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2017年1月

2017年1月31日 (火)

野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

 日本アドラー心理学会の初代の会長である野田俊作さんのウェブサイト「野田俊作の補正項」をときどき読んでいるのだが、最近、岸見一郎さんに対する苦言がしばしば出てくる。正確に言うならば、「嫌われる勇気」に対する批判といったほうがいいだろう。野田さんが批判的意見を言うのはもちろん自由なのだけれど、正直なところ私はそれをやや苦々しく思っている。その理由を書きとめておきたいと思う。

 野田さんによる「嫌われる勇気」批判は、このあたりから始まっているのではないかと思う。ここでは書名を書いてはいないが、「嫌われる勇気」を指していることは誰にでも分かる。

 この記事で、野田さんはこんなことを書いている。「彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。」

 またこちらの記事では「アドラー・ブームの火付け役である岸見一郎氏の『嫌われる勇気』は、「課題の分離」ばかり強調して「協力」に関連する考え方をあまり含んでいないので「名目アドラー心理学」だと思っていたが(これはいちおう許容範囲内)、同じ題名を冠したテレビドラマはアドラー心理学に反する考えややり方でいっぱいなので、間違いなく「似而非アドラー心理学」だ(これは完全に許容範囲外)。岸見氏ご自身はこれについてどうお考えなのだろうか。」と書いている。

 もう一つ、トラウマに関する記述についても批判的で、こちらの記事で「なんでも、最近流行の「ブーム型アドラー心理学」では、「トラウマは無い」ということになっているのだそうだ。」と指摘している。私なりに解釈するなら、「嫌われる勇気」の「トラウマを否定する」という書き方が誤解を招くといいたいのだろう。

 そして野田さんは、「嫌われる勇気」は許容範囲内だが、重要な要素を欠いているので「名目アドラー心理学」だと評している。

 一方、私は日本アドラー心理学会の顧問や認定カウンセラーでもある岸見さんがアドラー心理学を正しく理解していないとは思っていない。岸見さんの「アドラー心理学入門」や「不幸の心理 幸福の哲学」も読んでいるが、課題の分離ばかりにこだわっているとも思わないし、援助についても書かれている。トラウマやPTSDについても、それらの症状の存在を否定してはいない。「嫌われる勇気」においてもPTSD症状は存在しないとは書いていない。ただし、「トラウマを否定」という書き方は、読者の誤解を招きやすいのは確かだろう。

 ここで着目すべきは「嫌われる勇気」は岸見さんが一人で書いている本ではないということだ。私は今、野田さんの「アドラー心理学を語る」というシリーズ本の第一巻「性格は変えられる」を読んでいるが(これについては改めて感想などを書きたいと思っている)、野田さんによるアドラー心理学の解説は仔細に渡っていてとても勉強になるし、具体的事例もとりあげていて分かりやすい。しかし、失礼なことを承知で書くなら、いくら優れた解説書であっても、岸見さんや野田さんのアドラー心理学の本が「嫌われる勇気」のように爆発的に売れることはないだろうと思う。

 この違いは、「嫌われる勇気」が単にアドラー心理学の解説書を目指したのではなく、万人に理解できる本にすることで多くの人の手にとってもらうことを目指したことに関わっている。そしておそらくそうした著者らの意図が、野田さんの批判に関係しているのではないかと私は考えている。

 岸見さんにアドラー心理学についての本を出したいと持ちかけたのはライターの古賀史健さんだ。そして「嫌われる勇気」の文章を書いているのも古賀さんだ。この本を書きあげるにあたっては、古賀さんと岸見さん、編集者が議論を重ねているのは間違いないが、企画した古賀さんの方針が強く反映されているのは確かだろう。

 私は古賀さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んだ。古賀さんは多数のベストセラーを手掛けてきたライターで、この本にはご自身の経験を元にした文章術がまとめられている。彼は読者を惹きつけるテクニックを良く知っており、「嫌われる勇気」を書くにあたってももちろん「20歳の…」に書いている文章のテクニックを駆使している(と私は思っている)。

 たとえば、古賀さんは「ライターは翻訳者である」と語っている。これが彼の文章を書くにあたっての基本的姿勢でありポリシーだ。つまり、古賀さんがご自身のフィルターを通して岸見流アドラー心理学を翻訳することで、とっつきにくい心理学を誰にでも分かるように解説したのが「嫌われる勇気」や続編の「幸せになる勇気」なのだと私は理解している。

 他にも、たとえば文章にリズムや説得力を持たせるために断定した書き方を入れるとか、文章の構成が重要だとか、あるいは読者を説得するのではなく納得させる文が良いとか、編集(推敲)では「書き足す」よりも「ハサミを入れる」など、古賀さん流の文章テクニックが紹介されている。青年の大げさな発言などはときに吹き出してしまうが、もちろんこうした誇張も読者を惹きつけるためのテクニックだ。

 ただし、古賀さんの翻訳や、断定、取捨選択の編集テクニックによって、切り取られすぎてしまった部分もあるだろうし、誤解を招きかねない部分も生じてしまったのだろうと私は勝手ながら推測している。そして、そこが野田さんの批判の的になってしまった気がしてならない。

 では、「技術を駆使した分かりやすい文章」によって売れる本を目指すことは不適切なのだろうか? こうした本はまがい物なのだろうか? 私はそうは思わない。私自身、ある方のブログで「嫌われる勇気」を知ってアドラー心理学を知り、この本を出発点に他のアドラー心理学の本も何冊か読んだ。本がベストセラーとなって話題になれば、私のようにこれまで心理学と何ら接点のなかった人がアドラー心理学の存在や概要を知る機会が増えるし、それをきっかけに、アドラー心理学をより詳細に解説している本へ誘導することにも繋がる。

 現に、絶版になっていた野田さんの本が昨年末に改訂・再版されたのも、「嫌われる勇気」に端を発しているのだろう。「嫌われる勇気」も野田さんのシリーズ本も一般の人を対象にした本だが、「嫌われる勇気」はこれまで心理学とは縁のなかったような人も対象にした導入のための本であり、アドラー心理学を詳細に解説している野田さんの本とは立ち位置や役割がやや異なる。

 もし「嫌われる勇気」が間違ったアドラー心理学の本なら由々しきことだが、野田さんも「許容範囲」だとしていて誤りだとまでは言っていない。また私自身は、続編の「幸せになる勇気」の発行で、共同体感覚についてはかなり補足されたと感じている。ただし、古賀流の文章術によって、アドラー心理学を誤解してしまう読者がいるなら、それはそれで問題であることは否定できない。

 私が冒頭で「苦々しく思っている」と書いたのは、この問題をめぐって野田さんの意見しか聞こえてこないことだ。アドラー心理学に関わる人たちの中には、この状況に当惑している人もいるのではなかろうか。野田さんと岸見さん・古賀さんの路線の違いといえばそれまでだが、第三者から見たら本当にそこまで批判すべきことなのだろうか?この状況をいくらかでも改善できないのだろうか?とどうしても感じてしまう。

 そこで、余計なお世話かもしれないが、門外漢の私からひとつの提案をしておきたい。すでに売れてしまった本についてはどうにもならないが、増刷する際には増補改訂版にして、野田さんが不十分だとか誤解を招きやすいと考えている部分に注釈をつけるなり、最後にまとめて解説を加えるという方法があるのではなかろうか。そして、その増補部分は出版社のウェブサイトに掲載するなどして、誰にでも読めるようにするというのはどうだろう。すでに誤解してしまった読者に対しては不十分な対応だろうが、このまま何もしないよりずっといいのではないかと思う。

 もう一つ、野田さんはこちらの記事でアドラー心理学は本や講演では学べないと書いている。本ではアドラー心理学がどういう思想であるかを知ることはできるが、アドラー心理学を身につける、すなわちアドレリアンとして実践するには講習会やワークショップでの体験が必要だということだろう。

 私は「嫌われる勇気」を読んだ人は、以下の三つのタイプに分かれるのではないかと考えている。

1.アドラーの思想を理解できない(しようとしない)。あるいは間違っていると思う。
2.アドラーの思想は理解できるし間違っているとは思わないが、実践しようとは思わない。
3.アドラーの思想を理解し、より深く学んだり実践しようとする。

 このうち圧倒的に多いのが1ないしは2だと思う(単なる勘だけれど)。より深く学んだり講座などを受けて体験的に身につけようと行動に移す人は限られているだろうし、野田さんの本を読んでみても、「本を読めば身につく」というほど簡単なものではなさそうなことも分かる。

 ならば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」がベストセラーになって売れることは意味がないかというと、そうは思わない。これらの本によって、アドラー心理学がどんな思想であるかを知ることはできるし、自分の抱えていた問題に気づく人も多いだろう。上記の1や2の人でも、今後の人生で思い悩んだときに本を読み直し、ライフスタイルの再選択を決意する人もいるのではなかろうか。本が多くの人の手に渡り、アドラーの思想が頭の片隅にでも引っかかることは、それなりに意味があると私は思っている。私も、生きているうちにアドラー心理学に出会えて本当によかったと思っているし、野田さんの本も知ることができた。これも「嫌われる勇気」に出会えたからに他ならない。

 なお、「嫌われる勇気」のテレビドラマについては見ていないし興味もないが、主人公のふるまいがアドレリアンと程遠いのなら、それはドラマの脚本を書いた人の理解の問題が大きいのではないかと思う。

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アドラーのトラウマ否定論について思うこと 
誤解される「嫌われる勇気」

2017年1月29日 (日)

石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」

 昨年末、石城(いしがき)謙吉さんの講演をまとめた書籍「自然は誰のものか」(エコネットワーク発行)が出版された。石城さんは川魚をはじめとした動物の研究者であり、北大苫小牧研究林の林長として森林問題にも関わってこられた方だが、同時に自然保護にも取り組まれてこられた。植物学者の故河野昭一さんもそうだが、自分の研究に没頭するだけではなく自然保護に尽力される研究者に、心から敬意を表さずにはいられない。本書は石城さんの講演会から11話を選んで書籍にまとめたものだが、どの話しも幅広い知識と経験、深い洞察力に裏打ちされている。

 最近は講演会を聞きに行くことがめっきり減ったが、以前はときどき講演会や学習会に参加して、専門の方たちの豊富な知識のおすそ分けに預かった。ただ、悲しいかな、講演会や学習会で知り得た知識や情報のうち頭脳に鮮明に記憶されるのはごく一部であり、話しの多くはなかなか記憶として留まらない。しかし、本書のように講演者が自ら講演内容をまとめて文章として残してくださると、あとで何度も読み返すことで理解を深めることができる。しかも、石城さんの講演は実に中身が濃く、示唆に富んでいる。このような話しをまとめて書籍にした意義は大きい。

 本書のタイトルともなっている第1章の「自然は誰のものか」は1989年の講演記録だから、今から28年も前の時点での話しだ。本章では、日本の大規模開発計画が昭和35年に発足した池田内閣の「全国総合開発計画(一全総)」に端を発し、昭和44年の佐藤内閣による「第二次全国総合開発計画(二全総)」、昭和47年の田中内閣による「日本列島改造論」、昭和52年の「第三次全国総合開発計画(三全総)」、昭和62年の「第四次全国総合開発計画」やリゾート法(総合保養地域整備法)へと受け継がれてきたことが示されている。戦後の高度経済成長の中で進められていった政府の開発計画こそ、日本の自然が次々と失われていった元凶だ。

 乱開発が始まった当初から自然保護に関わってきた人々は、程度の差こそあれこうした背景を理解しているだろう。重要なのは、石城さんが明確に指摘しているように、日本の自然を滅茶苦茶にした開発計画の目的は、中央集権体制の強化と再編にあるということだ。大規模工業開発やリゾート開発の流れの根源にあったのは、国と大資本による地域収奪であり、国と大資本による経済成長のための戦略だ。だから、開発に伴って全国各地で生じた自然破壊、環境破壊に対する反対運動の大半は、まさに国や大資本との闘いだった。そして、今もその構図は続いている。リニア新幹線などはその典型だろう。

 先日、昔書いたエッセイを3編アップし、最後に青字で注釈を添えた。「シギと私」では、東京湾や有明海をはじめとした干潟が失われていったことに触れ、「」では、八ヶ岳山麓のリゾート開発について触れた。海にも山にも押し寄せた開発の嵐は、かろうじて残されていた日本の自然を切り刻み、地方を切り捨ててきた。今更ながら、そのことを痛切に感じる。

 本書では、水や川をめぐる講演も2つ取り上げられているが、実に奥深い。「人間と水」という章に出てくる信玄堤や分水の事例は、現在の治水の見直しにも役立つだろう。武田信玄は、御勅使川(みだいがわ)支流を分けて釜無川との合流点を増やすことで水の勢いを弱めたり、堤防に切れ込みを入れて水の勢いを分散させる信玄堤(霞堤)という治水工事を行った(この工事についてはこちらを参照いただきたい)。こうした手法は自然の摂理に沿った治水といえるだろう。

 また、利水と治水の両方の機能を兼ね備えていた諏訪市の角間川の分水についても取り上げているが、昔の人の知恵に驚かされる。諏訪は石城さんの故郷だが、私の生まれ故郷でもあり、角間川は子どもの頃からなじみがある川だ。石城さんによると、角間川は上流で分水され、諏訪市街の東側にある山の裏側を通って市街地側の斜面に流れ込み、さらに分水されて農業用水や生活用水として使われていたという。

 この話しを知ってすぐに頭に浮かんだのは、諏訪の茶臼山の叔母の家の近くを流れていた小さな川のことだった。子どもの頃、夏休みに叔母のところに遊びに行くと、冷たい水が勢いよく流れているその川に遊びにいったものだが、細い道にそって流れるその川は子どもながらに自然の川とはどこか違うと感じていた。そこで、インターネットで公開されている国土地理院の地図から角間川を辿ってみた。

 なるほど、角間川は上流の2カ所で分水されている。一つは蓼の海(たてのうみ)という人造湖(ため池)を経由して山の鞍部を越し、もう一つは角間新田の上流で分水され鞍部を越えている。それぞれの分水地点からは鞍部に向かって等高線に沿うように水路が掘られ、鞍部を越えて反対側の斜面へと流れているのだ。こんな上流で分水をしていたとは知らなかった。そして、叔母の家の近くに流れていた小川は、角間川の下流部で分水されたものだということも分かった。諏訪の街中にはあちこちに水路があったことは子どもながらに記憶していたが、あの水路の意味に納得した。

 人の手によって本来とは異なる水系に水を流す行為は自然の摂理に反するものだ。しかし、節度をわきまえてさえいれば大きな災害には結び付かないだろうし、むしろ洪水の抑制につながる。自然との共生を目指した先人の知恵だ。ところがダムや河川改修などの大規模な治水や利水事業によって、昔ながらの優れた利水・治水は今ではほとんど姿を消してしまった。諏訪の水路網も今は使われていないという。

 公共事業という名の元で進められたダム建設や河川改修は自然を破壊しただけではなく、ダムの放水による洪水や、河川の直線化による破堤、溢水など新たな災害を生むようにもなってきている。自然を制御しようという考えが根底から間違っていることを教えてくれる。

 本書で取り上げられている講演はいずれも充実した内容のものばかりだが、人間社会の福祉と戦争について取り上げた「動物学からみた人間」についての考察は、考えさせられることが多い。直立二足歩行によって両手を自由に使えるようになり脳が発達して文化を発展させてきた人間は、高齢者や障害者、病人などといった社会的弱者を見捨てないという他の生物には見られない独自の生き方を選んできた。このような生き方を否定するような弱者切り捨ての行く末には、人間の将来はないだろうと石城さんは言う。

 昨年は相模原の障害者施設で入所者や職員多数が殺傷されるという凄惨な事件が起きた。安倍政権は、弱者切り捨ての法案を次々と成立させているばかりか、平和憲法をかなぐり捨てて戦争ができる国へと突き進んでいる。ネットでは気に入らない者、社会的弱者を叩いて優越感に浸ろうとする人が溢れている。人間以外の生物ではありえない殺伐とした光景だ。こんなときだからこそ、福祉と戦争について取り上げたこの章は、意味深いものになっている。

2017年1月20日 (金)

(1985年)

 どうしてその峠に行こうと思ったのか、今となってはよく思い出せないのだが、たぶんあの頃、私の一番好きだった季節、秋のあふれる中を、日頃の雑念を払い落して一人で歩きたかったからではないだろうか。秋といっても、あの山肌一面を鮮やかな紅や黄に染めるような紅葉の美を求めていたのではなかった。私は、あの紅葉特有のはなやいだ色合いは、それほど好きではない。あの色合いは、静かで寂しくありながら厳しい一面を持った秋という季節を象徴するには、何かそぐわない気がしてならない。秋の山は、落ち着いた色合いであるべきだった。だから私の選んだその峠は、はなやかさはなかったし、季節も晩秋の頃だった。遥かかなたの空の下で、北アルプスの山なみが銀白色にきらめいていたから、十月の終わり、あるいは十一月に入っていたかもしれなかった。

 その峠は、信州の一角、北八ヶ岳にあった。そしてそこに行くために、小高い山を越え、原生林の中を歩き、また高原を横切り、池のほとりで腰を下ろさなければならなかったが、その変わりゆく秋の姿を心ゆくまで楽しむことができたのだった。

 夜行日帰りという、ほんのつかの間の山旅であるのに、私は落葉松の季節になると必ず思い出す。というより、あの黄金色の落葉松が私の思い出をゆりおこしてくれるように思う。

 すでに東京の真冬なみ、あるいはもっと寒くなっていたかもしれないその高原のロープウェイ駅には、夜行列車から乗りついで一番のバスに乗ってきた二十人ほどの人たちが思い思いに散らばっていた。私もその駅の冷え切ったコンクリートの一隅に身をこごめて座りこむと、お茶をわかしささやかな朝食をとった。寒さがじわじわと体にしみてくる。眼下には南アルプスの山々が紫を帯びて朝もやの中に横たわっている。高原は一面、いつ冬が訪れてもいいような殺伐とした枯色となり、カラカラと葉ずれの音すら聞こえてきそうだ。人々はそれぞれの思いを、この朝もやの高原に寄せているようだ。私もまた、飽きることなくその一時を山に、高原に、目を据えていた。

 遥かなる山を見つめていると
 忘れられたものが 心の中に
 ぼっ と甦ってくる
 山はいつだって
 おとぎ話を包みこんでいる

 私のこの時ほど朝もやにかすむ山なみをなつかしく、いとおしく感じたことはない。それは、心の中でひそかに想いをいだいている恋人のしぐさを遠くから見つめているおももちにも似ていた。

 ロープウェイを降りたつと、ゆっくり歩きだした。峠は、目の前の山をいくつか越えた向こうだった。しめっぽい針葉樹の林は、真夏のそれより重ったるく感じられたが、あの鼻孔を刺激する樹の香りは、夏山のそれと同じ、なつかしいシラビソ原生林のものだった。あれだけ乗っていたロープウェイなのに、歩きだしてみるとどこに散ったのかと思う位、人々はそれぞれの道に消え、前後の人影は少なかった。私のような気ままな山旅をする人は少ないのかもしれない。いつものゆっくりとしたペースを楽しみながら、横岳の上に出た。

 そこは、北八ッ特有の景色を一望できた。小高くうねる原生林の山々、手鏡のようなちっぽけな池、枯色の丘。これからたどろうとしている道は、視界の途中でとぎれている。遥かかなたまで続くようにも思える。すきとおった空のずっとかなたに、北アルプスの峰々が白く浮き上がっている。その山なみのひとつを、その夏、自分も歩いてきたとは信じがたいほど、きびしく美しい山の姿だった。

 山道は地図で見るよりも起伏に富んでいた。時には、うっそうとした暗い森の中を、時には岩のむき出しになった道を、足元に気をつけながら進まねばならなかった。雪こそなかったが、あたりの草といい石といい、まっ白い霜がはりついていたからだ。それが朝の陽にきらめいている光景は、一瞬足を止めさせた。何でもない路傍の草や石ころであるはずなのに。やがて白一色の世界になってしまう地では、おおいかぶさるような霜が、秋の終わりを告げているかのようだ。その白いベールを足で踏みにじっていくことに、一瞬の戸惑いを感じながら、山道をたどった。

 北八ッの象徴のような原生林では、すでに鳥の地鳴きもまれにしか耳にしない。苔むした、柔らかい大地の感触を踏みしめながら、それは森をさまよっているおももちだった。

 荒涼とした岩原。これもまた北八ッの象徴に違いない。何故こんなところに突如、岩原が広がっているのか。この何とも言えない景色は、そこを通る人々にどんな気持ちを抱かせてきたのだろうか。それはあまりに荒涼としていて、たった一人の私にはとまどいすら感じさせる岩原だった。心地よい秋の風の中で、私はきままな放浪者そのものだった。

 双子池。そのほとりで腰を下ろし、おにぎりをほおばった。古びた山小屋、盛りの中にたたずむ池、静寂そのものの山は、この上なく心を落ちつけてくれた。足元の木の根の間から、ヒメネズミが飛び出してきた時には驚いた。地面にこぼれた何かをくわえると、あっという間にまた巣穴へと引っ込んでしまったものの、穴の入口でそっと私の様子をうかがっていたネズミのことを思うと、ひとりでに楽しくなった。何と他愛のない動物だろう。

 そして、私は最後の高みを目指すべく、枯色の丘に登っていった。そこは本当に枯草の丘というのがぴったりの、小山だった。丘にねころんで北アルプスを見た。こんな景色を見るのも、今年はこれが最後だろう。あまりにも遥かな山々だった。

 その丘をかけ下りたところに峠があった。しかし、そこは今までたどってきた静寂きわまる山ではすでになくなっていた。冷たく幅広い舗装道路が山肌をうねり、きらびやかなドライブインまでが建ち並んでいる。わかってはいるはずの光景だったが、この高原に最もふさわしくないものだ。目をそらせたくなるような、その人間くさい峠を眼下に、私は丘をかけ下りた。私は、その踏み荒らされた峠を早く下るべく、ドライブインの裏手にまわった。

 その古びた道標は、忘れられたように、建物のかげにポツリとたっていた。それを見つけた時、心の中にほのかな安心感があふれてきた。建物のかげに、見放されたように立つ道標に、不思議なことに親しみがわいてくるのだった。

 大河原峠の白茶けた道標は、山を愛する人達のために、立ちつづけているのだろうこの人間に踏みにじられてしまった峠の一角で。華やかなドライブインと、小さな道標を背に、私は秋の谷に足を踏み入れていった。

 帰り道はゆるやかな下り坂だった。落葉松と枯野原の谷は、まさに秋に彩られ、そこを通る小径は、黄金色の草の中へと続いていた。その心地よい小径を飛ぶように下っていると、あの峠のことは頭から消えていた。

 

    峠から

 白茶けた道標が
 忘れられたようにぽつりとあった
 そこからは ゆるやかな下り坂だった
 僕は草の中の小径をたどった

 まぶしいほどの落葉松の中を
 ぽこぽことくぐりぬけた
 その向こうに
 誰かが待っているような気がして

 僕は小走りにかけた
 どこまでも続く
 そののびやかな谷を
 ぽこぽことかけた

 さらさらと草がなり
 僕のひざをくすぐっていた

 僕を包みこんでいったのは
 とろけそうな午後の陽ざしを受けた
 幼い頃の記憶の世界
 枯野の中から
 一匹のキツネがぎょっこりと現れ
 とことこと銀色の小径を横切っていく

 はっと立ち止まると
 枯野だけが
 小麦色にちかちか光っていた

 日曜日だというのに、誰も通らない小径。青い空に手を伸ばすように輝いている落葉松の黄色い小枝。その中をくぐるようにして、この上もない秋の一日を惜しむようにして歩いた。やがて小径は川に沿った狭い谷へと入り、また山道になっていた。秋の一日の思い出を胸に、落葉を踏みしめながらバス停へと急いだ。

 どこにでもありそうなちっぽけな峠や小高い山々。しかし、それは私にとってはかけがいもない、愛すべき世界だった。その冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら思った。あの峠にいつかまた行こう。いつかまたこの径をたどってみよう。しかし、その時もあの道標はあのままの姿で迎えてくれるだろうか。

*信州は私の生まれ故郷でもあり、八ヶ岳や北アルプスの山並みは私にとっては子どもの頃から親しんできた光景だ。巨大都市東京に住んでいた頃、私はときどき思い立ったように一人でふらりと山に向かった。コンクリートに囲まれた都会で暮らしていると、無性に、都会の雑踏を抜け出して一人で山の自然に浸りたいという思いが湧いてくる。北八ヶ岳の大河原峠への山旅も、そんな思いつきの一つにすぎないのだが、あの大河原峠からの黄金色の落葉松の色は、今も脳裏に焼き付いている。あのときは知らなかったのだが、北八ヶ岳に点在する岩塊地や池は、かつての火山活動の賜物だ。日本の山岳のたとえようのない美しい景観は、火山活動によるところが大きい。
 この小文を打ち込みながら、さて、あのとき歩いた道は今はどうなっているのだろうかとグーグルアースを開いてみた。家に居ながらにして、山の中の道ですら辿れてしまうという恐るべき時代になってしまったことにちょっぴり愕然としながら・・・。
 そこに現れた画像は呆気にとられるものだった。ピラタスロープウェイの山麓駅周辺は網の目のように道路が広がり、リゾート地に変わり果てていた。そういえば、母と霧ヶ峰の
殿城山に登ったときも、その山頂から眼下に広がる別荘地の光景に息を飲んだ。殿城山は、もはや別荘地とスキー場に三方を囲まれて孤立した岬のようだった。白樺湖や霧ヶ峰周辺も八ヶ岳山麓も、リゾート開発、別荘地開発の波が押し寄せて、目を覆いたくなるような光景が展開されている。ただし、私の目には大規模リゾート開発のターゲットとされ自然破壊の象徴としか映らない別荘地であっても、そこに住まう人たちにとっては心安らぐ自然に違いない。もちろん、彼らを非難するのはお門違いだ。しかし、こうした状況を単に「時代の流れ」として受け流してしまうことにはどうしても抵抗がある。
 若い頃から山にばかり行っていた父は、歳をとってから霧ヶ峰をはじめとした信州の山々から足が遠のいていた。あまりの変わりように、とても足を向ける気にならなかったのだろう。グーグルアースの画像を見ていると、その気持ちが痛いほど分かる。
 当たり前のことだけれど、山麓を、高原を切り刻んで造られたリゾート地がなかった頃を今の人たちは知らない。そうやって、日本の美しい森や景観がじわじわと蝕まれ、蝕まれた光景が当たり前になっている。嘆いていてもどうにもならないのだけれど、自然の傷跡に、人の欲の浅ましさを感じずにはいられない。

2017年1月17日 (火)

赤鬼の高原

赤鬼の高原(1984年)

 北国の秋は、ひどくせっかちにやってきた。カッと照りつけた、しかしほんの短い夏が終わると同時だった。そのあわただしさに、私はまごついていたのかもしれなかった。あの草原に足を運んでみようと思いたったときは、すでに九月に入っていた。

 草原といっても、そこはかつてエゾマツやトドマツが生い茂っていた所を、ぽっかりと扇状に切りさいたスキー場だ。直線的な濃い緑の森林にふちどられた斜面は、草におおわれ花が咲いていても不自然さがつきまとった。雪のない季節には、無用だとばかりに草が茂り放題になっている。私はその斜面を眺めわたすと、かすかな期待を胸に、踏みわけのついた蕗の中を登りはじめた。

 草原は、まぎれもなく秋に支配されていた。夏の間、おもう存分に伸びた蕗の葉も、だらしなく倒れ、歩くたびにカサカサと音をたてた。ついこの間までは草いきれがたちこめていただろう草原は、もはや生気を失いかけている。遅すぎたのだろうか。

 遅い足取りのその足元に、ふと紫のリンドウが目に入った。ああ、この花だ。あの時も、この花が足元にいくつもこぼれ咲いていたっけ……。

               *

 もう六年も前になるだろうか。まだ東京に住んでいた頃、私は友人と二人で、信州のある高原へ出かけた。列車にゆられ、バスを乗り継ぎ、おりたったその地は霧雨にぬれ、ぼんやりと針葉樹に包まれていた。今から思うと、北海道の山地の感じとも似ていたようだ。あの針葉樹は落葉松だったろうか。木造の宿をとり囲んで、黒々と雨水を含み、そそりたつように並んでいた木々を、私は今でも鮮やかに覚えている。雨の音の他、もの音一つ聞こえない。いや、正確に言うなら、ヒガラの地鳴きくらいしていたかもしれないが、とにかく気の遠くなりそうな静けさだった。都会の騒々しさから抜け出してきた私たちには、その高原のすがすがしさはかけがえもなく尊いもののようで、雨が降っていることすらさほど気にならなかったし、かえって、私たちに落ち着きを与えてくれたように思う。

 その高原は、針葉樹は茂ってはいたが、牧場やスキー場になっている草原がそこかしこにあった。その上、流行りのテニスコートすらいくつかあったが、もはや秋となっては、人影もほとんどない。その誰もいないような草原は、思いもかけぬ秋の花々に彩られていたのだった。群生してゆれているヤナギランは、もう終わりに近かったが、鮮やかなピンクの花はそれほど色あせてもいない。マツムシソウもあちこちで頭をかしげている。私はこの花が大好きだった。まだ幼かった頃、同じ信州の霧ヶ峰で、背丈ほどもあるようなマツムシソウの中をかけまわった記憶が、今でも生き続けていた。その上品な藤色は、秋の草原を彩るのに最もふさわしいと思う。他に何が咲いていただろうか。オミナエシ、アザミ、ノコギリソウ、ワレモコウ……。

 私たちは、霧雨の降る中、外に出た。あたりは一面霧にかすんでいる。どこに行くというあてもなく、湿った落葉を踏みしめながら、スキー場へと足を向けた。探鳥のために持ってきた双眼鏡も、この霧では何の役にも立たない。そればかりか、鳥の声といったら、林のあたりから、ヒガラか何かの小声がとぎれとぎれにしている位だ。テニスコートの脇を抜けると、スキー場の下に出た。踏みあとは小さな川となって雨水が流れ出ている。その流れを飛び越しながら、上へつづく草の中の小路をたどっていった。

 斜面に広がる、いくぶん草丈の低い草原は、そこに咲く花の色も、また葉の色も秋の色をしている。ミルク色に漂う霧が、それをより一層冷たく見せている。そして足元には、あの濃青紫のリンドウの花が、いくつも咲いていた。こんなにたくさんのリンドウを見るのは、ずいぶん久しぶりのことではなかろうか。濃い霧の中を、足元に気を配りながら、どれくらいのリンドウを見ただろう。そして、斜面の中腹あたりまで登った頃、私はそのリンドウの花陰に、真赤な、というより、もう熟れすぎた木の実のようにいくらか黒ずんだ赤いものを見つけた。それは、水滴をしたたらせもう破れそうになった蜘蛛の網に、じっとして動こうともしない。

 成熟したアカオニグモだった。気味の悪いほどの赤く大きい腹部には、真白な斑点がちらばっている。その壊れかけた網や、腹部の成熟しきって黒ずんだ赤色は、この蜘蛛の命がつきるのも間もないことを物語っていた。

 自然の中での、アカオニグモとの初めての出会いだった。本州の高原や、北海道の草原には、どこにでもいるありふれた蜘蛛ではあったが、今まで見たことがなかったのは、この季節にこういう高原に来ることがほとんどなかったからに違いない。ひどく美しい蜘蛛であった。が、その濃すぎる赤は、まわりの静けさにとけこみ、美しさより先に秋の寂しさを漂わせていた。気をつけてあたりを見回すと、ひとつ、ふたつ……と、いくつもの赤い蜘蛛が、霧に濡れた草の中でうずくまっているのだった。

 私がこの蜘蛛を初めて目にしたのは、それよりもさらに四年ほど前だったと思う。それは、大学の生物部の部室だった。秋の尾瀬から帰ってきたというある先輩が、フイルムケースの中から、手のひらにころりと出して見せたのが、アカオニグモだった。それは脚をちぢめて丸まり、ほとんど身動きすらしなかったが、私は何と美しい蜘蛛だろうかと見入ったものであった。

 しかし、高原の冷たい葉陰で、真赤に老熟してたたずんでいるこの蜘蛛を目の当たりにしたとき、私は、散っていく紅葉のような、はかない存在に、驚きにも似たものを感じたのだった。冷気の漂いはじめた、誰もいない高原で、この小さな命たちは熟れた木の実のように、土にかえっていくのだろう。

               *

 私は、あのリンドウの中の赤い蜘蛛のことを思いながらスキー場尾の斜面を登っていた。北海道の草原は信州のそれと違い、大きな蕗が他の草を押しのけるかのように葉を広げている。信州の高原が概して草丈の低い、おだやかさを持った草原であったのに比べ、そのぼうぼうと伸びた茎は、草原を粗雑なものに見せた。が、どちらも、もう枯れゆく運命にある秋の草原であることに変わりはなかった。注意深く足元を見やりながら、しばらく登った頃、私は蕗の葉の間に、一目でそれとわかる網を見つけた。しかし、網はいく本もの糸が切れ、もはや網とはいえないほどいたんでいる。その上、小さな虫がいくつもへばりつき、もう何日もそのままになっているようだ。葉の裏に造られた住居にも、主の姿はない。やはり遅かったのだろうか。

 私はこの草原で、あの赤鬼に会いたかった。勿論、この草原でなくても探せばどこにでもいるはずだが、それでもこの草原で会いたいと思ったのは、ここが、あの信州の高原によく似ているという意識が、心のどこかに働いていたからにちがいない。あの蜘蛛は、潮風がなでて通る海辺の草原よりも、またちっぽけな道端の草地よりも、しっとりと寂しい高原の方がふさわしい気がした。

 さらに登っていった。同じような網がひとつ、ふたつ、だがどれも網の主はすでにいない。やっぱり……。北海道の秋は信州より一足も二足も早かったのだ。やがて踏みわけ道はもはや道ではなくなり、私はバサバサと草を押し分けた。いくども帰ろうか、と思いながらも、なぜかしら足は枯れ草を押し分けていた。

 私があの赤い、それこそ、今にもこぼれ落ちそうな赤鬼を見つけたのは、五つ目くらいの網だったろうか。もう用はなさないのではないかと思えるボロ網の糸をたどると、それはくるりと葉を巻いた中に、小さくうずくまっていた。

 やっぱり生きていてくれたのだった。ひときわ大きくふくらんだ腹部は、見事な濃赤色に染まり、生きているのかと疑うほど、じっとしている。この蜘蛛にはもはや網を直す必要もないし、その力もないことを私はよく知っていた。

 いつのまにか、だいぶ傾いたやわらかな陽射しが草原に落ちていた。心のうちで期待していた、ほのかな赤鬼との再会の喜びは、いつか信州で出会った赤鬼の思い出と重なり、人知れずこぼれ落ちていく小さな命の哀しさへと変わっていた。

 涼風がたってきた。私は草原にくるりと背を向けると、一気に草原をかけおりた。

 

*父が亡くなってから墓参りを兼ねて、懐かしい霧ヶ峰に母と通うようになった。父の墓は霧ヶ峰からの湧水が流れ下る角間川のほとりの地蔵寺にある。通うといっても、年に一度、8月下旬に開かれる蜘蛛学会の大会に合わせて帰省したときだった。その頃は父の命日にも近かった。そんなわけで、8月下旬から9月の初旬にかけてが霧ヶ峰に行く時期になった。
 初秋の霧ヶ峰ではマツムシソウとアカオニグモがそこここで迎えてくれた。ただ、この時期のアカオニグモはまだきれいな赤色になっておらず、くすんだ黄緑にほのかに赤色が差しているような微妙な色をしている。信州の高原にはマツムシソウとアカオニグモがよく似合うといつも思う。
 その母も他界して、霧ヶ峰もちょっぴり遠い存在になったが、霧ヶ峰の光景は私の心の中にずっと生き続けている。ただし、この小文に出てくる信州の高原は霧ヶ峰ではなく、湯の丸高原である。

2017年1月15日 (日)

シギと私

*少しずつ所持品の整理をしているのだけれど、ずっと前に町民文芸誌に書いたエッセイが出てきた。読み返してみると何とも気恥かしいのだが、過去の記録のつもりでブログにも残しておこうかという気になった。 

     ********************

シギと私 (1982年)

 鳥を見はじめてから、かれこれ十五年がたつ。何げなく歳月をふり返り、あまりの時の速さにとまどいすら感じる。今でいえば「バード・ウオッチング」だが、十五年前はそんな言葉もない上、鳥を見て楽しむなどということは多くの人の常識的感覚からはずれてさえいた。

 私が「鳥」というものについて語る時、忘れられない場所がある。今では、そこは赤や白に塗りたてられたマンションや住宅が建ち並び、人の車の往きかうベッドタウンと化している。かつて、日曜、祭日ともなれば多くの野鳥ファンがゴム長ぐつにリュックを背負い、首からは双眼鏡をさげ、肩に望遠鏡をつけた三脚をかついだいでたちで、この地を歩きまわったことは、遠い昔に置き去られた幻のようだ。

 千葉県の江戸川放水路から江戸川までの海岸一帯は「新浜(しんはま)」と呼ばれ、日本でも有数の渡り鳥の渡来地として知られていた。遠浅の海は、潮が引くと三キロにも四キロにもわたって干潟が現われ、汀線すら定かでない。そこには、何百、何千というシギやチドリそしてガンやカモが群がっていたという。東京湾のまん中のことである。

 私が初めて新浜を訪れたのは、小学校六年か中学一年の頃だったと思う。その頃はまだ地下鉄東西線が開通しておらず、総武線の本八幡駅まで行き、そこからバスで江戸川放水路の土手に出た記憶がある。

 ところで、新浜と言えば、自然保護、干潟保護運動の発祥の地とも言える所であった。野鳥関係者が中心となって湿地や干潟の埋め立てに反対する活発な運動を起こし、人々の注目を集めた所である。その頃の新聞には、しばしばこの運動の記事が載った。京葉臨海工業地帯の造成により、東京湾は次々と埋め立てられることになり、新浜でも海の汚染や地盤沈下で農漁業にあきらめをつけた人々は、この運動にひどく反発した。その運動の結果、一隅に野鳥のための保護区が設けられ、まわりは埋め立てられることになったのである。勿論、保護区を造るための運動ではなかったのだが、それが成り行きだった。私が初めて新浜を訪れた頃というのも、この保護運動が行われているさ中だった。とはいうものの、すでに埋め立てのためのトラックが行きかい、水田の脇に建つ農具小屋の壁いっぱいに、保護運動に反対する激しい言葉が白ペンキで書かれていたのを鮮明に覚えている。「野鳥を殺せ!」などという言葉のもつ意味が当時の私にはよく理解できず、何かひどく恐ろしいものに思えたものだ。

 この頃、私は二回、この新浜の地を訪れた。いずれも国立科学博物館主催の「探鳥会」に参加してであった。一度は、歩きはじめてまもなくひどい雨と風に見舞われ、橋の下でびしょぬれになって雨宿りをし、ろくに鳥も見ずに帰ることになった。もう一度は、前回とはうって変わっての好天に恵まれたのだが、日陰もない砂漠のような埋立地ではジリジリと太陽が照りつけ、おまけにダンプカーが砂ぼこりをけちらし、本当にこんな所に鳥がいるのだろうか、と思わせた。事実、鳥影はまばらで群がるシギやチドリを見た記憶はない。この日は、特に鳥の少ない日だったらしい。ただ荒涼とした埋立地の水たまりに一羽の若いツバメチドリがいて、その珍しい鳥をみんなで眺めた。ツバメチドリはヒラヒラと舞っては降りる動作をくり返し、それは何とも寂しげだった。

 これで、私の干潟の鳥に対する興味は、半減どころかほとんどなくなってしまった。それからというもの、私は「探鳥会」と言えば高尾山ばかり歩き、キビタキやオオルリの美しい声や姿に夢中になり、また識別に夢中になった。私にとって、「鳥」とは山野の小鳥たちのことだった。

 私が再び新浜を訪れたのは、それから六年位たった大学一年の時だった。家を出るまではあまり乗り気ではなかったが、たまには変わった所に行くのもいいと思ったのだろう。私は友人と二人で、一台の望遠鏡を持って東西線「行徳駅」に降りたった。当時の行徳は駅前といっても何もなく、アシや帰化植物のおい茂った埋立地に碁盤の目のような道がついているだけだった。海岸までは、いたる所に水たまりがあって葦が茂り、その葦の根元付近を探すと必ずといっていいほど赤い嘴のバンが見え隠れしていた。どこの葦原からも、オオヨシキリの騒がしい声が風に乗ってくる。

 遠浅の干潟はすっかり埋め立てられ、赤くさびた浚渫のサンドパイプが無残に放置されている。そんな中で、渡り鳥たちはちょっと開けた泥地の水たまりに群がっていた。黒い夏羽になったツルシギ、アオアシシギ、シロチドリ、メダイチドリ、それらが何十羽となく水辺で餌をとっていたり、背中に頭を突っ込んで眠っていたりするのだった。これがシギの群れとの初めての出会いだった。山野の鳥たちのような華やかさは一つもない。静かな、それでいて目を見据えてしまう光景だ。

 頭上では、しきりにキリッキリッとコアジサシが鳴いている。そのたびに私は空を見上げ、白く光る鳥を追った。蓮池にはカイツブリやオオバンが浮かんでいる。江戸川放水路の岸の小さな干潟には驚くほど長い嘴のダイシャクシギや、ほんのりと紅味を帯びてきたオオソリハシシギが並んでいた。何もかもが新しい光景、新しい世界だった。様々な鳥たちは勿論のこと、潮の匂いや葦の葉擦れの音さえも私には新鮮だった。

 私が新浜通いを始めたのは、それからだった。「通い」といっても、毎週のように行けるわけではない。大学のクラブの探鳥会にも参加するので、新浜へは月に一回から三回位だったろうか。私の家から行徳駅までは、たっぷり二時間かかった。渡り鳥、特にシギやチドリというのは春と秋にここを通過するだけのものが大半なのだが、鳥が多かろうが少なかろうが、夏であろうが冬であろうが足を運んだ。

 今でこそ言うが、水辺の鳥、とりわけシギやチドリとは素晴らしく魅力的な鳥である。体つき、しぐさ、色、鳴き声、群れの美しさ・・・。それは、甚だ感覚的なものだ。

 シギの大半はシベリアやアラスカ、北欧といった北の果ての地で繁殖する。一年のほとんどを雪と氷にとざされたようなツンドラ地帯。そこでは、氷がとけているのは七月~八月にかけての二ヶ月足らずの間で、大地はこの息をつくほどの短い間に、長い昼の助けをかり、生き返ったように花や小さな虫たちの世界となる。彼らはこのほんのわずかな時期に、繁殖という大仕事をやりとげるように適応してきたのである。二ヶ月の間に卵を産み、子を育て、若鳥たちは渡りのための飛翔力をつけなければならない。そして、秋風のたつ頃、シギたちは再び南を目指す。あるものは日本の小さな干潟で冬を越すが、多くの鳥たちはさらに南へと渡っていく。彼らの姿は、そのきびしい生活環境にむだなく適応していったような気がする。まっ白い翼をひるがえして群れ飛ぶ姿、夜空を抜けていくすきとおった声、そしてピンと張った長い翼も、渡りという宿命に裏打ちされているのだ。

 学生時代、私は折あるごとに全国各地の干潟や湿地を訪れた。そこには様々な水辺があり、様々な水辺の鳥の生活があった。

 北海道のシギたちは、緑の中にちらばっている。干潟というより湿地に棲み、ちらちらゆれる葉陰の向こうで、何とも寂しげなシギたちだ。でも、それは繁殖地の風景に似ているのかも知れない。ちょっぴり冷たい風と、いくぶん傾いた陽ざしの中で、故郷のなごりにひたっているようにも見える。

 九州、有明海は、今日日本に残る最も大きな干潟だ。それは、深々とした泥の堆積であり、北国の湿地の面影は何もない。何キロメートルにも及ぶブヨブヨとした鉛色の干潟にごまつぶのようにシギが群れている。その向こうにノリヒビの竿がかすみ、ミサゴが遠くを舞っている。この広大な泥地は、彼らにとっては大切な休息地であり、越冬地でもある。

 それにしても、私にとっていちばん思い出深く、又好きなのは東京湾であり、新浜である。そこは足を運ぶたびに風景が変わった。アシ原は次々と消え、マンションや住宅が一つ、二つと増えていった。道路が舗装され、商店街が出来、駅前広場まで出来た。それと反比例して、ゴム長ぐつをはき、双眼鏡を首からさげて歩く人の姿は消えていった。でも、そこから鳥たちの新浜が全く消えてしまったわけではない。マンションの脇の小さなアシ原には、相変わらずオオヨシキリが棲みついていた。江戸川放水路のかたわらの、ほんの少し残された蓮田には、バンやカイツブリ、オオバンが迎えてくれたし、ピンクのすばらしく長い脚をしたセイタカシギに初めて出会ったのもここだった。私は、春になるときまって、ここにツルシギの声を聞きにきたものだ。そして、鳥たちの声をかすかに聞きながら、放水路の土手に寝ころんだ。

 何げなく、午後から新浜にやって来て、宮内庁御猟場の脇の水たまりで夕暮れまで鳥たちを眺めているのも好きだった。コサギやダイサギが御猟場のねぐらへと舞いもどるのを眺め、湿地にかすむシギたちを眺めるのだった。帰り道は、もうすっかり暗かった。

 

 たそがれが世界をおおっていた
 御猟場の森のふちが赤く赤く染まり
 白サギが黒サギに変わって消える
 もう何年も何年も昔から続いている光景
 変わったものは、まわりの景色と人の心……

 その御猟場のかたわらの小さな水たまり
 私の愛したちっぽけな水たまりのふちに腰かける
 シギたちは何も知らずに泥の中にくちばしをさしこむ
 私は静かにそれを見る

 本当は知っているのかもしれない
 自分たちをちっぽけな水たまりへと追いつめてしまったものを
 そして人々は忘れ去っていく
 そこが生き生きとした世界であったことを

 一日のなごりの陽ざしが水たまりをなでて通りすぎる
 シギたちは何も知らなかったかのように泥の中にくちばしをさしこむ
 私はだまってそれを見る

 誰が知っているというのだろう
 この闇の中に忘れ去られたものたちが
 今生きていることを
 そして大地をつついていることを
 私は黙って闇を見る

 その御猟場の前面には、今では野鳥のための保護区が出来、立派な野鳥観察舎が建っている。日曜ともなると、多くの人々がガラス張りの建物の中から、ものめずらしげに鳥たちを眺めていく。

 そこは、かつての広大な干潟とは比べものにならないような小さな小さな保護区ではあるが、そのふちにたたずみ鳥たちを見る時、私の中に初めてシギを見る喜びにひたったあの日の感動が、いつとはなしに甦ってくる。潮風の中で聞いた、さわやかな声までも。

(注)この随筆を書いてから、すでに三十年以上が過ぎた。その間、有明海の諫早湾は「ギロチン」と呼ばれる巨大な水門で仕切られ、あの広大な干潟は海に没して消えてしまった。何ということだろうと、今さらながら思う。
 新浜の江戸川放水路の傍らにあった蓮田も、もちろん今はない。2007年に友人と久々に新浜の保護区を訪れたのだが、行徳駅からの道のりに昔の面影はなく、商店や住宅のひしめくそこは全くの別世界だった。それでも保護区は管理人の蓮尾夫妻の手によって自然の再生が図られ守られていた。
 なお、野鳥観察舎は、耐震性に問題があるという理由で一年ほど前から閉館を強いられている。再開されることを願って止まない。

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