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2017年5月24日 (水)

日本人は自民党が「立憲主義廃絶への一本道」を進んでいることを理解しているのか?

 今日(5月24日)の北海道新聞で、思想家の内田樹さんが「立憲主義 廃絶への一本道」と題して、半数以上の有権者が安倍政権を支持していることについて論じており、興味深く読んだ。東京新聞にも同じ記事が掲載されたようだ。

 内田氏は共謀罪が成立したなら、政府は市民が市民を監視し隣人を密告するシステム作るだろうと指摘している。監視社会をつくり市民が密告するシステムをつくれば、政府は労をせず政権に楯突く人物を共謀罪によって弾圧することができるだろう。まさに治安維持法の復活だ。

 内田氏は「私が特に興味を持つのは、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪を経由してやがて改憲に至る文脈である。これは間違いなく立憲デモクラシーの廃絶と一党独裁をめざす一本道なのだが、なぜか『国民主権を廃絶する』と明言している政党に半数以上の有権者が賛成し続けている」と指摘したうえで、その理由について見解を述べている。

 内田氏の答えはこうだ。「戦後生まれの日本人は生まれてから一度も『主権者』であったことがない。家庭でも、学校でも、部活でも、就職先でも、社会改革を目指す組織においてさえ、常に上意下達の非民主的組織の中にいた」

 まさしくその通りだと思う。日本社会全体に蔓延しているのは「自分が損をしないように行動する」あるいは「自分が得をするように行動する」という意識ではなかろうか。つまり、「こうすべきだと思うからこういう行動をとる」のではなく、常に他者との競合関係の中で損得を基準に判断をすることが習慣になっているのが日本人なのだと思う。

 具体的に言うなら「嫌われないためにこうする」とか「評価してもらうためにこうする」という風に。だから個人の主体性というものがなく、常に他者の評価で自分の行動を決める。大人から子どもまでこうした判断の仕方が身にしみついているから、政治においても「主権者」の意識がないのだ。もっとも、これは裏返せば無責任ということでしかない。

 無責任といえば、福島の原発事故においても事故を起こした東電や、安全神話で国民を騙し国策として原発を押し進めてきた人たちは、事故から7年も経った今でも誰も責任をとっていない。福島の子ども達に甲状腺がんが多発しても、もはや報道すらろくにされない。結局、なにもかもうやむやにして再稼働することだけは必死だ。国民全体が無責任体質といえるのだろう。

 内田氏は、社会改革を目指す組織ですら上意下達だと指摘しているが、日本の組織では執行部にその他大勢が従っているだけの場合が多い。組織の構成員の大多数がリーダーや執行部におまかせなのだ。こういう組織は独裁的になりがちで、組織内部に上下関係が生じやすい。特に組織が大きくなるほど非民主的な組織になりがちだと私は捉えている。辺見庸氏なども組織に非常に批判的だが、私は「組織すること」が問題なのではなく、組織を構成する人たち個々の意識の問題ではないかと思っている。いずれにしても、社会改革を目指す組織が独裁的であれば、独裁政権とどう違うのかということになりかねない。

 内田氏はさらにこう指摘する。「日本の統治者のさらに上には米国がいる。米国の国益を損ない、不興を買った統治者はただちに『日本の支配者』の座を追われる。これは72年前から一度も変わったことのない日本の常識である。統治者の適否の判断において『米国は決して間違えない』という信ぴょうは多くの日本人に深く身体化している。それがおのれの基本的人権の放棄に同意する人たちが最後にすがりついている『合理的根拠』なのである」

 私には「自民党がやることに大きな間違いはない」あるいは「自民党以外には政治を任せられない」と本気で信じている人たちがそれなりにいるとしか思えないのだが、こうした思い込みが「米国は決して間違えない」という思い込みに通じているのではなかろうか。

 いずれにしても、日本人が主体性を持っていないが故に、安倍首相のような独裁者が現れたら容易に騙されてしまうのだろう。自民党を支持している人たちの多くは、自民党が「国民主権を廃絶する一本道」を歩んでいるという認識すらないのかもしれない。

 米国ではトランプ大統領の支持率はかなり低くなっているようだが、これは米国人の方が日本人より主体性があるということの表れだと思う。

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コメント

今晩は。茨城県在住の安 恒平と申します。

福島原発事故の後に「相馬市や原町(はらのまち)市を宮城県に編入しろ」「岩城市や広野町を茨城県に編入しろ」という声が出ている。浜通りを福島県から分離し、福島原発を境にして、北を宮城県に編入し、南を茨城県に編入するという、大胆な枠組みである。大惨事の後と言えども、今からでも晩くない。

しかし、「福島の子供たち」という表現には反吐が出る。核問題の度に「福島、福島」と浜通りと盆地野郎を一緒くたにする事に反吐が出るのだ。原発所在地である大熊は沿岸である浜通り(旧の磐前県)であって、盆地野郎である中通り(1876年以前の福島県)や会津地方(旧の若松県)ではない。中通りと会津は被害者面するな!と言いたい。

そもそも、大熊を初めとする浜通りは、福島県じゃなく、磐前県という別の県であった。1876年8月21日に磐前県が潰されて福島県が作られたが、それ以来141年間一貫して、浜通りは「常に最劣後」に陥とされて来た。常磐自動車道の全通(2015年3月1日)が、磐越自動車道の全通(1997年10月1日)より17年半も後という、福島県の行政が典型である。

もし磐前県が存続していたら、福島原発は存在せず、浜通りは冷遇されずに繁盛していた。よしんば原発が無くとも、中村(相馬市)や原町など浜通り夜ノ森以北は仙台と親しく、平(岩城市)や広野など浜通り夜ノ森以南は水戸と親しい。阿武隈山地の向こうにある福島市や会津なんて眼中に無い。

「戦後生まれの日本人は、生まれてから一度も主権者だった事が無い」と内田樹は断じたが、日本人は自分たちで制度や枠組みを選び、自分たちで変えていくことができる環境に置かれなかった。これだから、「福島県から脱退して、茨城県に仲間入りする!」「福島県から脱退して、磐前県を復活させる!」といった枠組みを、自分たちで選ぶという発想すら思い衝かなかった。それが、原発事故という大惨事を惹き起こしたのだ。

「福島県という枠組みは変えられない」という妄信は、「自民党以外に政治を任せられない」「「アメリカは過ちを起こさない」という妄信と全く変わらない。

<福島県成立から満141年に当たって>

今日8月21日は、福島県民の日。福島県の誕生日であるが、裏返せば磐前県(いわさきけん)の命日である。浜通りが窮乏と原発事故を確約された日である。

福島原発の誘致は、浜通りと中通りが同じ県だったからこそ可能であった。中通りが木川田一隆(東京電力社長)と佐藤善一郎(福島県知事)、浜通りは天野光晴(福島県議→国会議員)と木村守江(国会議員→福島県知事)。天野光晴が東京電力の木川田一隆と知り合った動機は、福島県庁の建て替えの寄付金集めであった。ここでも解る通り、浜通り(旧磐前県)が中通り(福島県)に搾取される構図なのである。

原発に限らず、旧の磐前県である浜通りは、盆地県である福島県にいて、一度でも恩恵が降って来たか?全く無い。1876年8月21日以来、141年間一貫して「やらずぶったくり」「常に最劣後」であり、盆地野郎である中通りと会津地方に搾取収奪されるだけであった。

浜通りは、一刻も早く福島県から脱退し、茨城県(南部)と宮城県(北部)に加入しないと、永久に盆地野郎に搾取収奪され続けることになる。

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