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2018年7月

2018年7月31日 (火)

スズメバチ駆除

 私の住んでいるところはスズメバチが比較的多いが、今年は二階のベランダの下に巣をつくってしまった。野生の生物はあまり駆除などしたくないのだが、ここは通路の下なので仕方なく退治することにした。
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 いつもならまだ女王蜂しか出入りしていない小さい段階で巣を見つけるのだけれど、すでに時遅しで働き蜂がたくさん出入りしている。こんなに大きくなるまで全く気がつかなかったとは自分でも呆れてしまうが、人は歩くときに上なんて全く気にしていないということなのだろう。

 夜になってからレインウェアー上下、ネット付き帽子、長靴、ゴム手袋で完全装備をした上で巣の入口に殺虫剤を吹き付け、全体にも散布した上でポリ袋に入れ、念のために踏みつぶして駆除終了。蜂が出てきて攻撃されることもなく終わった。

 このスズメバチは小型で腹部に細い黄色の縞がある。スズメバチはいろいろな種類があって同定が難しいのだが、シダクロスズメバチではないかと思われる。シダクロはスズメバチの中でも比較的おとなしく攻撃性が強くないので、頭の上を飛び交っていても気づかなかったのだろう。

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 蜂ではないけれど、庭でスナップエンドウを収穫していたらゴマフアブに襲われた。吸血性のアブで、刺されると痛い。ブユやらアブやら、今年は吸血性の昆虫が多い気がする。このゴマフアブ、よく見ると翅はきれいなすかし模様が入っている。昆虫の模様はとても繊細で美しいものが多い。
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2018年7月22日 (日)

貧乏ではなく無駄のないシンプルな生活を

 2017年に中日新聞と東京新聞に掲載された「平等に貧しくなろう」というタイトルの上野千鶴子さんのインタビューはしばしば批判されてきた。以下参照。

この国のかたち 3人の論者に聞く(東京新聞)

 簡単に言うなら、少子高齢化で労働人口が減る中で移民を受け入れられない日本人は人口減少と衰退を引き受け、平等に緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再配分機能を強化する社会民主主義的な方向をとるべきだという主張だ。

 上野さんの主張には賛同できるところとできないところがある。私は成熟した(というより行きづまった)資本主義社会ではもう成長は見込めないという考えはその通りだと思う。資本主義の抱える危機的状況や終焉に関しては水野和夫氏が「資本主義の終焉と歴史の危機(集英社新書)で説明しており、私も水野氏の指摘は正しいと思う。もはや日本は経済成長をする余地はなく、水野氏の指摘のように定常経済に移行するほかなかろう。

 上野氏の主張のうち移民問題は措いておくとしても、人口減少を引き受けるというのは少子高齢化が歴然とした事実である以上、他に選択肢はない。これだけ格差が広がっているのだから、再配分機能を強化するというのもごく真っ当な主張であり、これはすぐにでも実行に移すべきだろう。

 ただし「衰退」という言葉は適切とは思えないし、「平等に貧しくなっていく」という考え方も賛同できない。

 上野さんを批判している人の多くは「衰退」とか「貧しくなる」という主張に納得ができないのだと思う。上野さんがどんな意味合いで、あるいはどんな理由で「衰退」とか「貧しくなる」という言葉をつかったのかは分からないが、多くの人は「衰退」という言葉に数十年前の生活をイメージし、「貧しい」という表現を「貧乏」と捉えたのではなかろうか。

 経済成長が止まるだけでなくどんどんマイナス成長になっていくのなら、「衰退」とか「貧しくなる」というのも分かる。しかし、成長もしなければマイナス成長にもならない「定常」なら「現状維持」であり「今より貧しくなる」ということにはならない。そして私はこの「定常」ないしは「ごくゆっくりとした成長(進化)」が生物としての基本だと思っている。

 限られた資源を浪費しつづけ、人口が増え続けたら地球は持たない。地球上で供給できる食糧自体に限りがあるのだから、人口もいつか減少に転じざるを得ない。化石燃料の大量消費と搾取によってもたらされた高度経済成長は、長い人類の歴史から見たらきわめて異常な状態だ。

 もし一種の生物が地球の資源をどんどん使っていけば地球環境のバランスは間違いなく崩れてしまう。地球温暖化、鉱物等の採掘による環境汚染、石油製品によるゴミ問題、環境破壊による種の絶滅などすべて現実のものとなっている。近年はマイクロプラスチックなどによる環境汚染も明らかになってきており、プラスチックを減らす取り組みが世界的に進められているのが現状だ。

 限りある地球の資源を守り地球上の生物が共存していくためには、資本主義の経済成長神話から抜け出すしかない。地球上で資源を使い放題にし、環境を破壊・汚染している生物はヒト一種しかいない。化石燃料の大量消費から始まった高度経済成長は、人の欲や驕りの象徴だったのではないか。その結果もたらされた環境汚染や異常気象が人類の首を絞めはじめている。ならば、定常経済での人類の幸福を考えていくしかない。そのためには化石燃料や原発から再生可能エネルギーへ転換し、無駄をなくしできる限りシンプルな生活を営むことが求められる。

 私の幼児期はまださほど物質的に豊かとは言えなかった。生活用品や衣類なども必要最低限しか持っていない家庭が大半だったのではないかと思う。洗濯機や冷蔵庫、テレビといった家電が急速に普及したのも私の幼児期以降だ。その後、あっという間に大量生産大量消費の時代に突入した。

 物が溢れるに従って、次々と新しい物を買い、使えるのに古い物は捨ててしまうという生活が当たり前になった。たとえば衣類ひとつとっても「必要」という理由ではなく単に「欲しい」「同じ服ばかり着ているのは恥ずかしい」「流行っている」などという理由から新しい服を買い、まだまだ着られる衣類を捨ててしまう人は多い。電化製品も自動車も携帯電話ですら短期で買い買える時代になった。何という無駄なのかと思うが、これが市場原理主義の現実だ。

 店先にはそう遠くない将来にゴミになるような商品が溢れている。使い捨て商品はもちろんのこと、すぐに飽きられてしまうような玩具や雑貨、過剰包装・・・。家電は新機能や利便性を謳って新商品が次々と売り出されるが、10年も使えば部品がなくて壊れても修理できない。

 ひとつの物を使えなくなるまで大事に使うということを徹底させるだけで相当の無駄が省けるし、資源の節約になるはずだ。「定常」で生きるというのはこういう浪費をやめるということに他ならない。しかし、これは決して「貧しい」ということではない。欲のなすままに物を買えるのが豊かな生活だと勘違いしている人もいるが、精神的な豊かさとは物の多さではない。

 「断捨離」がブームになったが、人々はようやくこのことに気づいたのだろう。高度経済成長で人々は欲しい物をすぐに買う生活を手に入れたが、家の中を見回せば使っていない物がいかに多いかに気づく。結局、生きていくために必要な物はそれほど多くないのだ。

 経済成長神話に嵌っている人の中には「成長がなければ若者は夢も希望も持てないのではないか」と言う人がいる。しかし、成長によってもたらされたものは環境破壊や環境汚染、電磁波などによる健康被害、異常気象、格差の拡大や利己主義、鬱や自殺の増加だ。生存基盤を脅かすことを続けてどうして夢や希望を持てるのか私には理解できない。精神的な豊かさや幸福というのは物の豊富さや利便性ではない。むしろ資本主義の発展とともに失われてきた人と人との信頼関係の中にこそ幸福があるのではないか。

 いつまでも経済成長を求めつづける人たちは、永遠に経済成長が続けられると本気で思っているのだろうか? 環境汚染や環境破壊が問題ないとでも思っているのだろうか? 私には不思議でならない。

 話しを元に戻そう。化石燃料がもたらした高度経済成長は物質的豊かさや利便性に寄与したが、一方で格差が広がり人々の憎悪感情は増した。資本主義は終焉にさしかかり、これ以上経済成長が続かないのは明らかだ。そして日本では否応なしに少子高齢化が進む。私たちが生き続けるためには富を再配分するとともに定常経済を保つしかないだろう。そして、私たちが目標とすべきは「平等に貧しく」というより「現状維持での平等」だ。

 ここでいう「現状維持」とは、衣食住に困ることなく現在の利便性の多くを享受でき、趣味や芸術、旅行などを楽しむ余裕もあり、教育や医療、福祉などの社会保障が整っている状態だ。もちろん格差をなくしすべての国民がそのような生活を享受できることが前提だ。充実した社会保障制度で高齢になっても病気になっても衣食住に困らない生活が保障されているなら、人は貯蓄に励む必要はない。

 無駄な公共義業をやめ、米軍への思いやり予算や海外へのばら撒きをやめ、仕事をシェアし、非正規雇用をなくして労働条件を改善し、大企業への優遇はやめて内部留保を放出させれば、定常状態での現状維持は不可能ではないと思う。

 私は「定常」が正常だと思うが、だからといって科学や科学技術がこれ以上発展しなくてもいいとは思っていない。化石燃料に頼らずに人類が生きていくためには再生可能エネルギーの普及は欠かせないし、そうした技術開発は続けねばならないだろう。また人々の知的好奇心もないがしろにしてはならない。ただし学問も科学技術も、一部の人たちが富を独占するための道具になってはならないと思う。

 定常経済の社会が具体的にどんなものになるのかは水野氏も分からないという。もちろん私にも分からない。しかし、産業革命以来の高度経済成長がもたらした負の側面にいつまでも目をつむっていたなら、自分たちの首を絞めるとともに未来の人たちへのツケを大きくするだけだ。

2018年7月11日 (水)

集中豪雨による人的被害は防げる

 今回の西日本豪雨災害がいかに広範囲でしかも大きな被害をもたらしたか、その全容が明らかになりつつある。人的被害も大きいが、家屋の浸水被害のほか交通網や水道、電気などといったライフラインの被害もかなり大きいようだ。

 近年は異常気象による水害が毎年のように起きている。その度に避難の体制は万全だったのだろうかと思わざるをえない。大雨による災害は避難さえ徹底できれば命を落とすことはほとんどないと思うからだ。

 3.11の大津波のとき、私は家も田畑も何もかも飲み込まれていくあの映像を見て「あれだけ揺れたのだから、きっと避難しているに違いない・・・」と心の中で祈っていたけれど、信じがたいほど多くの犠牲者が出てしまった。その後も日本列島は熊本地震や集中豪雨に襲われて何人もの方が亡くなっている。災害大国であり、あれだけの被害を経験しながらなぜ避難が徹底できないのだろうか。

 日本の河川では、100年に1度とか数百年に1度くらいの大雨を想定してダムや堤防などの整備がなされている。しかし、それ以上の雨が降った場合はダムや堤防では対応できない。つまりダムや堤防で洪水を防ぐのは限界がある。限度を超えてしまえば堤防から水が溢れたり決壊するのだから、想定を超える雨が降る恐れがあれば避難するしかない。

 とりわけ川の流量を一気に増大させるのがダムからの放流だ。想定外の大雨によってダムが満水になると堤体を守るために放流せざるを得ない。ダムからの放流は鉄砲水となって流れ下り河畔林をなぎ倒して大量の流木を発生させる。大雨で普段より水かさが増している川にダムからの放流が加わったら、下流はとんでもない量の水と流木が押し寄せることになる。支流にいくつものダムがあるような河川の場合、それらが一斉に放流したなら、下流部の水かさは一気に増える。こうなると堤防から水が溢れるのは時間の問題だ。水が堤防から溢れると、そこから堤防が抉られて決壊につながることが多い。

 氾濫する場所の多くは過去にも水害を起こしている。とりわけ川の合流点は氾濫が起きやすい。本流の水位が上昇すると支流の水が飲み込めなくなり、本流から支流に水が逆流することもある。内水氾濫だ。今回大きな被害を出した倉敷市の真備町も、高梁川と小田川の合流点だ。そして、今回の浸水域とハザードマップの浸水域はほぼ重なっていたという。これは洪水被害が想定されていたということに他ならない。

 過去に内水氾濫が起きている場所でも、洪水経験のない住民たちは内水氾濫のことを知らない。ダムの放流が洪水被害を増大させることも知らない。ダム建設を推進してきた国や地方自治体などは放流の危険性についてほとんど口にしない。「ダムや堤防があるから洪水は防げる」という安全神話ばかりが吹聴され、危険性が住民に周知されていないのだ。原発とよく似ている。

 今は気象庁が雨雲の動きを公開していて大雨の予測は可能だ。大きな川には水量計が設置され、監視カメラもある。ダムにももちろん水位計があり、放流量も分かる。また、自治体は浸水や土砂崩れなどのハザードマップを作成している。今回の場合、気象庁は5日の午後2時に記者会見を開き記録的大雨になるとして警戒を呼び掛けた。こうした情報を活かして早め早めの避難を行っていたなら、これほどの人的被害は出なかったはずだ。

 自治体は日頃から住民にハザードマップを配布して注意を呼び掛け、危険が増したときにはどこに避難するのかを周知させる必要がある。河川管理者は川の水量やダムの放流量、それに伴う危険性を自治体に速やかに知らせ、自治体はあらゆる手段をつかって避難をよびかける必要がある。特に大雨が夜に及ぶ場合は早め早めの避難が欠かせない。さらに、一人暮らしの高齢者や体の不自由な方などを日頃から把握して避難の援助をする体制をつくっておかなければ弱者が取り残される。学校、病院、老人ホームなどの施設でも、避難の体制を整えておく必要がある。こうした体制づくりはそれほど大変なことだとは思えない。

 今回の災害に関しては救助や支援物資の輸送も遅いという印象を免れない。災害の発生が分かった時点ですぐにでも自衛隊が出動できるようにすることも、難しいことだとは思えない。今回は5日の日中に気象庁が警告していたのに、5日夜に安倍首相をはじめとした首脳陣は宴会をしていた。6日には各地で甚大な被害が出ていたが、非常災害対策本部を立ちあげたのは8日になってからだ。7日時点で救助などに活動に当たっていた自衛隊員は600人程度であり、21000人は待機していただけだったという(こちら参照)。国は危機管理や人命救助の意識が欠落しているというほかない。

 今回のように広範囲にわたって大きな被害が出た場合は、復旧にも時間がかかるし、ライフラインの寸断で住民の生活に大きな支障がでる。長引く避難生活で体調を崩す人も出るだろう。被災者への対策も欠かせない。これらは東日本大震災や熊本地震でも経験済みだ。地震活動も火山活動も活発になっており、日本はいつ再び大地震や大津波に襲われてもおかしくないというのに、いったいこの国はこれまでの災害から何を学んでいるのだろうか?

 このような水害が起きるとすぐに堤防のかさ上げや強化、河畔林の伐採や川底の掘削といった土木工事で対応しようとする。しかし堤防と堤防の間に水を抑え込む治水に限界があるから水害が起きるのだ。想定を超える大雨の場合は堤防から水が溢れることを前提にした対策を考えるしかない。

 今のような土木技術がなかった頃は、人は洪水を受け入れて生活をしていた。つまり河川と人の生活域を堤防で分離するのではなく、洪水が起きやすいところは遊水池や農地にするなどして共存してきたのだ。人が水をコントロールしようとすればするほど、それがうまくいかなかったときの被害は大きくなる。自然に大きく逆らうことなく暮らしていた昔の人たちの知恵こそ、私たちは学ばねばならないのではないかと思う。

2018年7月 1日 (日)

蚊より厄介なブユとヌカカ

 このところ虫刺されによるかゆみに悩まされている。とりわけ夜になるとかゆみが増す。いつ刺されたのか分からないのだが、脚に20カ所近く、腕や上半身にも点々と刺された痕がある。

 その犯人が昨日判明した。いつもは庭の草取りは長袖、長ズボン、長靴のいでたちなのだけれど、昨日はとても暑かったのでつい半袖で草取りをしていたらブユが腕に寄ってきた。その後、家の中で脚を刺そうとしていたブユも捕まえた。10日ほど前からのかゆみはどうやらブユだったようだが、家の中にまで入ってこられると悲劇だ。

 ブユは刺されるときにほとんど痛みがない。しかも刺されてすぐかゆくなるわけではなく、しばらくしてから紅くなってかゆみが出てくる。刺されたことが分かっていたらインセクトポイズンリムーバーなどを使うと効果的なのだろうけれど、それがまずできない。気がついたときは刺されてからだいぶ時間が経っている。

 仕方がないのでステロイド入りのかゆみ止めを塗るのだが、薬を縫っても数日間はかゆみがとれない。ただし、塗らないでいると悲惨なことになる場合もある。以前、たかが虫刺されだからそのうち治るだろうと放っておいたらいつまで経ってもかゆみがとれず、掻きこわして数カ月も傷口が治らず酷い目にあったことがある。

 東京に住んでいた頃は、虫刺されといえば蚊だった。ところが北海道では蚊よりもブユやヌカカの方が大敵だ。

 ヌカカはブユよりも小さく、網戸の目もすり抜けてしまう。だから暗くなって明かりをつけたら窓は閉めるようにしている。夜の涼しい外気を入れて室温を下げたいときは、部屋の戸を閉め切り明りをつけずに窓を開けておくようにしている。これでヌカカの侵入はだいぶ防げる。

 ブユやヌカカが厄介なのは、刺されても気がつかないことが多く1週間くらいはかゆみがひかない点だ。しかも私の住んでいるところは蚊に刺されるよりブユに刺されることの方が多い。すぐ近くに川が流れていることも関係しているのだろう。特に夕方などに庭の草取りをしていると刺されやすい。

 北海道ではかつて山奥で造材作業を行っていたが、作業をしている人たちは大量のブユ、ヌカカ、蚊に襲われたそうだ。考えただけでもぞっとする。今は虫刺されに効果のある薬もいろいろあるが、昔はさぞかし大変だったことだろう。

 北海道は夏が短いとはいえ、雑草の伸びるスピードは凄まじい。6月から9月までは頻繁な草取りが欠かせないので、完全防備スタイルでやるしかない。

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