政治・社会

2017年2月13日 (月)

インターネットという凶器

 私はもともとアナログ人間で、パソコンやインターネットが普及しはじめた頃もすぐに飛びつく気にはなれずに様子を見ていた。なぜなら、ちょっとした手違いや故障などで文書やデータなどが全て消えてしまうのではないかという恐怖があったからだ。

 しかし、インターネットが普及して周りの人が次々と使うようになると、メールが使えないと他の人たちとのやりとりに参加できないし、インターネット上の情報も得られず不便を感じるようになった。また、講演会や学会での発表ではパワーポイントが必須になってきた。そんなわけでパソコンやインターネットを利用せざるを得なくなり、アナログ人間などとは言っていられなくなった。

 インターネットの発達によって、私たちの生活は格段に便利になった。検索をかければすぐにいろいろな情報が手に入るし、新聞やテレビでは得られないニュースや情報も知ることができる。家に居ながらにして買い物ができるし、学会誌などの掲載された学術論文などもどんどんネットに公開されるようになり、文献の入手も楽になっている。

 しかし、利便性追及の裏には必ずといっていいほど負の部分が潜んでいる。インターネットの発達によって、コンピューターウイルスの感染や個人情報の漏えい、嫌がらせ目的の誹謗中傷などに日々晒されるようになった。しかし、それとは比べ物にならないくらいとんでもなく恐ろしい欠点があるのだ。それを思い知ったのが以下の記事だ。

 「テロは口実」 映画『スノーデン』と酷似する日本 

【岩上安身のツイ録】「ここに目覚めた人がいる!」―― 映画「スノーデン」の監督オリバー・ストーンが岩上安身の質問にビビッドな反応!!スノーデンが明かした米国による無差別的大量盗聴の問題に迫る!! 2017.1.18 

 映画「スノーデン」は見ていないが、事実に基づいて作られているのは間違いないと思う。今、私たちはインターネットを利用した監視社会に取り込まれており、もはや世界はサイバー戦争に突入しているという現実だ。トランプ氏が大統領選で勝つようにロシアが仕組んだと言われているが、あらゆるところでネットによる監視と情報収集、情報操作やサイバー攻撃がはじまっている。

 ドイツのメルケル首相の携帯電話が盗聴されていたことが明るみになったが、国の要人は米国に盗聴され監視されていると見るべきだろう。そればかりか、米国では市民のメールが盗み読みされ、インターネットの閲覧履歴を見られ、交友関係まで探られている。

 もちろん、安倍首相が進めようとしている「共謀罪」も、米国と同じ監視社会を目指している。もし、「共謀罪」が成立したなら、日本国民は監視対象となり政府に楯突く人は間違いなく監視されることになるだろう。しかも日本はマイナンバーで国民を管理しようとしている。共謀罪が成立したら独裁国家になるのは容易いし、真実を伝えようとする告発者は口を封じられる。共謀罪の「テロ防止」などというのが口実に過ぎないということをスノーデン氏は身を持って警告している。

 それだけではない。岩上安身さんは、こんなことを書いている。

スノーデンは、日本の横田基地内で働いていた頃を述懐して、NSAは日本でも盗聴をしていたと証言している。その内容についてスノーデンの言葉を、ストーン監督は映画の中でこう再現する。「(日本への)監視は実行した。日本の通信システムの次は、物的なインフラも乗っとりに。ひそかにプログラムを、送電網や、ダムや、病院にも。…もし日本が同盟国でなくなった日には、彼ら(日本)は終わり。マルウェア(不正な有害ソフト)は日本だけじゃない。メキシコ、ドイツ、オーストリアにも」。こうしたスノーデンの言葉に、映画では日本列島から電気の灯りが消えてゆく、全電源喪失のイメージ画像が重ねられる。

 これが事実なら、インターネットを悪用して特定の国のインフラを停止させ壊滅状態に追い込むのは簡単なことだ。もちろん米国はこのマルウェアの件は事実だとは決して認めないに違いない。しかし、大半のインフラがコンピューターで制御されている現代において、これは核戦争と同じくらいのインパクトがある恐怖だ。原発をメルトダウンされることだって可能だろう。一国をボタンひとつで壊滅状態にできる。まさしく「サイバー戦争」の時代に突入している。

 もちろんこんなことを実行したなら米国は世界から糾弾され信用は地に落ちる。しかし、マルウェアが絶対に起動しないという保証もない。日本が米国との同盟関係を解いたなら、マルウェアの恐怖にさらされる。さりとて米国の望むように共謀罪を成立させ平和憲法を改悪したなら、日本は米国に思いのままに支配され奴隷状態になるだろう。オリバー・ストーン監督は「日本は米国の人質」と言っているそうだが、まさに、追い詰められた状態ではないか。

 インターネットは使い方によっては簡単に凶器となり、人々の命まで簡単に操作できる。のほほんとインターネットの利便性に浸っているどころの話ではない。原子力が平和利用の名のもとに原発という凶器になったように、インターネットも同じ道をたどるのかもしれない。

 利便性を追求してきた人類に襲いかかるのは、サイバー戦争による自滅なのだろうか? それとも核による自滅なのだろうか?

 これを避けるためには人々が競いあうのではなく協力的な社会をつくっていくしかないと思うのだが、果たしてそれが可能なのだろうか。私たちには、これを何とか食い止める良心と時間が残されているのだろうか。

2016年12月 1日 (木)

怒りが止まらない

 怒ったところで、不平不満を言ったところで何も解決しないのは百も承知だ。でも、やはりこのところずっと怒りの気持ちが収まらない。もちろん安倍政権の暴政に、だ。

 秘密保護法や安保法制の強行採決で安倍政権が何をしようとしているのかは一目瞭然だ。公文書の情報開示をしても黒塗りだらけ。そして、つい先日は南スーダンでの自衛隊の駆けつけ警護で平和憲法をないがしろにした。権力に都合の悪いことは国民に知らせず、戦争をする国づくりに血道を上げている。そして事態は安倍首相の思うように進んでいる。

 マイナンバーカードの導入は国家権力が国民を監視し、管理することにある。国民がマイナンバーカードを持つかどうかは自由だとしていたのに、一年そこそこで健康保険証と兼用にして強制的に持たせようとか、図書館の利用カードとして使えるようにしようと画策している。個人の資産や思想まで国が監視するというのがマイナンバー制度。ゆくゆくは徴兵に利用しようと考えているのかもしれない。

 今や、労働者の4割が非正規雇用となり、子どもの6人に1人が貧困だというのだから、ただごとではない。こうしたことを改善するどころか、さらに残業代ゼロ法案やら年金カット法案という国民の不利になる法案ばかりを強行に推し進める。そして今度は医療費の負担増。年金だけでは生活が苦しい高齢者が大勢いるというのに、支給額が減らされた上に医療費が増えたらどんなことになるのかは想像に難くない。

 非正規雇用でカツカツの生活を強いられている若者は結婚どころではないし、厚生年金に加入できない人も多い。一方で国民年金の保険料は増え続けてきた。国民年金の未納率は4割を超えるという。今の若い人たちが高齢者になったときには年金をもらえない人が続出するだろうけれど、生活保護等で十分な対応がなされるとは思えない。こんな状態なのに、国民から集めた年金をアベノミクスのために株に投資して大損をしているとのだから目も当てられない。明らかに国の失策であるにも関わらず、すべて国民に背負わせるというのだから、どれほど国民を馬鹿にしているのかと怒りがこみ上げてくる。

 正社員であっても残業やパワハラが常態化し、過労死や自殺が後を絶たない。大企業は内部留保を溜めこむ一方で労基法違反が蔓延し、働くことが命がけになってきている。どうみても異常だ。

 福祉政策も改悪の一方で、特養は申し込んでも何年も待たされる。親の介護のために仕事を辞めざるを得ず、貧困や鬱に陥る人もいる。共働きであっても保育園に子どもを預けることすらままならない。

 「いじめ」があっても学校が積極的に解決に取り組むことをほとんどせず、発覚したら学校や教育委員会は責任逃ればかり。だから子ども達は自分が標的にされないよう空気を読み、波風を立てないことに必死になる。授業は相変わらず詰め込み教育で、自ら考える力をつけさせようとはしない。自民党政権はこうして「抗わない人間」「考えない人間」をつくりだしてきた。日本人はただでさえ協調性を重視する傾向が強いから、教育を利用して主体性のない人間をつくるのはたやすいに違いない。

 今年は熊本に続いて鳥取で大地震があり、つい先日も福島沖で大きな地震があった。火山活動も活発化している。日本は再び大地震や火山噴火に襲われることは間違いないのに、原発再稼働に躍起になっている。さんざん原発の安全神話を吹聴しておきながら、ひとたび福島のような大事故が起きれば、その処理費用や賠償費用は国民に押しつける。詐欺師同然だ。

 公約など全く守らず、数の論理で庶民を苦しめる悪法をどんどん成立させている。こうして庶民にばかり負担を押しつけながら、オリンピックや海外へのばら撒き、米国への思いやり予算などには湯水のごとくお金を使う。これのどこが先進国なのか。

 もはや自分たちの生存が脅かされている状態なのに、日本人は驚くほどおとなしい。なぜ黙っているのか、なぜ選挙にも行かず無関心でいられる人がそれなりにいるのか、私は不思議でならない。

 世論調査によると内閣支持率が60パーセントになったそうだ。安倍首相とトランプ氏との会談が支持率上昇につながったのだろう。私はテレビを見ていないが、どうやらテレビではあの会談で安倍首相をかなり持ちあげていたらしい。トランプ氏にとっては、どこまでも米国追従の安倍首相の訪問は「カモがネギをしょってきた」としか見ていないだろうに、マスコミを通すと逆の評価になるらしい。危機感のない人は簡単にマスコミに操られてしまう。

 日本人は意思表示をせず行動力がないのかといえば、必ずしもそうではない。政治とは関係のないこと、たとえばアイドルグループSMAPの存続を求める署名活動では、1カ月ちょっとで37万筆が集まったという。よさこいソーランのようなお祭り騒ぎは大好きな人も多い。しかし、こと政治に係ることになると途端に白けてしまう。要は、自分が楽しいことに対しては関わるが、自分が不利になるかもしれないような面倒なことには関わりたくないのだ。政治や社会問題に対しては主体性が著しく欠けている。

 もうずいぶん前から、ひたすら米国の顔色をうかがい従うだけの日本政府に心底嫌気がさしていたが、3.11の後にはそれが明瞭な怒りや危機感になりずっと気持ちが晴れない。自民党は、表現の自由をも制約したいという意向だ。今はこうやって書きたいことを書けるが、それができなくなる日もそう遠い将来のことではないのかもしれない。

 今ほど「抗う」「変える」という決意が必要なときはないだろう。しかし、日本人は極めて従順で変化を嫌う国民のように見える。「やっぱり政権を任せられるのは自民党しかない」という人がそうだ。3年間の民主党政権に絶望したという人は多い。しかし、国の無策を棚に上げ、そのツケをすべて国民に押しつける自民党政権がより良いとでも思っているのだろうか? 結局のところ、現政権に不満を抱きながらもあの政党もダメ、この政党もダメと悪いところばかりあげつらうことで、反逆や変化を避けているのではないか?

 辺見庸氏が2002年刊の「永遠の不服従のために」のあとがきにこんなことを書いている。

人間(とその意識)の集団化、服従、沈黙、傍観、無関心(その集積と連なり)こそが、人間個体がときに発現する個体の残虐性より、言葉の心の意味で数十万倍も非人間的であることは、過去のいくつもの戦争と大量殺戮が証明している。暗愚に満ちたこの時代の流れに唯々諾々と従うのは、おそらく、非人間的な組織犯罪に等しいのだ。戦争の時代には大いに反逆するにしくはない。その行動がときに穏当を欠くのもやむをえないだろう。必要ならば、物理的にも国家に抵抗すべきである。たがしかし、もしそうした勇気がなければ、次善の策として、日常的な服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと異議や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである。弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の指示にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけではなく、いわば「だらしのない抵抗」の方法だってあるはずではないか。

 この本が書かれて十数年が経過した今、更に事態は悪化した。日本はもう平時ではなく、戦争へと片足を踏み出している。辺見氏の言う「異議や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒む」というだらしのない抵抗すらしなかった結果、今では暴政のなすがままだ。

 政治に無関心な人たち、あるいはマスコミに踊らされてしまう人たちが、日本の危機的状況を察知して本気で抗わない限り、この国はどこまでも堕ちていくのだろう。そして騙されたと気づいたときは、いくらあがいてもどうにもならない状況になっている。こんな国にしてしまった責任は今の私たち大人にあるのだけれど、そう思うとあまりに切なく虚しく、やるせない。

 それでも私は口を塞がれるまで言いたいことを言い、暴政を批判しようと思う。

2016年11月14日 (月)

トランプの実像と恐怖

 アメリカの次期大統領がドナルド・トランプに決まって一週間が経とうとしている。選挙前までは、平然と差別発言を繰り返し明らかに品のないトランプを選択する人がどれほどいるのだろうかと思っていたが、蓋を開けてみればまさかの当選。安倍首相に心底嫌気がさしている中で、トランプの当選報道を聞いて否応なしに襲ってきたのは不気味な不安であり恐怖だ。

 ネットではトランプ大統領誕生にさまざまな意見がある。TPPはとん挫しアメリカ追従から脱却するチャンスで日本には追い風という前向きな意見もあれば、何も変わらないだろうという意見もある。しかし、私にはどうしてもそんな前向きな捉え方ができないでいた。こんなことを考えたってしょうがないと思いつつ・・・。

 もとよりヒラリー・クリントンが大統領としてふさわしいとは思っていない。しかし、クリントンであったならこれほどの嫌な感触は持たなかっただろう。いったいこの得体の知れない不安や恐怖は何に起因するのか? トランプの強烈な差別発言だけとは言い難い何かをずっと感じていた。

 そんなときにツイッターを通じて目にしたのが以下の記事。1987年に出版された「トランプ自伝」を執筆したゴーストライターによる良心の告白だ。なんとこの本はベストセラーになってトランプの名声を高めたという。しかし、トランプ自伝を書くためにトランプと行動を共にして彼のことを知りつくす著者のシュウォルツは、大統領選の前に本では隠していたトランプの実像について告白したのだ。

 トランプのゴーストライター、良心の告白(WIRED)

 長い記事だが、これを読んで私がトランプに対して感じた嫌悪感の源が何であったのかが、霧が晴れるように理解できた。この記事からトランプの性格を箇条書きにしてみると以下のようになる。

・自己顕示欲が強く、有名になることにとりつかれ、自分を大物に見せようとする。
・トランプがとる態度は、相手を罵倒するかおだてるかの二つしかない。
・金儲けのためにはどんな冷酷な手段もいとわない。
・集中力がない。
・読書に関心がなく、情報源は主にテレビ。
・計算づくで人を操る。
・計算づくで嘘をつき、メディア操作もする。
・人を騙すことに何の良心の呵責も感じない。
・金がすべてだと考えている。
・損得勘定でしか物事を考えず、自分の利益になるかどうかしか眼中にない。

 この記事から浮かびあがってくるのは、肥大した自己顕示欲をもつナルシストであり、自分の利益のために他者を支配・操作する独裁者だ。しかも、良心のかけらもないというのだから、サイコパスといっていいだろう。世の中にはこのような人物は少数ながら一定程度はいるし、単に実業家でいるだけなら無視することもできる。しかし、アメリカという超大国のリーダーということを考えるならもっとも恐るべき資質ではないか。

 資産家で貧困を知らず金のことしか頭にないトランプが、格差社会であえいでいる庶民の声に真摯に耳を傾けて救済するとはとても思えない。もしそのように見える言動をとっていたとしたなら、そこには「自分の利益」を考えての目的があるのだろう。トランプに投票した人たちが裏切られたと知る日はそう遠くないように思えてくる。

 トランプが大統領選に立候補した最大の理由が「注目されたい」という自己顕示欲にあるのなら、選挙演説で言っていたことは当選するために(国民を騙すために)彼が考えた作り話かもしれない。あの具体性のない思いつきのような主張は、そう考えると辻褄があう。現に、トランプは選挙戦のときの主張を軟化させはじめている。ただしあの醜悪な差別発言や罵倒は、彼の本心といえるものだろう。まともな人間は人を操作するために差別発言や罵倒を利用したりはしない。

 シュウォルツが言うとおり、人を騙すことに良心の呵責を感じない人であれば、政治家としてうまくいかずに国民の怒りや反発を招いたとき、あるいは世界の国々から非難されたり孤立したとき、いったいどんな行動をとるのだろう? 想像を絶するような大金が動く取引を、サーカスの芸人のように次から次への積み重ね「生きたブラックホールだよ」とシュウォルツに言わせた人物である。考えれば考えるほど恐ろしい。

 改めて思うのだが、トランプのこれらの性格の数々は、平然と嘘をついて国民を騙し、次々と強行採決をして日本を軍事国家にしたいと切望している安倍首相とほぼ重なるのではなかろうか。その安倍首相が内心もっとも怖れているのはトランプのように思える。トランプが自分の写し鏡であるなら、状況次第で日本は簡単にアメリカから見放される。安倍首相の拠り所がなくなるのである。拠り所を失った安倍暴走政権は自衛隊の軍隊化に必死になり核武装すら厭わないかもしれない。

 そして何よりも恐ろしいのは、トランプのような人物が核のボタンの権限を握ってしまったということだ。トランプが万一他国に対して敵対意識をむき出しにしたなら、何をするのか想像がつかない。

 トランプに関してはハワイ大学でアメリカの研究をしている吉原真里さんによる以下の記事が興味深い。吉原さんは、「選挙翌日のホノルルの様子は、2011.3.11の東日本大震災の翌日の東京と少し似ていました」と言う。それほどまでにショックなできごとだったようだ。

ブログ再開のご挨拶(Dot Com Lovers)

 トランプが当選したあと、全米各地で反トランプデモが繰り広げられた。民主的な選挙で決まったことに関して、なぜアメリカ人はこんな行動を起こすのだろうかといささかいぶかしく思ったのだが、彼らこそトランプに恐怖感や危機感を抱き、声を出さずにいられないのだと気づいた。恐らくあの選挙結果は奈落の底に落とされたような不安を抱かせるものだったのだろう。

 私がトランプにずっと抱いていた嫌悪感は、単に差別主義者とか政治経験がないことからくる不安だけではない。彼の言動からにじみ出る人間性に係るものだ。もちろん多くの米国人もそれを感じているのだろう。

 とりあえず当面の間、トランプは周りの人たちに理解を示すような穏当な態度をとるだろう。もちろん計算づくで。しかし、彼の性格や実像はそう遠からぬうちに取りまきや国民の思い知るところになり、彼に従う人と敵対する人に分かれるだろう。そうなったとき、間違いなく権力闘争がはじまる。格差が拡大してぎすぎすした米国で、果たして穏やかに解決することができるのか・・・。

 自分の利益しか頭にない傲慢で支配的な人間が米国のリーダーになった時点で、世界は更なる危機に立たされたと思えてならない。もちろん、悲観的なことばかり言っていてもどうしようもないし、事実に向き合っていくしかないのだけれど。

2016年10月26日 (水)

労基法を守らせないとブラック企業はなくならない

 電通に入社し一年足らずで自殺に追い込まれた高橋まつりさんの労災認定は、大企業で平然と行われている長時間労働やパワハラを浮き彫りにした。

 こういう痛ましいニュースを聞くたびに、社員をこきつかって死にまで追いやる日本の経営者の歪んだ思考について考えざるをえない。そして、こんな企業が大企業としてもてはやされている現実に震撼とする。

 健康な生活があってこそ、人は能力を最大限に発揮できる。朝から晩まで社員を奴隷のごとくこき使い休日も与えないような会社は、社員を会社の利益のための道具としか思っていないのだろう。大事な働き手である社員の心身の健康を大切にしてこそ、企業としての業績もあげられるし誇りを持てるのだと思うが、日本の経営者にそういう考えの人がいったいどれほどいるのだろうか。

 そもそもこの国では労基法が完全に形骸化している。労基法では、原則として一週間40時間(労働時間は特例措置対象事業場では44時間)を超えて労働させてはならないと定めている。一週間に5日勤務の場合は一日8時間を超えて働かせてはならないということだ。このような労働が当たり前であり前提であるにも関わらず、定時に帰れる職場はいったいどれほどあるのだろう。

 事業者が労働者に残業や休日労働などの時間外労働をさせる場合は、労組(労組がない場合は労働者の過半数代表)と36(サブロク)協定を締結して労働基準監督署に届け出なければならず、その協定で定められた範囲内の残業しか認められない。ただし、36協定を結んでいても時間外労働には上限があり、一か月で45時間、一年では360時間となっている。

 高橋さんの遺族の弁護士が入退館記録を元に集計したところ、月130時間を超えることもあったという。上限の2~3倍の残業をしていたことになるから無茶苦茶だ。電通に関しては労基法の無視がまかり通っているだけではなく、パワハラもあったとされている。これでは心身の健康が損なわれないほうが不思議だ。

 電通がとんでもないブラック企業であることは間違いないが、この国にはこういう苛酷な労働を強いている似たり寄ったりのブラック企業が数えきれないくらいあるのだろう。

 それにしても労働者はなぜ自分の健康より仕事を優先して無理をしてまで自分を追い詰めてしまうのだろう。労基法を知らないのだろうか? 知っていても、抗議したら嫌がらせをされるだけとか、どうせ改善などされないと諦めているのだろうか?

 日本人はとかく同調意識が強く、同僚が残業をしているのに一人だけ定時に帰ることに罪悪感をもつ人が多いのではないかと思う。定時に退社する人に対し、悪口を言うような人がいるとしたら、それこそ心が歪んでいる。「法律で定められた当たり前の労働時間を守ると白い目で見られる」という矛盾した状況が蔓延しているように感じる。こうした労働者の同調行動は会社の違法行為やパワハラを許し、自分で自分の首を絞めることになりかねない。

 それに、「大企業の正社員の地位を手に入れたのだから、できるかぎり頑張るのは当たり前」、「正社員なら残業は当たり前」という感覚もあるように思う。退職をしたいと思っても、労働環境の良い企業に正社員として就職することは困難だと諦めてしまう人もいるかもしれない。そういう理由はたしかに理解できるのだが、労働者がこういう意識で無理をし続ける限り過労死はなくならないし、ブラック企業が改善することも見込めない。

 長時間労働で疲労困憊になったなら、「こんな労働環境は絶対におかしい」という自分の正直な気持ちに向き合って転職を決意したり、労基法違反で会社を告発する勇気を持ってほしいと思わずにいられない。同調意識、同調行動を労組の活動で発揮すれば、ずいぶん状況が変わってくるのではないか。平然と違法行為をして社員を奴隷のごとく使う会社の責任が重大なのは言うまでもないが、一方で自分の身を自分で守るべく行動するのも自立した大人の責任ではないかと思う。

2016年8月13日 (土)

受刑者の人権

 今日の北海道新聞の「各自核論」に、芹沢一也さんによる興味深い論考が掲載されていた。ノルウェーの受刑者の人権に関する裁判所の判決のことだ。以下に内容を要約して紹介したい。

 2011年にノルウェーで、オスロの政府庁舎を爆破して8人を死亡させた後、ウトヤ島で銃を乱射して69人を殺害するという連続テロ事件があった。犯人のアンネシュ・ブレイビク受刑者は最高刑の禁固21年の判決が言い渡され、厳重な警備下にある刑務所で他の受刑者とは隔離されて収監されていた。
 ブレイビクは生活用、学習用、トレーニング用の三つの部屋、テレビやテレビゲーム機(インターネットに繋がっていない)、料理や洗濯のできる設備を用意され、オスロ大学への通信制による入学も許可されていた。
 しかし、ブレイビクは隔離収監は人権侵害であるとして処遇の改善を求めて裁判を起こし、裁判所は「欧州人権条約第3条(拷問または非人道的な待遇・刑罰の禁止)に違反する「非人間的で屈辱的な処遇、処罰」であるとして、ブレイビクの訴えを一部認める判決を出した。
 ノルウェーでは、犯罪は特別の個人の問題ではなく社会の問題であり、刑務所は社会復帰のためのリハビリの場であるとの思想がある。たとえテロリストや殺人犯であっても、それは変わらない。
 「テロは許さない」というノルウェーの人たちは、暴力に対して怒りや憎しみをぶつけるのではなく、愛と思いやりで対峙する戦い方を選んだのである。したがってノルウェーの裁判所が示した見解は、ヨーロッパ・リベラルの甘さなどではなく、「テロには決して屈しない」という強靭な意思こそを示したものである。

 ノルウェーは犯罪者に非常に優しいということは以前に「ニルス・クリスティの言葉」ででも取り上げたが、ノルウェーと日本では刑罰の重さだけではなく、受刑者の待遇も天と地ほどの差がある。それは犯罪者であっても人間として尊重し、社会復帰を目指すという考え方が基本になっているからに他ならない。人は社会との関わりなしには生きていけないし、犯罪もまた犯罪者個人だけの問題では決してない。犯罪者とて私たちと同じ人間であり、非人間的に扱ったなら社会復帰の妨げにしかならないということなのだろう。犯罪者の社会復帰に必要なのは、彼らを罰によって苦しめることではなく、愛と優しさで人間らしさを取り戻すことなのだ。この考えに、私は深く共感する。

 芹沢さんの論考の中にウトヤ島の生存者の「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます」という言葉が出てくる。

 「暴力が暴力を生み、憎悪が憎悪を生む」ということは、私たちの日常生活の中にいくらでもある。自分が誰かから暴力を振るわれたことに対し、相手への報復に執念を燃やしたら、たちまち闘争が始まり収拾がつかなくなる。暴力に対して憎しみで対峙したなら必ず暴力の連鎖、憎しみの連鎖がはじまる。紛争はあくまでも話し合いや裁判などで解決して憎しみの連鎖を絶たねばならない。犯罪者に対しても人間らしい生活を提供し、愛と思いやりによって人間としての尊厳を取り戻すことこそ更生と社会復帰につながるし、憎しみの連鎖を絶つことにもつながるだろう。

 ところが、日本では凶悪な殺人事件が起きるたびに、犯人を極刑にしろとの大合唱が始まる。日本人の多くは、犯罪は犯罪者個人の責任でしかないと考え、暴力に対して徹底的に憎しみをぶつけ、犯罪者を厳しく処罰しなければならないと信じているようだ。そこには「自分は決して犯罪者にはならない」「犯罪者はすべて悪人」という驕りがあるのだろうし、どんな人でも「人は人として対等であるべき」という人権意識が欠落しているとしか思えない。

 暴力に対して憎しみだけをぶつける社会は、必然的に暴力的な社会になる。社会全体が殺伐とし、誰もが対等の人間であることが忘れ去られる。そこに平和や幸福はない。平和憲法を守りたいという人は多いのに、なぜこれほどにまで憎しみが蔓延してしまうのだろう。

 暴力のない平和な社会を望むのであれば、ノルウェーの人たちの理念こそ見習うべきではなかろうか。

2016年3月24日 (木)

莫大な赤字想定のもとに開業する北海道新幹線

 北海道新幹線の新青森~新函館北斗間が26日に開業の運びとなり、浮足立った報道がなされている。しかし、北海道新幹線開業で年間48億円の赤字が発生すると言われているのだから正直いって喜ぶというより「この先、どうするつもりなのか?」という懸念が浮かんでくる。

赤字込みの北海道新幹線 要因に特殊状況(乗りものニュース)

 JR北海道によると、北海道新幹線の場合は以下の三つの理由で他の新幹線よりコストが割高になるという。

①青函トンネルの維持費がかかる。
②青函トンネルで在来線貨物列車と新幹線の共用走行をするため、複雑な線路の維持管理コストが割高になる。
③新青森~新函館北斗間の約150キロメートルという短区間開業のため、コストが割高になる。

 この48億円という年間の赤字予想額は、東京~函館間の移動について鉄道のシェアが現在の約1割から約3割に増加するという前提での計算だ。もし、この通りに増加しなければ赤字額はもっと増えるだろう。

 では、予約率の方はどうなのだろう。JR北海道が3月10日に発表した予約率は「開業日から9日間の平均で約25%」とのこと。

北海道新幹線 予約率25% 初日以外余裕 春休みに期待(毎日新聞)

 記者会見でJR北海道の島田社長は「通常は運行日の1週間前から予約が増える」として「春休みもあり、たくさんの方の予約がその直前になされると思う」と発言している。

 しかし、開業の2日前の予約率はどうかというと、24%しかない。直前になれば予約が増えるなどというのはまったくの外れだった。

北海道新幹線 開業から9日間の予約率24%(陸奥新報)

 こんな調子だから、「鉄道のシェアが1割から3割に増加」などという見通しも甘いのではなかろうか。札幌から東京へは飛行機の便も多いし、格安航空会社ではなくても割引運賃などを利用すれば新幹線より安く行ける。新千歳空港に行く時間を見込んだとしても、新幹線よりずっと速い。開業後間もなくは物珍しさで新幹線を利用する人がある程度はいるとしても、果たしてどれだけ利用者が増えるのだろう?

 この先、札幌まで開通すれば利用者が増加することも考えられるが、札幌までつながるのは14年も先の2030年の予定。この間には赤字が相当深刻な状態になっているだろうから、料金が安くなるというのは考えにくい。札幌までつながったとしても東京~札幌間は5時間以上かかるだろうから、やはり時間は飛行機にはかなわない。しかも札幌から遠い地方に住む人は、新幹線が開通しても東京へは飛行機を利用するだろう。鉄道のほうが飛行機よりも天候に左右されないというメリットはあるが、やはり利用者増には料金がネックになりそうだ。

 JR北海道といえば数年前から頻繁に事故を起こしてニュースになってきたが、赤字体質のために古い車両を使いつづけてきたことも一因とされている。日高線では2015年1月8日に高波で線路の土砂が削り取られてしまい1年以上不通が続いているが、JR北海道は復旧費用を捻出できず、国への支援を求めている。

 JR北海道の鉄道部門の赤字に関しては以下の記事が詳しい。

 北海道新幹線開業でJR北海道がギリギリの経営状態になる?  (株価プレス)

 タダでさえ年間300~400億円という大変な赤字を出しているのに、さらに新幹線で赤字を抱え込むことになる。そのツケはどうなるのか? 運賃に上乗せさせれば利用者が負担することになるし、それではますます新幹線から足が遠のいてしまうのではなかろうか。

 日本全国を新幹線でつなぐという構想は1970年につくられた「全国新幹線鉄道整備法」に基づいているから、JR北海道は赤字を理由に建設を拒否することにはならない。しかし、この先の赤字を国が支援すれば国民の税金が使われることになる。

 新幹線が開通すれば在来線は当然不便になり地域住民に影響がでる。計画を変更して在来線をそのまま維持させるという選択肢もあったと思うのだが、構想や悲願ばかりが先走ったということはなかろうか? 多額の赤字を前提に開業する北海道新幹線に、国の無責任さを感じざるを得ない。

2016年2月 1日 (月)

戦争は人間の本性か?

 人間の最も愚かな側面は、戦争と環境破壊だと思う。同じヒトという種でありながら、憎み合って殺し合い、しかも大量殺戮を続けている生物種は地球上にはヒト1種しかいないだろう。環境破壊は、生物の生存基盤そのものを壊したり汚染することで自ら首を絞める行為だ。戦争は同種の殺戮と同時に環境破壊ももたらす。ともに理性のある者がとる行動ではなかろう。

 放射能汚染も同じで、お金に目がくらんだ人たちが危険きわまりない原子力の利用を促進してきたことが、人類はもとより地球上の生物の生存を脅かしている。21世紀における人類の選択は、地球上の生物の存続を左右することになるだろう。

 しかし、これだけ科学技術が発達した社会でありながら、ヒトはどうして戦争が止められないのだろうか。「戦争はヒトの本性」とか「戦争があるから人口増加が抑えられる」などといったことを口にする人がいるが、本当にそうなのだろうか? やや古い記事だが、以下からもやはり戦いは人間の本性ではないと考えざるを得ない。

「戦いは人間の本質ではなかった」:研究結果 

 アイヌの人たちはチャランケという弁論よってもめごとの解決を図ったという。アイヌ民族がまったく闘いをしなかったということではないにしても、話し合いで争いごとを解決するというのが彼らの基本的なやり方だったのだろう。

 狩猟採取生活をしている少数民族は、自然の中でひっそりと暮らしていて集団で殺し合いをするという話しはまずきかない。以前、NHKのテレビ番組で、狩猟採取生活をしているある民族にはストレスがないと報じていた。彼らは協力して獲物を捉え、食糧を集団の中で平等に分け与える生活をしているが、こうした集団内の協力や平等意識が武力闘争のない平和な生活を維持しているのだろう。狩りに非協力的な自己中な人は、集団内で生きていけないことになる。

 だいたい、同種同士で殺し合いをする動物はほとんどいない。チンパンジーなどには子殺しもあるが、これとて憎しみによる集団での殺し合いではない。ところが、人類はあるときから殺し合いをするようになってしまった。人間がいつまでたっても戦争という殺戮を止められないのは、欲を制御できないからとしか思えない。富を溜めこむようになった社会には富の分配の偏りという不平等が生じ、より多くの富を得ようとする競争があり、こうした社会では不平等と闘争心によって自ずとストレスが蓄積する。

 富の配分が公平で、支配や競争がない社会であればストレスは生じにくいだろうし、ストレスや競争がなく人と人が協力しあう社会であれば、人が憎み合うことも少ないだろう。ならば、人々が平和な暮らしを続けるために必要なのは、富をできる限り均等に配分して格差をなくし、人々が協力しあう社会を構築することだ。

 そして、地球上の資源は限りがあることを自覚し、自然改変をできる限り慎む努力をしつつ再生可能エネルギーを利用していくしかないのではなかろうか。もちろん、だからといって昔のような生活に戻れというつもりはない。自分たちの生存基盤である自然環境の保全を前提にしなければ、どこかで綻びが生じ持続可能な社会は続かない。戦いが人間の本性ではないのなら、意識と努力次第で平和な社会は築けるはずだ。

 しかし、日本は正反対の方向に向かっている。格差は拡大するばかりだし、福祉は切り捨て。今や働けど働けど搾取される非正規の労働者と、年金だけで生活できない高齢者が溢れている。あれだけ大きな事故を起こし放射能をばら撒きながら、原発をやめる気配がない。これでは人々の間に不満やストレスがたまり、攻撃的になるのも当たり前だろう。安倍首相は人々を攻撃的にしておいて、戦争に駆り出そうというつもりなのだろうか。

 これに気づき、理性を働かせていかないと、ストレスをため感情的、攻撃的になった人間は簡単に騙され誘導されてしまう。はたしてヒトは理性をとりもどし、戦争のない社会を構築することができるのだろうか?

2016年1月 3日 (日)

リテラシーが求められる時代

 新しい年を迎えたが、もうここ何年も新年にあたっての感慨はないし、とても楽しい気分にはなれない。ただ、昨年一年を無事に過ごせたことを感謝するとともに、来る年に自分は何ができるのだろうかと考えてしまう。

 とりわけ福島の原発事故以来ずっと重たい気持ちを引きずっているし、心の奥底にいいようのない不安が貼りついている。何の不安かといえば、戦争への道にすでに片足を踏み出していること、被ばくによる健康被害の顕在化と被ばく隠しが始まるであろうこと、再び大地震や大津波あるいは火山噴火などの自然災害に襲われる懸念(再度の原発事故の可能性も含む)、ますます格差が拡大するであろうこと、いつまで自由な言論ができるかわからないこと・・・などなど。

 以下の獣医さんの記事が、今の危険な状況を端的に指摘している。

 今年ほど右に傾いた年はない(そりゃおかしいぜ第三章)

 獣医さんも記しているが、政府は武器製造や開発、輸出を目指し、国立大学が軍事研究にまで手を出す始末だ。つまり科学者に軍事研究をさせて軍事に動員するということだ。戦争への学者の利用であり、こうしたやり方から間違いなく戦争へと誘導する御用学者が生まれるだろう。きわめて恐ろしい事態だ。

 国は科学者まで利用して軍需産業に力を入れ、強引に戦争法を通して戦争へと邁進している。平和憲法はすでに形骸化してしまったうえに、この夏の参院選で改憲を目論んでいる。再び巨大地震が迫っているという予測をしている人たちがいる中で、国民の声を無視して地震大国、火山大国で原発を再稼働させる様は、もはや狂気としかいいようがない。TPPも公約違反。マイナンバーで国民を管理。もう支離滅裂の状況だ。

 それにも関わらず、多くの人が政治に無関心だ。若者たちの多くはスマホから離れられない生活を送っているが、大半はゲームやSNSにうつつを抜かしているという。この情報化時代に、真実を知るための情報収集をするならわかるが、どうやら政治には関わりたくない若者が大半らしい。

 国が集団的自衛権を行使できるようにしたところで、自分には関係がないとでも思っているのだろうか。あれだけ自民党が公約違反をしておきながら、未だに「長年政権を握ってきた自民党がいちばん安心」などと思っている人も多いように見受けられる。これほど危険な状況なのに危機感が希薄で、保身ばかり考えている人があまりに多いと思わざるをえない。

 今年は原発事故から5年目になるが、チェルノブイリの原発事故の経験からも、子どもの甲状腺がんの多発をはじめとした被ばくによる健康被害がいよいよ明確になってくるだろう。政府が事故の過小評価に必死になり汚染地に住民を戻す政策を展開し、未だに誰も原発事故の責任をとらないという状況からも、これから被ばく隠しが行われるのは目に見えている。

 おそらく被ばく隠しに御用学者が跋扈するだろう。首都圏も汚染されてしまった以上、被ばくによる健康被害は関東圏でも明確に現れるに違いない(実際にはすでに現れているとは思うが)。そんな中で首都圏に住む人たちは正常性バイアスに捉われ、御用学者の振りまく安全説に頼ってしまう可能性がある。否、問題は御用学者だけではない。放射能安全説を振りまいたニセ科学批判の人たちや、それに準ずる発言をしている科学者の言説は汚染地に住む人たちに安心感を与える。こうして汚染地の住民がエートスに取り込まれ、原子力ロビーに牛耳られてしまうことこそ警戒せねばならない。エートスについては以下を参照していただきたい。

 <エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか?/その1 
<エートス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その2 
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その3 
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その4 

 今の日本の状況は、すでに浸水がはじまっている沈みかかった船だと思う。ともあれ、悲観していたところでどうにもならないのも事実だ。ならば、自分でしっかりと情報の取捨選択をし、できる限り真実に近い信頼できる情報を広め、間違った言説を指摘することが多少なりとも多くの人の幸福に結びつくのではなかろうか。もちろん一人の人間ができるのは微々たることでしかない。しかし、ただ悲観して何もしないのは状況の悪化に加担するだけだと思う。

 ネット上にはいい加減な情報やデタラメな情報、あるいは荒唐無稽な陰謀論や誹謗中傷が溢れているが、地道に真実を追求しようとしている言論もある。一方で、政府に都合の悪い情報の信用を落とそうと操作する人もいる。そんな混沌とした状況の中で、何が虚偽であり何が事実なのか、また何が真実に近いのかを見極めるリテラシーがこれほど求められる時代もないだろう。

2015年11月26日 (木)

日本国憲法の制定と改憲

 11月24日付けの北海道新聞に、「憲法に平和と民主化の願い」とのタイトルで古関彰一さん(独協大名誉教授)の日本国憲法の誕生についてのインタビュー記事が掲載された。非常に重要なことだと思うので、ここに要点を紹介したい。

・憲法に平和条項を盛り込んだのは日本の議員たちだった。9条がどうしてできたかが分かったのは、1995年に帝国議会の速記録が公開されて判明した。
・知識人らによる民間グループ「憲法研究会」が1945年に統治権は国民にあり、天皇は国家的儀礼をつかさどるとし、自由権を定めた「憲法草案要綱」を発表し、内閣やGHQに提出。
・憲法研究会の案がGHQ草案に盛り込まれ、国民主権や人権条項につながった。
・日本政府は、万世一系の天皇が統治権を有するなど明治憲法とほとんど変わらない「憲法改正要綱」をGHQに提出したが、GHQは一蹴して自分たちの草案を日本に渡した。
・日本政府の「憲法改正要綱」に賛成したのは起草した憲法問題調査委員会委員長の松本蒸治ら一部だけで、昭和天皇すら要綱に疑問を持つ人が出るのではないかと述べた。
・GHQ草案を確定案にするまでGHQは松本らを30時間缶詰めにしたが、同席した外相の吉田茂や法制局の佐藤達夫は押しつけられたとは言っていない。松本の私憤が「押しつけ論」になったのだろう。
・連合国最高司令官のマッカーサーは、日本統治に昭和天皇の存在が不可欠と考えていたため、GHQは天皇に厳しい姿勢で臨むと見られた極東委員会が動きだす前に天皇を象徴的な存在にする民主的憲法案をつくろうと急いだ。つまり、天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった。
・戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった。
 

 ざっと要約するとこんなところだろうか。

 よく言われる米国による押しつけ論に対し、民間グループが提案した案をGHQが採用したということは私も知っていた。あらためて古関氏の解説を読んでも、いわゆる「押しつけ論」は改憲の理由にはならないと思う。

 ところで、これを読んで私が注目するのは「天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった」と「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった」という2点である。

 GHQは象徴天皇制と戦争放棄によって天皇の戦争責任を免責したことになる。ここで頭に浮かぶのは、辺見庸著「1★9★3★7」に取り上げられている天皇の戦争責任問題である。この中で、辺見氏は天皇の戦争責任について何度も言及するのだが、とりわけ印象に残るのは1975年10月31日の皇居で行われた天皇の記者会見における問答である。1975年といえば、私は大学生だったが、情けないことにこの天皇の発言についてはほとんど記憶にない。この問答について「1★9★3★7」から引用したい。(306ページ)

(問い)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかかいいたします。
(天皇)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

 天皇は当然のことながら自分に戦争責任があるという自覚はあっただろう。いわゆる「皇軍」が「大元帥陛下(天皇)万歳」と唱えて南京で大量殺戮をしたのだ。責任がないわけがない。しかし、この正面からの問いに対し「言葉のアヤ」などといって自らの戦争責任を堂々と誤魔化したのだ。これほど無責任で恥ずべきことはない。こういうことを平然と言えたのは、憲法で戦争責任の免責をしてしまったことが関わっているのだろう。

 私は戦争責任について天皇に土下座させて謝罪させればよかったとは思わない。自己の責任を認めることができない者に無理矢理謝罪をさせたところでどれほど意味があるのかと思う。ただし国民は、とりわけ知識人たる者は、この天皇の発言に対し毅然と異を唱え批判する必要があっただろう。中国での大虐殺という加害ならびに太平洋戦争での被害を突き付け、天皇の戦争責任を国民の前にきっちりと明らかにするべきであった。しかし、それがなされぬまま日本の無責任体質は今に及んでいる。ふたたび戦争をする国へと突き進んでいる今、今後の戦争で生じるであろう加害や被害の責任は誰にあるのか? 平和憲法を持ちながら安倍政権を選んだ私たち国民ではないのか・・・。

 もう一つ、認識を新たにしたのは、「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくる」という米国の思惑である。戦争放棄の裏にこんな事情があったのかと思うと慄然とする。沖縄を犠牲にしての日本の平和などあり得ない。今の辺野古の闘いは、本土の人間にとって決して無関心でいられるものではない。  

11月22日の琉球新報の社説から一部を引用しよう。

 注意したいのはオバマ氏の言動だ。首相の発言に対し、オバマ氏は「感謝したい。米軍も嘉手納より南の基地返還に取り組む」と述べただけである。「唯一」という発言に同意してはいないのだ。
 事実、日本の安全保障政策に多大な影響力を行使してきたアーミテージ元米国務副長官もナイ元米国防次官補も辺野古新基地に疑問を呈している。モンデール元駐日米国大使も「(普天間代替基地の場所について)われわれは沖縄だとは言っていない」と明言した。「辺野古が唯一」だなどと言っているのは日本政府だけなのである。

 憲法によって沖縄に基地を押し付けた米国ですら、もはや「辺野古が唯一」などとは言っていないのだ。それにも関わらず、今も辺野古で抗議行動をしている人たちに暴力をふるい、県民の反対を押し切って沖縄を米国に差しだそうとしているのは安倍政権にほかならない。こんな安倍自民党政権を選んだのは、私たち国民だ。

 私たち無責任な日本人が選んだ安倍首相は改憲に向けてまっしぐらだ。そして、再び戦争という人殺しをしようとしている。平和憲法の制定に米国の思惑があったとしても、それによって天皇の戦争責任が免責されたとしても、自民党主導の改憲は何としても阻止しなければならない。米国にただただ媚を売り、基本的人権すらなくそうとしている安倍政権にNOを突き付けねばならない。

 もし改憲がなされたなら、日本は一気に戦争へと突入し、基本的人権も表現の自由もなくなるだろう。戦前と同じ状況があっという間にやってきて、国民が互いを監視し合い、ずるずると戦争へと巻き込まれていくだろう。今、戦争反対を唱えている人ですら何も言えなくなり、軍国主義へと染まっていくかもしれない。そうなったとしても責任は私たち国民にある。

 無責任体質が染み込んだ日本人に、改憲阻止ができるかどうかが問われている。

【関連記事】
辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」 
辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判

2015年11月24日 (火)

辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判

 以下は11月22日の私のツイート。

①ここ数日、辺見庸氏のブログの日録「私事片々 201511/10~」http://yo-hemmi.net/article/429387467.htmlを毎日読んでいる。辺見氏は以前、日録で国会前のデモを批判していたが、それを一度消した。しかし、最近になってまたそのことを取り上げている。

②11月12日の日録には、安保法制に反対する国会前のデモについて、「安保法制反対をとなえる服従(屈従)的デモのあとにデモ参加者が路上清掃をしたという〝美談〟」をとりあげ、批判している。では、安保法制反対をとなえる服従(屈従)デモとは何をさしているのか?

③11月18日の日録で、共産党機関紙の赤旗が辺見氏の著書「1★9★3★7」についてのインタビューを断った理由についてこう推測する。「ほんとうのわけは、ひところの国会前のデモを、あまりにも「権力迎合的」だとわたしが口汚く非難したからではないですか。」

④辺見氏はさらにこう続ける。「そのことをみとめれば、問わず語りに、あそこには「まっさらの若者たち」だけでなく、共産党や民青の〝別働隊〟が多数入っていた事実を承認することになるので、あなたがたは卑小な沈黙をきめこんでいるのではないですか。」

⑤「まっさらな若者」とはもちろん #SEALDs の若者たちのことだろう。私は現場にいたわけではないし、本当の事情はよくは分からない。しかし、SEALDsの主宰したデモに、共産党や民青のメンバーなどの「別働隊」が入り込んでいたというのはたぶん事実だろう。それだけならまだいい。

⑥辺見氏が批判したのは「別働隊」のとった行動である。21日の日録にこうある。「権力受容体質のニッポンのあんちゃん、ねえちゃんたちは、国会前でやったように、SWATに拍手喝采し、屍体に「帰れ!」コールを浴びせかけ、しかる後に、みんなで血塗られた道路の清掃作業でもやるんだろうか」

⑦ツイッターでも流れてきたが、一部のデモ参加者が警察に逮捕されたとき、デモ参加者の一部がその逮捕を喜び、「帰れ」コースを浴びせたらしい。別働隊が警察にチクったのかどうか私は知らない。しかし、警察による違法逮捕への加担を「権力に迎合」と言わずに何というのだろう。

⑧辺見氏はこの光景に怒っている。安保法制反対を叫ぶ人々が権力に迎合しているのなら、矛盾も甚だしい。共産党別働隊がそれに関わっているからこそ、辺見氏は共産党を「権力迎合的」と批判しているのだ。私も警察によるデモ参加者の逮捕を知ったときには憤りを覚えた。

⑨共産党や別働隊なるものが国会前デモを利用しているというのは、私も感じてはいた。しかし、あえて批判はしなかった。なぜならSEALDsは特定の組織を支持しているわけではないし、来る者は拒まず、去る者も追わないからだ。共産党や過激派が来ていても排除することにはならない。

⑩個人の発言と行動、すなわち個としての主体性を何よりも重視するSEALDsと、上意下達が徹底した日本共産党は、どう考えても根本的なところで歴然と異なっている。相いれないのだ。なのに、共産党がSEALDsの若者たちを評価し国会前デモを大きく報じることにどうしても違和感はあった。

⑪私は徹底して戦争に反対をしてきたという点では日本共産党を評価している。主張にしてもまっとうなことが多い。しかし、共産党という組織内における「支配-服従」の関係だけは嫌悪する。組織に服従してしまう人々が、いったい国家権力に対してどれだけの不服従や抵抗ができるのかと。

⑫そして、はからずもその矛盾が国会前の「逮捕に加担=権力に迎合」という光景で露呈した。いったいこの国の平和運動に個の主体性がどれほどあったのか? それだけにとどまらず、別働隊(だと私は思っているが)のメンバーが個人情報晒しというネットリンチ(暴力)をしでかした。

⑬辺見氏が推測するように、もしインタビューを断った理由が共産党批判なのであれば、やはり共産党に幻滅せざるを得ない。共産党は批判を真摯に受け止める度量がこの危機的状況を目の前にしてもないのかと。なぜ対話ができないのかと。それが身を滅ぼすことにならないのかと。

⑭戦争に片足を踏み入れているときに、反戦平和を唱える共産党の批判をしたくはない。しかし、言っていることとやっていることに矛盾があってはならない。その矛盾を解消し、個の主体性を尊重しないところに未来はないと思う。 

 共産党の志位委員長は、9月22日にツイッターでこんな発言をしている。

150922_2


 志位氏は「共産党アレルギー」が国民連合政府共闘の支障になっていると考えているようだが、そうだろうか? たしかに、共産党と聞いただけで嫌悪する人たちはそれなりにいるだろう。しかし、私は、共産党という組織の内部における「支配-従属関係」を嫌っている人がかなりいるのではないかと思っている。それゆえに共産党から離れて行った人も多いのではないか。さらに、党に対する批判を許さない姿勢も賛同できない。なぜ、もっと批判に対して寛容になれないのだろう。自分たちこそ「絶対に正しい」と思っているのであれば、民主主義を標榜する組織とは言いがたい。

 辺見氏が国会前での権力迎合と共産党のインタビュードタキャンに拘る理由はここにあるのだろう。共産党が安倍政権を批判し、民主主義を主張するのなら、共産党のこの姿勢を変えることこそ必要なのではないか? 党の体質を変えないで「アレルギー」のせいにしてしまう限り、国民からの支持は得られない。私にはそう思えてならない。

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