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2018年8月

2018年8月28日 (火)

内田樹著「困難な結婚」を考える(2)

【前回の記事】
内田樹著「困難な結婚」を考える(1)

家事の公平な分担はできない

 家事はエンドレスな苦役であって、それらをどうやって夫婦間で公平に配分するのか、という発想をしている限り、もめ続けます。「苦役の配分」に、当事者全員が納得するような落としどころなんて見つかるはずがない。(210ページ)


 女性が家事を全面的に担っていた時代はともかくとして、今は女性だけが家事を負担するという考えに賛同する人は少数派だろう。ただし、内田氏の言うように家事の分担はそんな単純なことではないし、これが離婚の原因になっている場合も多いのではなかろうか。

 妻が家にいて基本的に家事や育児を担当するという場合は、はじめから分担がはっきりしているのでトラブルになりにくいとは思う。しかし、だからといって夫が家事や育児に無関心でほとんど協力しないということであれば、妻にとっては何のために結婚したのかということになる。

 私は男性であろうが女性であろうが、一人暮らしであろうが家族がいようが、基本的な家事をこなせる人が自立した人だと思っている。家事というのは人が生きていく上で必須のものだからだ。掃除も洗濯もさほど頭を使うことではないし、料理だって手際さえ覚えれば難しいことではない。家事の大半は子どもでもできることだ。それなのに「料理はできない」「掃除は嫌い」などと言ってやらない人は、要は「やりたくない」だけだし、自分が生きていく上で必要なことすらできないということになる。

 妻が基本的に家事を引き受けている家庭であっても、妻が病気になったり疲れていたり、用事や旅行ででかけることもあるだろう。しかも、家事には日曜日はない。そんなときに夫が嫌な顔をせずに家事を代わってくれるか否かは良好な関係を築く上でとても大きい。もちろん妻が働きに出て夫が家事や育児を担っている場合も同じだ。しんどいときや都合がつかないときに互いに協力し合うことこそ、家族で暮らすことのメリットだと思うからだ。だからこそ、男性であれ女性であれ「家事をこなせる」ということはとても大事なことだと思う。生きていく上で欠かせないことを「できない」とか「嫌だ」といって何もしないなら自分のことしか考えていないし、配偶者を家政婦としか思っていないことになる。そんな意識だったらうまくいくはずがない。

 もちろん夫婦ともに働いている場合は、家事や育児を二人で協力しなければならないのは言うまでもない。日本はいまだに男尊女卑の社会だし、家事や育児の負担は圧倒的に女性にのしかかっている。まず、男性が意識を変える必要があるのではないか。ただし、これも機械的に役割分担を決めるのではなく、臨機応変に「都合のつく人が文句を言わずに引き受ける」というようにしなければ、やはりうまくいかないと思う。

 それともう一つ。家事には人それぞれのやり方がある。だから家事を分担するならできる限り相手のやり方に文句をつけないという寛容さも必要だ。これは料理でも掃除でも洗濯でもつきまとう。結婚するまで全く違った家庭環境で育ち自分のやり方や感覚を身につけてきたのだから、これはなかなか一致するものではない。相手のやり方に文句をつければ喧嘩になる。どうしても相手のやり方に我慢ができないならどんなに疲れていても自分で引き受けるしかない。でも、それはそれでストレスになるというものだ。

 要は、家事が嫌だとか面倒だと思っている限り相手が家事をやらないことに不満が生じるし、自分のやり方に拘りすぎても不満が生じて分担はうまくいかない。嫌でも生きていくためにはやらねばならないのだから、文句を言っていてもどうにもならない。頭を切り替えて「嫌なこと」を「楽しいこと」にしていくというのはとても大事なことだと思う。

穏やかで健全な関係を続けるには

 「この人と結婚さえしていなければ・・・・・・」と仮想して、配偶者の無理解や無能を自分自身の不幸の原因にすると、もうダメです。たしかにあらゆる自分の不調は配偶者の無理解と無能で「説明できる」からです。ほんとうに説明できちゃうんです。あまりに説得力のある説明なので、人間はそれに居ついてしまう。(237ページ)


 これは自分の不幸を何でも人のせいにしてしまう人のことだ。結局、理想の配偶者なんていないのに理想を追い求めて相手の不平不満ばかり言っているということだろう。こういう人は自分で幸せになるための努力をしようとしない。そしていつも不平不満で機嫌が悪い。

 内田氏は円満な人間関係を築くためには「機嫌がいい」ことが大事だと説くが、それは本当にその通りだと思う。「機嫌が悪い」人と一緒にいて気持ちよく過ごせる人などいないだろう。「機嫌が悪い人」は、機嫌を悪くすることで相手を支配しようとしているのだろうけれど、それは逆効果でしかない。機嫌というのは自分の意志でどうにでもできる。「機嫌」も「幸福」も、結局はその人の心のあり方次第だ。

 社員を過労死にまで追い込むブラック企業とか、パワハラで鬱状態に追い込むような場合はさっさと転職をすべきだと思うが、それほどではないのに仕事を次々と変える人も同じではなかろうか。「この会社でさえなければ・・・」「あの嫌な上司さえいなければ自分の実力が発揮できるのに・・・」と思い込み、他により自分に合った理想的な会社があると夢想して転職しても、恐らくどこにも理想的な会社などない。それにも関わらず、また「この会社ではダメ」と会社や上司のせいにして転職する。

 自分と気が合う人しかいない会社なんてまずない。気に入らない他者を変えることなどできないのだから、自分の意識や考え方を変えることで気に入らない人と折り合いをつけるしかない。口うるさい上司に振り回されない術を身につけるように努力することも必要だ。そういう努力もせずにすべて他人のせいにしていたなら、どこに就職しても対人関係でストレスをため込み、いつも不平不満で機嫌が悪いということになる。

 「あの人のせいでうまくいかない」という思考に嵌って抜け出せなくなる人は、結婚生活も仕事もうまくいかない。もちろん本当に相手がとんでもない非常識な人で迷惑を振りまいているとか、支配的で命令ばかりしているという人もいるけれど、だからといって不平不満を言っているだけでは何の解決にもならないばかりか、まわりを不快にするだけだ。どうしても折り合いがつけられないなら離れるという選択も必要なわけで、その見極めが大事なのだろう。

 内田氏は結婚相手に相応しいかどうかは海外旅行に行って相手のトラブル解決能力を見るのがいいというが、それと同じように日頃から不平不満を言わずに問題解決に向けて行動できるか否かは、その人の精神的な成熟と大きく関わっているのだろう。

 「困難な結婚」といっても、結婚を「困難」にするのも「幸福」にするのも本人次第のところが大きいということなのだろう。結婚を「困難」にしないためには、まずは相手が成熟しているかどうかを見極めること。そして結婚したなら「配偶者の理想像」など追い求めずに互いに相手を尊重しつつ協力し合うことが幸福な結婚の鍵といえそうだ。

 さらに言うならば、誰にでも選択の間違いはあるのだから、もしモラハラ人間とかメサイアコンプレックスの人と結婚してしまい自分がボロボロになったとか、関係を続けるのが無理だと感じたなら、別れるという決断を下すのも幸福への道なのだろうと思う。内田氏も離婚を経験しているそうだが、問題解決の努力をしてもストレスが溜まって限界を感じたり日常生活に影響が出てしまうようなら、「別れる」という問題解決を選ぶこともやむを得ないだろう。かつて私の上司が「同棲をして相手を見極めてから結婚したほうがいい」と言っていたが、私もそれには同意する。

 結婚というのは自分とはまったく違う環境で育った人と生活を共にするということだ。要は、自己中かどうか(精神的に自立しているかどうか)が試されるといっていい。自立している人であれば自立した配偶者を選ぶだろうし、結婚によってお互いにさらに成熟できるだろう。結婚をしてそこそこ幸福だと思っている人は、おそらくそこそこ自立しているのではないかと思う。

2018年8月27日 (月)

内田樹著「困難な結婚」を考える(1)

 内田樹氏の「困難な結婚」が面白いという話しは耳にしていた。人生も終盤に入った身にとって今さら結婚論もどうかと思って手にしていなかったのだが、今さらだからこそ読んでみるのもいいかもしれないとふと思い立ち買ってみた。

 中身はさらさらと読めるし、内田節が全開で面白い。部分的には「そうかなあ?」と感じるところもなくはないが、全体的には納得できることが多い。恐らく、何十年も結婚生活を続け「結婚とはこんなものだ」とそれなりに納得してまあまあ穏やかで幸せな生活を送っている人なら、かなり肯定的に受け入れられると思う。逆に、配偶者に不平不満ばかり抱いている人にとっては、目からウロコかもしれない。昨今は結婚をためらう若者が増えているようだが、そういう人たちにとっても目からウロコではないかと思う。

 内田氏の主張を引用しながら、私見を記しておきたい。

結婚とは安全保障である

 率直に申し上げて、ご自身が「健やか」で「富める」ときは別に結婚なんかしてなくてもいいんです。その方が可処分所得も多いし、自由気ままに過ごせるし、健康で豊かなら独身の方が楽なんです。
 結婚しておいてよかったとしみじみ思うのは「病めるとき」と「貧しきとき」です。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための安全保障なんです。結婚は「病気ベース・貧乏ベース」で考えるものです。(24ページ)


 「自由が拘束される」という理由で結婚を躊躇する若者は多いと思う。たしかに一定以上の収入があれば、一人暮らしほど自由で気ままなものはない。親兄弟からとやかく言われることもないし、好きなものを買って好きなものを食べ、恋愛も適度に楽しむのであれば一人暮らしをするに越したことはない、と考えるのも分からなくはない。

 私もこれと同じようなことを言っていた既婚男性を知っている。彼は幾つになっても自由に恋愛ができる独身が一番だと言っていた。しかし、よくよく考えるなら、これは不倫をしたいし家族という人間関係が煩わしいといっているに等しい。「自分が一番楽で楽しい」ということを優先させるとそうなる。これってはっきり言って、自分のことしか考えていないということではなかろうか。

 また、「自分の世界を他人に乱されたくないから結婚をしたくない」という男性の話しを聞いたことがあるが、自分の世界を守ることを最優先にする人が、他者のことを想い大事にできるとは思えない。

 ヒトは、家族を最小単位としながら集団をつくって狩猟をし、食べ物を分けあい協力しあって生活することで生き延びてきた生物だ。今のような文明が発達する前なら、自分が気ままに楽しく生きることだけを優先している自己中な人がいたら、その人は周りの人たちと協力関係を築けないし、生きていけなかったに違いない。

 親族にも学校にも職場にも、気の合わない人というのはどこにでもいる。ヒトが一人で生きていけない生物である以上、そういう人たちとも折り合いをつけながら何とかやっていくのが成熟した大人というものだろう。「あの人が嫌だ」「これはやりたくない」というのは誰だってあるし、社会生活を営む以上はどこにいっても人間関係がついてまわる。わずらわしい人間関係を避けて快楽だけを求めるなら、自己中であり未熟という他ない。「他人に縛られるのが嫌だ」「折り合いをつけるのが嫌だ」という未熟な若者が増えてきたのだろうか。

 人が他者と支えあい、協力しあって生きていく生物だからといって、別に他人とベタベタするのがいいと言っているわけではない。自己を確立した上で(他者を支配したり他者に依存したりせず、自立性を身につけるということ)、他者と適切に関われるようになっていくというのが成長とか成熟というものだろう。

 内田氏も「愛したり、疎遠になったり、信頼したり、裏切られたり、育てたり、別れたり、病んだり、癒したり、介護したりされたり、看取ったり看取られたりして大人になってゆく」(74ページ)と書いているが、家族や親族との関わりの中で人は他者と共に生きることを学んでいくのだ。独身でも幸福な人生を送っている人はたくさんいるだろうし、結婚をしないという選択を否定するつもりはないけれど、人は結婚することで様々な経験をし内的に成長するのは間違いないと思う。

 内田氏は、結婚は病めるときと貧しきときのセーフティネットだと言う。ならば、社会保障が充実していて誰もが無料で医療を受けられ、働けなくなったりお金に困れば容易に生活保護が適用され、歳をとれば無料で介護が受けられる国なら独身で暮らすのが一番気ままで楽と考える人もいるだろう。しかし、高福祉・高医療の北欧は独身者が多いかといえばそんなことはない。

 「誰にも拘束されない自由で気ままな独身生活」というのが本当に幸せなのか?と私には思えてくる。昨年、「エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康」という記事を書いた。強い孤独感や快楽主義的あるいは自己満足的な幸福感は病気のリスクを高め、社会や他者に貢献することで得られる幸福感は病気のリスクを低下させるという研究の紹介だ。

 これが事実なら、独身で自由気ままな生活から得られる満足感は一時のものであるし、本当の幸福感とは言えないのではなかろうか。人の幸福とは、他者への貢献と大きく関わっている。結婚は「病めるときと貧しきときのセーフティネット」であると同時に、パートナーへの貢献を通じた心のセーフティネット(簡単に言うなら安心感や安定感)の役割を担っているのではなかろうか。とくに高齢になればなるほどパートナーの存在は大きいように思う。

 社会が健全であれば人は家庭を持ちたいと思うのが自然だし、それが幸福感や安心感をもたらすことにも繋がっている。逆に結婚しない人が多いというのは社会のありようが健全ではないということなのだろう。今の日本の社会を見れば、まさにその通りだ。内田氏も企業の収益を最大にするというグローバル資本主義が今の若者の雇用環境の劣化を招いているし、グローバル資本主義者たちは自分の個人資産を増やすことしか頭になく一世代先のことなど何も考えていないと指摘している。

 「結婚したくない」という若者を生みだしてしまったのは、結局のところ自分の利益しか考えない人が作りだしたグローバル資本主義という社会制度の影響が大きいのだろう。いやはやとんでもない世の中になったものだと思う。

結婚は誰としてもいい

 内田氏は「結婚は誰としてもいい」という。これはいささか単純すぎると思うが(事実、こういう人とは結婚しない方がいいという例も挙げているのだから)、以下の主張はとても納得できる。

 つまり人間の中にはいろんなタイプの「配偶者特性」が潜在的に眠っているということです。だから、どんな人と結婚しても、「自分がこんな人間だとは知らなかった」ような人格特性が登場してきます。いってみれば、配偶者が変われば、結婚しているあなたは別人になるんです。どの人と結婚しても、そのつど「その配偶者でなければそういう人間ではなかったような自分」になります。それはいわば配偶者からの「贈り物」みたいなものです。(36ページ)


 これはなかなかうまいことを言うと思った。たしかに、相手によって自分が変わるというのはすごく分かる気がする(離婚とか再婚を体験していないのであくまでも「気がする」だけれど)。完璧な人間なんていないわけで、結婚とは相手の短所を受け止めることでもあると思う。だから、配偶者の短所が嫌で「今よりもっといい人がいるはず」と思って相手を変えてみても、前の配偶者とは違う短所が必ず見えてしまう。結局、理想の人などいないということになる。でも、若いうちはなかなかそれに気づけないということなのだろう。

 ちなみに内田氏は配偶者として適切な人かどうかは海外旅行をしてみれば分かるという。要は、トラブルに巻き込まれたときの問題解決能力を見るというのだ。トラブルを他者のせいにせず速やかに適切な対処ができる人が成熟しており配偶者として相応しいというのはもちろんその通りだ。

 私はさらに、暴力をふるう人とかモラルハラスメント(要は相手を支配せねば気が住まない人)をする人、自己愛の極めて強い人、あるいはメサイアコンプレックスの人も配偶者としては不適切であることを加えたいと思う。このような人は適切な対人関係が持てないし、自分で自分の欠点に気づき改善する可能性はかなり低い。それを見極められないと結婚生活はかなり厳しいものになるか離婚を決断せざるを得なくなるだろう。

つづく

2018年8月22日 (水)

晩夏の浮島湿原

 数日前、久しぶりに浮島湿原に出かけた。浮島湿原は上川町の標高860メートルほどのところにある高層湿原だ。アカエゾマツに囲まれ池塘が点在する光景は森林限界の上にある大雪山の「沼の原」や「沼の平」などとはちょっと趣を異にする。

 湿原への歩道入口には立派な看板とトイレを備えた駐車場がある。ここから1.6キロ歩くと浮島湿原の入口だ。浮島湿原はこれまでも4回ほど行っているのだが、入口の階段は浸食されてだいぶ傷んでいる。ウッドチップが敷かれて整備されていた歩道も、今は草がかなり入り込んでいて、ところどころぬかるんでいる。
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 のんびりと30分ほど歩いて湿原に到着。ここが湿原の入口。木道が整備されているが、老朽化が進んで一部は立ち入り禁止になっていた。
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 8月も下旬にさしかかるこの季節は湿原に花の彩りはなく、晩夏というより初秋に近い印象を受ける。タチギボウシも花は終わっている。リンドウの季節だと思っていたのだが、花が見当たらない。が、よく見るとリンドウはちゃんとある。ただし、花のつく頂部がシカに食べられているのだ。やっと見つけたのがこれ。低地にあるエゾリンドウより青色が濃いエゾオヤマリンドウだ。
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 リンドウはシカの好物らしく、十勝三股ではシカが増えてからリンドウが姿を消してしまった。浮島湿原の場合は食べられているのは上の方だけだから株自体は残っているのだが、花が見られないのはちょっと残念。

 木道を歩いていくと、こんな光景が展開する。
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 花がほとんどない中で、白いウメバチソウの花が目立つ。

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 ヒツジグサも1輪だけ咲いていた。
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 林野庁は近いうち歩道や木道の整備をする予定はあるのだろうか? ここ数年の大雨であちこちの林道が流されたりしたので災害復旧等で忙しいのか、それとも予算がないのか・・・。このまま木道の補修がされなければ、じきに湿原の散策もできなくなるだろう。

 そう言えば、かつて大雪山の沼の平から松仙園を経て愛山渓に通じる道があり、学生時代に永山岳に登った帰路に歩いたことがあるが、今は沼の平から松仙園の道は廃道になってしまったようだ。人が歩かなければ登山道はすぐに草木が生い茂り消えてしまう。3年前に行った原始が原の五反沼への道も廃道状態だった。

 整備を止めたり人が歩かなければ登山道が消えるのは自然の摂理だが、メインの登山道がオーバーユースで荒廃する一方で、消えていく道があるのはちょっと寂しい気もする。

2018年8月19日 (日)

大手マスコミは報じない前代未聞の総理大臣による選挙妨害疑惑

 ツイッターをやっていると、時として恐るべき情報が目に入ってくる。前回の記事の岡口基一裁判官の件もそうだが、こちらの安倍首相にまつわる重大疑惑は恐らく新聞やテレ部では絶対に報じられないのではなかろうか。何しろ安倍一強政権はマスコミも牛耳っているのだから。だからこそ、多くの人に知ってもらいたい疑惑だ。以下のリテラの記事が詳しい。

安倍首相宅放火未遂事件「18年目の真実」●山岡俊介(前編)

安倍首相宅放火未遂事件「18年目の真実」●山岡俊介(後編)

 同じく山岡俊介氏によるハーバー・ビジネス・オンラインの記事はより簡潔にまとめられている。

ポスト「モリカケ」か?安倍首相に浮上したもう一つの「重大疑惑」  

できれば上記の記事を読んでいただきたいが、かいつまんで説明すると以下のような事件だ。

 1999年に安倍首相の地元の下関市で市長選があった。安倍氏と安倍事務所は肩入れしている候補者の対立候補を落選させるために、前科8犯のブローカーに選挙妨害を依頼した。ブローカーは選挙妨害を実行し安倍氏の支援していた候補者が当選したが、安倍氏側は約束の見返りを実行しなかった。怒ったブローカーが暴力団と組んで安倍氏宅に火炎瓶を投げ込むという放火未遂事件を起こした。この放火未遂事件でブローカーは懲役13年の実刑となったが今年2月に満期出所。ジャーナリストの山岡俊介氏は、出所したブローカーから安倍氏との裏取引の決定的証拠を入手した。

 過去のこととはいえ、総理大臣が選挙妨害という不正を暴力団と関わりのある人物に依頼したということだけでとんでもない話しだ。安倍首相にはさらに森・加計疑惑がある。こんな不正まみれの人物がのうのうと5年も首相の座につき、憲法改悪を目指して3選を狙っているというのだから、恐ろしい限りだ。

 懲役刑となったブローカーの裁判の判決文を引用しているモノシリンさんの記事も興味深い。

君は「安倍晋三宅火炎瓶投擲事件」を知っているか

 モノシリンさんも取り上げているが、この安倍首相による選挙妨害疑惑の証拠を握って果敢に報じている山岡俊介氏は、新宿のスタジオアルタの階段で不可解な転落をして大けがをした。本人はどうしてこんな落ち方をしたのか全く分からないという。

 また、山岡氏に証拠の書面等を渡したブローカーは、その後連絡がとれなくなってしまったという。いったい何が起きているのだろうか。

2018年8月17日 (金)

懲戒にすべきは岡口基一裁判官ではなく東京高裁長官

 東京高裁が「白ブリーフ裁判官」こと岡口基一裁判官に対し裁判官分限法にもとづく懲戒を申し立てたというニュースは7月にネットで報じられていた。例えば以下。

東京高裁が”白ブリーフ裁判官”懲戒申し立て ツイッター凍結もFBで投稿連発

 ネットのニュースによると、懲戒理由は犬の所有権をめぐる民事訴訟に関してツイッターで「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?」などと投稿したことだという。元飼い主が抗議をしたとのこと。元飼い主の感情を傷つけたことが懲戒の理由のようだ。なお、この投稿は削除された。

 その後、モノシリンこと明石順平弁護士がこの件に関する見解をブログに書いている。

岡口基一裁判官に対する懲戒自由について考察する

 どうやら裁判例を要約してツイッターに投稿したら、当事者が岡口裁判官の主張だと勘違いして抗議したということらしい。たしかに、この投稿は「裁判例の要約」なのか「裁判官の感想」なのかは分かりにくい。しかし、この程度の投稿で、しかも速やかに削除したのに、懲戒とは異様だ。

 ところで、昨日、この件に関して岡口裁判官自身がブログに東京高裁分限事件調査委員会に提出した陳述書をアップしたのだが、これを読んでびっくり仰天した。以下が陳述書。

陳述書(東京高騰裁判所分限事件調査委員会)

 この陳述書によると、林道春東京高裁長官と吉崎佳弥東京高裁事務局長が岡口氏を長官室に呼び出して、激しい口調で私生活上行っているツイッターを止めるように迫ったとのこと。また、ツイッターを止めなければ分限裁判にかけてクビにすると脅したという。これが事実なら、ご本人も指摘している通り表現の自由の侵害(憲法違反)であり、パワハラであり、脅迫だ。

 このパワハラや脅迫、ブラック企業の経営者の発言ではない。東京高等裁判所長官と事務局長の発言だ。こういう肩書の人たちが法律を無視してパワハラ行為を働いているなら、とんでもないことがこの国で行われるようになってきているということだ。そして、岡口裁判官に大きな圧力がかけられていると感じざるを得ない。司法の場でいったい何が起きているのだろう?

 今日になって岡口裁判官はブログにまた新しい記事をアップした。

始まりは民進党? 

 まず、岡口裁判官のツイートを監視し、訴追の画策をしたのは民進党のようだ。そして最高裁当局と与党(自民党公明党)が協議をし、最高裁当局が責任を持って岡口裁判官を指導するので訴追にかけないことで話しが整っていたらしい。ただし、最高裁当局は岡口裁判官のツイートをやめさせられなければ、訴追に代わって分限裁判の申し立てをせざるを得なかった、ということらしい。

 民進党は、ツイッターを止めさせるために不適切な投稿をしないかと監視していたということではないか。民進党、腐っている!!

 パワハラを働いた東京高裁長官こそ懲戒にすべきではないか!!

 マスコミ報道だけでは真実は全くわからないどころか、岡口裁判官が一方的に悪者にされている。このパワハラや民進党の暴挙を報じるマスコミはないのだろうか?

2018年8月13日 (月)

「お盆休み」をなくして融通性のある「夏休み」に

 今年もお盆の季節がめぐってきた。ニュースではいつもと同じ、お盆の帰省ラッシュが報じられている。高速道路は渋滞、飛行機も列車も満席・・・。お盆の期間は航空券もぐっと高くなるし、予約も大変。ホテルなども早くから満室。

 毎年このニュースを耳にする度に、「お盆休み」という考えを変えた方がいいのではないかと思ってしまう。たしかに「お盆」というのは古くから受け継がれてきた風習だし、それを大事にすることは否定しない。

 でも、時代とともに私たちの生活様式も確実に変わってきている。「お盆休み」といっても宗教的な行事から里帰りや旅行を楽しむ「夏休み」へと変わりつつあるのではなかろうか。夏休みに家族で里帰りしたり旅行をするのならば、お盆の時期に拘る必要もないのではと思う。私は無宗教であり信仰はないので(昨今はそういう人も増えているのではないかと思うが)、お墓参りもお盆やお彼岸にこだわらなくていいと思っている。

 ヨーロッパの人々は夏になると時期をずらして長期間のバカンスをとるというが、交通機関や宿泊先の混雑を緩和させるために当然のことだろう。ホテルだって満遍なくお客さんに入ってもらえたほうがいい。日本でも夏休みを分散させれば里帰りや旅行がお盆の一時期に集中することは避けられる。企業も公務員も「夏休み」にもっと融通性を持たせるべきだと思うのだが、どうしてそれができないのか不思議でならない。

 「正月休み」も同じだ。昔とちがって昨今はお正月もさほど風習にこだわらなくなってきている。例えば、私の子どもの頃は正月といえばお店はどこも閉まり、三が日はおせち料理とお餅を食べて過ごしたが、今は元旦からお店が開いているし、お正月の習慣も薄れてきている。おせち料理も買って済ませる人が増えてきているし、お正月も普段の生活とあまり変わらなくなりつつあるように思う。

 だったら、なにも年末年始に拘らず、「冬休み」をつくればいいのではないかと思ってしまう。北海道では年末年始に大雪や吹雪に見舞われると、交通機関が乱れて大変なことになる。豪雪や吹雪の中の渋滞は事故にもつながる。もちろんお正月に帰省したい人はすればいいのだけれど、「冬休み」制にしたなら、混雑する時期に移動したくない人は大助かりだろう。

 人々の生活が変わっていくのだから風習も変えればいいと思うのだが、伝統的なものは変えたくないという人が多いのだろうか。

2018年8月 9日 (木)

メサイアコンプレックスという歪んだ心理

 先日、ある方がメサイアコンプレックスと思われるご婦人のことをブログで話題にしていた。メサイアコンプレックス(メサコン)とは、簡潔に言うなら、自分を肯定したり満たすために他者を助けようとする人のことだ。人は他者から感謝されれば気持ちがいいものだが、メサコンの人は、その気持ちよさに浸ることで自分の精神の安定を図ろうとする。

 困っている人を助けることはもちろん悪いことではない。しかし、その目的が自分の価値を見いだすためであれば、歪んだ心理というほかない。メサコンにとっては「他者を助ける」という行為はあくまでも自分の承認欲求を満たすための手段でしかない。これでは真の援助とは到底言えないし、それどころか相手は望んでもいないことを押しつけられたあげく利用されるのだから、人間関係は間違いなく悪化する。

 メサイアコンプレックスですぐに頭に浮かぶのは、「暴力をふるう男性と結婚した挙句に破綻して離婚」を繰り返してしまうような女性だ。このような女性は「この人には私が必要」と勝手に思い込んでかいがいしく世話をやくのだが、真の目的は世話をやくことで自分の価値を見いだそうとすることにある。ところが、いくら世話をやいたとしても他人を変えることなどできないし、それが相手にとって迷惑なら敬遠されるだけだ。男性が暴力的な人であればいくら尽くしても感謝されないし暴力は止まらない。そして結果的に破綻してしまう。

 相手の男性が暴力的ではなく女性の世話を受け入れた場合は、男性を自分に依存させることになる。相手の欠点を指摘して「私がいないとダメ」といっては、自分に依存させる。そして、自分が満足感を得るために相手を利用しつづけることになる。いわゆる共依存だ。しかし、この状態が続くと、男性は次第に煩わしくなって嫌気がさしてしまうだろう。結局、うまくいかない。もちろん男性がメサコンという場合もある。

 一度失敗をしたならその経験から学びそうなものだが、メサコンの人は再び同じような人と結婚をしてしまうことが多い。なぜなら、自分に問題があるとは全く考えないからだ。他者を助ける行為は善意であり思いやりだと思い込んでいる。相手にとっては迷惑でしかないことも、メサコンの人には理解できない。

 もうひとつメサコン・共依存で思い浮かべるのは、子どものことにすぐに口出しをして子どもを支配しようとする親だ。子どもが自分ですべきことでも親が代わりにやってしまうことで自分の存在意義を感じようとする過干渉な親。子どもの欠点をあげつらって「お前はダメだ」と思い込ませ支配しようとする親。そうやって自分の精神の安定のために子どもを利用してしまう親は意外と多いのかもしれない。

 メサコンの人の最も厄介なところは、「自覚がない」ということだ。本人は「自分は親切で善いことをしている」としか思っていない。単刀直入に、「あなたがやっていることは親切の押し売りであり迷惑」だとはっきり伝えても、まったく理解しようとしない。それどころか「迷惑だという相手がおかしい」などといって相手を悪者にしてしまう。こうなると何を言っても通じない。結局信頼を損ね、人が離れていくことになる。

 友人などに「苦しい」「辛い」と訴え、「自分が苦しいのは○○のせい」と嘆く人はメサコンである可能性が高い。「かわいそうな私」と「悪いあの人」をアピールすることで、励ましてもらったり応援してもらいたいのだ。そういう人を見かけるとつい同情して援助しようとする人がいるが、その結果どうなるか・・・。「苦しい」と訴える人は依存できる相手を探しているのだから、援助をしようとする人が精神的に自立していないと取り憑かれてしまう。そして、承認欲求を満たすために徹底的に利用される。

 その結果、精神的にボロボロにされて離れざるを得なくなる。ところが攻撃性が強い人だと離れようとする相手を非難したりストーカーのようにつきまとったりしてコントロールしようとする。これがメサコンの恐ろしいところだ。

 メサコンの人は、他者に依存して満足感を得れば幸福になれるのかといえば、そんなことはない。もちろん他者から認めてもらったり感謝されたら、その時は安心感や優越感が得られるだろう。しかし、その安心感や優越感を得つづけるために永遠に依存する相手を探し求めることになる。他者に依存しようとすればトラブルになってしまうことは前述した。つまり、対人関係のトラブルを繰り返してストレスを溜めることになる。メサコンは誰も幸福にしないどころか自分も不幸にする。

 メサコンの人は劣等感が強いと言われているが、精神的に安定するためには自分がメサコンであることに気づき、自分自身を変えていくしか根本的解決はない。ところが、不幸なことに大半の人は自覚ができない。つまり不幸から抜け出すことができない。お気の毒というしかない。

 もし自分が、他人から認めてもらわないと安心できない(承認欲求が強い)タイプ、あるいは日頃から不平不満を言ってはそれを他人のせいにするタイプだと思うなら、メサコンかもしれないと疑って自分自身を見つめ直すことをお勧めしたい。自分で気づいて改善しようと努力しない限り、メサコンの人が幸福になる道はないと私は思っている。

2018年8月 5日 (日)

猛暑と暑さ対策

 北海道に住んで40年弱になるが、私にとって夏が涼しく夏バテにならないというのはとてもありがたい。考えてみたら、東京にいた頃は毎年夏バテで辛い思いをしていた。あの頃はまだ暑いといっても最高気温は32度とか33度くらいが普通だったのだから、昨今の35度を超えるような暑さなら堪らないだろうと思ってしまう。

 といっても子どもの頃は夏バテをしたという記憶はない。30度を超えるような日も外遊びをしていたし、食欲が落ちたりはしなかったと思う。ところが、いつからか夏がとても苦手になった。夏バテで思い当たるのは、家を建てて引っ越したこと。

 普通、家を建てて引っ越したなら居住環境が改善されそうなものだ。ところが私の場合は違った。家を建てるに当たって、父は洋風の外見にこだわり屋根をトタン葺きにした。2階の子ども部屋はそのトタン屋根の直下。当時の住宅は断熱材などほとんど入っていないのが当たり前だったので、夏になるとジリジリと熱したトタン屋根によって2階は猛烈な暑さに見舞われることになった。

 室温を測っていなかったので何度くらいだったのか分からないが、おそらく外気温よりかなり高かったと思う。35度以上あったのではなかろうか。当時は一般家庭ではクーラーなどまずなかったので我慢する他ない。あまりに暑いので、夏休みなどは夜遅くまで起きていて夜明け前くらいに寝るようにしていたこともあったが、陽が昇るとどんどん室温が上がって眠っていられなくなる。そんな環境で過ごしていたことが夏バテに関係していたのではないかと私は疑っている。

 私が北海道に来た後に実家では増築をした。ダイニングキッチンを南側に張り出す形で増築したが、この部屋もトタン屋根ですぐに暑くなる。ゆえに、すぐにクーラーを取り付けたようだ。また、私が使っていた2階の部屋は父が使うようになったのだが、父は即、クーラーを取り付けた。

 母はあまりクーラーを好まない人だったが、あまりに暑いとダイニングキッチンのクーラーをつける。ところが、しばらくして涼しくなると「電気代がもったいない」とばかりに電源を切って窓を開け放つ。クーラーを切るとすぐに部屋が暑くなるから窓をあけて風を入れたほうがいいと言う。日中の暑い時間帯はクーラーの設定温度を高めにしてずっとつけていればいいのにと思うのだけれど、高齢者はすぐに節約ばかり考えてしまうのだろう。

 話しは変わるが、今住んでいる家を新築するにあたってもっとも拘ったのは高断熱・高気密住宅だった。私が北海道に来たころは、高断熱・高気密住宅はまだそれほど普及していなかった。断熱材がろくに入っていない古い住宅の場合、狭い家でも1日10リットルくらい灯油を炊くことになる。二日で千円札を1枚燃やしているような勘定で、北海道は大変なところだとつくづく思った。しかも長時間家を空けたり夜にストーブを消せばすぐに氷点下になってしまう。数日旅行をしている間に、調味料まで凍りかけたこともあった。北欧やカナダなどでは高断熱・高気密の家が当たり前なのに北海道はずいぶん遅れていると思ったものだ。

 そこで家を建てる際には多少高くついても高断熱・高気密住宅にしようということで、壁にも天井にも20センチのグラスウールが入っている外断熱工法を選んだ。窓は高断熱ペアガラス。その結果、住宅の体積が以前の3倍以上になったのに、灯油使用量は以前より少なくて快適な生活ができるようになった。1台のストーブで家中が暖かく、トイレや浴室で寒さを感じることもない。真冬に3日くらい留守にしても、室温は10度くらいまでにしか下がらない。高断熱・高気密住宅というのは夏も涼しいし冷房の効率もいい(私のところではクーラーはないし、必要もない)。

 東京の実家に帰るたびに感じたのは、本州の住宅の気密性・断熱性の悪さだ。朝目覚めるとスズメの声がまるで外にいるかのように聞こえてくる。だから、暖房をしても冷房をしても効率が悪い。それだけ熱が外に漏れてしまっているということに他ならない。

 高断熱・高気密住宅に住んでみて、なぜ本州でもこういう工法がなかなか普及しないのだろうかと不思議でならない。建築費が高くなるとはいえ、おそらく暖房費や冷房費は相当な節約になるはずだし、何より快適な生活ができる。節電になれば温暖化防止にも寄与するだろう。節電の面からも高断熱・高気密住宅を増やしていくべきだと思う。

 とは言うものの、既存の住宅をすぐに高断熱・高気密にするわけにもいかない。ならば、よしずなどを利用してできるだけ涼しく過ごす工夫も大事だ。エアコンも室外機によしずを立てかけたりカバーをかけて日陰にするだけでも効率が良くなるという。

 エアコンの電気代を抑えるには、「外気温と設定温度の差が大きい時には自動運転でつけっぱなし」「30分くらい出かけるような場合もつけっぱなし」が良いそうだ。また、高めの温度設定でも扇風機と併用すれば涼しくなるとのこと。フィルターもこまめに掃除しないと効率が悪くなるとのことなので要注意。

 節電ではないが、熱中症対策として外出時の日傘もお勧めしたい。以前は日傘といえばご婦人専用だったが、今は男性用の日傘もある。私も日傘をつかってみて、その涼しさを実感した。老若男女問わず日傘はとても有用だと思う。

 昨今の異常気象や猛暑はもちろん地球温暖化が関係しているのだろう。とするなら、今後も猛暑が続くことになる。化石燃料の大量消費をなくして再生可能エネルギーに転換していくことは必須だが、同時に猛暑対策もしていかないと健康が脅かされかねない。

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