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2014年4月

2014年4月29日 (火)

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その3

課題の分離
 アドラー心理学では行動面の目標として「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」を、心理面の目標として「わたしには能力がある」、「人々はわたしの仲間である」という意識をもつことを掲げている。そして、「人生のタスク(課題)」と向き合うことでこれらの目標が達成できるという。

 その人生のタスクとは「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」だ。二―トや引きこもりは「仕事のタスク」の段階でつまずいたのだという。そして、他者のせいにしたり環境のせいにして人生のタスクから逃げることを「人生の嘘」と呼んでいる。

 こうした人間関係においてもっとも重要なことは「課題の分離」と「承認欲求の否定」だという。

 哲人は「およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと―あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること―によって引き起こされます」という。たとえば勉強をするというのは子どもの課題であるから、親が子どもに「勉強しなさい」と言うのは、親が子どもの課題に踏み込んでしまっていることになる。誰の課題であるのかを見分けるのは「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受ける人」だ。

 これは私も日常生活の中でよく経験する。私自身が決めるべきことを他者から強要されるととても不愉快になる。アドバイス程度で止めておけばいいのだが「ああしなさい」「こうしなさい」と強要されたら、誰もが面白くないだろう。いわゆる過干渉だ。だから、他者の行動について自分の意見を言うことはあっても、それを相手に押しつけてはならない。ところが、世の中には自分が他者から干渉されると怒るのに、他人には平気で干渉して支配しようとする人がいる。このような時は、決して相手に従ってはならないし、強要をやめないような人からは離れるしかないと思う。

 人生とは選択の連続だが、自分の信じる道を選ぶのは自分自身の課題だ。選択の結果に責任を持つのは自分自身であって、他人のせいにしてはならない。これが「課題の分離」の基本だ。

 一方、承認欲求とは、他者の期待に応えるように生きることだ。しかし、それは常に他者の評価を気にし、他者の顔色をうかがって生きることに他ならない。また、誰からも嫌われたくない」ということにも通じる。しかし、そうした生き方は自分の人生を人任せにしてしまうことに等しい。なぜなら、誰からも嫌われないようにと常に相手に合わせていたなら、相手にも自分にも嘘をつき続けることになるからだ。嘘をつき続けるほど不自由な人生はないだろう。だから、アドラー心理学では「自由とは他者から嫌われることである」ということになる。

 実際、他者の評価をいつも気にし、人から嫌われることを恐れる人は実に多い。そうすることが自分にとっていいことだと思っているのだと思う。しかし、他者から嫌われまいと自分の人生を人に合わせていたなら、それは他人に振り回される人生であり本当の自分の人生ではない。そういう生き方はいつか自分を苦しめることになるだろう。日本でうつ病や自殺者が多い背景に格差の拡大、競争、あるいは深刻なパワハラやいじめなどがあるのは確かだ。しかし、それと同時に、原因論にはまりこんで絶望感から抜け出せなかったり、嫌われないようにと振る舞い、身動きがとれなくなってしまう人もいるのではなかろうか。また、うつ病の薬などがそれに拍車をかけているようにも思う。

共同体感覚と他者への貢献
 共同体感覚というのは「他者を仲間だとみなし、そこに『自分の居場所がある』と感じられること」だ。そして、「共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、もっとも重要な指標」だとしている。このあたりのことは是非、本書を読んでいただきたいのだが、簡潔にいうならば「自己への執着」をすてて「他者への関心」に切り替えていくということになる。

 では、「自己への執着」とは何か? 以下の会話を引用しよう(183ページ)。

哲人:承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか? つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか? ・・・・・・こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。
青年:じゃあ、わたしのように他者からの評価に怯えている人間もまた、自己中心的だというのですか? これほど他者に気を遣い、他者に合わせようとしているのに!?
哲人:ええ。「わたし」にしか関心がない、という意味では自己中心的です。あなたは他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着にほかなりません。

 アドラー心理学は厳しい。課題の分離ができておらず、承認欲求にとらわれている人は自己中心的だとする。そして、「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えていくことが必要だと説く。なぜなら、他者に貢献できたときこそ、人は自分に価値があると思えるのであり、勇気を持てるというのだ。私自身は、自分の価値について考えたことはなかったので、この指摘は今ひとつピンとこないのだが、そう言われてみればそうなのかもしれない。「他者が私に何かをしてくれることを期待するのではなく、私が他者に何をできるのかを考え実践する」というところに、幸せになるためのポイントがありそうだ。

 アドラーの心理学は厳しいのだが、同時に希望がある。それは「過去にどんなことがあったかなど、あなたの『いま、ここ』には何の関係もないし、未来がどうであるかなど『いま、ここ』で考える問題ではない」という考え方だ。過去の経験や学歴など、これからの人生にはなんの関係もない。学歴が高い、あるいは辛い経験をしていない人がみんな幸せというわけではないし、学歴が低かったり辛い経験をしていても活き活きと幸せに生きている人が沢山いるのは明らかな事実だ。

 原因論に立つと、人の不幸は家庭環境や生まれ育った境遇、過去の経験などに起因することになる。親の教育に問題があったとするなら、なぜ親はそのような教育方針をとるようになったのかという話しになり、結局は「社会が悪い」ということになっていく。いじめが原因で引きこもりになれば、「まわりに同調する」ことを強いる社会が悪いということにもなるだろう。しかし、何でも「他人が悪い」「社会が悪い」で片づけてしまえるものなのだろうか? その社会はいったい誰がつくっているのだろうか?

 そう考えると、不幸であることを「社会が悪い」と社会のせいだけにしてしまうのも違うように思えるし、人が幸福であるか不幸であるかというのは一人ひとりの生き方の問題だということに行きつく。一人ひとりが変われば社会も変わるのであり、それ以外に社会を変えることはできない。

 哲人はこんなことを言っている(281ページ)。

哲人:ええ、信じてください。わたしは長年アドラーの思想と共に生きてきて、ひとつ気がついたことがあります。
青年:なんでしょう?
哲人:それは「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということです。
青年:どういうことでしょうか?
哲人:つまり「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということです。アドラー心理学を知ったわたしの目に映る世界は、もはやかつての世界ではありません。

(略)

哲人:もう一度、アドラーの言葉を贈りましょう。「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」。

 世界を変えるのは「誰か」ではなく、自分自身だ。「自分ひとりが動いたところで、何も変わりはしない」と言うのは、「動きたくない」ための言い訳でしかないだろう。

 アドラーの思想は時代を100年先行したといわれているそうだが、アドラーの思想を凝縮した「嫌われる勇気」が今の混沌とした時代にベストセラーとなり受け入れられているのは、その思想が決して古いものではなく今こそ必要とされている証なのだろう。

 本書が多くの人に読まれることを願ってやまない。

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その1 
アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その2 

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2014年4月28日 (月)

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その2

競争を否定し、対等であることを説く
 前回はアドラーが原因論を否定し、目的論を提唱していることを書いた。目的論の本質は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」ということだ。そして、変われないのは「あなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと不断の決心をしている」からだという。だから、ライフスタイルを変える決心ができるということがまず第一歩になる。確かにそうだと思う。

 アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係の悩み」であるとしている。そして、他者と競争をしたり勝ち負けをつけることに警鐘を鳴らす。これについての哲人の説明は実に論理的だ。少し長いが引用したい(95ページ)。

哲人:これは競争ともつながる話です。覚えておいてください。対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。
青年:なぜ?
哲人:競争の先には、勝者と敗者がいるからです。
青年:勝者と敗者、大いにけっこうじゃありませんか!
哲人:具体的に、ご自分のこととして考えてみてください。たとえばあなたが、周囲の人々に対して「競争」の意識を持っていたとします。ところが競争には、勝者と敗者がいる。彼らとの関係について、勝ち負けを意識せざるをえなくなる。A君はこの名門大学に入った、B君はあの大企業に就職した、C君はあんなにきれいな女性と付き合っている、それに比べて自分はこんな具合だ、というように。
青年:ふふっ、やけに具体的ですね。
哲人:競争や勝ち負けを意識すると、必然的に生まれてくるのが劣等感です。常に自分と他者を引き比べ、あの人には勝った、この人には負けた、と考えているのですから、劣等コンプレックスや優越コンプレックスは、その延長線上にあります。さて、このときあなたにとっての他者とは、どんな存在になると思いますか?
青年:さあ、ライバルですか?
哲人:いえ、単なるライバルではありません。いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だとみなすようになるのです。
青年:敵? 哲人:すなわち、人々はいつも自分を小馬鹿にしてせせら笑い、隙あらば攻撃し、陥れようとしてくる油断ならない敵なのだ、世界は恐ろしい場所なのだ、と。
青年:油断ならない敵との・・・競争だと?
哲人:競争の恐ろしさはここです。たとえ敗者にならずとも、たとえ勝ち続けていようとも、競争の中に身を置いている人は心の休まる暇がない。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、つねに勝ち続けなければならない。他者を信じることができない。社会的成功をおさめながら幸せを実感できない人が多いのは、彼らが競争に生きているからです。彼らの世界が、敵で満ちあふれた危険な場所だからです。

 勝ち負けとは、ここで挙げているようなことだけではない。たとえば相手から罵倒されたり相手の言動に本気で腹が立ったときには、相手が権力争いを挑んできているという。つまり勝つことによって自らの力を証明したいというのだ。さらに権力争いが発展すると、復讐に及んでしまうと指摘する。

 対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているという考えは、なるほどと思った。自分の意見を述べるのはもちろん自由だが、自分の考えこそ正しく他者は間違っていると断定してはいけない。そのような態度は相手を屈服させることになり、対等な関係ではない。「自分こそ正しい」という押しつけ合いをしたなら、それは権力争いになってしまうという。

 ネット上でも「自分の主張は絶対に正しい」という論調で、異なる意見の人を蔑んだり罵倒する人がいるが、そのような人は「人はみな対等」という意識が欠落しているのだろう。物事を勝ち負けで考え、相手を敵だとみなして無意識的に権力争いを挑んでいるのだと思う。こういう姿勢をとっていたら、対人関係はぎくしゃくしたものにしかならない。

 アドラーは褒めることも叱ることも否定する。これについては異議を唱える人が多いかもしれない。なにしろ巷には「ほめて育てる」といった本が溢れており、ほめるという教育は広く支持されているからだ。しかし、ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面があり、上下関係にあるというのがアドラー心理学の考え方だ。

 確かに「ほめて育てる」という行為の背景には、ほめておだてることによって親が子どもをコントロールするという意図がある。私自身は「ほめて育てる」ということにずっと違和感をもっており、自分の子どもをほめそやした記憶はほとんどない。何かに取り組むという行為は自発的な意思によってなされるべきであり、ほめられることが動機や目的になってはならないと思うからだ。もっとも、子どもにとってはほめてくれないことを不満に思っていたに違いない。

 子どもが通っていた小学校には、コンクール好きの教師がいた。その教師は「いろいろなコンクールに応募すれば、かならず何かに入選する。それが励みになるしやる気を起こす」といっては子ども達の絵や書道、作文などを頻繁にコンクールに送っていた。確かにコンクールに入選することは子どもにとっては嬉しいに違いないし、入選がきっかけでやる気を起こす子どももいるかもしれない。しかし、審査員に評価され「賞」というごほうびをもらうことが目的の応募であれば、自ずと子どもに競争を強いることになるし、「コンクールに入選する」ことを意識した創作になってしまう。

 叱るということも同じだ。哲人は「われわれが他者をほめたり叱ったりするのは『アメを使うか、ムチを使うか』の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだからなのです」と説明する。

 しかし、今の日本は子どものころから競争ばかりだ。親も学校も子どもを競争へと駆り立てている。これでは子ども達が競争心や劣等感を抱くのは当たり前だろう。教師こそアドラー心理学を学んだほうがよさそうだ。

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その1
アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その3

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2014年4月25日 (金)

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その1

 心理学に関してはほとんど知識がない人でも、ユングやフロイトの名前くらいは知っているだろう。私もそれくらいは知っていた。しかし、アルフレッド・アドラーがフロイト、ユングと並んで「心理学の三大巨頭」と称されていることは知らなかったし、アドラーの思想も知らなかった。

 このアドラーの思想(心理学)を、青年と哲人の対話という形式でとても分かりやすく紹介しているのが、岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気 自己啓発の源流『アドラーの教え』」(ダイアモンド社)だ。最近、この本が話題になっているということを知って購入してみた。

 私自身は、他者から嫌われることを気にするタイプではない。むしろその逆で、他者からの評価は気にしないし、嫌われるのは大いに結構だと思っている方だ。しかし、他者との関わりの中で「空気を読む」ことが当たり前になり、常に他人の評価を気にしている人が何と多いことだろう。それは学校にはびこる「いじめ」だけが原因なのだろうか?

 アドラーの心理学の特徴は、フロイト的な原因論を全面的に否定する。つまり「原因があって結果がある」という因果関係を否定し、人は今の目的によって動いているという「目的論を提唱する。そして、「すべての悩みは対人関係の悩みである」とし、「自由とは他者から嫌われることである」と説く。フロイト的な原因論を信じ、自分の不幸は過去の辛い体験に起因していると考えている人にとっては、とても簡単には受け入れられないかもしれない。

 しかし、私にとっては実にしっくりくる内容だった。つまり、自分自身の経験と照らし合わせてみても、ほとんど違和感なく受け入れられる。

 ユングやフロイトと並ぶ心理学者でありながら、日本ではなぜアドラーの心理学があまり知られていないのだろう。うつ病や自殺者が多く、他者の評価を気にする人が多い日本人に必要なのは、まさにアドラーの心理学を理解することではないかと思った。

 アドラーの心理学を受け入れることができ、自分を変えることができたなら、アドラーが言うように、誰もがほんとうの自由や幸せを手にできるというのは事実だと思う。

 だからこそ、幸福感が持てない人、他者の評価を気にする人に是非とも勧めたい一冊だ。特に、アドラー心理学を丁寧に説明する哲人と、それに真っ向から異論、反論を唱える青年との対話という形式は、多くの人の疑問に答えるものになっているだろう。

 というわけで、「嫌われる勇気」で論じられるアドラー心理学について、私の感想を添えながらかいつまんで紹介したい。

原因論を否定し目的論を提唱
 原因論とは、「現在」の状況は「過去」のできごとによって規定されるという考えだ。カウンセラーがクライアントに対し、今のあなたの苦しみや不幸は過去の経験に起因しているとして、「だからあなたは悪くない」というのはごく一般的な対応だ。このようなトラウマの議論をアドラーはきっぱりと否定している。ただし、過去の経験が人格形成に大きな影響を与えること自体を否定はしていない。トラウマが今の自分を規定しているという考え(原因論)を否定しているのだ。

 では、今の苦しみはどこからくるのか? アドラーの目的論は原因論とは対極にある。原因論では、たとえば親に虐待されて引きこもりになった青年は、虐待が原因で社会に適合できず引きこもっていると考える。しかし、目的論では、「引きこもりたい」という目的があってそうしているという。たとえば引きこもることで親の注目を集めるとか、親を困らせて復讐するといった目的がその人自身の中にあるのだという。そして、外に出たくないから「不安」や「恐怖」という感情を自らつくりだしているのだと考える。

 ここで「そんな馬鹿な・・・」と引っかかってしまう人も多いだろう。しかし、もし、過去の経験が現在を規定しているのなら、同じ虐待という経験をした人はすべて引きこもりになったり社会に適応できないことになるだろう。しかし、実際にはそんなことはない。過去の経験や性格、育った環境などは過去の判断に影響を与えただろうけれど、その時々に自分自身ではもっともよいと思う選択をしてきたのであり、その結果が今の自分自身なのだ。だから、大事なのは過去ではなくこれからどんな選択をしていくのかということ。これからの選択で、人は変わることができる。過去にどんな経験があったとしても、それが今の自分自身を決定しているのではない。過去の経験にどんな意味付けをするかで現在が決まってくるというのがアドラーの目的論だ。

 東日本大震災では多くの人が津波で親族を失うという苛酷な経験をした。みな、心に大きな傷を負って落ち込み苦しんだに違いない。今でも深い悲しみの中にいる人も多いだろうし、絶望からうつ病になった人やPTSDで苦しんでいる人もいるだろう。そのような状況からなかなか抜け出せない人もいれば、比較的早く前向きに歩み出せる人もいる。これは、災害による親族との死別という苛酷な経験に、どのような意味付けをするのかがひとりひとり違うからだろう。震災が大きなトラウマになったのは事実であっても、いつまでもそこに留まって不幸を震災のせいにしていたのでは前に進むことができないし、幸せにはなれない。幸せになるためには、自分自身が変わるしかないのだ。

 つらい経験をした人にとって目的論はなかなか受け入れられないかもしれない。自分がよかれと判断してきた行いが今の不幸を招いているというのなら、自分を否定されたと感じてしまうかもしれない。あるいはこれまでの自分は何だったのか、自分は何のために生きてきたのかと絶望の淵にたたされても不思議ではない。しかし、アドラーは決して否定はしていないと私は思う。たんに他の選択肢を知らなかったがためにそのような選択をしてしまったのだ。大切なのは過去の選択が今の不幸を招いているのなら、今後の選択で必ず変えられるということ。そして自分を変えることができるのは自分自身でしかない。

 本書のはじめの部分(24ページ)にこんな会話がある。

青年:最初に議論を整理しておきましょう。先生は「人は変われる」とおっしゃる。のみならず、誰しも幸福になることができる、と。
哲人:ええ、ひとりの例外もなく。

 自分を変え、幸福になるために必要なのは「勇気」なのだというのがアドラーの心理学である。

 とりわけ不幸を実感していない人でも、あるいは過去に辛い経験を持たない人でも、自分の性格を言い訳に行動を起こさないことがあるのではなかろうか。「そんなことは私にはとてもできない」と。私自身のことを振り返ってみてもそうだ。私は高校生まではとてもおとなしくて目立たない存在だった。人前で自分の意見を堂々と言うこともなく、学級委員などをやったり劇で主役を演じるタイプとは程遠く、教室では居るか居ないかわからないような存在だった。大勢の人と賑やかにするのが苦手で、慎重すぎてすぐに物怖じをしてしまうタイプであり、恐らくHSP(Highly Sensitive Personの略で、敏感な人という意味。詳しくはこちらを参照していただきたい)に該当するのだと思う。このようなタイプの人はクラスに必ず何人かいるものだ。

 しかし、大学生になり自然保護などの活動に参加するようになると、活躍している人たちの大半はとても積極的で活き活きとしていた。私はそんな彼らにすごく憧れを抱いた。彼らの物怖じしない性格を羨んだこともあったが、次第に自分の性格のせいにしてしまうのは違うのではないかと気づいた。自分は今まで自ら意見を言ったり自ら行動しようとしてこなかったのだ。そして、活き活きと積極的に行動している人たちを真似てみようと決意をした。はじめこそ勇気のいることだったが、次第に人前でも自分の意見が言えるようになった。そして、それは自分に自信を持つことにつながっていった。

 小中学生の頃の私を知っている人なら、私が市民団体の役員をしたり、公の場で自分の意見を主張するなどということは考えられないに違いない。社会人になってから、中学校のクラス会に参加したことがあった。そのとき、クラスで人気のあった積極的なM君が、私とちょっと顔立ちが似ているがとても快活で積極的だったSさんと私を間違えた(Sさんはクラス会には出ていなかった)。おそらく彼は積極的なSさんはよく覚えていても、私の記憶などほとんどなかったに違いない。その時、私は自分で自分を変えることができたのだと実感した。

 HSPという生まれもった気質を変えることはできないだろう。しかし、自分の考え方(たとえば過去の経験への意味付け)や行動を変えることは誰でもできる。そう自分で決心し勇気をもって行動に移しさえすれば。

 だからこそ、私はアドラーの目的論をすんなりと受け入れることができる。

 過去の辛い体験が今の自分の不幸の原因だと嘆いて何の行動も起こさないのなら、幸福になることはできない。過去の辛い経験が自分の判断に影響を与えたのは事実でも、その時々の自分自身の判断の積み重ねが今の自分の状況をつくりだしていることを、私たちは嫌でも認めなくてはならない。ただし、それは決して否定されることでも悪いことでもない。その時はそうするしかなかったのだ。ただし、今後の選択は変えることができる。今の苦しみから抜け出して幸せになりたいと思うのなら、原因論から抜け出し自分で自分を変えるしか道はない。

アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その2
アドラー心理学を凝縮した「嫌われる勇気」-その3

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2014年4月22日 (火)

PTAを強制するのは憲法違反

 毎日新聞にこんな記事が掲載されている。

 PTA:役員決めは罰ゲーム? やらない人はトイレ掃除も 

 この記事を読んで「うちの学校も同じ・・・」と苦笑した人が多いのではなかろうか。いつの時代からか知らないが、PTAの役員は公平にみんながやるべきだとか、くじ引きで決めるなどというのが当たり前のようになっているらしい。かくいう私も、かなり無理矢理なやり方で役員にされたことがある。

 子どもが小学校に入学し、はじめてPTA婦人部(この学校のPTAには、母親だけを対象とした「婦人部」が設けられていた)の会合に出たとき、さっそく「みんな一度は経験している人ばかりなので、役員をやりませんか」と新人の私に声がかかった。そして、その時は「くじ引き」を言い出した人がおり、私が見事に当たりくじを引いたと記憶している。その強引な決め方にかなり愕然とした。

 その後、児童数の減少とともに「婦人部」はなくなって、男性主体であったPTA本体に一本化されたのだが、そこでも私は長らく副会長を務めた。やりたくて立候補したわけではない。そもそもPTAに入るか否かも基本的には自由だし、断るという選択肢もあった。しかし、あえて断らずに続けたのは、自分の子どもも参加するPTAの行事などに対してきちんと言うべき意見は言っておかねばならないと思ったからだ。

 児童数の少ない地方の学校では、学校とPTAの共催行事が年に数回ある。たとえば運動会やスキー大会。これらは学校、保育所、PTA、町内会の合同行事だ。また、学校とPTAが主催する全校登山や夏のキャンプなどもあった。子どもがこのような行事に参加する機会がある以上、親としては意見を言う権利や責任がある。

 もう一つ理由がある。私の住む地域では、PTA会員は小学校に子どもが通っている家庭に限定していない。小学生のいない家庭も会員になり、会費を集めていた。いわば善意の会員である。そのような善意で集めた会費が含まれているのだから、会費の使い方も慎重を期すべきだ。しかし、ややもすると役員である一部の保護者だけの意向で、親睦との名目で娯楽の要素の強い行事に使われかねない。もちろん親睦を否定するつもりはないが、小規模校ではとかくPTA行事=親睦=飲食となりかねないのだ。保護者が出した会費でそのような行事をするならまだ分かるが、地域の会員の善意の会費を一部の会員の娯楽的行事に使うのは賛成できない。

 そんな理由から、PTAに入会しないという選択はしなかった。そして、保護者の少ない小規模校ということもあり、かなり長期間にわたって副会長をやってきた。PTAを必要だと思うのなら、誰かが役員をやらねばならない。もちろん、子どもが小学校を卒業したらPTAからは退会した。私は自分の子どもが通わない学校のPTA会員になる意思はない。

 子どもが中学校に入ったときも驚いた。入学式のあと、担任から説明があるので保護者は教室に集まるよう言われた。ところがそれを無視して帰ってしまう人がぞろぞろいる。どうしてなのだろうと不思議に思っていたのだが、あとでその理由が分かった。担任の教師の話しのあとにクラスのPTA役員の選出があったのだ。それを知っていて役員をやりたくない親はさっさと帰ってしまったというわけだ。

 この時も、教室には嫌な雰囲気が充満した。もちろん立候補する人は誰もいない。やがて「○○さんを推薦します」という声が上がり、拍手が起こる。「働いている」「親の介護がある」などという理由がない限り、ほとんど有無を言わさずに決められてしまう。私もそのようにして役員に指名され拍手で決められてしまった。

 本来ならまず入学に際してPTAに入るかどうかの確認をしたり規約を配布すべきだが、そういう手続きはもちろんない。子どもが学校に入れば会員になるのが当たり前という意識がある。そして、役員をやったことがない人に白羽の矢がたつのだ。おかしいとしか言いようがない。

 そもそも組織というのは必要性や意義があるから存在している。必要だと思う人が会員になり、役員を選出して運営をするのは当たり前だ。もちろんさまざまな事情で役員ができない人がいるのも事実で、無理に押し付けるものでもない。理由もなく役員になるのが嫌で逃げ回るのなら、はじめから会員にならないという選択肢だってある。役員のなり手のない組織は、存続できないという状況にほかならない。そんな組織ならば、いっそ解散するという方法もあるだろう。

 任意団体である以上、入会にしても役員にしても、強制などというのは憲法違反であり、子どもが学校に入ると同時にPTA会員にしてしまうのは民主主義のルールに反する。高校や大学では学費と一緒にPTA会費を徴収するところもあるが、どうしてそんなことがまかり通っているのだろう。日本人は、まずそのことに気づくべきだ。

2014年4月 7日 (月)

廃業勧告を受けていた金坂滋行政書士

 日本行政書士会連合会のホームページに、私の戸籍を不正に取得した金坂滋行政書士が、東京都行政書士会から平成24年1月26日付けで「廃業の勧告及び5年の会員の権利の停止(東京都行政書士会会則代23条第1項)」の処分を受けていたことが公表されている。以下のページの「単位会長による処分事例」の「平成24年1月26日東京会」というファイルがそれである。

http://www.gyosei.or.jp/information/organization/discipline.html

 金坂氏の処分理由は以下のように書かれている。

戸籍謄本・住民票の写し等職務上請求書を用いて他人の原戸籍謄本・戸籍謄本を使用目的「遺言状作成資料」と記載した上で請求して取得したが、不正に取得した疑いがあり、行政書士法第10条に違反するため。また、行政書士法第9条(帳簿の備付及び保存)2年間の保存、行政書士法施行規則代10条(領収書)作成の日から5年間の保存及び職務上請求書取扱規則第12条(使用済み控えの保管)記載内容の確認を受けた使用済み請求書の2年間の保存を行わず、遵守義務を怠っていたため。

 日本行政書士会連合会によると、懲戒処分には「訓告」「会員権の停止」「廃業、解散又は従たる事務所の廃止の勧告」がある。「会員権の停止」がどのようなことを意味するのか分からないが、廃業の勧告を受けたのだから金坂氏の処分は重い方になるのだろう。

 私が東京都行政書士会に金坂氏の懲戒請求をしたのは平成23年の夏で、秋には本人に事情聴取を行い、翌年1月には処分が決定されていたのだ。行政書士会は、結果を私に連絡するとのことだったが、なぜか連絡はなかった。

 金坂氏は一定期間の保存が義務づけられている帳簿、領収書、職務上請求書の控えを保存していなかったようだが、違法行為の証拠隠蔽のためにどこかに隠したか廃棄したのではなかろうか。私は刑事告訴もしたのだが、金坂氏は捜査機関による捜査を恐れて証拠となる書類を廃棄した可能性もある。金坂氏に戸籍の違法取得を依頼したと考えられる興信所への影響も考えたのかもしれない。

 職務上請求書の不正利用はかつてから指摘されていながらなかなかなくならない。不正に手を染める行政書士には、そう簡単にバレないだろうという意識があるのだろう。

 ところで、東京都は行政処分をするに当たって東京都行政書士会の調査報告書を入手していたのだし、東京都が処分を決定したのは東京都行政書士会の処分より9ヶ月以上後だ。金坂氏の処分については知っていただろう。しかし、私が東京都に開示請求をして開示された資料には、東京都行政書士会の処分については書かれていなかった。もしかしたら黒塗りにされた部分に記載があったのかもしれないが、隠すべきことではなく、不可解だ。

 東京都には平成25年2月に、黒塗りにされた非開示部分について意義申し立てをしていたが、今年の2月にようやくその検討結果の書面が届いた。東京都の非開示理由を全面的に認める内容で、ほぼ予想通りだった。

 私が最も知りたかったのは、東京都行政書士会の調査報告書の内容や公開で行われた行政書士の聴聞の内容だった。しかし、「被処分者の権利利益を害するおそれがあるため」という理由で開示は認められなかった。被処分者の権利利益に関わる部分のみ黒塗りにすれば済む話なのに、すべてを非開示にしてしまう理由が分からない。

 さらに驚いたのは「不利益処分の原因となる事実」という部分が黒塗りにされていたのだが、その非開示理由が「事案について調査中に都が被処分者に通知した『不利益処分の原因となる事実』の内容は、懲戒処分実施後に都が公表した『不利益処分の原因となる事実』の内容と異なっており、公にすることにより、被処分者の権利利益を害する恐れがあるため」となっていたことだ。

 都が金坂氏に通知した内容と、都が公表した内容が異なっているというのは一体どういうことなのだろう? なぜ違っているのか、どうしてそうなったのか、なぜそのことを黒塗りにして隠すのか、不可解としか言いようがない。ところが「権利利益」を持ち出せば多くのことが非開示にできてしまう。

 いずれにしても金坂滋行政書士が不正に私の戸籍を取得し、それを隠蔽しようとしたことはほぼ間違いないだろう。なお、日本行政書士会連合会の行政書士検索で金坂滋と検索しても該当者がなく、処分を受けて廃業したものと思われる。

2014年4月 1日 (火)

木造住宅密集地で懸念される火災被害

 京都の市街地は道路が碁盤の目になっているが、住所表記も南北の通りの名称と東西の通りの名称を組み合わせるので、場所が分かりやすい。北海道も札幌をはじめ市街地が碁盤の目になっているところが多いのだが、住所表記は「○条○丁目」という具合で趣に欠ける。

 ところで、京都の場合は歴史が古いだけあって、主要道路以外は道がいかんとも狭い。そして、敷地にびっしりと住宅が建っている。京都に限ったことではないのだろうが、家と家の間の隙間が驚くほど狭く、人が通れないのは当たり前。ほとんど隣とくっついているような場合もある。いったい建築の際にどうやって家を建てる(外壁を貼る)のだろうかと不思議でならない。

 市街地では一軒あたりの敷地がとても狭いので、3階建てにしている一般住宅も多い。とにかく狭い敷地いっぱいに家が建っているし、建物が密集している。庭のスペースがとれないかわりに、玄関の前などにプランターを置いてささやかに園芸を楽しんでいる家も多い。今は、プリムラ(セイヨウサクラソウ)やパンジー、ストックなどがとても綺麗に咲いている。

 で、気になるのが火災だ。火事が起きたら、たちまち延焼するのが目に見えている。道路も狭いので大型の消防車が入るのは困難なところも多い。そのためか、火の用心の夜回りが毎晩回っている。火事が恐ろしいことを自覚しているのだろう。

 住宅が密集しているのは、もちろん京都市街に限らない。電車の車窓などから見ると、大阪なども京都と変わりはない。東京の都心近くも似たようなものだろう。北海道に長らく住んでいると、こうした住宅密集地がなんとも異様に見えて仕方がない。

 住宅密集地で怖いのが大地震などによる火災だ。大地震のときは道路があちこちで寸断状態になるだろうから、消防車が通れなくなる。同時にあちこちから出火するので、とても消火が追いつかないだろう。関東大震災で焼け野原になった東京のことが頭をよぎる。この状態は何とかならないのだろうか。オフィス街に近いという利便性や、先祖代々受け継がれた土地への愛着も分かるが、しかし地震災害の多い日本でこのような状態をそのままにしておくのはあまりに危険ではないかと思えてならない。

 国もようやくこの状態を何とかしなければならないと重い腰を上げたようで、国交省は2020年までに首都圏などの木造住宅密集地を解消する方針を打ち出したようだ。もちろん何もしないよりいいが、しかしあまりに遅いとしか言いようがない。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014033101002452.html

 地震大国であるにも関わらず、これまで都市の防災対策がしっかりとられてこなかったのは国の責任である。建物の耐震化はそれなりに進めてはきたが、それだけでは不十分なことは誰の目にも明らかだ。防災を怠り、都市に人口を集中させてきた政治も問われなければならないだろう。地方の町はどこも衰退して高齢化が進み、都市ばかり人口が膨れ上がってきた。若者は地元で働きたいと思っても就職先がないから都会に出るしかない。しかし、都会に行ったからといって派遣労働などにしか就けなければワーキングプアになるしかない。地方の若者にとってかつて都会は憧れだったが、今は果たしてそうだろうか? 

 災害に弱い都市に人口が集中し、しかも格差が広がりワーキングプアが溢れ、地方は老人ばかりの状態が健全であるわけがない。お金に目がくらんだ一握りの人たちが、自分たちの利益のために不健全な日本を作り上げてきたわけだが、これも米国の新自由主義に追随した結果だろう。

 日本人はどういう訳か自民党が好きな人が多い。特に支持している政党がないという人でも、「自民党が一番現実的」とか「民主党は駄目だったから自民しかない」「他の政党では頼りない」などという人が多いように思える。このような人たちは、自民党がやってきたことを自覚しているのだろうか? 

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