政治・社会

2023年6月 9日 (金)

コロナ騒動と洗脳

 コロナ騒動が始まってから3年以上、mRNAワクチンが始まってから2年以上が経った。この騒動、私はどう考えても「洗脳」だと思っている。

 

 先日、脳科学者の苫米地英人著「洗脳護身術」という本を読んだ。この本は2003年に出版されているので、20年前の本ということになる。洗脳・脱洗脳の理論と技術を具体的に解説した本だが、具体的なことは本書に譲りここでは触れない。

 

 洗脳というと、カルト宗教などがやっていることだとしか思わない人も多いかもしれない。カルトのように自分の利益のために洗脳技術を使っていれば「洗脳」だが、「自分のため」という条件を外せば、従来宗教も洗脳と切り離すことはできない。催眠や占いなども洗脳の手法を使っているので注意が必要だ。そして、人は誰でも洗脳されてしまうそうだ。

 

 苫米地氏は「洗脳」は技術であり、それ自体は悪でも善でもなく中立なものだという。「教育」は、本人の利益のために行われるのであれば洗脳ではないが、権力者の一方的な利益のために行われたなら洗脳になりかねない。また、権力者やマスコミがある事柄を「善」だとして国民に植え付けたならどうだろう? 戦争も「善」だとして正当化されかねない。だからこそ、私たちは洗脳されないよう技術(洗脳護身術)を身に着けることや自己脱洗脳が大事だという。

 

 苫米地氏は「二十世紀までの洗脳は、情報を遮断して一つの価値を前とすることで実現されてきた。ベルリンの壁崩壊前の東ドイツでは、家に電話を引くのに、申し込んでから二十年以上かかったそうである。二十一世紀の洗脳は、情報の遮断ではなく、大量の情報の操作として実現されていくだろう」と述べている。

 

 今回のコロナ騒動を振り返ってみるなら、コロナワクチンの危険を伝える動画の削除など情報の遮断もあったが、主として「大量の情報の操作」によって、権力者による洗脳が行われたと私は考えている。20年前の苫米地氏の推測はみごとに的中したと思う。

 

 洗脳には「恐怖心」や「快楽」が利用される。コロナ騒動では、人々の恐怖心が最大限に利用された。多くの人は病気や死に対する恐怖心を持っている。だから、マスコミを利用して人を死に至らしめるかもしれない恐ろしい感染症が世界中に広がっていると騒ぎ立てることで、人々は恐怖にかられて藁にも縋る思いになる。この3年間、毎日マスコミで感染者数(実際にはPCR検査による陽性者数)、重症者数、死者数を報道し、後遺症が大変だとか医療崩壊だと騒ぎ立てた。これで人々はすっかりコロナへの恐怖心を刷り込まれ、国民の大半が集団催眠状態になってしまった。

 

 コロナに怯え、政府や感染症の専門家と言われる人達や医師などの主張を鵜呑みにする。その結果、消毒、マスク、外出制限などの政策をあたり前のように受け入れてしまう。日頃人権意識の高い人たちさえ、人権侵害や差別的な対策を疑いもせずに受け入れた。ワクチンも、恐怖にかられた人たちは皆飛びついた。十分な治験がなされておらず中長期的なリスクが分からない上、動物実験でも成功したことのない人類初の遺伝子ワクチンであるというのに・・・。

 

 このような人達が多数になると、「さほど怖い感染症ではない」、「これは陰謀ではないか?」と考えている少数派を叩き始める。あるいはマスク警察などという人も出てくる。皆、同調してしまうのだ。ただでさえ同調圧力の強い日本社会では、この傾向が強くなる。おそらく、この同調にはホメオスタシスも関係しているのだろう。ホメオスタシスというのは、呼吸や心拍のように、体が正常な状態を維持するための機能のことをいう。このホメオスタシスは物理空間だけではなく情報空間や精神世界にも作用するために、人々の間で同調が生じるという。そして、洗脳はこれを利用しているそうだ。「コロナは怖い」「ワクチンは効果がある」と信じる人が多ければ、それに同調してしまう。

 

 マスコミはコロナ騒動の初期から、「デマや陰謀論に気を付けろ」と警鐘を鳴らしていた。そして識者を含め多くの人がこれにならい、ワクチンを打たない人に「反ワクチン」「陰謀論者」というレッテル貼りをした。これも情報操作であり洗脳だろう。つまり、学歴が高く自分は陰謀論などには嵌らないという自信がある人も、「恐怖心+マスコミや医師によるワクチン推奨キャンペーン+陰謀論否定キャンペーン」で簡単に洗脳されてしまったと私は見ている。

 

 苫米地氏の本に、以下の記述がある。

 

 ちなみに、ホメオスタシスが同調するまでの期間が長ければ非洗脳かといわれれば、そうではない。社会的に人口の大半をコントロールするのに数年かかっても、洗脳と判断されるケースがある。ヒトラー下のドイツ国民は、思想レベルまで、ホメオスタシス同調が引き起こされていたと見るべきだし、文化大革命下の中国も同様である。行動制御などの認知行動療法的手法の補助で、国民が強い変性意識状態になる。つまり国を挙げての集団催眠下にあったことにより、このホメオスタシス同調が強度にひきおこされたと見るべきだろう。そして、戦前の日本もこのパターンであったと考えるのが自然であった。(229ページ)

 

 私たちはナチスによるホロコーストについて学んだはずだ。戦争に突き進んだ戦前の日本のことも学んでいる。それにも関わらず、心の中に潜む恐怖心を利用すれば、人はいとも簡単に洗脳されてしまうのだ。そして、ひとたび洗脳されてしまうとそこから目を覚ますのはとても難しい。それを今、目の当たりにしている。

 

 アフリカでは多くの国がワクチンに懐疑的でほとんどワクチンを打たなかったのでコロナ騒動など起きなかったし、欧米ではワクチンのおかしさに気づいて今はワクチンを打つ人などほとんどいない。ところが日本では5類になって陽性者数や死者数の報道をしなくなっても人々はコロナを恐れ、いつまでもマスクを外さないし、6回目のワクチンを打つ高齢者や医療従事者もいる。未だに多くの人が洗脳から覚めていないのだ。

 

 ワクチンを打たなかった人というのは、恐らく恐怖にかられずにこの騒動を冷静に見ていた人、mRNAワクチンについて情報収集をすることで何かおかしいと感じた人だろう。もちろんマスコミによる情報収集ではなく、SNSなどを利用しての情報収集だ。そして集団催眠にかからず、同調もしなかった。恐怖心を克服し、マスコミや専門家の言うことを鵜呑みにせず、他人に同調せず、自分で情報の裏を読み解くことができれば簡単には洗脳されない(ただし叩かれる)。

 

 私の場合は、2020年の春にオーストラリア在住のJ SatoさんによるBCG仮説を知って、コロナへの恐怖心がなくなった。そしてひとたび恐怖心が消え冷静になると、この騒動のおかしさがはっきりと見えてきた。人権侵害や差別だらけの感染対策、任意と言いながら半強制のようなワクチン接種、ワクチン接種後の体調不良や死亡の情報を報じないマスコミ、接種後死亡が2000人を超えても中止しない政府。人工ウイルス疑惑もある。おかしいことだらけだ。しかし、洗脳されてしまった人達はこのおかしさが見えない。何と恐ろしいことかと思った。

 

 私たちは誰もが何らかの「思い込み」を持っている。それは親による躾であったり学校での教育であったり、様々だろう。そうした思い込みは洗脳の定義には当てはまらないが、苫米地氏は広い意味での洗脳だという。だからこそ、自己脱洗脳で思い込みを取り払うことが自己解放につながるという。

 

 コロナ騒動を皮切りに、情報戦、認知戦が本格的に始まった。私は、世界経済フォーラムが洗脳手法を使って人々を操作しようとしているのではないかと懸念している。コロナ騒動はその序章であり、コロナ騒動を仕掛けた人達は今後もあの手この手で洗脳手法を用いるだろう。世界経済フォーラムの「何も持たないで幸せになる」というメッセージこそ警戒せねばならないと思っている。恐怖だけではなく、彼らの言う「幸せ」という快楽に騙されてはならない。

 

 何と言う時代になったのかと気が重くなるが、この時代を生き抜くことができるのは、洗脳について知り、恐怖や快楽に捉われず、他人に同調もせず、自己脱洗脳ができる人なのかもしれない。

 

2023年5月28日 (日)

自然の摂理に逆らうべからず

 地球上でヒトという生物だけが自然の摂理に逆らった生き方をしている。そして、不思議なことに「自然の摂理に逆らう」ことに疑問を持たない人が何と多いことか。

 

 原子力、遺伝子操作、電磁波、AI技術、農薬や食品添加物など化学物質の多用、ダムなどの大型人工構造物による自然の改変・・・。どれも自然の摂理に逆らったものばかり。これらのものの中で原子力、化学物質、電磁波、遺伝子操作はいずれも兵器にもなる。AIの危険性も多くの人から指摘されている。人々を豊かにする、利便性をもたらすといって開発されたものが、人々を滅ぼしかねないような事態になっている。

 

 核兵器が人類にとって脅威であることは言うまでもないし、原子力を利用した原発だって、大事故を起こせば手に負えないのは福島第一原発の事故を見れば明らか。使用済み核燃料の処理もできない。原子力は人類が手を出してはいけない分野だったと私は思っている。

 

 遺伝子操作も同じ。遺伝子組み換え作物なども自然の摂理に背く技術に他ならない。コロナ騒動をきっかけに始まったmRNAワクチンなるものも、毒薬でしかなかった。ところが、mRNAコロナワクチンが大失敗であったにも関わらず、さらに自己増殖型mRNAワクチンの開発が行われている。この危険性については荒川央さんがブログで指摘されているので是非読んでいただきたい。荒川さんは『自己増殖型mRNAワクチンにおいて懸念される最悪の事態の1つは、人体の中で「自己増殖型mRNAワクチンが進化」し、「増殖しやすいワクチン」や「免疫系を回避しやすいワクチン」、「感染しやすいワクチン」が派生する事です。想定される状況は、まさにワクチン接種者の「人体での人工進化による機能獲得実験」です。』とまで言っている。

 

自己増殖型mRNAワクチン(荒川央さんのブログ)

 

 遺伝子の解明などについての研究だけならともかく、人が遺伝子を操作するなどということ自体、自然の摂理に逆らう最たるものであり、遺伝子組み換え作物もやってはいけないことだし、原子力とともに封印しなければいけない技術だと私は思う。

 

 そもそもワクチンというもの自体を見直さなければならない時期に来ていると思う。これまで、多くの人がワクチンは病気を予防する素晴らしい発明だと評価して受け入れてきたと思うが(私も以前はそうだった)、コロナ騒動をきっかけにそうではないことが露呈した。生物は免疫システムによって病気を克服してきたわけで、体に備わった免疫こそ最も大事にしなければならないのだろう。ワクチンを全面否定しないとしても、今のワクチン漬け医療は明らかに過剰であり異常としか思えない。ワクチン接種が増えるとともに発達障害が増えたという指摘もある。ワクチンには必ず副作用があるのだし、決して強制してはならないものだとコロナ騒動で強く思った。ワクチンといわれる薬剤がもし遅効性の毒薬であれば生物兵器にもなり得るわけで、医薬品や科学技術を過信してはならないと痛感した。

 

 電磁波も大きな脅威になっている。携帯電話の基地局からの電磁波はもちろんのこと、無線LANルーター(Wi-Fi)、携帯電話などの通信機器、スマートメーター、IHクッキングヒーター、さらに照明として利用されているLEDからも電磁波が出ている。自動運転車なども電磁波が使われている。電子レンジはもちろんのこと、様々な家電からも電磁波は出ている。私たちの生活はどんどん電磁波まみれになっている。電磁波過敏症の人達にとっては生活そのものがままならない事態になっているのに、5Gのアンテナは増える一方。そして電磁波の危険性についてはほとんど報じられない。恐らく、電磁波による健康被害はどんどん深刻化していくだろう。ただ、今は電磁波による不調に気づいていない人も多いのかもしれない。極めつけはアラスカにある米軍施設ハープ(HAARP)だろう。ハープで何が行われているかは所説あってよく分からないが、電磁波で何かをやっているのは間違いないし、兵器にもなりえる施設だと言われている。

 

 AI(人工知能)も、使い方によっては人類を滅ぼしかねないとかねてから指摘されている。化学物質だって多用すれば健康被害が生じるし、兵器にもなる。

 

 核(原子力)も、遺伝子操作も、電磁波も、AIも、どれも人類を滅ぼしかねないほど危険なものになってきている。なぜこんなことになっているのかといえば、すべて自然の摂理に逆らうことだからではなかろうか。そして、なぜこんなことに際限なく手をだしているのかといえば、人類が経済成長と豊かさ(物質的豊かさや利便性)を追い求め続けたからではなかろうか?

 

 しかし欲深い愚かな人間は、一度手を出してしまったものを手放したり封印することがなかなかできない。それどころか、危険性すら分かっていない人が多数だと思う。人類もいつかは絶滅するのだろうけれど、他の生物とは違って「自然の摂理に逆らった」ことが原因で滅びるだろうと想像している。

 

2022年9月11日 (日)

地域医療と社会的共通資本

 10年ほど前の「無駄な道路の典型 道道688号名寄遠別線」という記事に「馬鹿馬鹿しい…」というハンドルネームで以下のコメントがあった。コメント欄でのやりとりを読んでの意見だ。

 

過疎地の医療が切り捨てられているなどという寝言のほうが強烈に見苦しい。
北海道のような過疎が進行している場所では地方に厚く医者を配置することなど不可能だろう。
だからこそ代替策として主要な都市部にいち早く抜けられるよう道路を作っているのではないか。
過疎地は切り捨てて都会に住めとでも?

さらに、そもそも論でいうなら、
名寄駐屯地から吹雪通行止めの危険性の少なく民家も少ない道道111号を経由して
日本海側の空白地帯に抜けられるということは、国防の上でも非常に重要な価値がある。
これは日常的に使うか使わないかではなく、いざという時体制がとれるかどうかだ。

 

 まず、「馬鹿馬鹿しい…」というハンドルネーム自体がふざけている。さらに、内容も不躾で、私の基準では承認しないレベルのコメントだ。しかし、この方のような主張をされる人が多いのも事実だと思う。そこで、地域医療について意見を書いておきたいと思う。

 

 まず、私は著名な経済学者である宇沢弘文氏の提唱した「社会的共通資本」という考え方に基本的に賛成である。

 

 社会的共通資本とは、自然環境のほか、社会的インフラストラクチャー、教育、医療、福祉などの必要不可欠な社会的資本を指す。宇沢氏は、社会的共通資本は私的資本と異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する、としている。つまり、社会的共通資本は市場経済に委ねるのでも国家が管理するのでもなく、職業的専門家によって管理・維持されるという考え方だ。詳しくは「社会的共通資本」(宇沢弘文著、岩波新書)をお読みいただきたい。

 

 医療を社会的共通資本として考えるなら、医療機関を市場経済に委ねることにはならない。政府は地域別に、病院体系の計画を策定し、病院の建設・管理のために必要な財政措置をとらねばならない。また、医療従事者などの職業的専門家が中心となって学問的知見に基づき管理維持するということになる。

 

 冒頭のコメント主は、まず医療を市場原理でのみ考えているようだ。だから地方の小さな町では医療機関が縮小するのは当たり前で、大きな街に繋がる道路が必要だという論理のようだ。しかし、私は医療は社会的共通資本として整備すべきものだと考えているので、こうした考えは受け入れられない。国鉄が廃止され民有化されたために、人口の少ない北海道では採算が取れずに次々と廃線になっている。公共交通機関も医療機関同様に市場経済に委ねてはいけなかったのだ。

 

 もちろん人口が少ない自治体に大きな病院を建設することは現実的ではない。高度医療が受けられる病院が都市に限られてしまうのは致し方ない。しかし、過疎地だからといって医療が受けられないということはあってはならず、民間では赤字で運営できないのなら公的な医療機関として維持していく必要があるだろう。

 

 社会的共通資本の考えに基づき、人口規模だけではなく交通事情や気象条件なども考慮したうえで、高度医療が提供できる大病院、条件によっては救急患者の受け入れも可能な中規模の病院、それに小さな医療機関などが適切に配置されそれらが連携することで、地方に住んでいてもできるだけ速やかに必要な医療に繋げるようにすることは可能だと思う。

 

 救急医療に関しては、残念ながらどこに住んでいても平等かつ速やかに高度医療に繋げられるということにはならないだろう。都市から離れた地域に住んでいれば、大きな病院への搬送に時間がかかってしまうのはある程度はやむを得ない。荒天などで速やかに大きな病院に搬送できないこともあるだろうけれど、今はネットによるビデオ通信もできるようになってきており、地域の医師が専門医から指導を仰ぐことも可能だろう。できることを考えていくしかない。

 

 地方に住むということは豊かな自然環境に恵まれ、新鮮な空気や静かな環境を享受するということに他ならないが、買い物や医療など都市と同じような利便性は享受できない。逆に、都市に住むということは豊かな自然環境は享受できない。

 

 コメント主は「過疎地は切り捨てて都会に住めとでも?」と言う。もし、豊かな自然環境の享受より都市と同レベルの医療サービスを求めるのなら、都市に移住するしかないと私は思う。私自身、大病院から遠く交通機関も不便な地方に住んでいる高齢者だが、それは今のところ利便性より自然環境の恩恵を重視しているからだ。しかし、今後、運転免許を返上したり自分や家族が大きな病院への通院が必要になるなどしたら、より利便性の良い場所に移住するつもりだ。これは「過疎地を切り捨てる」ということではなく、自分の生活に合わせて住む場所を変えるという選択だ。

 

 先日、「ダムで壊される戸蔦別川」という記事を書いた。小さな河川に自然を破壊して巨大な砂防ダムを造り続けるのは、その背後に政官民の癒着と利権が渦巻いていることが最大の理由だろう。利用者がほとんどいない山の中の道路建設にもほぼ同じ構図があると私は見ている。荒天で日本海側の道路が通れない場合の救急搬送に利用できるというのは、あくまでも道路を造りたがっている人達による口実だと私は捉えている。道道688号名寄遠別線が開通したとしても、一時期の救急搬送だけのために冬季閉鎖をせず常に通れるように除雪をするなどということはまずないだろう。

 

2022年4月13日 (水)

支配欲のあるところに平和はない

【昨日のツイートより】

 ウクライナとロシアとの戦争を見ていると、自国のために兵士となって戦うことのどこに正当性があるのかと不思議でならない。人と人との殺し合いを「国」を理由に容認していいとはとても思えない。太平洋戦争のときも全く同じだった。多くの人が「お国のため」と洗脳されて兵士となり、命を落とした。

 国のために国民が犠牲になるというのは、全体主義そのもの。そういう考えには一切賛同できない。しかし今、日本は「自国のために」という理由を掲げて再び戦争ができる国に突き進もうとしているように見える。太平洋戦争の教訓はいったいどこに行ってしまったのだろう?

 だからといって、国境を取り払えば戦争がなくなるというわけでもないだろう。内紛はいくらでもある。要は、紛争を話し合いで解決しようとしないことが問題なのだ。協力とか分かち合いとか他者の尊重とか譲歩などという精神があれば、武器を持たなくても問題解決は可能だと思う。

 武器で戦えば、必ず憎しみの連鎖になる。そして、個人同士ではなんの諍いもない人達が殺し合いをしてしまう。なんとおぞましいことかと思う。憎しみの連鎖を断ち切るには、「戦う」という反応を止めるしかなかろう。話し合いで解決できないから戦争が絶えないのだという人がいるかもしれない。

 しかし、戦争には必ずといいていいほど相手を支配したいとか、屈服させたいという欲求がある。他者を対等な関係とみなすことができないから、紛争になり、時に戦争にまで発展してしまうのだろう。これは今起きている情報戦や認知戦でも同じだ。その裏には、相手を屈服させたいという強い欲求がある。

 では、世界経済フォーラムが目指しているように、国の枠組みを取り払って世界統一政府をつくり、ごく一部の富裕層が他の人達を監視、コントロールするような全体主義的な世界をつくれば戦争のない平和な社会になるのだろうか? もちろん、そのような支配従属の社会は平和であるわけがない。

 相手を屈服させるために殺し合ったり、認知戦で騙し合って支配従属関係をつくろうとすること自体が愚かなことであり、それは国家の有無とは関係ないだろう。私たちが目ざすべきは、支配従属関係のない協力的な社会だ。人々が協力しあうことで成り立つ社会はそもそも格差のない対等な社会なのだから。

 支配従属関係のない協力的な社会は、競争と格差、そして環境破壊をもたらした資本主義と決別し、限りない経済成長という欲望を止めることでしか実現しないと思う。人が支配欲と競争に執着している限り、決して対等で平和な社会はつくれないと思う。

 

2022年3月 6日 (日)

グレート・リセットに騙されてはいけない

*昨日のツイートより

しばしば耳にするようになったグレート・リセットとは、資本主義と民主主義、そして金融システムをリセットし、全体主義的な行動管理社会へ移行させるということ。世界のごく一部の人達が集まって(ダボス会議)、勝手に世界を支配する計画を立て進めている。
ダボス会議「グレートリセット」で仕組まれる金融崩壊とコロナ後の資本主義

コンセプトは「環境や格差に配慮した持続可能な資本主義への転換」だが、その中身は全体主義的な監視社会。大きな問題は人々を騙して全体主義の世界統一国家を作ろうとしていること。本当に素晴らしい社会体制を築くというのなら、人々を騙す必要などない。皆の理解の元に進めていけばいい話しだ。

しかし、それでは当然理解が得られない。これが実現すれば人々は資産を奪われ、常に監視され自由も奪われる、そういう計画なのだから。だから、危機をでっち上げて騙した上で、人々を支配しようというわけだ。陰謀論などとせせら笑う人も多いが、本当の陰謀だ。もちろんコロナ騒動はそのきっかけだ。

ロシアによるウクライナ侵攻も恐らくその一環。彼らは計画達成に向けて次々と仕掛けてくるだろう。マスコミを利用したマインドコントロールによる認知戦が始まっている。私たちの社会はコロナ前には戻らない。私たちがやるべきことは、一人一人がこんな馬鹿げた計画にノーを突き付けることだと思う。

グレート・リセットの最大の問題点は、ごく一部の人が他者を管理・支配するという体制が根本的に間違いだという点。人は助け合い、協力し合う共同体を築いて生き延びてきた生物だ。支配・被支配の関係はこれに逆行する。全体主義の管理社会は決して人々を幸せにはしない。これは自然の摂理。

今の環境問題も、資本主義の競争と経済成長によってもたらされた。行き過ぎた資本主義をリセットするのなら、「助け合い、協力し合う社会」「経済成長を求めない社会」に変えていくしかないだろう。そして世界の富裕層こそその財産を放出して協力的な社会の構築に資するべきではないか。

ところが、実際にはその富裕層たちが人々から資産を取り上げて全体主義の統一国家をつくるというのだ。そしてその達成のために人々を騙して逆効果の💉を打たせワクパスで管理。コロナで生じた財政難を機に金融もリセット。こんな理不尽で馬鹿げた話はない。グレート・リセットは完全に間違っている。

 

2022年2月28日 (月)

ウクライナ問題の真実

 今回のロシアによるウクライナの侵攻、マスコミではもっぱらプーチン氏が批判されている。もちろん私も軍事行動などとるべきではないという立場だ。しかし、マスコミ報道が果たして正しいのかと、ずっとひっかかっていた。

 というのも、コロナ騒動でマスコミは全くといっていいほど信頼できないと確信したし、マスコミが国際金融資本(ディープステート)に牛耳られていることは間違いないと思う。としたら、やはりウクライナ問題に関しても彼らはマスコミを操って自分達に有利な報道をさせている可能性が高い。

 そんなふうに思っていたところ、馬渕睦夫氏の動画を知った。この動画自体は2020年のものだが、ウクライナとロシアの対立の背景を知るために非常に参考になる。馬渕氏は、プーチン氏がウクライナを侵略したという報道は事実に反すると言う。そしてウクライナとロシアの紛争は、ロシアを支配するために仕掛けられた戦争だという見方をしている。つまり、国際金融資本がユーラシア大陸ひいては世界を支配するためにウクライナが利用されたと。

 馬渕氏の主張が正しいかどうかは分からないが、もしそれが事実なら、プーチン氏だけを悪者にしてしまうのは違うだろう。やはり、ウクライナ問題に関してもマスコミ報道を鵜呑みにしてしまうのは危険と言えそうだ。

 以下に馬淵氏の動画をリンクさせておくので、是非見ていただけたらと思う。

日本人が知らないプーチン大統領の本当の狙い  馬渕睦夫(元ウクライナ日本大使館大使)

 なお、苫米地英人氏は、米欧によるロシアへの経済制裁はグレートリセットの始まりではないかと指摘している。コロナ騒動に続いていよいよグレートリセットが動き出したのかもしれない。世界はどんどん混沌としてきている。以下参照。

米欧がロシアへの経済制裁を表明「SWIFT排除」「ロシア中央銀行への制限措置」〜 苫米地氏「影響は限定的、むしろグレートリセットの始まりに見える」

 

 

2022年2月16日 (水)

自然の摂理に反した先にあるもの

*今日のツイートから

 野生生物は自然の摂理によって個体数を調整している。たとえば、餌条件が悪くなったり栄養状態が悪くなれ産卵数や産仔数を減らす。それでも増え続けてしまえば、食べるものがなくなって個体数が減る。ずっと増え続けることはない。しかし、人間はそうした自然の摂理から大きくはみ出してしまった。

 農業や畜産によって食糧を安定して得るようになり、医療によって死亡率を減らし寿命を延ばすことに成功し、化石燃料を利用して産業を発展させてきた。そして地球上の人口は70億を超えてしまった。このまま増え続けたなら、食糧問題、環境問題、エネルギー問題、どれをとっても危機的状況になる。

 だったらどうすべきか? 人類が生き延びるために人口抑制は必然のように思うが、もちろんそれは野生動物が行っているように生まれてくる数を減らすしかない。今の危機的状況について皆が理解して産児制限に取り組むしかないと私は思う。しかし、世の中にはそう考えない人たちがいる。

 つまり、現在生きている人たちの寿命を一気に縮めたり、子どもが生まれないような体にしてしまおうと考える人がいるのだ。しかも人々を騙して。こんな考え方ができるのは人としての心を持っていないサイコパスだろう。そして今、彼らはその計画を実行に移している。殺人行為だ。

 地球に巨大な隕石が落ちたとか破局噴火など、自然現象によって人類が滅亡するのならそれは運命と言うしかない。事故などで亡くなっても、ある意味運命なのだろう。あるいは人為的な温暖化や環境破壊、環境汚染などが原因で多数の人が亡くなるのなら、愚かな人類の選択の結果として諦めるしかない。

 しかし、ごく一部の人間がお金や権力を利用して自分達以外の人たちを騙し、医薬品などを用いて人を減らすなどということが許されるのだろうか? これは戦争と同様、生物として決して選択してはいけない道だと私は思う。彼らがやろうとしていることは、それだけではない。

 生き残った人の徹底した管理と支配だ。さらに恐ろしいのは遺伝子を操作したり、マイクロチップなどを埋め込んで操ろうという思考。彼らの頭の中には「自然の摂理に従う」という意識はまるでなく、むしろそれに逆行したことをしようとしている。これは破滅をもたらすだけだろう。完全に狂っている。

 本当はもっと早い時期に人口問題に取り組まねばならなかったのだと思う。しかし、人は自然の摂理に反し経済成長による豊かさを求め続けた。ここにそもそもの過ちがあったのだと思う。もし人類に未来があるなら、経済成長に終止符を打ち、格差をなくして協力し合う共同体を築いていくしかなかろう。

 

2022年2月12日 (土)

今、世界で起きていること

 多くの人は、人口削減だとか金融支配などというのは「陰謀論」だと信じて疑わない。しかし、もはやそんなことを言っている場合ではない。壮大な計画遂行のために私たちの大半がマインドコントロールされ、「陰謀論」だと信じこまされていることを知らなければならない。

 以下の動画はこれまでも何度か紹介してきたライナー・フューミッヒ弁護士による大陪審での冒頭陳述だ。今、世界中で遂行されようとしている計画の概要がこの彼の意見陳述に凝縮されている。

 世界を支配しようとしている大富豪たちは、すでに国家も、マスコミも、国連もWHOも支配下に置いている。そして彼らの目的は世界的の人口の大幅な削減、生き残った人のDNA操作、デジタル通貨による世界の金融支配。もちろんこのパンデミックもPCR検査によって作り出されたものであり、今は「終わりの始まり」。

 私はツイッターでコロナを恐れないこと(実際に怖い感染症ではない)、PCR検査を止めること、マスクを止めること、ワクチンを打たないことを訴えてきた。これらを続けているということはマインドコントロールされ続けているということ。

 国家もマスコミも国連も支配されている以上、この流れを変えることができるのは私たち一人ひとりの覚醒と抵抗しかない。

 世界を牛耳ろうとしている人たちが一番恐れているのは、世界中の人たちがこのマインドコントロールに気づき、抵抗を始めること。そして自分達が犯罪者として裁かれること。これらを避けるためには何でもやるだろう。コロナ騒動が一段落しても、決して元の日常は戻ってこない。

 私たちから基本的人権を奪おうとする日本の改憲もこの流れの中にある。だから、改憲を決して認めてはならない。

 多くの人にこの動画を広めてもらいたい。言論の自由が奪われる前に。

 

 

 

2020年11月 3日 (火)

日本の医療の矛盾に切り込む「日本の医療の不都合な真実」

 森田洋之著「日本の医療の不都合な真実」を読み終えた。本書は前半が新型コロナ問題に割かれ、後半はデータと夕張の診療所勤務の経験を踏まえ日本の医療の問題点を掘り下げている。

 ツイッターでは新型コロナ問題で医師や研究者などもかなり発言しているが、意見は非常に多彩で、一般の人達にとっては何が正しいのか判断するのは難しい。新型コロナを非常に警戒し検査と隔離によって感染拡大を防ぐべきだという意見や、中には根絶を目指すべきだという意見まである。その一方で、日本の場合は陽性者の数が増えていても死者数はほとんど増加しておらず厳しい対策は経済死を増やすという意見もある。

 森田氏の意見は後者だ。日本を含め東アジアでは欧米に比べて人口当たりの死者数は非常に少ない。これは偶然のこととは考えられず、BCGの接種や既存コロナの交差免疫が関わっている可能性が高いのではないかという。また韓国の例などからPCR検査を増やせば死者を減らせるという意見にも否定的だ。ウイルスを根絶しようとするのは間違いであり、ウイルスを殺すのは免疫力だという。私もほぼ同じ意見だ。

 私は3月までは都市封鎖や検査と隔離による封じ込めをするべきだと主張していた。ツイッターで流れてくる武漢の状況を見る限り、このウイルスは感染力と致死率が極めて高く、強硬手段をとらないととんでもないことになると感じだからだ。しかし、BCG仮説を知ってからはその考えは大きく変わった。実際、BCG義務国である日本は、欧米とは比較にならないくらい人口当たりの死亡者数は少ない。これから冬に向けてPCR検査陽性者が増えていくとしても、この傾向はおそらく変わらないだろう。流行初期は警戒すべき感染症であっても、細胞性免疫によってやがて普通の風邪になっていくのではないかと思う。

 BCG仮説に関しては「仮説であり立証されていない」という意見がまだまだ多い。しかし、最初にBCG仮説を提唱したサトウ・ジュン氏はツイッターでBCG仮説を支持する実験や臨床試験などの結果をしばしば紹介している。私はほぼ立証されたと言っていい段階にまできていると思っている。

 さて、本書で森田氏が最も主張したかったのはコロナ問題というより今回のコロナ騒動から見えてきた日本の医療の問題点だ。森田氏は本書の後半で、以下の7つの言説について否定している。

・病床が多いと平均寿命が延びる
・全国どこでも同じような医療が受けられる
・医師が忙しすぎるのは医師不足だから
・地域の病院は減らしてはいけない
・公立病院の赤字は税金の無駄遣い
・病院がなければ高齢者は幸せに生きられない

 これらについての具体的な説明は本書に譲るが、印象に残ったのは日本は人口当たりの病床数がダントツ一位で平均寿命もトップだが、世界の傾向は病床数を減らしつつ平均寿命を延ばしてきたというグラフだ。また、日本国内で病床数が多い都道府県ほど一人当たりの入院費が多いことを示すグラフも驚いた。病床数が最も多い高知県民は最も少ない静岡県民の2倍近い入院費を支払っているという。病床が多い地域では空き病床を埋めようとする力が働くとしかいいようがない。

 日本は世界で最も病床数が多いにも関わらず、新型コロナが猛威を振るったこの春、コロナ患者を受け入れた一部の病院は医療崩壊寸前まで追い込まれ、受け入れを拒否した多くの病院は逆に患者が減ってしまった。しかも、どちらも経営的に大変な状況に追い込まれた。私も、これに関しては宇沢弘文氏の指摘した「医療的最適性と経済的最適性の解離」が新型コロナで明瞭になったとツイッターで呟いたが、民間病院が多い日本の医療が抱える大きな矛盾だ。感染症の流行で多数の病床が必要になったときにも、民間病院が協力し合って患者の受け入れ態勢を整えるという融通が利かない。

 また、経営を最優先する民間病院では、検査漬けや薬漬けになりやすい。私も親族の入院などで、病院が必要とは思えない検査を行うことを何度も経験した。肺がんで入院しているのに婦人科の内診をしたり、急性膵炎で入院した高齢者に原因究明との理由でいくつもの検査をしたり、意味があるとは思えないMRI検査を予約させたり。高額な検査機器の費用回収という目的なのかもしれないが、医療を市場原理に任せてはならないとずっと感じてきた。森田氏は不必要な医療が多数存在するというが、私もその通りだと思う。

 日本は国民皆保険によって低額で医療が受けられるが、寝ていれば治癒する風邪やインフルエンザで医者にかかり、薬を出してもらいたがる人がとても多い。もちろんインフルエンザでも亡くなる人はいるので重篤な症状があれば医療機関を受診すべきだが、患者自らが検査漬けや薬漬けを希望している側面も否めない。コロナ禍で医療機関にかかる人が激減したが、過剰な医療を受けている人が多いことが浮き彫りになった。

 また、森田氏はプライマリ・ケア医の重要性も指摘する。プライマリ・ケア医とは、子どもから高齢者、急病から老衰の看取りまでどんな困りごとにも対応してくれる地域のかかりつけ医のことだ。しかもプライマリ・ケア医は心や体だけではなく社会(地域)も診ることが求められるという。北海道の地方に住む私もプライマリ・ケア医を普及させることは賛成だ。これは地方だけに当てはまることではなく、都会でも同様だと思う。

 北海道の夕張市は財政破綻し、市内に一つしかなかった171床を持つ「夕張市立総合病院」が閉鎖され、19床の有床診療所と介護老人保健施設に縮小された。森田氏はその診療所の医師として勤務した経験から、訪問診療や訪問看護を充実させることで入院患者を減らせるだけではなく、救急搬送も減り、患者の生活の質も向上したことを紹介している。私も訪問診療や訪問介護はもっと普及すべきだと思うし、森田氏の意見に基本的に賛同する。高齢者をすぐに病院に入院させてしまうのではなく、在宅で診療や看護をしてもらえるのなら、生活の質を保つことにつながり、精神面でもメリットが大きいと思う。

 森田氏は夕張モデルを根拠に厚労省の公立病院の統廃合も肯定している。しかしこの点に関しては、私はもっと慎重であるべきだと思う。病院の閉鎖後に夕張のような体制が整えられるのならまだ分かるが、先行きが分からない中で「廃止ありき」で進められるのなら住民の理解が得られるとは思えない。

 私も北海道の僻地に住む以上、都会と同等の医療を受けられるとは思っていない。しかし、地方の過疎化と高齢化は歯止めがかからず医療機関の数も公共交通機関の本数も減る一方で、運転免許を手放したら僻地に住み続けるのは極めて困難になる。正直いって、住み始めた頃はここまで不便になるとは思ってもいなかった。大きな街に移住していく高齢者が後を絶たないのもよく分かるし、私自身も身内の入院をきっかけに移住を考え始めている。

 個人的には、地方の公立病院は規模を縮小しても存続してほしいと思う。今はITを利用した遠隔診療も可能になってきており、疾患によっては地方の病院での救急搬送の受け入れも広がるのではないかと思う。また患者が少ないからと診療科を減らすのではなく、定期的に専門医を派遣してもらうということも一つの選択肢ではなかろうか。

 医療を市場原理に任せてしまったことが日本の医療の矛盾の根底にあると思う。本書では触れられていないが、医療業界と製薬会社などの癒着や利権構造もその矛盾を大きくしているのだろう。医療はやはり社会的共通資本としてできる限り公平に、無料ないしは安価で提供できるのが理想だ。そのためには新自由主義から抜け出さねばならないし、私たち一人ひとりの意識改革も必須だと思う。

 

2020年10月23日 (金)

『人新世の「資本論」』が描く脱成長の豊かな社会

 斎藤幸平著『人新世の「資本論」』を読み終えた。久々に衝撃的な本に出合った。

 本書の主張を端的に言うならば、今の環境危機を招いたのは限りなく成長と利潤の追求を続ける資本主義であり、環境危機から人類を救うためには資本主義から脱却しなければならないということだ。そして、著者の斎藤氏はその解決方法がマルクスの思想の中にあることを見出し、具体的な提言をする。

 今の時代に資本主義を否定したり、経済成長を否定する人は極めて少ない。環境問題を主張する左派の人でさえ、経済成長を明確に否定する人はそれほど多くないのではなかろうか。私は正直言ってそのことが不思議でならなかった。

 10代の終わり頃、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ。当時の私にはかなり難解だったが、私はこの本を読んで資本主義に絶望的になった。限りない利潤の追求はいずれ富の偏在や不平等に行きつくだろうし、そもそも有限な地球で限りない利潤の追求など続くわけがない。子どもの頃から虫や自然が好きで、経済成長とともに自然が破壊され公害が発生していく現実を目の当たりにしていたから、利潤追求の資本主義に恐怖を感じたし、私には、資本主義を賛美する人達の思考が全く分からなかった。

 私は強く支持する政党がない。なぜなら日本には資本主義を否定して脱成長や定常経済を主張し環境問題に真剣に取り組む政党が見当たらないからだ。

 私はこのブログでも脱成長や定常経済、地球温暖化について何度か唱えてきたが、経済成長の否定に関してはどちらかというと直感的なものからきていた。地球の資源は有限であるし、そこに住める人の数も限られる。しかし経済成長が地球の資源を食いつぶして成り立っている以上必ず限界がくるし、温暖化をはじめとした地球環境問題も経済成長に端を発している。

 人類が地球上で生物進化によって誕生し、地球という生態系を外れて生きていくことができない以上、経済成長は自滅の道でしかないだろう。生物は環境の変化に応じてゆるやかに進化適応しているが基本的に「定常」状態であるからこそ、生物多様性が保たれているのだ。そして気の遠くなるような年月をかけて種分化した生物たちを、人類がものすごい勢いで絶滅に追いやっている。無限の経済成長は地球の生態系のシステムを破壊し、地球温暖化問題として人類の生存を脅かすようになった。

 またグリーン・ニューディールや技術によって環境問題を解決しようとしても、経済成長を目指す限りおそらく上手くいかないだろうということも直感していた。人が自然の摂理に逆らおうとしても、自然はそれを押し返そうとする。技術で自然をコントロールしようという思考こそが人類の驕りだ。

 しかし、本書は私が直感的に感じていたこれらのことを実に論理的に解き明かしている。単に問題点の指摘に留まらず、気候危機を乗り越えるために私たちはどんな社会を構築し、どんな行動をしたらいいのかという具体的な提言は見事と言うしかない。

 私自身、今の尋常ではない格差の拡大も、自然環境の破壊も、地球温暖化問題もみんな繋がっていて資本主義に起因しているということは分かっていても、ではどうやって資本主義から定常経済への転換を遂げるのかということになると、頭を抱えてしまっていた。

 せいぜい思いつくのは、成熟した資本主義から一気に別の定常的なシステムに移行することはできないだろうから、まずは北欧型の福祉国家に転換することで平等な福祉国家に移行して貧困の解消と労働環境の是正をはかりつつ定常経済へのソフトランディングの道を探るということくらいだった。しかし、本書を読んでその考えは修正をしなければならないと思った。

 北欧型の福祉国家は資本主義社会においては確かに対等で平等な社会を実現するためのシステムとして優れていると思う。しかし、やはり資本主義が根底にある以上、北欧型社会を実現しても地球危機の問題は解決しない。人類が直面する環境危機から脱するには限りない利潤追求や経済成長、つまり資本主義を否定するしかないのだ。しかも、一刻も早く資本主義から抜け出す必要がある。気候変動への対応も、対等で平等な社会への移行も、労働環境の改善も待ったなしの状態だ。本書を読めば、そのことが確信できる。

 もう一つ、斎藤氏の主張で大事なことは、資本主義の発展によって搾取されてきたグローバル・サウスの人達の声を聴き連携するという主張だ。私たち先進国の人達の豊かな生活が、グローバル・サウスの搾取から成り立ってきたことを、多くの人は実感していないし知らない人も多いだろう。環境危機は地球規模で起きているのであり、世界の国々の人達が同時に立ち上がって行動しなければ解決しない。

 日本は利権構造が根強くはびこり、地球温暖化対策も声高に叫ばれないし、経済成長神話から抜け出せない人達が大多数だ。私は正直いって、かなり絶望的な気分になってきていた。しかし、斎藤氏の提唱する「脱成長コミュニズム」は決して実現不可能な話ではない。企業という組織から抜け出して協同組合やワーカーズコープに移行することは現実的な提案だ。

 第六章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」から一部を引用しよう。

 もう新自由主義には、終止符を打つべきだ。必要なのは、「反緊縮」である。だが、単に貨幣をばら撒くだけでは、新自由主義には対抗できても、資本主義に終止符を打つことはできない。
 資本主義の人工的希少性に対する対抗案が、〈コモン〉の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。

 この引用部分だけでは何を言っているのか分からないかもしれないので、少し説明したい。資本主義というのは商品の希少性をつくりだす。たとえば水というのは誰もが必要であり「使用価値(有用性)」がある。ところが水道事業を民営化して商品として扱うと、水の商品としての「価値」が重視されて価格が吊り上げられ、水質や維持管理費はないがしろにされることになる。その結果、水道料金を払えない人は給水を停止されてしまう。つまり水を商品化することで希少な有償財になってしまい、使用価値も棄損される。これが「資本主義の人工的希少性」だ。水を共同体の所有物として管理し、一定のルールの下に誰でも利用できるようにするのが「〈コモン〉の復権」だ。

 斎藤氏は脱成長コミュニズムの柱として①使用価値経済への転換 ②労働時間の短縮 ③画一的な分業の廃止 ④生産過程の民主化 ⑤エッセンシャル・ワークの重視 を掲げている。それらの詳細については、是非本書をお読みいただきたい。(注)

 新自由主義に危機感を抱く人の多くが「反緊縮」で思考停止してしまっている。MMTによる反緊縮の主張はその最たるものだろう。しかし、それだけでは決して気候変動は止められないし、世界中の誰もが幸福になれる道でもない。

 もう一つ付け加えるなら、斎藤氏の目指す脱成長コミュニズムこそ、人々に精神的な安定と豊かさをもたらすに違いないと思う。資本主義は格差を拡大させたばかりではなく、人々を終わりなき競争に追い立てることで精神的にも疲弊させた。脱成長コミュニズムはまさに人々が信頼し協力しあう社会であり、心理学者のアルフレッド・アドラーの提唱する共同体感覚と一致する。脱成長コミュニズムは、資本主義で失われた精神の安定や幸福感を取り戻すことができるのではなかろうか。

 これだけ格差が拡大し富の偏在が生じた社会において、資本主義に見切りをつけ定常経済に移行するのはもちろん容易なことではないだろう。当然のことながら大企業や富裕層の大きな抵抗を覚悟しなければならない。しかも資本主義、とりわけ新自由主義で競争に駆り立てられ、国民が「信頼と相互扶助」の意識を失ってしまった国ほど困難が付きまとうのではないかと思う。しかし、今それをやらねば、私たちの住む世界は混沌とした野蛮状態に陥り環境危機で自滅するだろう。

 私たち一人ひとりの決断と行動が、未来への責任を負っている。「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義から、そして資本主義からきっぱりと方向転換すべきだ。

*注 10月24日に引用部分についての説明を追記しました。

 

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