雑記帳

2017年11月14日 (火)

頭髪や服装に関する校則は必要か

 少し前に大阪の府立高校の女子生徒が頭髪の黒染め強要で大阪府に対して損害賠償を求める裁判を起こしたことが話題になった。詳しくはこちらを参照。

 この学校では染髪や脱色を禁止しているという。染髪を禁止していながら、生まれながらの茶色い髪を黒染めにしろと強要するとは倒錯としか言いようがない。学校という教育現場で未だにこんな人権無視の強要が行われていることに驚愕する。そしてさらに驚くのは、大阪府の全面的に争うという姿勢だ。まともな人権感覚があるのなら、教師の非を全面的に認めて謝罪し慰謝料を支払うことで和解すると思うのだが。

 私は中学や高校の頃から身なりについて細々定めた校則は馬鹿げていると常々思っていた。女子は髪の毛が肩にかかったらゴムで縛りなさいとか、スカートの丈は膝下とか、パーマやカールは禁止とか、なぜそんな細かいことを規制するのだろうと不思議でならなかった。髪が長くなればたしかに煩わしくなるが、不便なのは本人なのだから自分で適宜対処すればいい話しだ。髪の毛の色が茶色であろうと、カールしていようがいまいが(生まれつきくせ毛の人だっている)、スカートが多少長かったり短かかったとしてもが学校生活には何の関係もない。

 もちろん人が社会生活を営むためには法律やルールは不可欠だし基本的には守るべきだ。しかし、立場が上の者が下の者を縛ることを目的にしたルールは独裁者が好むものでありとても危うい。また民主主義国家では、ルールは基本的人権を尊重したものでなければならない。中学や高校の校則の中で、頭髪や服装などの生活面に関するルールは生徒の権利を侵害してはいないだろうか。そして本当に必要なものなのだろうか?

 私は頭髪や服装に関しては本来自由であるべきだと思う。染髪は頭皮にも髪の毛にも悪影響があるし個人的には賛同できないが、だからといって禁止すべきものでもないと思う。禁止したところで、規則を守らない子どもはいるものだし、日頃は守っていても夏休みなどに染髪する子どももいる。染髪にしても化粧にしても必ずリスクがあるわけで、まずは学校でそうしたリスクをしっかりと教育するのが先決だろう。その上で、自由にさせればいいのではなかろうか。

 制服も必要だとは思わない。制服に関しては賛成意見が多いのは承知しいている。私服にしたら華美になる、お金がかかる、服を選ぶのが大変・・・などという意見も根強い。しかし、デメリットもいろいろある。たとえば、気温や天候の変化に対応しづらい、堅苦しく活動的ではない、簡単に洗えない、値段が高い、成長期の子どもに適さない、個性がないなど。

 「華美になる」というのは勝手にそう思い込んでいるということもあるし、他者からの評価を気にしすぎる日本人らしい感覚だと思う。小学校や大学などで果たしてそんなに華美になったり競争になったりしているだろうか? もちろん中にはブランド物を好んだり、服装に拘って毎日着替える人もいるだろうが、それはむしろ一部にすぎないと思う。現に、私服の高校で華美になっているという話しは聞かない。

 「お金がかかる」「服を選ぶのが大変」というのも、他者の目を気にして競争をしよう(あるいは皆と同じような服装にしなければならない)と考えるからだろう。「フランス人は10着しか服を持たない」という本がある。この著者は、「なぜフランス人は服を10着しか持たないのか? 本当の自分らしさをもたらす、小さなクローゼットのつくりかた」でこんなことを書いている。

同じ服を何度も何度も着るという考えですが、私たちはそれを少し恥ずかしい事だと思っています。たくさんの人や過去の私もそうでしたが、同じ服を1週間に2回も着たくはありません。特に同僚の前だったり、学校では他のお母さんたちの前では。

 これは私もすごく感じる。たとえば子どもがいる母親の場合、入学式や卒業式などが立て続けにあったりするが、その度に違う服を着て行く人がいる。これなど明らかに他者の目を気にしており「同じ服を何度も着ることが恥ずかしい」と思っているのだろう。しかし、一昔前、たとえば私の親が若かった頃などは持っている服も少なく、同じ服を繰り返して着ていたのではなかろうか。ところが戦後の高度成長で物が豊かになるに従ってすっかり感覚が変わってしまったのだと思う。

 本来、子どもは他人の目など気にしない。わが家では子どもが小さい頃、知人からいただいたお下がりの服が沢山あった。私が服を選んで着せようと思っても、子どもは自分の好きな服ばかりを着ていた。ところが小学生くらいになると、他人の目を気にしはじめる。そして皆と同じような格好をしたがるようになる。他者の評価を気にし始めるのだ。そして、「皆と同じ」でなければ悪口を言われたり冷やかされたりするのだと学んでしまう。もちろん子どもがそのように変わってしまうのは大人の価値観が大きく影響している。私たち大人が、日頃から自分の好きな服を身につけ、同じ服を着回すことが当たり前の生活をしていれば、子どももそれが当たり前だと思うに違いない。

 同じ服を繰り返して着ることに抵抗を持たなければ、沢山の服を持たなくてもいいしお金もさほどかからない。服選びに時間がかかることもない。制服であれば毎日同じ服でも平気なのに、私服だと同じ服を繰り返して着るのは恥ずかしいという感覚こそおかしいことに気づくべきではなかろうか。つまり「同じ服を繰り返し着るのが恥ずかしい」という意識さえ変えることができれば、制服のメリットはほとんどないと思う。そして、これは個人の意思でできることだ。

 21世紀になっても頭髪や服装を自由にさせたがらない日本の学校は、生徒を管理して従わせることしか考えていないのだろう。これでは生徒が主体性を持つことも難しい。というより、生徒が主体性を持たないように教育しているとしか思えない。

2017年11月 5日 (日)

日本人には全体主義が染み込んでいる

 ツイッターで日本人はそもそも全体主義だと言っていた人を見かけたのだが、ドイツ人に関する以下の記事を読んでたしかにそうなのだろうと思った。

デキる人は「他人は別の惑星の人だ」と考える(東洋経済)

 上司と部下の関係に関する冒頭の話しはとても興味深いので一部を引用する。

 日本の銀行でドイツ支社に勤務していたときの話です。部下だったドイツ人女性から、彼女のミスでトラブルが起きているという報告を受けました。トラブルの内容は、彼女がある顧客との間で、ルールで定められている書面を交わさないままに仕事を進めてしまったということでした。
 その報告を受けて、私は開口一番「なんでそんなことをしたの?」と言ってしまいました。すると彼女は、
 「ミスター・スミタ、あなたの仕事は『なぜ?』と聞き返すことではない。事後処理にベストを尽くすのが、あなたの仕事だ」

 と言い返してきたのです。

 日本では部下が失敗したら原因探しをし、責任を部下に押しつけて叱責する上司が大半だ。しかし、ドイツでは上司が部下の失敗の責任も引き受け事後処理にベストを尽くすのが当たり前になっているようだ。部下を叱りつけたところで失敗の事実が消えてなくなるわけではないし、まずやらねばならないのは事後処理でありその後に再発防止だろう。

 失敗から学ぶことは大事だし失敗の原因究明がどうでもいいとは思わない。しかし、失敗したからといって叱責したり批判する必要はない。怒りという感情を使えば人間関係が悪化する。叱られれば仕事へのモチベーションは下がる。部下は上司の顔色を窺って臆病になり、主体性を失ってしまう。

 考えてみれば当たり前のことなのだが、日本ではドイツ人のように考える上司はとても少ない。なぜそうなるのかを考えてみると、上司と部下という関係において、上司が絶対であり部下は上司の指示に従うものという全体主義が染みついているからなのではないかと思う。部下は上司あるいは組織の命令を聞くのが当たり前とされる社会だから、記事に出てくる女性のように部下が上司に自分の意見をはっきりと言うということすらほとんどない。「上から下」という縦社会が徹底しているのが日本だ。そればかりではなく、部下が上司に忖度をしてしまうということすら起きる。欧米では考えられないことだろう。

 ドイツでは組織より労働者を大事にするという考え方も同様だ。労働者を大事にしてこその会社だから労働者の権利を尊重する。労働者が自分に合った働き方をするし、それができる社会だ。日本のようにブラック企業がはびこるということもないのだろう。労働者が会社のために酷使される日本とは正反対だ。

 「人は人、自分は自分」という意識がはっきりしているという指摘もあるが、これは「課題の分離」ができているということだ。つまり他人からどう思われるかを気にせず自分の人生を生きるということなのだが、日本人の大半はこれができない。常に他者の評価を気にして周りに合わせてしまう。自分というものを持たず、全体の流れに従う。するとどうなるか。自分で決めたことならその結果責任は自分で引き受けなければならない。ところが「世間に従う」「全体に従う」ことで自分の責任をあいまいにできる。

 先の民進党の希望の党への合流劇の際、「みんなで決めたことに従っただけ」と言う元民進党議員がいたそうだ。希望の党への合流という提案を両院議員総会で了承したのは事実であっても、踏み絵を踏んで希望の党に入党するかしないかかの選択は個人にある。いくらみんなで決めたことだからといっても安保法制や改憲に賛成できないのなら希望の党へは行かないという選択肢もあった。立憲民主党も発足したのだから「他に公認を得るための選択肢がなかった」と言うことにはならない。「みんなに従った」という言い訳で、自分の選択責任を逃れているとしか思えない。

 ツイッターを見ていてうんざりとするのは右派とか左派に関係なく罵詈雑言で溢れていることだ。他者におもねることなく主体性をもって自分の意見を言うことは大事だし、権力者を監視し批判したり政治に関して意見を述べることも主権者として必要だと思う。事実誤認があれば指摘したり、公益目的に公人や企業などを批判することも意義がある。ところが、そういう指摘や批判ではなく、自分と違う意見を言う人に対する攻撃や罵詈雑言で溢れているというのはどういうことなのだろう。自分と正反対の意見に対し好感を持てないのは分かるが、他人の意見は尊重するというのが民主主義の基本ではないか。

 自分の意見を述べたり他者の意見に反論をする際に、意見の異なる個人を叩いて貶めたり誹謗中傷する必要など何もない。たとえ事実であっても公益性のないことで他人の社会的評価を低下させたら名誉毀損という犯罪になる。批判的意見と誹謗中傷や人格否定は全く別のものだ。インターネットでは匿名の無責任さがモラルの低下につながっている。

 異なる意見の人を敵であるかのごとく攻撃するという行為は「人は人、自分は自分」という区別ができておらず個が確立されていないということに他ならない。

 こういう人は時として意見を同じくする集団に依拠している場合があり、仲間がいるからこそ強気になっている人もいるようだ。あるいはインターネットを他人を叩いて優越感に浸る道具にしているのかもしれないが、学校でのいじめと何ら変わらない。学校でのいじめが個を尊重しない全体主義に根差しているように、ネットでの誹謗中傷の根源も匿名による無責任さと全体主義にあるように思う。

 こうやってみると、やはり日本人の多くは全体主義が染み込んでいて責任をとりたがらない人たちなのだと思わざるを得ない。このまま進めばどうなるのか? 独裁的な人たちにいとも簡単に騙されることになる。自分が騙されて独裁政権を選択しても、独裁者のせいにして自分の選択責任をとろうとしない。安倍強権政治の存続を許し、憲法が改悪され、個人の基本的人権が制限されるようになるだろう。そして完全な独裁政権となり自由に意見も言えない社会になるだろう。共産党が弾圧されたあの時代の再来になりかねない。

 ドイツは過去にナチスによるユダヤ人の大虐殺があった。その反省と戦争責任から新しい憲法が生まれたという歴史がある。これに関しては「戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本」をお読みいただきたい。しかし、日本では過去の侵略戦争に対していまだに責任をとろうとしない。とりわけ天皇に関する戦争責任はうやむやにされたままだ。ここがドイツと日本の大きな違いだ。日本では全体主義からくる無責任が戦後ずっと続いて今日に至っているように思えてならない。ここまで書いて、なんだか辺見庸氏と同じことを言っていると改めて思う。

 では、どうやったらこの全体主義から抜け出せるのだろうか? まずは、自分の選択したことの責任をきちんととるということ。もし誤った選択をしたならそれを認め軌道修正する勇気を持つこと。そして、自分が騙されないようにできるかぎり物事を客観視する努力をすること。人は誰でもバイアスがかかっており間違いを犯すのだから、自分が絶対に正しいという視点から異なる意見の人を叩かないこと。しかし、間違いを犯すまいと沈黙をしてもいけない。私はそんな風に思う。

 全体主義から抜け出すには個人個人が主体性と責任感を持つしかないと思うのだが、独裁国家の出現はもう眼前に迫っている。どうやったら最悪の事態になる前に個人が主体性を持てるのか・・・。諦めてはならないと思うのだが、どうしても無力感がつきまとう。

2017年9月20日 (水)

正しいアドラー心理学って何だろう?

 野田氏による岸見氏批判についての意見は「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」にすでに書いたが、野田氏の書いた「アドラー心理学を語る」シリーズの4冊を読んで、私は野田氏の主張する「正しいアドラー心理学」「正統なアドラー心理学」あるいは「標準的なアドラー心理学」の定義に疑問を持ちはじめた。

 「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問」に書いたように、アドラー心理学と謳っていながら他者を操作することを教えているのであれば、それは確かに「正しいアドラー心理学」とは言えないと思う。しかし、「嫌われる勇気」に対する野田氏の批判はそういう視点ではない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」のほかに、岸見氏の「アドラー心理学入門」「不幸の心理 幸福の哲学」「生きづらさからの脱却」「叱らない子育て」「アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ」「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」を読んだほか、小倉広著「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」、向後千春著「アドラー心理学のススメ」も読んだ。そして野田俊作氏の4冊シリーズも読んだ。

 それらを読んで感じたのは、著者の数に応じたアドラー心理学解釈があるということだ。

 野田氏は「性格は変えられる」の75ページでこう語っている。

―同じアドラー心理学でも、国によって違うんですか。
ずいぶん違いますよ。だいたいアドラー心理学っていうのはね、寛容というかルーズというか、「かくかくしかじかとアドラーは言った」って言いさえすれば、みんなアドラー心理学なんです(笑)。国によっても違うけれど、治療者個人ごとにもずいぶん違う。百人いれば百とおりのアドラー心理学がある。

 岸見さん、小倉さん、向後さん、そして野田さんの本を読んでみて、私も同様に思う。アドラーの言葉をどう解釈するかは人それぞれなのだから、アドラー心理学の解説書は必ず著者の解釈や意見が入ったものとなる。岸見さんは哲学の視点を取り入れた岸見流だし、精神科医として治療に取り入れている野田さんのアドラー心理学は野田流だ。

 これまで私が読んだ本は、著者の個性は感じられても、アドラー心理学の説明に関して大きな違いがあるとは感じられないし、まして間違いや重大な誤解があるとも思えない。岸見氏の「アドラー心理学入門」や「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」も簡潔にまとめられているとはいえ、アドラー心理学の解説として偏っているとは全く思わない。「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は個性的ではあるが、他のアドラー心理学の本の説明と比べても、間違いがあるとは思えない。

 「嫌われる勇気」で「課題の分離」が強調されているという面は否定しないし、本書でアドラー心理学をまんべんなく解説しているとも思わない。そもそもまんべんなく解説することを目的にしているというより、心理学などに縁がないような人にアドラー心理学の核心部分を明確に説明することを目的にしている本だと思う。率直に疑問を投げかける青年に哲人が明確に応えるという手法は、説得力を持たせることに成功している。

 「課題の分離」は共同体感覚を持つためには不可欠であるし、「空気を読む」習慣が身に染みついている日本人にとって「課題の分離」や「承認欲求」は意識すべき重要なポイントだ。ゆえに「課題の分離」や「承認欲求」に重きを置いていることに違和感はない。悩める青年(=多くの読者)に哲人が表意を突く回答をする展開になっているからこそ「嫌われる勇気」は読者を引き込むしベストセラーにまでなったのだと思う。

 だからといって「協力」や「共同体感覚」をないがしろにしているとも思わない。とりわけ続編の「幸せになる勇気」では貢献や信頼に力点が置かれている。また「課題の分離」が強調されているとしても、そのこと自体がアドラー心理学を誤解していることにはならないし、共同体感覚を理解していないということにもならない。

 野田氏はご自身のサイトで岸見氏批判を何度かしているが、野田氏の言う「正しいアドラー心理学」とか「標準的なアドラー心理学」というのは一体何なのだろう? 間違いとか標準から外れているというのも野田氏の意見でしかない。

 「嫌われる勇気」に関する批判は野田氏以外にもいろいろある。しかし、それらの批判の多くはむしろ読みが浅いゆえに誤解しているのではないかと感じることが多い。トラウマに関しては「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という言葉だけに反応している人もいるようだ。しかし本文をよく読めばトラウマやPTSDという症状の存在を否定しているわけではないことは十分理解できる。

 ちなみに、岸見さんはこちらの記事で「実はアドラー自身、第一次世界大戦中、軍医として、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療にあたっていました。トラウマの存在を知っていたのにあえて否定したのは、過去にとらわれず、これからをどう生きるかが重要と考えたからです」と語っている。トラウマが未来を決定するわけではないという目的論に則り「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という表現を用いたのだろう。

 私は目的論が間違っていると思わないが、人の言動や症状がすべて目的論で説明できるとも思わない。また、アドラーの目的論と現在の精神医療の現場で行われているさまざまな技法を用いたトラウマ治療は対立するものだとは思わない。重視する視点が違うだけであり、どちらかが間違っているというわけではないだろう。

 それから、「嫌われる勇気」の哲人の説明があまりにもストレートすぎるという批判もある。これにはメリットとデメリットがあると思う。ストレートな説明はアドラー心理学のポイントや概要を知りたい人にとっては理解しやすいし、自己受容が一定程度できる人ならストレートで厳しい指摘であっても受け入れられるし自分のライフスタイルを変えることに繋がる。しかし自己受容ができない、すなわち自分が不完全であることを受け入れられない人にとっては自分が批判されていると受け止めて嫌悪感を抱き、人によってはアドラー心理学を否定することになるだろう。したがって逆効果になる人もいるのも否めない。

 ただし、岸見さんがカウンセリングでクライアントに対してここで書いているようなストレートな指摘やアドバイスをしているとは到底思えない。確か、クライアントとともに解決方法を考えていくというようなことをどこかに書いていた記憶がある。この直截的な表現は明確な説明を意図した本であるからこそのものだろう。そこも勘違いをしてはならない点だ。

 「嫌われる勇気」に抵抗感がある人は野田さんの「アドラー心理学を語る」の方が読みやすいかもしれない。ただし、自己受容ができなければ野田さんの本を読んだところでライフスタイルを変えるという決断はできないと思う。

 「嫌われる勇気」批判に関しては、向後千春さんの以下の記事がとても的を射ている。

 アドラー心理学、「部下をほめてはダメ」の功罪 

 「嫌われる勇気」は批判する人がいる一方で、多くの人が高く評価し共感を呼んでいる。「嫌われる勇気」を自分の解釈に合わないという視点から批判することがアドラー心理学の発展につながるとは私には思えない。むしろ向後さんが指摘しているように、読者が誤解をしている部分があるなら、その誤解を解くような説明をするほうがよほど建設的だと思う。

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野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

2017年9月11日 (月)

野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

 野田俊作氏は1982年にシカゴのアルフレッド・アドラー研究所に留学してアドラー心理学を学び、日本にアドラー心理学を持ち込んで日本アドラー心理学会を立ちあげた精神科の医師である。日本のアドラー心理学の第一人者といえば、やはり野田氏だろう。その野田氏が以前一般向けに書いたアドラー心理学の解説書「アドラー心理学トーキングセミナー」および「続アドラー心理学トーキングセミナ―」が、昨年末から今年にかけて「アドラー心理学を語る」というシリーズ本となって再版された。「性格は変えられる」「グループと冥想」「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」の4冊だ。

 このシリーズ本は3月に読み終えていたのだが、感想を書くタイミングを失してしまった。遅ればせながら野田さんの本を読んだ感想を記しておきたい。

 「性格は変えられる」および「グループと冥想」は対話形式で、「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」は対話形式ではないものの、どの本も具体例を取り入れながら独特な語り口によって分かりやすい解説書になっている。

 第3巻の冒頭で「第3巻と第4巻で、非専門家のアドレリアン(アドラー派の心理学者)が知っておくべき内容は、ほぼ尽くされているのではないかと思っています」と記されているように、この2冊でアドラー心理学の概要をひととおり解説するものになっている。第1巻の「性格は変えられる」はライフスタイルを変える方法と共同体感覚についてより具体的に説明している書であり、第2巻の「グループと冥想」はグループ療法について具体的に解説しているものなので、第3・4巻から読み始めても何ら差し支えはない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」でアドラー心理学を知ったのだが、「嫌われる勇気」および続編の「幸せになる勇気」では、いわゆる「勇気づけの」方法が今ひとつピンとこなかった。しかし本シリーズの「勇気づけの方法」では、どんな会話が勇気づけになるのか、あるいはどんな言い方が「勇気くじき」になるのかが具体的に示されていてとても参考になる。そして、私たちは実に「勇気くじき」の言葉の洪水の中に置かれているかということにも気づかされる。

 野田さんのこの4冊のシリーズ本は、アマゾンのカスタマーレビューでも高い評価が多く、定評のあることが伺われる。アドラー心理学を学びたいと思っている方や、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読んでさらに理解を深めたいと思う方には最適だと思う。ちなみに岸見氏は野田氏からアドラー心理学を学んだ一人であり、第3巻の末尾に「野田先生と私」という寄稿を寄せている。

 内容については本書に譲るが、ひととおり読んで感じたのは、この本はまさに野田流アドラー心理学だということだ。単にアドラーの思想を解説しているというだけではなく、精神科医として実際の治療に関する話しも多く、野田氏の独自解釈や独自手法が加わっている。野田氏が示している治療例の中には、本当にこんなアドバイスが効果的なのだろうかと首を傾げたくなるような驚くべき提案もある。アドラー心理学を熟知した医師ならではの発想なのだろう。野田氏の本は実例なども示しながら仔細に語られているのが魅力であるが、それと同時に個性が強いという印象も否めない。

 これらの本の中で私がとくに興味を持ったり印象に残った点について、いくつか書き留めておきたい。

 「縦の関係」と「横の関係」について、野田氏は以下のように述べている。

 この二つは、違ったライフスタイルに基づいています。つまり、縦の関係で暮らす人は、徹底して縦の関係ばかりつくって、決して横の関係を持とうとしない。逆に横の関係で暮らす人は、徹底して横の関係ばかりつくろうとする。相手によって縦になったり横になったりするというようなことは、実際にはまずありません。

 「縦の関係」と「横の関係」がライフスタイルの違いなら、ライフスタイルを変えない限り、一生「縦の関係」のライフスタイルの人は縦の関係を維持しようとする。これは実生活の中でもしばしば体験することだ。支配的である人は常に他者の言動に口をはさんで文句を言ったり批判をする、あるいは周りの人の空気を読んでそれに従う人は従属的でありやはり縦の関係だ。そして身の回りの人たちを見ていると、多くの人がこのような縦の関係のライフスタイルを持っていることに気づく。

 しかし他人を変えることはできない。ならば、相手ではなく自分が変わることで問題の解決をはかるというのがアドラー心理学の考え方だ。たとえ縦の関係のライフスタイルの人に悩まされているとしても、自分が変わることで関係性が変わってくるという指摘にはなるほどと思うし救われる。これは横の関係を築くためのひとつのポイントだろう。

 自己受容と他者信頼、貢献感は実は同じもので、共同体感覚の三つの側面であるという説明も、本書を読み進めていけば納得がいく。そう考えるとアドラー心理学はやはりシンプルといっても過言ではない。

 冥想が良いとの話しはいろいろなところで聞いて知っていたが、なぜ冥想が良いのかということが「グループと冥想」で説明されていてなるほどと思った。陰性感情は怒り、不安、憂鬱の三つに大別されるが、このうち不安は未来についての感情であり、憂鬱は過去に起因する感情だという。これらは思考することによって生じる感情なので、冥想によって「今ここ」に集中することで消えてしまうのだという。呼吸法などの冥想のやり方を解説しているわけではないのだが、ダンスを取り入れた野田氏のグループ療法などはなかなか興味深い。

 もう一つ、アドラー心理学の「共同体」の定義についてはちょっと目からウロコだった。私は小さい共同体は家庭や職場、大きい共同体は国家などを指すのだろうと漠然と考えていたのだが、アドラーが考えていた一番狭い定義が人類全体だという。そして最大の定義は全宇宙。そこまで広範囲を考えているとはまったく思っていなかった。しかし、宇宙が共同体という考え方はまさに共同体=自然ということだ。人は紛れもなく地球の生物の一員であり生態系の一員であるのだから、共同体感覚というのは自然の摂理に逆らわず生態系の一員として謙虚に生きるということでもあるだろうし、これにはすごく納得がいく。

 以前、NHKの番組で狩猟採取生活をして協力的な生活をしているアフリカのある民族にはストレスがないということを紹介していた。人類は誕生から長い間、自然の中で協力し合って生きてきたに違いない。さまざまな自然の脅威はあっても、人間関係つまり同種間でのストレスがほとんどない社会を持っていた可能性が高いし、それこそ健全な生物の姿だろう。狩猟採取生活の人類は協力的な暮らしをしなければ生きていけなかったのだろうし、共同体感覚が自然に身についていたのかもしれない。しかし、文明の発達とともに支配・従属という縦の関係あるいは競争的な社会へと変わる中で、共同体感覚を失ってしまったのかもしれない。とするなら、自分自身の中にある共同体感覚を揺り起こすことも不可能ではないのではないか? 私は、人は「良心」という形で共同体感覚を内在しているように思えてならない。

 最後に一言。野田氏は本書の中で一貫してアドラー心理学はお稽古ごとであるから本では学べないという主張をしている。大半の人が性格を変えないという努力を続けている以上、本を読んだからといって容易に性格を変えられるものではないと思うし、まして共同体感覚は簡単に身につくものでもなかろう。とりわけ縦の関係のライフスタイルの人や自己受容に抵抗がある人にとっては、本を読んだところで実践しようという意欲も湧かない気がする。

 しかし、すべての人が縦の関係のライフスタイルを持っているわけではないし、縦の関係や自己受容の程度も人によって強弱があるのではなかろうか。縦の関係のライフスタイルの人であっても、アドラー心理学の本を読むことで少しでも今までと違う視点を持つことができ、今の性格を保つのをやめようと決断したり、さらに深く学んでみたいと思う人もいるだろう。横の関係のライフスタイルに共感できる人はアドラー心理学を受け入れるのはさほど困難だと思わないし、実践しようと思う人も多いのではないか。

 講習会やワークショップに参加できればそれに越したことはないだろうが、だからといって本で学ぶことに意味がないとは思わない。また、本は何度も読み返せるという利点がある。本というのは一度読んだだけではすぐに忘れてしまったり十分に理解できないことも多いが、繰り返し読むことによって理解が深まる。野田さんのこのシリーズも、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」も時々本棚から引っ張り出して読んでいるが、繰り返して読むことによって、少しずつ自分のものになっていくのだと思う。

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2017年9月 1日 (金)

忘れさられる関東大震災

 今日は9月1日。そして9月1日といえば真っ先に思い出すのが関東大震災。ところが、朝刊(北海道新聞)をめくってみても社説に防災の日の話題があっただけで関東大震災のことに触れる記事はない。

 さて、あの大震災から何年経ったものかと数えてみたら、94年になる。たしか1915年(大正4年)生まれの父が子どもの頃だったはずだが・・・と、父の随筆を読み返してみると8歳の時だと書いてある。上野に住んでいた父は不忍池の弁財天で一夜を過ごしたというが、谷中方面を除いて上野は火の海に囲まれたらしい。考えただけでもぞっとする。

 上野の山(山といっても丘のようなものだが)には、ピーク時は約50万人もの避難者が押し寄せたそうだから、さぞかし大変な状態だったに違いない。残されている当時の写真を見ると想像以上の人の群れだ。

関東大震災90年目の夏・写真レポート 

 10万5千人もの死者、行方不明者を出した大震災から94年、考えてみれば、あの大震災を記憶している人はほとんど亡くなってしまった。それにしても、何年か前までは9月1日といえば防災の日ということで大震災のことが取り上げられていたような気がするが、もはや新聞でも取り上げられなくなってしまったとは・・・。

 日本は地震活動、火山活動が活発化していると言われている。東日本大震災から6年以上が過ぎたが、あのときの震源域の北側と南側には大きな歪みが溜まったままだ。アウターライズ地震が起きると予測している人もいる。熊本地震のように、日本ではいつどこで大きな地震が起きるか分からない。さらに恐ろしいのは、全国各地に原発があることだ。稼働しているのは限られているとはいうものの、各原発には大量の使用済み核燃料が保存されている。

 先日の北朝鮮のミサイルではほとんど意味のないJアラートを発信し大騒ぎをしていたが、大地震などの自然災害を忘れないために制定された防災の日は何やら影が薄い。何度も大地震を経験している日本だが、果たして過去の震災の教訓は生かされているのだろうか? 適切な避難指示を出せるのだろうか? 避難所の体制は万全か? 被災地にすみやかに物資を届けられる体制を整えているのだろうか? 原発事故への対処は? ミサイルより大地震や大津波への備えの方がはるかに大事だろう。

2017年8月12日 (土)

菅野完氏の民事訴訟について思うこと

 8月8日に菅野完氏が被告となって争っていた裁判の判決があり、菅野氏の弁護士がこの裁判に関しての記事を公開した。以下がその記事である。

 菅野完氏の民事訴訟について(弁護士三浦義隆のブログ)

 裁判になっていることは菅野氏もツイッターで認めていたが、詳細については沈黙を貫いていたので分からないままだった。このブログ記事によってだいぶ状況が分かってきたので感想を記しておきたい。

 最初に断っておくが、私は性暴力は重大な人権侵害であり、加害者を擁護する気は毛頭ないという立場だ。菅野氏の件に関しても、紛争の原因をつくったのは彼にあるし、そのことで菅野氏を擁護する気はまったくない。彼は自分の行為に対して責任をとらねばならないし、社会的制裁を受けることも甘受せねばならないだろう。

 ところで何らかの被害が生じて紛争になった場合、問題解決(責任の取り方)としては賠償金や謝罪を求める方法と、刑事罰や行政処分など法に基づいた処罰を求める方法がある。被害者は片方だけ行う場合もあるし、両方行う場合もある。

 前者は話し合い、あるいは調停や裁判によって進められ賠償金で償うことになる。被害の回復といっても起きてしまったことをそれ以前の状態に戻すことは不可能なので、謝罪と賠償金で解決するしかない。

 後者に関しては、加害者の行為が違法行為に該当する場合、被害者が告訴して刑事罰を求めたり行政処分を求めることもできる。

 また、法律に基づかなくても懲戒処分の対象になる場合は処分を求めるということもあるだろう。社会的制裁である。公益目的にマスコミなどが事実を公開することも加害者にとっては社会的制裁になる。これらも加害者としては甘んじて受けなければならない。

 さて、三浦弁護士の説明によると、X氏は代理人弁護士を通じて内容証明郵便で菅野氏に200万円の慰謝料を請求したという。いきなり調停や裁判に出たわけではなく、話し合いによる解決を求めたと理解できる。今回の件に関しては菅野氏本人も事実であると認めていて争いがないし、菅野氏も被害者に謝罪し賠償金を支払うことで和解による解決を望んでいた。そして、X氏の要求してきた200万円の慰謝料も受け入れた。

 謝罪をし、被害者が求めた慰謝料の全額を払うというのだから、ここで和解が成立するのが通常の経過だ。ところが、X氏は菅野氏のツイッターアカウントの削除や女性の権利問題に関する言論活動の制限に拘って和解を蹴り、裁判に打って出た。

 常識的に考えて、事件と全く関係のない要求が裁判で通るとは思えない。しかも裁判になればさらなる弁護士費用がかかることになるし、賠償金額も要求額より減る可能性が高い(実際、判決では要求額の半額の110万円だった)。自分に不利になるとしか思えない裁判を選択するというのは、極めて異様で不可解な対応だ。三浦弁護士も「菅野氏に社会的制裁を加えること自体がX氏の目的なのではないか」と書いているが、第三者の目からもそうとしか思えない。

 賠償金での解決を図る民事訴訟で制裁をすることにはならない。したがってX氏が民事での解決だけでは気が済まないのなら、菅野氏を告訴して刑事事件にするか、事実の公表をするなど民事訴訟以外の方法をとる必要がある。ただし、刑事事件にはなっていないようだ。刑事事件にするほどの違法行為があったわけではないのだろう。そんな中でX氏がとったのは週刊金曜日での公表という社会的制裁だ。

 週刊金曜日は記事を書くにあたり、取材によってX氏の可解な訴訟での対応を把握できたはずだし、X氏が菅野氏の私的制裁に強い拘りを持っていることを察知できただろう。であれば、性被害の事実だけではなくX氏側の不可解な対応も報道しなければ公平性を欠く。

 被害者が報道機関を利用して事実を公表するなら、それはあくまでも公益目的で行うのが筋だと思うし、報道機関側もX氏の言い分だけを垂れ流して個人的恨みによる報復に加担するようなことがないよう十分に配慮する必要があると思う。菅野氏の裁判をめぐって私が疑問に思うのは、まさにこの点だ。

 ところが、記事では裁判の不可解な経緯についてまったく触れられておらず一方的に菅野氏を糾弾する内容になっているし、事実をねじ曲げた部分もあるようだ。しかも記事が掲載されたのは菅野氏や裁判所が和解による解決を模索している裁判の最中だ。

 菅野氏は反省文の公表をX氏から拒否された。さらに性トラブルの加害者であるがゆえに、二次加害を避けなければならない立場だ。また係争中の事案であることもあり週刊金曜日の記事に対して反論も釈明も行わなかった。言いかえるなら、X氏は菅野氏の弱みにつけこんで彼の謝罪や釈明を事実上封じた上で、週刊金曜日に自分の主張だけを流したと言えよう。係争中だから記事にしてはならないという決まりはないが、こうした経過を知ってしまうとX氏のやり方に卑劣さを感じざるを得ない。こうしたやり方は、社会的制裁を通り越した個人的な報復感情による仕返し、嫌がらせとしか感じられない。

 週刊金曜日としてはこうした経緯を把握したうえで、もっと慎重に対応すべきだったと思う。事実に争いはないのだから、裁判が終わってからの公表でもよかったのではないか。被害者が報復のために週刊金曜日を利用したとも捉えられるし、週刊金曜日が被害者の報復に加担したとも捉えられるが、両方だったのではないかと感じる。

 X氏が週刊金曜日の記事の拡散を自ら画策したことについては、某ブロガーの告発記事からも明らかだ。私はX氏に利用された某ブロガー(菅野氏とは関わりのない性被害者)が、非公開前提のツイッターのグループメッセージでのやりとりを公開し、X氏のツイッター名まで公開したのは行き過ぎた行為だと思っているので、ここでは某ブロガーの記事をリンクさせることはしない。しかし某ブロガーが公開したやりとりを読んで、X氏は私的制裁のために他者を利用する人物であると感じた。X氏の発言や第三者を利用した拡散工作にもX氏の強い報復意識を感じる。

 しかも、週刊金曜日の記事のゲラのPDFファイルに週刊金曜日側が「うんこ」という名称をつけたことや、X氏が菅野氏を「うんこ」と称していたことも明らかになっている。いくら非公開でのやりとりであっても、第三者である報道人が被害者に同調して加害者を侮蔑する感覚に驚きを禁じ得ない。

 この件では、週刊金曜日のステマ疑惑を主張している人もいるが、私はその意見には与しない。ステマというより被害者の報復行為への加担であり、嫌がらせに近いと思う。

 私はどのようなトラブルにおいても報復行為には賛同できない。第三者である報道機関が個人の感情に基づいた報復、すなわち仕返し行為に加担することもあってはならないと考えている。報道機関が批判記事を書くのであれば公益性こそ重視すべきだ。報復行為は憎しみの連鎖を生むだけで決して建設的な問題解決にはつながらないし、場合によっては墓穴を掘ることにもなる。

 とは言うものの、被害者自身が違法行為や不法行為を伴わないやり方で報復するならそれは自由だろう。もしX氏が菅野氏に仕返しをしたいならば、ブログなどを利用して被害者自身が発信者となって責任を負うのが筋ではなかろうか。公表時期に関しても、菅野氏側に釈明や反論の場を与えるために裁判が終わってからにするのが公平なやり方だと思う。

 私的制裁のために民事訴訟を利用したり、自分自身で矢面に立とうとせずに報道機関を利用したり、その記事の拡散に菅野氏とは何の関わりもない性被害者の女性を利用するというX氏のやり方は、嫌悪感しか抱かせない。一方で、X氏との闘争を避け沈黙を貫いた菅野氏の態度は評価できる。

 何度も書いていることだが、私は自分の利益(あるいは復讐)のために他人を利用する人が大嫌いだし、たとえ被害者であってもそのようなことをやっていいとは思わない。

2017年8月 4日 (金)

エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康

 先日、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」という本を読んだのだが、近藤氏によると血圧もコレステロールも高い人ほど長生きするというデータがあるそうだ。日本では生活習慣病の予防として血圧やコレステロール値を下げることが大事だと盛んに喧伝されている。近藤氏の言うとおり、血圧やコレステロールが高い人の方が長生きする人が多いなら、高血圧や高コレステロールが生活習慣病の原因とは言い切れない。

 私はもともと検診に関心がないのだが、癌の発症に関してもエピジェネティクスが関わっていることを知って以来、精神的に健康な人ほど病気になりにくいのではないかと考えるようになった。環境が遺伝子のスイッチの切り替えに関わっているのなら、「精神の健康」「幸福感」という心理的環境も病気などのスイッチに関わっていても不思議ではない。それが事実なら、単に血圧やコレステロール値などに気をつけていれば病気のリスクを減らせるということにはならないし、近藤氏の主張も納得できる。

 実は、こうしたことを裏付ける研究がある。

環境と遺伝子の間:あなたのエピジェネティクスは常に変化している 

 この記事で私が特に興味深いと思ったのは、「深層心理が免疫細胞のエピジェネティクスに変化をもたらす」という指摘だ。重要な部分を以下に引用しよう。

この結果によると、強い孤独感は、心臓病、アルツハイマー病、関節炎など、炎症を伴う病気のリスクを上昇させ、さらにウイルス性の風邪などにかかりやすくなることを示唆している。面白いのは、「どれだけ社会から疎外されているか」という客観的な事実ではなく、「本人がどれだけ孤独を感じているか」という主観的な感情のほうが免疫細胞との関連性が強かったことだ。

 ここで言う孤独感とは、友人や知人との交流が少ないとか、一人暮らしをしているといった単純なことではなさそうだ。友人が少なくても、あるいは一人暮らしをしていても、本人が孤独を感じていないということもある。たとえば公益性のあることにこつこつと取り組んでいるとか、公益目的に情報を発信しているというような人は、孤独感はあまりないかもしれない。たとえ多くの人に囲まれて暮らしていても、周りの人から受け入れてもらえずに寂しさを感じていれば、たぶん孤独感が強いということなのだろう。自己中、あるいは独裁的な人ほど人と他者と深い信頼関係が築けず、孤独感が強いと言えるのかもしれない。

幸福の種類によって免疫細胞の遺伝子スイッチが変化するのはにわかに信じがたいが、コール博士らが研究で得た結果とはそういうものだ。物欲を満たすことや、おいしいものを食べるという行為で得られる短期で浅いHedonicな幸福では、免疫細胞が活性化するどころか孤独感を感じているのと同じようなエピゲノムのパターンが見られた。逆に社会に貢献することで人生に意味を見出すような、深い満足感を伴うEudaenomicな幸福感では、炎症反応に関連する遺伝子が抑えられ、抗ウイルス反応に関連する遺伝子はより活性化されていた。

 この結果は非常に興味深い。目先の欲求を満たすことで得られる快楽主義的、自己満足的な幸福感は、孤独感を感じている人と同じような変化を免疫細胞にもたらすというのだ。つまり、病気のリスクを高めるように働くという。

 これに対し、社会や他者に貢献したり、よりよい人間に成長するために挑戦することで得られる幸福感は、病気になるリスクを低下させるという。

 この結果に「真の幸福感」とは何かが示されていると思う。つまり、つまり物欲によって得られる快楽や自己満足による快楽は、真の幸福とは言えないのではないかということだ。ファッションや化粧で自分を飾ることで得られる満足感なども同じではないかと思う。自分の欲求が満たされればそのときは満足感があるだろうけれど、それはずっと続くわけではない。有名になったりお金持ちになれば必ず幸せになれるとは言えないのと同じだ。

 このような浅い幸福感は、元をただせば私利私欲や損得勘定からきている。自分の利益だけを求めるところに真の幸福感はないというのは、感覚的にも理解できる。

 これに対し、社会や他者に貢献することは、私利私欲や損得勘定とは無縁のものだし、利他行為といえよう。

 人類は集団をつくり、仲間と協力して生き延びてきた。狩りをするにも外敵から身を守るにも仲間との協力が必要だし、得られた食糧も集団内で均等に分けなければ集団生活はうまくいかない。子どもや高齢者などの弱者を守るのも集団生活をしてきた人類の特徴だ。集団内で独善的にふるまっていたら仲間から信頼されないし、うまくやっていけない。こうした共同体での協力関係こそ貢献感の源であり、人はそこに自ずと幸福を感じるのだと思う。だからこそ、利他行為は病気への耐性を高めるように進化してきたのではなかろうか。

 ここで言う「貢献感による幸福感」こそ、アドラーの唱える「共同体感覚」なのだろうと思う。また「孤独感」とは、「共同体に所属できていない」ということではなかろうか。このエピジェネティクスに関する研究は、アドラー心理学が正しいことを裏付けているように思える。

 近年は競争社会や格差の拡大によって、人々がいがみ合うようになったと実感している。他人と競争し相手を蹴落として優越感に浸ろうとしたり、復讐しようとする心理は、共同体感覚とは対極にある。他人を貶め叩くことで満足感を得ようとする行為も同様で、真の幸福感とは正反対のものだろう。このような心理状態の人は精神的に健康とは言えないし、決して幸福になれないばかりか病気のリスクを自ら高めているのかもしれない。

 怒り、イライラ、憎しみなどといった感情は、自分の意志にかかっている。怒ったりイライラしたり他者を憎んでも、目の前の問題を解決するためには何の役にも立たないどころか人間関係を悪化させるだけだ。そのことを理解すれば、怒りもイライラも憎しみも消えるし、感情的にならなければ冷静に問題解決方法を探ることができる。「真の幸福感」も「健康」も、自分自身が決めている部分が大きいのかもしれない。

2017年7月31日 (月)

今年の家庭菜園

 ブログをほったらかしていたら、もう7月も終わり。ということで、とり急ぎ今年の家庭菜園の様子をアップしておきたい。

 わが家の庭は以前は花卉園芸だけだったが、近年は蔬菜園芸に移行してきている。花の苗を育てるのが億劫になったとか、玄関周りに飾った花をシカが食べてしまうようになったということもあるが、野菜を作る楽しみを知ってしまうと止められない。

 今年は、リーフレタス、ルッコラ、ズッキーニ、ミニかぼちゃ、大根、スナップエンドウ、パセリ、人参の種を蒔いた。

 リーフレタスは毎日食べているが、生長の方が速くて食べきれない。P10801251


 大根(ミニ大根)も少しずつ時期をずらして種まきをしたのだけれど、こちらも食べるのが大変。しょっちゅう大根サラダを食べている。 P10801322

 スナップエンドウも毎日収穫して思う存分食べている。 P10801343

 ミニかぼちゃもどんどん伸びてきて、小さな実をつけはじめた。 P10801304

 ズッキーニは今年はじめて作ってみた。かぼちゃの仲間で、朝に花が咲き昼にはしぼんでしまう。雄花と雌花が同時に咲かないと実がつかないのだけれど、雄花だけしか咲かない日とか、雌花だけしか咲かない日もけっこうある。当たり前だが、受粉できないと、実は大きくならない。 P10801215

 こちらはひよこ豆(ガルバンゾ―)。暑さと雨に弱く日本では栽培が難しいと言われている。うまく栽培できるかどうかわからないので、試しに50粒ほど蒔いてみた。今年の猛暑も何とか耐え、7月下旬から白い小さな花をつけはじめた。はたしてどれ位収穫できるものか。 P10801266

 わが家の周りはエゾシカがうろついていて、家庭菜園を虎視眈々と狙っている。柵や網で囲わないと家庭菜園など到底楽しめないのだが、その網を口でくわえて引っ張ったり、くぐって中に入ろうとする。先日は出入口の網を支柱ごと倒されてしまった。シカは驚いて逃げたようで幸い食害はなかったが、入られたらけっこう悲惨なことになる。エゾシカの姿を見かけること自体が珍しかった頃には考えられなかったことだ。

2017年2月 9日 (木)

誤解される「嫌われる勇気」

 先日書いた「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」でもちょっと触れたが、テレビドラマ「嫌われる勇気」の主人公、庵堂蘭子の振る舞いはアドレリアン(アドラー心理学を実践している人)とは言い難いという意見があるらしい。私はテレビを見ていないし、ドラマ制作者の意図も分からないので、この点について言及するつもりはない。しかし書籍「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著)のタイトルが、時に誤解されているのではないかと感じることがある。

 書籍の「嫌われる勇気」は、自己主張して他人に嫌われることを奨励しているわけではない。他人に嫌われることを怖れ、他人に合わせてしまうのは不自由な生き方であるから、自分の人生を生きるためには「嫌われることもいとわない勇気」も必要だと言っているのだ。これは本を読めば容易く理解できることだ。他人に合わせたり、他人の期待に応えるのではなく、自分の人生を生きるべきだというのが書籍「嫌われる勇気」のメインテーマでもあるのだろう。

 他人の人生ではなく自分の人生を生きるというのは、いわゆる「課題の分離」のことを指している。ここに軸足を置いているから、本の内容も「課題の分離」の比重が多くなっているのだろうと私は理解している。

 アドラーは「人生上のほとんどの悩みは対人関係である」と言っているそうだ。私自身の経験を振り返ってみても、人間関係のトラブルの大半は他者の課題に土足で踏み込んでしまうことからくると実感している。嫁と姑のトラブルも、家族間のいさかいも、基本的に他人の課題に土足で踏み込むから起きる。課題の分離ができていれば人間関係におけるトラブルやストレスは激減するだろう。

 「横の関係」つまり「人はみな対等」という意識を持ち、常に他人を尊重していたなら、他人に命令口調で接したり、意見が違うからといって見下したり誹謗中傷したりもしない。

 課題の分離とは、他人の課題に土足で踏み込まない(他者を尊重する)ということと、自分の課題に他人を踏みこませずにトラブルを回避するという二つの側面がある(協力をしない、あるいは協力を拒否するということではない)。そして、「課題の分離」ができるということは、「人はみな対等」という「横の関係」で人間関係を捉えていることを意味する。「課題の分離」と「横の関係」は切り離せない。

 これに対し、人間関係を「縦の関係」で捉えている人は、他者に対して支配的であったり、あるいは依存的であったり、また恨みや妬みが強く嫉妬深かったりする。

 他人から何を言われようと(嫌われても)も自分の課題には絶対に踏み込ませないという人は、一見「嫌われる勇気」があるように見える。しかし、自分の課題には絶対に踏みこませないが、他人の課題には土足で踏み込む(命令したり、見下したり、憎んだりする)ということであればその人は「縦の関係」で生きている。また、事実誤認や誤解について丁寧に説明しても一切聞く耳を持たず自分が絶対に正しいと信じて我が道を邁進する人は、自分の誤りを認めない、あるいは他人を信用しないという点で独善的であり、やはり「縦の関係」で生きているのだと思う。

 私は、書籍タイトルの「嫌われる勇気」の意味するところは、「横の関係」の生き方をするためには、時として「嫌われる(こともいとわない)勇気が必要」ということだと理解している。だから、「縦の関係」の生き方の人が独善的な言動をして嫌われたとしても、「嫌われる勇気」があるということにはならない。

 たとえばトランプ大統領はどうだろう。トランプ氏の差別発言や虚偽発言に対しては多くの人たちが批判している。大統領の就任式での反対デモを見ても分かるが、彼は明らかに多くの米国民に嫌われている。しかし、当人は開き直って平然としている。彼は自分の主張を貫いて嫌われているわけで、「嫌われる勇気」があるように見える。

 しかし、自分と異なる意見を言う人をこき下ろす態度は、完全に他者を見下している。しかも自分を批判した人に対してはすぐに反撃する。理論的に反論するなら分かるが、嘘を言ってでも攻撃する。非常に感情的で、すぐに怒りをぶちまける。実に支配的だ。彼は異なる主張に対して話し合いで解決する姿勢がほとんど見られず、どうみても「縦の関係」で生きている人だ。彼の勇ましさは、書籍「嫌われる勇気」で言うところの「嫌われる勇気」とはほど遠く、傲慢にしか見えない。

 本で言わんとしている「嫌われる勇気」の意味を理解せず、タイトルの「嫌われる勇気」という言葉だけを切り取って、単に傲慢なだけの人を「嫌われる勇気がある」と評してしまえば、誤解を生じかねない。

 書籍「嫌われる勇気」には承認欲求のことも出てくる。これも誤解している人がいるようだ。書籍「嫌われる勇気」では「承認欲求を否定する」と表現しているのだが、これは「承認欲求」という事実や「承認」を否定しているわけではない。「他者に認めてもらうことを目的に行動してはならない」という意味だ。これは、嫌われないために行動(努力)するというのとほぼ同義だろう。だから「承認欲求の否定」も「課題の分離」と密接に関わっている。

 アドラー自体は承認欲求という言葉は使っていないようだが、だからといって「承認欲求を否定する」という表現が、アドラー心理学ではないということにはならない。

 アドラー心理学の最終目的は共同体感覚にあるという。この共同体感覚を身につけるには「横の関係」を築かなければならない。横の関係を築くためには「課題の分離」をする必要がある。また共同体の中で人々が協力関係を築くことが共同体感覚につながるのだが、その前提としても「課題の分離」は不可欠だ。つまり、課題の分離があってこそ支配でも依存でもない協力関係が持てるし、共同体感覚を身につけることができる、と私は理解している。

 書籍「嫌われる勇気」は、共同体感覚を身につけるための基本である「課題の分離」に力点を置いた書籍だと私は思っている。そして、続編の「幸せになる勇気」が補完して核心へと誘導する形になっている。この2冊の本は青年と哲人の対話による物語に仕立てられているゆえに、アドラー心理学を全面的にカバーしているとは言えないかもしれない。しかし、だからといって「嫌われる勇気」が「正統なアドラー心理学ではない」という考え方には賛同できないし、学会で論争するようなことでもないと思う。

 つい最近、向後千春さんの「人生の迷いが消える アドラー心理学のススメ」(技術評論社)を読んだ。この本は他の心理学の考え方も紹介しながらアドラー心理学を分かりやすく解説していて、「嫌われる勇気」には抵抗感があるという方にも読みやすいと思うし、日常生活でのトラブルの解決にも役立つ本だと思う。

 アドラー心理学を身につけ実践するというのは確かに難しい。なぜなら、日本では家庭も学校も職場も「縦の関係」ばかりであり、このような環境の中で「縦の関係」のライフスタイルを選びとってきた人が大半だと思うからだ(私自身は若いときから人はみな対等という意識を持っていたので、アドラー心理学への抵抗感はない。もちろんだからといってきちんと実践できているわけではないが)。「縦の関係」が染みついている人たちが、ライフスタイルを変えるのは容易なことではない。ただ、向後さんの本はそのような人たちに対しても抵抗が少なく理解しやすい書き方になっているように感じる。

 岸見さんも向後さんも、野田俊作さんからアドラー心理学を学んだ方だが、同じアドラー心理学の解説をしていても人によって伝え方や語り口は違う。哲学者である岸見さんのアドラー心理学は哲学的視点も含んだ岸見流だろうし、向後さんは向後流といってもいいのだろう。おそらくアドラー心理学を学び実践している人々はそれぞれ独自の理解でアドラー心理学を捉えていると思うし、誤解がない限りどれが正しいとか正統だということはさほど意味がない気がする。学問というのは次世代に引き継がれるなかで修正されつつ発展していくものだ。

 ただし、「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問」にも書いたように、アドラー心理学を自ら実践しようとはせず「他人を操作するために使う」ということであれば、それはアドラーが望んだこととは正反対のことだろうし、似非アドラー心理学と言われても仕方ないと思う。

【2月13日追記】  野田俊作さんのこちらの記事によると、「課題の分離」「縦の関係・横の関係」などといった表現はアドラー自自身は使っておらず、アドラーの後継者による概念とのことだ。そうした言葉がアドラーの思想を分かりやすく端的に言い変えたもので、すでに一般化されている概念である以上、アドラー自身による表現であるかどうかに拘ることに意味はないと思う。

【関連記事】
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2017年1月31日 (火)

野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

 日本アドラー心理学会の初代の会長である野田俊作さんのウェブサイト「野田俊作の補正項」をときどき読んでいるのだが、最近、岸見一郎さんに対する苦言がしばしば出てくる。正確に言うならば、「嫌われる勇気」に対する批判といったほうがいいだろう。野田さんが批判的意見を言うのはもちろん自由なのだけれど、正直なところ私はそれをやや苦々しく思っている。その理由を書きとめておきたいと思う。

 野田さんによる「嫌われる勇気」批判は、このあたりから始まっているのではないかと思う。ここでは書名を書いてはいないが、「嫌われる勇気」を指していることは誰にでも分かる。

 この記事で、野田さんはこんなことを書いている。「彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。」

 またこちらの記事では「アドラー・ブームの火付け役である岸見一郎氏の『嫌われる勇気』は、「課題の分離」ばかり強調して「協力」に関連する考え方をあまり含んでいないので「名目アドラー心理学」だと思っていたが(これはいちおう許容範囲内)、同じ題名を冠したテレビドラマはアドラー心理学に反する考えややり方でいっぱいなので、間違いなく「似而非アドラー心理学」だ(これは完全に許容範囲外)。岸見氏ご自身はこれについてどうお考えなのだろうか。」と書いている。

 もう一つ、トラウマに関する記述についても批判的で、こちらの記事で「なんでも、最近流行の「ブーム型アドラー心理学」では、「トラウマは無い」ということになっているのだそうだ。」と指摘している。私なりに解釈するなら、「嫌われる勇気」の「トラウマを否定する」という書き方が誤解を招くといいたいのだろう。

 そして野田さんは、「嫌われる勇気」は許容範囲内だが、重要な要素を欠いているので「名目アドラー心理学」だと評している。

 一方、私は日本アドラー心理学会の顧問や認定カウンセラーでもある岸見さんがアドラー心理学を正しく理解していないとは思っていない。岸見さんの「アドラー心理学入門」や「不幸の心理 幸福の哲学」も読んでいるが、課題の分離ばかりにこだわっているとも思わないし、援助についても書かれている。トラウマやPTSDについても、それらの症状の存在を否定してはいない。「嫌われる勇気」においてもPTSD症状は存在しないとは書いていない。ただし、「トラウマを否定」という書き方は、読者の誤解を招きやすいのは確かだろう。

 ここで着目すべきは「嫌われる勇気」は岸見さんが一人で書いている本ではないということだ。私は今、野田さんの「アドラー心理学を語る」というシリーズ本の第一巻「性格は変えられる」を読んでいるが(これについては改めて感想などを書きたいと思っている)、野田さんによるアドラー心理学の解説は仔細に渡っていてとても勉強になるし、具体的事例もとりあげていて分かりやすい。しかし、失礼なことを承知で書くなら、いくら優れた解説書であっても、岸見さんや野田さんのアドラー心理学の本が「嫌われる勇気」のように爆発的に売れることはないだろうと思う。

 この違いは、「嫌われる勇気」が単にアドラー心理学の解説書を目指したのではなく、万人に理解できる本にすることで多くの人の手にとってもらうことを目指したことに関わっている。そしておそらくそうした著者らの意図が、野田さんの批判に関係しているのではないかと私は考えている。

 岸見さんにアドラー心理学についての本を出したいと持ちかけたのはライターの古賀史健さんだ。そして「嫌われる勇気」の文章を書いているのも古賀さんだ。この本を書きあげるにあたっては、古賀さんと岸見さん、編集者が議論を重ねているのは間違いないが、企画した古賀さんの方針が強く反映されているのは確かだろう。

 私は古賀さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んだ。古賀さんは多数のベストセラーを手掛けてきたライターで、この本にはご自身の経験を元にした文章術がまとめられている。彼は読者を惹きつけるテクニックを良く知っており、「嫌われる勇気」を書くにあたってももちろん「20歳の…」に書いている文章のテクニックを駆使している(と私は思っている)。

 たとえば、古賀さんは「ライターは翻訳者である」と語っている。これが彼の文章を書くにあたっての基本的姿勢でありポリシーだ。つまり、古賀さんがご自身のフィルターを通して岸見流アドラー心理学を翻訳することで、とっつきにくい心理学を誰にでも分かるように解説したのが「嫌われる勇気」や続編の「幸せになる勇気」なのだと私は理解している。

 他にも、たとえば文章にリズムや説得力を持たせるために断定した書き方を入れるとか、文章の構成が重要だとか、あるいは読者を説得するのではなく納得させる文が良いとか、編集(推敲)では「書き足す」よりも「ハサミを入れる」など、古賀さん流の文章テクニックが紹介されている。青年の大げさな発言などはときに吹き出してしまうが、もちろんこうした誇張も読者を惹きつけるためのテクニックだ。

 ただし、古賀さんの翻訳や、断定、取捨選択の編集テクニックによって、切り取られすぎてしまった部分もあるだろうし、誤解を招きかねない部分も生じてしまったのだろうと私は勝手ながら推測している。そして、そこが野田さんの批判の的になってしまった気がしてならない。

 では、「技術を駆使した分かりやすい文章」によって売れる本を目指すことは不適切なのだろうか? こうした本はまがい物なのだろうか? 私はそうは思わない。私自身、ある方のブログで「嫌われる勇気」を知ってアドラー心理学を知り、この本を出発点に他のアドラー心理学の本も何冊か読んだ。本がベストセラーとなって話題になれば、私のようにこれまで心理学と何ら接点のなかった人がアドラー心理学の存在や概要を知る機会が増えるし、それをきっかけに、アドラー心理学をより詳細に解説している本へ誘導することにも繋がる。

 現に、絶版になっていた野田さんの本が昨年末に改訂・再版されたのも、「嫌われる勇気」に端を発しているのだろう。「嫌われる勇気」も野田さんのシリーズ本も一般の人を対象にした本だが、「嫌われる勇気」はこれまで心理学とは縁のなかったような人も対象にした導入のための本であり、アドラー心理学を詳細に解説している野田さんの本とは立ち位置や役割がやや異なる。

 もし「嫌われる勇気」が間違ったアドラー心理学の本なら由々しきことだが、野田さんも「許容範囲」だとしていて誤りだとまでは言っていない。また私自身は、続編の「幸せになる勇気」の発行で、共同体感覚についてはかなり補足されたと感じている。ただし、古賀流の文章術によって、アドラー心理学を誤解してしまう読者がいるなら、それはそれで問題であることは否定できない。

 私が冒頭で「苦々しく思っている」と書いたのは、この問題をめぐって野田さんの意見しか聞こえてこないことだ。アドラー心理学に関わる人たちの中には、この状況に当惑している人もいるのではなかろうか。野田さんと岸見さん・古賀さんの路線の違いといえばそれまでだが、第三者から見たら本当にそこまで批判すべきことなのだろうか?この状況をいくらかでも改善できないのだろうか?とどうしても感じてしまう。

 そこで、余計なお世話かもしれないが、門外漢の私からひとつの提案をしておきたい。すでに売れてしまった本についてはどうにもならないが、増刷する際には増補改訂版にして、野田さんが不十分だとか誤解を招きやすいと考えている部分に注釈をつけるなり、最後にまとめて解説を加えるという方法があるのではなかろうか。そして、その増補部分は出版社のウェブサイトに掲載するなどして、誰にでも読めるようにするというのはどうだろう。すでに誤解してしまった読者に対しては不十分な対応だろうが、このまま何もしないよりずっといいのではないかと思う。

 もう一つ、野田さんはこちらの記事でアドラー心理学は本や講演では学べないと書いている。本ではアドラー心理学がどういう思想であるかを知ることはできるが、アドラー心理学を身につける、すなわちアドレリアンとして実践するには講習会やワークショップでの体験が必要だということだろう。

 私は「嫌われる勇気」を読んだ人は、以下の三つのタイプに分かれるのではないかと考えている。

1.アドラーの思想を理解できない(しようとしない)。あるいは間違っていると思う。
2.アドラーの思想は理解できるし間違っているとは思わないが、実践しようとは思わない。
3.アドラーの思想を理解し、より深く学んだり実践しようとする。

 このうち圧倒的に多いのが1ないしは2だと思う(単なる勘だけれど)。より深く学んだり講座などを受けて体験的に身につけようと行動に移す人は限られているだろうし、野田さんの本を読んでみても、「本を読めば身につく」というほど簡単なものではなさそうなことも分かる。

 ならば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」がベストセラーになって売れることは意味がないかというと、そうは思わない。これらの本によって、アドラー心理学がどんな思想であるかを知ることはできるし、自分の抱えていた問題に気づく人も多いだろう。上記の1や2の人でも、今後の人生で思い悩んだときに本を読み直し、ライフスタイルの再選択を決意する人もいるのではなかろうか。本が多くの人の手に渡り、アドラーの思想が頭の片隅にでも引っかかることは、それなりに意味があると私は思っている。私も、生きているうちにアドラー心理学に出会えて本当によかったと思っているし、野田さんの本も知ることができた。これも「嫌われる勇気」に出会えたからに他ならない。

 なお、「嫌われる勇気」のテレビドラマについては見ていないし興味もないが、主人公のふるまいがアドレリアンと程遠いのなら、それはドラマの脚本を書いた人の理解の問題が大きいのではないかと思う。

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