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2016年3月 5日 (土)

何度でも再読したいアドラー心理学の書「幸せになる勇気」

 「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著 ダイアモンド社)の続編である「幸せになる勇気」が発売されたのでさっそく購入した。前編の終わりで青年は哲人の説明に納得し、アドラー心理学を受け入れる。そしてアドラーの教えを実行しようと教師になるのだが、ほめもぜず叱りもしない手法を実践しても生徒は荒れるばかり。結局、青年はアドラー心理学など机上の空論にすぎないと息巻いて哲人を論破しようと再訪する。そこでの青年と哲人の対話がこの後編の物語だ。この展開からすでに読者は引き込まれる。

 前編と同様、哲人に真正面から突っ込んでいく青年の大げさな発言にちょっと吹き出しながらも、とても面白く読了した。対談形式でアドラー心理学を説明するというこの2冊の本は、古賀さんの「読ませる」文章が読者を引きつけずにいられない。彼の文才なのだろう。しかし、もちろんそれだけではない。本書を読み進めていくうちに、哲人の語るアドラー心理学は実に奥が深いことが見えてくる。タイトルにある「幸せになる勇気」の結論は実にシンプルで、決断さえすれば誰もが実行できる。ただし、その決断そのものが困難であることも思い知らされることになる。

 一般に続編が出される本では前編より後編の方が魅力に欠けるという印象が私にはあるのだが、本書に関してはどちらも優れたアドラー心理学の解説書だ。前編がアドラー心理学の基本的な部分を分かりやすく解説しているのに対し、後編はより深く具体的に掘り下げていく。そして後編にこそ幸せになるための生き方が明確に示されているといってもいいだろう。また、前編の「嫌われる勇気」というタイトルは、他者に嫌われることを極端に気にしている人、すなわち本来ならこの本を必要としている人が手にとることを躊躇させる響きがあるが、「幸せになる勇気」にはそういう抵抗がないのもいい。「嫌われる勇気」を手にとる勇気がなかった人も「幸せになる勇気」なら抵抗がなく手にとれるだろうし、本書を読み通すことができるなら前編を読みたくなるかもしれない。

 さて、本書のはじめのほうにカウンセリングでつかう三角柱のことが出てくる。三角柱の一面には「悪いのはあの人」と書かれ、もう一つの面には「かわいそうなわたし」と書かれているのだが、誰かと話しをしたり相談ごとを持ちかけるときにこの二つしか語らない人が多いという。

 そう言われてみればたしかにそういう人は多い。たとえばツイッターのタイムラインを見ていてもそうだ。他人の批判、批評、悪口ばかり言っている人は「悪いのはあの人」の話しをしているのであり、自分のことで愚痴をこぼしたり自分は被害者であると主張するひとは「かわいそうなわたし」の話しをしているのだ。

 では、三角柱の残る一面には何と書いてあるのか。そこに書かれているのは「これからどうするか」である。そして「悪いのはあの人」の話しや「かわいそうなわたし」の話しをしていても自分の抱えている問題は何も解決しないと哲人は言う。たしかにその通りだ。自分の抱えている問題を解決するためには「これからどうするか」を考えるしかない。ところが多くのカウンセリングにおいてクライアント(相談者)がカウンセラーに話そうとするのは「悪いのはあの人」と「かわいそうなわたし」なのだという。ここがアドラー心理学に基づくカウンセリングとそうではないカウンセリングの大きな違いだろう。

 もちろんカウンセリングだけではなく、これは私たちの日常生活における会話や考え方においてもきわめて重要なことだ。気に入らない人の悪口を言ったり、政治に対する不満をぶちまけていてもそれだけでは何も解決しない。他者の意見や政治などに関し自分の考えを述べることは必要だと思うが、それだけで問題が解決するわけではない。問題解決のためにはこれからどうしたらいいかを考え行動するしかない。

 教師になって、アドラーの教えを実践しようとした青年は、生徒をほめもせず叱りもしなかった。その結果、教室は荒れ、青年はアドラーの教えが間違いであると考えて叱ったりほめたりする方針に転換した。これに対し、哲人は「あなたは生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。怒りを武器に、罵倒という名の銃を構え、権威の刃を突きつけて。それは教育者として未熟な、また愚かな態度なのです」(114ページ)と喝破する。

 なぜ怒ったり叱ったりしてはいけないのか。哲人はこう説明する。

 叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働きます。
 これは大人たちが思っている以上に大きな問題です。あなたは未熟な人間を「尊敬」することができますか? あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか? 怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。(116ページ)

 誰もが叱られるという経験を持っていると思うが、叱責されたときの心理を実に的確に説明している。私も小学生のとき率直に疑問に思ったことを口にしたことが担任の教師の怒りを買ったようで、授業中に晒し物のように叱責されたことがあるのだが、それ以来この教師には嫌悪感しか抱かなかった。こういう記憶は決して忘れることができないのだが、あのときの頭ごなしの教師の叱責は私にとって侮辱であり屈辱以外の何物でもなかった。その教師は、勉強ができない児童への罰も平気で行った。別の教師だが、嫌いな給食であっても半分は食べないと教室から出さないという教師がいて、吐きそうな思いをして無理矢理食べされられた。これも罰であり強制である。叱責や罰が信頼関係を崩壊させるのは間違いない。

 哲人は暴力についてこんなことも言っている。「暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません」 ネットに溢れる罵詈雑言、誹謗中傷、侮辱、嘲笑、個人情報晒しなどという攻撃は、言葉によるコミュニケーションでは勝ち目がないと思った人が相手を屈服させるための暴力でしかない。しかし、このような幼稚な暴力をむき出しにする人が何と多いことか・・・。

 もう一つの褒賞について、哲人は次のように説明する。

 子どもたちを競争原理のなかに置き、他者と競うことに駆り立てたとき、なにが起こると思いますか? ・・・・・・競争相手とは、すなわち「敵」です。ほどなく子どもたちは、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。(137ページ)

 こちらの記事にも書いたが、娘の通っていた小学校のある教師はまさに賞罰教育を方針としていた。その教師は地方の小規模校での勤務を希望し教頭や校長への昇進も目指さなかった。一部の児童や親の間では「名物教師」として慕われていたらしい。私はこうした噂から当初は子どもたちの主体性を重んじる教師なのだろうとばかり思った。しかし、実際に目の当たりにした教育方針は私には理解しがたいものだった。

 その一つが子ども達の絵画、作文、詩、書道などの作品をことあるごとにコンクールに応募しては入賞を目指すというやり方だった。数打ちゃ当たる、とばかり手当たり次第に応募していたようだった。入賞すれば自信がついてやる気が起きるというのだ。やる気を起こすことが目的?! しかも子どもたちが自発的に応募するわけではない。なんと不純な目的だろう・・・私は直感でおかしいと思った。

 もう一つは、体育の競技でタイムを計って順位づけするという手法。授業中に競技大会で良い成績をとるための訓練をしていたのだ。しかも学内の競技会では上位の子にトロフィーを渡す。1位が最も大きなトロフィーで、順位が下がるに従って小さくなる。まさに褒賞と競争の教育が信念だった。さらに、無謀とも思える学校行事の企画があったのだが、そうした行事はどうみても児童の立場にたって考えたというのではなく教師の思いや野望による企画にしか見えなかった。 そうした行事の目的は「達成感を得ること」だと説明されたが、これもコンクールへの応募と同じ匂いを感じた。私は保護者会やPTAで何度となく意見を述べたが、教師からは反論もしくはスルーされたし、一部の親からは敵対視された。競争教育に抵抗がない親が多いことにも驚いた。

 小さな子どもにとって学校という閉鎖空間での支配的な教師の存在は絶大である。そのような教師にたてついたところで罰を与えられるだけだろう。かといって教師との関係をうまく築くことができなければ居場所を失うに等しく、不満を抱いても我慢して言いなりになるほかない。教師のやり方がおかしいと感じた子どもは葛藤を抱え、教師も学校も嫌いになるに違いない。もちろん信頼関係も結べない。思えば、私の子ども時代もそうだった。

 子どもがライフスタイルを決定すると言われる小学校の低学年の時期にこのような競争教育にさらされたなら、子どもたちは簡単に「他者は敵」というライフスタイルを身につけてしまうだろう。実際、何事につけても「勝った!」「負けた!」と競争で考える子どもたちが複数いた。哲人は、子ども達が最初に「交友」を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所は学校だと指摘するが、その学校で賞罰教育や競争教育が行われていたなら、共同体感覚が育つとは思えない。

 この学校に限らず、子ども達に賞罰を与え、競争に追い込んでいる学校は普通だと思う。そう思うとき、日本の子ども達の置かれた環境は実に苛酷だと思わざるを得ない。いじめがいつまでもなくならないのも、こうした環境と無関係ではないだろう。

 本書のクライマックスは、何といっても最後に語られる「愛」についてだ。そして、この本のテーマでもある「幸せになる勇気」もそこに集約される。ここで自立の話しが出てくるのだが、自立は自己中心性からの脱却だという主張はもっともだ。そして哲人は自己中心性からの脱却に必要なのが愛だと説く。さらに愛が共同体感覚にたどりつき、ひいては人類全体にまで影響を及ぼすというのがアドラーの考え方だ。クライマックスである愛についての具体的説明は本書に譲るが、一つだけ気になったことを書きとめておきたい。

 哲人はアドラーの語る愛について「彼が一貫して説き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち『他者を愛する技術』だったのです」と言う(231ページ)。私はこの「愛の技術」という言葉にはどうしても違和感を覚えてしまう。

 私がこれまで知り合った人たちの中には、ごく少数ではあるがアドラー心理学を学んでもいないのにアドラーの思想を自然に実践しているように思える人もいる。マザー・テレサなども恐らくそうなのだろう。彼ら、彼女らはアドラーのように他者の心理を探り研究した末にそういう生き方を選択してきたとは思えないし、愛する技術を習得した結果他者を愛せるようになったということでもたぶんない。

 それについては私はこう思う。つまり、無意識にアドラー心理学を実践している人たちはおそらく自分の良心に誠実に行動しているのではないかと。自分がやられたら嫌だと思うことは他人にはやってはならないということは子どもでも理解できるし、ごく自然な心理だろう。こういう感覚が良心だと私は思う。ところがこれを頭では理解していても実践しようとせず、仕返しを企てる人がいる。良心よりも利己性が先に立ち、報復によって相手を征服しようとするのだ。子どもの頃のままの自己中で幼稚なライフスタイルから抜け出せないのだろう。しかし、このような人の中にも間違いなく良心はあると私は考える。

 だから、「相手を屈服させたい」と思ってしまう人は、いまいちど自分の良心に問いかけ良心に誠実に生きようと決断することでアドラーの教えを実践できるのではなかろうか。「愛は技術」と考えるより、良心を尊重できるか否かという心の問題だと捉えるほうが理解しやすいように思う。もちろん、長年つかいつづけた利己的なライフスタイルを捨てて良心に問いかけるという決断をすることが困難であることは言うまでもないが。

 私は日頃、いわゆるベストセラーになる本はあまり読まない。新聞に大きな広告が出ている本などは、それだけで買う気が失せることもしばしばだ。しかし、「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は一人でも多くの人が手に取り、何度でも読み返して理解する努力をし、まわりの人に広めてほしいと思う本である。なぜなら、アドラー心理学は人間のもっとも根源的なことを問うていると共に、平和の実現にもつながると思うからだ。アドラーは、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えた人なのだという。アドラー心理学を理解し広めることは民主的で平和な社会の構築へとつながるにちがいない。

【関連記事】
アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その1 
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コメント

松田さま
先日他の記事にコメントさせていただいたホンダです。
松田さまの記事を拝見しつつ、アドラー関連を検索していたら、少々衝撃的なものを発見しました。

サイト「野田俊作の補正項」の2016年3月31日「アメリカからの手紙」です。アドラーブームの火付け役となったあの本に対して、否定的な内容です。
http://jalsha.cside8.com/diary/2016/03/31.html


この内容についてコメントする資格は私には無いと思うのでそれは置いておくとして、岸見さん(私はすごく尊敬しています)の本を色々と読んできて、個人的に疑問に思っていることがあります。

少し長くなりそうで申し訳ないのですが、一番大切なことである「他者の心で考える」を実践するには、岸見さんの本を読むだけではなかなか理解するまでには至らなかった中で、最近読んだ、Dカーネギー氏の「人を動かす」に、「他者の心で考える」行動が具体的に書かれており、これだ!と思いました。内容としては、少し「他者を操作しよう」という意図が見えるようなところが気になりますが、基本的には「他者の承認欲求を満たそう。表面だけではなく、心からそうしよう。」というものです。

と、ここにきて、一つの大きな疑問に当たりました。それは、自分は「他者からの承認は求めない」でいいのだという事は理解しているが、一方で、他者の心で考える=他者は承認欲求を求めている場合が多い=他者の承認欲求を満たすということになると、それは大きな偽善や欺瞞になるのではないか?ということです。

野田さんの日記を見ていると、とても個性的な人のようですね。野田さんに師事すれば、また違った角度から勉強できるのかなとも思いました。

p.s.重ねてのコメント投稿及び長文、失礼しました。

ホンダさん

情報ありがとうございました。私も野田さんはかなり個性的な方だと感じています。

野田さんによれば岸見さんの本は岸見流解釈によるアドラー心理学であり、正統とはいいがたいということなのでしょう。

私は野田さんの記事を読んで以下のようなことを感じました。

①野田さんは記事の中で書名も著者名も書いていませんが、内容から岸見さんの「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」を指していることは分かります。少なくとも野田さんは、私がリンクさせたアドラーギルドのサイトにおいて「嫌われる勇気」は「良い本」だと評価しています。
 http://adler.cside.com/magazine/backnumber/news_1409_1.html 

良書だと認めておいて、後で正統ではないと批判されるのは理解に苦しみます。

②野田さんの記事からだけでは、岸見さんがアドラー心理学を正しく理解しているか否かは判断できません。岸見さんの本はアドラー心理学の普及、啓発に主眼を置いている一般書であり、アドラー心理学を深く理解するための専門書ではありません。一般書であるがゆえに、理解しやすいように独自解釈を前面に出している可能性もあります。そもそもあのような一般書において、明らかに間違った解釈をしているならともかく独自解釈で大きな弊害があるのかどうかということも私にはよく分かりません。

③正統か否かという点については門外漢がどうこういうことではありませんが、野田さん、あるいは他のアドラー心理学会のメンバーが岸見さんの本に対してそのような意見を持っているのであれば、このような形で公の場で批判するのではなく、まずは手紙やメールなど非公開の場で本人に自分の意見を伝えて意見交換をすべきことかと思います。それでも納得できないようであれば、きちんと書名や著者名を示した上で、どこがどう正統ではないのか、何が問題なのかを公の場(学会誌ではなく誰もが読める場)で具体的に説明してほしいと私は思います。少なくともこのような形で批判することは賛同できません。

台風が過ぎ去るのを待つとのことですが、ご自身のサイトであのような形で批判しているのですから、それではあまりに消極的ではないかと思います。野田さんにしても岸見さんにしても完璧な人間ではないでしょうし、アドラー心理学を学び普及を目指してきた者としてお互いに理解を深めあう努力をしていただきたいと私は思いました。岸見さんも、野田さんの意見に納得されるのであれば、増刷にあたって加筆修正することもできるでしょう。

承認欲求の件ですが、私は相手の立場に立って考えるということと、相手の承認欲求を満たすというのは別のことだと思います。相手が承認してもらうことを求めていたとしても、そのことを理解したうえで毅然とした対応をすることも必要ではないでしょうか。相手の承認欲求を満たそうとすれば共依存に陥ってしまうように思います。

>アドラー心理学は人間のもっとも根源的なことを問うていると共に、平和の実現にもつながると思うからだ。アドラーは、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えた人なのだという。アドラー心理学を理解し広めることは民主的で平和な社会の構築へとつながるにちがいない。

その御意見には大賛成です、アドラー心理学の目的は世界平和です、みんなが共同体感覚をもって協力的に生きることが出来れば、そうなるでしょう。ただしアドラー心理学(特に共同体感覚)は本では絶対身につかないので、この本をきっかけにみんながアドラー心理学を実際に学んで広がっていくと嫌われる勇気、幸せになる勇気の価値があるということだと思います。本を読んだだけで私はアドラー心理学を実践している!と言っている人は本当のアドラー心理学を理解していない、もしくは曲解しているので是非地域の自助グループを探して参加して欲しいですね。アドラーの時代からアドラー心理学は自助グループで学んでいたそうです。
P.S) 野田さんは確かにかなり個性的です、でもアドラー心理学を学ぶにはこの人以上はいないと思っています。

コメントありがとうございます。
本を読んだだけでは共同体感覚は身につかないというというご指摘は、実際に自助グループに参加してアドラー心理学を学んでいらっしゃる方の率直なご意見と受け止めました。共同体感覚というのは実際に体験しないと感覚として理解できないかもしれませんね。それくらいアドラー心理学は奥が深いものなのだと思います。

初めまして。
松田様の生地、興味深く拝見しております。
嫌われる勇気を読み、アドラー心理学に興味を持ち勉強したいと思っている者です。
アドラー心理学は奥が深く、また実践するのに難しい事も多く、分からない時があります。松田様のご意見を頂戴したいのですがよろしいでしょうか…
私は二人の子供がおりますが、彼らが作ってきた作品や、何かを頑張って成し遂げた時に、すごいね!と言ってしまう時があります。
これは、褒めることななると思うのですが、本心からすごいなぁと思って感動した時も、この言い方はダメなのでしょうか。
これは親子に限らず、友人や他の人間関係でもそうなのですが…
また、一時期、運動会で横一列に並びみんなでゴールをする幼稚園が話題になりました。
私は当時、アドラー心理学はまだまだ知りませんでしたので、何ともおかしな事をする幼稚園だな、と思っていましたが、今思えば、これも他者を仲間と思う心を育てる教育だとおもわれますか?
だとすれば、今の教育現場はまだまだ賞罰や、褒める叱るの場面の方が多すぎて、家庭だけで子供を尊敬し、勇気づけの関係を作っても、教育現場では賞罰、であれば、子供自身が混乱してしまうのではないか、と思っています。
ですが、私はアドラー心理学を実践し、叱らず褒めず、勇気づけをしていきたいとは思っているのですが…
長々と申し訳ございません。
また、アドラー心理学を学び始めた間もないので、理解していない部分が多く言葉に語弊があるかも分かりません。
松田様の個人的なご意見を頂けましたら幸いです。

あささん

私自身、アドラー心理学をきちんと学び深く理解しているわけではありません。そのことを前提としたうえで、私の意見を述べさせていただきます。

子どもさんの作品や努力などに対して「すごいね」と言ってしまうということですが、単に「すごい」というより、親から見て良いと感じたことを率直に感想として話せばよいのではないでしょうか。たとえば絵であれば「構図が大胆でいいね」とか「色づかいがセンスがあると思う」など。何かを頑張って成し遂げたときも、見守って応援いるということを伝えればよいかと思います。

運動会で一列に並んでみんなでゴールする幼稚園のことですが、その幼稚園が何を意図してそのようなことをするのか理由が分からないので何ともいえません。なお、個人的には、運動会でのゲーム感覚の競技は分かりますが、全員を走らせて順位をつける徒競走は何のためにやるのか私には理解できないし、賛同できません。

親が賞罰や競争を否定し勇気づけをしても、教育現場では正反対のことをやっているというのは実際にいろいろあると思います。子ども達は困惑してしまうでしょうね。ですから、親だけではなく教育者こそアドラー心理学を学んでほしいと思っています。競争教育、賞罰教育をする先生がいるのであれば、そのことで話し合いをなさるのもよいかと思います。

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