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2013年11月26日 (火)

脱原発運動が「反対のための反対」にならないために

 福島の原発事故以降、原発に反対する人たちが急増し、今まで原発に何の疑問も感じていなかったような人たち、あるいは今まで市民運動とは無縁だったような人たちが脱原発運動に参加するようになっている。それはそれで大いに結構なことだ。しかし、脱原発を掲げている人の中には疑問を感じざるを得ない人も見受けられる。

 たとえば自分の主張が絶対に正しいと信じて他者に押し付け、違う意見を認めようとはしないタイプの人だ。

 脱原発といっても個々の人たちの考え方は様々だ。今すぐにすべての原発を廃炉にすべきだという人もいれば、○○年までに原発ゼロという人もいるだろう。小出裕章さんのように、日本の農業を守るために年齢に応じて汚染されたものを食べるべきだという考えの人もいるし、それには反対だという人もいる。除染などしても意味がないという人もいるだろうし、汚染の程度によって決めるべきだという人もいるだろう。脱原発という大きな目標は同じでも、細かいところでは考えが違うということはいくらでもある。

 ところが自分と異なる意見を認めようとせず、考えの違う人を蔑むような発言をする人がいる。たとえばキエフ並みの汚染がある東京から避難しない人たちは馬鹿であるかのような言い方をする人がいる。東京がある程度汚染されているのは事実だし、被ばくを恐れて移住した人もいる。しかし、さまざまなリスクを考えて移住しないという選択をする人たちもいるだろうし、移住したくてもできない人もいる。そういう人たち苦渋の判断は尊重しなければならない。

 しかも東京よりはるかに汚染が深刻な福島に住む人たちは、こうした発言をどう思うだろう。自分の意見を言うのはいいが、自分と違う考えの人を否定するかのような発言をすべきではない。個人個人の状況や判断を尊重せず、馬鹿だと切り捨てる態度に独善性を感じる。

 脱原発の市民団体が各地にできたが、声の大きい独善的な人が自分と考えが違う人を切り捨ててしまうのであればメンバーは混乱するだろうし、反発して出て行く人もいるだろう。運動自体が縮小しかねないし分裂してしまうこともあり得る。そうなれば原発推進派に益をもたらすことになりかねない。

 組織で大事なのは民主的運営であり、できる限り多様な意見を尊重するということではなかろうか。かといって組織自体の方針もある程度明確にしなければ運動が進められないこともあるだろう。方針などに関わる重要なことでメンバーの意見がかみ合わない状態になったときには、徹底的に議論して民主的に解決する努力が求められる。それが組織運営の難しいところではないかと思う。

 私個人としては、できれば組織はあまり大きくなりすぎないほうがいいと感じている。組織が大きくなればなるほど中枢とメンバーとの意思疎通が困難になるし、民主的な運営から離れていくような気がしてならない。大きな組織になればなるほど、速やかな行動は難しくなっていく気がする。

 また、目的が同じだからという理由で脱原発運動をしている団体や個人の批判はすべきではないと考える人もいるようだ。しかし、たとえ同じ目的をもった同志であっても、明らかな間違いや不適切な情報(不確実なことを断定的に言うなど)を広めているような場合は指摘して訂正を促すことは必要だし、不正があるのなら正していかなければならないだろう。「批判=運動の足を引っ張る」ではない。仲間内だからといって間違いや不正に目をつむってしまうことの方がおかしな話だ。

 多様な意見は尊重するが間違いや不正に対しては厳しく、というのが市民運動において何よりも大事なのではなかろうか。それができずに視野が狭くなってしまうと「反対のための反対」と受け止められかねないし、それは運動において大きなマイナスになってしまう。

 私は若い頃から自然保護運動に関わってきたが、以前ある方から「自然保護団体は何でも反対する」という意見を聞いたことがある。まるで「反対することが目的になっている」とでも言いたいかのような意見にちょっと驚いた。

 自然保護団体もたくさんあるので一概には言えないだろうが、少なくともこれまで私が関わってきた自然保護団体は「何でも反対」とか「はじめに反対ありき」だとは思わない。反対の声を上げるには理由があるし、全面中止を求めることもあれば、代替案やより適切と思われる工法などを提案することもある。外から見ているだけなら内部の判断や議論などは分からないのだろう。

 ただし、ごく少数であるが中には「反対のための反対」という意識で活動しているのではないかと感じる人がいないわけではない。しかし、そのような方はたいてい途中でトラブルを起こして抜けていく。独善的なタイプの人は民主的な組織にはなじまないのだ。

 脱原発の運動をしている人たちを見ていると、「反対のための反対」に陥っている人が一定程度いるような気がしてならない。いままで市民運動にかかわったことがないような人たちの中にそんな人が多いのかもしれない。何としても原発を廃止したいという強い思いは分かるのだが、「反対のための反対」ではいつか破綻してしまう気がしてならない。それでは推進派の思う壺だろう。

 脱原発で声を上げている人たちは、自分自身が独善的になっていないか、「はじめに反対ありき」の思考に陥っていないか、立ち止まってみる必要があるのではなかろうか。

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