は、保守政党の共闘による政権交代だったわけだ。前原氏は民進党の代表選挙でも共産党との共闘を否定していたが、それはもちろん小池新党との合流を念頭に置いてのことだ。

 昨年、小池百合子氏が自民党を大差で破って都知事に当選。小沢氏は念願達成のために小池氏に新党結成を持ちかけ、民進党と自由党の合流を提案したというのが真相ではなかろうか。一連の流れから、この策謀を主導したのは小沢一郎氏としか考えられない。

 希望の党との合流に関して私がもっとも驚いたのは、前原氏が9月28日の両院議員総会で、民進党からは公認を擁立しないとか、希望の党との交渉は前原氏に一任するなどの条件を一方的に提案し、事後承諾を得るというやり方をとったことだ。合流そのものも党の人たちとの話し合いの中で決まった方針ではない。しかも、前原氏は事前に小沢、小池両氏と三人で話し合いを持っていたという。政権交代を旗印に、組織の代表がここまで裏で勝手に進めて仲間に事後承諾を取りつけるというやり方に驚きを禁じ得ない。これに関しては批判されるのも当然だと思う。

 結局、前原氏の説明した「候補予定者全員の公認」は反故にされ、大きな反感を買うことになった。民進党議員から「トロイの木馬」などという言葉まで飛び出してきている中で小池氏が警戒するのは当然で、小池氏によるリベラル排除は当然の成り行きだろう。10月2日、枝野幸男氏は民進党に離党届を出して立憲民主党の立ちあげを公表したが、このようなやり方をされた以上、これも当然の成り行きだと思う。

 民進党は民主党時代から内紛が絶えなかったが、左派から右派まで幅広い党員を抱えた党の末路は分裂しかないのだろう。枝野氏と小沢氏は犬猿の仲と言われていたが、枝野氏は小沢氏の目的や企てを察知して警戒していたに違いない。陸山会事件にしても、検察側の起訴に無理があったのは承知しているが、無罪判決が出たからといって小沢氏が何ら関わっていなかったと断定はできないし、グレーのままだと私は思っている。

 枝野氏の立憲民主党立ちあげで、ようやく保守政党を除いた野党共闘へと向かっている。今回の合流騒動で小沢氏と前原氏が策士であることがはっきりしたし、立憲民主党の結党で気分的にはすっきりした。しかし、総選挙に目を向ければ、行く手には暗雲が垂れこめている。

 すでに希望の党の方針が自民党とほとんど変わらないことが明確になってきたし、自民党も希望の党も互いに連携する可能性を否定していない。前原氏が合流の旗印とした政権交代など茶番でしかないことが早くも露呈してしまった。それでもマスコミは自民党と希望の党との闘いであるかのように騒いでいる。これにつられて希望の党に投票する人たちも一定程度いるだろう。

 希望の党がそれなりの議席を確保して野党第一党になれば、小沢氏や前原氏の念願であった保守による二大政党制になり、どちらが政権をとっても安定した保守政治が続く。どちらの党も改憲派だから、北朝鮮の脅威などを煽りたて、すぐにでも改憲に向かって動き出すだろう。希望の党がさほどの議席を獲得できなければ、自公と連立政権を組む可能性が高い。どちらに転んでも改憲、戦争参加へとまっしぐらであり地獄が待ちうけている。こういう流れをつくりだしたのが小沢一郎氏であることは忘れてはならないだろう。

 もっとも私は小沢氏を強く批判するつもりもない。小沢氏は自分の信念に従って行動しているだけなのだろうし、保守の二大政党制が彼の念願であったことは公言しているのだから、今回の合流劇は陰謀でも何でもない。むしろ、小沢氏の日頃の言動から今回の画策を見抜けなかったことの方が問題だ。

 前掲した「日本がアブナイ!」というサイトの「小沢が前原や小池新党と組み、保守新党作りを画策。前原、涙ぐましいほどの小沢G擦り寄り」という記事は民進党の代表選の前日である8月31日に書かれたものだ。著者の方はこの時点ですでに民進党と自由党が小池新党と一緒になって保守新党をつくることを見抜いていた。小沢氏や前原氏の言動からこれを見抜けず混乱した私の方がマヌケだったと言うほかない。

 こうなったら立憲民主党と共産党、社民党の共闘を支援していくしかない。そして急ごしらえの独裁的な希望の党が弱体化し消滅していくことを願うしかない。何しろ、今回の合流劇は前原氏が自分の目的達成のために小池氏の知名度や人気を利用しようと企てたわけだし、小池氏も民進党の右派議員と資金を利用しようとしたわけで、自分の利益のために相手を利用しようとして集まった人たちが互いに信頼し協力しあって上手くやっていけるかどうかは甚だ疑問だ。

 枝野氏は「希望の党の理念、政策は、私たちの政策とは違うものです。また、いまの政治状況としては保守とリベラルは対立概念ではないと考えています。今この国に必要な政治的な対立軸があるとするなら、トップダウンvsボトムアップ、一部の人たちの政治か草の根かという軸。私たちは後者の側に立つ」と語っている。これは民主主義の基本だが、この基本さえ守られていない組織は多い。共産党も基本的にはトップダウンの組織だ。どんな組織でもこの基本ができていないと独裁的になるが内部紛争になる。枝野氏がこれを強調したことは強く支持したい。

 今回の合流劇で感じたのは、人は何と騙されやすい生き物かということだ。国会には自分の利益のために国民を騙すことに長けた議員がひしめいている。国民が平気で人を利用したり騙すような人たちを見抜く目を持たない限り、簡単に独裁政権に支配されてしまう。日本が平和を保てるかどうかも、私たちが誠実で信頼できる政治家を見極めることができるかどうかで決まってくると思う。

【10月19日追記】
 小沢一郎氏が合流劇を主導したことについては以下の記事でも指摘されている。

小池劇場 振り付けは小沢自由党代表(Hunter)
それでも小沢一郎は「小池の出馬と首相就任」を諦めてはいない(現代ビジネス)

【11月5日追記】
 田中龍作氏の以下の記事も紹介しておきたい。

 前原代表の「想定外」だった 野党大合併、頓挫の理由を明かす(田中龍作ジャーナル)

2017年8月12日 (土)

菅野完氏の民事訴訟について思うこと

 8月8日に菅野完氏が被告となって争っていた裁判の判決があり、菅野氏の弁護士がこの裁判に関しての記事を公開した。以下がその記事である。

 菅野完氏の民事訴訟について(弁護士三浦義隆のブログ)

 裁判になっていることは菅野氏もツイッターで認めていたが、詳細については沈黙を貫いていたので分からないままだった。このブログ記事によってだいぶ状況が分かってきたので感想を記しておきたい。

 最初に断っておくが、私は性暴力は重大な人権侵害であり、加害者を擁護する気は毛頭ないという立場だ。菅野氏の件に関しても、紛争の原因をつくったのは彼にあるし、そのことで菅野氏を擁護する気はまったくない。彼は自分の行為に対して責任をとらねばならないし、社会的制裁を受けることも甘受せねばならないだろう。

 ところで何らかの被害が生じて紛争になった場合、問題解決(責任の取り方)としては賠償金や謝罪を求める方法と、刑事罰や行政処分など法に基づいた処罰を求める方法がある。被害者は片方だけ行う場合もあるし、両方行う場合もある。

 前者は話し合い、あるいは調停や裁判によって進められ賠償金で償うことになる。被害の回復といっても起きてしまったことをそれ以前の状態に戻すことは不可能なので、謝罪と賠償金で解決するしかない。

 後者に関しては、加害者の行為が違法行為に該当する場合、被害者が告訴して刑事罰を求めたり行政処分を求めることもできる。

 また、法律に基づかなくても懲戒処分の対象になる場合は処分を求めるということもあるだろう。社会的制裁である。公益目的にマスコミなどが事実を公開することも加害者にとっては社会的制裁になる。これらも加害者としては甘んじて受けなければならない。

 さて、三浦弁護士の説明によると、X氏は代理人弁護士を通じて内容証明郵便で菅野氏に200万円の慰謝料を請求したという。いきなり調停や裁判に出たわけではなく、話し合いによる解決を求めたと理解できる。今回の件に関しては菅野氏本人も事実であると認めていて争いがないし、菅野氏も被害者に謝罪し賠償金を支払うことで和解による解決を望んでいた。そして、X氏の要求してきた200万円の慰謝料も受け入れた。

 謝罪をし、被害者が求めた慰謝料の全額を払うというのだから、ここで和解が成立するのが通常の経過だ。ところが、X氏は菅野氏のツイッターアカウントの削除や女性の権利問題に関する言論活動の制限に拘って和解を蹴り、裁判に打って出た。

 常識的に考えて、事件と全く関係のない要求が裁判で通るとは思えない。しかも裁判になればさらなる弁護士費用がかかることになるし、賠償金額も要求額より減る可能性が高い(実際、判決では要求額の半額の110万円だった)。自分に不利になるとしか思えない裁判を選択するというのは、極めて異様で不可解な対応だ。三浦弁護士も「菅野氏に社会的制裁を加えること自体がX氏の目的なのではないか」と書いているが、第三者の目からもそうとしか思えない。

 賠償金での解決を図る民事訴訟で制裁をすることにはならない。したがってX氏が民事での解決だけでは気が済まないのなら、菅野氏を告訴して刑事事件にするか、事実の公表をするなど民事訴訟以外の方法をとる必要がある。ただし、刑事事件にはなっていないようだ。刑事事件にするほどの違法行為があったわけではないのだろう。そんな中でX氏がとったのは週刊金曜日での公表という社会的制裁だ。

 週刊金曜日は記事を書くにあたり、取材によってX氏の可解な訴訟での対応を把握できたはずだし、X氏が菅野氏の私的制裁に強い拘りを持っていることを察知できただろう。であれば、性被害の事実だけではなくX氏側の不可解な対応も報道しなければ公平性を欠く。

 被害者が報道機関を利用して事実を公表するなら、それはあくまでも公益目的で行うのが筋だと思うし、報道機関側もX氏の言い分だけを垂れ流して個人的恨みによる報復に加担するようなことがないよう十分に配慮する必要があると思う。菅野氏の裁判をめぐって私が疑問に思うのは、まさにこの点だ。

 ところが、記事では裁判の不可解な経緯についてまったく触れられておらず一方的に菅野氏を糾弾する内容になっているし、事実をねじ曲げた部分もあるようだ。しかも記事が掲載されたのは菅野氏や裁判所が和解による解決を模索している裁判の最中だ。

 菅野氏は反省文の公表をX氏から拒否された。さらに性トラブルの加害者であるがゆえに、二次加害を避けなければならない立場だ。また係争中の事案であることもあり週刊金曜日の記事に対して反論も釈明も行わなかった。言いかえるなら、X氏は菅野氏の弱みにつけこんで彼の謝罪や釈明を事実上封じた上で、週刊金曜日に自分の主張だけを流したと言えよう。係争中だから記事にしてはならないという決まりはないが、こうした経過を知ってしまうとX氏のやり方に卑劣さを感じざるを得ない。こうしたやり方は、社会的制裁を通り越した個人的な報復感情による仕返し、嫌がらせとしか感じられない。

 週刊金曜日としてはこうした経緯を把握したうえで、もっと慎重に対応すべきだったと思う。事実に争いはないのだから、裁判が終わってからの公表でもよかったのではないか。被害者が報復のために週刊金曜日を利用したとも捉えられるし、週刊金曜日が被害者の報復に加担したとも捉えられるが、両方だったのではないかと感じる。

 X氏が週刊金曜日の記事の拡散を自ら画策したことについては、某ブロガーの告発記事からも明らかだ。私はX氏に利用された某ブロガー(菅野氏とは関わりのない性被害者)が、非公開前提のツイッターのグループメッセージでのやりとりを公開し、X氏のツイッター名まで公開したのは行き過ぎた行為だと思っているので、ここでは某ブロガーの記事をリンクさせることはしない。しかし某ブロガーが公開したやりとりを読んで、X氏は私的制裁のために他者を利用する人物であると感じた。X氏の発言や第三者を利用した拡散工作にもX氏の強い報復意識を感じる。

 しかも、週刊金曜日の記事のゲラのPDFファイルに週刊金曜日側が「うんこ」という名称をつけたことや、X氏が菅野氏を「うんこ」と称していたことも明らかになっている。いくら非公開でのやりとりであっても、第三者である報道人が被害者に同調して加害者を侮蔑する感覚に驚きを禁じ得ない。

 この件では、週刊金曜日のステマ疑惑を主張している人もいるが、私はその意見には与しない。ステマというより被害者の報復行為への加担であり、嫌がらせに近いと思う。

 私はどのようなトラブルにおいても報復行為には賛同できない。第三者である報道機関が個人の感情に基づいた報復、すなわち仕返し行為に加担することもあってはならないと考えている。報道機関が批判記事を書くのであれば公益性こそ重視すべきだ。報復行為は憎しみの連鎖を生むだけで決して建設的な問題解決にはつながらないし、場合によっては墓穴を掘ることにもなる。

 とは言うものの、被害者自身が違法行為や不法行為を伴わないやり方で報復するならそれは自由だろう。もしX氏が菅野氏に仕返しをしたいならば、ブログなどを利用して被害者自身が発信者となって責任を負うのが筋ではなかろうか。公表時期に関しても、菅野氏側に釈明や反論の場を与えるために裁判が終わってからにするのが公平なやり方だと思う。

 私的制裁のために民事訴訟を利用したり、自分自身で矢面に立とうとせずに報道機関を利用したり、その記事の拡散に菅野氏とは何の関わりもない性被害者の女性を利用するというX氏のやり方は、嫌悪感しか抱かせない。一方で、X氏との闘争を避け沈黙を貫いた菅野氏の態度は評価できる。

 何度も書いていることだが、私は自分の利益(あるいは復讐)のために他人を利用する人が大嫌いだし、たとえ被害者であってもそのようなことをやっていいとは思わない。

2017年6月15日 (木)

民主主義が殺された日

 今朝、平成の治安維持法と言われる共謀罪が強行採決された。民主主義が殺されたこの日は忘れられない日になるだろう。あとは安倍首相の撤退と強行採決された数々の悪法の廃止を求めていくしかない。以下に今日の連続ツイートを貼り付けておく。

今の状況を見ていると「共謀罪が成立」というより「国会が死んだ」「民主主義が殺された」と言う方が的を射ていると思う。それほどにまで今国会はまともな答弁もできないまま、「禁じ手」まで使って自暴自棄というか破れかぶれで共謀罪強行採決に踏み切った。テロといっても何ら大げさではない。

安倍政権が多数決で共謀罪の強行採決をやることは、ずっと前から予想はついた。安倍首相のやり方は論理ではなく安倍1強という権力を盾にした政治の私物化だ。まさにエゴイズム、独裁そのものだ。そしてこれこそ安倍氏の本質だ。それを支えているのが良心を捨てた自民党議員であり公明党議員だ。

しかし残念ながらそれを見抜けずに自民党を支持して過半数の議席を持たせてしまったのはわれわれ国民であることも認めなければならない。この原点に立ち戻らずに自民党に政権を任せつづけたら、たとえ安倍首相が辞めたとしても悪政は変わらないだろう。良心を捨てた政治家に民主政治はできない。

私たちが忘れてはならないのは安倍首相と自民党が恐怖政治によって政治を私物化しているという事実だ。それが今国会でいっそう明確になった。安倍首相は国民の幸福などこれっぽっちも考えておらず、アベノミクスという虚構をかざして国民を騙し、自分の望む独裁国家をつくることに狂奔している。

こんな狂った政権を決して存続させてはならない。マスメディアが政権による圧力で死に体なら、一人一人がこの腐敗した独裁政治について語り伝えていくしかない。森友問題・加計問題で目が覚めつつある人はそれなりにいるだろう。自民党に疑問を抱く人を増やしていくしかないのではないか。

だから、森友御問題・加計問題の追及を緩めてはならない。安倍首相の政治の私物化をさらに白日の元に晒さなければならない。憲法を踏みにじり、政治を私物化し、国会をとことん愚弄したあげく民主主義を殺した安倍首相を辞任に追い込むべきではないか。

そして次の選挙で野党が過半数をとれれば安倍独裁政権が1強体制のもとで強行採決をした数々の悪法や共謀罪を廃止に追い込むことも可能だ。悪法廃止への道のりは決して平坦ではないが、それしかないように思う。

2017年5月24日 (水)

日本人は自民党が「立憲主義廃絶への一本道」を進んでいることを理解しているのか?

 今日(5月24日)の北海道新聞で、思想家の内田樹さんが「立憲主義 廃絶への一本道」と題して、半数以上の有権者が安倍政権を支持していることについて論じており、興味深く読んだ。東京新聞にも同じ記事が掲載されたようだ。

 内田氏は共謀罪が成立したなら、政府は市民が市民を監視し隣人を密告するシステム作るだろうと指摘している。監視社会をつくり市民が密告するシステムをつくれば、政府は労をせず政権に楯突く人物を共謀罪によって弾圧することができるだろう。まさに治安維持法の復活だ。

 内田氏は「私が特に興味を持つのは、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪を経由してやがて改憲に至る文脈である。これは間違いなく立憲デモクラシーの廃絶と一党独裁をめざす一本道なのだが、なぜか『国民主権を廃絶する』と明言している政党に半数以上の有権者が賛成し続けている」と指摘したうえで、その理由について見解を述べている。

 内田氏の答えはこうだ。「戦後生まれの日本人は生まれてから一度も『主権者』であったことがない。家庭でも、学校でも、部活でも、就職先でも、社会改革を目指す組織においてさえ、常に上意下達の非民主的組織の中にいた」

 まさしくその通りだと思う。日本社会全体に蔓延しているのは「自分が損をしないように行動する」あるいは「自分が得をするように行動する」という意識ではなかろうか。つまり、「こうすべきだと思うからこういう行動をとる」のではなく、常に他者との競合関係の中で損得を基準に判断をすることが習慣になっているのが日本人なのだと思う。

 具体的に言うなら「嫌われないためにこうする」とか「評価してもらうためにこうする」という風に。だから個人の主体性というものがなく、常に他者の評価で自分の行動を決める。大人から子どもまでこうした判断の仕方が身にしみついているから、政治においても「主権者」の意識がないのだ。もっとも、これは裏返せば無責任ということでしかない。

 無責任といえば、福島の原発事故においても事故を起こした東電や、安全神話で国民を騙し国策として原発を押し進めてきた人たちは、事故から7年も経った今でも誰も責任をとっていない。福島の子ども達に甲状腺がんが多発しても、もはや報道すらろくにされない。結局、なにもかもうやむやにして再稼働することだけは必死だ。国民全体が無責任体質といえるのだろう。

 内田氏は、社会改革を目指す組織ですら上意下達だと指摘しているが、日本の組織では執行部にその他大勢が従っているだけの場合が多い。組織の構成員の大多数がリーダーや執行部におまかせなのだ。こういう組織は独裁的になりがちで、組織内部に上下関係が生じやすい。特に組織が大きくなるほど非民主的な組織になりがちだと私は捉えている。辺見庸氏なども組織に非常に批判的だが、私は「組織すること」が問題なのではなく、組織を構成する人たち個々の意識の問題ではないかと思っている。いずれにしても、社会改革を目指す組織が独裁的であれば、独裁政権とどう違うのかということになりかねない。

 内田氏はさらにこう指摘する。「日本の統治者のさらに上には米国がいる。米国の国益を損ない、不興を買った統治者はただちに『日本の支配者』の座を追われる。これは72年前から一度も変わったことのない日本の常識である。統治者の適否の判断において『米国は決して間違えない』という信ぴょうは多くの日本人に深く身体化している。それがおのれの基本的人権の放棄に同意する人たちが最後にすがりついている『合理的根拠』なのである」

 私には「自民党がやることに大きな間違いはない」あるいは「自民党以外には政治を任せられない」と本気で信じている人たちがそれなりにいるとしか思えないのだが、こうした思い込みが「米国は決して間違えない」という思い込みに通じているのではなかろうか。

 いずれにしても、日本人が主体性を持っていないが故に、安倍首相のような独裁者が現れたら容易に騙されてしまうのだろう。自民党を支持している人たちの多くは、自民党が「国民主権を廃絶する一本道」を歩んでいるという認識すらないのかもしれない。

 米国ではトランプ大統領の支持率はかなり低くなっているようだが、これは米国人の方が日本人より主体性があるということの表れだと思う。

2017年4月27日 (木)

「共謀罪」の内容を知らないで賛成する恐ろしさ

 今日の北海道新聞に、『共謀罪内容「知らない」半数 全道世論調査 賛成48%、反対45%』という記事が掲載されていた。

 この調査によると、共謀罪について知らないという人が半数もいるという。ちょっとでも政治に関心を持っている人なら、共謀罪が現代の治安維持法と言われているほど問題だらけの恐ろしい法律であり、過去に3回も廃案になっていることくらい知っているだろう。

 それが今の国会で「テロ等準備罪」と名前を変えて提出され、安倍首相はいつものごとく成立に向けて邁進している。それにも関わらず「内容を知らない」人が半数もおり、30代以下では70%もが知らないというのだから驚きを禁じ得ない。しかも、知らないという人の方が賛成している人の割合が高いという。恐らくこのような人は「テロ対策」だと信じ、政府のやることに疑問を抱いていないのだろう。しかし、中身も知らないで賛成か反対かを判断してしまうということこそ恐ろしい。

 北海道新聞でも共謀罪の問題点についてはかなり力を入れて報道しているし、週刊誌などでも報じられている。今や、大半の人がインターネットを利用しているのであり、共謀罪について知ろうと思えばいくらでも知ることができる。それにも関わらず、「中身を知らないけれど賛成」という人が多いというのは、政治に関心がないということに他ならない。政治は政治家に任せておけばいいと思っているのかも知れないが、民主主義というものを全く理解していないに等しい。

 若者の政治離れは今に始まったことではない。若い人たちの間では「政治の話しをするのはウザい」というような雰囲気があるのではないかと思う。私の若い頃もそうだったけれど、日本の若者達は政治の話しを好まないどころか敬遠する。

 それでも、私が若い頃は社会的な活動に参加している人たちは一定程度いた。私も自然保護運動に関わってきたが、自然保護運動は熟年者だけではなく20代、30代の若い人たちによって支えられていた。ところが、今、自然保護運動に関わっている人たちの大半は高齢者だ。つまり、かつての若者がずっと続けているのであって、次世代がまったくと言っていいほど育っていない。恐らく、これは全国どこでも同じ傾向だと思う。

 だから、シールズの出現は大きなインパクトがあったが、彼らのような若者は全体からみればやはり少数派だ。そして、彼らを叩く人が溢れている。自分の意見を主張することすら叩かれてしまう、恐るべき国になっている。

 社会問題に目を向けようとしない若者が当たり前になり、共謀罪の中身も知らずに賛成してしまう。これはあまりに深刻な事態だ。この背景には、政治に無関心な若者をつくってきた大人たちの責任も大きい。

 たとえば、中学や高校に入れば多くの生徒は朝から夕方まで部活動に追われる。そして進学のための受験競争。社会のことについて考えるような時間的余裕はない。しかも、学校では嫌われないよう、いじめられないようにとSNSでの繋がりを求め、人間関係で神経をすり減らすような毎日。政治に目を向けるような精神的余裕もない。大学生になればアルバイトや就職活動に追われるし、就職先では長時間労働やパワハラがつきまとう。

 競争に追われ、自由時間を奪われ、人間関係で精神的に疲弊し、政治や社会問題に関心を持てるような状況ではない。大半の大人や子どもが「波風を立てない生き方」が良いと思い込み、事なかれ主義だ。部活、受験競争、SNS、就活、長時間労働、事なかれ主義・・・どれも大人たちが作りだしてきたものではないか。要は、「考えない人間」「事なかれ主義の無責任な人間」をつくりだしてきたのだ。そしてこの政治への無関心が、選挙にも行かない人たちを生みだしているのではなかろうか。

 共謀罪に賛成する人が、政府の「テロ対策」という口実を信じ、戦後の政治の大半を担ってきた自民党が国民に不利益な法律をつくることはなかろうと本気で思っているのなら、まさに政治を牛耳ってきた自民党の企ては成功したと言っていい。

 共謀罪のことを知らない人に知ってもらいたい。共謀罪とは、実際に実行しなくても二人以上の人が犯罪行為の相談をしたり計画をたてるだけで犯罪になるという法律だ。「考える」という行為が犯罪になりかねない。そして、その対象となる犯罪の範囲がとてつもなく広い。先日も話題になったが、森林法違反に該当するきのこ採りも対象になるし、著作権法違反も対象になる。テロとはおよそ関係がない違法行為について、二人以上で相談をしただけで犯罪になり得る。

 こういう法律がまかり通れば、市民が疑心暗鬼になり、周りの人の顔色を伺い監視をすることになりかねない。気に入らない人を密告する人も出てくるだろう。国民が委縮し、本音を語ることも怖れるようになるのではないか。考えただけでもぞっとする。

 一方で、公職選挙法、政治資金規正法、政党助成法などはすべて対象犯罪から除外されている。公文書電磁的記録の毀棄罪も除外、警察などの特別公務員職権濫用罪、暴行陵額罪も除外、と、政治家、官僚、警察などの公権力を私物化するような違法行為はことごとく除外されている。

 なぜこんな法律をつくりたいのかと突き詰めれば、政府に楯突く者を黙らせることが目的としか思えない。政権にとって都合の悪い人を監視し、共謀罪に該当する行為を探しだせば犯罪者に仕立て上げられる。こうやって国民から自由を奪い、独裁国家をつくりあげたいということだろう。独裁政治をするために、これほど都合のいい法律はない。

 共謀罪の恐ろしさを理解している大人たちは、せめて自分の子や孫に、あるいは身の周りの若者に共謀罪の危険性を伝えていく責任がある。テロ防止などと言うのは、政治に関心のない人たちを騙すための口実にすぎないと。

2017年4月14日 (金)

総理夫人付公務員を私物化した昭恵夫人の責任

 昨日のツイートを再掲しておきたい。

首相夫人付の国家公務員の責任に関する議論をツイッターで見かけた。彼女たちに責任がまったくないとは思わない。たとえば昭恵夫人の選挙活動に随行して選挙運動の手伝いをしたのは明らかに違法行為だろうし、本人たちに全く問題意識がなかったとは考えにくい。

昭恵夫人の私的な活動に同行したことも、公私混同であり適切な行動だとは思わない。しかし、仮に彼女たちが不適切だと認識していたとして、いったいどんな行動がとれたのだろうか? 昭恵夫人に「私的活動の補佐はできません」と言って断るということが容易にできる立場なのか?

あるいは上司に「昭恵夫人から私的活動への随行を求められているが、公務とはいえないので拒否したい」と相談したとして、安倍首相の言いなりになっている人たちに果たして認めてもらえただろうか? 悩みつつも、出向している身にとっては一時の我慢だと考えても無理はなかろう。

もし、そういう状態がどうしても我慢できないのなら、仕事を辞めるという選択肢しかないように思う。しかし、彼女たちは自分の意思で夫人付の秘書をしているのではなく命令によって配属されているのだから、そんなことで仕事を辞めねばならないというのは公正ではない。

この件でまず質さなければならないのは、公私混同して公務員を私物化していた昭恵夫人の責任だろう。5人もの公務員の秘書を付けて自由に使っていた以上、自分が公人と同然であることくらい自覚していただろうし、自覚していなかったなら非常識というほかない。

昭恵夫人とともに責任を負わねばならないのは秘書の上司だ。上司には部下の監督責任があるし、出張命令を出すのも上司なのだから、出張が適切かどうかの判断を下すのは上司の仕事だ。「部下が勝手にやった」などというのなら上司としての責任放棄であり上司として失格だ。

安倍首相をはじめ官邸の人たちも、夫人付の公務員が昭恵さんの私的活動にまで駆り出されていることは分かっていただろうし、それを黙認していたならやはり大きな責任がある。夫人付秘書の責任を考えるなら、彼女たち個人より彼女を使っていた人たちの責任の方が遥かに重いと私は思う。

昭恵夫人こそまず公私混同について認め、秘書や国民に謝罪する立場ではないか。自分のために働いてきた彼女たちを守るというのが昭恵夫人の取るべき行動だろう。ところが、公私混同が明らかになってからというもの、自分の非を認めるどころかどこかに雲隠れしてしまったようだ。

「総理夫人の私的活動に随行する」という公務員として不適切な行為をさせたり、それを許容したり黙認した者こそ大きな責任を負わねばならない。部下を守るべき立場の者が、あろうことに部下だけに責任を押しつけるのであれば、責任放棄であり人権侵害でありパワハラではないか。

今や、巷には自己責任論が溢れている。もちろん個人が判断したことの結果責任は本人が負わねばならない。しかし、上下関係が明瞭な組織においては、すべての判断が個人にあるわけではないし、すべての責任が末端の個人に帰結するわけではない。

森友学園問題も同じで、複雑に絡み合った利害関係の中で関わった人々それぞれに責任があると思うが、強い権限を持っている者ほど責任は重い。ところが、責任ある立場の官僚はだれ一人責任をとろうとはせず、籠池氏にすべての責任を押しつけようと躍起になっている。

何でも自己責任で終わらせてしまえば、より大きな責任を負っている人を見逃し、責任の小さい者だけに罪を押しつけることになりかねない。物事を大局的に捉えず、自己責任ばかりに目を向けると人権侵害に加担することになる。森友問題は広い視野で見ないと、本質を見誤ってしまう。

2017年4月 9日 (日)

森友学園問題で明らかになった右翼による政治の私物化

 森友学園問題は今年2月9日の国有地の8億円の値引き発覚報道から始まった。本来なら国有地という国民の財産がなぜ破格の値段で売却されたのかという疑惑を解明しなければならないはずだ。ところが、この問題はどうやら安倍政権にとってきわめて不都合なことのようだったらしく、2カ月たった今も疑惑はなにひとつ解明されないまま幕引きしようと必死になっている。

 どうやらこの森友学園問題は、安倍1強体制をつくりあげ改憲に向けてとんとん拍子に進んできた安倍政権にとって想定外の地雷だったらしい。学校法人森友学園理事長の籠池氏の教育方針に共鳴し懇意にしていた安倍首相夫妻だが、疑惑が発覚し、籠池氏が「安倍首相から100万円の寄付をもらった」との話しを暴露した途端、籠池氏を潰しにかかった。

 3月23日の籠池氏の証人喚問では、疑惑解明などそっちのけで籠池氏を偽証罪で告発するための追及の場と化した。さらに同志だったはずの日本会議も、籠池氏はすでに会員ではないと切り捨てた。籠池氏を利用して瑞穂の国記念小学院の開校を推し進めてきた人たちが、一斉に手のひらを返してしまったのだ。籠池氏の思想には100%賛同しないが、彼らの裏切りには唖然とさせられる。利益が一致するときは利用するが、不利益になれば簡単に切り捨てる。彼らは信頼関係で結びついているわけではない。籠池氏はそれを身にしみて理解しただろう。

 安倍首相は国会で「私や妻が(売却に)関係したということになれば、首相も国会議員も辞める」と言った。籠池氏と昭恵夫人付職員のファックスや手紙という証拠からは、安倍首相夫妻は土地の売買に関与していたとしか考えられないのに、「ゼロ回答」「公務ではない」と言い張ってシラを切り続けている。安倍首相が頑なに否定して支離滅裂な言い訳をすればするほど、反旗を翻した籠池氏側は徹底抗戦の姿勢を見せて泥沼化しているように見える。

 森友学園に関する公文書がすべて廃棄されたとは思えないのだが、国は「ない」と言って何も出さない。ここまでして隠すのは、安倍首相の政治生命がかかっているからに他ならない。

 その後、昭恵夫人に関してはいろいろな話しが飛び交っている。昭恵夫人は、政府による便宜供与の疑惑がもたれている加計学園が経営するこども園でも名誉園長を務めている。また、公務員の秘書を選挙運動に連れ回したり、私的な活動や旅行にまで同行させたというのだから、公私混同には呆れるばかりだ。たとえ法的責任がないとしても、道義的責任は免れないだろう。

 ところが政府は疑惑解明を拒み続け、その理由が完全に論理破綻しているのに誰も辞職をせずに平然としている。民主党政権時代、鉢呂経済産業省(当時)は「死の街」発言で辞任に追い込まれたが、森友学園事件では関係する公人は誰ひとり責任をとっていない。そして、疑惑をうやむやにしたまま共謀罪の成立に向けて突っ走っている。こうなるとすでに独裁政治というほかない。

 そもそも森友学園問題の発端は国有地の8億円の値引きだったが、本質はそこではない。アッキード事件とも呼ばれるようになった首相夫人も絡むこの事件の本質は、安倍首相の思想信条がまさに極右のそれと同じであり、日本の政治が日本会議をはじめとした極右団体に乗っ取られ安倍首相夫妻に私物化されているという現実だ。

 菅野完氏の「日本会議の研究」を読んだ人ならば、森友学園事件によって、この国の政治がすでに右翼に牛耳られており、民主主義などもはや「死に体」であることをはっきりと感じたと思う。

 ところが、おそらく多くの国民はそこまでの危機感を持っていないのではないかと思う。なぜなら、マスコミは8億円の値引き問題や100万円の寄付、安倍首相の言い訳は報じても、森友学園の瑞穂の國記念小學院の開校を後押ししていた右翼団体のことはほとんど報じないからだ。新聞の森友学園に関する記事にも「日本会議」とか「極右」という言葉がほとんど出てこない。日本のマスコミにとって「極右」とか「日本会議」という言葉はタブーになっているのだろう。これではネットで情報をチェックしている一部の人にしかこの問題の深刻さが分からないだろう。

 安倍1強政権とは結局のところ、自民党の議員が自分のポストや政治家生命を最優先して安倍首相に媚びへつらいイエスマンになっているゆえの産物だ。彼らにとって大事なのは国民ではなく自分の利益でしかない。安倍首相は信頼によって支持されているわけでは決してない。このような政権は、足元を掬われたときにいつまで持ちこたえられるのだろうか。

 おそらく多くの日本人は戦前・戦中のような国に戻りたいとも思っていないし、米国の戦争に協力するといっても自衛隊が軍隊になって協力するくらいにしか思っていないだろう。しかし安倍首相が目指しているのは国民から主権を奪い、国のために命を差し出すことを強要する国だ。森友学園問題がこのままうやむやにされ安倍1強政権がまかり通るなら、この国は一気に極右の独裁政権になり、国民から自由が奪われる日はそう遠くないと思う。

 私は日本人の最大の欠点は「空気を読んで波風を立てない」ことだと思っている。これが美徳であるかのように思っている人もいるようだ。しかし、言い替えるならば「自分の利益のために見て見ぬふりをする」ことだ。つまりは主体性がなく自己中であるということであり、安倍1強体制を支えている今の自民党の国会議員と何ら変わらない。日本が真の民主主義国家になれるか、あるいは極右の独裁国家へと落ちていくかは、国民が「空気を読んで波風を立てない」生き方を捨て、主体性を持てるかどうかにかかっていると思う。

2017年3月16日 (木)

安倍政権を支えている褒賞システム

 昨日の内田樹さんのツイートを見て、安倍首相のあの強引な姿勢がものすごく納得できた。内田さんの連続ツイートは以下。

 安倍首相が喜ぶことをする、たとえば「日本会議に入る」「靖国に参拝する」「教育勅語をほめたたえる」・・・それに応じて褒賞が与えられる。なんのこっちゃない、安倍首相はご褒美をあげることで、人を操っているのだ。

 安保法制のときの「人間かまくら」による強行採決が思い出されるが、ああいうことをやればもちろん褒賞の対象になるのだろう。稲田朋美防衛相などはきっと沢山のご褒美をもらっているに違いない。安倍首相の取り巻きにあれほど日本会議のメンバーが多いのも頷ける。安倍首相の任期延長を画策していたのもなるほどと思う。閣僚人事を見れば、納得するしかない。安倍首相の強気は、こうしたシステムによって支えられていたのだ。

 しかし、こんな子どもじみた褒賞システムに大の大人が安易に乗っかりちやほやされていると思うと、気分が悪くなる。いったいこの人たちはどこまで主体性がないのか! どこまで自分のことしか考えていないのか! こんな人たちは二度と政治家にしてはならないと思う。

 森友学園事件にしても、菅野完氏・籠池氏の爆弾発言によって裏が少しずつ見えてきた。この問題はもちろん籠池氏による詐取疑惑だけでは済まされない。森友学園事件の背景には間違いなく日本会議などの右翼団体と政治家、官僚が深く関わっている。しかも彼らはご褒美目当てに安倍首相が喜ぶことをやったということなのだろう。安倍首相は自分の思想の実現のために、自分に仕える政治家や官僚、そして極右組織と組んで動いていたがゆえ、平然と強行路線を突っ走っていたのだ。

 政権内では醜い責任逃れが繰り広げられている。恐らく、今安倍首相は相当にうろたえているだろう。そして対策に必死になっているに違いない。さて、今までのように取り巻きたちは安倍首相を庇いつづけるのだろうか? もし安倍首相が持たないような事態になれば、褒賞システムなど何の意味もなくなるだろう。今後の成り行きによっては、これまで安倍首相を持ちあげ擁護してきた人たちも態度を翻すかもしれない。

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