« SASPLを広めることが希望につながる | トップページ | 忍び寄る全体主義に潜む恐るべき策謀 »

2014年12月20日 (土)

他者を罵るのではなく対話を

 以下は私の18日のツイッターでの呟き。

世の中の人を敵と味方に分けたがる人がいるようだ。なんでそんな風に捉えてしまうのだろう? たとえ自分が批判されたからといって、批判した相手を敵対視する必要などなにもない。その意見に対し、冷静に自分の意見を述べればいいだけだ。

それなのに相手を敵対視して罵る人がいる。自分を支持する周りの人まで巻き込み自己正当化しようとすることもある。ときに相手のあら探しをしてわざとネガティブなことを広めようとする人までいる。その情報が事実かどうかも確かめず。仕返しをすることしか考えていないのだ。

そういう人に限って、事実と異なることを指摘されても決して謝ったり訂正したりしない。批判する人は敵であり自分に賛同する人は味方だと思っているのだろう。自分を支持する人を周りに従えていないと安心できない小心者だ。

安倍首相の言動にはとうてい賛同できないし批判もするけれど、だからといって私は彼を敵だとは思わない。悪徳商法とか詐欺師など人を騙そうとする人たちは十分気をつけなければならないと思うけど、そういう相手も敵だとは思わない。嫌いな人ではあるけれど。

原発推進者や御用学者の言う事は鵜呑みにしないし警戒するけれど、彼ら個人を敵だとは思わない。また反原発の人たちは味方という意識もない。すべてのことにおいて自分とまったく同じ意見の人などいないし様々な意見の人がいるのだから、敵と味方に分けるのはナンセンスだ。

戦争であっても、兵士にとって敵対する相手国の兵士個人は敵でも何でもない。戦争という異常な状況でなければ殺し合うことなどないのだから。国が勝手に敵を作っているにすぎないのだ。だから、どんな人であっても敵でも味方でもない。

あえて言うなら人間には利害関係で動く人たちとそうではない人がいるということ。自分のことしか考えられず他者を支配したがる人と常に他者のことを考え行動できる人がいるということ。もちろん中間的な人もいる。これは敵とか味方の関係ではなく、利己的か否かだ。

自分と違う意見の者や自分に批判的な者を憎んだり恨んだりするところに「敵」という意識が生じる。しかし、人を憎み恨む先には争いしかない。真に平和を求める人なら他者を憎んだり恨んだり罵ったり復讐はしないだろう。その代わりに言葉で対話をしようと試みるだろう。

 以下は、その後考えたこと。

 15日の記事にも関連することなのだけれど、日本人は意見交換したり議論したり対話したりということを避けてしまう傾向が強い。どうしてだろうかと考えてみたのだが、相手に論破されてしまうのが不安なのかもしれないとふと思った。議論になって反論できなくなったら「自分が否定された」「負けた」と受け止めてしまうのではなかろうか? 結局、意見交換や議論を勝ち負けで捉え、相手を敵にしてしまうのだ。だから例えば批判的な意見を言われても面と向かって議論せず、誹謗中傷だと言ってみたり(批判を誹謗中傷にすり替えてしまう)、悪口を言ったり罵倒したり変人扱いして自己正当化しようとする。

 これは実社会でもインターネットでもあまり変わらない。ただし、インターネットでは匿名性を利用して意図的に情報操作をしようとする人がいる。「ネット工作員」などと言う人もいるが、こういう人たちの目的は相対する人たちを分断させたり妨害することだ。利権が絡んでいることも多い。相手にしたら相手の思惑にはまってしまいかねないので無視するのが一番だと思う。

 世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな意見がある。友だち同士でも意見が違うことなど沢山ある。違う意見があるのが当たり前だし、どれが正しいかなど決められることではない。議論をしても平行線のままのこともあるけれど、考えを変えることだってある。いろいろな意見を聞くのは大切だと思うし、話し合いや議論は決して競争ではない。日頃から競争に追い立てられていると、話し合いですら競争だと勘違いしてしまうのだろうか。そんな人が多いと思えてならない。

 ただし自分の意見を押し付けてはならないし、相手の意見を間違いだと頭から否定してもいけない。もちろん感情的になって罵倒したり人格否定のようなことを言ってはいけない。それを守れば、議論することは敵をつくることにはならない。自分の意見を押し通そうとするから攻撃的になって相手を敵対視することになる。

 もうひとつ重要なのは、もし自分に事実誤認があった場合はきちんと訂正するということ。また、不適切な言動をしたと気づいたらそれを認め謝罪すること。だれだってうっかりミスや勘違いはあるのだし、それを認めたって評価が下がるというわけではない。当たり前のことなのだが、それができない人がときどきいる。間違いを認めようとせずに突っ張ってしまうと後戻りできなくなって矛盾を来たし、言い訳に終始したり、挙句の果て感情的になったりする。そして人間関係がぎくしゃくしてしまう。

 議論ができる人たちというのは、こういう対話のルールのようなものが基本的にできているのだと思う。逆に言えば、議論を嫌う人たちはこういうルールが身についていないか、あるいは身につけたいと思わない自己中なのだろう。

« SASPLを広めることが希望につながる | トップページ | 忍び寄る全体主義に潜む恐るべき策謀 »

雑記帳」カテゴリの記事

コメント

松田まゆみさん。あけましておめでとうございます。

記事を転載させて貰いました。不都合なところがありましたらご指摘ください。

温故知新さん

特にあなたのことを指してこの記事を書いたわけではなく、私がこれまでやりとりをした複数の人たちの態度を思い浮かべて書きました。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1185959/58322643

この記事へのトラックバック一覧です: 他者を罵るのではなく対話を:

« SASPLを広めることが希望につながる | トップページ | 忍び寄る全体主義に潜む恐るべき策謀 »

フォト

twitter

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ