« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

2014年12月

2014年12月28日 (日)

日向製錬所フェロニッケルスラグ問題 訴訟の目的は何か?

 以下は12月26日の私のツイッターでの連続ツイート。

①日向製錬所によるフェロニッケルスラグ埋め立て造成問題で、日向製錬所とサンアイが黒木睦子さん@mutsukurokiを提訴した目的は何なのだろうか? 原告は名誉毀損と業務妨害を理由にブログとツイッターの削除、損害賠償を求めている。

②名誉毀損の場合、賠償金数千万円ということもしばしばある。今回の裁判の場合、賠償金額は2社合わせて2百万以下だから、この手の裁判としては高額とは言えない。ブログとツイッターを削除させ、黒木さんの口封じをすることこそが目的だと思う。

③事実と事実に基づいた意見を書いているとしか思えない黒木さんのブログやツイッターがなぜ都合が悪いのか。不都合な真実が書かれているからだろう。私には沈殿池の水質検査がもっとも不都合な部分ではないかと思えてならない。http://blogjima.blog.fc2.com/blog-entry-81.html

④グリーンサンドに含まれるシリカの毒性ももちろんある。しかし、シリカ粉じんは埋め立て工事をするときにだけ発生する被害だ。それに対しスラグからしみでる水が有害物質を多量に含んでいるのであれば、長期にわたる地域の公害問題に発展するだろう。

⑤有害物質が川に流れだし、やがて地下水も汚染されるだろう。生物濃縮も懸念される。地域住民にとっては深刻な公害問題に発展する可能性がある。有毒であることが知れ渡り住民が騒ぎだしたら、今後のスラグの埋め立て造成工事に支障をきたすことになる。

⑥恐らく製錬所は大量に出るスラグの処理にかなり頭を悩ませている。廃棄物として正規に処理するには相当の費用がかかる。だから、なんとかお金をかけずに処理したいと思うのは当然だろう。そこで粉砕した砂状のスラグに製品名をつけ、廃棄物ではないと主張する。

⑦もちろんこうした埋め立て造成には許認可が必要だ。おそらくスラグ問題の裏には政官民の癒着がある。原子力ムラと同じような産廃ムラがあるのだろう。だから、役人も警察もスラグが「有害」「産廃」だと察していても何も言えないのだ。マスコミももちろんムラの住民。

⑧だから、製錬所としては有害であるという水質データを載せ、産廃だと主張する黒木さんのブログを何としても削除させたいのではないか。そのために日向市の検査結果を基にスラグから有害物質が出ておらず黒木さんの調査は捏造であると主張したいのではないか。

⑨工作員たちの訴状を基にした発言もまさにそれを裏付けているように感じられる。スラグは無害だから黒木さんこそ嘘を言っているのであり、会社は被害者であると。しかし、黒木さんがリスクをおかして嘘の検査結果を公表する理由など考えられない。

⑩「鉱さい」にはふつう有毒物質が含まれている。だからこそ法律では管理型処分場での処理が求められているし、溶出検査で有害物質が基準値以上なら遮蔽型処分場で処理しなければならない。あの大量のスラグの山から有毒物質がしみ出ていないと主張する方が無理がある。

⑪黒木さんは日向市が沈殿池の水質検査をする前にマスコミの人と池に行ったら、水がきれいになっていたという。市の検査のことを知っている誰かが沈殿池の土や水を入れ替えたと考えるのはきわめて自然だ。http://blogjima.blog.fc2.com/blog-entry-35.html 

⑫ただし、原告側は黒木さんを訴えるにあたって、何らかの対策を行った可能性がある。例えばスラグからしみでる水が沈殿池に直接入らないような工事をしたとか、造成地の表面から水が浸透しにくいようにしたとか。もちろん推測でしかないが。

⑬もしかしたら原告らは提訴すれば黒木さんが怯えて削除に応じると思ったのかもしれない。あるいは提訴して弁護士同志で和解に持ち込み、賠償金はともかくとしてブログとツイッターの削除だけでもさせたいと思ったのかもしれない。

⑭しかし、黒木さんは提訴されても動じずにブログやツイッターの削除をしなかった。そして、一人で裁判に立ち向かう姿勢を見せている。弁護士を立てて安易に和解に応じるつもりもないのだろう。立派な姿勢だと思う。

⑮黒木さんが安易にブログやツイッターの削除に応じないのは、もちろん嘘を書いていないからだろう。それに対して、なんとか情報操作しようとしている工作員たちは実に滑稽だ。複数のアカをつくって必死に叩く。彼らのツイから、目的が透けて見える。

*****

 この意見に関連して、「市民メディアみやざきCMM」の大谷憲史さんがツイッターで私宛てに多数の意見を寄せてきた。長々とやりとりしたが、結局、大谷さんの言いたかったことは以下の彼のツイートに行きつくと思う。

https://twitter.com/nextmstage/status/548776902190575616 
今回のキーポイントは「不退去罪」。どうして日向製錬所から黒木睦子さんが「名誉毀損」「営業妨害」で訴えられたのか、理解ができず、なぜか、問題を「産廃問題」にすり替えて、訳の分からない状況に陥ってしまうのです。何で現地の人間の話を聞かないのかな。#日向製錬所産廃問題 

 https://twitter.com/nextmstage/status/548837792004853761 
@onigumoobasan 産廃問題でも何でもない問題に対して、これは産廃問題だ!として情報を流されることのほうが迷惑です。この裁判が終わるまで、おとなしくしていただけないでしょうか? 

 私の理解は、黒木さんご夫妻の抗議行動は、スラグの粉じんが原因としか考えられない咳や、水質検査での有害物質の検出などに起因するのだから、産廃問題・公害問題の延長線上にあり、一体のものであるということ。大谷さんは産廃問題と不退去問題を切り離して考えるべきだと言っているが、私は切り離すことができない問題だと考えている。

 つまりは、大谷さんの見解と私の見解が違うということにすぎない。ところが大谷さんは自分の見解こそ正しく私の見解が間違いだから、裁判が終わるまで黙っていてほしいと要求してきた。もちろん私は言論の自由の侵害を理由にはっきりと断った。

 大谷さんは具体的な話しになっても答えようとせずに話しを逸らしてしまう。ジャーナリストを名乗る人間が、他者の意見を誤りだとか迷惑だと言い募り、黙っていろと要求するとは呆れかえる。

 なお、Owlmanさんが大谷さんに以下の質問をした。

 https://twitter.com/nightowlfly00/status/548809620571947008 
@onigumoobasan @nextmstage 大谷さんはお詳しいようですけど、こういう形で鉱さいを埋立た場合の長期的安全性を保障する何らかの根拠があったら是非教えて欲しいのですが。ひょっとして自分の考え方に間違いがあっても、と思いますので。 

 ところが大谷さんは、この件が「産廃問題でも何でもない問題」であるという自分の見解を理由に、決して答えようとしない。「日向製錬所産廃問題ネットワーク」に公開質問状を出しておきながら、自分への質問は逃げてしまう。大谷さんはそういう方のようだ。

 私には大谷さんが、この問題に関心を持っているネット民に向かって産廃問題から目をそらすように意図的に動いているように思えてならない。そうでなければ他人の意見に口出しなどせず、ジャーナリストとして取材に基づいた報道を淡々としていればいいのだから。ということで、26日の一連のツイートをブログでも取り上げておくことにした。

2014年12月22日 (月)

忍び寄る全体主義に潜む恐るべき策謀

 安倍政治について作家の辺見庸氏が以下のような発言をしている。

安倍政治を問う〈11〉目を見開き耳澄ませ 作家・辺見庸さん(神奈川新聞)

 冒頭に書かれているように、今回の選挙は実に策謀的だった。アベノミクスの虚像がバレる前に延命を図ろうという意図があったことは言うまでもない。だから消費税増税時期の先延ばしという意味不明な理由で解散総選挙に踏み切った。選挙戦が始まると国民の関心を経済政策に向け、改憲や原発再稼働などは争点から逸らしてしまった。そして選挙戦が終わった途端に改憲への意欲を口にした。

 さらに、投票率の低下を期待したとしか思えない年末の選挙やマスコミへの圧力。小渕優子氏の関連団体がHDを破壊していたことも、選挙戦が終わってから公表された。マスコミとグルになっているとしか思えない。どれをとっても策謀的というほかない。

 つまり安倍首相は小選挙区制という選挙制度を最大限に利用し国民を騙して戦争をする国へと着々と準備をしているのであり、詐欺師同然だ。しかし、今は「詐欺師が悪い」などと批判している場合ではない。いかに国民が騙されないようにするかが問われている。

 このインタビュー記事の中で、辺見氏は以下のように発言している。

「日本国憲法、9条は自明の事実として正当性を語る必要はなく、徹底的な反戦主義に俺たちは生き方を合わせることができた。そうやって過ごしてきたことが、俺は見込み違いだったと思う」

「日本の思想、文化、メディアを含め、平和憲法、9条というモラルスタンダードの補強作業をしてこなかった。安楽死だ。闘ってこなかったんだ」

 私たちは平和憲法によって何ら努力しなくても平和が保てると思いこみ、何もしてこなかった。しかし、常に権力者を監視し、騙されないように五感を研ぎ澄まし、憲法9条を必死で守る努力をしない限り簡単に平和憲法は安楽死してしまうのだ。今回の選挙は国民がいかにたやすく騙されてしまうかを如実に物語たっている。

 秘密保護法も施行されてしまった。これからはじわじわと権力者に楯突く人々の口を封じるようなことが起きるのだろう。そうしておいてから憲法を改悪していつでも国民を戦争に駆り出せるようにしようとしているとしか思えない。一方で若者の貧困層を増やして兵士へと誘導する。米国と同じやり方だ。安倍首相が考えている今後の策謀を見据えないと簡単に全体主義に引きずりこまれてしまうだろう。

 じわじわと戦前のような社会になりつつある。それにも関わらず、未だにアベノミクスを評価し、自民党政権に期待する呑気な者がいると思うと鳥肌が立つ。

 安倍首相の策謀だけを見抜ければよいというものではない。安倍首相暴走の背後に米国が控えているのは言うまでもない。米国の策謀のことも考えると、背筋が凍る思いだ。以下、元朝日新聞記者でフリージャーナリストの吉竹幸則氏の記事を是非お読みいただきたい。

秘密保護法、集団的自衛金のあまりに危険な実態、ジョセフ・ナイ元米国防次官補の語る日米軍事戦略(MEDIAA KOKUSYO)

 ジョセフ・ナイ元米国防次官補は、もし米国と中国の全面戦争になった場合、米国は中国からの攻撃に備え日本の自衛隊を使いたいという思惑があるという。日本が戦争をできる国になれば、日本列島の米軍基地が少なくなって日本の基地となり、米国と日本の部隊が一緒に配備される可能性があるというのだ。このようなナイ氏の発言から、著者の吉竹幸則氏は米国と中国の全面戦争が起きた場合、日本全土の自衛隊基地が米軍基地化すると指摘する。しかも最悪の場合は核戦争だ。

 ここに書かれていることはもちろん推測の域を出ないし最悪の場合だ。しかし米国の策謀を考えたならあり得ないとは言い切れないし、常に最悪の事態を考えていなければならないということを私たちは福島の原発事故で学んだ。もし米国と中国との間で戦争が勃発したなら、自衛隊は米軍にいいように使われ、自衛隊基地から中国に米軍の爆撃機が向かうということになりかねない。日本列島は米国の捨て石にされ、戦場と化す可能性すらある。核兵器が使用された場合は日本は完全に壊滅するだろう。安倍首相の暴走がいかに恐ろしいものかが透けて見える。

 今私たちがしなければならないのは、安倍首相や米国の策謀を読み、そのことを広く知ってもらうことではなかろうか。安倍首相の目論む集団的自衛権の行使と改憲は、日本人が米国の手足になって戦争をするということであり、場合によっては日本列島が米国の捨て石にされて戦場と化すことを意味する。

 今回の衆院選で沖縄だけはすべての選挙区で自民党以外の候補が当選した。先の戦争で本土の捨て石とされ多くの犠牲を出し、今も基地問題を抱える沖縄の人たちは、戦争へと暴走する安倍政権の危険性を敏感に感じ取っているのだろう。のほほんとバラエティ番組など見ている場合ではないことを、どれだけの日本人が分かっているのだろうか。

2014年12月20日 (土)

他者を罵るのではなく対話を

 以下は私の18日のツイッターでの呟き。

世の中の人を敵と味方に分けたがる人がいるようだ。なんでそんな風に捉えてしまうのだろう? たとえ自分が批判されたからといって、批判した相手を敵対視する必要などなにもない。その意見に対し、冷静に自分の意見を述べればいいだけだ。

それなのに相手を敵対視して罵る人がいる。自分を支持する周りの人まで巻き込み自己正当化しようとすることもある。ときに相手のあら探しをしてわざとネガティブなことを広めようとする人までいる。その情報が事実かどうかも確かめず。仕返しをすることしか考えていないのだ。

そういう人に限って、事実と異なることを指摘されても決して謝ったり訂正したりしない。批判する人は敵であり自分に賛同する人は味方だと思っているのだろう。自分を支持する人を周りに従えていないと安心できない小心者だ。

安倍首相の言動にはとうてい賛同できないし批判もするけれど、だからといって私は彼を敵だとは思わない。悪徳商法とか詐欺師など人を騙そうとする人たちは十分気をつけなければならないと思うけど、そういう相手も敵だとは思わない。嫌いな人ではあるけれど。

原発推進者や御用学者の言う事は鵜呑みにしないし警戒するけれど、彼ら個人を敵だとは思わない。また反原発の人たちは味方という意識もない。すべてのことにおいて自分とまったく同じ意見の人などいないし様々な意見の人がいるのだから、敵と味方に分けるのはナンセンスだ。

戦争であっても、兵士にとって敵対する相手国の兵士個人は敵でも何でもない。戦争という異常な状況でなければ殺し合うことなどないのだから。国が勝手に敵を作っているにすぎないのだ。だから、どんな人であっても敵でも味方でもない。

あえて言うなら人間には利害関係で動く人たちとそうではない人がいるということ。自分のことしか考えられず他者を支配したがる人と常に他者のことを考え行動できる人がいるということ。もちろん中間的な人もいる。これは敵とか味方の関係ではなく、利己的か否かだ。

自分と違う意見の者や自分に批判的な者を憎んだり恨んだりするところに「敵」という意識が生じる。しかし、人を憎み恨む先には争いしかない。真に平和を求める人なら他者を憎んだり恨んだり罵ったり復讐はしないだろう。その代わりに言葉で対話をしようと試みるだろう。

 以下は、その後考えたこと。

 15日の記事にも関連することなのだけれど、日本人は意見交換したり議論したり対話したりということを避けてしまう傾向が強い。どうしてだろうかと考えてみたのだが、相手に論破されてしまうのが不安なのかもしれないとふと思った。議論になって反論できなくなったら「自分が否定された」「負けた」と受け止めてしまうのではなかろうか? 結局、意見交換や議論を勝ち負けで捉え、相手を敵にしてしまうのだ。だから例えば批判的な意見を言われても面と向かって議論せず、誹謗中傷だと言ってみたり(批判を誹謗中傷にすり替えてしまう)、悪口を言ったり罵倒したり変人扱いして自己正当化しようとする。

 これは実社会でもインターネットでもあまり変わらない。ただし、インターネットでは匿名性を利用して意図的に情報操作をしようとする人がいる。「ネット工作員」などと言う人もいるが、こういう人たちの目的は相対する人たちを分断させたり妨害することだ。利権が絡んでいることも多い。相手にしたら相手の思惑にはまってしまいかねないので無視するのが一番だと思う。

 世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな意見がある。友だち同士でも意見が違うことなど沢山ある。違う意見があるのが当たり前だし、どれが正しいかなど決められることではない。議論をしても平行線のままのこともあるけれど、考えを変えることだってある。いろいろな意見を聞くのは大切だと思うし、話し合いや議論は決して競争ではない。日頃から競争に追い立てられていると、話し合いですら競争だと勘違いしてしまうのだろうか。そんな人が多いと思えてならない。

 ただし自分の意見を押し付けてはならないし、相手の意見を間違いだと頭から否定してもいけない。もちろん感情的になって罵倒したり人格否定のようなことを言ってはいけない。それを守れば、議論することは敵をつくることにはならない。自分の意見を押し通そうとするから攻撃的になって相手を敵対視することになる。

 もうひとつ重要なのは、もし自分に事実誤認があった場合はきちんと訂正するということ。また、不適切な言動をしたと気づいたらそれを認め謝罪すること。だれだってうっかりミスや勘違いはあるのだし、それを認めたって評価が下がるというわけではない。当たり前のことなのだが、それができない人がときどきいる。間違いを認めようとせずに突っ張ってしまうと後戻りできなくなって矛盾を来たし、言い訳に終始したり、挙句の果て感情的になったりする。そして人間関係がぎくしゃくしてしまう。

 議論ができる人たちというのは、こういう対話のルールのようなものが基本的にできているのだと思う。逆に言えば、議論を嫌う人たちはこういうルールが身についていないか、あるいは身につけたいと思わない自己中なのだろう。

2014年12月15日 (月)

SASPLを広めることが希望につながる

 衆院選が終わった。マスコミは自公で2/3超と騒いでいるが、勢力的には前回とそう大きな違いはない。共産党が大きく議席を増やし、民主党も議席を増やしたのだから、少しは安倍政権に危機感を持つ人たちの意思が反映されたということのようにも思う。

 それにしても投票率は52%台のようで、戦後最低だった前回2012年の選挙よりさらに低い。寒い時期である上に、荒天と重なれば投票率の低下につながるのは目に見えている。投票所の外に長い列ができるところもあるようだし、冬の選挙はとりわけ高齢者には辛い。さらに唐突な選挙で野党は選挙の準備ができていない。そんなことも見越した上でのこの時期の解散総選挙だったのだろう。アベノミクスの嘘が見破られる前に延命を図りたいという戦略だ。

 そんな事情があったにせよ、有権者のおよそ半数しか投票をしないという現実に愕然とせざるを得ない。この国の人々の政治への無関心さというのはどこから来るのだろうか?  海外で暮らしたことはないが、おそらく日本人ほど日常的に政治や社会問題などについて話題にしない国民は少ないのではなかろうか。それは今に限ったことではなく、私が若い頃からそうだった。

 私は女子高に通っていたが、大多数の生徒のもっぱらの話題はファッションや芸能人、異性や食べ物のことだった。小難しい科学の話しなどはもとより、政治の話しなどというのはタブー同然だった。そんな話しをしたなら「空気を読めない」者として無視されるか陰口を言われるのがおちだ。

 これはもちろん女子高生に限ったことではない。大学生の多くもそうだったし、社会に出てからもたいして変わらなかった。概して、日本人は政治の話しをしたがらないし、関心が薄いとしか思えない。そして意見を言い合うということを好まない。

 おそらく同調圧力の中で「空気を読む」ことが以前よりはるかに重視される昨今は、私の若い頃以上に政治の話しなどタブーなのだろう。政治の話しなどしたら、仲間外れにされていじめの対象にされかねない。これでは政治に無関心になり選挙に行かない人が増えるのも当然だ。

 欧米人の場合「自分の意見を言わない人などつまらない」という評価になるらしいが、日本はその逆で、周りと違う意見を言ったら「出る杭は打たれる」ということになってしまう。仲間内で集まっても、違う意見をめぐって議論することを嫌う人が多い。意見を言うことは決して他者の批判ではないし民主的に物事を進めるために重要なことなのに、議論を避け声の大きい者に従おうとする。つまりは、自分の身を守るために自ら長い物に巻かれてしまうのだ。自分であれこれ考えなくてもいいから楽でもある。こういう自己中の思考から脱却できない限り、日本人の多くは政治に無関心であり続けるのかもしれない。

 となると、こういう人たちは自分たちの身に危機がふりかかるまで問題に気づかないということになるのだろう。つまりは貧困で生活が脅かされたり、自由に物が言えなくなったり、徴兵制がしかれて自分や家族が戦争に駆り出されたりしない限り、自分たちの無関心がそういう政治を推し進めてきたことにすら気づかないのではなかろうか。兵士がいなければ戦争はできないのだから、戦争は国民を巧みに騙すことから始まる。政治に無関心であればいとも簡単に国民は騙される。

 あの残酷で悲惨な体験をした人たちは高齢になってどんどん亡くなっている。歴史は繰り返すというが、また同じことが繰り返されようとしている。

 そして恐ろしいのは、今の時代、一歩間違ったら簡単に国の破滅につながるということだ。安倍首相は原発の再稼働とともに大間原発の新設へと舵を切っている。大地震、大津波、火山噴火のことを考えただけでも、日本での原発の再稼働は狂気としか思えない。日本は必ずいつかまた大地震や大津波、火山の巨大噴火に見舞われる。原発がある以上、原発事故は必ず繰り返されるし、再び大事故を起こして大量の放射性物質をばら撒いたならもはやこの国の存在すら危ぶまれる。さらに戦争に参加して敵をつくったなら、原発が狙われる可能性は高くなる。

 「国破れて山河あり」は過去のことで、これからは放射能汚染によって「国破れて山河も滅びる」のだ。

 そうした狂気に満ちた自民党政権を私たちはまた選んでしまった。恐らくはこれから自由に物を言うことも制限されていくだろう。そんな中で、どうしたらこの狂気の政治に関心を持ってもらえるのだろう? 「自分に危機が降りかからなければ分からない」のであればあまりに虚しい。

 しかし嘆いていても何も変わらない。若者のすべてが無関心なわけではない。「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」略してSASPLが声をあげている。この運動が全国に広がれば、「政治に無関心な若者はダサいと」いう意識が広がっていくかもしれない。諦めてはならない。「嫌われる勇気」を持つことが今ほど求められている時代はないと思う。

2014年12月11日 (木)

誰のための部活なのか?

 「異常としか思えない日本の中学、高校の部活動」という記事(ココログ版)にYYさんからコメントが寄せられた。以下がそのコメント。

初コメント失礼いたします。

私自身とても熱の入った文化部に入っていました。中学2年の頃に顧問が変わり、ただ楽しくやっていた部活の方針は180度変わりました。新しい顧問は全国大会にも何度か出場経験のある、県内でも顔の知れた先生でした。
はじめは部員と顧問お互いに慣れるため、それまでと変わらなかったのですが、だんだんと練習量が増えていきました。やはりその過程では何度も部員と顧問、親と顧問がぶつかることがあり、退部する子もいました。その中でも、顧問の先生は本物の愛情を持ったかたで情熱があるからこそ凄く厳しいこともあったのですが、確かに心から慕い付いていく部員もいました。私もその一人でした。3年になってからは(顧問2年目)練習は基本日曜休みでしたが部員の方から「練習を入れてほしい」「他校の練習見学をしたい」「講習会に行こう」というようになっていました。休みは月に一度もないほどで朝練昼練もありました。もちろん実績もできました。結局引退までやりきった3年生は入部したときの半分以下でした。ただ、最後までやりきった仲間は心から信頼でき今でも繋がっています。
とても厳しかった顧問の先生には、当時の私は死にたいほど追い詰められたこともありましたが、だからこそ見えたこともありましたし、今私自身が生きているのは顧問の先生と出会ったからだと言えるほどです。

長々と私の話をしてしまい申し訳ありません。私が言いたいのは、鬼のように厳しくても良い教師はいるということです。もちろんおっしゃるように最低な教師がいるのも事実です。
ですが部活は同じ志を持つものが集まり上へ上へと目指す場であると思います。厳しいようですが、ついていけない、自分には無理、嫌だ!と感じれば退部の道があります。何かしらの部活に入らなければならない学校は大抵てい甘い部活があります。
体罰はあってはならないことですが、それが原因で自殺したりしてしまうのは家庭環境や相談できる大人が周りにいないことが問題です。

今の学校教育を激しく批判するかたもいますが、基本的に部活顧問はボランティアです。やらされることもあります。それでも情熱を持って22:00、23:00までサービス残業し、朝練のため7:00には学校に出勤し、とやっています。そういった教師と最低な教師をひとまとめにしてめったうちに批判するのはおかしいです。本物の現状をもっと知ろうとしてください。

 YYさんは「顧問の先生は本物の愛情を持ったかたで情熱があるからこそ凄く厳しいこともあった」と、顧問の厳しい長時間の指導を本物の愛情があり情熱があったと高く評価している。私は正直いって、この発言にとても違和感を覚えた。

 文化部で全国大会もあるということから、吹奏楽とか合唱などの音楽系の部活ではないかと思われる。長時間の厳しい練習はたしかにレベルの向上につながり成績は上がるだろう。厳しい特訓に耐えた仲間に連帯意識が生じるのも分かる。しかし、教師がそこまで特訓をする目的は何なのだろう?

 YYさんの文章に以下の記述がある。
・新しい顧問は全国大会にも何度か出場経験のある、県内でも顔の知れた先生でした。
・何度も部員と顧問、親と顧問がぶつかることがあり、退部する子もいました。
・結局引退までやりきった3年生は入部したときの半分以下でした。
・とても厳しかった顧問の先生には、当時の私は死にたいほど追い詰められたこともありました

 これらの文章から、この顧問の目的が私の頭に浮かんできた。それは顧問として部活を率い全国大会で良い成績をおさめたいという功名心である。良い成績をとれば顧問の評判や名声につながる。その目的を果たすために練習量を増やせば、部員や親ともぶつかることになる。そして、最終的にはそのやり方に納得できない部員が辞めていく・・・。

 ここから見えてくる光景は、顧問のための部活動だ。全国大会で良い成績をおさめたいと野心を燃やす顧問が、自分の目的に従うように部員を誘導していく姿としか私には映らない。

 部活動というのは基本的には生徒が自主的に取り組む課外活動ではなかったのか。一時は「死にたい」と思うほどに生徒を追い詰めたこの教師に、生徒の主体性を重んじ民主的な部活動を支援するという姿勢が果たしてあったのだろうか?

 学校においては、どうしても教師と生徒は支配従属関係に置かれてしまう。学校という閉鎖空間で立場が上の者が下の者をマインドコントロールするのはたやすい。多くの生徒は教師に評価されたいと思うし期待に応えようとする。支配的な教師が、生徒を自分の目的のために誘導することはそれほど難しくはない。

 生徒は教師になかなか反論ができないし、たとえ反論しても言葉巧みに生徒のせいにしてしまうのだ。「やる気がない」「努力が足りない」「頑張れないのはわがまま」・・・と。マインドコントロールによって生徒はあたかも自分の意思で全国大会での活躍や猛練習を選択したかのように思わされてしまったとしても何も不思議ではない。

 生徒が辞めていったのは、厳しい練習に耐えられなかったためだけだろうか? 休日もろくにない厳しい練習や大会への出場は、ほんとうに生徒が望んでいた部活なのだろうか? 生徒が主体であるべき部活で、なぜ半数以上もの生徒が辞めなければならなかったのだろう? 私には問題は顧問の姿勢にある、としか思えない。

 いわゆるモラハラ(モラルハラスメント)と同じことが部活では容易に起き得る。モラハラをする人間は実に巧妙で、どうしたら相手が自分に従うのか分かっている。たとえば褒めたり叱ったり、とアメとムチを使い分けるのだ。相手を支配する方法は、おそらく自身の経験から自然に身につけるのだろう。もし支配的なタイプの教師が部活の顧問になれば、学校という教育現場でとんでもないモラハラが生じかねない。そして問題なのは、「支配されている」ということに被害者はなかなか気づかないことだ。なぜなら良い成績が取れないのは自分の努力が足りないからだと思って(思わされて)しまうからだ。

 YYさんは厳しい練習は顧問の愛情であり情熱だというが、私にはそうは思えない。本当に愛情があるのなら、何よりも生徒の自主性を尊重するのではないか? 大会に出場するか否かも、練習時間をどのようにするかも。部活動は生徒のために存在するのであり顧問のために存在するのではないのだから。顧問というのはあくまでも生徒の自主的活動のアドバイザーであり脇役に徹すべきだ。

 文化部においても運動部においても、それは変わらない。顧問は自分の希望や目標を生徒に押し付けて支配してはならない。生徒も顧問の期待に応える必要などないし、支配されてはいけない。私はそう思う。

 これは家庭でも同じだ。「あなたのため」とあたかも愛情であるかのような言い方をして子どもに塾や習い事を半ば強制し、良い大学、良い会社へと追い立てる親がいる。しかし本当は「あなたのため」ではなく「自分自身のため」に夢の押しつけをしているのだ。本当の愛情とは子どもが自分で考え選択し行動するように見守り、必要があれば手助けすることではなかろうか。

 競争だらけの社会で、せめて部活動くらいは競争から解き放たれた楽しい時間であってほしいと思う。何もコンクールや大会で競争することだけが活動ではない。音楽系の部活であれば施設や被災地などを慰問して演奏会をするのもよし、地域の学校が集まって優劣を問わない演奏会をするのもよし。生徒が他者を感動させるような演奏をしたいと思えば、なにも顧問が厳しい指導をしなくても自ら練習に励むだろう。

 運動系の部活にしても同じで、部活は選手を育成する場ではない。試合をすれば必ず勝者と敗者が出る。ゲームには敗者も必ずいるのだ。プロ選手のように生活がかかっているわけではないし、力を出せれば勝っても負けてもいいではないか。自分たちも観客も楽しめればそれでいいと私は思う。

« 2014年11月 | トップページ | 2015年1月 »

フォト

twitter

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ