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2013年1月 7日 (月)

消えゆく心の豊かさ

 沖縄在住の「木枯」さんのブログの今年はじめの記事に、木枯さんがインドを旅したときの写真が掲載されている。実に生き生きと輝いた目をしているインドの子どもたちの写真に、私はしばし見入ってしまった。

 いちごいちえ 

 そして、すぐに故渡辺容子さんがフィリピンに行ったときの写真を思い出した。そこには木枯さんの写真と同じような子どもたちの笑顔があった。

1994年フィリピンの子どもたち 

 彼女はその前の年にネパールにも行って子どもたちの写真を撮っている。

1993年ネパールの子どもたち 

 インドの子どもたちも、フィリピンの子どもたちも、ネパールの子どもたちもとても生き生きとした顔をしている。ちょっとはにかみながらも、屈託のない笑顔、豊かな表情。今の日本の子どもたちに、こんな笑顔を見つけることができるだろうか?

 彼女がフィリピンの子どもたちについて書いた文章がある。

フィリピンにて 

 できれば全文を読んでもらいたいのだが、最後の部分をここに引用したい。

 それにしても、カバジャガンの人たちの笑顔は豊かで美しかった。大人も子どもも、美しい海と空とゆったりと流れる時間の中で、「食べて住んで、そして楽しむ」という、人間の最も基本的で人間らしい生活を、日々自分自身の手で紡いでいた。美しい豊かな笑顔は、その喜びに裏打ちされているのだった。
 ふりかえって、今の日本に住む私たちはどうだろう。そんな自然な暮らしとはほど遠いところへ来てしまった。今となっては、戻ることなどできはしない。それはわかっているけれど・・・。カバジャガンにはまだあるような、真の意味での豊かさが失われ、物ばかりあふれ、時間に追われ、効率だけが求められ、友だちと1本のギターを共有するのではなく、友だちをけおとし、自分が出世しなければならない日本の生活、そういう日常生活それ自体が、今、子どもたちに襲いかかって、押しつぶそうとしているのではないだろうか。それはもちろん、子どもばかりでなく、大人も同じである。
 今の時代の<不安>の中で、大人もまた自分の心を偽っている。こんなふうに物があふれ、次から次へとコマーシャルなどの刺激によって欲望を生み出さされ、物(文化も含め)を消費することだけを押しつけられているような、すべてが管理、操作されている世の中。そこでは、自分のやっていることをちょっと立ち止まって考えてみることすら、相当意識的にやらないと、できないで流されていく一方だと思う。流されているうちに、自分が本当に大切にしたいものなど、ひとつ残らず忘れてしまった。
 最後に残された人間らしさが、<不安>だけを感じている。その<不安>が見えてしまったらこわいから、自己防衛本能でみんなそっちを見ないようにしている。だから、むしろ望んで管理、操作されているのではないか。こうなると悪循環だ。管理、操作され、自分を見失う。すると<不安>になるから、自分を見たくなくて、管理、操作されたがる。
 でも、そうやって逃げてばかりいると、いまにきっととりかえしのつかないことになる。それに、<不安>は確実にあるのだから、永遠に逃げ回っているわけにはいかない。勇気をもって立ち止まるしかない。そして、ふりかえって、<不安>をしっかりと見据え、対決するのだ。

 写真からも分かるように、彼らの生活は物質的にはひどく貧しい。それゆえに、子どもとて家の仕事を手伝うのが当たり前の生活。たぶん文句を言うこともなく、当たり前の日常として仕事をこなしているに違いない。もちろん、今は渡辺さんがこの文を書いたときとは状況が変わっているのだろうが、こんな生活をしている人たちは世界にはまだまだ沢山いる。溢れる物に囲まれている今の日本の子どもたちには想像もつかない世界だろう。

 私が子ども時代を過ごした頃はまだ物も少なくて、少なくとも精神的には今よりもはるかに健全だったのだと思う。ちょうど、「ALWAYS三丁目の夕日」のあの時代、あの風景だ。今はいたるところに物が溢れて生活も便利になった。鉛筆1本も大事に使った子どもの頃の生活が嘘のようだ。その反面、「人間の最も基本的で人間らしい生活」がどんどん無くなっている。子どもも大人も、周りの人の顔色を窺いながら本音を隠し、自分を殺して生きている。そこから屈託のない笑顔など生まれるはずもない。それで本当に私たちは幸せになったのだろうか?

 もちろん、昭和時代のような生活に戻るべきだというつもりはないし、そんなことにはならないだろう。しかし、社会のありようがあまりに非人間的になっていることに改めて驚かされる。私たち人類はいったいどこまで物質的豊かさや利便性を追求しつづけるのだろうか? それが本当に豊かな生活なのだろうか?

 渡辺さんも書いているように、不安を見ないようにしているうちに、私たちは管理され操られていた。そしてとんでもない格差社会になり、原発も爆発してしまった。彼女がいっていた通り「とりかえしのつかないこと」になってきている。

 生き生きとした子どもたちの写真は、人間にとって本当に大切なものを思い出させてくれる。

  

 さだまさし氏の「やはり僕たちの国は残念だけど何か大切な処で道を間違えたようですね」という言葉を、どれほどの日本人が実感しているのだろうか。

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コメント

謹啓、物質的にこそ日本人は豊かに為りましたが心は貧しく為りました。私が大学入学で下宿した部屋には電話は無く大家さんに呼び出し電話の厄介になっておりました。昭和48年、貧しい大学生活でしたが学生相互の助け合いもあり留年や引き篭もりが珍しかった良き時代でした。敬具

関さん、私も同じような世代ですが、あの頃の下宿生はみな6畳一間、あるいは4畳半一間で本当に物も少ない生活でしたね。貧しい学生も多かった。それでも困るようなことはほとんどなく、心を病むこともなかったものです。

今は物が豊になった半面、奨学金という多額の借金を抱えて返済に苦労する若者が急増しました。社会全体が軋み、病んでいます。

戦争体験者は「もう戦争は嫌だ」と言う。30年前は日本も「心豊か」だったと言う。何故、心貧しく成ったのか?。嘆くだけ。物質豊かな国で、しかも心豊かな国は?。北欧の国は、少しは良いと思われる。それらの国の社会形態を尋ね、日本に適用出来るか、考える事が近道かとおもっている。
 現状把握、現状に至った道筋を考察、解決策を提案しなければ。心貧しい・嫌だ、嫌だに終り、貧しくする政治に投票す。

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