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2017年1月17日 (火)

赤鬼の高原

赤鬼の高原(1984年)

 北国の秋は、ひどくせっかちにやってきた。カッと照りつけた、しかしほんの短い夏が終わると同時だった。そのあわただしさに、私はまごついていたのかもしれなかった。あの草原に足を運んでみようと思いたったときは、すでに九月に入っていた。

 草原といっても、そこはかつてエゾマツやトドマツが生い茂っていた所を、ぽっかりと扇状に切りさいたスキー場だ。直線的な濃い緑の森林にふちどられた斜面は、草におおわれ花が咲いていても不自然さがつきまとった。雪のない季節には、無用だとばかりに草が茂り放題になっている。私はその斜面を眺めわたすと、かすかな期待を胸に、踏みわけのついた蕗の中を登りはじめた。

 草原は、まぎれもなく秋に支配されていた。夏の間、おもう存分に伸びた蕗の葉も、だらしなく倒れ、歩くたびにカサカサと音をたてた。ついこの間までは草いきれがたちこめていただろう草原は、もはや生気を失いかけている。遅すぎたのだろうか。

 遅い足取りのその足元に、ふと紫のリンドウが目に入った。ああ、この花だ。あの時も、この花が足元にいくつもこぼれ咲いていたっけ……。

               *

 もう六年も前になるだろうか。まだ東京に住んでいた頃、私は友人と二人で、信州のある高原へ出かけた。列車にゆられ、バスを乗り継ぎ、おりたったその地は霧雨にぬれ、ぼんやりと針葉樹に包まれていた。今から思うと、北海道の山地の感じとも似ていたようだ。あの針葉樹は落葉松だったろうか。木造の宿をとり囲んで、黒々と雨水を含み、そそりたつように並んでいた木々を、私は今でも鮮やかに覚えている。雨の音の他、もの音一つ聞こえない。いや、正確に言うなら、ヒガラの地鳴きくらいしていたかもしれないが、とにかく気の遠くなりそうな静けさだった。都会の騒々しさから抜け出してきた私たちには、その高原のすがすがしさはかけがえもなく尊いもののようで、雨が降っていることすらさほど気にならなかったし、かえって、私たちに落ち着きを与えてくれたように思う。

 その高原は、針葉樹は茂ってはいたが、牧場やスキー場になっている草原がそこかしこにあった。その上、流行りのテニスコートすらいくつかあったが、もはや秋となっては、人影もほとんどない。その誰もいないような草原は、思いもかけぬ秋の花々に彩られていたのだった。群生してゆれているヤナギランは、もう終わりに近かったが、鮮やかなピンクの花はそれほど色あせてもいない。マツムシソウもあちこちで頭をかしげている。私はこの花が大好きだった。まだ幼かった頃、同じ信州の霧ヶ峰で、背丈ほどもあるようなマツムシソウの中をかけまわった記憶が、今でも生き続けていた。その上品な藤色は、秋の草原を彩るのに最もふさわしいと思う。他に何が咲いていただろうか。オミナエシ、アザミ、ノコギリソウ、ワレモコウ……。

 私たちは、霧雨の降る中、外に出た。あたりは一面霧にかすんでいる。どこに行くというあてもなく、湿った落葉を踏みしめながら、スキー場へと足を向けた。探鳥のために持ってきた双眼鏡も、この霧では何の役にも立たない。そればかりか、鳥の声といったら、林のあたりから、ヒガラか何かの小声がとぎれとぎれにしている位だ。テニスコートの脇を抜けると、スキー場の下に出た。踏みあとは小さな川となって雨水が流れ出ている。その流れを飛び越しながら、上へつづく草の中の小路をたどっていった。

 斜面に広がる、いくぶん草丈の低い草原は、そこに咲く花の色も、また葉の色も秋の色をしている。ミルク色に漂う霧が、それをより一層冷たく見せている。そして足元には、あの濃青紫のリンドウの花が、いくつも咲いていた。こんなにたくさんのリンドウを見るのは、ずいぶん久しぶりのことではなかろうか。濃い霧の中を、足元に気を配りながら、どれくらいのリンドウを見ただろう。そして、斜面の中腹あたりまで登った頃、私はそのリンドウの花陰に、真赤な、というより、もう熟れすぎた木の実のようにいくらか黒ずんだ赤いものを見つけた。それは、水滴をしたたらせもう破れそうになった蜘蛛の網に、じっとして動こうともしない。

 成熟したアカオニグモだった。気味の悪いほどの赤く大きい腹部には、真白な斑点がちらばっている。その壊れかけた網や、腹部の成熟しきって黒ずんだ赤色は、この蜘蛛の命がつきるのも間もないことを物語っていた。

 自然の中での、アカオニグモとの初めての出会いだった。本州の高原や、北海道の草原には、どこにでもいるありふれた蜘蛛ではあったが、今まで見たことがなかったのは、この季節にこういう高原に来ることがほとんどなかったからに違いない。ひどく美しい蜘蛛であった。が、その濃すぎる赤は、まわりの静けさにとけこみ、美しさより先に秋の寂しさを漂わせていた。気をつけてあたりを見回すと、ひとつ、ふたつ……と、いくつもの赤い蜘蛛が、霧に濡れた草の中でうずくまっているのだった。

 私がこの蜘蛛を初めて目にしたのは、それよりもさらに四年ほど前だったと思う。それは、大学の生物部の部室だった。秋の尾瀬から帰ってきたというある先輩が、フイルムケースの中から、手のひらにころりと出して見せたのが、アカオニグモだった。それは脚をちぢめて丸まり、ほとんど身動きすらしなかったが、私は何と美しい蜘蛛だろうかと見入ったものであった。

 しかし、高原の冷たい葉陰で、真赤に老熟してたたずんでいるこの蜘蛛を目の当たりにしたとき、私は、散っていく紅葉のような、はかない存在に、驚きにも似たものを感じたのだった。冷気の漂いはじめた、誰もいない高原で、この小さな命たちは熟れた木の実のように、土にかえっていくのだろう。

               *

 私は、あのリンドウの中の赤い蜘蛛のことを思いながらスキー場尾の斜面を登っていた。北海道の草原は信州のそれと違い、大きな蕗が他の草を押しのけるかのように葉を広げている。信州の高原が概して草丈の低い、おだやかさを持った草原であったのに比べ、そのぼうぼうと伸びた茎は、草原を粗雑なものに見せた。が、どちらも、もう枯れゆく運命にある秋の草原であることに変わりはなかった。注意深く足元を見やりながら、しばらく登った頃、私は蕗の葉の間に、一目でそれとわかる網を見つけた。しかし、網はいく本もの糸が切れ、もはや網とはいえないほどいたんでいる。その上、小さな虫がいくつもへばりつき、もう何日もそのままになっているようだ。葉の裏に造られた住居にも、主の姿はない。やはり遅かったのだろうか。

 私はこの草原で、あの赤鬼に会いたかった。勿論、この草原でなくても探せばどこにでもいるはずだが、それでもこの草原で会いたいと思ったのは、ここが、あの信州の高原によく似ているという意識が、心のどこかに働いていたからにちがいない。あの蜘蛛は、潮風がなでて通る海辺の草原よりも、またちっぽけな道端の草地よりも、しっとりと寂しい高原の方がふさわしい気がした。

 さらに登っていった。同じような網がひとつ、ふたつ、だがどれも網の主はすでにいない。やっぱり……。北海道の秋は信州より一足も二足も早かったのだ。やがて踏みわけ道はもはや道ではなくなり、私はバサバサと草を押し分けた。いくども帰ろうか、と思いながらも、なぜかしら足は枯れ草を押し分けていた。

 私があの赤い、それこそ、今にもこぼれ落ちそうな赤鬼を見つけたのは、五つ目くらいの網だったろうか。もう用はなさないのではないかと思えるボロ網の糸をたどると、それはくるりと葉を巻いた中に、小さくうずくまっていた。

 やっぱり生きていてくれたのだった。ひときわ大きくふくらんだ腹部は、見事な濃赤色に染まり、生きているのかと疑うほど、じっとしている。この蜘蛛にはもはや網を直す必要もないし、その力もないことを私はよく知っていた。

 いつのまにか、だいぶ傾いたやわらかな陽射しが草原に落ちていた。心のうちで期待していた、ほのかな赤鬼との再会の喜びは、いつか信州で出会った赤鬼の思い出と重なり、人知れずこぼれ落ちていく小さな命の哀しさへと変わっていた。

 涼風がたってきた。私は草原にくるりと背を向けると、一気に草原をかけおりた。

 

*父が亡くなってから墓参りを兼ねて、懐かしい霧ヶ峰に母と通うようになった。父の墓は霧ヶ峰からの湧水が流れ下る角間川のほとりの地蔵寺にある。通うといっても、年に一度、8月下旬に開かれる蜘蛛学会の大会に合わせて帰省したときだった。その頃は父の命日にも近かった。そんなわけで、8月下旬から9月の初旬にかけてが霧ヶ峰に行く時期になった。
 初秋の霧ヶ峰ではマツムシソウとアカオニグモがそこここで迎えてくれた。ただ、この時期のアカオニグモはまだきれいな赤色になっておらず、くすんだ黄緑にほのかに赤色が差しているような微妙な色をしている。信州の高原にはマツムシソウとアカオニグモがよく似合うといつも思う。
 その母も他界して、霧ヶ峰もちょっぴり遠い存在になったが、霧ヶ峰の光景は私の心の中にずっと生き続けている。ただし、この小文に出てくる信州の高原は霧ヶ峰ではなく、湯の丸高原である。

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