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2016年8月

2016年8月20日 (土)

競争の弊害

 私はスポーツにはとんと興味がないし、オリンピックも関心がない。オリンピックがすでに商業主義になっていることもあるが、メダルや勝敗にばかりこだわることにどこかうんざりとした気持ちがある。テレビも見ていないからどうでもいいといえばそうなのだけれど、新聞は毎日、トップでオリンピックでの選手の活躍ばかり伝えているので、興味がなくても目にはいってくる。

 そんな中で飛び込んできたのが、レスリングで銀メダルをとった吉田沙保里選手が「金メダルが取れなくて、ごめんなさい」と泣いて謝る痛々しい姿。彼女の謝罪には、日本の代表として競技に臨む選手の重圧がそのまま現れている。彼女の謝罪に違和感を覚えた人は多いと思うが、こうした無言の圧力こそ無用なものだし、私がスポーツに関心を持てない理由のひとつだ。

 吉田選手は謝る必要などまったくない。彼女は日本のためにレスリングをやっているわけではないし、彼女を応援している人のためにやっているわけでもない。最善を尽くしたのだからそれでいいではないか。今回は金メダルをとれなかったが、次もダメだとは限らないのだし、自分の期待がかなわなかったからといって他人がとやかくいうことではない。王者といわれる実力の人でも、永遠に王者でいることはできないし、いつかは後進に道を譲らねばならない。第三者が勝手に期待をかけてしまうこと自体が間違いだと言わざるをえない。

 日本では、中学や高校の部活動においても勝敗にこだわる教育がなされている。とにかく勝つことが目的になっている感がある。これは何もスポーツに限らない。文化系の部活でも、コンクール、コンテストなどで競うことは少なくない。もちろん、試合において勝利を目指すことを否定はしないのだけれど、なぜそこまで競い、勝敗は順位に拘るのかと、私は不思議でならない。

 たとえば写真甲子園という高校生の写真選手権大会がある。新聞に掲載された入選写真を見ていつも思うのは、結局「選ばれること」を意識した写真になってしまうということだ。はじめから入選を意識するので、「撮りたい写真」ではなく審査員の目を意識した「入選するための写真」を撮ることに必死になる。写真のような芸術は、本来、評価されるために撮るものではないし競うものではないと思うのだけれど、なぜそこまで競いたいのか私には理解しがたい。

 勝敗にこだわり、子ども達を追いたてれば無言の圧力になってしまうし、ときに本来の目的や楽しさから外れ、他者の期待を満たすことが目的になりかねない。競争も圧力もマイナス効果しか生まないと思う。

2016年8月13日 (土)

受刑者の人権

 今日の北海道新聞の「各自核論」に、芹沢一也さんによる興味深い論考が掲載されていた。ノルウェーの受刑者の人権に関する裁判所の判決のことだ。以下に内容を要約して紹介したい。

 2011年にノルウェーで、オスロの政府庁舎を爆破して8人を死亡させた後、ウトヤ島で銃を乱射して69人を殺害するという連続テロ事件があった。犯人のアンネシュ・ブレイビク受刑者は最高刑の禁固21年の判決が言い渡され、厳重な警備下にある刑務所で他の受刑者とは隔離されて収監されていた。
 ブレイビクは生活用、学習用、トレーニング用の三つの部屋、テレビやテレビゲーム機(インターネットに繋がっていない)、料理や洗濯のできる設備を用意され、オスロ大学への通信制による入学も許可されていた。
 しかし、ブレイビクは隔離収監は人権侵害であるとして処遇の改善を求めて裁判を起こし、裁判所は「欧州人権条約第3条(拷問または非人道的な待遇・刑罰の禁止)に違反する「非人間的で屈辱的な処遇、処罰」であるとして、ブレイビクの訴えを一部認める判決を出した。
 ノルウェーでは、犯罪は特別の個人の問題ではなく社会の問題であり、刑務所は社会復帰のためのリハビリの場であるとの思想がある。たとえテロリストや殺人犯であっても、それは変わらない。
 「テロは許さない」というノルウェーの人たちは、暴力に対して怒りや憎しみをぶつけるのではなく、愛と思いやりで対峙する戦い方を選んだのである。したがってノルウェーの裁判所が示した見解は、ヨーロッパ・リベラルの甘さなどではなく、「テロには決して屈しない」という強靭な意思こそを示したものである。

 ノルウェーは犯罪者に非常に優しいということは以前に「ニルス・クリスティの言葉」ででも取り上げたが、ノルウェーと日本では刑罰の重さだけではなく、受刑者の待遇も天と地ほどの差がある。それは犯罪者であっても人間として尊重し、社会復帰を目指すという考え方が基本になっているからに他ならない。人は社会との関わりなしには生きていけないし、犯罪もまた犯罪者個人だけの問題では決してない。犯罪者とて私たちと同じ人間であり、非人間的に扱ったなら社会復帰の妨げにしかならないということなのだろう。犯罪者の社会復帰に必要なのは、彼らを罰によって苦しめることではなく、愛と優しさで人間らしさを取り戻すことなのだ。この考えに、私は深く共感する。

 芹沢さんの論考の中にウトヤ島の生存者の「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます」という言葉が出てくる。

 「暴力が暴力を生み、憎悪が憎悪を生む」ということは、私たちの日常生活の中にいくらでもある。自分が誰かから暴力を振るわれたことに対し、相手への報復に執念を燃やしたら、たちまち闘争が始まり収拾がつかなくなる。暴力に対して憎しみで対峙したなら必ず暴力の連鎖、憎しみの連鎖がはじまる。紛争はあくまでも話し合いや裁判などで解決して憎しみの連鎖を絶たねばならない。犯罪者に対しても人間らしい生活を提供し、愛と思いやりによって人間としての尊厳を取り戻すことこそ更生と社会復帰につながるし、憎しみの連鎖を絶つことにもつながるだろう。

 ところが、日本では凶悪な殺人事件が起きるたびに、犯人を極刑にしろとの大合唱が始まる。日本人の多くは、犯罪は犯罪者個人の責任でしかないと考え、暴力に対して徹底的に憎しみをぶつけ、犯罪者を厳しく処罰しなければならないと信じているようだ。そこには「自分は決して犯罪者にはならない」「犯罪者はすべて悪人」という驕りがあるのだろうし、どんな人でも「人は人として対等であるべき」という人権意識が欠落しているとしか思えない。

 暴力に対して憎しみだけをぶつける社会は、必然的に暴力的な社会になる。社会全体が殺伐とし、誰もが対等の人間であることが忘れ去られる。そこに平和や幸福はない。平和憲法を守りたいという人は多いのに、なぜこれほどにまで憎しみが蔓延してしまうのだろう。

 暴力のない平和な社会を望むのであれば、ノルウェーの人たちの理念こそ見習うべきではなかろうか。

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