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2015年5月

2015年5月31日 (日)

日向市のスラグ問題と自然保護・環境保護運動

 このブログでも何回か取り上げてきたが、宮崎県日向市では日向製錬所から排出されるフェロニッケルスラグという鉱さいが「造成」の名の元に里山等に埋められている。このスラグ問題をブログなどで明らかにしたのが日向市在住の黒木睦子さんだが、彼女は日向製錬所とスラグの運搬会社サンアイから名誉毀損および業務妨害で訴えられてしまった。

 里山の自然を根こそぎ破壊してしまうことがまずは自然保護上大問題だ。しかも産業廃棄物として排出された鉱さいは、本来であれば管理型最終処分場ないしは遮蔽型最終処分場で処分されなければならないのだが、製品・リサイクルという名目でなんの遮蔽処理もせずに山野に埋められているのであり、産廃問題・環境問題でもある。こうした実態を何ら問題がないとして認可している行政の責任もきわめて大きい。仮に私の住む十勝地方でこのような造成が行われたなら、大問題として反対運動が展開されるだろう。しかし、日向市ではスラグの埋め立てに関して市民による反対運動が起きている様子は窺えない。

 このスラグ埋め立て問題では、いろいろなことを考えさせられる。説明を尽くさずに抗議する市民を訴えるという企業のやり方は横暴だし、ブログの削除は口封じだと思うが、かといって企業や行政に抗議を続ければ問題が解決する訳ではないのも事実だ(ただし黒木さんにはそれ以外の方法が思いつかなかったのだろうし、彼女を批判するつもりはない)。では、こういう問題に直面したとき、いったい市民はどう対処したらいいのだろうか?

 住民が個人的に企業や行政に説明を申し入れることは可能だが、多くの場合、話し合いは平行線ないしは決裂に終わって事業が強行される。個人での反対行動には限界がある。つまり利害関係のある地域住民が組織をつくって住民運動を起こしたり、あるいは地元住民に拘ることなく市民が反対運動を起こして闘うのが普通だ。

 私は東京に住んでいた十代の後半から自然保護運動に関わってきたし、今も北海道で自然保護運動に関わっている。つまり、かれこれ40年以上自然保護とか環境問題に関わってきたのだが、日本各地で自然破壊に対してさまざまな反対運動が活発に繰り広げられた頃から今に至るまで、住民運動・市民運動の基本的な闘い方は大きく変わっていないと思う。

 まず、自然保護上の問題が発覚した場合、情報収集や事実確認を行う。現地の確認を行ったり、事業者などの関係者に説明を求めたりする。そして問題点を明確にし、どうやったら破壊を食い止めることができるかを組織内部で話し合う。

 次に、事業者に対し申入れや質問書を提出したり、問題解決のための話し合いを行う。公共事業など行政が相手の場合、昨今では説明や話し合いそのものを拒否することはほとんどない。「生物多様性国家戦略2012-2020」においても、生物多様性の保全及び持続可能な利用のために地方自治体、事業者、NGO・NPO等の民間団体、市民などが連携して取り組みを進めていく必要性が述べられており(99ページ)、行政は市民団体をないがしろにすることはできない。

 規模の小さな事業であれば、こうした要請や話し合いで計画が変更されたり中止されることもあり得る。ただし、大きな事業の場合は話し合いで解決することはほとんどない。とりわけ企業による事業の場合は、申入れや質問への回答を無視したり話し合いに応じないこともある。

 しかし企業による事業の場合、開発行為にあたって行政の許認可が必要な場合がほとんどなので、許認可を出した行政の責任を追及して交渉をする必要もある。もちろん行政は自分たちの許認可に問題はないと主張するのが普通だが、実に安易に許認可を出していることも多い。加森観光が建設したヒグマの野外展示施設「ベア・マウンテン」の事例だが、柵に熊が通り抜けできる大きな空隙があったまま許認可が出されていた。これを見つけたのは自然保護団体のメンバーである。

 士幌高原道路(道々)の建設をめぐっては、十勝自然保護協会は北海道の出先機関である帯広土木現業所と緊迫した交渉を重ねた。「建設にあたっては地元自然保護団体の合意を得る」という約束があったからだ。事業者が強引に調査などに着手した際には、プラカードを掲げて現場での抗議行動も行った。大規模林道問題でも、北海道の自然保護団体のメンバーが何度も道庁に出向き、担当者と話し合いを続けてきた。ほとんどの場合、話し合いは平行線になるが、こうした交渉を重ねることで問題点がより明確になっていく。

 それから現地視察や現地調査、観察会なども行う。ナキウサギの生息地保護などでは、何回も現地に足を運んで調査をした。大きな事業の場合は事業者は環境アセスメントを行っているが、自然保護団体による調査で事業者の調査の杜撰さを確認できることは多い。道路予定地がナキウサギの生息地に重なっている場所では、データを操作したとしか思えない事例もあった。

 上ノ国や大雪山国立公園の国有林、えりもの道有林での森林伐採問題に関しても、自然保護団体による伐根の調査によって違法性が明らかにされた。具体的データを得られる調査活動は、反対運動を進める上で大きな武器になる。

 また問題を多くの人に知らせるために、問題点をまとめたリーフレットを作成したり、専門家を呼んで講演会やシンポジウム、学習会等を開催することも有効だ。こうした問題をなかなか取り上げないマスコミも、講演会やシンポジウムを行うと取材して記事にすることも多い。

 運動を進めるにあたり、情報公開制度も大いに活用できる。大規模林道問題でも、森林伐採問題でも美蔓ダム問題でも情報開示を最大限に利用した。

 状況によっては署名活動も展開する。士幌高原道路の反対運動では全国の自然保護団体に署名用紙を送付して署名を呼び掛けた。十勝自然保護協会が行った士幌高原道路反対のネット署名は、今では広く普及したネット署名の先駆けになった。

 一つの団体だけでは困難な場合は他の自然保護団体と共闘することもある。北海道の場合は賛同する他の道内の自然保護団体と連携したり、連合組織をつくって闘うこともある。士幌高原道路、日高横断道路、大規模林道問題では連合組織で活動して成果を上げた。

 また、裁判にするという闘い方もある。北海道では、士幌高原道路、えりもの森違法伐採、北見道路、サホロスキー場拡張工事などで裁判が起こされている。この場合は協力的な弁護士がいることが必須だし、環境裁判は勝訴が難しい。しかし、反対運動を無視して事業が強行される場合は、こうした手段も大きな意味がある。「えりもの森裁判」は10年目に入ってまだ決着していないが、裁判を起こしたことで実質的に大規模な伐採を中止に追い込んだともいえる。

 沖縄ではやんばるの森を守るために、林道建設や森林伐採を差し止めを求めて裁判が起こされた。今年3月には「請求を却下する」という門前払いの判決が下されたのだが、判決文をよく読むと、自然保護団体による様々な活動によって沖縄県が林道建設や伐採を中止していたために裁判所は差止を命ずる必要がなくなり、その結果としての却下判決だった。つまり、形式的には敗訴であっても実質勝訴という内容だった。

 このように、大きな開発行為などでは一人で事業者と交渉したり抗議行動をしても限界があるが、住民運動あるいは市民運動という形をとることで問題が広く認知され、解決の道も広がる。

 黒木さんの裁判がどのような結果になるか分からないが、弁護士もつけずに一人で闘っている現状を見る限り厳しいと感じざるを得ない。ただし、裁判を起こしたことでスラグによる埋め立て問題が地域に知れ渡って今後埋め立ての反対が強まるのなら、製錬所とサンアイはたとえ裁判で勝訴したとしても実質的敗訴と言えるかもしれない。もっとも、政官財の癒着が強く疑われる問題だし、製錬所が稼働している限りスラグが増えつづけるのだから、スラグ問題がそんなにすんなりと解決するとは思えない。

 日向市のスラグ埋め立て問題は、抗議をした市民一人の問題ではない。ただし裁判は黒木さんが誰の力も借りずに自分で闘うと宣言している以上、誰も関与はできない。裁判とは別に、できれば住民運動として地域の人たちが取り組む必要があると思う。もっとも地方では地元企業に対して声を上げにくいという事情もあるだろうから、住民運動が困難であるなら、地域の(たとえば宮崎県の)市民運動として取り組んでいくべきことのように思える。ちなみに私の所属する十勝自然保護協会は十勝地方での自然保護問題を対象にしているが、十勝地方(10,831.24平方キロメートル)は宮崎県(7,735.31平方キロメートル)より広い。

 宮崎県にこうした問題に取り組める市民団体があるのかどうか分からないが、黒木さんによる問題提起を基に、今後、地域の人たちがこの問題にどのように取り組んでいくのか、あるいは何もしないのかが問われているのだと私は思う。

 昨日は以下の連続ツイートをしたが、それは私がこの問題に関して上記のように考えているからである。

①「日向ミナマタ水・土壌汚染・防災研究会」というブログがある。http://blogs.yahoo.co.jp/teisitu_minamataサブタイトルに「住友金属鉱山の日向製錬所は、かつてのチッソと同じ企業体質。黒木睦子さんを助けよう!」と書かれているので、黒木さんを支援していることが分かる。

②いわゆる勝手連のような立場と推測されるし、そういう意味では「日向製錬所産廃問題ネットワーク」と共通する。ただし、黒木さんはご自分の裁判において金銭的支援を含む一切の支援を断っており、自分の力で裁判を闘うと明言している。つまり、第三者による支援を拒否している。

③黒木さんは、「スラグは産廃で有害」という立場でこの問題を検証しているブログ記事などを裁判で十分活用しているとは思えない。こうしたことからも、彼女は自分の力で自分の気の済む闘いをしたいのだろうと私は理解している。だから、弁護士もつけなかったのだろう。

④このような彼女のやり方に私は賛同しないが、どんな闘いをするかは彼女自身が決めることなので第三者がとやかくいうことではないだろう。いずれにしても、黒木さんが誰の助けも借りないという方針である以上、裁判に関しては第三者は見守るしかない。

⑤「日向製錬所産廃問題ネットワーク」は、黒木さんの支援を掲げて水質検査などを行ったが、計画性のない水質検査を行って結果を公表したことで黒木さんを不利にした。そして、その件に関してなんら弁明もなされていない。支援するといいながら、結果として迷惑をかけただけだった。

⑥この裁判に関心を持って見守っている人は、こういう状況であることはすでによく分かっているだろう。だから、勝手連のような形で黒木さんを支援することは意味がないと私は考えている。それにも関わらず、なぜこの団体は「黒木さんを助けよう」と掲げているのだろうか?

⑦この団体は、以前から存在する環境保護団体ではなさそうだ。日向のスラグ問題で情報公開を行って公文書を入手しているし、それらはスラグによる環境問題を考える上で活用できるだろう。ところが、この団体の主宰者が誰なのかが全く分からない。

⑧これは私の意見だが、日向製錬所のスラグ問題に関心を持ち、スラグがあちこちに埋められるなどしている問題をなんとかしたいのであれば、黒木さんの裁判とは切り離して独自に活動するべきだし、団体の目的や代表者名くらい明らかにしなければ信頼性に欠ける。

⑨また、主に日向製錬所のスラグ問題を取り上げている多数のYahooブログが存在するのだが、同じ内容の記事が掲載されていたり、互いにトラックバックしたり、互いにコメントしたりしている。どうやら同じ人物ないしは同じグループの人がブログを書いているように思える。

⑩しかも、記事の中には他のサイト記事あるいは写真の無断転載も見受けられる。「日向製錬所産廃問題ネットワーク」も無断転載をしていた。問題意識を持って情報開示を行ったり情報提供するのは評価できるが、こうしたやり方には非常識さを感じざるを得ないし、手放しで賛同できない。

2015年5月21日 (木)

「シャーロットのおくりもの」が伝えるもの

 私が小学校高学年の頃だったと思う。サン=テグジュペリの「星の王子さま」という本が話題になった。たしか国語の教科書にその一部が教材として載っていたことがきっかけだったと思う。私はその教科書に掲載されたウワバミの話にそれほど興味を持たなかったが、友だちの中には星の王子さまを絶賛する人もいた。しかも大人の間でもブームだったらしい。そんなこともあって私も一度は「星の王子さま」を手にとって読んでみたのだが、どうしてもこの物語はピンとこないというか、全部読み終えるのも苦痛だった。そして、なぜこの本がそれほどにまで絶賛されるのかとうとう理解できなかった。

 もちろんそれがファンタジーだったからという訳ではない。小人が出てくる佐藤さとるの作品などは大好きだったし、すぐれたファンタジーは大人向けのつまらぬ小説より遥かに魅了される。

 だいぶ後になって、私が「星の王子さま」に関心が持てないのは、読んだときが子どもだったために著者が意図するところが理解できなかったのではないかという考えに襲われた。それで大人になってからも読んでみだのだが、やはりダメだった。どうしても好感が持てない。その理由は内容があまりに教訓的で、著者のメッセージが物語全体を支配しているとしか思えなかったからだと思う。

 同じように感じた作品に「チョコレート工場の秘密」がある。この本は私が子どもの頃に読んだのではなく、自分の子どもに買い与えた本のひとつだ。これも教訓が強烈に伝わってきて、それだけでお腹いっぱいという気持ちになってしまう。

 作家が物語に何らかのメッセージを込めるのは当たり前だし、伝えたいメッセージがあるからこそ物語を紡ぐといってもいいだろう。しかし、物語の良さとは心に響くときめきであり感性に訴える力だと私は思う。そしてメッセージは作品にそっと織り込んでこそ文学であり、あまりにはっきり書いてしまうとそれはもはや文学というより説教めいてしまう。私にとって、作者のメッセージが露骨すぎるとその物語がいっぺんに色褪せて見えるし、何か安っぽいものにすら思えてしまう。「星の王子さま」はメッセージが独り歩きしている物語だとしか私には思えなかった。

 さて、先日「シャーロットの名付け問題に見る日本人の幼児性」という記事で、「シャーロットのおくりもの」という児童文学のことに言及した。私が好きな物語の一つだ。

 主人公は一匹のコブタ。小さく弱々しく生まれたがゆえに危うく殺されるところを、ファーンという女の子に助けられたコブタのウィルバーのお話だ。命拾いしたウィルバーは、ザッカーマン農場の納屋で飼われることになる。農場の納屋には牝牛のほかにガチョウやヒツジも飼われている。ヒツジやガチョウから相手にされないウィルバーに優しく声をかけ、友だちになったのがクモのシャーロットだ。ところがある日、ウィルバーはヒツジのおばさんから大変なことを聞かされる。この農場の若いブタはクリスマスになると殺されてベーコンやハムになるというのだ。クモのシャーロットは、死にたくないというウィルバーを助けようと考え、いいアイディアを思いつく。そして自分の命が尽きるまで、ウシルバーのために最大限の努力をするのだ

 納屋の一階は牝牛の小屋になっているのだが二階には牛たちの餌になる干し草置き場があり、干し草の香りに満ちている。そして牝牛の小屋の地下にある堆肥置き場がウィルバーの部屋だ。ウィルバーの隣はヒツジやガチョウがいる。ほかにも食いしん坊で狡猾なネズミのテンプルトンが棲みついているし、納屋の一角にはツバメが巣をつくっている。

 納屋の天井からは先端に結び目がついてロープが垂れ下がり、子どもたちは二階の干し草置き場からロ―プにつかまって飛びおり、ターザンのようにぶらんこ遊びをする。一昔前にはどこにでもあったような農家の納屋の光景は、読者を数十年前の世界に一気に引き戻し、想像するだけで気持ちがほんわかとしてくる。そうして、読者は納屋での動物たちの会話や事件にときめくのだ。活き活きとした細やかな描写はそこに今いるかのように錯覚させ、動物たちのおしゃべりに引き込まれる。

 自分のことしか考えない自己中のテンプルトンと、それとは対照的に他者の命のために尽くす短命のシャーロット。お節介なガチョウのおばさんや思慮のないヒツジ。動物たちの性格は人間社会を投影している。そして農家の納屋で繰り返される動物たちの誕生と死。これこそがこの本のテーマであり著者のメッセージなのだが、動物たちの豊かな会話と物語は著者のメッセージを包み込んで、読み手を暗い気持ちにさせない。むしろ、死という重くて暗いテーマを新しい命の誕生という生命の連鎖に持っていくことで、安堵感を与えている。

 子ども達は、否応にもシャーロットの生き方に共感し、友情というものを受け止めることになる。こう書くとすごく教訓的に聞こえるかもしれないが、実際の物語はちっとも教訓的に感じない。子どもにとっては難しい生と死をテーマとしながら、悲しさ以上に暖かさに溢れている。それがこの本の魅力だ。

 恐らく誰もが無意識に共感するのがシャーロットの利他行為だろう。短い自分の命を知りながら、ウィルバーのために最後まで努力を惜しまない。人とは本質的に自己中の側面を持っている。しかし自己中の殻に閉じこもっている限り、私たちは本当の幸福感や充実感を得ることはできない。「シャーロットのおくりもの」は、読者の心に潜む感性を理屈ぬきに呼び覚ますのだと私は思う。

2015年5月14日 (木)

地裁差し戻し審が始まった「えりもの森裁判」

えりもの森裁判の概要
 2005年の秋、日高管内えりも町の道有林が皆伐され、集材路をつくったことで近くのナキウサギ生息地も破壊されてしまった。そこで、道民3人が住民監査請求を経て提訴したのが「えりもの森裁判」だ。北海道の条例や生物多様性条約に違反する伐採によって森林の公益的機能が損なわれ、また過剰な伐採によって損害を与えたとして損害賠償を求めている。

 一審では賠償命令が却下され、それ以外の請求も棄却されてしまった。この一審判決は肝心の違法性について判断をしていない。あまりに不当な判決のために控訴したところ、高裁では原告敗訴の一審判決の一部を取り消し地裁に差し戻しをするという画期的判決が下った。高裁から地裁への差し戻し審は異例とのことだ。ところが被告の北海道はこれを不服として最高裁に上告をしたのだ。時間延ばしの上告と言わざるを得ない。

 そして、最高裁は昨年の11月に終局し、一審に差し戻されることが決定した。高裁も最高裁も一審判決を否定しやり直しを命じたということから、一審判決の不当性が浮き彫りになった。

差し戻し審第一回口頭弁論
 提訴から10年目という長丁場の裁判になっているが、5月12日に札幌地裁で差し戻し審の第一回口頭弁論が開かれた。

 高裁の判決が2012年10月だったので、ひさびさに裁判のために札幌に出かけた。大通り公園ではパンジーが咲き誇りライラックもちょうど花盛り。

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 久しぶりに出かけた札幌地裁は、以前からやっている耐震工事がまだ終わっておらず、北側の出入り口からしか入れない。そして、入口には以前はなかったものものしいゲートが設置され係員が何人も並んでいる。空港の搭乗口にあるあのゲートとほぼ同じもので、ここで手荷物の検査を受ける。なんとも仰々しい。

 十勝から札幌地裁まで出かけると丸一日かかるのだが、第一回口頭弁論はあっけなく5分で終了した。これはいつものことだから、想定内。今回は大阪の弁護士さんがはるばる来てくださった。

 原告からは「準備書面(14)」として事実関係の概要と差し戻し部分についての双方の主張をまとめた書面が提出された。

 この裁判では、これまでに提出された書面および証拠書類を重ねると数十センチにもなる。この膨大な資料を裁判長は一通り目を通すのかと思ったのだが、どうやら当事者に概要をまとめてもらうということのようだ。差し戻し審でのポイントは、過剰伐採と越境伐採についての立証になりそうだ。

 次回期日は7月28日(火)13:15である。

2015年5月11日 (月)

シャーロットの名付け問題に見る日本人の幼児性

 先日、大分市の高崎山自然動物園が、誕生して間もない英国の王女の名前にちなんで赤ちゃんザルにシャーロットと名付けたところ批判が殺到した、というニュースがあった。英国の王室に失礼などというのがその批判の理由らしい。私は、そういう考えなどまったく思い浮かばなかったので批判が殺到するということに驚いたのだが、これは日本人のお節介に起因するのだろう。

 サルにどんな名前をつけるかは動物園が決めることであり、他者がとやかく言うことではない。ところが第三者が勝手な想像にもとづいて反対し、それがニュースにまでなってしまうとは・・・。抗議をした人たちはアドラー心理学でいうところの「課題の分離」ができていないということだ。「課題の分離」に関しては以下を参照していただきたい。

第2回 他者の期待を満たすために生きてはいけない 

 さらに驚いたのは、高崎市が英国大使館に意見を聞くという対応をとったことだ。英王室広報担当者は「(公式的には)あくまでもノーコメントだが、名前の付け方は所有者の自由だ」と述べたそうだ。しごく当然の答えだろう。というか、こんな当たり前のことを認識せずにいちいち問い合わせる日本人に驚いたのではなかろうか。

 私などは、そもそもサルに王女と同じ名前をつけることがどうして失礼なのかというところで疑問に思う。

 たとえばバラにはプリンセス・ミチコとかプリンセス・アイコなど皇族の名前がつけられた品種がいろいろある。これに文句を言う人はまずいないだろう。人間の目から見て美しいバラなら皇族の名をつけるのはいいが、サルに同じ名前をつけるのはダメというのなら、生物に対する偏見ではなかろうか。

 それにシャーロットという名前の女性は大勢いるのであり、英王室が王女にシャーロットという名前を付けたからといって「特別な名前」というわけでも何でもない。私はテレビを見ていないが、NHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」のエリー役を演じた女優もシャーロット・ケイト・フォックスさんだ。

 私はシャーロットという名前を聞いて「シャーロットのおくりもの」という児童文学作品が頭に浮かんだ。ここに出てくるシャーロットは円網を張る灰色のクモ、つまりはオニグモの仲間だ。軒下などに大きな円網を張るオニグモに好感を持っている人は少ないだろう。クモが大嫌いな人はたくさんいるが、英王女は児童文学に出てくるオニグモと同じ名前でもある。

 今回のサルの名前問題に限らず、とかく日本人は課題の分離ができずに「あなたのため」などという理由をふりかざして余計な口出しをする人が多い。嫁と姑のいさかいなどは大半が余計なお節介から生じているのではないかと思うが、余計な口出しや強要が相手から敬遠される原因になっても「相手のため」になることはない。

 家事や育児など、人によってやり方や考え方は千差万別だ。それにも関わらず、他者に自分のやり方を押しつけたなら、人間関係がうまくいくはずがない。良好な人間関係を保ちたいなら、やり方や考え方が違うことで口出しをしてはならない。どうしても気になるなら、相手を尊重したうえでアドバイスをする程度に留めるべきだ。相手を自分の思い通りにさせようとするから関係がこじれてしまう。

 自分とは考えが違うというだけで、あるいは自分の言う通りにしないからといって怒ったり陰口を言う人は、課題の分離ができずに相手を支配したがる人なので要注意だ。つまりこのような人は精神的に自立できておらず幼稚なのだ。こういう人とは関わらないのがベストだが、関わってしまったら毅然とした態度をとるしかない。

 日頃から「課題の分離」を意識し、自分の意見は言うべきときにきちんと言うが、他者に押しつけはしないという習慣をつけないと、日本人はいつまでも幼児性から抜け出せないように思う。

2015年5月 9日 (土)

更別村の十勝坊主とその保全

 若い頃からいわゆる観光旅行というものに興味がない私は、どこかに出かけたくなっても観光地に行くことはほとんどない。出かける先はほとんどが山野だ。

 先日は、暖かな日和に誘われて十勝坊主を見にいった。十勝坊主というのは周氷河地形の構造土の一つで、地面がこぶ状に盛り上がった地形だ。構造土は地中の水分が凍結と融解を繰り返すことで形成される。たとえば大雪山の高山帯で見られるアースハンモックや多角形土、階状土なども構造土だが、十勝坊主は平地で見られる構造土だ。

 帯広畜産大学農場にある十勝坊主は北海道の天然記念物に指定されている他、音更町にあるものは町指定文化財になっている。また更別村のイタラタラキ川流域の十勝坊主群の一部は、北海道の学術自然保護区(勢雄地区)に指定されている。他に、帯広空港の近くにも十勝坊主群がある。

 今回、見にいったのは更別村と幕別町の境界付近を流れるイタラタラキ川流域の十勝坊主群だ。左岸の一角、さけ・ますふ化場の近くに学術自然保護区があり看板が出ている。

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 実際に行って驚いたのだが、ここの保護区の十勝坊主群は猫の額のように小さい。そして保護区の南のイタラタラキ排水路流域にはもっと広い十勝坊主群がある。ササに覆われているので写真だと凹凸がちょっと分かりにくいのだが、直径が1メートル前後、高さが50センチ前後くらいのこぶがポコポコと連なり、不思議な光景だ。

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 しかし、なぜ広い方の十勝坊主群を保護区に指定せず、猫の額のようなところを保護区にしたのだろうか?

 実はイタラタラキ川流域に広がる十勝坊主群は、バイパス水路工事によって分断され一部が壊されてしまっている。以下参照。

 2.化石構造土:北海道更別村(農林水産省)

 つまり、広大な方の十勝坊主群にはバイパス水路の計画があったため保護区指定をせず、規模のごく小さい一部の場所のみを保護区指定したということではないかと思われる。貴重な周氷河地形の保存よりバイパス水路工事を優先したがゆえに、十勝坊主群の一部が壊されてしまったと言えそうだ。

 バイパス水路の工事に当たっては十勝坊主の調査が行われているのだが、農水省は「バイパス水路整備後における十勝坊主の形態変化や周辺植生の変化は認められず、現況河川を存置した工法は、自然環境への事業の影響軽減を十分果たしていると考えられます」と記している。工事が周氷河地形に変化を与えていないので問題ない、と言いたいようだ。ただし、工事が本当に影響を与えていないかどうかはそう簡単には分からないだろう。何十年も経過してから変化が現れるかもしれないのだから。

 では、何のためにバイパス水路を造ったのだろう?

 上記サイトの空中写真を見るとよく分かるのだが、イタラタラキ川流域は十勝坊主群のある部分を除き河川の直線化工事が行われている。十勝坊主群のある区間はその保護のために直線化工事をせずに蛇行した自然の状態を残したのである。しかし、もともと森林だったところを農地開発すれば大雨のときには河川に一気に水が流出するようになる。さらに流域に湿地が広がっていた蛇行河川を直線的に改修し河岸まで農地にしたのである。流速が落ちる蛇行部周辺で水が溢れ、その周辺の農地で湛水被害や過湿被害が生じるのは当然のことだ。その解消のために十勝坊主群を壊してバイパス水路を造ったのだ。

 また、十勝坊主群の上流にはヤチカンバの保護区があるのだが、周辺の農地の過湿被害を防ぐために行われた排水工事によってヤチカンバ生育地が乾燥化し、危機的な状況になっている。ヤチカンバは湿地に生育する植物なのだが、乾燥化によって生育地にササやヤマナラシなどが侵入してしまったのだ。

 結局、十勝坊主の分布域やヤチカンバの生育地のみ手をつけなければ保全できるという訳ではないことがよく分かる。森林や湿地を農地にしたり蛇行河川を直線化するということは、これまで保たれてきた自然のバランスを崩してしまうことに他ならない。自然のバランスを崩してしまったら、真の保全にはならないのだ。

 排水事業によって農地の排水は良くなったとしても、大雨などの際に河川に一気に水が流れ込むことに繋がる。水の出方が変わってしまえば河川にさまざまな影響を与えるし洪水の原因にもなる。そのために下流では床固工やら落差工などの治水工事が行われることになる。それらの工事がさらに下流の河床低下を引き起こすことになる。こうなると永遠に公共事業にお金をかけることになり自然破壊はさらに進むという悪循環に陥る。昨今、河川管理者によって行われている河川整備事業は、まさにこの悪循環といっても過言ではない。

 開発できるところはとことん開発しようという人間の傲慢さが、取り返しのつかない自然破壊を招き、税金の無駄遣いへと繋がっているのだ。

2015年5月 2日 (土)

日本人の曖昧さこそが安倍首相の暴走を許しているのではないか

 5月1日付の北海道新聞朝刊に「次世代の憲法 空気読み主流に同調」という記事が掲載されていた。

 就活に失敗しないために周りに合わせて黒のリクルートスーツを着用する若者たち。山田昌弘氏(中央大教授)によると、その背景には同じ会社で一生働き続けたいという若者たちの安定志向があるという。さらに経済的な不安からくる多数派への同調意識が、改憲容認の空気が広がる要因のひとつだと分析している。つまり今の若者たちは、大人たちの主流が改憲容認だと感じ取りそれに同調しているというのだ。

 これが事実なら、若者の親世代の意識が大きく問われることになるだろう。

 私の若い頃も「周りに合わせる」という傾向はたしかにはっきりとあった。みんなと同じにしていれば陰口も言われにくいし安心という風潮があったし、学校でも他の人と違う意見をはっきり言うのが憚られるような雰囲気があった。つまりは自分の意見を主張すれば批判されたりいざこざの原因になるから、周りに合わせて曖昧にしていることこそ賢いといった人たちが多かったと思う。友人と政治の話しをしないというのも今にはじまったことではない。

 そういう世代の人たちが親になり、自分の子ども達にも同じような生き方を求めたことが、今の若者の意識に大きな影響を与えているのではなかろうか?

 私が子育てをしていた頃、大半の親は率先して自分の子どもが他の子どもと違うことがないよう気を遣っていた。たとえば服装ひとつにしても周りの子どもと同じようなものを着せる。自転車などの持ち物も同じで、誰かがマウンテンバイクを買ってもらうと、親が次々とそれに同調してマウンテンバイクを買い与えるのだ。同じにしなければ可哀そうだ、仲間外れにされる、という理由で。「違うことで仲間外れにしてはならない」と教えるのではなく・・・。

 PTAの会合なども同じで、多数派に同調せず自分の意見をはっきり言うとたちまち批判の的になり、陰口が飛び交った。そして批判されないようにと声の大きな人に同調する人たちを目の当たりにした。子ども達の間のいじめと同じことが親の間でもまかり通っていた。むしろ、親世代にこそいじめの根源があるのではないかと思うこともあった。

 今の若者たちが異常なほど周りに同調することに気を遣い「空気を読む」ようになってしまったのは、親世代の意識が大きいと思わざるを得ない。親世代の人たちこそ議論を嫌って多数派に同調し、子どもにもそう仕向けてきたのであり、若者たちが保守化している要因は若者たちだけの問題では決してない。

 戦前・戦中は洗脳されて軍国少年へと突っ走った若者が大勢いたが、今はネットでさまざまな情報が手に入るようになった。若者こそネットを最大限に利用している。それにも関わらず、若者たちのネットはラインでつながることで安心を求めたり、あるいはネットで他者を叩くという歪んだ関わり方が多い。ネット時代の若者が、今の日本の危機的状況を察知できずに保守化に走ってしまうのは本当に恐ろしい。

 安倍首相は米国に自衛隊を差し出そうとしているが、若者達は戦争に行くのは自衛隊員だけだとでも思っているのだろうか? 自衛隊が軍隊となれば自衛官を希望する人も減るだろうし、徴兵も時間の問題だろう。米国を見ていれば分かるが、貧困層こそ戦争に駆り出される確率が高くなる。しかし、若者が今の流れに抵抗しようとせず、ただ自分の安定・安心だけを望むであれば、「自分さえよければ」という発想にほかならない。いじめと同じではないか。

 若者たちは日本が米国に追従するということがどれほど危険なことなのか本当に分かっていないのだろうか? たとえ正社員として安定した生活ができたとしても、自由に物も言えない監視社会になれば平穏な生活などなくなる。米国の戦争に加担すれば日本が攻撃されないとも限らないし、万一原発を攻撃されたらこの国はひとたまりもなく破滅の道を歩む。

 大江健三郎氏は1994年のノーベル賞受賞記念講演で「あいまいな日本の私」というタイトルで講演をした。今から20年前のことだ。

 ノーベル賞受賞記念講演要約 

 今の若者世代そしてその親世代の多くに共通しているのは、「周りに同調することで安心する」という極めて曖昧な日本人特有の思考ではなかろうか。それは未曽有の原発事故を起こした後も、ちっとも変わっていないように見える。あれほどの原発災害を起こし、原子力ムラの欺瞞が晒されてもなお危機感を持てず、「曖昧さ」から脱却できないのだとしたら、行きつくところまで行くしかないのだろう。

 平和とは黙っていて与えられるものでは決してない。常に権力者を監視し、権力者が暴走しないよう注意を払っていなければならない。平和憲法を守るのも放棄するのも国民一人ひとりの意識にかかっている。これほど危険な状況が迫っているというのに、日本人の多くが未だに曖昧であることに胡坐をかいてはいまいか?

 投票に行かない若者たちを批判するだけではどうしようもない。自民党政権を容認し続けてきた大人たちが曖昧さを捨て、本気で危機感を伝えなければ若者も目を覚ますことがないように思う。

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