政治・社会

2018年10月29日 (月)

自己責任バッシングは政権擁護のための責任転嫁

 シリアで反政府勢力に拘束されていた安田純平さんが解放され帰国したことで、ネットでは自己責任論をふりかざしたバッシングが吹き荒れている。高遠菜穂子さんら3人がイラクで拘束されたとき以来、このような事件があると自己責任論が跋扈する。

 では、自己責任とは何なのか? コトバンク(デジタル大辞泉)では以下のように説明されている。

1 自分の行動の責任は自分にあること。「投資は自己責任で行うのが原則だ」
2 自己の過失についてのみ責任を負うこと。

 自分が選択したことの結果責任は自分で負うということであり、リスクも引き受けるということだ。人は生きていくうえで常に選択をしている。日常的なことはもちろんのこと、進学や就職、結婚といったことも自分で選択しなければならない。病気になれば治療についての選択も基本的には本人にある。病気であることを知りつつ治療をせずに放置したなら、その責任は自分で負わなければならない。誰もが常に自分の選択や言動の責任を負って生きているのだ。

 もちろん過失についても責任を取らねばならない。自分の判断にミスがあり他者に迷惑をかけたり損害を生じさせたなら、謝罪をした上でできる限り現状回復の努力をする。あるいは生じた損害を賠償する。さらに、再発防止策を考え実行することが「責任の取り方」だろう。自分の選択や言動の責任を取ろうとせずに他人のせいにする人がしばしばいるが、こういう無責任な人は自立しているとはとても言えない。

 もちろんジャーナリストが取材のために戦場に赴く行為にも自己責任はつきまとっている。安田さんが拘束された経緯は分からないが、彼は拘束される危険性を十分に認識していたはずだし警戒もしていただろう。その上で自分の判断で危険地帯に入り、結果としてつかまってしまった。この際の自己責任とは、拘束されたことを他人のせいにせず、困難を乗り越え生きて帰るためにできうる努力をすることだ。これに関して、安田さんは他人のせいにはしていない。そして彼は3年以上に及ぶ地獄のような拘束生活に耐えて帰還した。彼は自分の判断によって自分の身に起きたことに対し責任を負ったと言えるのではないか。落ち着いたら説明責任を果たすとも言っているのだから、今はそれを待ちたい。

 「自己責任」を振りかざしてバッシングする人たちにしばしば見受けられるのは、自己責任だから国が救出する必要などないなどという主張だ。しかし、「個人の責任」と「国が自国民を救出する責任」はまったく別のことだ。国外で自国民が事件や事故に巻き込まれたなら政府が救出のために尽力するというのは国としての責務だ。

 問題なのは、日本政府は国としての邦人救出の責務を果たしているとはとても思えないことだ。湯川遥菜さんと後藤健二さんがイスラム国に拘束されたときも、政府は中田考さんや常岡浩介さんからの交渉の申し出を断ってしまった。それどころか、湯川さんの救援を計画していた常岡さんは私戦予備・陰謀事件の容疑で警察から家宅捜索を受け、救援の機会を奪われた。日本政府は湯川さんや後藤さんの救出のために尽力するどころか、妨害をしたといっても過言ではない。

 「自己責任だから救出などする必要がない」という意見は、個人の責任と国の責任をごっちゃにして国の責任を個人の責任に転嫁しているにすぎない。だから、「自己責任論」は政府にとって実に都合がいいのだ。

 自己責任論を口にする人は、必ずといっていいほど「個人の責任」と「社会的責任」を混同させている。非正規雇用を増やしワーキングプアをつくりだしたのも、社会保障をどんどん削ってきたのも政治や社会の問題だが、それで生じた貧困の人たちすら「自己責任」だといって切って捨てる。ワーキングプアもホームレスも病気になる人も「自己責任」にしてしまえば、政府は何ら責任がないことになる。「自己責任論」は、社会的弱者を切り捨てるためのまやかしだ。

 そして、そんな弱者切り捨ての新自由主義を推進している人たちこそ自己責任を果たそうとしない。森・加計問題で安倍首相、昭恵夫人、加計孝太郎氏などは国会で説明する責任があるにも関わらず全く果たしていない。

 安倍首相は森友学園問題で「妻や私が関係していたということになればこれはまさに私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」と言っておきながら、昭恵夫人の関与を示す証拠が出てきても一向に辞めようとしない。安倍首相の過去の選挙妨害疑惑(いわゆる「ケチって火炎瓶」事件)に関しても安倍首相は説明責任があるし、事実なら辞任するのが当然だろう。これほど自分の言動の責任を取らない人が首相を続けているのだから、自己責任論を展開する人たちは首相の責任こそ追及するのが筋ではないか。

 ところが、彼らは決して首相の責任問題には言及しない。彼らの自己責任バッシングの目的は安倍政権を批判する人を貶め、不正まみれの安倍政権を擁護することに他ならない。

2018年8月19日 (日)

大手マスコミは報じない前代未聞の総理大臣による選挙妨害疑惑

 ツイッターをやっていると、時として恐るべき情報が目に入ってくる。前回の記事の岡口基一裁判官の件もそうだが、こちらの安倍首相にまつわる重大疑惑は恐らく新聞やテレ部では絶対に報じられないのではなかろうか。何しろ安倍一強政権はマスコミも牛耳っているのだから。だからこそ、多くの人に知ってもらいたい疑惑だ。以下のリテラの記事が詳しい。

安倍首相宅放火未遂事件「18年目の真実」●山岡俊介(前編)

安倍首相宅放火未遂事件「18年目の真実」●山岡俊介(後編)

 同じく山岡俊介氏によるハーバー・ビジネス・オンラインの記事はより簡潔にまとめられている。

ポスト「モリカケ」か?安倍首相に浮上したもう一つの「重大疑惑」  

できれば上記の記事を読んでいただきたいが、かいつまんで説明すると以下のような事件だ。

 1999年に安倍首相の地元の下関市で市長選があった。安倍氏と安倍事務所は肩入れしている候補者の対立候補を落選させるために、前科8犯のブローカーに選挙妨害を依頼した。ブローカーは選挙妨害を実行し安倍氏の支援していた候補者が当選したが、安倍氏側は約束の見返りを実行しなかった。怒ったブローカーが暴力団と組んで安倍氏宅に火炎瓶を投げ込むという放火未遂事件を起こした。この放火未遂事件でブローカーは懲役13年の実刑となったが今年2月に満期出所。ジャーナリストの山岡俊介氏は、出所したブローカーから安倍氏との裏取引の決定的証拠を入手した。

 過去のこととはいえ、総理大臣が選挙妨害という不正を暴力団と関わりのある人物に依頼したということだけでとんでもない話しだ。安倍首相にはさらに森・加計疑惑がある。こんな不正まみれの人物がのうのうと5年も首相の座につき、憲法改悪を目指して3選を狙っているというのだから、恐ろしい限りだ。

 懲役刑となったブローカーの裁判の判決文を引用しているモノシリンさんの記事も興味深い。

君は「安倍晋三宅火炎瓶投擲事件」を知っているか

 モノシリンさんも取り上げているが、この安倍首相による選挙妨害疑惑の証拠を握って果敢に報じている山岡俊介氏は、新宿のスタジオアルタの階段で不可解な転落をして大けがをした。本人はどうしてこんな落ち方をしたのか全く分からないという。

 また、山岡氏に証拠の書面等を渡したブローカーは、その後連絡がとれなくなってしまったという。いったい何が起きているのだろうか。

2018年8月17日 (金)

懲戒にすべきは岡口基一裁判官ではなく東京高裁長官

 東京高裁が「白ブリーフ裁判官」こと岡口基一裁判官に対し裁判官分限法にもとづく懲戒を申し立てたというニュースは7月にネットで報じられていた。例えば以下。

東京高裁が”白ブリーフ裁判官”懲戒申し立て ツイッター凍結もFBで投稿連発

 ネットのニュースによると、懲戒理由は犬の所有権をめぐる民事訴訟に関してツイッターで「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?」などと投稿したことだという。元飼い主が抗議をしたとのこと。元飼い主の感情を傷つけたことが懲戒の理由のようだ。なお、この投稿は削除された。

 その後、モノシリンこと明石順平弁護士がこの件に関する見解をブログに書いている。

岡口基一裁判官に対する懲戒自由について考察する

 どうやら裁判例を要約してツイッターに投稿したら、当事者が岡口裁判官の主張だと勘違いして抗議したということらしい。たしかに、この投稿は「裁判例の要約」なのか「裁判官の感想」なのかは分かりにくい。しかし、この程度の投稿で、しかも速やかに削除したのに、懲戒とは異様だ。

 ところで、昨日、この件に関して岡口裁判官自身がブログに東京高裁分限事件調査委員会に提出した陳述書をアップしたのだが、これを読んでびっくり仰天した。以下が陳述書。

陳述書(東京高騰裁判所分限事件調査委員会)

 この陳述書によると、林道春東京高裁長官と吉崎佳弥東京高裁事務局長が岡口氏を長官室に呼び出して、激しい口調で私生活上行っているツイッターを止めるように迫ったとのこと。また、ツイッターを止めなければ分限裁判にかけてクビにすると脅したという。これが事実なら、ご本人も指摘している通り表現の自由の侵害(憲法違反)であり、パワハラであり、脅迫だ。

 このパワハラや脅迫、ブラック企業の経営者の発言ではない。東京高等裁判所長官と事務局長の発言だ。こういう肩書の人たちが法律を無視してパワハラ行為を働いているなら、とんでもないことがこの国で行われるようになってきているということだ。そして、岡口裁判官に大きな圧力がかけられていると感じざるを得ない。司法の場でいったい何が起きているのだろう?

 今日になって岡口裁判官はブログにまた新しい記事をアップした。

始まりは民進党? 

 まず、岡口裁判官のツイートを監視し、訴追の画策をしたのは民進党のようだ。そして最高裁当局と与党(自民党公明党)が協議をし、最高裁当局が責任を持って岡口裁判官を指導するので訴追にかけないことで話しが整っていたらしい。ただし、最高裁当局は岡口裁判官のツイートをやめさせられなければ、訴追に代わって分限裁判の申し立てをせざるを得なかった、ということらしい。

 民進党は、ツイッターを止めさせるために不適切な投稿をしないかと監視していたということではないか。民進党、腐っている!!

 パワハラを働いた東京高裁長官こそ懲戒にすべきではないか!!

 マスコミ報道だけでは真実は全くわからないどころか、岡口裁判官が一方的に悪者にされている。このパワハラや民進党の暴挙を報じるマスコミはないのだろうか?

2018年7月22日 (日)

貧乏ではなく無駄のないシンプルな生活を

 2017年に中日新聞と東京新聞に掲載された「平等に貧しくなろう」というタイトルの上野千鶴子さんのインタビューはしばしば批判されてきた。以下参照。

この国のかたち 3人の論者に聞く(東京新聞)

 簡単に言うなら、少子高齢化で労働人口が減る中で移民を受け入れられない日本人は人口減少と衰退を引き受け、平等に緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再配分機能を強化する社会民主主義的な方向をとるべきだという主張だ。

 上野さんの主張には賛同できるところとできないところがある。私は成熟した(というより行きづまった)資本主義社会ではもう成長は見込めないという考えはその通りだと思う。資本主義の抱える危機的状況や終焉に関しては水野和夫氏が「資本主義の終焉と歴史の危機(集英社新書)で説明しており、私も水野氏の指摘は正しいと思う。もはや日本は経済成長をする余地はなく、水野氏の指摘のように定常経済に移行するほかなかろう。

 上野氏の主張のうち移民問題は措いておくとしても、人口減少を引き受けるというのは少子高齢化が歴然とした事実である以上、他に選択肢はない。これだけ格差が広がっているのだから、再配分機能を強化するというのもごく真っ当な主張であり、これはすぐにでも実行に移すべきだろう。

 ただし「衰退」という言葉は適切とは思えないし、「平等に貧しくなっていく」という考え方も賛同できない。

 上野さんを批判している人の多くは「衰退」とか「貧しくなる」という主張に納得ができないのだと思う。上野さんがどんな意味合いで、あるいはどんな理由で「衰退」とか「貧しくなる」という言葉をつかったのかは分からないが、多くの人は「衰退」という言葉に数十年前の生活をイメージし、「貧しい」という表現を「貧乏」と捉えたのではなかろうか。

 経済成長が止まるだけでなくどんどんマイナス成長になっていくのなら、「衰退」とか「貧しくなる」というのも分かる。しかし、成長もしなければマイナス成長にもならない「定常」なら「現状維持」であり「今より貧しくなる」ということにはならない。そして私はこの「定常」ないしは「ごくゆっくりとした成長(進化)」が生物としての基本だと思っている。

 限られた資源を浪費しつづけ、人口が増え続けたら地球は持たない。地球上で供給できる食糧自体に限りがあるのだから、人口もいつか減少に転じざるを得ない。化石燃料の大量消費と搾取によってもたらされた高度経済成長は、長い人類の歴史から見たらきわめて異常な状態だ。

 もし一種の生物が地球の資源をどんどん使っていけば地球環境のバランスは間違いなく崩れてしまう。地球温暖化、鉱物等の採掘による環境汚染、石油製品によるゴミ問題、環境破壊による種の絶滅などすべて現実のものとなっている。近年はマイクロプラスチックなどによる環境汚染も明らかになってきており、プラスチックを減らす取り組みが世界的に進められているのが現状だ。

 限りある地球の資源を守り地球上の生物が共存していくためには、資本主義の経済成長神話から抜け出すしかない。地球上で資源を使い放題にし、環境を破壊・汚染している生物はヒト一種しかいない。化石燃料の大量消費から始まった高度経済成長は、人の欲や驕りの象徴だったのではないか。その結果もたらされた環境汚染や異常気象が人類の首を絞めはじめている。ならば、定常経済での人類の幸福を考えていくしかない。そのためには化石燃料や原発から再生可能エネルギーへ転換し、無駄をなくしできる限りシンプルな生活を営むことが求められる。

 私の幼児期はまださほど物質的に豊かとは言えなかった。生活用品や衣類なども必要最低限しか持っていない家庭が大半だったのではないかと思う。洗濯機や冷蔵庫、テレビといった家電が急速に普及したのも私の幼児期以降だ。その後、あっという間に大量生産大量消費の時代に突入した。

 物が溢れるに従って、次々と新しい物を買い、使えるのに古い物は捨ててしまうという生活が当たり前になった。たとえば衣類ひとつとっても「必要」という理由ではなく単に「欲しい」「同じ服ばかり着ているのは恥ずかしい」「流行っている」などという理由から新しい服を買い、まだまだ着られる衣類を捨ててしまう人は多い。電化製品も自動車も携帯電話ですら短期で買い買える時代になった。何という無駄なのかと思うが、これが市場原理主義の現実だ。

 店先にはそう遠くない将来にゴミになるような商品が溢れている。使い捨て商品はもちろんのこと、すぐに飽きられてしまうような玩具や雑貨、過剰包装・・・。家電は新機能や利便性を謳って新商品が次々と売り出されるが、10年も使えば部品がなくて壊れても修理できない。

 ひとつの物を使えなくなるまで大事に使うということを徹底させるだけで相当の無駄が省けるし、資源の節約になるはずだ。「定常」で生きるというのはこういう浪費をやめるということに他ならない。しかし、これは決して「貧しい」ということではない。欲のなすままに物を買えるのが豊かな生活だと勘違いしている人もいるが、精神的な豊かさとは物の多さではない。

 「断捨離」がブームになったが、人々はようやくこのことに気づいたのだろう。高度経済成長で人々は欲しい物をすぐに買う生活を手に入れたが、家の中を見回せば使っていない物がいかに多いかに気づく。結局、生きていくために必要な物はそれほど多くないのだ。

 経済成長神話に嵌っている人の中には「成長がなければ若者は夢も希望も持てないのではないか」と言う人がいる。しかし、成長によってもたらされたものは環境破壊や環境汚染、電磁波などによる健康被害、異常気象、格差の拡大や利己主義、鬱や自殺の増加だ。生存基盤を脅かすことを続けてどうして夢や希望を持てるのか私には理解できない。精神的な豊かさや幸福というのは物の豊富さや利便性ではない。むしろ資本主義の発展とともに失われてきた人と人との信頼関係の中にこそ幸福があるのではないか。

 いつまでも経済成長を求めつづける人たちは、永遠に経済成長が続けられると本気で思っているのだろうか? 環境汚染や環境破壊が問題ないとでも思っているのだろうか? 私には不思議でならない。

 話しを元に戻そう。化石燃料がもたらした高度経済成長は物質的豊かさや利便性に寄与したが、一方で格差が広がり人々の憎悪感情は増した。資本主義は終焉にさしかかり、これ以上経済成長が続かないのは明らかだ。そして日本では否応なしに少子高齢化が進む。私たちが生き続けるためには富を再配分するとともに定常経済を保つしかないだろう。そして、私たちが目標とすべきは「平等に貧しく」というより「現状維持での平等」だ。

 ここでいう「現状維持」とは、衣食住に困ることなく現在の利便性の多くを享受でき、趣味や芸術、旅行などを楽しむ余裕もあり、教育や医療、福祉などの社会保障が整っている状態だ。もちろん格差をなくしすべての国民がそのような生活を享受できることが前提だ。充実した社会保障制度で高齢になっても病気になっても衣食住に困らない生活が保障されているなら、人は貯蓄に励む必要はない。

 無駄な公共義業をやめ、米軍への思いやり予算や海外へのばら撒きをやめ、仕事をシェアし、非正規雇用をなくして労働条件を改善し、大企業への優遇はやめて内部留保を放出させれば、定常状態での現状維持は不可能ではないと思う。

 私は「定常」が正常だと思うが、だからといって科学や科学技術がこれ以上発展しなくてもいいとは思っていない。化石燃料に頼らずに人類が生きていくためには再生可能エネルギーの普及は欠かせないし、そうした技術開発は続けねばならないだろう。また人々の知的好奇心もないがしろにしてはならない。ただし学問も科学技術も、一部の人たちが富を独占するための道具になってはならないと思う。

 定常経済の社会が具体的にどんなものになるのかは水野氏も分からないという。もちろん私にも分からない。しかし、産業革命以来の高度経済成長がもたらした負の側面にいつまでも目をつむっていたなら、自分たちの首を絞めるとともに未来の人たちへのツケを大きくするだけだ。

2018年6月22日 (金)

自民党政権を支持し続けたら国民は見殺しにされる

 気象庁は日本付近で発生した被害地震の一覧を公表している。震度4や5でも被害が生じることがあるが、6以上になると大きな被害が生じることが多い。そこで2006年以降、震度6以上の被害地震がいくつあるのか数えてみた。

1997年 1回
1998年 1回
2000年 4回
2001年 1回
2003年 3回
2004年 1回
2005年 2回
2007年 2回
2008年 2回
2009年 1回
2011年 7回
2013年 1回
2014年 1回
2016年 4回

 20年間で31回なので一年あたりにすると約1.5回。東日本大震災のあった2011年の7回を除いたとしても、年に1回以上は震度6以上の大きな地震が起きている。

 日本は4つのプレートの境界に位置しているのだから海溝型の地震が必ず起きるし、プレートに押されて内陸では断層ができ、火山が噴火する。その火山もときとして破局噴火に至る。私たち日本人はそんな地震国、火山国に暮らしており、これらの自然災害から逃れることはできない。

 大地震も火山噴火も必ず起きるが、いつどこで起きるのかは現在の科学では予知がほとんどできない。常識的に考えれば、こんな国に原子力発電所をつくることは明らかに間違っている。2007年の新潟県中越沖地震による柏崎苅羽原発の事故も、過酷事故寸前だった。それでも日本は原発を運転しつづけた。そして2011年には福島の原発事故が起きたのだ。もし原発の直下で断層がずれる内陸型地震が起きたなら、原発などひとたまりもないだろう。すぐ近くであっても大事故が懸念される。

 その後も2016年に熊本地震がおきて大きな被害が出た。つい先日は大阪で震度6弱の地震があった。これほどまで地震が頻発しても自民党政権は原発を止めようとせず、再稼働へと動いている。福島第一原発が収束の目途が立たない過酷事故を起こして大きな被害を生じさせ日本が危機的状況になったというのに、まだ原発にしがみついている。過去の事故と教訓に全く学ばないとはこのことだ。

 福島の原発事故のあとドイツでは脱原発に舵を切った。地震の少ないドイツですら福島の事故から学んでいるのに、当事国がまったく学ばないというのはどういうことなのか。利権にしがみつきまっとうな判断ができなくなっている政権はもはや狂気としかいいようがない。

 このまま日本が原発を続けるのであれば、いつか再び大きな事故を起こすだろう。そして、原発を推進してきた政府は間違いなく都合が悪い情報を隠蔽し事故を過小評価するだろう。それは福島の事故で実証済みだ。原発事故で人が亡くなっても、健康被害が生じても「事故との因果関係は認められない」といって保障もしない。それどころか被ばくの影響を過小評価し避難した人たちを放射能汚染された場所に戻そうとする。これが政府のやり方だ。そして事故の処理のための巨額の費用が税金から支払われる。国民は踏んだり蹴ったりだ。

 原発問題ばかりではない。安倍政権は生活保護や障害年金といった社会保障まで削減している。海外へのばら撒きや米国からの武器の購入をやめて社会保障や貧困対策に充てればどれだけの人が救われることだろう。それだけではない。「働き方改革」という名のもとに労働者を定額で働かせ放題にしようとしている。その労働者いじめの法案を無理矢理通すために国会の延長までするという暴挙に出た。

 原発推進も社会保障の削減も、労働者を奴隷のように扱う高プロ制度も国民を見殺しにするに等しい。その国民見殺し政権の支持率は4割近くもある。安倍政権で恩恵がある人たちだけではなく、一般の国民でも支持している人たちが一定程度いるのだ。国民が自民党政権のやっていることに大きな疑問を抱かなくなっているのなら、正常な判断力を失っているとしか思えない。

2018年3月27日 (火)

疑惑が深まっただけの佐川氏証人喚問

 今日は森友学園問題で決算文書改ざんを指示したとされる佐川宜寿前国税庁長官の証人喚問だった。この喚問でのやりとりについてはニュースにもなっているので具体的に言及するつもりはないが、印象を記しておきたい。

 佐川氏がこの証人喚問に対してどう出るかは多くの人が注目していたし、真実を話すことで自分だけに責任を押し付けるような政権側のやり方に反撃するのではないかという期待を抱いていた人も多かったのではないかと思う。

 佐川氏は証人喚問の冒頭から「刑事訴追の恐れがあるので答弁を差し控えさせていただく」という予想された答弁拒否の発言をした。この瞬間に、佐川氏は官邸を守る決断をした、すなわち事実を包み隠さず話すという選択はしなかったと直感した。

 そして案の定、決算文書改ざんに関わる質問に関しては答弁拒否を繰り返した。そればかりではない。刑事訴追とは何ら関係のない「昨年2月の国会答弁は改ざん前の文書を基にしたか」「昭恵夫人の名前が決算文書にあったのを見たときにどう思ったのか」といった質問にまで「刑事訴追・・・」を理由にシラを切った。

 都合が悪いと思える質問に対しては答弁拒否あるいははぐらかしの答弁をする。しかし、官房や官邸などからの指示や圧力、あるいは関与などはあったのかという質問に関しては明確に否定。昭恵夫人の影響についても否定。不自然極まりない答弁を貫いた。

 想定される質問を網羅しどのような答弁をするのかあるいは答弁拒否するのか、弁護士と綿密な打ち合わせをして頭に叩き込んだ、そんなことを連想させる答弁だった。しかし、人というのは心の動揺まで隠せるものではない。早口になって言い訳をする姿に、「正直に答えている」という印象を持った人はまずいないだろう。疑惑を追及されると関係のないことを長々としゃべり続けて論点をそらす安倍首相の答弁に通じるものがある。

 昨年行われた籠池氏の証人喚問では、部分的に「刑事訴追の恐れ」を理由にした証言拒否はあったものの全体として不自然さはなく、矛盾を感じるようなこともなかった。それに比べ、今日の佐川氏の証人喚問はあきらかに不自然であり、無理をして誤魔化しているのは明白だった。疑惑が解明されるどころか、疑惑が深まるばかりの答弁だ。結局、事実をそのまま話さないという選択をしたなら、こうならざるを得ない。彼は恐らく良心の呵責を覚えながらも官邸を守る選択をしたのであり、それは間違いなく自分の目先の利益を守る選択だったのだろう。

 官邸を守る答弁をしたなら見返りがあるのに対し、官邸を裏切るような答弁をしたならこのあとさまざまな制裁が待ち構えている。佐川氏はそのことを一番よく分かっているに違いない。官邸に有利な発言を貫けば、偽証罪に問われることはないと踏んでいるのだろう。

 人は窮地に陥ったときに自分の身を守ろうとする。ただし、良心に従って真実を話すことが自分の身を守ることだと考える人と、目前の損得を秤にかけて得をとることが身を守ることだと考える人がいる。佐川氏は後者を選んだということだろう。

 佐川氏が国会において虚偽の答弁をし、決算文書の改ざんという指示をしたことはほぼ間違いない。このときも損得を秤にかけて身を守るという選択をした。そうした思考をする人が、証人喚問に場において考えを180度改め、良心に従って事実を話すという大転換をすることは並大抵のことではない。圧力をはねのけ証人喚問で包み隠さず事実を話せるような勇気のある人は、そもそも虚偽答弁や改ざん指示などといった国会や国民を裏切る行為はできない気がする。

 しかし、本当にその選択で良かったのだろうか。恐らく、今日の佐川氏の答弁に基づいて安倍政権は「官邸も昭恵夫人も関与していないことが明らかになった」としてこれ以上の証人喚問を拒否するに違いない。しかし、それでこの問題が収まるとはとても思えない。なぜなら、今日の答弁からは「なぜ決算文書の改ざんをしたのか」という核心部分は一切分からなかったからだ。これで野党の追及が収まるわけがない。佐川氏の答弁に納得できない者からの内部告発もあるかもしれない。加計学園に関しても公文書の偽造疑惑が指摘されているから、遅かれ早かれ加計問題にも飛び火するだろう。

 仮に、なぜ改ざんがなされたのか真相が分からないまま幕引きがなされたとして、佐川氏が人並みの良心を持ち合わせているのなら、一生、知っていることをありのまま話さなかったことに苛まれるのではなかろうか。しかも今日の答弁は多くの国民の期待や信頼を裏切った。つまり精神的苦悩を抱え込むことになるだろう。佐川氏は判断を誤った、私にはそう思えてならない。

2018年3月12日 (月)

原発事故から7年、日本は危機的状況から脱することができるのか

 東日本大震災と福島第一原発の事故が起きてから丸7年が過ぎたが、「現代ビジネス」に興味深い記事が掲載されていた。

福島原発事故から7年、復興政策に「異様な変化」が起きている

この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」

 原発事故からの復興を利用した、安倍政権の「騙し」の手法、そして官僚の権力へのへつらいがひしひしと感じられるのだが、この無責任な政治や行政の根源はどこにあるのか? 筆者の山下氏は国の無責任化は「二大政党制」と「政治主導」ではじまったと言う。

 二大政党制を目的に導入された小選挙区制が民意を蔑にし、内閣人事局の創設で官僚の人事権を握って政治主導を手にした安倍政権が、今の末期的ともいえる騙し体質、無責任体質を生んでいるのは確かだと思う。

 森友学園をめぐって公文書の改ざんがあったことが明確になってきたが、こうした国民を欺く政権を解体させ、無責任体質を根本から変えねば、この国はまっとうな民主主義国家になれそうにない。原発事故からの復興政策も森友文書改ざん事件も、みんなつながっている。

 原発事故から7年経って私が何よりも懸念するのは、日本が再び大地震や大津波などの自然災害に襲われるのではないかということだ。御岳山が噴火し、草津白根山が噴火し、つい先日は九州の新燃岳が噴火した。火山活動が活発化しているということは、プレートに圧力がかかっているということだ。東日本大震災の直前にも新燃岳が噴火している。いつ再び大地震がおきてもおかしくないのに、国は原発事故を過小評価し、再稼働に血道を上げている。

 日本は政治においても自然災害に端を発する原発事故においても、ほんとうに危機的な状況に置かれている。

2018年3月 8日 (木)

歴史に残る森友学園をめぐる腐敗政治

 森友学園問題が発覚してから一年余。安倍首相は2017年2月17日に「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と発言した。その後、安倍夫妻の関与を疑わせる証言、文書、録音記録などが次々に公表されたが、籠池夫妻を長期拘留して口封じをした上、丁寧な説明はいっさいせずに誤魔化してきた。

 そして問題発覚から一年たって出てきたのが3月2日に朝日新聞が報じた公文書改ざん疑惑。改ざんされたとされる文書は、2015年から16年に森友学園と土地取引をした際に近畿財務局の管財部門が局内の決済を受けるために作成した文書。「本件の特殊性に鑑み」「学園に価格提示を行う」などの表現が削除された改ざん文書が国会議員に開示されていたというのだから、事実なら国会も国民も愚弄したことになる。

 そして、今日は毎日新聞が朝日の後を追って改ざん疑惑を報じた。毎日新聞の場合は昨年9月に情報公開で開示請求した文書(財務局が学園に売却額の予定価格を通知した際の決裁文書)と昨年5月に国会に提出した同文書が異なっていることから、改ざんされた疑いがあるというもの。

森友文書 別文書に「特殊性」の表現 国会開示にはなし

 森友学園問題は発端こそ国有地の不可解な値引き問題だったが、疑惑追及の中で分かってきたのが安倍夫妻の関与。この一年間に公表されたさまざまな状況証拠からも、国有地の取引において安倍夫妻が関与していたと考えざるを得ない。要は加計学園問題と共に、首相夫妻が政治を私物化していたという疑惑。それを隠すことに必死になった挙句、公文書の改ざんという犯罪行為にまで手を染めてしまったなら愚劣極まる。

 多数の資料や録音という証拠があるにも関わらず、安倍首相が一年もの間のらりくらりと追及をかわしてこられたのは、2014年に設置した「内閣人事局」のおかげだろう。内閣人事局によって安倍首相に従う官僚ばかりが登用されるようになった。官僚はアメとムチによってコントロールされ、逆らうことがほぼ許されない体制を作り上げた。事実上の独裁だ。

 安倍首相は自分でつくりあげた恐怖体制によって、何でもまかり通ると思い上がってしまったようだ。しかも、今回の公文書改ざんは事実なら犯罪に該当する。改ざんを認めたらタダでは済まないことは十分理解している。しかし、これまで同様、シラを切り続けてもとりまきが自分を守ってくれると信じているのだろう。恐ろしいのはこの独裁政権が検察まで牛耳っていることだ。

 改ざん問題が今後どのようなことになるのか予測がつかないが、どうしても逃れられなくなったら、改ざんに関わった人物を処分して幕引きを図るつもりではなかろうか。恐怖体制を利用して徹底的にシラを切って逃げ切るというのが安倍政権のやり方だ。しかし、果たして朝日新聞と毎日新聞の2社が改ざん疑惑を報じた今度ばかりは、逃れきれるだろうか?

 これまで生きてきて、ここまで国会と国民を愚弄する政権は記憶にないし、保身のためにこういう首相に媚びへつらって恥じない取り巻きに怒りしか湧いてこない。彼らは、恥というもののかけらも持ち合わせていないのだろうか。

 このまま安倍政権が生き残るようなら、この国は間違いなく腐敗した独裁国家だ。後に、森友事件は戦後最大の政治の腐敗として歴史に残るだろう。

2018年2月24日 (土)

不十分な生活困窮者支援

 少し前のことになるが、1月31日、札幌の民間の自立支援施設「そしあるハイム」から出火し、入居者11人が亡くなるという悲惨な事故があった。スプリンクラーもない木造の古い建物だったことから、あっという間に全焼した。「そしあるハイム」は50年ほど前に建てられた旅館を利用した共同住宅で、生活困窮者の就労支援を目的として民間の合同会社「なんもさサポート」が運営していた。要は行き場のない生活困窮者の受け皿で、この施設があったからこそホームレスから抜け出すことができたという人も多い。入居者の多くが生活保護を受けていた。

 この火事をめぐっては、この施設が無届の老人ホームに当たるかどうかとか、スプリンクラーの設置がどうとかいった点が問題視されているのだが、そこばかりに視点を当てると、困窮者の自立支援を民間の組織が担っているという本質的な問題から目をそらすことになる。実際、警察や役所が生活困窮者に「なんもさサポート」を紹介していたという。つまり、こうした人たちを受け入れる公的施設がないのが実態なのだ。この火事は生活困窮者に対する行政の支援問題を浮き彫りにした。

 ホームレスなどの生活困窮者が生活保護を申請してアパートなどに入居することは不可能ではない。家賃の安いところを探せば、生活保護の受給額でもなんとかやっていける。ただし生活保護を申請する際には審査があり、一人で自立した生活ができるかどうかが問われる。高齢であったり、障害や病気で一人で自立した生活ができない場合は、自治体などが運営する更生施設や社会福祉法人などが運営する自立支援施設に頼るしかない。

 「そしあるハイム」は希望者には食事も提供しており、一人で自立した生活をすることができない高齢者の終の棲家になっていたという側面がある。古い建物でも、身よりのない人たちが協力しあって生活するかけがえのない場であったのだろう。

 私たちはいつ困難な状況に陥るか分からない。会社の倒産や解雇で職を失ったり、病気や怪我で働けなくなったり、親の介護で仕事を辞めざるを得なくなったり、自然災害などで家族や住宅を失ったり・・・。そんなときにも社会保障制度によって衣食住を保障されなければ法の元の平等、基本的人権が守られていることにはならない。

 ところが、ホームレスになってしまった人を「負け組」だとか「自己責任」だと嘲笑する人たちが一定程度いる。いったい誰が好んでホームレスになるというのだろう。個人の問題というより公的支援の問題が大きいにも関わらず、いとも簡単に「働いて自立せよ」などと言う人もいる。こういう人たちは、定職も身よりもない人がアパートを借りることすら極めて困難だという現実を分かっていないのだろう。今は賃貸住宅も空き部屋が沢山ある。しかし安定した収入がなかったり保証人のいない人にアパートを貸す家主は多くない。生活保護制度があるといっても、申請を受け付けてもらえない事例があとを絶たない。

 海外にお金をばら撒いたり軍事費に多額の予算をつけたり、無駄としか思えない公共事業もある。その一方で、ホームレスや生活困窮者のための施設運営すらできないというのは国の怠慢というほかない。

 ホームレスをなくし、生活困窮者をなくすには、行政が自立支援の施設を用意することも必要だが、それと同時に一人ひとりに寄りそってアパートを借りるための手続きや就労の支援、その後の見守りなどきめ細かいバックアップをすることも重要ではなかろうか。日本の社会保障制度にはそのようなソフト面が決定的に欠けていると思う。

 日本はこれから否応なしに少子高齢化が進む。こうした中で、住宅を借りる際に保証人になってくれる身内のいない人も増えるだろう。非正規雇用が増える中で、国民年金すら納められない人も多い。2人以上の世帯で貯蓄ゼロの世帯は3割もあるという。無年金の人や年金だけでは暮らせない人はこれからどんどん増えていく。今は健康でも、病気などで働くことができなくなれば公的支援に頼るほかない。ところが、今の政治を見ていると社会的弱者が安心して生きられる社会とは正反対の方向に向かっている。さらに驚くのは、そんな政権を支持する若者たちが多いということだ。彼らは社会的弱者を切り捨てる政治をよしとしているのだろうか? 自分の将来に不安がないのだろうか?

 「勝ち組」とか「負け組」という言葉を耳にするようになったのはいつからだろうか。格差を勝ち負けで表すとは何て嫌な表現だろうと思う。勝った者は負けたものを見下して「自己責任」だと切り捨てる。勝者になれなかった者は、バッシングできる相手を探して匿名で罵ったり嘲笑したりする。全員が「勝ち組」になれるはずもなく「負け組」の人たちがいなければ社会が回らないのだから、こうした格差は個人の努力の問題ではなく社会のシステムの問題だ。それなのにそのシステムを改善する方向に向かわず弱者を嘲笑するような人たちに寒気がしてならない。

2018年2月11日 (日)

資本主義がもたらしたバッシング社会

 オリンピックにはほとんど関心がないが、オリンピックが始まるとメダルの数や選手に対する期待の強さに辟易とする。と思っていたら、リテラにこんな記事が出ていた。

   平昌ではジャンプの高梨沙羅が標的に・・・五輪選手への道徳押しつけバッシングの異常! 今井メロや國母和宏が心境告白

 スノーボードハーフパイプで予選落ちした今井メロ選手に対する嫌がらせ、高梨沙羅選手、國母和宏選手、里谷多英選手、安藤美姫選手らへの異常なバッシング。これらは批判(物事に検討を加えて、判定・評価すること)といえるものでは決してなく、単なる暴言、悪口だ。ここまで酷いのかと思うと、気分が悪くなってくる。

 これらのバッシングは、選手に対する過大な期待だけの話しではない。何でもいいから批判できることを探しては叩く、つまり人を叩くこと自体が目的になっている人たちが一定程度いるということだ。

 思い返せば、2004年にイラクで日本人の3人の若者が拘束された時のバッシングも凄まじかった。あの頃はインターネットも広く定着してきた時期だったが、人質になった今井紀明さんのところには罵声や嫌がらせの電話のほか、大量の非難の手紙が送られてきて、彼はしばらく部屋に引きこもったという。

 近年では、2015年から2016年にかけて活動した安保法制案に反対する学生グループSEALDsのメンバーに対する異常な攻撃もあった。ネット空間で名指しで攻撃されてもまったく平気で動じないという人はほとんどいないだろう。自分は決して傷つかない匿名で、他人を傷つけることこそがバッシングする人たちの目的なのだろうと思うとおぞましい限りだ。

 匿名で言いたい放題にできるインターネットが、バッシングや炎上を広げていることは間違いないだろう。しかしリテラの記事にあるように、言いがかりとしか言いようがないことでバッシングするというのはもはや常軌を逸している。鬱屈した人間が異常なほどに増えてきているとも思う。

 ツイッターを見ていても、他人の意見にいちいち言いがかりをつけたり揚げ足取りをする人の何と多いことか。この精神の歪みは、やはり社会を反映しているものなのだろう。他人をバッシングして憂さ晴らしをするという精神の根底には、競争社会と格差の拡大が間違いなくある。

 競争というのは、自分がのし上がるために他人を蹴落とすことでもある。競争をさせられると周りの人たちはすべて敵になってしまう。そして「敵か味方か」「勝ちか負けか」という物の見方をするようになる。競争に勝った人は負けた人たちを見下すことになりかねない。また、競争に負けた人たちは、他人の粗探しをしてバッシングすることで優越感を得ようとする。妬みや恨み、復讐心に満ちた世界に平和などない。

 「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、他人の不幸を喜ぶという心理は、人間のネガティブな感情に起因するらしい。こちらの記事によると、以下のようなことが分かってきているそうだ。

“相手に対して「妬み」の感情を抱いている時、脳はその人の不幸を、より強く「喜び」として感じます” “一方で私たちは、相手に特に妬みの感情を抱いていない場合、不幸にみまわれた人を心配したり、かわいそうな境遇にいる人に同情したりします”


 日本では子どもの頃から競争にさらされ、勝者と敗者に分けられていく。さらに富裕層と貧困層の二極化が進めば進むほど、ネガティブな感情が渦巻いていく。こうしてバッシングの土壌がつくられていくのだろう。その根源は人々を競争に追い立て、挙句の果て格差を拡大させた新自由主義的な資本主義に行きつく。このまま資本主義を続けようとする限り格差はさらに拡大し、バッシング行為は激しくはなっても収まることはないだろう。

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