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2018年9月24日 (月)

失われた東京湾の干潟

 前回の記事「下村兼史展と著書『北の鳥 南の鳥』」を書いたあとに、私は本棚から塚本洋三著「東京湾にガンがいた頃」(文一総合出版)を引っ張り出した。塚本洋三さんは今回の下村兼史写真展実行委員会の事務局長であり、野鳥や自然のモノクロ写真のライブラリーである(有)バード・フォト・アーカイブスを運営されている。今の時代にモノクロ写真を収集するという感性はなんとも塚本さんらしい。

 10年ほど前だったろうか、帯広の書店で自然関係の棚を見ていたら、「東京湾にガンがいた頃」というタイトルの本が目に飛び込んできた。塚本洋三さんの本ではないか。本のカバー写真は東京湾を飛ぶガンの群れのモノクロ写真。パラパラとページをめくれば在りし日の新浜の写真とともにそこで野鳥の観察に明け暮れた「新浜グループ」の様子が綴られている。私は迷わずに本を持ってレジに向かった。

 かつて東京湾にガンが群れていたなどといってもピンとこない人が多いと思う。今の東京湾といえば四角い埋立地が並び、湾岸道路が周囲を巡り、中央に横断道路すらある。かつての面影などほとんどどこにもない。しかし、60~70前には信じられないほどの豊かな自然が息づいており、遠浅の広大な干潟にはおびただしい野鳥が渡来した。といっても私はそんな東京湾を知らない。

 私が初めて新浜探鳥会に参加したときは1960年代の後半で埋め立て工事のさ中であり、広大な干潟に群れる野鳥の姿を見た記憶はない。新浜は1964年頃から埋め立てが始まっていたのだ。その時のことはこちらのエッセイで触れている。探鳥会のリーダーは高野伸二さん。その後、高野さんとは野鳥だけでなくクモの愛好者として交流させていただいた。

 塚本さんがはじめて新浜を訪れたのは1953年だという。私はまだ生まれていない。高野さんをリーダーとする新浜グループの中で最年少だったのが塚本さん。大学卒業後アメリカに渡った塚本さんが日本に戻られて日本野鳥の会に勤務されていたとき、かつての新浜の写真を見せていただいたことがあったのだが、私にとっては夢のようなそれらの写真がこの本には散りばめられている。

 かつての東京湾を知る人がどんどん減り、野鳥が群れ集った新浜の光景も忘れ去られようとしている中で、この本の出版はほんとうに嬉しかった。

 古き良き時代にすがっていたいわけではない。いくら過去に想いを馳せたところで、失われた自然は戻らない。しかし、過去の新浜、東京湾の記録を残し後世に伝えることは決して無意味ではない。東京湾の自然を破壊しつくした人類の愚かさをかみしめるためには、過去の記録を辿るしかないのだから。

 表紙カバーの内側には「東京湾の変遷」と題して「1950年頃」、「1970年前後」、「1980年ごろ~現在」の三枚の小さな地図が並んでいる。江戸川放水路から江戸川に挟まれた「新浜」の変遷を物語る地図だ。

 新浜グループが探鳥を楽しんでいた頃は、おそらく1950年頃の地図の状態だったのだろう。地図には地先に干潟が示されているが、この頃の海岸線はすでに自然のままの海岸線ではない。本でも説明されているが、海と内陸は堤防で区切られており、遠浅の東京湾はだいぶ前から人が干拓をして水田や塩田として利用していたことがわかる。新浜グループの探鳥の道はその堤防の上だったそうだ。堤防の海側には潮が引くと広大な干潟がどこまでも続き、陸側には水田が広がり葦原などの後背湿地もあった。春と秋の渡りの季節にはシギやチドリが干潟に降り立ち、冬になるとマガンやサカツラガンが群れをなして渡ってきていたのだ。

 私が新浜に頻繁に通うようになった学生時代には地下鉄東西線ができていて、かつて広がっていたであろう水田は埋め立てられ殺伐とした風景が広がっていた。野鳥を見る場所は、御猟場横の堤防で囲まれた干潟や荒涼とした埋立地、そして江戸川放水路周辺のわずかな干潟や水田、ハス田だった。かつて新浜グループのメンバーの通り道だった堤防は御猟場周辺に残るのみで、海岸の埋め立て地は工場や倉庫などが並んでいて立ち入りができず、海すら間近に見ることができなくなっていた。

 新浜では埋め立てから野鳥の生息地を守ろうと新浜を守る会などによって保護運動が展開されたが、御猟場に接する一部を保護区として残すことで終止符が打たれた。「1970年前後」の地図の少し後が私が通った新浜だ。浦安には大きな埋立地が造られていてオリエンタルランドと呼んでいた。後年そこにディズニーランドができるとは思いもしなかった。

 ネットで公開されている国土地理院の地形図から過去の空中写真を見ることができるが、その変貌には息をのむ。現在は、行徳一帯は住宅地と化しその中に新浜の野鳥保護区と谷津干潟が切り取られたように残されている。私の学位生時代には残っていた江戸川放水路沿いの水田やハス田はもうどこにもない。今となってはかつて歩いた場所がどこなのかも分からないだろう。

 今では江戸川放水路河口沖合の三番瀬と呼ばれる浅瀬が東京湾最大の干潟だというが、往時の干潟から見たら干潮時の干出域はわずかのようだ。私は行ったことはないが、「ふなばし三番瀬海浜公園」の前に広がる干潟は人工的に造られたものだという。三番瀬では干潟の再生が試みられているようだが一度失われた自然を復元することは容易ではないし、人と自然が共生していたかつての新浜の姿は決して戻ってはこない。

 日本は海に囲まれているが、干潟はどこにでもできるというものではない。川の河口や湾などに堆積した砂泥が、潮汐によって現れたり海に没したりする場所が干潟だが、遠浅で波の影響が少ないところにしか発達しない。日本で屈指の干潟といえば有明海だが、かつての東京湾もそれに並ぶ広大な干潟だったのだ。

 有明海の諫早湾にも学生時代に2度ほど行っている。新浜と同じく干潟と陸地は長大な堤防で区切られていて、低湿地が古くから干拓されてきたことを物語っていた。それでも、あの頃はまだ干拓地の先には汀線も霞んで見えないような干潟が広がっていたのだ。その諫早湾の干潟も今は例のギロチンと呼ばれる潮受け堤防によって消えてしまった。

 人間の果てしない欲は、自分たち以外の生物やそれをとりまく環境にまで想いを寄せることができなかった。経済成長の掛け声の中で、生物多様性に富むこの貴重な干潟をつぎつぎと潰した人間の愚を私たちは決して忘れてはならないと思う。

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