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2013年5月

2013年5月31日 (金)

光市事件、実名本訴訟は言論封じ(SLAPP)訴訟

 光市母子殺害事件の死刑囚である福田孝行君の実名や顔写真を掲載した本、「福田君を殺して何になる」がプライバシー権や肖像権の侵害にあたるとして、著者の増田美智子さんと出版社(インシデンツ)の寺澤有さんが福田孝行君側から訴えられた訴訟の高裁判決が昨日あった。

光市事件の実名本訴訟、出版元が逆転勝訴 広島高裁(朝日新聞)

光母子殺害:実名本出版、元少年の承諾認定 広島高裁(毎日新聞)

 この裁判、ことのはじまりは福田君の弁護士が出版の直前になって本のゲラを見せるよう版元の寺澤さんに要求したことにある。寺澤さんが表現の自由を根拠にそれを拒否すると、弁護士側が少年法違反で法的手段をとると脅してきた。そして、本当に提訴したのだ。

 なぜ弁護団がゲラを見せるよう要求したのかは、「福田君を殺して何になる」を読めばピンとくる。この本の福田君に関する記述は、福田君に有利になることは書かれていても、不利になるようなことは書かれていない。ただし、弁護団についての批判が書かれている。というのも著者の増田美智子さんは広島まで何度も行って福田君に取材を重ね、福田君も増田さんの取材に終始協力していた。また増田さんは、弁護団にも取材を求めていた。しかし、弁護団は彼女の取材依頼にまともに応じようとしないばかりか彼女の福田君への取材すら妨害した。増田さんはそうした弁護団の対応についても本の中で詳しく記述している。

 つまり、福田君にとって有利になる本であるにも関わらず、弁護団にとっては不利になることが書かれた本だった。弁護団がゲラを見せてほしいと要求した理由は、批判が書かれているのではないかと察した弁護士が内容を事前にチェックしたかったからだと思われても仕方ない。しかし事前チェックを断られたたために、少年法違反やプライバシー侵害などを持ち出して提訴し、出版の差し止めを求めたのだ。

 しかし、増田さんは福田君に実名を出してよいかどうか尋ね承諾を得ており、1審では福田君が実名掲載に合意したことが認められている。本人が実名掲載に合意していたのにも関わらず少年法違反を持ち出したのは、福田君の意思ではなく弁護団によるこじつけとしか思えない。

 プライバシーや肖像権侵害が理由なので原告は福田君本人なのだが、ことの経緯からも裁判を主導したのは弁護団であることは明らかだ。福田君は弁護団に従わざるを得ない立場に置かれている。この裁判は福田君の裁判というより、福田君を利用した弁護団による裁判だと言っても過言ではないと思う。

 ニュース報道では判決部分ばかり報じて裁判の経緯に触れていないため全く分からないのだが、この裁判は弁護団による言論封じの恫喝訴訟(SLAPP)といえるものだ。

 弁護士は依頼人の利益のために弁護するのが仕事だが、いくら依頼人の利益になるからといって嘘の主張をしてはならないと思う。嘘をついてしまうとその嘘を正当化するためにさらに嘘をついたり矛盾した主張をしなければならなくなり論理が破綻してしまう。また、言論封じを目的とした恫喝訴訟はあるまじき行為であり、絶対にやってはならないことだ。

 まして法の専門家である弁護士が、福田君からの依頼というより自分たちの都合で嘘の主張をし、出版を止めることを目的にジャーナリストを提訴するなどというのは言語道断だ。安田好弘弁護士の業績は評価すべきものも多いが、このようなSLAPP訴訟を起こしたことについては落胆した。福田君の弁護団は今回の判決に対しコメントを出さなかったそうだが、もし上告するならせめてコメントくらい出すべきだろう。

2013年5月30日 (木)

夫婦別姓を認めないのは不平等を認めること

 夫婦別姓を認めない民法の規定を改正しないのは憲法違反であるとして、男女5人が国に損害賠償を求めた裁判の判決が29日に東京地裁であり、原告の訴えが退けられた。

夫婦別姓国賠訴訟:原告敗訴 憲法違反認めず(毎日新聞)

夫婦別姓 政治の責任で道を開け(信濃毎日新聞社説)

 このような判決が出る可能性が高いことはなんとなく想像はついたが、それにしてもこの国の平等の意識は相当低いと言わざるを得ない。

 この裁判の争点は、民法750条の「夫婦は夫か妻の姓を名乗る」という規定が憲法に違反するかどうかということなのだが、裁判長は「夫婦の双方が結婚前の姓を名乗る権利が憲法上保障されているとはいえない」と判断した。

 また、判決では憲法の規定について「平等の原則を立法上の指針として示したもので、個々の国民に夫婦別姓を保障したものではない」と指摘したそうだ。

 なんとも不可解な判断ではなかろうか。憲法が「平等の原則を立法上の指針として示した」ものであれば、「夫婦は夫か妻の姓を名乗る」ことが平等かどうかを検討しなければならないだろう。

 「夫婦は夫か妻の姓を名乗る」ということは、どちらかが姓を変えなければならないことを意味する。多くの人は、子どもの頃から慣れ親しんでいる自分の姓を変えることに抵抗があるのではなかろうか? しかし、婚姻により仕方なくどちらかの姓を選択せざるを得ないのだ。それが嫌なら事実婚にするしかないが、それはそれでさまざまな弊害がある。そもそも、婚姻を理由にどちらかの姓にしなければならないという規定そのものが不平等を生んでいるとしか思えない。

 日本では、現実には大多数が男性の姓を選ばざるを得ない状況にある。なぜなら、今の社会そのものが男女平等ではないからだ。日本では、いまだに女性は「嫁」として夫の家に嫁ぐという意識が根強く、大半の男性は婚姻によって自分が姓を変えるとは考えていないだろう。たとえば結婚に際し、対等を重視してじゃんけんやクジで姓を決めるなどというカップルはほとんどいない。

 日本では、共働きであろうがあるまいが、家事や育児の労働は女性の負担が圧倒的に大きい。賃金も男性と女性では大きく異なるし、女性が出産・育児などで退職したら、正規雇用に戻るのは難しい。結局、男性が家計を支えることになる。ひと昔前に比べたら女性の社会進出は進んだが、それでもまだまだ男尊女卑の社会だ。このような背景が婚姻の際に夫の姓を選択させる一因にもなっているのではなかろうか。

 結婚前の姓で名が知られている人、たとえば作家や芸術家、研究者などにとって、姓を変えるというのは実に不都合だ。これは男性も女性も同じだ。婚姻によって姓を変えなければならないとなると、どうしても通称として旧姓を使い続けることになる。しかし、銀行口座の名義や運転免許証などでは通称は使えない。実に不便なことになる。ここにも不平等が生じる。

 もう一つ言っておかなければならないことがある。本来、結婚や離婚、再婚などというのは極めてプライベートなことであり、公にしなければならないことではない。ところが、これらのことで姓を変えねばならないとなると、プライバシーが守られないことになる。「夫婦は夫か妻の姓を名乗る」という規定では、姓を変える側のプライバシーが尊重されないことになる。平等ではないのだ。

 同窓会などに出席しても、女性の大半は名前で既婚か未婚かが分かってしまう。しかも、大半の女性がかつて呼びなれた姓とまったく違う姓になっているのだから、なんと不平等なことかと思ってしまう。

 夫婦がどちらかの姓を選ばなければならないという決まりには、実にさまざまな不平等や不都合がつきまとっているのだ。憲法で平等を規定している以上、姓の選択も平等でならなければならないと思うのだが、裁判ではそうならない。実に不思議な国だ。

2013年5月29日 (水)

川を荒らす農地の排水事業

 私が関わっている十勝自然保護協会では、これまで自然保護の立場から「美蔓地区国営かんがい排水事業」「富秋地区国営かんがい排水事業」という二つの「かんがい排水事業」に関し、希少動物の生息地に悪影響を与えるとして反対を表明してきた。

 その中で明らかになってきたのは、「国営かんがい排水事業」の必要性だ。事業者は、排水事業の目的は大雨による農地の湛水被害による穫量減の解消だと説明している。ところが事業者との話し合いの中で、「湛水被害による収量減の解消」では排水事業の費用対効果が説明できないことが分かった。つまり、被害額より工事費のほうがはるかに大きいのである。詳しくは以下をお読みいただきたい。

明確になった「富秋地区」国営かんがい排水事業の欺瞞 

上記記事の要点部分を以下に書き出しておく。

大雨などによって畑に水が溜まると農作物に被害が出るのだが、その被害の解消目的で排水事業を行うと採算が全く合わない。そこで、公共事業をやりたい事業者が思いついたのは「作物生産効果」である。「水はけを良くすることによって生産性が上がり、国民の食糧増産に寄与する」との名目で、根拠も良く分からない「作物生産効果」を持ち出して、費用対効果があると主張する。しかし、金銭的負担があれば事業に参加しないという農家も出てくるだろう。それでは事業ができないので、受益者負担も地元の市町村が肩代わりするという仕組みだ。

 要するに、工事をすることが目的の事業だと言ってもいい。無駄な公共事業の典型だろう。

 民主党政権での公共事業の縮小により、十勝地方での「かんがい排水事業」はほぼ終わったかのように思えた。ところがアベノミクスによって公共事業にじゃぶじゃぶと予算がつけられたため、また復活したのだ。以下に「国営かんがい排水事業」の説明があり、美蔓地区、札内川第二地区、上士幌北地区、士幌西部地区、富秋士幌川下流地区が挙げられている。このうち、アベノミクスによって新規に予算がついたのが、上士幌北地区、士幌西部地区だ。

農業農村整備事業マップ(帯広開発建設部)

 そもそも、湛水被害というが、大雨が降れば多くの農地で一時的に水たまりができる。これは農地に限らず校庭や住宅の庭でも同じであり、当たり前のことだ。ところがその当たり前のことすら「湛水被害」だといって公共事業の目的にするのだから呆れる。

 このような自然の摂理に反したことをすれば、当然その影響が出る。排水事業を促進することで、大雨などのときに水が河川に一気に流れ出るようになる。

 昨年の3月に「砂防工事で居辺川を殺してはならない」という記事を書いた。比較的自然のままの姿を残している十勝北部の居辺川で大規模な砂防工事が計画されている。この工事について、今年の4月に事業者である帯広建設管理部に説明を求めると、上流部の河岸・川床の浸食が著しいため、河床の浸食防止と土砂の移動抑制のために床固工と遊砂地工を行うとの説明があった。

 その工事内容の説明を聞いて唖然とした。居辺川の上流部は増水時でなければ長靴でも渡れる小河川なのだが、そこに切り欠きを入れた約100メートルもの堰堤を12基も造るという。つまり、川の両側の段丘をまたぐようにコンクリートの巨大な構造物を造るということだ。景観破壊はもちろんのこと河川生態系への影響が懸念されるし、下流部への影響も生じるのではなかろうか。

 居辺川では以前に比べ、大雨が降ると一気に増水するようになったのは確かなようだ。それが上流部の浸食を加速させたのだ。では、なぜ一気に増水するようになったのか? それは森林を伐採して農地にしたり、排水事業によって水はけを良くしてしまったからだ。自然に逆らって排水を促進すれば河川が荒れたり災害が発生し、それを防ぐために砂防事業を行うことになる。さらに、上流での砂防事業は必ず下流に影響を及ぼすことになる。

 事業費に見合った効果があるとは思えない(少なくとも事業者は具体的に説明できない)農地の排水事業が、河川の自然を破壊する砂防工事へと繋がっているのだ。アベノミクスによる公共事業を評価する人は、税金がこのように使われていることをきちんと知ってほしい。

2013年5月28日 (火)

日本文学館に消費者庁が立ち入り調査か?(追記あり)

 このところ多忙などのためブログの更新が滞っていたが、元文芸社社員の「クンちゃん」のブログを見たら、驚くべきことが書かれていた。

日本文学館=文芸社へ強制捜査か?(未確認情報、確認中) 

 これについてツイッターで呟いた直後に、タイムラインに東京管理職ユニオンのツイートが流れてきた。未確認情報ではあるものの、消費者庁の立ち入り検査が入ったらしいというのだ。

 https://twitter.com/bungeishashibu/status/339207522877595648
文芸社=日本文学館に消費者庁の立ち入り検査が入ったとの未確認情報がありました。支部長からの連絡を待ちます。

 消費者庁というのが事実であれば、日本文学館の商法に関することで何らかの強制捜査が入った可能性が高い。

 詳細が分からないが、強制捜査をするということはかなり信ぴょう性のある情報や証拠が寄せられたのだろう。もし違法行為が明らかになれば、これまでさまざまな悪評や噂が飛び交っていた自費(共同)出版業界に激震が走るのではなかろうか。かつて費用分担を謳った協力出版商法の詐欺疑惑で文芸社を刑事告発したことがある私にとっても、関心を持たずにはいられない。ということで、とりあえずお知らせだけしておきたい。

 いずれ「クンちゃん」ないしは「東京管理職ユニオン文芸社支部」から何らかの情報が入ると思われる。

【5月29日追記】
「クンちゃん」のブログに、28日の強制立ち入り調査の詳報がアップされた。どうやら特定商取引法違反の可能性が高いようだ。

消費者庁、日本文学館=文芸社に強制立入!特商法違反か?

2013年5月22日 (水)

乙武洋匡さんの入店拒否で感じたこと

 「五体不満足」の著者である乙武洋匡さんが、予約していたイタリア料理店で入店を拒否されたことについてツイッターで店名を挙げてつぶやいたことが話題となっている。乙武さんのツイートに対して店主はホームページで説明をされた。

乙武様のご来店お断りについて。 (TRATTORIA GANZO)

 この問題がネット上で広まったこともあり、乙武さんもホームページで経緯について具体的に説明しご自身の意見を表明された。

イタリアン入店拒否について(OTO ZONE)

 私は乙武さんの説明を読んで、彼の言動にはとりたてて非はないと思った。もし私が彼と同じ立場だったら、店名を挙げるかどうかは別として、おそらく同じような感情を抱きブログまたはツイッターで同じような発言をしたのではないかと思った。

 結局、店主の「事前に車椅子であることを知らせておくのが常識」という発言と、喧嘩を売られたかのように感じる物言いに対し乙武さんはカチンときたのだ。

 では車椅子であることを事前に知らせるのが常識だろうか? 「常識である」か「常識ではない」かの判断はそう明快にはいかない。確かにエレベーターが利用できず、また狭い店をスタッフと二人で切り盛りしている店主にとっては、事前に知らせることが常識という感覚なのかもしれない。しかし、一般の人や車椅子利用者にとっては常識とは限らないだろう。少なくとも乙武さんはこれまで車椅子であることを事前に告げていなくても外食を利用できていたのだ。ならば、車椅子であることを理由に入店を断るのは常識とは言い難い。

 仮に私が外食をしているとき、車椅子の方が事前連絡もなく店に来たとしても、何ら非常識とは思わない。もし諸事情で車椅子の方の入店が困難であれば、丁重に理由を説明して「事前に連絡をしていただければなんとか対応できたのですが」と言えば済む話ではなかろうか。「事前に知らせるのが常識だ」とご自分の価値観を押し付けてしまえば、相手が不快になるのは当然だと思う。

 ただし、おそらく店主は悪意はなかったのだろうとも思う。車椅子の方の来店の経験がないためにどう対応してよいのか分からず、断る理由としてご自身の「常識」を持ち出してしまったのかもしれない。ただし、やや謙虚さに欠けていたのではないかという印象は否めない。

 私は先月「大沼安史さんへの電磁波攻撃は妄想、精神病か?!」という記事を書いた。木下黄太さんが私のコメントを取り上げなかったことがこの記事を書いた直接の理由なのだが、記事として取り上げることを決意させる背景があったのも事実だ。

 木下さんがご自分の判断でコメントを載せないのは自由だし、そのこと自体を批判するつもりはない。また、木下さんがご自身の考えを主張することはもちろん否定はしない。私が木下さんとの電話でもっともカチンときたのは、私の意見について「自分とは違う見解」ということすら認めようとしなかったことだ。見解の相違を認めないという態度は自分の主張の強要であり、「思想・良心の自由」の侵害ともいえる対応だ。そうした権利侵害への腹立たしさが記事を書く動機になった。

 また、彼はマスコミ関係者である自分は一般の人より情報に通じていると言っていた。それは事実だろうが、だからといってそのことが自分の主張が正しいという証明にはならない。むしろ一般の人を見下した発言だと感じた。少なくとも、他人に対し「対等」という感覚がやや欠如していると感じたのも事実だ。

 人はさまざまな場面で不快になったり腹を立てたりするが、私がもっとも腹立たしく思うのは権利侵害にあたるような対応をされることと、「人は皆対等である」という意識が欠如した言動をとられたときだ。

 人は決して平等ではない。生まれる国や地域、環境、親、容姿・・・どれをとっても本人が選ぶことはできない。しかし、この世に生を受けた人は年齢、性別、職業、業績、肩書、容姿などに関わらず基本的に対等でなければならないと私は思っている。もちろん、上司と部下、教師と生徒(あるいは児童、学生)、親と子、などどうしても上下関係が生じることもあるだろう。しかし、それでもできる限り相手の人権を尊重し、人として対等に接する努力をするべきだ。

 簡単に言ってしまえば、「自分が同じようなことを言われたらどう思うか」ということを常に考えて発言できるかどうかだと思う。自分が同じことを言われたら怒るのに、他人にはおかまいなしに無礼な物言いをする人がいる。ところが、そのような人に限って権力者や自分より立場が上の者に対しては無礼な言い方をしない。そこには「人は皆対等」という意識が欠落している。

 他人に依頼ごとをするにしても、言い方ひとつで印象がまったく変わってくる。相手の都合もきかずに押し付ければ断るつもりがなくても嫌な気分になるが、丁寧に依頼されれば忙しくてもなんとか都合をつけようという気持ちにさせる。今回の乙武さんの事例も、そんな一例だったのではないかと感じた。

 お二人はすでに和解されているとのことだ。乙武さんがツイッターに書いたことは論争を呼んだが、結果としてはそれぞれが自分の意見を表明できたし和解に役立った。彼の発言は無意味なことではなかったと思う。

2013年5月21日 (火)

深刻な海洋汚染と放射能津波の恐怖

 福島第一原発事故による放射能は、日本の大地のみならず海を汚染しつづけている。メルスルーした原子炉からの汚染水は増えるばかりで、海への放射能の流出は止まりそうにない。考えただけでも身の毛がよだつ深刻な状況だ。

 海に放出された放射性セシウムは、海の表層に比べて深いところの方が濃度が高いとの調査結果が海洋研究開発機構などの研究チームによって発表された。

放射性セシウム、深部で濃度高く 海洋機構が分析結果(日本経済新聞)

 そういえば、江戸川産のウナギから基準値の100ベクレル/kgを超える放射性セシウムが検出されたそうだ。陸の放射性物質は河川にも流れ込む。

江戸川産のウナギの調査結果について(水産省)

 東京湾でも原発事故以来、奇形の魚が増えているという。

南房総の漁師さんが語る東京湾の現実「魚の放射能汚染状況と奇形魚」6/2米原幹太のもう朝ですよ!(内容書き出し) (みんな楽しくHappyがいい)

 海水が放射性セシウムで汚染されているだけではなく、海底土にも溜まっている。もちろん放射性物質はセシウムだけではない。ストロンチウムなどもかなり含まれているだろう。さまざまな放射性物質が海藻や魚などに蓄積されるから、東北や関東近海の「海の幸」は恐怖だ。しかも魚は回遊するから国境はない。海産物による被ばくは本当に心配だし、は敬遠せざるを得ない。こんな状態がいつまで続くのだろう。

 それと同時に気になるのは、津波である。「木村政昭氏の予測する伊豆・小笠原海溝の巨大地震(追記あり)」 にも書いたが、大津波は3.11だけでは終わらない。そう遠くない将来、また太平洋側で大地震や大津波が起きる可能性が否定できない。3.11の大津波のときには濁って黒っぽい海水が押し寄せたそうだが、津波は海底の泥をまきあげて打ち寄せるのだろう。とすると、次の津波では放射性物質を大量に含んだ海底土が波とともに押し寄せるのではなかろうか。

 広島に原爆が落とされたあと、大雨が降ったために放射性物質がかなり流されたそうだが、放射能を含む大津波に襲われたならそれと逆のことが起こりかねない。福一の事故の影響はほんとうに図り知れない。

 東北や関東を襲う津波は放射能をたっぷり含んでいることを忘れてはならない。太平洋側で巨大地震が起き大津波が懸念される場合は、できる限り速やかに高いところに避難するほかない。

2013年5月19日 (日)

若い人たちに知ってもらいたい慰安婦問題

 橋下徹大阪市長の従軍慰安婦に関する暴言、つまり「あれだけ銃弾が雨・嵐のように飛び交う中で、命をかけて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる」、あるいは普天間飛行場の視察の際に、司令官に「合法的に性的なエネルギーを解消できる場所が日本にはある。真正面から風俗業を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーをコントロールできない」という発言だ。このニュースを聞いたとき「もうこの人は終わっている」という感じで、呆れ果ててブログに書く気もしなかった。

 「慰安婦」などというのはまやかしの表現であり、彼女らは性奴隷にほかならない。戦争を想定していながら「戦争」とは言わすに「有事」などという曖昧な表現で誤魔化してしまうのと似ている。被害者となった女性たちは騙されたり強制連行によって集められ、一日に何十人という兵士の性の相手をさせられたのだ。いたいけな少女も多く、考えるだけでもおぞましい犯罪行為だ。もちろんこうした事実は多くの証言によって裏付けられている。

 米軍の司令官に対する発言にしても、よくこんなことを恥ずかしげもなく言えるものだ。司令官だってこんな非常識かつ破廉恥なことを言われ、さぞかしびっくり仰天しただろう。これらの発言は女性に対する蔑視、人権侵害であることは言うまでもないが、男性をも侮辱する発言だ。

 橋下氏の発言は、戦争をも肯定し、性奴隷という犯罪を容認するあまりに無知蒙昧で人格を疑う暴言である。こんな人物が市長であり、政党の共同代表であり、弁護士であるというのだから、これほど恥ずかしいこともない。大多数の人から批判されるのは当然のことだ。

 ところが、ご本人は批判されると「慰安所を認めたわけではない」と矛盾した言い訳に終始し、さらに自分の発言を撤回するどころか開き直って「マスコミの誤報」とか「国民の読解力不足」と、マスコミや国民に責任を押し付けてしまった。これでは事態が悪化するだけだが、それも分からないらしい。

 橋下氏は18日に、国会議員に「誤解も含めて、意図しない形で伝わり、国会議員にも迷惑を掛けたことは申し訳ない」と陳謝したという。これだけ批判を浴びても、未だに「誤解も含めて、意図しない形で伝わり」と、自らの暴言を撤回しないようだ。もちろん、彼は辞任をするなどという考えは毛頭ないのだろう。

 今日の新聞では、元従軍慰安婦の二人が沖縄と広島での集会に出席し「自分の娘を(慰安婦として)送ることができるのか」と話したそうだ。橋下氏は元慰安婦に会うとのことだが、彼女らに会う前に発言の撤回と謝罪をしないのなら、面会を果たすことによってなんとか名誉回復を図るつもりだろうだと受け止められても仕方ない。

 安倍首相は憲法を改悪して戦争のできる国にしようと必死になっている。しかし、慰安婦問題は戦争と切っても切り離せない。ここにきて、戦後生まれの親に育てられた若い人たちは果たしてどれほど従軍慰安婦について知っているのだろうかとふと思った。

 今回の橋下発言をきっかけに、とりわけ若い人たちには以下のブログなどで慰安婦問題やその背景について認識してほしいと思わずにいられない。

維新の会橋下共同代表の性暴力発言弾劾! (明日に向けて)
軍隊「慰安婦」問題と福島原発事故は底流でつながっている! (明日に向けて)
【再掲】台湾のおばあさんたちのこと(性奴隷問題被害者の素顔を知ってください!) (明日に向けて)
「慰安婦と兵隊」に寄せて (明日に向けて)

橋下氏の暴言 (inti-solのブログ)
あまりの矛盾(続・橋下氏の暴言) (inti-solのブログ)
いったい何が誤報なのか (inti-solのブログ)  

2013年5月17日 (金)

「もったいない」という感覚をなくした日本人

 先週(5月10日発行)の週刊金曜日に、「満腹の情景 食べられるゴミ」というタイトルで、廃棄される大量の食品のことが書かれていた。

 コンビニでは賞味期限が切れただけでお弁当などを廃棄してしまうというのはよく聞くが、コンビニだけが食べられるものを捨てているわけではない。消費期限までまだ3、4日あるようなパック入り豆腐、パンや麺類などがトラックに山積みで廃棄されるというのだから、唖然とする。

 この記事によると、日本では年間1800万トンの食品廃棄物が排出されており、そのうちの500万から800万トンが食品ロスとのこと。昨年の米の生産量が852万トンだというのだから、それに近い量だ。

 賞味期限や消費期限切れはもちろんのこと、期間限定商品の売れ残り、イベントでの試食品、へこんだ缶詰、規格外農産物、賞味期限の印刷ミスなども食品ロスとして廃棄されるそうだ。そのうち賞味期限によるロスは6割を超えるとのこと。

 というのも日本では、製造日から賞味期限の三分の一までを小売店の納品期限、三分の二までを消費者への販売期限とする、という「三分の一ルール」が暗黙の了解としてあるらしい。これを超えてしまうと廃棄するのだという。缶詰や瓶詰のように賞味期限の長い商品で「期限切れ」までかなり余裕がある商品でも、この「三分の一ルール」を超えてしまうと捨てられることになるというのだから、信じがたい。

 しかも、家畜の餌などとしてリサイクルされるものはごく一部で、大半は焼却や埋め立て処分されるそうだ。食べるために作られた食品が、傷んでもいないのにそのままゴミとなっているとは何とおぞましきことか。日本人はご飯粒ひとつさえ残さずに食べるよう躾けられてきたのではなかろうか。その一方で賞味期限、消費期限という日付があるが故に食べられる物を捨ててしまうとは、いったい日本人はいつからこれほどまで感覚が狂ってしまったのか? なんだか頭がくらくらしてくる。

 そう言えば、「冷蔵庫に期限切れの食品があると、娘がみんな捨ててしまう」と言っていた知人がいた。若い世代では、そういう感覚の人がたぶん増えているのだろう。

 食品に賞味期限や消費期限が記載されるようになったのがいつ頃からだったのかよく覚えていないが、私はもちろん賞味期限などは単なる目安としか見ていない。指定された方法で保存していれば、この期間内ならおいしく食べられるという目安だ。多少期限を過ぎていても普通は問題ない。

 傷みやすい豆腐なども、残ったら茹でて水につけて保存すればしばらくはもつ。一度火を通すことで食品を長持ちさせることは多くの人がやっているだろう。納豆などは冷凍保存もできる。家庭ではちょっと気をつけていれば、食品を捨てることはほとんどないだろう。

 だいたい、賞味期限などというものが表示されていない頃は、見た目、匂い、味などで食べられるかどうかチェックしていたし、今だってそうやって見分けることも多い。うっかりして傷んでしまった物ならともかく、食べられる物を捨ててしまうということなど考えられない。それが戦争を体験した親を持つ私たちの世代の感覚ではなかろうか。

 賞味期限や消費期限を表示するようになったがために大量の食品ロスが生まれるようになったのであれば、なんという災いか。もはや「もったいない」などという感覚はないに等しい。なぜ、期限が近づいた商品を割引して売る、という方法をとらないのだろう。

 商品がなかなか回転しない地方の小さな小売店などでは、期限ぎりぎりどころか期限切れの商品を見かけることすら珍しくない。一昔前は、そんな店がどこにでもあったのではなかろうか。商店が大型化し、あらゆる食品に賞味期限が印字されるようになるとともに、私たちはどこか感覚が狂ってきたのではないか。

 ところで、不思議に思うのは調味料の保存法だ。最近は醤油や味噌は無添加のものを購入しているのだが、開封前でも「要冷蔵」とラベルに書かれている。醤油や味噌など冷蔵庫がない時代からあった調味料だし、昔はもちろん保存料など使っていなかっただろう。昔からこれらの調味料は常温保存のはずだ。なのに、なぜ無添加という理由で開封前から冷蔵保存しなければならないのか、私は不思議でならない。これも賞味期限・消費期限の影響なのではなかろうか。

 貧困で十分な食事も摂れない人がいるというのに、その一方で大量の食品が廃棄されている。山のように大量の食品を捨てておきながら、放射能汚染された食品が「基準値以下」だとして全国に流通している。不可解を通り越して狂っている。

2013年5月15日 (水)

チェルノブイリと福島の汚染比較地図についての補足

 昨日「チェルノブイリより深刻な日本の放射能汚染」という記事を書き、チェルノブイリと福島の汚染地図のことに言及したが、引用元の「地球の子ども新聞」をよく見ると、日本語版と英語版の比較地図があり、日本の地図の色分けが若干異なっている。英語版の方が日本の区分けが細かくなっているので、それについて再度ここで補足しておきたい。

 以下が英語版の地図。小さくて見にくいという方は、ブラウザの拡大率を上げてみていただきたい。

地球の子ども新聞132号:英語版 

 この地図では福島、チェルノブイリ共に「年間1ミリシーベルト」となる地域は赤紫、赤、茶色に塗られている地域になる。福島の場合、赤紫の面積はチェルノブイリより小さいいようだが、茶色(年間1~5ミリシーベルト)の面積はチェルノブイリより広いことが分かる。もし、日本が大陸であったなら、風下に当たる東側に相当の汚染が広がっていただろうから、「年間1ミリシーベルト」の範囲は実質的にはチェルノブイリの何倍にもなるのではなかろうか。

 チェルノブイリでは「年間1ミリシーベルト」のところを避難の権利ゾーンとして移住を希望する人たちを補償した。ただし、矢ヶ崎克馬氏の説明によると、実際には内部被ばくも勘案して「年間0.5ミリシーベルト」で運用したそうだ。とすると、ピンクで塗られている地域も対象になる。また、アレクセイ・ヤコブロフ氏によると、年間0.5ミリシーベルト以上の地域住民に対して被ばくの指標である染色体の分析診断を行っているという。

 日本の地図ではピンク色が3つの濃淡で区分けされている。年間0.5~1ミリシーベルトの地域は一番濃いピンクになるが、福島第一原発から半径300キロメートルを超える地域にまで広がっている。北海道と青森を除く東日本はほぼ濃いピンクだ。もし「避難の権利」区域をチェルノブイリと同じ運用にしたなら、濃いピンクの地域で移住を希望する人たちの移住を補償しなければならない。

日本だけの地図→ 地球の子ども新聞133号(解説版付き) 

 首都圏の人口だけでも3000万人を超える。日本でチェルノブイリと同じ基準で移住を補償することは物理的にも経済的にも不可能だろう。「年間1ミリシーベルト以上」の地域に限ったとしても、人口密度はチェルノブイリよりずっと高いので、避難を希望する住民全員に十分な補償をするのはきわめて困難ではなかろうか。矢ヶ崎氏によると「日本では実効線量がチェルノブイリよりずっと低くなる計算法を用いている」とのことだが、そうでもして誤魔化さなければならないのがこの国の現実なのだと思う。

 もちろん、濃いピンクの地域の中でも汚染に濃淡があるだろうし、初期被曝の程度は人によって大きく違うだろう。放射能の感受性は個人差もあるし、すべての人に健康被害が出るとか移住が必要だとは思わない。しかし、特に子どもがいる家庭はこの汚染地図を頭に入れて注意すべきだろう。早川由紀夫氏は「勉強しないと死ぬぞ」と言っていたが、まさにそれが現実なのだと思う。

 チェルノブイリでは事故から5年経って「年間1ミリシーベルト以上で避難の権利を認める」という決定がなされたが、もっと早くこの決定がなされていれば健康被害は軽減されただろう。このような前例があるにも関わらず、日本で同じことが繰り返されようとしている。しかも日本の場合、これから病気が多発したとしても、逃げられる場所は限られている。もし再び福島と同じような事故が西日本や北海道で起きれば、日本は壊滅するだろう。

 日本の場合、原発事故で広範囲に放射能汚染されたら汚染地の住民全員が避難できる場所が国内にないし、経済的にも補償が不可能ということだ。自力で脱出しない限り汚染地に放置されるほかない。そんな狭い国で原発を54基も運転していたのだから震撼とする。廃炉にするしか未来はない。

2013年5月14日 (火)

チェルノブイリより深刻な日本の放射能汚染

 私のブログは反原発のブログの中では過疎ブログだ。ところが、こんな過疎ブログにも工作員とおぼしき人のコメントが入る。以下は昨日の記事に入れられた「武田舞華」と名乗る人物からのコメントだ。この方はこれまでにも何回かコメントを入れている。最近は承認制にしているので、承認されないことを知っていながら書き込むのだろう。まさに嫌がらせである。後半には「ぬまゆ」さんに対する誹謗中傷が書かれていたので、その部分を除いてここに貼り付けておく。

>なぜ公表されないのだろう。

全員健康だからでしょうね。あなたのように「誰かが被害に遭わなければならない」「他人の不幸こそが自分の幸せ」みたいな方にとっては不本意な結果と思いますが、福島原発事故での被害はこれ以上拡大しないでしょう。私はとても幸せなことだと思います。福島の方にとっても僅かな幸せを取り戻しつつあるでしょうね。

不幸なのは他人の不幸がみたいのにみれない野次馬のあなただけです(笑)バタバタとガン患者が出たら隠しきれるわけないでしょう?ネットの時代ですよ?

 全員健康だから甲状腺検査の結果が公表されないと言ってのけるのだから、工作員としか言いようがない。それにしても、工作員は「他人の不幸こそが自分の幸せ」などという悪態しかつけなくなったようだ。

 中村隆市さんのブログを見ていたら、驚くべき記事があった。以下である。

放射能汚染地の子どもたちに病気が急増している(中村隆市ブログ「風の便り」)

 昨日の記事で福島の子どもの甲状腺検査の続報が公表されないと書いたが、福島健康調査では秘密会なるものが開かれていたそうだ。健康被害が出ていないならこんな会合を持つ必要などない。

 甲状腺の二次検査が必要とされた福島の子どもの数の割合は2012年度の検査では2011年度の約3倍である。2011年と同じ割合で甲状腺がんが発症すると仮定すると、2012年度検査の約9万5千人からは30人程度が甲状腺がんになると推測される。合計で40人。ただし、これは福島の子ども約36万人のうちの37%の検査でしかない。全体では100人を超す可能性がある。非常に厳しい状況と言わざるを得ない。甲状腺検査の結果を原発推進側が隠したいのは当然だろう。

 しかも、福島での検査は2分ほどで終了し、結節を見逃していた例があるというのだから、実にいい加減な検査をしているようだ。したがって甲状腺に異常のある子どもの数は実際にはもっと多くなる可能性も否定できない。

 中村隆市氏は以下の記事も紹介している。

体重5kgの赤ちゃんは毎日0.32ベクレル セシウム137を摂取し続けると体内10ベクレル/kgになる(内部被ばくを考える市民研究会)

 子どもにとっては数ベクレルの食品でも危険なのだ。10ベクレル(検出限界)以下だから安心などということは決してない。福島の農家の方は、そのことをよく理解していただきたい。

 そして中村隆市氏の記事で私が息をのんだのは、チェルノブイリ基準に換算した放射能汚染地図。矢ヶ崎克馬氏の以下の解説に目を疑った。

矢ヶ崎克馬博士(琉球大名誉教授)によれば、日本では実効線量がチェルノブイリよりずっと低くなる計算法を用いているために、汚染が東日本に限定されるようにいわれますが、チェルノブイリと同じ基準にすれば、日本列島の全土に汚染地が広がっています。被ばく線量は、住民調査の平均値から外部被ばくと内部被ばくの比率を「6:4」としています。例えば、空間線量が3ミリシーベルトのとき、被ばく線量は内部被ばくを加え5ミリシーベルトになります。

 チェルノブイリでは年間1ミリシーベルト以上の地域を「避難の権利区域」としたが、なんと、日本とチェルノブイリでは計算法が違い、日本の方が実効線量ずっと低くなるように計算されているという。目からウロコとはこのことだ。矢ヶ崎氏は以下のようにも言っている。

チェルノブイリでは汚染地を法的には年間1ミリシーベルト以上(実効線量)と定義していますが、実際には年間0.5ミリシーベルト以上で運用されています(放射能管理ゾーン)。これを考えにいれず、年間1ミリシーベルト以上で観ても、東電福島第1原発事故は日本列島の全土を汚染したことがわかります。北は北海道最北の宗谷地方にある枝幸(えさし)町から、南は沖縄県の石垣島(先島諸島)まで汚染地が散在しています。世界遺産の屋久島も年間1ミリシーベルトをこえる地域がみられます。

【出典】地球の子ども新聞133号(解説版付き) (地球の子ども新聞)

 チェルノブイリの事故と福島の事故の汚染面積を比較した図は以下。早川由紀夫さんによる土壌汚染の図とはかなり異なる衝撃的な汚染マップだ。

地球の子ども新聞132号(解説版付き) (地球の子ども新聞)

 この比較地図では、「移住の権利ゾーン」は福島から関東地方にかけて広く分布する。東北から関東の大半が「放射能管理ゾーン」だ。島国の日本では海の部分の汚染が示されないが、福島の事故による汚染範囲はチェルノブイリよりずっと広いことが分かる。日本全体が広範囲に汚染されてしまったのだ。昨日の記事に書いた二本松市の東和地区は、「強制避難ゾーン」に当たると思われる。これほどの汚染地域で農業を認めるということ自体、どうかしている。

 環境省による甲状腺検査では長崎の子どもにもB判定があったが、この地図を見てやはり長崎まで健康被害が広がっているのだと納得できた。

 もう原発事故のことなど頭にない人も多いかもしれないが、事態は極めて深刻だと考えざるを得ない。

【関連記事】
チェルノブイリと福島の汚染比較地図についての補足

2013年5月13日 (月)

放射能に対する感覚が麻痺してはいないか

 先日の「新婦人しんぶん」のトップページは、「わたしはふるさとできぼうのたねをまく」というタイトルで、福島第一原発から50キロほど離れた福島県二本松市東和地区で農業をしている若い女性のことが紹介されていた。東和地区は、空間線量だと毎時1マイクロシーベルトを超える地域が点在するという。

 そこで、この女性は田んぼにゼオライトを入れたり、深く掘り起こすなど放射線量を減らす努力をして米を生産しているという。その結果、米はすべて検出限界(11~12ベクレル)以下だったそうだ。福島県内の米は99.8%が基準値の4分の1(25ベクレル)以下で、2年目にしてこの数値は「福島の奇跡」とか。

 まるで、基準値よりはるかに低いから大丈夫、検出限界以下だから安心とでも言いたいような記事であり、私は正直いって愕然とした。

 この農家ではハウスの中の空間線量が0.3マイクロシーベルトで、外は0.4~0.5マイクロシーベルト、ハウス脇の窪みでは1マイクロシーベルトだという。こんな線量が高いところに人が生活すること自体が異常だと思うのだが、そこで農業をやって農産物を出荷するということ自体が私には信じがたい。

 以下の記事のQ.6をお読みいただきたい。

「私自身は放射線管理区域のような場所に人々が住んで欲しくありません」/小出裕章助教第2回インタビュー(小出裕章(京大助教)非公式まとめ)

 毎時0.6マイクロシーベルトを超えるような場所は、放射線の管理区域にしなければならない。この農家のある地域は、飲食も禁止されている放射線管理区域に近いような場所なのだが、厳重に管理された放射線管理区の中で作物をつくっている光景を想像してほしい。いったい誰がそのような作物を食べたいと思うだろうか。

 福島の米の全袋検査はまずスクリーニング検査を行い、これでスクリーニングレベル以下であれば出荷するが、スクリーニングレベルを超えるとゲルマニウム半導体検出器で再検査して100ベクレル以下かどうかを確認した上で、100ベクレル以下のものが出荷されることになっている。

 ところが簡易検査(スクリーニング検査)の精度が分からない。再検査も誤差がきわめて大きく、検出限界以下となった物でも基準値を超えている場合がないとは言い切れない。また、福島県産品の福島県と福島県以外の検査結果(平均値)を比べると、福島県外で計測されたものの方が福島県で計測されたものよりセシウム濃度が何倍も高いのである。以下を参照していただきたい。

食品中の放射性セシウム検査のまとめ(10月2週)-福島県産米全袋検査破綻?(めげ猫「タマ」の日記)

食品中の放射性セシウム検査のまとめ(12月)-デタラメな放射性セシウム検査は「福島産=汚物」にする。(めげ猫「タマ」の日記)

 福島県のセシウム検査自体が信頼できない。農家はこういうことを知っているのだろうか? 「知らない」で済まされることなのだろうか?

 簡易検査で検出限界値以下ということが、安全を意味するわけではない。自分の作っている農作物が安全だと言いたいのなら、「チダイズム~毎日セシウムを検査するブログ~」の検査のように、せめてゲルマニウム半導体検出器で時間をかけて検査し、検出限界以下だというデータを示してもらいたい。

 それにも関わらず、マスコミでは福島の作物はあたかも安全であるかのような記事が氾濫しており、新婦人しんぶんとて例外ではない。新婦人しんぶんを発行している新日本婦人の会の目的には「核戦争の危険から女性と子どもの生命をまもります」とある。原発事故による放射能汚染は核戦争による汚染と変わらないのに、何とも矛盾している。

 放射性物質はどんなに微量でも有害だし、長い年月をかけて健康を蝕んでいく毒物である。なぜ低線量被ばくの危険性を伝えず、汚染作物をつくっている農家をここまで持ちあげ安全をアピールするのだろう。福島県の読者への配慮なのかも知れないが、これでは御用新聞と変わらない。

 小出裕章さんによれば、福島の原発事故が起きる前は日本の米の放射能汚染は1キロあたり0.1ベクレル程度だったそうだ。仮に10ベクレルであっても以前から比べたら100倍もの汚染ということになる。

小出裕章が批判、文科省の給食食材「40ベクレル/kg以下」通知。「(事故前の)400倍許してしまう」12/1(2)(ざまあみやがれい)

 仮に農薬汚染や食品添加物にあてはめたらどうだろう? 今までの数百倍もの農薬や添加物を含む食品が売られたら消費者は大騒ぎし、不買運動が起きるに違いない。マスコミだって大々的に取り上げるだろう。ところが放射能汚染に関しては実際にはそれと同じようなことが起こっているのに、ゆるい基準値や御用学者の安心・安全説によって危険だという感覚がなくなっている。

 鉱山から排出されたカドミウムが含まれる水が飲料水や農業用水として利用された結果、イタイイタイ病が発症した。何度もの裁判を経てようやく因果関係が認められ公害病と認定されて補償の対象となったが、認定されない被害者もいる。水俣病も水銀汚染による公害病だが、これらの公害でどれほどの人々が苦しみ亡くなっていったことか。原発事故による放射能汚染はこれら公害病と本質的に変わらない。被ばくによる健康被害の補償を求め、おそらく将来は多くの裁判が起こされるだろう。汚染作物を流通させるということはそういう問題なのだ。

 私はこの記事を読んで、原発事故のあとに福島の農家の人たちを批判していた群馬大の早川由紀夫氏のことを思い出した。毒の入った米を作るなという主張だ。福島の農家の中には「汚染された作物は出荷できない」と判断して福島を去った人がいる。被ばくの加害者にはなれないという良心に従ったのだろう。その一方で農業を続けたいと残った人もいる。もちろん放射線管理区のような場所を避難区域にしないで農業をさせる国が悪いのだが、しかし農家の人たちは「汚染地で農業をするのは汚染された食品を他人に食べさせること」という加害意識を持たないのだろうか。

 ところがうしろめたさを感じるどころか、福島の農業に希望を持っているというのだから、私にはとても理解できない。「100ベクレル/kg」という汚染は、事故前には「低レベル放射性廃棄物」だったのだ。

放射性汚染物質対処特措法施行に当たっての会長声明(日本弁護士連合会)

 「基準値以下だから大丈夫」という認識は、放射能に関して感覚が麻痺しているとしか思えない。

 もちろん日本全国が放射能汚染されてしまったのなら、少しでも汚染を減らす工夫をしつつも国民が汚染された作物を食べざるを得ない。しかし、日本にはそれほど汚染されていない地域に耕作放棄地がたくさんある。そういうところに移住して農業をしてもらうという支援こそ必要ではなかろうか。

 福島では子どもたちが安全な環境で教育を受ける権利があるとして集団疎開裁判が起こされたが、農家の人たちだって「汚染作物をつくらない権利」を求めて行動してもよいのではないか。しかも汚染地での農業は放射性微粒子を含む土埃を吸い込んで農家の人自身が被ばくする。もちろん放射性微粒子はセシウムだけではないし、放射性ストロンチウムなどは体内に取り込まれたら排出はほぼ期待できず、一生被ばくを続けることになる。農家の人たちを被ばくさせ、今までの何百倍というような汚染作物を作らせ、全国に流通させる国は異常としかいいようがない。

 ところで、インターネット上では原発事故以来、健康だった若い人の突然死や被ばくに起因すると思われる健康被害の事例が報告されているが、マスコミはこのようなことに一切ふれない。

 福島の子どもたちの甲状腺検査では、「3人が甲状腺がんで7人が疑い濃厚」という報道があった。これは福島の子どもの一部の検査結果であり、残りの検査結果は報じられていない。今も検査が続けられているはずだが、なぜ公表されないのだろう。いよいよ健康被害隠しが本格化してきているのかもしれない。

2013年5月10日 (金)

原発は今すぐ廃止の決断を

 北海道新聞では金曜日に「各自核論」というページがある。各方面の識者などが持論を語るコーナーだ。今日の「各自核論」では、慶応大学教授の金子勝氏が「原発は不良債権 国有化を」とのタイトルで原発の再稼働問題について語っていた。

 金子氏は、電力会社が再稼働をしたがる理由は経営問題だという。北電は「電気が足りなくなるから再稼働が必要」と説明していた。しかし、泊原発1~3号機のすべてが止まって1年たったが、電気が足りなくなることはなかった。すると、今度は火力発電の燃料費がかかるという理由で値上げを申請した。

 原発は稼働していなくても人件費や使用済み燃料の冷却のためにお金がかかる。さらに、火発の燃料費も余計にかかる。だから電力会社は一刻も早く再稼働させたい。泊原発の2011年度末の施設や燃料の簿価上の残存価格、廃炉にするために積み立てている引当金の不足を合計すると3790億円で、北電の純資産の2797億円を上回っており、3号機は減価償却もこれからなので廃炉にすると経営を揺るがすと金子氏は指摘する。再稼働は経営問題というのは、まさにその通りだろう。

 これを解決するために金子氏は、原発の国有化(原発の管理と廃炉は日本原電が行う)と発送電分離を提案する。ここまでは私も賛同する。しかし、金子氏は以下のように続ける。

50基すべてを廃炉にするには国民負担が大きすぎるので一部の原発はきちんと安全投資をした上で日本原電が運転し40年で廃炉にする。安全投資分が回収できない老朽原発はすぐに止めるべきです。

 金子氏の言いたいことは分かる。しかし、安全投資をしてまで原発を稼働させるべきなのだろうか。金子氏は以下のようにも述べている。

なぜ原発がもうかるかと言えば、これまで事故のリスクに見合うだけの安全確保を怠り、安全投資を少なく済ませてきたからです。でも、いったん事故が起きたときに制御できないようなものをほんとに動かしていいのか-。

 金子氏の論理なら、安全投資にお金をかけたら原発はもうからないことになる。それに、安全投資をすれば絶対に安全だという保証もない。いくら安全投資をしたとしても、たとえばマグニチュード9.5などという超巨大地震が近くで起きたなら、あるいは30メートルもの津波が原発を襲ったなら、原発が耐えられるとはとても思えない。

 しかも、福島第一原発の事故原因の究明は曖昧なままではないか。東電は津波による電源喪失が事故の原因であり1~4号機のすべてが水素爆発だとしている。しかし、田中三彦氏の1号機は地震そのもので壊れたという主張は置き去りにされている。4号機の爆発は3号機からの水素が流入したものだというが、この説にはさまざまな疑問が出されている。

一番危険な福島第一原発4号機「本当は自力で爆発していた!?」仏独共同の国営放送と事故直後の新聞記事(みんな楽しくHappyがいい)

 3号機の爆発については、東電や政府は水素爆発としているが、ガンダーセン氏は燃料プールの即発臨界爆発説を唱え、イアン・ゴッダード氏は格納容器内の水蒸気爆発説を唱えている。

イアン・ゴッダード氏(Ian Goddard)の“福島第一3号機:水蒸気爆発理論”全訳(farpostingのブログ)

 私にはゴッダード氏の説の方が説得力があると思える。いったい何が真実なのだろう?

 いずれにしても福島第一原発の事故は、地震や津波という自然現象に起因している。人為ミスと言われているチェルノブイリとは明らかに違う。ならば、事故原因の究明がしっかりなされなければ同じ事故を再び起こすことも否定できない。それをあやふやにしたままの再稼働などあってはならないと私は思う。

 地球は巨大地震と火山噴火の活動期に入ったと見ていいだろう。しかも、日本の原発はほぼ全てで直下あるいは近くに活断層があると言われている。原発の減価償却より、地震や津波、火山などによる過酷事故のリスクを重視するべきではなかろうか。しかも、運転すればするだけ、行き場のない核廃棄物を増やすことになる。安全のための投資こそ止めて、使用済み核燃料の早期の安全保管をめざすべきだ。

 たしかに50基の原発すべてを廃炉にするのは、国民の負担が大きい。しかし、何も今すぐ廃炉作業にとりかかる必要はない。原発の廃炉は大変な被ばくを伴う作業なのだから、早期の廃炉作業はリスクが大きい。未来にツケを残すことにはなるが、廃炉による被ばくを軽減させるためにはしばらくそのままにして放射線量を減らすほうがよいのではないか。また、将来のほうが廃炉技術も進んでいるだろう。

 金子氏の言うように、原発はまさに不良債権であり負の遺産だ。国策としてこれを進めて来てしまった以上、廃炉のための税金投入はやむを得ない。いくら電力会社が安全神話を振りまいて国民を騙したといえど、国民にまったく責任がないというわけではない。国は速やかに原発の国有化、発送電分離を検討し、電力会社は安全対策への資金投入を止めて廃炉を決断してほしい。

 チェルノブイリや福島第一原発の事故を見れば、ひとたび過酷事故を起こしたならその損失はあまりにも大きく、国をも揺るがすものであることははっきりしている。東電は被災者に対し満足な補償もできないのだ。これ以上、過酷事故のリスクを負うことは許されないと思う。

2013年5月 9日 (木)

今ごろ報じる瓦礫の過大推計問題

 今日の北海道新聞に「がれき広域処理必要だった?」という見出しの記事が掲載された。その記事によると、環境省がまとめた広域処理分のがれき量は、岩手県31万トン、宮城県36万トンとのこと。ところが、昨年2月時点では岩手県57万トン、宮城県344万トンと推計しており、実際に収集、分別すると2割以下だったという。5倍以上の過大な推計によって広域処理を実施してきたが、税金をつかっての広域処理は必要だったのか、といった内容だ。

 この記事を読んでまず腹が立ったのは、なぜ今ごろになってこの問題を取り上げたのか、ということだ。がれきの焼却問題や過大推計については環境ジャーナリストの青木泰さんが以前から指摘していた。青木さんはご自身のブログでこの問題をずっと書いていたし、週刊金曜日にも書いていたので、マスコミ関係者は以前からこの問題について知ることができたはずだ。というか知っていただろう。なのに、なぜ今ごろ記事にするのか。がれき焼却に反対する住民を押し切り、多額の税金を使ってすでにあちこちで焼却処理された。「あとの祭り」である。

ブログテーマ:放射能汚染(青木泰のブログ)

 マスコミは青木氏の指摘をもっと早くから知ることができたのに、取材して伝えようとしない。ようやく記事にしたときは「あとの祭り」。いったい何のためのジャーナリズムなのだろう。それどころか、マスコミは「震災復興」「絆」のキャンペーンを繰り広げ、がれきの広域処理に加担してきた。

 がれきの推計量が5倍以上だったということは、たんに「間違い」では済まされない話しだ。仮に、推計量が2倍だったとしても誤差とは言い難い。それが2倍どころか5倍だというのだから、間違いというより意図的な過大推計を疑うのが普通の感覚だろう。

 青木さんのブログを読めば、がれきの広域処理の背景には、がれきの二重カウント、契約違反問題、二重契約問題などがあったことがわかる。早い話し、がれきの広域処理はゼネコンとの利権が絡んでいたということだ。「復興」「絆」とキャンペーンをはっておきながら、その裏では利権がうごめいていたのだ。役人も加担した税金泥棒である。

見えてきたがれき広域化の違法構造 

 青木さんたちの追及があったからこそ、がれきの驚くべき過大推計や違法構造が浮き彫りになったのである。本来ならマスコミは市民の側にたって利権構造を暴くのが仕事のはずだが、日本のマスコミは逆のようだ。

 この国は、必要がなかったがれき広域処理に莫大な税金を投入した。また、除染も同様に莫大な費用をかけている。汚染地域に住む人たちの避難にこそ使うべきだったのではないか。復興の名のもとに汚染地帯に住民を留まらせて被ばくを強要し、大手ゼネコンを儲けさせる構図はどうみても異常であり棄民政策だ。どこまで利権に汚染された国なのだろう。

2013年5月 8日 (水)

オール電化住宅は原発促進の産物

 最近、オール電化住宅が増えているようだと思ってはいたが、今日の北海道新聞の「オール電化 重い負担」という記事によると、道内の7%に当たる19万世帯がオール電化住宅だという。私はオール電化といえばてっきりマンションやアパートが中心だと思っていたのだが、一戸建て住宅でも増えているらしい。このために、北電の値上げは相当こたえるという。

 新聞で紹介されていた6人家族の世帯では、月額の電気代が夏で1万4千~6千円。冬で5万円前後だという。暖房費だけで月3万5千円ほどになる計算だ。値上げすると、冬は1万円以上の負担増になるそうだ。

 熱を発生させる電化製品というのは電気消費量が大きいものばかりだ。寒さの厳しい北海道の場合、どう考えても電気での暖房はお金がかかるとしか思えない。電磁調理器なども電気消費量は大きいし、電磁波による健康被害の懸念もある。

 それなのにオール電化住宅が普及してきたのは、もちろん電力会社の宣伝によるところが大きい。北電は温暖化防止を謳って火力発電を休止し、原発へと転換してきた。そして原発による電気をベースとし、火力や水力をピーク時の調整として使うように変えてきたのだ。

 出力調整が困難な原発では、発電量が増えてくるとどうしても夜間の電力が余ってしまう。夜間電力を安くすることでオール電化でもそれほど料金が割高にならないようにして、オール電化を促進してきたのだ。夜間の安い電気が利用できなければ、馬鹿高いエネルギーを必要とする住宅になる。本来ならエネルギーをすべて電気で賄うなどとても考えられないのだが、夜間電力で誤魔化してあまり高くないように見せかけているだけだ。オール電化住宅というのは原発促進の産物でしかない。

 原発による発電量を増やせば増やすほど、夜間電力が余ってしまう。その対策が揚水発電とオール電化だ。昼間の発電のために夜間電力を利用して下部貯水池から上部貯水池へと水をポンプでくみ上げる揚水発電は、無駄の典型ではないか。原発とはそれほど余計なエネルギーをつくりだしてしまうのだ。

 原発とはエネルギーの無駄づかいに他ならない。しかもウランは有限だし、人類は核廃棄物の安全な処理すらできない。プールに貯め込まれたあの膨大な使用済み核燃料はいったいどうするつもりなのか。原発はいつかは必ず廃炉にしなければならないが、廃炉費用も莫大になるだろうし、何よりも労働者は被ばくする。もろもろのことを考えたら原発の電気代ほど高く、原発ほど愚かな発電はない。こんな愚かな発電を促進してきたのは、電力会社にとってよほどうまみがあるからだろう。

 ところが、新聞記事ではそういう原発の本質的な問題にはいっさい触れていない。

 オール電化の住宅に住んでいる人たちにとって、電気料金の値上げは生活を直撃する。しかし、なぜ電力会社がオール電化を促進してきたのかをよく理解し、値上げは困るからというだけの理由で、原発の再稼働に賛成しないでほしい。

 泊原発とて大地震や大津波に襲われる可能性は十分にあり、もし過酷事故を起こしたなら道民は被ばくによる健康被害にさらされ、日本の食糧基地である北海道は壊滅状態になる。事故処理や補償費用はとんでもない金額になるだろう。福島だけでも大変なのだから、日本は間違いなく破綻する。目先のことより未来のことを考えなくてはならない。

2013年5月 7日 (火)

アベノミクスの裏と改憲

 先の衆院選では多くの国民が自民党の経済政策に釣られてしまった。福島第一原発は今でも大量の放射性物質を放出し現場は戦場状態だというのに、国民の関心はすぐに景気へと引きずられてしまう。本当にアベノミクスで景気が良くなると思っているのだろうか? たしかに、テレビしか見ないような人にはそう見えるのかもしれない。

 新婦人新聞では「九条の会」の小森陽一さんの「憲法ゼミナール」という連載記事を掲載しているが、4月25日号は「『アベノミクス』を読み解く」というタイトルで、アベノミクスについて分かりやすく解説していた。小森さんの主張を簡単に紹介したい。

・アベノミクスの「三本の矢」は、「大胆な金融政策」、「機動的な財政政策」、「民間投資を喚起する成長戦略」
・「大胆な金融政策」とは、日銀総裁を辞任に追い込み、独立機関でなければならないはずの日銀を政府の御用金融機関に変質させて、無期限で無制限の金融緩和をすること。しかし、投機マネーを儲けさせているだけの結果になっている。
・「機動的な財政政策」は、無駄な公共事業のばら撒き。財源は建築国債の追加発行であり、国民に借金をさせて大手ゼネコンを儲けさせるだけ。
・「民間投資を喚起する成長戦略」を策定し推進するのは「産業競争力会議」だが、ここのメンバーはグローバル企業ばかりで、グローバル企業に都合のいい成長しか考えられていない。
・アベノミクスの元となっている「税と社会保障の一帯改革」という自公民三党合意では、「社会保障の大改悪」(生活保護切り下げ、医療制度改悪、介護制度改悪、年金制度改悪)と「消費税大増税」があり、「5本の矢」で国民の生活が狙われている。

 アベノミクスとは、投機マネーを儲けさせ、大手ゼネコンを儲けさせ、グローバル企業を儲けさせているだけで、大半の国民にとって利益はない。そればかりか、福祉や医療制度が改悪され、消費税が上げられる。国民が望みもしない大型公共事業で自然がどんどん破壊される。つまり、国民は踏んだり蹴ったりなのだ。ところが、多くの国民はそのことに気づいておらず、アベノミクスで景気が良くなれば給料が上がると勘違いしている。

 勘違いした国民をさらに騙そうというのが、平和憲法を変えて戦争のできる国にしようという改憲だ。もちろん、自民党は徴兵制も視野に入れている。

自民党のクーデターと言える動き(そりゃおかしいゼ)

 安倍政権は、改憲の基盤づくりを夏の参院選で目指している。そして、それを後押ししているのがマスコミだ。国民がアベノミクスに浮かれてこれを見抜けなければ、この国は取り返しのつかない愚かな選択をすることになるだろう。

この国は骨までしゃぶり尽くされている(独りファシズムVer.0.1)

あと2ヶ月(へなちょこ自然保護)

戦慄すべき事実(2)(高知に自然史博物館を)

メディアを鵜呑みにしてしまう日本人(植草一秀の『知らせざる真実』)

2013年5月 3日 (金)

直面する平和憲法の危機

 今日は憲法記念日。思い返せば、これまで憲法記念日にどれだけ憲法のことを考えてきただろうか? 連休の一日として、あまり深く考えもせず過ごしてきたように思う。

 しかし、今年ほど憲法の危機を感じることはない。もちろん安倍政権が96条を変更し、改憲に向けて大きく舵を切ろうとしているからだ。安倍首相は就任以来、アベノミクスを唱えて支持を広めつつ、消費税増税、公共事業ばら撒き、TPP交渉参加と勢いづいている。そして、夏の参院選に向けていよいよ改憲へとまっしぐらだ。これほど危険なことはない。

 私はもちろん戦争を体験した世代ではなく、高度経済成長の中で育った。しかし子どもの頃にはまだ街角に傷痍軍人の姿があり、戦争の傷跡を垣間見ることができた。小学生のときには東京大空襲のことを書いた本も読み、戦争などという殺し合いは絶対にしてはならないし、あの戦争を経験した日本人は戦争を拒否しつづけるに違いないと思った。子どもにすらやってはいけないと分かることを、大人が分からないはずはないと・・・。はかり知れない大きな犠牲を経て獲得した平和憲法に安心感を覚えていたのかもしれない。

 しかし、現実はそう甘くない。この世の中にはお金や利益のためなら「殺し合い」という残虐な行為にためらいのない政治家が一定程度いるのだ。そして、そのような政治家を支える財界やマスコミ。ところが、それに簡単に迎合してしまう一部の市民がいる。とりわけ頭の中に戦争の残像もない若い世代は、戦争を社会の閉塞感のはけ口のように考えてしまうのかもしれない。しかし、彼ら政治家は決して戦場には行かない。戦場に行かされるのは従順な国民だ。

 ここで考えねばならないのは、なぜ昨年の衆院選で民主党が敗れたのか、政権を握った自民党は何を目指しているのかだ。以下の渡辺治さんの解説が参考になる。

渡辺治さん(一橋大学名誉教授)に聞く【安倍政権誕生の背景と運動の課題】保守主義と新自由主義の結合 政治の対立軸示さないマスコミ(Daily JCJ)

 国民は、民主党が政権をとった選挙で自民党の推し進めてきた新自由主義にノーを突きつけた。しかし、民主党の首相が次々と交代する中で、民主党は変節し国民の期待を裏切った。彼らは圧力に抗えなかったのだ。こうした状況の中、小選挙区制による選挙が自民党の圧勝を招いてしまった。上記の記事では「いわば左からの支持者も右からの支持者も離反したのが、民主党大敗の原因です」としている。

 そして渡辺氏は、マスコミが「新自由主義・改憲の政治」か「反新自由主義・憲法の政治」か、という対抗の構図を示さなかったことが、自民党を勝利に導いたと見ている。

 私は、さらにマスコミの世論調査が自民党政治を後押ししているように思える。マスコミの行っている世論調査は第三者のチェックも入らず、それ自体が公平・公正・中立なものであるのかも分からない。もちろん、マスコミは世論調査の際に「新自由主義・改憲の政治」と「反新自由主義・憲法の政治」のどちらを望むか、という質問もしない。内閣支持率、支持する政党、経済政策の評価、改憲、TPP交渉参加の是非ばかりが独り歩きしている。マスコミが頻繁に実施する世論調査は、「多数の側にいることを好む日本人」にとって、意思決定に大きな影響を与えている。

 憲法記念日の今日、ぜひ原点に立ち戻って憲法の意味を考えてほしいと思う。戦争という殺戮を許していいのか。自分や家族、子や孫が戦争に行くことを望むのか。戦争の名のもとに人を殺してもいいのか。自分は人を殺せるのか・・・。

 自衛隊だけが戦争に行くと思うのは甘い。一度戦争肯定への道を選んだなら、犠牲になるのは国民だ。憲法を守って戦争を拒否するのも、改憲によって戦争のできる国にしてしまうのも、私たち国民ひとりひとりの判断に関わっている。そして私たちの決断は次世代へ大きな責任を負っている。

消費税と同じように憲法を変えていいのか(そりゃおかしいゼ)

2013年5月 1日 (水)

被ばくをめぐる隠蔽と責任回避の連鎖

 先日、「ふくしま集団疎開裁判」の高裁決定が出た。詳しくは以下を参照していただきたいのだが、低線量被曝の影響について認めながらも、集団疎開を認めないという理解しがたい判断だった。

司法も健康被害を懸念-「ふくしま集団疎開裁判」、高裁決定出る- 

 そもそもなぜ「ふくしま集団疎開裁判」を起こさねばならなかったのだろう。それは、国が福島第一原発から大量の放射性物質が放出されたことを知っていながら、速やかに国民にそのことを知らせず、また適切な避難をさせなかったことに起因している。もし、国が高濃度汚染地域の人たちの避難を義務づけ、また年1ミリシーベルト以上になる地域の住民に避難の権利を認めて移住や新生活の補償をしていたなら、おそらく裁判を起こすこともなかっただろう。避難したくてもできない弱者がたくさんいるのであり、その人たちの補償と支援こそ国の責任だ。

 たとえば福島市の市街地では、実際には飲食も禁じられている放射線管理区域の基準(3カ月1.3ミリシーベルト)を超える毎時0.75マイクロシーベルトの地域は半分以上もあり、年8ミリシーベルト(毎時1マイクロシーベルト)以上の場所が市街地の28%もあるという。

福島市街地の半分は居住不適(ヤフーニュース)

 チェルノブイリの原発事故でも、事故直後ではないものの、年間被ばく量が1ミリシーベルト以上の地域の住民は、移住の権利が認められた。

 ところが除染をして空間線量を年20ミリシーベルト以下に下げれば居住可として、避難した住民すら汚染地に戻そうというのが日本の方針だ。

「脱ひばくを実現する移住法」制定への提言・松井英介(明日うらしま)

 チェルノブイリでは大変な健康被害が生じ、それは今も続いている。それなのに、日本政府は放射能管理区域よりも線量の高いところに人を住まわせて被ばくさせようとしている。もちろんチェルノブイリと福島では同じではないが、だからといって健康被害が生じないなどという保障はなにもない。

 福島第一原発が次々と爆発したとき、チェルノブイリの被害を知っている一部の人はいち早く避難をした。しかし、多くの日本人はマスコミに登場した「格納容器は健全です」という御用学者の言葉を信じてしまった。私も、原発が爆発した時、放射性物質が放出されたことはもちろん分かったが、原子炉が大破したチェルノブイリのような大量放出にはならないだろうと何となく思ってしまった。

 しかし、米国はすぐに福一から80キロ圏内の米国人を避難させた。私は2011年3月下旬から4月上旬にかけて東京に行ったが、東京には外国人の姿がほとんど見られなかった。米国にはSPEEDIの情報が伝えられ、首都圏すら危険であることが分かっていたのである。

 チェルノブイリの前例がありながら日本政府は「避難の権利」を認めるという選択をせず、除染で対応するという方針を選んだ。「避難の権利」を認めてしまったなら、低線量被ばくによる健康被害を認めなければならない。これを認めたら、あとで裁判などになったときに不利になる。国の判断には、責任回避が先にあるのだろう。さらに、人口密度の高い日本で「年1ミリシーベルト」を基準に避難の権利を認めたなら、移住に伴う補償費用が莫大になる。

 嘘をついたらその嘘を隠すためにさらに嘘をつくことになる。初めの判断を誤ったなら、あるいは初めに責任回避を優先したら、そのためにずっと嘘をつきつづけなければならない。嘘や隠蔽の連鎖だ。今の日本はそんな状況にあるように思えてならない。

 裁判所も福島では健康被害が懸念されると認識している。それでも子どもたちの集団疎開を認めようとしない。裁判所も国の決定に逆らえないということなのだろうか。

 私は、被ばくを回避するためには避難するのがベストだと思っている。とりわけ子どもたちは少しでも安全なところで生活してほしいと願っている。ただし、このブログでも福島の人たちに避難を呼びかけることはしていない。チェルノブイリでも高濃度汚染地域に住み続ける高齢者がいる。彼らにとっては避難することこそ苦痛なのだろうし、彼らの選択を批判することはできない。

 現状では、避難するか否かは最終的には個人個人の判断に任せるしかない。しかし避難できる人の大半はすでに避難しているのだと思う。その一方で、避難したいのにさまざまな理由で避難できない人、またリスクは小さいと判断して汚染地域に住むと決意した人たちがいると思うと、何と言っていいのか分からない複雑な心境になる。こんな風に人々を引き裂いてしまうのが原発事故という現実なのだ。

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