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2017年2月

2017年2月13日 (月)

インターネットという凶器

 私はもともとアナログ人間で、パソコンやインターネットが普及しはじめた頃もすぐに飛びつく気にはなれずに様子を見ていた。なぜなら、ちょっとした手違いや故障などで文書やデータなどが全て消えてしまうのではないかという恐怖があったからだ。

 しかし、インターネットが普及して周りの人が次々と使うようになると、メールが使えないと他の人たちとのやりとりに参加できないし、インターネット上の情報も得られず不便を感じるようになった。また、講演会や学会での発表ではパワーポイントが必須になってきた。そんなわけでパソコンやインターネットを利用せざるを得なくなり、アナログ人間などとは言っていられなくなった。

 インターネットの発達によって、私たちの生活は格段に便利になった。検索をかければすぐにいろいろな情報が手に入るし、新聞やテレビでは得られないニュースや情報も知ることができる。家に居ながらにして買い物ができるし、学会誌などの掲載された学術論文などもどんどんネットに公開されるようになり、文献の入手も楽になっている。

 しかし、利便性追及の裏には必ずといっていいほど負の部分が潜んでいる。インターネットの発達によって、コンピューターウイルスの感染や個人情報の漏えい、嫌がらせ目的の誹謗中傷などに日々晒されるようになった。しかし、それとは比べ物にならないくらいとんでもなく恐ろしい欠点があるのだ。それを思い知ったのが以下の記事だ。

 「テロは口実」 映画『スノーデン』と酷似する日本 

【岩上安身のツイ録】「ここに目覚めた人がいる!」―― 映画「スノーデン」の監督オリバー・ストーンが岩上安身の質問にビビッドな反応!!スノーデンが明かした米国による無差別的大量盗聴の問題に迫る!! 2017.1.18 

 映画「スノーデン」は見ていないが、事実に基づいて作られているのは間違いないと思う。今、私たちはインターネットを利用した監視社会に取り込まれており、もはや世界はサイバー戦争に突入しているという現実だ。トランプ氏が大統領選で勝つようにロシアが仕組んだと言われているが、あらゆるところでネットによる監視と情報収集、情報操作やサイバー攻撃がはじまっている。

 ドイツのメルケル首相の携帯電話が盗聴されていたことが明るみになったが、国の要人は米国に盗聴され監視されていると見るべきだろう。そればかりか、米国では市民のメールが盗み読みされ、インターネットの閲覧履歴を見られ、交友関係まで探られている。

 もちろん、安倍首相が進めようとしている「共謀罪」も、米国と同じ監視社会を目指している。もし、「共謀罪」が成立したなら、日本国民は監視対象となり政府に楯突く人は間違いなく監視されることになるだろう。しかも日本はマイナンバーで国民を管理しようとしている。共謀罪が成立したら独裁国家になるのは容易いし、真実を伝えようとする告発者は口を封じられる。共謀罪の「テロ防止」などというのが口実に過ぎないということをスノーデン氏は身を持って警告している。

 それだけではない。岩上安身さんは、こんなことを書いている。

スノーデンは、日本の横田基地内で働いていた頃を述懐して、NSAは日本でも盗聴をしていたと証言している。その内容についてスノーデンの言葉を、ストーン監督は映画の中でこう再現する。「(日本への)監視は実行した。日本の通信システムの次は、物的なインフラも乗っとりに。ひそかにプログラムを、送電網や、ダムや、病院にも。…もし日本が同盟国でなくなった日には、彼ら(日本)は終わり。マルウェア(不正な有害ソフト)は日本だけじゃない。メキシコ、ドイツ、オーストリアにも」。こうしたスノーデンの言葉に、映画では日本列島から電気の灯りが消えてゆく、全電源喪失のイメージ画像が重ねられる。

 これが事実なら、インターネットを悪用して特定の国のインフラを停止させ壊滅状態に追い込むのは簡単なことだ。もちろん米国はこのマルウェアの件は事実だとは決して認めないに違いない。しかし、大半のインフラがコンピューターで制御されている現代において、これは核戦争と同じくらいのインパクトがある恐怖だ。原発をメルトダウンされることだって可能だろう。一国をボタンひとつで壊滅状態にできる。まさしく「サイバー戦争」の時代に突入している。

 もちろんこんなことを実行したなら米国は世界から糾弾され信用は地に落ちる。しかし、マルウェアが絶対に起動しないという保証もない。日本が米国との同盟関係を解いたなら、マルウェアの恐怖にさらされる。さりとて米国の望むように共謀罪を成立させ平和憲法を改悪したなら、日本は米国に思いのままに支配され奴隷状態になるだろう。オリバー・ストーン監督は「日本は米国の人質」と言っているそうだが、まさに、追い詰められた状態ではないか。

 インターネットは使い方によっては簡単に凶器となり、人々の命まで簡単に操作できる。のほほんとインターネットの利便性に浸っているどころの話ではない。原子力が平和利用の名のもとに原発という凶器になったように、インターネットも同じ道をたどるのかもしれない。

 利便性を追求してきた人類に襲いかかるのは、サイバー戦争による自滅なのだろうか? それとも核による自滅なのだろうか?

 これを避けるためには人々が競いあうのではなく協力的な社会をつくっていくしかないと思うのだが、果たしてそれが可能なのだろうか。私たちには、これを何とか食い止める良心と時間が残されているのだろうか。

2017年2月 9日 (木)

誤解される「嫌われる勇気」

 先日書いた「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」でもちょっと触れたが、テレビドラマ「嫌われる勇気」の主人公、庵堂蘭子の振る舞いはアドレリアン(アドラー心理学を実践している人)とは言い難いという意見があるらしい。私はテレビを見ていないし、ドラマ制作者の意図も分からないので、この点について言及するつもりはない。しかし書籍「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著)のタイトルが、時に誤解されているのではないかと感じることがある。

 書籍の「嫌われる勇気」は、自己主張して他人に嫌われることを奨励しているわけではない。他人に嫌われることを怖れ、他人に合わせてしまうのは不自由な生き方であるから、自分の人生を生きるためには「嫌われることもいとわない勇気」も必要だと言っているのだ。これは本を読めば容易く理解できることだ。他人に合わせたり、他人の期待に応えるのではなく、自分の人生を生きるべきだというのが書籍「嫌われる勇気」のメインテーマでもあるのだろう。

 他人の人生ではなく自分の人生を生きるというのは、いわゆる「課題の分離」のことを指している。ここに軸足を置いているから、本の内容も「課題の分離」の比重が多くなっているのだろうと私は理解している。

 アドラーは「人生上のほとんどの悩みは対人関係である」と言っているそうだ。私自身の経験を振り返ってみても、人間関係のトラブルの大半は他者の課題に土足で踏み込んでしまうことからくると実感している。嫁と姑のトラブルも、家族間のいさかいも、基本的に他人の課題に土足で踏み込むから起きる。課題の分離ができていれば人間関係におけるトラブルやストレスは激減するだろう。

 「横の関係」つまり「人はみな対等」という意識を持ち、常に他人を尊重していたなら、他人に命令口調で接したり、意見が違うからといって見下したり誹謗中傷したりもしない。

 課題の分離とは、他人の課題に土足で踏み込まない(他者を尊重する)ということと、自分の課題に他人を踏みこませずにトラブルを回避するという二つの側面がある(協力をしない、あるいは協力を拒否するということではない)。そして、「課題の分離」ができるということは、「人はみな対等」という「横の関係」で人間関係を捉えていることを意味する。「課題の分離」と「横の関係」は切り離せない。

 これに対し、人間関係を「縦の関係」で捉えている人は、他者に対して支配的であったり、あるいは依存的であったり、また恨みや妬みが強く嫉妬深かったりする。

 他人から何を言われようと(嫌われても)も自分の課題には絶対に踏み込ませないという人は、一見「嫌われる勇気」があるように見える。しかし、自分の課題には絶対に踏みこませないが、他人の課題には土足で踏み込む(命令したり、見下したり、憎んだりする)ということであればその人は「縦の関係」で生きている。また、事実誤認や誤解について丁寧に説明しても一切聞く耳を持たず自分が絶対に正しいと信じて我が道を邁進する人は、自分の誤りを認めない、あるいは他人を信用しないという点で独善的であり、やはり「縦の関係」で生きているのだと思う。

 私は、書籍タイトルの「嫌われる勇気」の意味するところは、「横の関係」の生き方をするためには、時として「嫌われる(こともいとわない)勇気が必要」ということだと理解している。だから、「縦の関係」の生き方の人が独善的な言動をして嫌われたとしても、「嫌われる勇気」があるということにはならない。

 たとえばトランプ大統領はどうだろう。トランプ氏の差別発言や虚偽発言に対しては多くの人たちが批判している。大統領の就任式での反対デモを見ても分かるが、彼は明らかに多くの米国民に嫌われている。しかし、当人は開き直って平然としている。彼は自分の主張を貫いて嫌われているわけで、「嫌われる勇気」があるように見える。

 しかし、自分と異なる意見を言う人をこき下ろす態度は、完全に他者を見下している。しかも自分を批判した人に対してはすぐに反撃する。理論的に反論するなら分かるが、嘘を言ってでも攻撃する。非常に感情的で、すぐに怒りをぶちまける。実に支配的だ。彼は異なる主張に対して話し合いで解決する姿勢がほとんど見られず、どうみても「縦の関係」で生きている人だ。彼の勇ましさは、書籍「嫌われる勇気」で言うところの「嫌われる勇気」とはほど遠く、傲慢にしか見えない。

 本で言わんとしている「嫌われる勇気」の意味を理解せず、タイトルの「嫌われる勇気」という言葉だけを切り取って、単に傲慢なだけの人を「嫌われる勇気がある」と評してしまえば、誤解を生じかねない。

 書籍「嫌われる勇気」には承認欲求のことも出てくる。これも誤解している人がいるようだ。書籍「嫌われる勇気」では「承認欲求を否定する」と表現しているのだが、これは「承認欲求」という事実や「承認」を否定しているわけではない。「他者に認めてもらうことを目的に行動してはならない」という意味だ。これは、嫌われないために行動(努力)するというのとほぼ同義だろう。だから「承認欲求の否定」も「課題の分離」と密接に関わっている。

 アドラー自体は承認欲求という言葉は使っていないようだが、だからといって「承認欲求を否定する」という表現が、アドラー心理学ではないということにはならない。

 アドラー心理学の最終目的は共同体感覚にあるという。この共同体感覚を身につけるには「横の関係」を築かなければならない。横の関係を築くためには「課題の分離」をする必要がある。また共同体の中で人々が協力関係を築くことが共同体感覚につながるのだが、その前提としても「課題の分離」は不可欠だ。つまり、課題の分離があってこそ支配でも依存でもない協力関係が持てるし、共同体感覚を身につけることができる、と私は理解している。

 書籍「嫌われる勇気」は、共同体感覚を身につけるための基本である「課題の分離」に力点を置いた書籍だと私は思っている。そして、続編の「幸せになる勇気」が補完して核心へと誘導する形になっている。この2冊の本は青年と哲人の対話による物語に仕立てられているゆえに、アドラー心理学を全面的にカバーしているとは言えないかもしれない。しかし、だからといって「嫌われる勇気」が「正統なアドラー心理学ではない」という考え方には賛同できないし、学会で論争するようなことでもないと思う。

 つい最近、向後千春さんの「人生の迷いが消える アドラー心理学のススメ」(技術評論社)を読んだ。この本は他の心理学の考え方も紹介しながらアドラー心理学を分かりやすく解説していて、「嫌われる勇気」には抵抗感があるという方にも読みやすいと思うし、日常生活でのトラブルの解決にも役立つ本だと思う。

 アドラー心理学を身につけ実践するというのは確かに難しい。なぜなら、日本では家庭も学校も職場も「縦の関係」ばかりであり、このような環境の中で「縦の関係」のライフスタイルを選びとってきた人が大半だと思うからだ(私自身は若いときから人はみな対等という意識を持っていたので、アドラー心理学への抵抗感はない。もちろんだからといってきちんと実践できているわけではないが)。「縦の関係」が染みついている人たちが、ライフスタイルを変えるのは容易なことではない。ただ、向後さんの本はそのような人たちに対しても抵抗が少なく理解しやすい書き方になっているように感じる。

 岸見さんも向後さんも、野田俊作さんからアドラー心理学を学んだ方だが、同じアドラー心理学の解説をしていても人によって伝え方や語り口は違う。哲学者である岸見さんのアドラー心理学は哲学的視点も含んだ岸見流だろうし、向後さんは向後流といってもいいのだろう。おそらくアドラー心理学を学び実践している人々はそれぞれ独自の理解でアドラー心理学を捉えていると思うし、誤解がない限りどれが正しいとか正統だということはさほど意味がない気がする。学問というのは次世代に引き継がれるなかで修正されつつ発展していくものだ。

 ただし、「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問」にも書いたように、アドラー心理学を自ら実践しようとはせず「他人を操作するために使う」ということであれば、それはアドラーが望んだこととは正反対のことだろうし、似非アドラー心理学と言われても仕方ないと思う。

【2月13日追記】  野田俊作さんのこちらの記事によると、「課題の分離」「縦の関係・横の関係」などといった表現はアドラー自自身は使っておらず、アドラーの後継者による概念とのことだ。そうした言葉がアドラーの思想を分かりやすく端的に言い変えたもので、すでに一般化されている概念である以上、アドラー自身による表現であるかどうかに拘ることに意味はないと思う。

【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問 
アドラーのトラウマ否定論について思うこと 
野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

2017年2月 6日 (月)

サハリン紀行(2)

サハリン紀行(1) 

 2日目は西部に出かけた。アニワの海岸では一人、皆と反対方向をうろうろしてイソコモリグモを探したが見つからない。露頭見学中にクモを採集するが、ハラビロアシナガグモ、スジシャコグモ、ウスリーハエトリ、ナカムラオニグモ、ウヅキコモリグモなど北海道でおなじみのものばかりだ。見学地に着くといつも皆と違うところをうろうろしている私を、セルゲイ氏はいつも気にかけてくれているのが分かる。なるべく皆から見えるところにいなければならない。

 8月という季節から考え、キバナオニ(黄色)、ニワオニ(橙色)、アカオニ(赤色)の3色のクモが溢れていると思ったのだが、予想は外れた。キバナが圧倒的に多く、ニワとアカはなかなか見つからないのだ。そういえば北海道でもキバナが圧倒的に多いから、そんなものなのかも知れない。もっともクモを探す時間が少ないので、時間をかけて探せばもっといるのだろう。北海道でもおなじみのナカムラオニグモは草地の普通種だ。

 サハリンでは、平地にベニヒカゲ(蝶)が舞っている。ネベリスクのバザール(自由市場)では、オオモンシロチョウを捕まえた。近年、北海道全域に定着してしまったチョウだ。クモのみならずチョウも捕まえたが、捕虫網というのが珍しいらしく好奇心の目で見られてしまった。軒先のオニグモを捕虫網で採っていたときなど、大人も子どももにたにたしながらこちらを注目している。捕まえているのが大きなクモだと知って、かなり面喰っていたようだ。さぞかし変な日本人の集団(変なのは一人だけなのだが)だと思ったに違いない。

 ネベリスクから海岸沿いを北に、ホルムスクに向かった。ここには旧王子製紙の工場が廃墟のように佇んでいる。サハリン南部の森林はかなり伐採が入り原生林とおぼしき森はほとんど見当たらないが、かつてかなりの伐採が行われ王子製紙も栄えたのだろう。無残に伐られた山肌は、北海道の森林の光景とも似ている。ホルムスクからユジノまではいくら車が揺れても瞼が閉じてくる。昨日は初めて見る景色とあって、いねむりもせずに目を凝らしていたが、今日は半分以上いねむりの帰途だ。運転手さん、御苦労さん!

 3日目はススナイ山地に寄った後、北へと向かった。ソコル川で初めて森林の中に入ったのだが、前を歩いていた人が「クモ、クモ」と呼んでいる。森林の中は、タイリクサラグモがあちこちに造網していたのだ。北海道ならどこにでもいるタイリクサラグモをあまり見かけず不思議に思っていたのだが、針葉樹の森林内はタイリクだらけだ。しかし、タイリクばかりでハンモックサラグモなどは全く見られない。森林のクモ相は北海道よりさらに単純なようだ。

 昼食予定地のスタロブスコエは海岸の集落だ。海沿いのでこぼこ道を行くと、岩礁の上にゴマフアザラシが置物のように寝そべっているのが見渡せる。ここにはモンゴリナラ(ミズナラと変種関係)があるが、だいぶ伐採されてしまったらしく、今ではぽつりぽつりとしか見られない。このあたりから北の光景はほんとうに素晴らしい。人工的なものはほとんどない海岸線が続き、湿地が広がる。渚にはシギが群れ、カモメが舞う。北海道の海岸線もかつてはこんな光景だったに違いない。北海道ではほとんどの湿原にビジターセンターのような施設があり、海岸には展望台などがある。人工物が目に入らないようなところは無いに等しい。しかしサハリンには北海道が失ってしまった北の自然の原風景が息づいている。施設ばかり造りたがる日本人は、こういう自然の原風景を忘れてしまったようだ。

 この日はさらに北上し、海岸で琥珀を探した。角がとれた褐色のガラスのかけらのような琥珀が、海岸の砂浜にうちあげられているのだ。小粒だが、こんなところで琥珀が拾えるというのは驚きだ。皆海岸に散らばって、ひとしきり琥珀拾いを楽しんだ。採集するというのはクモに限らす楽しい。しかし採集には得手不得手というのがあるらしい。集合して成果品を比べると、その差は歴然とする。どうも私は得意なほうではないらしい。やはり採集は一人でのんびりやるのが一番いい。

 サハリンの一番細くくびれているあたり、ブズモーリエがこのツアーの最北の地点だ。ここには海を見下ろす山腹に、日本時代の鳥居がそのまま残っている。何やら日本の景色のように見える。鳥居まで登って写真を撮った後、駅前のバザールに寄った。地面に散らばっている褐色のかけらを見つけ、誰かが「琥珀だ」と言う。半信半疑で手に取って眺めるが、ビール瓶のかけらまで琥珀に見えてくる始末だ。

 4日目はアンモナイトの産地見学だ。最初の見学地は乾燥した裸地で、ときおりコモリグモが走り回っている。ここではクモよりアンモナイトを探すほうが面白い。地質屋さんはハンマー片手にさすがに大きいのを掘りだしていたが、小さいのならハンマーなしでもいくつか見つけられる。

 2回目の見学は、山の中の崖地だ。ここは森林に囲まれた河原で、クモの採集の方が面白い。河原の石をひっくり返すと、カワベコモリグモやナミハガケジグモがいる。一人で河原でクモ採りをしていると、高校生のAさん(母親と参加)が崖地の方から「クモを採った」と呼んでいる。彼女の手には綺麗なニワオニグモが握られていた。この数日で彼女はすっかりクモに慣れてしまったらしく、私を真似て素手でクモを採るようになっていた。感謝、感謝! さて、その崖地の上部には巨大なアンモナイトがはまっている。地質に無頓着な私も、このときは「凄い」と見とれてしまった。

 最終日の5日目は、午前中にユジノを一望できるスキー場のてっぺんまで登った。例の車はでこぼこの急坂をものともせず、標高535メートルの山頂に突き進んだ。中腹までグイマツの植林に覆われる山だが、途中にハイマツも見られる。標高が上がるにしたがって、林床の植物が変わっていくのが面白い。

 山頂からは素晴らしい展望が広がっていた。眼下にユジノの街が見渡せる。これでこのツアーの見学は終わりだ。皆が景色を楽しんでいる間、私は山頂の草地で一人チョウ採りにはまっていた。この草地にはチョウがしきりと飛び交っているのだが、これがすばらしく速い。悪戦苦闘だが、これを追いかけるのがまた楽しい。いい歳のおばさんがチョウ採りに興じているのだから、他の人はさぞかし呆れていただろう。

 のどかな山頂のひと時を後に車に乗り込むと、運転手が捕虫網を貸して欲しいという。すぐ横の花にチョウが数頭止まっている。彼は見事に数頭のチョウを仕留め私にプレゼントしてくれた。もしかしたら、彼はずっと捕虫網でチョウを採ってみたかったのかもしれない。海辺で休憩していたときは網でエビを獲っていたし、アンモナイトを見つけるのも得意だ。「気はやさしくて力持ち」の典型のような彼は、どうやら採集好きのようだ。

 このあと、私とM氏は皆と別れてジャロフ氏の自家用車で北に向かった。皆は最後の半日を買い物にあてたのだが、貪欲な私たちは車の中から眺めただけの湿地に未練があった。吉倉真先生の「樺太産黄金蜘蛛科生態と分類」を見ると、サハリンでは平地にコウモリオニグモやコガネオニグモがいることになっている。湿地を眺めただけで帰るのはやはり後ろ髪を引かれる思いがする。そこでジャロフ氏に頼み、湿地探検におもむいたのだ。彼は腿まである長靴まで用意してくれた。

 サハリンと言えど、この日は猛暑だ。その中を長靴をはいて捕虫網片手に湿地のなかをうろつくと汗が吹き出してくる。葦の葉を巻いているのはほとんどがクリイロフクログモで、子グモがふ化する季節だ。水辺には卵のうをつけたカイゾクコモリグモがいる。草間の円網はほとんどがナカムラオニグモだが、なぜかこの湿地のナカムラは幼体ばかりだ。ここのクモは北海道の湿地のクモをより単純にした感じだ。ちょっとがっかりだったが、採集品を良く見るとナカムラオニグモの幼体の中にコウモリオニグモの幼体が紛れ込んでいる。北海道では高山帯でしか見られないコウモリがやはり平地にいるのだ。ただし、もう成体の季節ではないらしい。コガネオニは残念ながら幼体らしきものも採れない。スゲと思われる草地ではツノタテグモの類いと思われる幼体が少し採れたが、やはりクモの季節には遅すぎるようだ。北に行けばいくほど、クモの繁殖期は短期間に凝縮されるのだろう。たぶん6月から7月が良いのだと思う。ともかく短い時間ではあったが湿地も歩くことができた。あとはユジノにもどり、ガガーリン公園で皆と落ち合ったあと最後の晩餐となった。

 クモに関しては季節が遅すぎ、幼体ばかりが目についてとりたてて新しい発見はなかったものの、サハリンの自然の一端を垣間見ることができたのはやはり貴重な体験であり、楽しい一週間だった。そして、お付き合いいただいたエネルギー省の皆さんは、朝から晩までくたくたに疲れたことだろう。我々をコルサコフまで送り届けたときにはさぞかしほっとしたに違いない。

 こうして5日間の見学会はハードスケジュールだったが、無事終了した。不思議なことに一数館の間、雨らしい雨にも降られず、トラブルもなく、すばらしく順調にことが運んだのだ。あとは税関を無事に通過できるかどうかだ。

 翌朝予定より遅れてコルサコフ港に到着した私たちは、出国手続きに追われ、あたふたと税関を通過した。誰も荷物を開けられることもなく皆無事に通過し、安堵のうちに再び「アインス宗谷」の乗客となった。

2017年2月 5日 (日)

サハリン紀行(1)

*この随筆は、サハリンツアー(2001年8月8日から14日)に参加したときの記録で、関西クモ研究会の会誌に投稿したものに修正を加えています。
*なお、参加者のお一人が「
サハリンの地質と化石見学」としてツアーの報告をされていますので、興味のある方はご参照ください。

 北海道でクモを見ていると、サハリンは一度は行ってみたいと思うところだ。氷期に大陸と北海道を結んだというこの島は、北海道に多数の北方系の生物を運ぶ陸橋となった。大雪山の高山帯に細々と息づいている「氷河時代の生き残り」のクモたちも、この島を縦断してきたのだと思うと感慨も深い。

 宗谷岬から目と鼻の先にある島でありながら、サハリンの自然を訪れるツアーは意外とない。聞くところによると、トラブルなしにツアーを行うのは難しいお国柄のようだ。そんな中で「地質見学ツアー」なるものを見つけた。地質見学? 8月じゃクモには遅い! と躊躇したのだが、思いきって締め切り間際に申し込んだ。予定表を見ると、宿泊するホテルはガイドブックには出ておらず、名前はなんとGeologist(地質学者)。しかも、シャワーは水しか出ないらしい。そんなわけで、覚悟を決めて出発することになった。

 企画した旅行会社のT氏とコーディネーターのG氏以外の一般参加者は6名というこぢんまりとしたツアーであるが、自然を見てまわるにはちょうどいい人数だ。男性5人、女性3人の総勢8名は、8月8日の10時に稚内港からコルサコフ行きの「アインス宗谷」に乗り込んだ。

 目と鼻の先のサハリンも、稚内港からコルサコフ港となると5時間30分もかかる。男性たちは免税とやらで1本100円の自販機のビールをさっそく買い込んでいる。船に弱い私はそれを横目で見ながら、ひたすら船の揺れから解放されるのを待つのみだ。サハリン旅行はまず船酔いから幕を開けた。

 コルサコフ港に近づくと、褶曲した地層があらわな露頭が目に飛び込んでくる。港は何もかもが古びて錆色をし、数十年前の港に迷い込んだような錯覚に陥る。船から降り、オンボロバス(日本の中古の観光バス)に揺られて入国手続きの人の列に並んだ。特大のスーツケースを同行のM氏に持たせた私は、代わりにカメラを一手に引き受けて手に持っていた。しかし、これは失敗だった。カメラはX線検査機に通された上(当時はまだデジカメは普及しておらず、フイルムのカメラを持っていた)、税関申込書に記入しろと言う(ロシア語なので、そう言っているらしいとしか分からない)。種出入品(一時的な)に当たるらしい。コンパクトカメラまで記入させられたが、なぜか首にぶら下げていたツァイスの双眼鏡には見向きもしない。こちらのほうが数倍も高いのに! 世話人らしき日本人のおじさんがぶつぶつ言いながら、記入の仕方を教えてくれたが、無愛想な態度に辟易とした。

 なんとか申込書を書き終えて税関を通過したが、隣りでは巨大なおみやげ(自動車のタイヤ!)を持っていたG氏が入国審査で引っかかり、係員と揉めている。気の毒だが、私にはなす術がない。税関を抜け出すと、今回のツアーの世話をしてくれるロシアエネルギー省の地質研究者のジャロフ氏とお手伝いで日本語を勉強中の青年セルゲイ氏、それに運転手が出迎えてくれた。しばらくしてから、何とか税関を通過したG氏がやってきて無事に全員がそろった。

 これから私たちの足となってくれる車はエネルギー省の調査用のものなのだが、トラックの荷台を人が乗れるように改造したような車で、タイヤはダンプカーのそれより巨大だ。これをジャロフ氏はバスと呼んでいたが、舗装道路を砂利道だと勘違いする乗り心地だった。現に、コルサコフからホテルのあるユジノサハリンスクに向かっているときは、砂利道だとばかり思っていたのだが、あとで舗装道路だと知って驚いた。これから5日間この車に乗って走り回ると思うと、ちょっと先が思いやられた。

 サハリンは主要道路は舗装されているものの、わき道はほとんど砂利道だ。それも相当にデコボコしている。日本人であればすぐに道を良くしようという発想になるが、ロシア人はそうではないらしい。彼らは車の方をデコボコ道に合わせ、どこでも走れるような頑丈な車に乗るのだという。エネルギー省の車はサハリンの悪路という悪路もものともしない車だ。おかげでかなりすごい山道も進むことができるし、ちょっとした川も渡ることができる。

 ホテルに到着したのは日本時間の17時半、現地時間の19時だった。ホテルは古い建物ではあるが、予想していたより印象は良く(かなりすごいところだろうと予想していた)、昨晩泊まった稚内の旅館よりきれいだった(というか、こちらは今どきなかなか遭遇しないような古くて雑然とした旅館だった)。そして、嬉しいことにシャワーからはちゃんとお湯が出た。これで、一週間風呂なしという惨事にはならなくて済む。このホテルを基点としてサハリン南部の各地に出向くのだ。

 このホテルは、どうやらロシア人専用らしい。フロントの女性は英語が全く通じない。部屋の鍵をもらうのも、紙に数字を書いたものを見せないと分からない。レストランもなく皆素泊まりらしいが、私たちは棟続きの韓国人の経営しているレストランで食事を摂ることになっている。レストランの入口あたりからキムチの匂いが漂ってくる。

 毎日のスケジュールは、朝食後にホテル前に集合して例の車に乗り込み、日中10時間から12時間がフィールドワークとなる。帰るとすぐ夕食となり、ワインやウオッカを飲みながらの団欒だ。部屋にもどりシャワーを浴びると疲れて何もする気になれない。クモの標本ビンにラベルを放りこんでバタンキューだ。予定していた朝の散歩は、結局2回しか実行できなかった。

 サハリンの街は何もかもが古び、建物はあちこちひびが入ったり壊れたりしているし、路傍にはゴミも目につく。しかし、街を歩く若い女性は美人揃いの上に、皆抜群のスタイルで、しかも体にフィットしたセンスの良い服をまとっている。Tシャツにジーンズが定番といういでたちの日本人とは全く雰囲気が違う。この光景を見て、「掃き溜めに鶴」と言った人もいるとか・・・。あとで聞いたのだが、自分で服を縫う女性が多いらしい。

 そして、日本では渡りの時期を除くと高山の岩場でしか見られないアマツバメが、この古いビル街の上空で群舞している。その見事な飛翔にしばし見とれてしまう。どうやら、建物の屋根などの隙間に営巣しているらしい。

 さて、地質見学など学生のとき実習で行ったくらいで全くピンとこなかったのだが、初日の行動でだいたい様子がつかめた。要するに、見学地点となる場所までただひたすらに車で移動し、現地に着いたら説明を聞き、見学やら採取をするのだ。そして、その見学地点の多くは道端の露頭なのだ。つまり、大半の時間は車の中で、クモ採集はもっぱら道端ということになる。「あそこの林を歩いてみたい」「あの湿地でスイーピングをしたら面白いのが採れるのではないか」と思っても、車はどんどん通りすぎていく。クモ採集は半ばあきらめ、車窓から植物や景観を観察することにした。

 サハリンの景観は基本的には北海道とほとんど変わらない。違うのは落葉針葉樹のグイマツがあるくらいだ。トドマツとグイマツの森林が多く、落葉広葉樹はヤナギ類かカンバ類が目につく。ちょうど北海道の標高800メートルから1000メートルくらいにある針葉樹林帯によく似ている。海岸ちかくにある湿地も、北海道の湿地の景観とそっくりだ。ただし、平地の湿原にハイマツがあるのはさすがにサハリンだ。そして、濃いピンクのヤナギランの群落と藤色のキク科植物の群落が単調な湿地にひときわ華やかな色を添えている。8月中旬ともなると、草原はもはや初秋の漂いがある。そして多くのクモもすでに繁殖期を終え、初秋のクモの季節だった。ここではクモのシーズンは瞬く間に過ぎてしまうのだろう。

 最初に捕えたクモは、朝の散歩で見つけたシロタマヒメグモだった。ちょうど産卵期で、葉をまるめて産室をつくっているのがいくつもあった。北海道で見るシロタマヒメグモは、見るからに「シロタマ」という名がふさわしいクリーム色の腹部をしているが、サハリンのものは黄色かったり、褐色の斑紋が入っていたりするものが多くて、まるで別種のように見える。海峡をひとつ渡っただけでこれほど色彩が違うのは、なんとも不思議な気がする。

 朝食を済ませると、いよいよ例の車に乗り込み見学に出発だ。コルサコフの最初の見学地でまず採ったのは、黒色型のオニグモだ。北海道では見たことがない黒色型だったので、サハリンで見られるとは思ってもいなかった。オニグモは軒先にときどき網を張っているが、あまり多くはない。分布の北限に近いのだろうか。

 コルサコフの東、アニワ湾の一角にある岩壁では、岩のくぼみにオオツリガネヒメグモが多数造網していた。北海道でもそうだが、一般に岩に生息するオオツリガネは体色が黒っぽい。岩の色に合わせた隠蔽色なのだろうか。ユウレイグモ科の雄も1頭採集した。

 サハリンの南東部は湖が多く、湿地も点々としているが、そういうところは地質見学の対象地ではなくどんどん走り抜ける。しかし、このあたりはほとんど自然のままに保たれていて、マスが川に遡上する光景も見ることができた。トゥナイチャ湖岸でようやくナカムラオニグモやアシナガグモなどを少し採集したが、初日はひたすら車に揺られ、ユジノサハリンスクにたどりついたときにはもう薄暗くなっていた。なかなかすごいツアーだ。

続く

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