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2015年11月21日 (土)

辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」

 「金曜日」から出版された辺見庸著「1★9★3★7」を読み終えた。本書は、週刊金曜日に連載された「1★9★3★7『時間』はなぜ消されたのか」および「今の記憶の『墓をあばく』ことについて」を加筆修正して書籍化したものだ。

 私は辺見氏の本は全部ではないもののある程度は読んでいる。しかし、本書はこれまで読んだ本の中でももっとも強い衝撃を受けたと同時に、読み進むこと自体に多少なりとも苦痛を伴った。

 本書は、中国人の視線で日中戦争での日本軍による残虐な行為を描いた堀田善衛(ほったよしえ)の「時間」という小説をもとに、戦争における人間の獣性を問い、天皇の戦争責任を問い、今の日本の危機的状況を招いた原因を暴き、日本人の心に巣食う全体主義を批判し、これらのことを痛烈に読者に質す書である。タイトルの「1★9★3★7」は、日中戦争で日本軍が中国人に対して目を伏せたくなるような残虐行為、いわゆる南京大虐殺があった年を指している。

 私とて、南京大虐殺を知らないわけではない。日本兵による中国人捕虜や民間人の虐殺、強姦などの残虐行為については辺見氏の他の著作でも触れられているし、いわゆる「百人斬り」については本田勝一氏も指摘している。しかし、「時間」を基にした辺見氏の大虐殺の情景描写によって、私のこれまでの認識がいかに甘かったのかを思い知らされることになった。本書を読んでいる間中、その残虐きわまりない衝撃的な情景が脳裏に焼きつき、まさに悪夢のように頭にまとわりついた。

 そして、辺見氏自身が何度も本の中で自分自身に問い苦悩するのである。もし自分が日本兵の立場であればどう行動していたのか、上官の命令を拒否することができたのだろうかと。また辺見氏は日中戦争に従軍し、おそらく間違いなく拷問や虐殺などの残虐行為に加わったであろう自身の父親のことを引き合いにだし、自問自答する。自分自身が父親の立場であったらどうしたであろうか、戦争だったから仕方が無いで済ませられるのか・・・否、そうではないと。

 私が「読み進むことに多少なりとも苦痛を伴った」と書いたのは、辺見氏の自問自答は否応なく読者にも突き付けられているからである。本書は、読み進むその場その場で読者に対し「自分が日本兵の立場なら、どんな行動をとったのか」、「この残虐行為を自分はできるのか」と問い質し、答えを求めるのだ。この究極の問いに、何のためらいもなく「自分が殺されても他者を殺さないことを選ぶ」と明言できる人ははたしてどれほどいるであろうか。

 そして、やはり私は唖然とする。私(たち)は、日中戦争における日本人の残虐行為を知ろうとおもえば知ることができたのに知ろうとはせず、天皇の戦争責任も心のどこかに感じながらもなんとなく目をそむけてきたことに。さらに、この国のメディアも知識人の多くもそれを封印し続けてきたことに。否、封印どころか、南京大虐殺はなかったという言説が吹聴され、過去を書き消そうとする勢力が台頭しているのである。

 実際、ネットで「南京大虐殺」「百人斬り」と検索してみて唖然とした。これらが捏造であるとか論争中であると言った言説が渦巻いているのだ。何ということだろう。

 辺見氏は、戦後70年間、この国に民主主義などはなかったと喝破する。日本人は隣国で行った過去の残虐行為を封印し、天皇の戦争責任を問わなかったと。つまり、日本人は自分たちに都合の悪いことは徹底的に隠し、責任をとるということを避けてきたと。たしかに、その通りである。戦争責任もそうだし、福島の原発事故も誰も責任をとっていない。事故原因もうやむやのまま、事故の収束の見通しすらつかないのに、原発の再稼働を始めたのだ。この国では重大な被害をもたらした人為災害の原発事故ですら誰も責任をとらない。「責任をとらない」ことがあらゆるところで常態化し、人々もその状態に麻痺しているかのようだ。

 本書では、最後に日本人のもつ全体主義を2015年にこの国で起きていることへと繋げている。辺見氏は、反戦平和を訴える民衆を否定こそしないが、そこに加害者意識が抜け落ちていることを鋭く突き、被害者意識だけの反戦運動に物申す。日本人は、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下の被害者ではあるが、その前の南京大虐殺では加害者である。その戦争加害者意識を置き去りにして被害ばかりを強調することに警告を発している。

 そして、辺見氏は今の日本の情景を以下のように表現する。(348ページ)

1★9★3★7のあらゆる問いは手つかずのままのこされ、数知れない遺体は年々、だたさらされて、しゅびよく風葬されている。敵はあきらかにきれめなく勝ちつづけている。どぶどぶの汚泥そのものの敵権力が、敵―味方の境界を消して、いつまでもさいげんもなく勝ちつづけている。敵はわたし(たち)のなかにこそいるからだ。

 戦争へと突き進む自民党政権がずっと勝ち続け、その勢いが国民にもじわじわと浸透してきていると。その通りだ。特定秘密保護法が通り、戦争法案も強引に通してしまった。そして安倍自民党政権は憲法改正を目論んで邁進している。現政権がずっと勝ち続けているのは何故なのか?

  「敵はわたし(たち)のなかにこそいる」という言葉が頭からこびりついて離れない。わたし(たち)のなかにある敵とは何か? 日本人は、なぜ安倍政権の暴走を止められないのか。ここでもう一度、辺見氏の言葉を引こう。(374ページ)

  ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて自由なる主体となった」か、ニッポン軍国主義にはほんとうに終止符がうたれたのか、超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されたのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者はつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、今、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言を控え、知らずにはすませられないはずのものを知らずにすませ、結局、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか。

 はたしてどれほどの日本人が権力や権威に目をくらませず、強いものに折り合いをつけず、おべんちゃらを言わず、弱いものを押しのけず、高踏を気どらず、周りを忖度しないように努めているのだろうか。はたして、どれだけの人が圧力を恐れずに言うべきことを言い、やるべきことをやっているのか・・・。

 もちろんこれらを実行している人がいないわけではない。しかし、発言しようと思えばできるにも関わらず、理屈をこねまわしては発言を避けている人が大多数ではなかろうか? あるいは「叩かれる」ことを恐れて自ら発言を抑えている人も多いように見受けられる。

 私自身は民主主義がなかったというより、自己保身のために長いものに巻かれ、責任をうやむやにすることで、国民が自ら民主主義を放棄してしまったと思えてならない。その無責任体質と全体主義の結果が、安倍政権の暴走を許してきたのだ。だからここが変わらないかぎり、この国は戦争へと足を踏み入れるだろうし、そしてそうなってしまったら私たちはほとんど無抵抗にそれを受け入れざるを得ない状態になるだろう。もう戦争は目の前に迫っている。

 権力批判、強いものへの批判は怖れる反面、弱い者への暴言や個人情報晒しによる「吊るしあげ」、「ネット死刑」が横行し、加害者と被害者が応報を繰り返す光景も日常茶飯事だ。加害者が、翌日には被害者になって吊るしあげられていることすらある。それを物見遊山に傍観しては嘲笑する人々・・・。おぞましい光景に寒気がする。そこには言葉による残虐性や暴力があるし、その残虐性こそ、過去の戦争での日本兵の残虐行為に通じるのではないか。しかも、そうした事態は平和を訴え戦争反対を唱える人たちの間でも起きているのだ。これこそが、日本人の中に潜む全体主義であり残虐性ではなのではないか。上っ面の反戦平和ではないのか・・・。私は最近、ずっとそんなことを考えている。

 戦争の危機が迫るこの年に出版した本書は、辺見氏の気迫がみなぎった渾身の書である。

 ただし、なにやらあまりに絶望的な書だ。とは言え、辺見氏のそうした見方に大きく反論できないのも事実だ。かといってこの危機的状況に怒りの声をあげ、反戦平和運動を繰り広げる人たちを批判的に眺め絶望にひたることも私はよしとしない。

 安倍政権は戦争へと着々と準備を進めている。戦争へと片足を突っ込んだ今、民衆が騒いだところですでに「時遅し」であるかもしれないし、人々がそう簡単に己の中の全体主義から抜け出せるとも思えない。しかし、ここで黙っているわけにはいかない。諦めるわけにもいかない。絶対にいかないと思う。

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コメント

はじめまして。

以前より時々、貴ブログを拝見させていただいております。
たまたま南京事件に関連した記事を見かけたので、コメントさせていただきます。
既に視聴されているかも知れませんが、10月4日に放送された、

「NNNドキュメント'15 : 南京事件 兵士たちの遺言」

という民放放送番組がYouTubeにアップされています。

https://m.youtube.com/watch?v=GI-7PC99bLs

番組冒頭に福島県出身の小野賢二氏さんという方が登場し、彼が27年間に渡って南京攻略戦に参加した約200名の元日本兵から証言を聞き、彼らから30冊を越える当時の日記帳を集めていたことが紹介されています。
元日本兵の日記(当時に書かれたもので一次資料となるでしょう)には、1937年12月16日から数日間に渡って南京市•揚子江沿岸の河川敷で計画的に遂行された機関銃や銃剣による捕虜(多くの民間人を含む)大量虐殺の生々しい様子が書かれています。
番組は元日本兵の日記帳の内容や証言と当時の陸•海軍の公式記録を照らし合わせて歴史考証し、さらに現地取材も行うという構成になっており、かなり綿密で説得力のあるものになっていると思いました。

私はこの番組を観て、あらためて「南京事件」の犯罪性に衝撃を受けました。

NANAさん、コメントありがとうございます。

私はテレビを見ていないのですが、貴重な情報をありがとうございました。日中戦争に従軍した人たちの多くは自分の体験した残虐行為の記憶に蓋をしてしまいがちですが、そうるすことに良心が咎める人たちもいるのでしょう。

南京大虐殺は消すことのできない史実です。しかし、自民党政権が戦争に向かいつつある今、その事実をなかったかのようにしたい人たちが蠢いています。辺見氏はあらためてその日本人の残虐な加害行為を掘り起こすことで、日本人のかかえる病巣を浮き彫りにし、読者に語りかけたかったのだろうと感じました。

はじめまして

今般、辺見庸氏の著作「1★9★3★7」を読んで感銘を受けて、その批評を探して、このページにたどり着いたものです。
貴コメントには同感することが多かったので、私の感想を聞いてもらいたいと思いました。

辺見氏が最も言いたかったことは「おい、おまえ、じぶんならばぜったいにやらなかったと言いきれるか」という問題提起だと読みました。
その質問を問いつめて、この厚い一冊になった、とその執念に敬意の気持を持ちました。

しかしながらこの自分自身に対する問題提起に対して、著者はこの本でどのような答えを出したのか?がはっきりしていません。問題提起(責問)だけに終わった書のように思われました。
問題提起だけとしても大した精神力だとは認めますが、やはり問いに対してはその答えが重要です。

その問いに対する著者の直答を著書の中で見つけられませんでしたが、全体を通じて「絶対にやらなかった、とまでは言いきれない」となるように思われます。

この答えは、今までの世論の「やった人を犯罪者として切り捨てる見方」と比較すれば、かなり自分に厳しいものではありますが、私に言わせると未だに曖昧で、不十分です。
ここはやはり「自分もやったに違いない」と答えてほしかった、という感想です。
「やったかもしれない」というあいまいな言葉では反省にならず、それでは南京の犯罪を自分のこととして引き受けることになりません。

軍国主義の強力な圧力をここまで分析した著者が、「自分だけはやらない可能性もあった」などと自分を別格に扱える根拠がどこにあるのか?その説明が必要です。
「自分もやったに違いない」と考えてこそ、その責任のあり方が違ったものに見えてくると思われます。
また自分自身が責任を引き受けないのでは、日本人全体の反省に繋がらないと思います。

突然のコメントを失礼しました。
ご感想をいただけたら嬉しく思います。

小林哲夫さん

コメントありがとうございます。

読者の一人ひとりに突きつけられた「自分ならやらなかったと言えるか」という問いに、明確に答えられる人は果たしてどれだけいるのだろうかと思います。恐らく、もし実際にそのような立場に置かれたなら、大多数の人は自分の身を守るほうを選んでしまうのでしょう。しかし、100パーセントの人がそうするとも言い切れない。戦争で他者を助けるために自分を犠牲にしたという人も確かにいたでしょう。それが率直な私の感想です。辺見氏がもし同じ立場に置かれたとしてどうするかは、私に答えられることではありません。

アウシュビッツを体験した心理学者のフランクルは著書「夜と霧」の中で、人は戦争のような極限状態に置かれると、残忍なことに慣れ無感覚になってしまうというようなことを書いていました。人間には、自分を守るための本能のようなものがあるのだろうと思います。そう思うと、戦争で残虐行為に加担した人を追求することはできません。また、彼らが後ろめたさから沈黙を守ろうとする気持ちもわかります。

とするなら、過去の反省に立ち、人を残忍にさせる戦争は何としても阻止しなければならないという結論に行き着きます。

辺見氏が突きつけた問いに「自分ならやらなかった」と明言できない以上、戦争をしてはいけない、戦争をしたら誰もが加害者になり得るということこそ、辺見氏は言いたかったのではないでしょうか。

お返事になっていないかもしれませんが・・・。

松田まゆみさま

返信有難うございます。
>「自分ならやらなかったと言えるか」という問いに、明確に答えられる人は果たしてどれだけいるのだろうかと思います。

というご意見はまさにその通りだと思います。
この問いは、問い続けなければならないことだ、というのが辺見氏の一つの結論だと思います。
しかしその自問をもう一歩進めたい、と思うのです。

もしご迷惑でなかったら、もう少しお話を続けてもよろしいでしょうか?

この話を考える時に、著者の結論を
「絶対にやらなかった、とまでは言いきれない」
と言う風に私はまとめたのですが、このように言って良いものかちょっと自信が無いのですが、如何思われましたでしょうか?

とにかく辺見氏は「自分もやったに違いない、とは考えていない」という私の結論に間違いがないか?をお聞きしたのですが、いかがでしょうか?

>戦争をしたら誰もが加害者になり得るということこそ、辺見氏は言いたかったのではないでしょうか。

というご意見に私も全面的に賛成なのですが、そのためには、この結論は重要だ、と思いますので、是非感想をお聞きしたいものです。

小林哲夫さん

辺見さんの本心を他人が知ることはできませんが、私としても「絶対にやらなかったとは言い切れない」と理解しました。すなわち、「自分もやったに違いない、とまでは断言できない」というように受け止めています。

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