「ぬまゆのブログ」の不可解な終止符
昨日、南相馬にお住まいの「ぬまゆ」さんのブログを見たら、「『ぬまゆのブログ』は、これで終わります。」という記事がアップされていた。
嫌がらせにあって、何度もブログを休止したり引っ越ししてきた彼女も、とうとうブログでの発信を止めることにしたという。しかし、不可解なのがその理由。ぬまゆさんは、昨日(3月28日)の記事で以下のように書いていた。私は昨日の記事を保存しておいたので、間違いない。
わたくしは、
ある新聞記事を載せたことで、
そのご遺族を深く傷つけてしまいました。
ご遺族の要求は、ブログをやめることでした。
ところが今日、彼女のブログを見ると、一部が書き換えられていた。
わたくしは、 ある新聞記事を載せたことで、
そのご遺族を深く傷つけてしまいました。
ご遺族への謝罪には、
ブログをやめることしかありませんでした。
ご遺族の方から修正を要求されたのではなかろうか。
ご遺族を傷つけることになった記事はすでに削除されているようだ。しかし、3月21日に以下の記事を書き、「わたくしが、福島の惨状を、世界や全国に発信するために、誰かを傷つけてしまったら、本当に申し訳なく思います。」と謝罪しながらも、発信は続けると書いている。
これらの記事から推測するなら、彼女はあるご遺族の方から新聞記事を掲載されたことで傷ついたと抗議を受け、さらにブログを止めるように言われたのだろう。
彼女の判断は尊重したい。しかし、もしご遺族の方が「ブログを止めてほしい」と要求したのであれば、それは言論の自由の侵害としか思えない。ぬまゆさんは当該記事を削除して謝罪もしている。なぜブログの停止まで求めなければならないのだろう。彼女が福島の惨状をブログで発信するという自由は誰も侵害してはならないし、発信を止めろという権利はない。
ブログで事実を発信したり自分の意見を書くという行為は、「表現の自由」として憲法で保証されている。もちろん名誉毀損とかプライバシーの侵害などの不法行為には気をつけなければならない。しかし、そもそもご遺族の方を傷つけたという記事自体にご遺族に対する不法行為があったとは思えない。おそらく感情的な問題だろう。そして当事者からの抗議を受け、心情を察して削除したのだろう。
当たり前のことだが、世の中には千差万別の意見がある。自分と考えの近い人から正反対の意見の人までいる。ある人には共感を呼ぶ記事が、別の人にとっては不快であったり強い怒りを感じることも当たり前のようにある。とりわけ原発問題、被ばく問題のようなことでは時として不快感やストレスを与えることもあるだろう。しかし、それを避けていたら真実は伝えられない。また、どんなに不快、あるいは怒りを感じる意見であっても、意見を言うこと自体を封じ込めてはならない。不快だから、ストレスになるから意見を言うななどというのは、「表現の自由」を無視した傲慢な態度だ。
私もときどきブログのコメント欄で批判されたり言いがかりをつけられることがあるが、その場合は「自分でブログを開設して正々堂々と批判するように」と言っている。自分と違う意見だからといって、あるいは批判意見だからといって、決して言論そのものを封じ込めるようなことをしてはいけない。
しかし、今回のぬまゆさんの記事を見て感じたのは、異なる意見の者による言論の封じ込めであり、「傷つけられた」ことを理由にした圧力だ。こんな風にして原発に関する言論が封じ込まれていくのかと思うと、とても虚しい気持ちになる。
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コメント
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最近、片山さつきがぬまゆさんを攻撃していたようです。
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1970.html
Twitterも人体実験エートス関係者が出鱈目ばかり書き込んでいますね。
投稿: 透明 | 2013年3月31日 (日) 18時35分