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2018年6月 3日 (日)

コミュニケーションを避ける人たち

 前回の「栗城史多さんの『否定の壁』について思うこと」という記事で、批判と非難の違いについて書いた。円滑な人間関係を築くためには他者を非難してはならない。そして、議論とか対話といったコミュニケーションこそが大事なことは明白だ。ところが、どうもこの国にはコミュニケーションができない人たちが溢れている。

 なぜこうもコミュニケーションができないのだろうか? なぜ異なる意見を尊重する文化が育っていないのだろうか? 先の記事では敵対心や競争心などが非難に走る要因であると書いたが、コミュニケーションを避けるという国民性も関係しているのではないかと思えてならない。このコミュニケーションを避けるという意識には日本人の同調性が大きく関係していると思っている。

 かつて、日本の村落ではいわゆる村八分が存在していた。村の掟に従わなかったり村の秩序を乱したりした人は火事と葬式を除き交際を絶つという制裁だ。現在では人権侵害の違法行為とされる。要は、集団によるいじめに等しい。

 村八分のあるコミュニティーでは、有力者に従っていれば村八分になることはない。たとえおかしいと思ったことでも、村八分を恐れて口を閉ざしてしまうことになる。リーダーに従っていればいいのだから、自分の意見は持たなくても支障はないということでもある。学校でのいじめなども村八分と同質だ。

 村八分社会においては自由な発言自体が自主規制される。村八分社会からは「言論の自由」という発想も、「他者の意見を尊重する」という意識も育ちにくい。育つのは他人の顔色をうかがって周りに合わせる同調意識だ。日本人は率直な意見を言って議論をするということが苦手だが、それはかつての村八分社会から意識的に脱していないということもあるのではないか。

 言うまでもないが、現代は村社会の掟はなくなり自由に意見を言う権利が保障されている。ところが人に染みついた同調意識はいきなり変わることはできない。親が「皆と同じにしていれば波風も立たないし損をしない」という価値観であれば、子どもにもそう教えることになる。いつまでたっても同調を優先する生活から逃れられない。

 それともう一つ、多くの日本人が議論とか対話といったコミュニケーションが苦手なのは、学校で自分の考えを述べるとか議論や対話をするという教育がなされてこなかったことも大きいと思う。日本の教育現場では「従順な人間」を育てることを目標にしてきたといっても過言ではないだろう。これでは「議論や対話をする」ことはもとより「言論の自由を享受するためには他者の意見も尊重しなければならない」ということも学べない。

 家庭でも学校でもこんな状態なら、物ごとの善し悪しを理性的・論理的に検討するという習慣が身につかないし、議論も対話も苦手ということになる。波風を立てないことが美徳とされ、自分を殺しても声の大きい者に従ってしまう。自分の意見を持たなくても何とかなってしまうのが日本の社会なのだ。

 このような人たちは、容易にネットカルト化すると私は考えている。弁護士に不当な懲戒請求をした人たちが、弁護士から不法行為で提訴を通告されたことが話題になっている。懲戒請求をした人たちは「余命三年時事日記」というブログの影響を受け、ブログ主の主張を信じて懲戒請求の呼びかけに従ったとされる。懲戒理由は「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」というもの。この「余命三年時事日記」のブログ主は典型的な差別主義者だが、そこに集う人たちは彼が差別主義者であることすら判断できない。懲戒請求が適切なものかどうかも調べず、扇動に乗って行動してしまう。

 「余命三年時事日記」に集まる人たちは、恐らくツイッターなどで左派の人たちに粘着したり罵倒を浴びせたりしているネトウヨと言われる人たちと重なっているのだろう。恐ろしいのはカルト宗教と違って何の拘束もないのに、ブログ主の主張を頭から信じて自主的にカルト化してしまうことだ。ネトウヨと言われる人たちは、理性的・論理的に物ごとの善し悪しを判断することができない人の典型だと思う。

 匿名で発言ができるネット空間では、自分を抑制する必要がない。対話のマナーを身につけていない人たちがネットという言論空間を手に入れて自己主張をしたら、自分と異なる意見の人たちを否定し攻撃することになる。実社会では自分の身を守るために自己主張をしない人が、ネットでは豹変して攻撃的になる。こういう人たちは、私たちの身近にいる。

 私はネット空間において理性的・論理的な主張ができず非難しかできないような人に遭遇したら、無視するしかないと思っている。他者を罵る人の大半は匿名だ。このような無責任な相手と対話をすべく努力しても徒労に終わるだけだ。

 しかし、実社会においては必ずしもそうではない。学校にも職場にも地域コミュニティーにも「他者の非難ばかりする人」「好きになれない人」というのはいるものだ。そういう人と積極的に付き合う必要はないと思うが、関わりをもつ必要が生じたときは一人の人間として対等に接し、困っていたら助けるというのが大人の態度だと思う。

 弁護士への不当懲戒請求の件も、和解に応じて謝罪してきた人たちの中には洗脳から解かれ反省し改める人もいるだろう。実社会で人と接することで、差別意識に気づく人、誠実なコミュニケーションができる人を増やしていくしかないと思う。

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