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2018年5月

2018年5月24日 (木)

栗城史多さんの「否定の壁」について思うこと

 5月21日に登山家の栗城史多さんがエベレストで亡くなった。栗城さんのの訃報を知り、正直いって残念とかお気の毒という気持ちにはなれなかった。あえて率直な気持ちを表現するなら「虚しい」「痛ましい」だ。

 彼は6大陸の最高峰の登頂を果たし、最後に残っていたエベレストへの単独、無酸素での登頂に挑戦し続けていた。彼には多くのファンがいると同時に厳しい批判もあったようだ。私は彼のことを知ったときからずっと違和感を持ち続けていたのだが、その違和感は彼の登山の目的にある。

 栗城氏のオフィシャルサイトのトップページには「否定という壁への挑戦」というタイトルのもとに、挑戦をし続ける目的が書かれている。

 彼は大学3年のときに単独で北米最高峰のマッキンリーに向かおうとしたら、周りの人から否定されたという。それ以来、周囲の人からの「否定の壁」を乗り越えることが彼の信念となり、さらに登山の生中継を配信することで「否定の壁」につきあたっている人たちに自分の挑戦を見せ、「否定の壁」を共に乗り越えることに意義を見いだしていたのだと思う。つまり、彼にとって登山そのものは目的ではなく、「否定の壁」をなくすための手段だったのだろう。もちろん彼の行動は善からのものだし、自分の挑戦は他者への貢献にも繋がると考えていたのだと思う。

 私がもっともひっかかったのは「否定」と言う言葉と「否定の壁をなくす」という目的だ。さほど登山経験もない若者が一人でマッキンリーに登ると言い出したなら、一流の登山家はもとより一般の人も無謀だと諭すのはごく当たり前のことだ。マッキンリー登山に反対した人の中には辛辣な言い方をした人がいたかもしれないが、多くは常識に照らして意見を言ったのではなかろうか。彼の登山という行為や冒険心を否定したわけではないと思う。ところが彼はその意見を「自分の否定」として受け止めてしまった。

 また、何度もエベレストに挑戦しては敗退する彼には登山関係者からも批判の声が上がっていた。彼の体力や技術から考えると成功の見込みはほとんどないと。以下参照。

栗城史多という不思議(森山編集所)
栗城史多という不思議2 (森山編集所)

 しかし、彼は専門的知識のある人たちの意見も「自分を否定している」と捉えてしまったのではなかろうか。そして「否定の壁」を乗り越えることこそ自分の使命だと確信するようになってしまった。さらに自分を支持し応援してくれる人は仲間だが、批判する人は挑戦を阻む「壁」であり「敵」だと思ってしまったのではないか。

 彼がエベレスト登頂に固執し、無謀なルートに拘ったのは「批判」を「否定」と勘違いしたことが発端になっていると思えてならない。また、彼の執念の根底には、自分を否定した人たちを見返してやりたいという気持ちがあったのかもしれないとも思う。もし勘違いが無謀な挑戦を生み、そのために命を落としたのであれば、これほど虚しく痛ましいことはない。

 そんなこともあって、批判と非難(否定)について書いてみたい。

 アルフレッド・アドラーの言葉に以下のようなものがある。

自分と違う意見を述べる人は、あなたを批判したいのではない。違いは当然であり、だからこそ意味があるのだ。


 社会は自分と異なる様々な意見や価値観の人によって構成されている。たとえば思想などで自分と共通点の多い人であっても100%意見が同じということはほとんどない。十人十色というが、人はそれぞれ意見が違う。異なる意見や価値観の人も認めなければならないということを言っている。

 ところが、人によっては「意見が違う=批判された=非難(否定)された」と受け止め、自分が攻撃されたと勘違いをしてしまうことがある。意見の違いを否定とか攻撃と捉えてしまうと、単に意見が違うだけの人を「敵」とみなしてしまうことになる。

 ただし、このアドラーの言葉で注意しなければならないのは、「意見」や「批判」という言葉の使い方だ。厳密に言うなら、ここで使われている「意見」は「批判」を指し、「批判」は「非難」を指していると私は考えている。言いかえれば「批判をする人はあなたを非難したいのではない」ということだ。「批判」と「非難」を同じような意味合いで使っている人も多いと思うが、実は両者はまったく異なる。その理由を以下に説明したい。

 批判と非難の違いは一般的には以下のように定義されている(コトバンク)より。

【批判】
・物事に検討を加えて判定・評価すること
・人の言動、仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること
・哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること

【非難】
・人の欠点や過失などを取り上げて責めること

 この言葉の定義からすると、批判は論理的に評定をすることであり、非難は論理を欠いて他者を責め立てることだと言えるだろう。

 批判と非難の違いに関しては以下の記事がより踏み込んでいて興味深い。

中学生にもわかる「批判」と「非難」ってどうちがうのか?(高橋英樹 哲学ブログ絶対精神の純粋理性批判)

 著者の高松英樹氏による批判と非難の違いを箇条書きにすると以下のようになる。


【批判】
・考える性(さが)である理性が、理性自身の妥当性を考え判断すること。平たく言えば、「考える」こと自体を考えることによって、ある事柄がどう正しく、どう正しくないか、それをはっきりさせること。
・ただ知りたいがためだけに、ことを明白にしたいがために、言われていることの理屈の正しさを問うこと。
・批判の対象は、他人でも自分でもない。

【非難】
・「知りたいための否定」ではなく「否定のための否定」
・批判に対して腹を立てて「勝つための」議論をすること。
・「非難」の対象は自分以外の他人に向けられる。
・非難のために理屈の正しさを無視したり、ねじ曲げたり、理屈がない場合は非難ですらなく揶揄、誹謗、中傷になる。


 これらの定義から、「批判」とは理性的、論理的に妥当性を判断することだといえそうだ。理屈を示していても理性や論理性を欠き他者を責めたてるだけの発言は非難である。理性的、論理的に妥当性を判断する(つまりは批判する)ことは、私たちが過ちを犯さず主体的に生きていく上で非常に重要なことだ。批判的な見方ができるということは自己が確立されているということでもあると思う。

 自分の意見に対し他者から名指しで批判された場合でも、それに納得できなければ論理的に反論をすればいい。そうやって理性と論理でやりとりするのが議論だ。議論によって自分が間違っていると気づけば自分の意見を変えればいい。議論しても平行線ということはよくあるが、それはそれで考え方が違うことを互いに認め合うしかない。議論は決して勝ったとか負けたとかの勝負ではない。ところが自分の過ちを認めたくない人や相手を打ち負かさないと気が済まない人は、理性や論理を無視して非難することで勝とうと躍起になる。こういう人とは議論とか対話が成立しない。

 ある人と電話で話しをしていて、どうしても意見が一致しない状況になったことがある。そこで「見解の相違なのでこれ以上話しても仕方ないですね」と話しを切り上げようとしたら、「見解の相違」を頑として認めず自分の意見を押しつけて食い下がってきて驚いたことがある。この方は自分が勝たないと気が済まない性分なのだろうと思った。

 競争意識や敵対心の強い人、自分の非を認めない人、他人を支配したい人などは、論理的主張であっても自分とは意見が違うというだけで「非難された」「否定された」と受け止めてしまうのだろうと思う。

 このように批判と非難はまったくの別物である。そして批判は必要だが非難はすべきではないということになる。互いに非難し合ったなら、決して理解しあったり歩み寄ったりすることはできないし、人間関係は悪化する一方だ。

 日頃から非難をしないようにわきまえている人は、他人を罵倒したり揶揄したり見下すようなことはまずしない。そのような人同士での意見交換は、たとえ最終的に理解し合えなくても有意義だし喧嘩別れに終わるようなことはない。

 逆に、競争心や敵対心が強く自分が勝たねば気が済まない性格の人は、意見が違うだけで非難に走る。高松氏は、論点をそらしてはぐらかしたり、外からの情報を根拠にしたり、自己完結したただの「意見」で終わらせようとする場合は非難だとしている。

 競争心や敵対心というのは一度身についてしまうと変えることはとても困難だ。このような意識になってしまうのは競争社会だけではなく不平等な社会が大きく影響していると思っているが、人々の心からこれらをなくすことは難しそうだ。ただし、他者の非難ばかりしている人や仕返しをしなければ気が済まない人は、「復讐という不幸」に書いたように、穏やかで幸せな人生にはならない気がする。

 もし栗城氏が自分への批判を「否定」と捉えずアドバイスと受け止めていれば、彼の人生は全く違ったものになっていたのではないかと思えてならない。

2018年5月17日 (木)

不当な懲戒請求で弁護士らが提訴を表明

 いわゆるネトウヨと言われる人たちが弁護士に不当な懲戒請求をしたという件で、東京弁護士会の佐々木亮弁護士と北周士弁護士が記者会見を開いた。この記者会見についての記事が以下に掲載されている。

「懲戒請求者は90億人」の手紙も…大量請求受けた弁護士2人が提訴へ「非常に不当」(弁護士ドットコム)

 佐々木、北両弁護士は、960人の懲戒請求者を相手に慰謝料を求める訴訟を起こすとのこと。また、和解も受け入れている。

 このような応報に対しては大人げないなどという批判も出ているようだ。私は報復行為は支持しないしトラブルはできる限り話し合いで解決すべきだという考えだ。ネットでの言論でトラブルになった場合なども安易な名誉毀損裁判はできる限り避けて話し合いで解決するのがベストだと思っている。

 しかし、今回の大量懲戒請求者の提訴は報復だとは考えていない。大量の不当懲戒請求によって弁護士さんたちが被害を被ったというのは事実であり、それに対して責任をとってもらうというのは当然の行動だと思う。無法者に対する正当な対処だろう。

 ネトウヨたちの最大の問題は、責任感の欠如だ。彼らは平然と差別発言をし、安倍政権を批判する人たちにツイッターなどで粘着して罵声を浴びせかける。大多数は匿名だから責任をとる気もないのだろう。犯してしまった不法行為に対しては謝罪と賠償で責任をとるしかない。日頃自己責任論を声高に唱えながら「自分の責任をとる」などということは考えてもいない人たちには、この機会にしっかりと責任をとってもらうことも必要ではないかと思う。

 また澤藤弁護士による以下の意見もあるが、ほぼ同感だ。

安易な弁護士懲戒請求は、損害賠償請求の対象となり得る。(澤藤統一郎の憲法日記)

 弁護士への不当な懲戒請求に関してはすでに判例があり、慰謝料は30万から150万円となっている。以下参照。

弁護士に対する懲戒請求が不法行為になるか(河原崎法律事務所ホームページ)

 佐々木弁護士と北弁護士の場合、和解金は弁護士1人あたり5万円とのこと。同じく提訴を表明している嶋崎量弁護士も同様に5万円。上記の判例から考えても、この和解金は良心的な金額ではなかろうか。たとえ無職でお金がない人でもアルバイトをすれば容易に稼げる金額だ。

 また、佐々木弁護士と北弁護士は、不当な懲戒請求を煽ったブログの管理人の刑事責任を追及する方針であることも明らかにしている。このブログ主の責任が追及されるのは当然だと思うが、事実も確認しないで従ってしまう人がこれほど多いことに呆れてしまう。しかも、北弁護士によると請求者は比較的年齢が高い印象だという。ネトウヨといえば若者が多い印象があるが、そのそこの社会経験があるであろう「大の大人」がそれなりにいるというのは興味深い。

 同じく不当懲戒請求を受けた神原元弁護士も提訴を宣言しているが、神原弁護士は刑事事件にすることも検討しているようだ。

 訴状など無視すればいいと言っている人もいるようだが、反論しなければ請求額がそのまま確定する可能性が高い。お金がないなら賠償命令など従わなくてもいいという人もいるが、財産(給与)の差し押さえとか刑事告訴もあり得る。和解に応じるか弁護士に対処を相談するのが賢明だろう。

2018年5月 6日 (日)

復讐という不幸

 以下は5月4日にツイッターでつぶやいたツイート。

コメント欄で他者とのやりとりができるブログも含め、SNSをやるようになってから驚くほど復讐心が強くかつ執念深い人がいることを知った。もう2年以上も特定の人の悪口やデマを言いふらしている人がいる。相手を貶めることで自分の優位性を誇示したいのだろうけれど、哀れにしか見えない。

他人を罵り悪口を言い続けなければ気が済まない人は、第三者からは異様なクレーマーであり偏執病(パラノイア)にしか見えない。ところが本人はそれが善だと思っており、優越感に浸り粋がっているのだろう。だから自分の性格の問題であることすら認識できない。実にお気の毒なことだ。

https://twitter.com/onigumoobasan/status/992263471717744641

 このツイートについて、もう少し具体的に説明しておきたい。

 私がブログを始めたのは2007年の5月からだから、もう10年もブログを書いていることになる。ブログでは自然に関することなどのほか環境問題や社会問題にも言及してきたし、不可解に思うことに関しては批判も含め率直な意見を書いてきた。原発事故が起きた2011年からは情報収集のためにツイッターも始めた。しかし、インターネットで自分の意見を表明すれば、必ずといっていいくらい「言いがかり」をつけてくる人がいる。

 意見が異なるのなら「自分はこう考える」と反論すればいいだけなのに、論理的に説明をすることなく誹謗中傷したり個人情報を晒す人がいる。説明を求めたり反論したことを「攻撃」と称し、「自分は攻撃された被害者」だと主張して法的手段をちらつかせて恫喝する人もいる。もちろん、いくら待っても内容証明郵便や訴状が来ることはなく、黙らせるための脅しにすぎない。要は、批判的意見を書いたことに対する逆恨みだ。

 ある自費出版社に対して不可解な訴訟を起こし和解したにも関わらず、ブログで延々とその出版社の批判を書いている人もいる。その執念深さには呆れてしまうが、その人の目的はトラブルを解決することではなく出版社の落ち度を晒すことで優越感に浸ることなのだと考えれば納得がいく。公益目的の批判を通り越したモンスタークレーマーだ。

 ツイッターでも恨みから報復ツイートをしている人がいる。ツイッターで嫌がらせをされたり批判的なことを言われた人が、エアリプで(といっても誰のことを言っているのかだいたい分かってしまうのだが)悪口や揶揄、侮辱発言による仕返しを延々としているのに気づいて辟易とした。エアリプなら名誉毀損にならないと思っているのだろうけれど、他人の悪口を言って粋がっているのは本人だけで、第三者が見たら執拗なクレーマーでしかない。

 この10年間、ネットで「やられたからやり返す」という人を嫌というほど見てきた。そういう復讐心の強い人の中には驚くほど執念深い人も少なくない。世の中には憎しみから復讐をしないと気が済まない人が一定程度いることを実感した。

 誰もが言いがかりをつけられたり嘘を振りまかれたり誹謗中傷されたら不快になり腹を立てるものだし、私もそういう感情を抱くことはある。しかし、言いがかりをつけたり誹謗中傷をしたわけでもなく、批判的な意見や感想を書いただけなのに怒りを露わにして復讐する人がいるのには驚いた。私は批判されたら反論をすることはあるが、相手を憎むとか恨むということはないし、仕返しをしようとも思わない。そんなことをしたって自分と相手の間に横たわる問題は何一つ解決しないばかりか、よりいっそう険悪になるからだ。

 大人になっても仕返しをしなければ気が済まない人は、「憎しみはさらなる憎しみや苦しみしか生まず何の解決にもならない」ということを今までの人生で学んで来なかったのだろと思う。

 自分を傷つけた人、嫌いな人を痛めつければその時は恨みが晴らせたという満足感で気分がスッキリするのかもしれない。相手をけちょんけちょんにやっつけることができれば「自分こそ正しい」という優越感に浸ることができる。あるいは「自分は被害者」だと主張することで相手の加害性を強調でき、「相手は悪いやつだ」と印象づけることができる。でも、復讐による爽快な気分が長く続くことはないと思う。

 なぜなら、復讐というのは「自分がやられたくない」と思うことを相手に対して実行することだからだ。これはものすごくネガティブな感情であり行動だ。他人の個人情報を晒して嫌がらせをしていた人が、自分の個人情報を晒されて怒り狂っているという状況を何度か目撃したことがあるが、それが復讐の本質だ。

 しかも復讐には名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害、脅迫など違法行為や不法行為がつきまとう。なぜなら真摯な議論をしたのでは相手を痛めつけることができないからだ。したがって相手の社会的評価を低下させるために違法行為や不法行為に走ることになる(事実の適示であっても相手の社会的評価を低下させれば名誉毀損になる)。ネガティブな感情を持ち続けたり違法行為や不法行為に手をそめたなら、穏やかで幸せな気持ちでいられるわけがない(もし復讐が快楽だという人がいるなら、それは良心が欠落したサイコパスだろう)。場合によっては、相手からの反撃に怯えることにもなりかねない。

 報復感情が強すぎると、被害妄想に陥ってしまうこともある。前述したように私は反論したり批判的意見を述べることはあっても恨みから復讐をすることはない。ところが復讐心に満ちた人は決して冷静な議論をしようとせず、反論や批判的意見を「攻撃」だとか「恨み」だと決めつけて「自分は被害者」だと主張する。こうなると被害妄想の域に達していて話し合いの余地がない。いわゆる偏執病(パラノイア)と言われる人たちは、そんな心理状態に陥ってしまった人ではないかと私は思っている。

 復讐をするということは、穏やかで幸せな気持ちを手放すこととイコールなのだと思う。復讐をされた人は当然のことながら不快になり相手を信頼しなくなるし、互いに復讐心が強ければ報復合戦という地獄になりかねない。復讐などしたところでいいことは何一つないが、偏執病の域に達してしまうとそこから抜け出すのは容易ではないのだろう。何しろ自分を傷つける相手を懲らしめるのは善だと思ってしまうのだから。

 そういう人に限って「復讐」という行為が自分の不幸を招いていることを理解できず、自分にまとわりつく不幸や息苦しさは相手のせいだと更なる勘違いをして攻撃を止めようとしない。復讐をしないと自分がやられっぱなしになるのではないかと不安になり、復讐を手放すことができなくなる。憎しみを手放せば楽になれるのにと思うけれど、第三者がそんなことを言っても虚栄心の強い人はまず聞く耳を持たない。復讐をする人は自分で自分を不幸にしているのに復讐を止められないのだから、哀れであり気の毒と言うしかない。

 ネットで意見を言う以上、嫌がらせや報復はつきものなのかもしれない。しかし、そんなことにいちいち腹を立てて報復するのは自分を不幸にすることでしかない。納得できない意見には論理的に反論し、嘘をふりまかれたら嘘であると指摘するのは正当な行為だと思うが、そのような正当な主張を超えて相手を貶める「復讐」という手段を選択したら最後、不幸のループにはまるだけだ。

 トラブルになったなら、対話しか平和的な解決はない。報復のために相手の粗探しなどを始めたなら地獄の始まりだ。ネガティブな気持ちにならないためにも、私は復讐心が強い人のツイッターやブログは基本的に見ないようにしているし、エゴサーチもしない。

 菅野完さんの件では被害者の女性の復讐心に関して批判的な記事を書いたが、それも上記のような理由からだ。報復行為が周囲の人まで巻き込んで不幸を拡大してしまった事例だ。

 最後に参考までにこちらのサイトを紹介しておきたい。

復讐したいと思ったら読んで!傷つけられた時のブッダの思考

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