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2018年2月

2018年2月24日 (土)

不十分な生活困窮者支援

 少し前のことになるが、1月31日、札幌の民間の自立支援施設「そしあるハイム」から出火し、入居者11人が亡くなるという悲惨な事故があった。スプリンクラーもない木造の古い建物だったことから、あっという間に全焼した。「そしあるハイム」は50年ほど前に建てられた旅館を利用した共同住宅で、生活困窮者の就労支援を目的として民間の合同会社「なんもさサポート」が運営していた。要は行き場のない生活困窮者の受け皿で、この施設があったからこそホームレスから抜け出すことができたという人も多い。入居者の多くが生活保護を受けていた。

 この火事をめぐっては、この施設が無届の老人ホームに当たるかどうかとか、スプリンクラーの設置がどうとかいった点が問題視されているのだが、そこばかりに視点を当てると、困窮者の自立支援を民間の組織が担っているという本質的な問題から目をそらすことになる。実際、警察や役所が生活困窮者に「なんもさサポート」を紹介していたという。つまり、こうした人たちを受け入れる公的施設がないのが実態なのだ。この火事は生活困窮者に対する行政の支援問題を浮き彫りにした。

 ホームレスなどの生活困窮者が生活保護を申請してアパートなどに入居することは不可能ではない。家賃の安いところを探せば、生活保護の受給額でもなんとかやっていける。ただし生活保護を申請する際には審査があり、一人で自立した生活ができるかどうかが問われる。高齢であったり、障害や病気で一人で自立した生活ができない場合は、自治体などが運営する更生施設や社会福祉法人などが運営する自立支援施設に頼るしかない。

 「そしあるハイム」は希望者には食事も提供しており、一人で自立した生活をすることができない高齢者の終の棲家になっていたという側面がある。古い建物でも、身よりのない人たちが協力しあって生活するかけがえのない場であったのだろう。

 私たちはいつ困難な状況に陥るか分からない。会社の倒産や解雇で職を失ったり、病気や怪我で働けなくなったり、親の介護で仕事を辞めざるを得なくなったり、自然災害などで家族や住宅を失ったり・・・。そんなときにも社会保障制度によって衣食住を保障されなければ法の元の平等、基本的人権が守られていることにはならない。

 ところが、ホームレスになってしまった人を「負け組」だとか「自己責任」だと嘲笑する人たちが一定程度いる。いったい誰が好んでホームレスになるというのだろう。個人の問題というより公的支援の問題が大きいにも関わらず、いとも簡単に「働いて自立せよ」などと言う人もいる。こういう人たちは、定職も身よりもない人がアパートを借りることすら極めて困難だという現実を分かっていないのだろう。今は賃貸住宅も空き部屋が沢山ある。しかし安定した収入がなかったり保証人のいない人にアパートを貸す家主は多くない。生活保護制度があるといっても、申請を受け付けてもらえない事例があとを絶たない。

 海外にお金をばら撒いたり軍事費に多額の予算をつけたり、無駄としか思えない公共事業もある。その一方で、ホームレスや生活困窮者のための施設運営すらできないというのは国の怠慢というほかない。

 ホームレスをなくし、生活困窮者をなくすには、行政が自立支援の施設を用意することも必要だが、それと同時に一人ひとりに寄りそってアパートを借りるための手続きや就労の支援、その後の見守りなどきめ細かいバックアップをすることも重要ではなかろうか。日本の社会保障制度にはそのようなソフト面が決定的に欠けていると思う。

 日本はこれから否応なしに少子高齢化が進む。こうした中で、住宅を借りる際に保証人になってくれる身内のいない人も増えるだろう。非正規雇用が増える中で、国民年金すら納められない人も多い。2人以上の世帯で貯蓄ゼロの世帯は3割もあるという。無年金の人や年金だけでは暮らせない人はこれからどんどん増えていく。今は健康でも、病気などで働くことができなくなれば公的支援に頼るほかない。ところが、今の政治を見ていると社会的弱者が安心して生きられる社会とは正反対の方向に向かっている。さらに驚くのは、そんな政権を支持する若者たちが多いということだ。彼らは社会的弱者を切り捨てる政治をよしとしているのだろうか? 自分の将来に不安がないのだろうか?

 「勝ち組」とか「負け組」という言葉を耳にするようになったのはいつからだろうか。格差を勝ち負けで表すとは何て嫌な表現だろうと思う。勝った者は負けたものを見下して「自己責任」だと切り捨てる。勝者になれなかった者は、バッシングできる相手を探して匿名で罵ったり嘲笑したりする。全員が「勝ち組」になれるはずもなく「負け組」の人たちがいなければ社会が回らないのだから、こうした格差は個人の努力の問題ではなく社会のシステムの問題だ。それなのにそのシステムを改善する方向に向かわず弱者を嘲笑するような人たちに寒気がしてならない。

2018年2月11日 (日)

資本主義がもたらしたバッシング社会

 オリンピックにはほとんど関心がないが、オリンピックが始まるとメダルの数や選手に対する期待の強さに辟易とする。と思っていたら、リテラにこんな記事が出ていた。

   平昌ではジャンプの高梨沙羅が標的に・・・五輪選手への道徳押しつけバッシングの異常! 今井メロや國母和宏が心境告白

 スノーボードハーフパイプで予選落ちした今井メロ選手に対する嫌がらせ、高梨沙羅選手、國母和宏選手、里谷多英選手、安藤美姫選手らへの異常なバッシング。これらは批判(物事に検討を加えて、判定・評価すること)といえるものでは決してなく、単なる暴言、悪口だ。ここまで酷いのかと思うと、気分が悪くなってくる。

 これらのバッシングは、選手に対する過大な期待だけの話しではない。何でもいいから批判できることを探しては叩く、つまり人を叩くこと自体が目的になっている人たちが一定程度いるということだ。

 思い返せば、2004年にイラクで日本人の3人の若者が拘束された時のバッシングも凄まじかった。あの頃はインターネットも広く定着してきた時期だったが、人質になった今井紀明さんのところには罵声や嫌がらせの電話のほか、大量の非難の手紙が送られてきて、彼はしばらく部屋に引きこもったという。

 近年では、2015年から2016年にかけて活動した安保法制案に反対する学生グループSEALDsのメンバーに対する異常な攻撃もあった。ネット空間で名指しで攻撃されてもまったく平気で動じないという人はほとんどいないだろう。自分は決して傷つかない匿名で、他人を傷つけることこそがバッシングする人たちの目的なのだろうと思うとおぞましい限りだ。

 匿名で言いたい放題にできるインターネットが、バッシングや炎上を広げていることは間違いないだろう。しかしリテラの記事にあるように、言いがかりとしか言いようがないことでバッシングするというのはもはや常軌を逸している。鬱屈した人間が異常なほどに増えてきているとも思う。

 ツイッターを見ていても、他人の意見にいちいち言いがかりをつけたり揚げ足取りをする人の何と多いことか。この精神の歪みは、やはり社会を反映しているものなのだろう。他人をバッシングして憂さ晴らしをするという精神の根底には、競争社会と格差の拡大が間違いなくある。

 競争というのは、自分がのし上がるために他人を蹴落とすことでもある。競争をさせられると周りの人たちはすべて敵になってしまう。そして「敵か味方か」「勝ちか負けか」という物の見方をするようになる。競争に勝った人は負けた人たちを見下すことになりかねない。また、競争に負けた人たちは、他人の粗探しをしてバッシングすることで優越感を得ようとする。妬みや恨み、復讐心に満ちた世界に平和などない。

 「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、他人の不幸を喜ぶという心理は、人間のネガティブな感情に起因するらしい。こちらの記事によると、以下のようなことが分かってきているそうだ。

“相手に対して「妬み」の感情を抱いている時、脳はその人の不幸を、より強く「喜び」として感じます” “一方で私たちは、相手に特に妬みの感情を抱いていない場合、不幸にみまわれた人を心配したり、かわいそうな境遇にいる人に同情したりします”


 日本では子どもの頃から競争にさらされ、勝者と敗者に分けられていく。さらに富裕層と貧困層の二極化が進めば進むほど、ネガティブな感情が渦巻いていく。こうしてバッシングの土壌がつくられていくのだろう。その根源は人々を競争に追い立て、挙句の果て格差を拡大させた新自由主義的な資本主義に行きつく。このまま資本主義を続けようとする限り格差はさらに拡大し、バッシング行為は激しくはなっても収まることはないだろう。

2018年2月 1日 (木)

定常経済を説く、内田樹「ローカリズム宣言」

 前回はナオミ・クラインの「これがすべてを変える」について書いたが、その後に内田樹著「ローカリズム宣言」を読んだ。ナオミ・クラインは地球温暖化の危機は市場原理主義、グローバル化がもたらしたのであり、温暖化の危機を回避するためには経済成長から脱しなければならないと主張する。一方で内田氏は、グローバル資本主義は終焉を迎えようとしており、今後は経済成長から脱して定常経済モデルを手作りしていく必要があるという。

 二人の発想の基点は異なるものの、ともに目指す方向は「脱成長」すなわち「定常経済」であり、キーワードは「ローカル」「共同体」だ。温暖化問題をつきつめればその解決は定常経済に行き着く。また、経済成長がゼロに近づき格差の拡大が止まらない上に少子高齢化から逃れられない日本の現状からも、もはや経済成長を続けるのは無理があると考えるのは当然だろう。

 内田樹氏の説明は極めて明快で、経済学の知識がなくても非常に分かりやすい。人の生理的欲求には限界があるので、衣食住の基本的な制度が整備されると経済活動は鈍化する。人間は限界を超えた消費活動をすることができない。この経済成長の基本原理を忘れたことで、経済をめぐる無数の倒錯が起きていると内田氏は指摘する。

 この当たり前のことこそ、私自身が経験してきた。私が子どもの頃はまだ物がそれほど溢れてはおらず、衣類にしても文房具にしても与えられたものを大事に使っていた。ところが今はどうだろう。街の商店にも、家の中にも、生きていく上でどうしても必要だとは思えない雑多なものが溢れている。私も歳と共に少しずつ物の整理をしているが、ほとんど使わずしまいこまれている物がいかに多いことかと驚いてしまう。最近では、消耗品や生活必需品以外の物はほとんど買わない(ただし本だけは買ってしまうが)。なぜなら興味本位の安易な買い物は、結果的にゴミを増やすだけだと身をもって経験してきたからだ。

 私が学生の頃は、一億総中流などと言われた。どの家でも洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの家電が一通り揃い、雇用も終身雇用で安定していた。ところがバブルが崩壊し、米国型の経済システムを真似るようになってから非正規雇用という不安定で低賃金の労働者が増え、格差が拡大し、福祉も医療も削られている。これこそ新自由主義型の資本主義のなれの果てであり、経済成長が永遠に続くなどということはあり得ないことを示している。

 内田氏は、政党が株式会社化し、国会はシャンシャン株主総会になったと言う。政党は執行部の指示に反抗しないイエスマンを候補者として選挙に送りだすようになり、国会が形骸化し機能しなくなってしまったと。資本主義の競争社会の中で、国会だけではなく行政も医療も学校も、日本の社会集団のすべてが株式会社のようになってしまったと指摘する。イエスマンを従えた安倍首相は、数の論理を盾にやりたい放題。ほとんど独裁状態であり、その暴走を誰も止めることができない。

 日本中が株式会社化し、資本主義の競争原理が個人の主体性を失わせているというのはたしかにその通りだろう。もっとも私個人としては、もともと同調圧力が強く働いている共同体に資本主義の競争原理が加わって、ますます個人の主体性や個性が失われてしまったという印象を抱いている。いずれにしても同調と競争を強いられる集団ほど息苦しいものはないし、多くの日本人はまさにその息苦しさに喘いでいるのではなかろうか。

 このまま経済成長を続けようとするとどうなるのか。内田氏は経済学者の水野和夫氏の主張を持ち出し、企業の収入は増えるが労働者はどんどん貧しくなっていくと指摘している。ますます貧富の差が拡大するということだ。水野氏は資本主義の先に定常経済(ゼロ成長)がくると予測しているそうだ。

 私は、資本主義というのは地球の自然環境を破壊して資源を消費しつづけるシステムであり、自然に逆らうシステムに他ならないと思っている。自然の摂理に反するシステムがいつまでも続くはずはない。人は自然なくしては生きられないが、地球の資源(自然環境)は限られているわけで、資源を使い放題にしたうえに環境を破壊し汚染してしまったなら人類は生存し続けることはできない。資源の無駄遣いを止め、生態系のサイクルからはみ出さないような持続可能な生活を維持しなければ、人類に未来はない。つまりは定常的な社会だ。これから目指すべきはエネルギー(もちろん再生可能エネルギー)も含めた地域での自給自足の生活ではないかと思っている。

 内田氏も、自然環境を守ることは資産を守ることであり、経済成長のためにこの資産を汚したり捨て値で売ったら、今の日本の経済力では未来永劫買い戻すことはできないと言う。経済成長を唱える人たちは、このことになぜ気が回らないのだろうか? 私は不思議でならない。

 新聞などのマスコミであろうと個人であろうと「脱経済成長」とか「定常経済」を主張する人は極めて限られている。経済成長を否定しようものなら、トンデモ扱いされるというのが現実ではなかろうか。まるで経済成長がない社会は夢も希望もない世界だと言わんばかりだ。

 しかし、定常経済というのはそれほど夢も希望もないつまらない社会なのだろうか? あるいは今の便利な暮らしを捨てなければならないのだろうか? 水野氏は、定常経済で株式会社は収益を人件費と減価償却に充て、株主への配当は定期預金の金利程度にすると、賃金は50%アップすると試算しているそうだ。ならば、決して「みんなで貧乏になる」ということにはならない。急激な発展もないけれど、時間に追い立てられることも過度の競争もない社会が悪いとは思えない。少なくとも私は今の生活は十分便利だと思うし、衣食住に困らなければ進歩が緩やかであったとしても何ら問題ないと思う。

 少子高齢化が進み労働者人口が減るとはいえ、海外へのばら撒きを抑制し、軍事費を縮小し、米軍への思いやり予算を削減し、無駄な公共事業を止めれば、社会福祉や医療、教育などの充実も図れるのではなかろうか。息が詰まるような競争ではなく、互いに協力し合う生活こそ、人として健全だろうと思う。アドラーの言う「共同体感覚」が重なってくる。

 内田氏は資本主義の終焉を直感した人たちが、都会から地方へと脱出し始めているという。経済成長ゼロの時代を乗り切るために、地域の共同体を再生し人々が互いに助けあいながら「小商い」をすることを提唱する。

 北海道の地方ではここ数十年の間に鉄道が消え、学校が統廃合され、医療機関が次々と姿を消し、商店街はシャッター街となり、人口の減少と高齢化が進んでいる。一方で数は少ないながら地方に移住してくる人たちもいる。とはいうものの、地方、とりわけ農村のコミュニティーは人づてに伝わってくる話しを聴く限り極めて閉鎖的で排他的だ。つまり、従順な者は受け入れても異質な者を排除するという慣習が色濃く残っている。

 資本主義の終焉の時代を生き抜くために最も必要なのは、主体性を持った多様な人々が共存できるコミュニティーの形成だ。都会であれ田舎であれ、人々が競争やお金儲けの意識から脱し、協力的な人間関係をつくりあげることができるかどうかが大きな鍵になるように思える。

 なお、本書のまえがきは以下から読むことができる。
「ローカリズム宣言」まえがき

 内田氏の以下の論考も紹介しておきたい。
日本はこれからどこへ行くのか

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