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2018年4月

2018年4月24日 (火)

ハラスメントと差別意識

 財務省の福田事務次官が女性記者に対してセクハラ発言をしたことが明らかになり、辞任に追い込まれた。本人はセクハラではないと開き直っているが、理解に苦しむ。日本では未だに男性による女性へのセクハラや性暴力が後を絶たないが、本当に恥ずかしい限りだ。

 セクハラやパワハラはハラスメント、すなわち嫌がらせだが、嫌がらせというのはそもそも他者を自分と対等の人間と見ておらず他者の人格や人権に対する配慮が欠けることに起因する。相手の人格や人権を無視して自分に従わせようとしたら、そこにハラスメントが生じる。そしてハラスメントの根底には差別意識がある。

 日本では今でも家事や育児、介護などは女性の仕事という風潮が強い。共働きであっても女性の方が圧倒的に家事や育児の負担が大きい。男女は対等であり平等であるという意識があればそういうことにはならないはずだが、平等意識を持っている人はどれくらいいるのだろう。

 専業主婦に対して「誰に食わせてもらっているんだ」などと平然と発言する夫などは、自分が妻の人格を無視しているなどとは思っていないのかもしれない。お金を稼いでいる自分の方が妻より上であるという意識があるからこそそういう言葉が自然に出てくるのだが、その傲慢な意識に気づけない感覚は恐ろしい。昨今は女性が外に働きにでて夫が専業主夫という家庭もたまにあるが、男尊女卑の感覚がしみついている人はそういう立場にでも置かれない限り真の男女平等や分業ということを理解できないのかもしれない。

 以前、ある著名な詩人が「化粧をしない女は女性ではない」という意味合いのことを書いていて驚いたことがある。化粧をして外見を良く見せるのが女性の本質だと言いたいのかもしれないが、そういう見方が性差別であることに気づいていないのだろう。以降、その詩人に関しては私は関心を失った。

 夫のことを「主人」と呼ぶ人も多いが、私は「主人」という言葉は使わない。「主人」は明らかに主従関係を表す言葉だからだ。妻のことを「嫁」と言ったり、結婚することを「嫁をもらう」などと表現するのも同じで、男性より女性が下という考えが根底にある。男尊女卑がそのまま残っている言葉であり、死後にしたほうがいいと思っている。昔はそれが当たり前だったのかもしれないが、今はそんな時代ではない。

 学歴や社会的地位、職業、容姿などを持ち出して評価したりすることも日常的にある。学歴も社会的地位も容姿も、その人の人間性や価値とは何の関わりもない。そんなことは誰にでも分かると思うのだが、実際には学歴や地位、容姿で他者を差別するような人はしばしば見かける。

 ネットでも至るところでハラスメントを見かける。意見が異なる人に自分の意見を伝えるのは悪いとは思わないし、事実誤認をしている人がいたら指摘するのもいいだろう。ところが、相手を呼び捨てにして「お前の主張は間違っている」とこき下ろしたり、アホだとかクズなどと小馬鹿にする人が何と多いことか。事実誤認を指摘するなら、事実について説明すればいいものを「そんなことも知らないのか」とばかりに相手を侮辱する人もいる。

 自分の気に入らない高齢者に対し、ジジイ、ババアなどと罵るのも言葉の暴力であり一種の差別だろう。不快なことがあるなら、不快な理由を説明して止めてほしいと伝えるのもいいだろうが、ネット上の見ず知らずの匿名者などに関わる必要はない。不快だからといって公の場で罵れば、醜い罵り合いになりかねない。

 「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性を持つ言葉」を差別用語というが、他者を蔑み傷つける発言は差別意識に基づいているといっても過言ではないと思う。

 そして、日常的に差別的な発言をしている人たちは、自分が差別をしているという意識はほとんどないのではないかと感じる。それだけ無意識に他者を差別している人が多いように私には思える。人は誰しも自分の考えは間違っていないと思っているものだ。しかし、それを他者に押しつけたあげく侮蔑するのは筋違いというものだろう。自分と異なる意見の者に対しては論理的に批判すれば事足りるわけで、侮蔑する必要など何もない。

 要は、差別をする人というのは「自分こそ正しい」「自分の方が上だ」という思い上がりがあるから、異なる意見の者を侮辱し、自分の主張を押しつけようとする。

 差別意識というのはそう簡単になくなるものではないのだろうけれど、差別意識が強ければ民主主義そのものが成り立たないと私は思う。

2018年4月11日 (水)

「君たちはどう生きるか」は人類にとっての永遠の課題

 昨年出版された漫画版の「君たちはどう生きるか」がかなり売れているという。私は漫画はあまり好まないし、こういう本は原作を読んでみるに限るという考えなので、遅ればせながら岩波文庫版を読んでみた。著者は東京大学の哲学科を卒業し、編集者、評論家、作家、翻訳家の肩書を持つ吉野源三郎氏(1899-1981)。「君たちはどう生きるか」は80年前の1937年に「日本小国民文庫」の中の一作品として書かれたものだ。

 この作品はコぺル君というニックネームの15歳の少年が主人公だ。中学校でのいじめ問題や友人関係で悩むコぺル君の日常生活と、コぺル君の相談相手である叔父さんがコぺル君に宛てて書いたノートによって構成されている。つまり、コぺル君の人間関係の悩みというストーリーを軸に、吉野さんのメッセージを「叔父さんのノート」という形で織り込んだ作品だ。

 本書で吉野さんが叔父さんに語らせている若者へのメッセージは、かいつまんで言うならおおよそ以下のようなことだ。

・差別をしてはいけないこと。
・人間は協力し合って生きていかねばならない存在であること。
・物ごとを俯瞰的に見ることの大切さ。
・主体性(自分で考え行動する)を持つこと。
・人類の発展のために学ぶこと。
・過ちを犯したときはそれを認め謝罪すること。

 これだけを読めば、当たり前のことを言っているにすぎないと言う人もいるかもしれない。しかし、この当たり前のことを実践できている人というのは、実のところそれほど多くはない。

 この本が書かれた1937年といえば、おぞましい日中戦争が始まった年だ。そして1941年には太平洋戦争が勃発した。国中が軍国主義に染まり、社会主義の運動は弾圧され、自由に物を言うこともできない息苦しい時代だ。1938年には国家総動員法が制定され、国民は強制的に戦争に駆り出されることになった。あの当時、日本人の多くはメディアに翻弄され軍国主義に大きな疑問も持たず時代に流されていたのではなかろうか。あるいは疑問に思っても口に出せず、国に従うしか術がない生活を強いられていたのだと思う。そんな状況にありながら、というよりそんな時代だからこそ次世代を担う若者主体性を持つことの大切さを伝えようとしたのが「日本少国民文庫」であり本書だろう。

 吉野さんは治安維持法で逮捕投獄され、執行猶予で釈放されたときにこの本を書いたという。身の危険を感じながらも、検閲で引っ掛からないように細心の注意を払って書いたに違いない。壮絶な時代の中にありながら、若い人たちへ向けた熱い想いが伝わってくる。

 本書が発行されてから80年経った今、再び脚光を浴びているのは単に漫画版で読みやすいとかブームというだけではなかろう。80年経っても、まだそのメッセージが新鮮だということに他ならないと思う。つまり、国民の主体性が完全に奪われ全体主義に染まった息のつまるようなあの時代から80年経った今もなお、私たちの多くが本書に示されたメッセージを実践できないがゆえに、「人はどう生きるべきか」という問いが繰り返されるのだ。

 当たり前と思えることがなかなか実践できない。それどころか近年はますます状況が悪くなっているかのように思える。ひとつにはこの当たり前のことを戦後の学校教育の現場で何ら教えてこなかったということがあるだろう。教えてこないというより、むしろ逆行する教育を行ってきたのではないか。つまり、自主性よりも従順であることを求め、リーダーとなりうる一握りのエリートの育成しか考えてこなかったのではないか。その他大勢はリーダーに従っていればいいのだと。

 受験に追い立てる競争教育は学ぶことの意味を置き去りにし、周りの人たちを「敵」にする。競争に乗れない子どもは落ちこぼれのレッテルを貼られ疎外される。近年の行き過ぎた資本主義は格差を生み、格差は憎しみを生む。学校は子ども達が協力しあう場ではなくなり、差別やいじめが後を絶たない。

 他国のことはよく分からないが、日本の若者は恐ろしく政治に無関心だ。戦後生まれの大人たちは、子ども達に政治に関心を持つことの大切さを教えず、主体性はおろか「周り」に合わせていればトラブルを避けられると教えてきた。私が若い頃は、政治の話しをする友人など誰もいなかった。

 こんな具合だから、自分の身を守るために自己主張をせず波風を立てないことがよしとされ、事なかれ主義が蔓延する。事なかれ主義で自分の責任を回避する習慣が身についているから責任感が欠如し、過ちを犯しても認めようとしない。吉野さんのメッセージと逆行する教育がなされてきたとしか思えない。

 太平洋戦争を経験した世代の人々が高齢になり戦争を知らない世代ばかりになってきた昨今、戦争というものがどれほど愚かで惨いかを想像できない人達が増えている。子どもだけではなく多くの大人が政治に無関心であり、関心があるとしてもせいぜい「景気」が良くなり自分の生活が安定するかどうかくらいしか頭にないからではなかろうか。だからアベノミクスにも簡単に騙されてしまう。

 そこには人の無知があり、思い上がりがあり、限りない私欲がある。「君たちはどう生きるか」で吉野さんが発信しているメッセージはシンプルで難解なことではない。しかし、怠惰で強欲な人類にとって、永遠の課題なのかもしれない。

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