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2017年1月15日 (日)

シギと私

*少しずつ所持品の整理をしているのだけれど、ずっと前に町民文芸誌に書いたエッセイが出てきた。読み返してみると何とも気恥かしいのだが、過去の記録のつもりでブログにも残しておこうかという気になった。 

     ********************

シギと私 (1982年)

 鳥を見はじめてから、かれこれ十五年がたつ。何げなく歳月をふり返り、あまりの時の速さにとまどいすら感じる。今でいえば「バード・ウオッチング」だが、十五年前はそんな言葉もない上、鳥を見て楽しむなどということは多くの人の常識的感覚からはずれてさえいた。

 私が「鳥」というものについて語る時、忘れられない場所がある。今では、そこは赤や白に塗りたてられたマンションや住宅が建ち並び、人の車の往きかうベッドタウンと化している。かつて、日曜、祭日ともなれば多くの野鳥ファンがゴム長ぐつにリュックを背負い、首からは双眼鏡をさげ、肩に望遠鏡をつけた三脚をかついだいでたちで、この地を歩きまわったことは、遠い昔に置き去られた幻のようだ。

 千葉県の江戸川放水路から江戸川までの海岸一帯は「新浜(しんはま)」と呼ばれ、日本でも有数の渡り鳥の渡来地として知られていた。遠浅の海は、潮が引くと三キロにも四キロにもわたって干潟が現われ、汀線すら定かでない。そこには、何百、何千というシギやチドリそしてガンやカモが群がっていたという。東京湾のまん中のことである。

 私が初めて新浜を訪れたのは、小学校六年か中学一年の頃だったと思う。その頃はまだ地下鉄東西線が開通しておらず、総武線の本八幡駅まで行き、そこからバスで江戸川放水路の土手に出た記憶がある。

 ところで、新浜と言えば、自然保護、干潟保護運動の発祥の地とも言える所であった。野鳥関係者が中心となって湿地や干潟の埋め立てに反対する活発な運動を起こし、人々の注目を集めた所である。その頃の新聞には、しばしばこの運動の記事が載った。京葉臨海工業地帯の造成により、東京湾は次々と埋め立てられることになり、新浜でも海の汚染や地盤沈下で農漁業にあきらめをつけた人々は、この運動にひどく反発した。その運動の結果、一隅に野鳥のための保護区が設けられ、まわりは埋め立てられることになったのである。勿論、保護区を造るための運動ではなかったのだが、それが成り行きだった。私が初めて新浜を訪れた頃というのも、この保護運動が行われているさ中だった。とはいうものの、すでに埋め立てのためのトラックが行きかい、水田の脇に建つ農具小屋の壁いっぱいに、保護運動に反対する激しい言葉が白ペンキで書かれていたのを鮮明に覚えている。「野鳥を殺せ!」などという言葉のもつ意味が当時の私にはよく理解できず、何かひどく恐ろしいものに思えたものだ。

 この頃、私は二回、この新浜の地を訪れた。いずれも国立科学博物館主催の「探鳥会」に参加してであった。一度は、歩きはじめてまもなくひどい雨と風に見舞われ、橋の下でびしょぬれになって雨宿りをし、ろくに鳥も見ずに帰ることになった。もう一度は、前回とはうって変わっての好天に恵まれたのだが、日陰もない砂漠のような埋立地ではジリジリと太陽が照りつけ、おまけにダンプカーが砂ぼこりをけちらし、本当にこんな所に鳥がいるのだろうか、と思わせた。事実、鳥影はまばらで群がるシギやチドリを見た記憶はない。この日は、特に鳥の少ない日だったらしい。ただ荒涼とした埋立地の水たまりに一羽の若いツバメチドリがいて、その珍しい鳥をみんなで眺めた。ツバメチドリはヒラヒラと舞っては降りる動作をくり返し、それは何とも寂しげだった。

 これで、私の干潟の鳥に対する興味は、半減どころかほとんどなくなってしまった。それからというもの、私は「探鳥会」と言えば高尾山ばかり歩き、キビタキやオオルリの美しい声や姿に夢中になり、また識別に夢中になった。私にとって、「鳥」とは山野の小鳥たちのことだった。

 私が再び新浜を訪れたのは、それから六年位たった大学一年の時だった。家を出るまではあまり乗り気ではなかったが、たまには変わった所に行くのもいいと思ったのだろう。私は友人と二人で、一台の望遠鏡を持って東西線「行徳駅」に降りたった。当時の行徳は駅前といっても何もなく、アシや帰化植物のおい茂った埋立地に碁盤の目のような道がついているだけだった。海岸までは、いたる所に水たまりがあって葦が茂り、その葦の根元付近を探すと必ずといっていいほど赤い嘴のバンが見え隠れしていた。どこの葦原からも、オオヨシキリの騒がしい声が風に乗ってくる。

 遠浅の干潟はすっかり埋め立てられ、赤くさびた浚渫のサンドパイプが無残に放置されている。そんな中で、渡り鳥たちはちょっと開けた泥地の水たまりに群がっていた。黒い夏羽になったツルシギ、アオアシシギ、シロチドリ、メダイチドリ、それらが何十羽となく水辺で餌をとっていたり、背中に頭を突っ込んで眠っていたりするのだった。これがシギの群れとの初めての出会いだった。山野の鳥たちのような華やかさは一つもない。静かな、それでいて目を見据えてしまう光景だ。

 頭上では、しきりにキリッキリッとコアジサシが鳴いている。そのたびに私は空を見上げ、白く光る鳥を追った。蓮池にはカイツブリやオオバンが浮かんでいる。江戸川放水路の岸の小さな干潟には驚くほど長い嘴のダイシャクシギや、ほんのりと紅味を帯びてきたオオソリハシシギが並んでいた。何もかもが新しい光景、新しい世界だった。様々な鳥たちは勿論のこと、潮の匂いや葦の葉擦れの音さえも私には新鮮だった。

 私が新浜通いを始めたのは、それからだった。「通い」といっても、毎週のように行けるわけではない。大学のクラブの探鳥会にも参加するので、新浜へは月に一回から三回位だったろうか。私の家から行徳駅までは、たっぷり二時間かかった。渡り鳥、特にシギやチドリというのは春と秋にここを通過するだけのものが大半なのだが、鳥が多かろうが少なかろうが、夏であろうが冬であろうが足を運んだ。

 今でこそ言うが、水辺の鳥、とりわけシギやチドリとは素晴らしく魅力的な鳥である。体つき、しぐさ、色、鳴き声、群れの美しさ・・・。それは、甚だ感覚的なものだ。

 シギの大半はシベリアやアラスカ、北欧といった北の果ての地で繁殖する。一年のほとんどを雪と氷にとざされたようなツンドラ地帯。そこでは、氷がとけているのは七月~八月にかけての二ヶ月足らずの間で、大地はこの息をつくほどの短い間に、長い昼の助けをかり、生き返ったように花や小さな虫たちの世界となる。彼らはこのほんのわずかな時期に、繁殖という大仕事をやりとげるように適応してきたのである。二ヶ月の間に卵を産み、子を育て、若鳥たちは渡りのための飛翔力をつけなければならない。そして、秋風のたつ頃、シギたちは再び南を目指す。あるものは日本の小さな干潟で冬を越すが、多くの鳥たちはさらに南へと渡っていく。彼らの姿は、そのきびしい生活環境にむだなく適応していったような気がする。まっ白い翼をひるがえして群れ飛ぶ姿、夜空を抜けていくすきとおった声、そしてピンと張った長い翼も、渡りという宿命に裏打ちされているのだ。

 学生時代、私は折あるごとに全国各地の干潟や湿地を訪れた。そこには様々な水辺があり、様々な水辺の鳥の生活があった。

 北海道のシギたちは、緑の中にちらばっている。干潟というより湿地に棲み、ちらちらゆれる葉陰の向こうで、何とも寂しげなシギたちだ。でも、それは繁殖地の風景に似ているのかも知れない。ちょっぴり冷たい風と、いくぶん傾いた陽ざしの中で、故郷のなごりにひたっているようにも見える。

 九州、有明海は、今日日本に残る最も大きな干潟だ。それは、深々とした泥の堆積であり、北国の湿地の面影は何もない。何キロメートルにも及ぶブヨブヨとした鉛色の干潟にごまつぶのようにシギが群れている。その向こうにノリヒビの竿がかすみ、ミサゴが遠くを舞っている。この広大な泥地は、彼らにとっては大切な休息地であり、越冬地でもある。

 それにしても、私にとっていちばん思い出深く、又好きなのは東京湾であり、新浜である。そこは足を運ぶたびに風景が変わった。アシ原は次々と消え、マンションや住宅が一つ、二つと増えていった。道路が舗装され、商店街が出来、駅前広場まで出来た。それと反比例して、ゴム長ぐつをはき、双眼鏡を首からさげて歩く人の姿は消えていった。でも、そこから鳥たちの新浜が全く消えてしまったわけではない。マンションの脇の小さなアシ原には、相変わらずオオヨシキリが棲みついていた。江戸川放水路のかたわらの、ほんの少し残された蓮田には、バンやカイツブリ、オオバンが迎えてくれたし、ピンクのすばらしく長い脚をしたセイタカシギに初めて出会ったのもここだった。私は、春になるときまって、ここにツルシギの声を聞きにきたものだ。そして、鳥たちの声をかすかに聞きながら、放水路の土手に寝ころんだ。

 何げなく、午後から新浜にやって来て、宮内庁御猟場の脇の水たまりで夕暮れまで鳥たちを眺めているのも好きだった。コサギやダイサギが御猟場のねぐらへと舞いもどるのを眺め、湿地にかすむシギたちを眺めるのだった。帰り道は、もうすっかり暗かった。

 

 たそがれが世界をおおっていた
 御猟場の森のふちが赤く赤く染まり
 白サギが黒サギに変わって消える
 もう何年も何年も昔から続いている光景
 変わったものは、まわりの景色と人の心……

 その御猟場のかたわらの小さな水たまり
 私の愛したちっぽけな水たまりのふちに腰かける
 シギたちは何も知らずに泥の中にくちばしをさしこむ
 私は静かにそれを見る

 本当は知っているのかもしれない
 自分たちをちっぽけな水たまりへと追いつめてしまったものを
 そして人々は忘れ去っていく
 そこが生き生きとした世界であったことを

 一日のなごりの陽ざしが水たまりをなでて通りすぎる
 シギたちは何も知らなかったかのように泥の中にくちばしをさしこむ
 私はだまってそれを見る

 誰が知っているというのだろう
 この闇の中に忘れ去られたものたちが
 今生きていることを
 そして大地をつついていることを
 私は黙って闇を見る

 その御猟場の前面には、今では野鳥のための保護区が出来、立派な野鳥観察舎が建っている。日曜ともなると、多くの人々がガラス張りの建物の中から、ものめずらしげに鳥たちを眺めていく。

 そこは、かつての広大な干潟とは比べものにならないような小さな小さな保護区ではあるが、そのふちにたたずみ鳥たちを見る時、私の中に初めてシギを見る喜びにひたったあの日の感動が、いつとはなしに甦ってくる。潮風の中で聞いた、さわやかな声までも。

(注)この随筆を書いてから、すでに三十年以上が過ぎた。その間、有明海の諫早湾は「ギロチン」と呼ばれる巨大な水門で仕切られ、あの広大な干潟は海に没して消えてしまった。何ということだろうと、今さらながら思う。
 新浜の江戸川放水路の傍らにあった蓮田も、もちろん今はない。2007年に友人と久々に新浜の保護区を訪れたのだが、行徳駅からの道のりに昔の面影はなく、商店や住宅のひしめくそこは全くの別世界だった。それでも保護区は管理人の蓮尾夫妻の手によって自然の再生が図られ守られていた。
 なお、野鳥観察舎は、耐震性に問題があるという理由で一年ほど前から閉館を強いられている。再開されることを願って止まない。

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