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2013年1月

2013年1月29日 (火)

不可解な世論調査

 昨日の新聞に、共同通信社の行った世論調査の結果が出ていた。それによると、安倍内閣の支持率は66.7%で、昨年末の前回調査と比べると4.7ポイント増だったとのこと。

 新聞に掲載された世論調査の主な結果は以下だ。

内閣支持率
  支持66.7% 不支持22.1%
アルジェリア人質事件政府対応
  評価する63.3% 評価しない31.1%
自衛隊法改正
  賛成71.3% 反対24.9%
参院選の比例代表投票先
  自民党37.2% 日本維新の会12.1% 民主党8.8% みんなの党6.2%
2012年度補正予算案
  評価する51.8% 評価しない39.5%
2%の物価上昇目標
  評価する62.0% 評価しない32.6%
消費税の軽減税率
  導入した方がよい75.6% 導入しなくてもよい18.6%
TPP交渉参加
  賛成53.0% 反対35.4%

 この世論調査の質問項目を見て、まず驚いたのが、原発関係の質問がまったくないこと。原発問題は日本経済を大きく揺るがす大問題であるにも関わらず、また選挙で争点になったのに、なぜ入れていないのだろうか?

 安倍政権は、発足して間もなく原発の増設もありえるような姿勢を見せたし、もちろん再稼働するつもりだろう。それに憤りを感じている人も多いはずだ。今年は厳しい寒さだが、泊原発が止まっていても北海道では電気は足りている。再稼働を望んでいる人は果たしてどれほどいるのだろう? 原発敷地内の活断層のことも大きなニュースになっている。それなのに原発問題を取り上げないというのは何らかの意図が働いているとしか思えない。

 安倍政権が進めようとしている憲法改正についての質問もない。生活保護費の引き下げについても大きなニュースになったが、これについても質問がない。

 質問の仕方もおかしい。消費税増税についても軽減税率について問う以前に、なぜ消費税増税そのものを評価するか否かを問わないのだろうか。

 赤旗に志位委員長のあいさつが掲載されているが、以下のように述べている。

 実際、総選挙後のさまざまな世論調査を見ても、安倍内閣が進めようとしている消費税増税に対して、毎日新聞の調査では、国民の52%が反対と答えております。憲法9条改定に対しては、毎日新聞では国民の52%、朝日新聞では53%が反対と答えています。増税でも改憲でも、国民多数がこれに反対という意思を示しているわけであります。
 原発問題ではどうか。「国民の過半数が原発ゼロを望んでいる」というのは、国民的議論の到達点を踏まえて政府が出した結論でした。自民党政権に代わったら、この国民的議論の到達点が変わるなどということがありえるでしょうか。これはありえないわけであります。ですから、いま安倍内閣が進めようとしているあからさまな原発推進政策――再稼働の推進、新増設の容認、原発輸出の推進などは、「原発をなくせ」という国民世論に真っ向から逆らうものにほかならないということも述べておきたいと思います。

 増税も改憲も過半数が反対。原発も過半数がゼロを望んでいる。つまり、共同通信の世論調査は自民党に不利になるような質問項目を意図的に避けているとしか思えない。

 世論調査などというのは、質問の仕方でいくらでも操作や誘導ができるといってもいいだろう。

 アルジェリアの人質事件を受けて、政府が日本人の人質救出のために自衛隊法を改正したいなどと言い始めたのには呆れた。無事だった日揮の日本人の帰国なら政府が専用機を派遣すればいいのだから、自衛隊法を変える必要性はない。日本政府は情報の収集もまともにできず、右往左往していた。あの現場に自衛隊が行ったとして何ができるというのだろう? 自衛隊法の改正は、憲法の改定に繋がっていると考えるのが普通だろう。ところが、あの政府の対応を63.3%の人が評価し、自衛隊法の改正に71.3%もの人が賛成している。

 原発推進、消費税増税、生活保護の切り捨て、憲法改正へと突き進む内閣の支持率がこれほどにまで高いことに唖然とするが、この国の国民はいったい何を考えているのだろう? 日本経済に大きな影響を与えている原発のことは、もう多くの日本人の頭から消えているのだろうか?

2013年1月27日 (日)

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(4)

身近にある家庭内モラハラ
 自己愛的性格で、妻を自分の所有物のようにしか思っていないモラハラ夫は、ごく稀な存在と思われるかもしれない。しかし、程度の差はあれ、私にはモラハラの要素を持った自己中夫はそれほど稀というわけではなく、どこにでもいるように思えてならないのだ。

 それなりに気軽にいろいろな話ができる女友だちなどと話しをしていると、夫による精神的暴力を体験している人は決して少なくない。価値観の押しつけなどはかなり多いのではなかろうか。夫婦であっても、いろいろなところで価値観に違いがあるのは当たり前のことなのに、自分の意見ややり方を通そうとする男性は多い。また、熱があって寝込んでいる妻に料理をするよう命じる夫がいると聞いたこともある。他者の苦痛が分からないのだろうか。

 「他人にはこんなことは言わないが、妻だからこそ言うんだ」という理屈で自分の価値観を押し付ける男性もいるかもしれない。これはあたかも妻に対して思いやりがあるかのような言い分だが、事実は正反対だ。相手の価値観や意見を尊重するということこそ相手に対する本当の思いやりだ。あたかも思いやりがあるかのように見せかけて自分に従わせようとしているにすぎず、余計なお節介でしかない。

 もし家庭内のことで意見が合わなければ、どちらかの主張に合わせるのではなく話し合いをして決めるのが筋だ。一方的に自分に従わせようとしたり、「勝手にしろ」などと怒って突き放すのもモラハラだと思う。また、いくら社会的地位が高くても、社会的に認められる業績があっても、家族への思いやりがなく傲慢な夫であれば、妻は評価する気持ちになれないものだ。

 こうした小さなモラハラはいくらでもあると思うが、程度がそれほど酷くなかったり、妻に被害者意識がないために別居や離婚にまで至っていないだけなのだ。第三者から見ると明らかにモラハラなのに、「夫に従うことが良き妻」と考えているためハラスメントだと気づいていない人もいる。別居生活をしている知人もいるのだが、彼女の話しを聞いているうちにあきらかに夫による典型的なモラハラ被害者だと確信するようになった。夫は第三者にはちゃんと分別のある人に見えるのだから、モラハラを知らない人にはなかなか理解してもらえないかもしれない。

 別居や離婚にまで至る知人は少ないが、しかし日本社会には依然として妻を漫然と「無料の家政婦」のように考えている男性は少なくないのではなかろうか。そのような男性にとって妻は対等の関係ではなく、あくまでも「嫁としてもらった」所有物なのである。だから、家庭内では自分の人権が優先され、妻は自分に従っているのが当たり前という感覚になってしまうのだろう。そうした支配的感覚がモラハラの温床になる。このようなタイプの夫は真正の自己愛性人格障害というより、香山氏の言う二次性自己愛性人格障害に入るのかもしれない。

 家庭では夫が中心であるという意識は、父系社会による弊害といえるし、いまでも日本社会にはびこる男尊女卑の感覚そのものではなかろうか。女性の社会進出が進んだとはいえ、まだまだ男女の賃金格差は大きいし、共働きであっても育児や家事は圧倒的に女性の負担が大きい。夫婦別姓もいまだに認められていない。男女平等には程遠い。しかも、団塊の世代くらいまでの年代では、「男は家事などしなくていい」という考えの家庭で育った人も多いと思う。そういう価値観の家庭で育った男性は、妻を「飯炊き人」「世話係」としか考えないのかもしれない。

 こんな意識の男性に支配されないためには、妻が理不尽な要求は人権侵害であるという主張をはっきりしていくしかない。相手が真正の自己愛性人格障害者でなければ、自分の言動が相手をいかに傷つけているか気づいてもらえるだろう。しかし、いくら理解を求めても分かってもらえないのであれば、あるいはハラスメントがますます酷くなるようなら、回復の見込みがない真正の自己愛性人格障害者の可能性が高いと認識し、離れるしかない。

 ところで年金生活をしている高齢者では、夫が妻に先立たれるとすっかり元気がなくなり妻を追うようにして亡くなってしまうことが多いと聞く。逆に、夫が先に亡くなっても、妻は生き生きと活動的な生活をしていることが多い。これは多分に女性が夫の拘束から解放されてストレスがなくなり、好きなことに思う存分できるようになるためだろう。

 ところが妻に料理をはじめとした身の回りの世話をすべて頼っていたような男性は、食事の支度も満足にできず惨めな状況に陥る。いくら経済的に自立した男性であっても、自分自身の生活はまったく自立していないなら子どものようなものだ。今は家事をなんでもこなせる男性が増えてきたが、そのような男性はたいてい高齢になっても、また一人暮らしになっても溌剌としている。

 退職によって夫婦の多くは時間的に対等の関係になる。生活の条件が同じであれば家事も対等な関係であって然るべきだが、妻が家事をやるのが当たり前だと思っている男性はいないだろうか。退職しても妻を無料の家政婦のように扱っているのであれば、妻を支配して拘束しているに等しい。夫の世話のことが気になって外出や旅行も思う存分できないという状況にしているのだ。定年後に家でごろごろしている男性を「粗大ごみ」などと揶揄することがあるが、家事もせず妻に指示ばかりしているのなら「有害粗大ごみ」でしかない。言葉には出さなくても、妻はそんな夫にストレスを感じているということを自覚したほうがいい。

 今は誰もが男女平等、人権尊重を口にするし、それに異を唱える人はほとんどいない。ならばまずは身近な家族にたいする思いやりこそ持ってもらいたい。相手の立場にたって考えることができるなら、言葉や態度による拘束、人格否定、尊厳の否定がどれほど心を傷つけるのか理解できるはずだ。ならば、頼みごと一つにしても命令口調にはならないだろう。そうした心遣いがモラハラを防ぐ第一歩ではなかろうか。

 今回の記事は、一部の男性にとっては耳の痛い話しだったかもしれない。しかし、モラハラのない円満な夫婦とは、まさに相手の価値観を尊重できる対等な関係の夫婦と置き換えられると思う。モラハラに多少心当たりのある人は、自分勝手なふるまいが相手にとっては「陰湿ないじめ」であることを認識してほしいと思う。(連載おわり)

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(1) 
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(2) 
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(3)

2013年1月25日 (金)

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(3)

家庭内モラハラ
 職場でのモラハラは配置転換を求める、解決のために第三者を交えて話しあいを行う、法律に訴える、職を変えるということでの解決もありえるが、モラハラから抜け出せずにより深刻な事態になるのは家庭内のモラハラではないかと思う。多くの場合、夫による妻へのモラハラだ(もちろん逆の場合もあるが、圧倒的に夫から妻へのモラハラが多い)。以下は香山氏によるモラハラ夫の特徴。

・結婚前にはとくに問題は感じられなかった。
・結婚したとたん、家の中すべてのことの主導権を当然のように握り始めた。
・自分がどうしたいかをはっきり言わず、すべては妻が察しなければならない。
・妻からの働きかけはほとんど無視。
・自分の意に反したことを妻が行ったりやったりすると激しく怒り、人格を傷つける発言をしたり、いやがらせをしたりする。ときには暴力にまで発展することがある。
・妻を食事や子育ての道具あるいは自分の所有物のように扱い、その気持ちや考えはいっさい考慮していない。
・他人の苦しみや痛みには鈍感だが、こと自分自身のこととなると「たいへんだ」と大げさに強調する。
・妻の行動に無関心のようでいて、自由にはさせない。
・家庭の外では「よい人」「立派な人」で通っている。
・自分の非が明らかな場合もいっさい認めようとしない。
・外に対してやたらと見栄を張り、人と比べる気持ちも強い。
・経済的な状況と関係なく、金銭にこだわる。

 これらの全てに該当しなくても、部分的に該当するような男性が身の回りにいる人も多いのではなかろうか。モラハラ夫は妻を自分の所有物のように扱い、自分に従うように仕向ける自己中のかたまりなのだが、妻はなかなか自分が被害者であることに気づかない。というのも、暴力を振るわないことが多いし、とりわけ専業主婦の場合は生活費を稼いでもらっているという負い目も感じてしまい、夫に従うのが良き妻だと思いがちだということがある。しかし、それだけではない。モラハラでは妻が夫にマインドコントロールされてしまうという側面がある。

 夫は妻に規則を与え、規則に従えば賞賛するが、従わなければ罰するということを繰り返していく。そして、この規則は次第にハードルが高くなっていく。このような「躾け」的方法でモラハラ夫は妻をマインドコントロールし、疑問も感じずに自分に従うように仕向けていくのだ。モラハラ夫は別に心理操作のプロではないのだが、こうしたコントロールの仕方は身につけている。妻は夫にマインドコントロールされてしまうと、夫が加害者であることすら気づかず、夫の機嫌が悪いのは自分に問題があるのではないかと自分を責めてしまうことも多い。しかし、いくら夫を怒らせないようにと気遣っても、夫の態度は変わらない。夫の理不尽な要求や拘束に苦痛が増大して身も心もボロボロに疲れ果て、夫に恐怖を感じるようになってうつ病にまで発展するのだ。

 モラハラ夫の方といえば、自分で妻を傷つけておきながらすべてを妻の責任にしてしまう。こうした変質性は自己愛によるとされ、精神医学では自己愛性人格障害と言われている。加害者である夫こそ変質者で病的なのだが、夫自身は自分の行動が正常としか思っておらず、したがって精神科を訪れて治療を受けることはない。治療の対象にもならなければ治療の効果も期待できないということになる。とりわけ強烈な自己愛のゆがみに基づいたモラハラの場合は、まず治ることはないという。つまり、その場合は加害者から離れるしか解決法はない。こうしたことがモラハラ被害を深刻なものにしている。

 ちなみに、以下の9つの診断基準のうち5つ以上にあてはまると自己愛性人格障害という診断になるそうだ。

①自己の重要性に関する誇大な感覚(〈例〉業績は才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
②限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
③自分が特別であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人たちに(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
④過剰な賞賛を求める。
⑤特権意識つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
⑥対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
⑦共感の欠如―他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
⑧しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
⑨尊大で傲慢な行動 または態度。

 私もこれに当てはまる人物を知っているが、まさにモラハラ、パワハラ、セクハラなどの常習犯である。

 ただし、香山氏によると欧米のモラハラと日本のモラハラはやや質が異なるという。欧米のモラハラが「肥大しゆがんだ自己愛」が直接の原因になっているのに対し、日本のモラハラの中には「コミュニケーション下手」や「対人関係下手」があり、それが積み重なっていくうちに自己愛的な言動になってしまうという事例もあるというのだ。要するに他者への配慮ができないことで、自己愛的になってしまうという主張だ。このような二次性自己愛性人格障害による加害者の場合は、教育やコミュニケーションのトレーニングで改善することも十分あるのではないかとしている。

 なお、本書では家庭内モラハラ(加害者が夫の場合)のチェックリストとして以下の項目を掲げている。先に掲げたモラハラ夫や自己愛性人格障害の特徴と合わせ、夫がモラハラの要素を持っているかどうか、妻がモラハラ被害者であるかどうかを知る目安になるだろう。

・妻が話しかけたり質問したりしても、無視する。
・何もしていないのに舌打ちをしたりため息をついたりすることがある。
・妻が真剣に話しても、「さっぱりわからない」「くだらない」の一言で片づける。
・家庭内で立てた予定を忘れたり、勝手に変更したりする。
・たまに家族サービスをしたときは、過剰に感謝しないと不機嫌になる。
・妻の友人や親族、妻がしている仕事や趣味をけなす。 ・自分の友人や親族の前で、妻をバカにする。
・何かといえば「稼いでいるのはオレだ」「誰のおかげで食えているんだ」と言う。
・食事が気に入らないと食べずに席を立つ。
・妻に渡した生活費の使い道をやたらと細かく知ろうとする。
・ほかの人たちからは「いいご主人」と高い評価を得ている。

 夫によるモラハラ被害については、経験のない人にはまったく理解できないかもしれない。被害者自身がインターネットで体験を語るなどしている事例も複数あるので、そのようなサイトを読むのが分かりやすいだろう。実例を知ることで、いかに人権を無視した異常な強制、支配が行われているかが実感できると思う。女性に限らず、男性の方も、もし自分が配偶者から同じことをされたら・・・と想像して読んでいただきたい。

 以下、いくつかを紹介しておく。

モラルハラスメントの呪縛からの解放を目指して 
モラルハラスメント・ブログ 
モラルハラスメント被害者同盟 
モラルハラスメント

 
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(1) 
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(2)
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(4)

2013年1月24日 (木)

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(2)

職場でのモラハラ

 香山氏はモラハラを生じる場所によって「職場でのモラハラ」と「家庭でのモラハラ」に大きく分けて説明している。

 職場でのハラスメントといえば上下関係を利用したパワハラがある。具体的には上司が部下に対し「ひとりではできそうにない作業を要求する」「ちょっとしたミスでも容赦ない叱責」「時間外労働の強制」「運動会の練習や宴会への参加の強制」などを行う。しかし、上下関係を利用しないモラル・ハラスメントもある。つまり、解雇や左遷、降格などをちらつかせないし、権力を利用して部下を操ろうとはしないが、言葉や態度によって継続的で心理的な嫌がらせを行うものだ。この場合は上司のみならず、部下や同僚も加害者となる。「言葉や態度による暴力」「上司・先輩が正しいと思う意見の押しつけ」「八つ当たり」「無視、冷遇」などはパワハラとモラハラに共通する。

 こうして並べてみると、程度の差こそあれ、どこの職場にもモラハラを行う人はいるのではなかろうか。私にも経験がある。自分の意見を強く主張して部下を従わせようとする上司。部下が自分の要求どおりに行動しなければ不機嫌になって叱責する。自分の実績を自慢しいつも傲慢な態度をとっているが、自分より立場が上の者に対しては途端にご機嫌取りをする。また、自分の利益のために人を利用することばかり考えている。おだてていれば機嫌がいいが、ちょっとでも批判的なことを言われたら徹底的に攻撃する・・・。仕事に意欲と希望をもって就職しても、結局、このような上司に嫌気がさして能力のある職員もどんどん辞めていくことになる。残った職員は、この上司の言いなりになる人ばかり。今から思えば、あれはモラハラだったのだ。

 こういう上司がいるかいないかで職場に対する好感度や精神的安定度はまったく違ってくる。モラハラ上司がいたら、常に上司を怒らせないように神経を使わなければならず、それだけで疲れてしまう。たまにこのような上司が出張や休暇でいないと、職場の雰囲気はたちまち明るく楽しくなる。

 香山氏は、責任感があって、勤務考課が公正で、仕事のできる上司がいて、愉快な仲間がいれば、どんな単純作業であっても仕事は楽しいが、逆に無責任で不公平で仕事のできない上司と、感じの悪い同僚に囲まれていれば、どんなにクリエイティヴな仕事をしていても楽しくないという内田樹氏の文章を本書で引用しているのだが、これは複数の仕事を経験した人は誰もが感じていることではなかろうか。

 「嫌がらせ」や「いじめ」がなく、皆が和気あいあいとしている職場であればストレスを感じることなく楽しく仕事ができるという指摘は、まさにその通りだろう。そこに自己愛型上司が一人いるだけで楽しい気分はふっとび、ストレスが襲いかかってくるのだ。人は強制や人格攻撃によって深く傷つけられるのである。

 香山氏は、パワハラではないモラハラをする自己愛型上司の特徴について、イルゴイエンヌ医師の以下の指摘を紹介している。

・自分自身は質的に他者より優れていると感じている。
・他者を貶めることで、この優越性を維持し補強する。
・自分自身は特別な存在と考えているので、他者の権利や欲求に関心ない。
・他者をうまく利用すること、周りがどれだけ自分に貢献してくれるのかだけを基準に考えている。
・部下にハイレベルな達成を要求するが、その達成に必要な支援などはほとんどしない。 ・自分の行為が問題であるとは認識しない。また、よしんば認識したとしても、その行為が他人に対してどんなに有害なインパクトを与えるのかについては、ほとんど関心を示さない。
・同僚や部下には威張り散らすのに、上司の前では急にこびへつらう。
・しかし、上司が去った後はけなす。自分の味方になってくれる上司だけを偶像化する。
・ほんの少数の部下だけを信頼し、忠誠心を持ち続けてもらうために彼らのニーズを満たし、その代わりに完全なる貢献を要求する。

 モラハラ上司にとっては部下を支配して自分に従わせることこそ大事であり、部下の立場や意見などはまったくといっていいほど考慮しない。しかし、このような上司に対して部下が意見を言って対立することは困難であり、結局、被害者は我慢を重ねてストレスをため込むことになる。こうした「いじめ」を継続して受けると、それだけで職場に行くのも嫌になり、人によってはうつ状態になる。

 うつ病になって休職したり退職する人は多いが、その原因は仕事の失敗や苛酷さ、あるいは責任感などからくるストレスだけではなく、上司や同僚による精神的いじめに起因している場合がそれなりにあるのではなかろうか。日本では、まだまだモラハラによる被害が認識されておらず理解されないことも多い。

 職場でのモラハラ被害を解決するためには、被害者がモラハラを受けていることを認識し、職場(組合や人事課など)に助力を求めたり、休職したり、法律に訴えるなどの行動をとるしかない。

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(1)
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(3)
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(4)

2013年1月23日 (水)

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(1)

 モラル・ハラスメント(モラハラ)という言葉をご存知だろうか? 私がモラハラについて知ったのは2、3年前のことだ。それまではハラスメントといえば職場の上司によるパワーハラスメント(パワハラ)、性的嫌がらせであるセクシュアル・ハラスメント(セクハラ)、大学などで教員が学生に対して行うアカデミック・ハラスメント(アカハラ)くらいしか知らなかった。また家庭内ではドメスティック・バイオレンス(DV)や子どもへの虐待などが知られているが、モラハラについてはマスコミなどが取り上げることはほとんどなく、今でも知らない人が多いのではなかろうか。

 実は、モラハラは身近なところに常にあり、場合によってはきわめて深刻な被害をもたらしている。モラハラについて知れば知るほど、その深さや被害の深刻さ、対処の難しさを考えずにはいられない。モラハラを受けていながらそのことに気づかずに苦しんでいる人もいる。自分がモラハラの被害者や加害者にならないためにも、モラハラという巧みで陰湿ないじめについて多くの人に知ってほしいと思うようになった。そこで、モラハラについて何回かに分けて取り上げたい。

 モラル・ハラスメントの定義や具体的説明に関してはインターネットでも取り上げているサイトがいろいろあるが、ここでは主として香山リカ著「知らずに他人を傷つける人たち モラル・ハラスメントという『大人のいじめ』」(ベスト新書)の記述をもとに、考えてみたい。

モラハラとは何か
 モラル・ハラスメントという言葉が日本で知られるようになったのは、1999年にフランスの女性精神科医であるマリー=フランス・イルゴイエンヌの「モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない」が翻訳されたことによるという。モラハラがどこにでもあるハラスメントでありながら広く知られていないのは、まだモラハラが定義、認識されるようになって十数年しか経っていないということが大きいのだろう。

 イルゴイエンヌ医師によると、モラハラとは「ことばや態度で繰り返し相手を攻撃し、人格の尊厳を傷つける精神的暴力」である。つまり、言葉や態度による精神的ないじめ行為であり、人権侵害だ。また、イルゴイエンヌ医師はモラハラには「権力」がベースになるものとそうではないものがあり、「権力」がベースにならないモラハラの原因は加害者の「自己愛性格」であるとしている。

 上司が権力や上下関係を利用して部下を自分に従わせようとするハラスメントはパワハラとして知られているが、モラハラの場合は上下関係に関わりなく「歪んだ自己愛性格をベースにしたハラスメント」も含まれる。ただし、香山氏はモラハラの中には「自己愛性格」以外に、もっと一般的な心理的葛藤や病的なモラハラがあるのではないかと指摘している。

 いずれにしても、モラハラという人格の尊厳を傷つける精神的暴力行為は、実は職場や家庭などで日常的に行われている。ところが、被害者はしばしば自分が攻撃されるのは「自分に落ち度があるからではないか」と思い込み、自分が被害者であることに気づかないままいつまでも続けられる攻撃に苦しむこともある。被害者は人格の尊厳が傷つけられ、強いストレスを受けることによってときにはうつ病になる。しかし、モラハラについて知らず認識できなければ、そのストレスの正体がモラハラであることが理解できないのだ。

 興味深いのは、「人がふたり集まればモラハラは起こる」という指摘だ。本来、人は立場や年齢、性別に関わらず対等であるべきだし、それが社会や家庭で実現されていればモラハラは生じない。しかし、人がふたり集まった場合、たとえ「同じような人たち」であっても、二人の間には何らかの違いや力の偏りがどうしても生じてしまう。そのような対等ではない関係の中にモラハラが入り込むのである。

 そして、モラハラがもっとも顕著に現れるのが「職場」と「家庭」ということになる。自己愛性格などの「心の問題」がベースとなったモラハラは、権力を利用して脅すパワハラより対処や解決が困難なことが多い。しかも、モラハラは基本的に一対一の関係の中で行われるため周囲の人に見えにくく、なかなか気づいてもらえないことも多い。ゆえに、被害者はモラハラ被害から抜けられずに苦しみ続けて体調を崩してしまう。

モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(2) 
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(3)
モラル・ハラスメントという陰湿ないじめ(4)

2013年1月19日 (土)

身勝手な生活保護基準の引き下げ

 北海道では毎日のように真冬日(一日中氷点下)の厳しい寒さが続いている。ところがつい先日、灯油代が値上がりしとうとう1リットル100円前後になってしまった。低所得者にとって灯油の値上げは生活を直撃する。少しでも灯油代を節約するために、日中は公共施設や大型店で過ごす高齢者も増えているそうだ。

 日本の年金支給額では、大半の人が最低限の生活すら保証されない。貯蓄ができなかった人たちはカツカツの生活を強いられている。貧困は高齢者ばかりではない。アルバイトや派遣の仕事しか得られない若い人たちは、年金の支払いすらできないのが現状だ。その上、灯油などの生活必需品の値上がりは生活苦に拍車をかける。失業し住むところを奪われ貯蓄も使い果たした人たちにとって、最後に頼るのは生活保護しかない。

 大量の貧困を生みだし生活保護を余儀なくさせたのは自民党政権に他ならない。ところが、年明け早々、自民党は生活保護費の削減に向けて動き始めた。自民党の生活保護に関する基本姿勢は以下だ。

「手当より仕事」を基本とした生活保護の見直し(自民党)

 大企業ばかりを優遇し、低所得の非正規雇用を増やしておきながら、「働ける層の自立支援」とは恐れ入る。「働ける層」の人たちの多くが「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」が現状ではないのか。職探しをしても仕事が見つからない人も多い。いくら自立支援をしたところで、人並みの生活ができる職がなければ低所得から抜け出ることはできない。病気や障害で働きたくても働けない人もいる。

 だいたい、低所得者層(所得最低層10%)の消費水準と比較して生活保護費を設定するという考え方自体が異常だ。この低所得者層の中には生活保護を受ける権利があるが、利用していない人たちがおよそ8割も含まれている。公共施設に暖をとりに行くなどして家計を切り詰めている人たちの多くは、生活保護を受ける権利があるのだろう。需給漏れの人たちを放置しておいて、その人たちが含まれる低所得者層を比較に用いるのはどう考えてもおかしい。

 生活保護の基準引き下げは、今まで無税だった住民税が課税されたり、生活保護基準を目安にして利用条件を定めている教育や福祉、介護施策が利用できなくなるなどの悪影響を低所得者層にもたらす。生活保護受給者が苦しくなるのはもとより、生活保護を受けずに頑張っている低所得世帯もさらに生活が厳しくなる。これでは生活苦による自殺者や餓死者がさらに増えるのではなかろうか。生活保護基準の引き下げは棄民政策の促進にほかならない。結局、自民党は国民にとって不利益なことを隠し、生活保護予算を削減したいだけなのだ。

 以下の日弁連のパンフレットに、日本の生活保護の問題点がまとめられている。

あなたの暮らしも危ない?誰が得する?生活保護基準引き下げ 

知っていますか?生活保護のこと 

 ぎりぎりまで我慢して生活保護を申請しに言っても、難癖をつけて追い返す役所が未だにあとを絶たないという。なんと情けない国なのだろう。

 ところが、このような改悪をマスコミで声高に支持する記者がいる。産経の高橋昌之氏だ。この記者にはぜひ、最低賃金で生活してみてほしいと思う。高橋記者の記事と上記の日弁連の説明を読み比べてもらいたい。

生活保護費の無駄排除を 弱者の味方気取り?朝日、毎日、東京の論調に疑問(産経ニュース)

2013年1月17日 (木)

教育と暴力

 昨日、写真家の藤原新也氏の教師による体罰に関する記事が目に止まった。

体罰は犯罪か。 (Shinya talk)

 藤原氏は、中学生のときにテストで堂々とカンニングをして教師からビンタを張られたが、涙ぐんでいた教師の目を見て改心したというエピソードを語っている。そして大阪の桜宮高校の部活での体罰の問題を例に出しながら、教師と生徒の身体接触をすべて悪とすること、体罰が犯罪のように扱われていることに疑問を投げかけている。

 藤原氏の言いたいことはわかる。しかし、この主張にはどうしても違和感を拭えない。

 私は、藤原氏のエピソードを読んだとき、彼にビンタを張った教師はそのことをずっと後悔していたのではないかと感じた。もちろん、教師の行為はやってはいけないことを平然とやっている生徒のことを想ったがゆえ、とっさに平手打ちという行為に出たのだろう。ただし、この教師が藤原氏のことをずっと見守ってきたのも、単に教え子の将来が気になったということだけではなく、自分のとった暴力行為が彼を傷つけたのではないかとずっと気になっていたのではなかろうか。もし、藤原氏が涙ぐんでいた教師の目を見ることなく、その教師の想いを汲むことができなかったのなら、はたして平手で叩くという行為を正当化できただろうか?

 もうひとつ気になったのは、藤原氏の事例と大阪の事例はまったく質が違うということだ。藤原氏の場合はたった一回のビンタであるし、社会規範としてやってはいけないことに対してである。さらに、教師の目には真剣さや悲しみが込められていた。だから彼も教師の体罰を恨むことはなく、むしろ納得できたのではないか。しかし、大阪の事例は体罰が常態化していたようだし、生徒のちょっとしたミスなどに対する見せしめともいえる体罰だ。こういう体罰は精神を荒廃させることがあっても、生徒が心から受け入れられるものではない。

 以下の「独りファシズムVer.0.1」の記事をお読みいただきたい。

http://alisonn003.blog56.fc2.com/blog-entry-324.html 

 このブログ主は、ご自身の学校での体罰の経験を人格破壊、虐待だと言っているが、そこで行われていた懲罰、体罰は凄まじく、到底「指導」などと言えるものではない。「心的外傷は生涯消えることもなく、成人後の精神構造にとてつもない影響を及ぼすのだから体罰より悪質だ」と述べている。

 問題となっている大阪の高校での体罰の詳細は分からないが、何十回も殴るような行為は、虐待でしかないと思う。青年期のこうした体験は、人間不信や社会憎悪にまで発展するというブログ主の主張はもっともだ。「いじめ」がしばしば被害者に心的外傷を発症させるように、理不尽な暴力や叱責、罵倒は精神を破壊する。

 つまり、学校という強制収容所のようなところで行われる暴力の大半は、強い者が弱い者を服従させることが目的なのだ。納得のいかないことで一方的にひどく叱責されたり暴力を振るわれたなら、恐怖におびえたり、憎悪が増して意固地になったり、ひねくれるというのが普通の感覚だ。理不尽なことで、あるいは服従を目的に叱責や体罰を行うのは「指導」や「教育」ではない。

 私の父はどちらかといえば温厚な性格だったが、幼少期に一度だけ父にひどく叱られたことがある。鉄筋のアパートに住んでいたときのことだ。父は外の機械室のような建物で整備らしき仕事をしていた。それを、興味津津で見に行った子どもたち(私を含む、兄や近所の子)に外に並べた液体の入った缶を指さし、「これをひっくり返したら大変だから気をつけるように」と注意をした。しかし、一緒に遊んでいた兄や近所の子どもたちはその言いつけを聞かず、その建物の周りを走りまわった。私もそれにつられて一緒に駆け回った。そして、もっとも年下の私が運悪く、缶を蹴飛ばしてしまったのだ。

 その時の父の剣幕は大変なもので、あれほど怒った父を見たのは後にも先にもあのときだけだ。私だけを捕まえ「あれだけ気をつけろと言ったのに」と言ってこっぴどく怒鳴られた。私が缶をひっくり返したのは事実だから叱られるのはやむを得ない。しかし、私は父の怒りが私だけに向けられたことが最後まで納得できなかった。年上の子どもたちが走り回るのを止めていたなら、私も決して一緒になってはしゃぐことはなかっただろう。私にしてみれば他の子どもも共犯者だった。他の子も少しは叱られるならまだ納得できる。ところが父は私だけを叱りつけたために他の子どもたちは難を逃れ、怒られている私を陰でせせら笑った。何よりもそのことがひどく悔しく惨めだった。

 父も、口では注意したものの、走り回って遊ぶ私たちを制止したり遠くに追いやることまではしなかった。それに烈火のごとく怒らねばならないほど大事なものを、なぜあんな所に置いたのかと反抗心も湧いた。しかし、幼い私は怒る父に自分の感じた理不尽さを告げることはできなかったし、たとえ口にできたとしても「言い訳を言うな」とさらに叱られただろう。

 そんなちっぽけなことを50年以上経った今でも鮮明に覚えているのは、本人にとってはそれなりに心に傷を負った体験が深く脳に刻み込まれたからなのだろう。似たような経験は恐らく誰にでもあるに違いない。人は、自分の気持ちも聞いてもらえずに頭ごなしに叱られたり暴力を受けたなら、相手に憎しみを覚えることがあっても心から反省することはない。心に大きなわだかまりをつくるだけだ。部活で行われている体罰の大半は、恐らく理不尽な暴力に違いないし、藤原氏の受けた体罰とは質が違う。

 藤原氏はご自身の体験から体罰も場合によっては許されるかのような主張をされている。しかし、体罰の肯定を私はどうしても賛同できない。藤原氏は体罰で更生したというが、更生のためにビンタはどうしても必要なことだったのだろうか? たとえ叱責せねばならないような過ちがあったとしても、相手の言い分も聞いて言葉による解決を試みるべきだったのではないかと私は思う。それは体罰だけではなく言葉の暴力でも同じだ。

 たとえ相手の将来を想っての暴力や暴言であっても、その想いが相手に伝わらない一方通行のものであれば心に傷を負わせる。場合によっては強い者から暴力を受けた者が自分より弱い者に対して暴力をふるうというような暴力の連鎖を生みだしかねない。また、暴力をふるった者が相手の痛みを共有できる感性の持ち主なら、そのことをずっと気にやむことになるのではないか。私はどんな理由があっても暴力には賛成できない。

 体罰については、以下も参照していただけたらと思う。

体罰を廃止したスウェーデン30年のあゆみ

2013年1月14日 (月)

被害者が原発事故や被ばくを語るということ

 福島では汚染や被ばくのことについて話しをしたがらない人が多いと聞く。そして被ばくを恐れて避難した人たちを非難する人さえいるという。これは恐らく福島ばかりではない。関東地方の汚染された地域に住む人たちもそういう傾向にあるようだ。

 私は正常性バイアスが働いて「避難するほどの汚染ではない」「被ばくのことを言うひとは不安を煽るだけ」と思い込んでいる人が多いのではないかと思っていたのだが、それだけではないようだ。昨日、「ふくしま集団疎開裁判」のサイトの記事を読んで、「ああ、そうなのか・・・」と思った。

それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき 

 悲惨な原爆体験を描いた「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんですら、青春時代に「原爆」という言葉や文字を嫌い、逃げ回っていたのだという。また、沖縄戦を体験し「命こそ宝」を書かれた阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんも、沖縄の人々が戦争のことを語りたがらないと述べている。福島の人たちも同じように、思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみを受けた原発事故のことについて、語りたがらないのだという。

 これを読んで原爆体験、戦争体験、原発事故体験がトラウマ(心的外傷)になっているのだと直感した。福島では、震災や原発事故のストレスによってPTSD(心的外傷ストレス障害)に陥ってしまった人も大勢いるのだろう。

 だからこそ辛い体験は思い出したくもないし、言葉を聞いただけで拒否反応が出てしまう、という気持ちは分かる。多くの人たちがそのような心境に陥ってしまっているのも頷ける。広大な土地が汚染されて住民が被ばくをしてしまったのは事実だし、その事実を消し去ることはできない。さらにさまざまな理由で避難できない人たちは、汚染された土地で生活し生きていかねばならないのだ。汚染された地域に住まざるを得ない人たちは原発事故が大きなトラウマとなっているだけではなく、健康被害の不安の中で大変な葛藤にさいなまれているに違いない。

 少しでもストレスを減らそうとする結果、「考えたくない」、「語らない」という思考が働くのだろう。そのような人たちにとって原発事故や被ばくのことを語るのは、心の傷を広げるようなことなのかもしれない。

 しかし、その一方で、南相馬市にお住まいの「ぬまゆ」さんのように、原発事故について、被ばくについて、ご自身の体調について、事故の責任について果敢に語っている人もいる。おそらく、汚染された地域にお住まいの方でも、ご自身の被ばくについてある程度達観できる方は、被ばくの危険性をきちんと認識できるし、自分の意見を発信することもできるのだろう。その「ぬまゆ」さんは理不尽な誹謗中傷にさらされ、何度もブログを閉鎖したり新たに立ちあげたりしている。

 「ぬまゆ」さんを批判し攻撃する人たちは、「辛いことは思い出したくない」という人たちなのだろうか。それとも不安を払しょくするために安心情報にすがりつきたい人たちなのか。あるいは単なるやっかみや嫌がらせなのか、はたまた事実を隠蔽したい原子力ムラの住民なのか・・・。

 おそらく、世の中には「ぬまゆ」さんのように事実に向き合い凛としてご自身の体験を語れる方と、そうではない方がいるのだろう。辛い体験がトラウマとなり、思い出したくない、語りたくないという気持ちの人が多いとしても、だからといって事実を語ろうという人たちを非難するのは筋違いだ。同じ被害者である福島の人たちがそんな風にいがみあってしまうことが、なんとも悲しい。

 トラウマを抱えている人たちの気持ちをないがしろにしてはならないとは思う。しかし、人はいつしか自分の体験した苦痛に嫌でも向き合い、それを踏み台にして立ち上がっていかなければならないのではなかろうか。

 とりわけ人災に対しては、事実に向き合って被害者意識をしっかりと持つことが、その人がトラウマやPTSDを克服して健全な精神を取り戻すための土台になるような気がしてならない。戦争も原発事故も人災である以上、防ぐことができたものなのだし、加害者がいるのだ。中沢さんも阿波根さんもそのことを認識できるようになってはじめて、辛さを乗り越えて事実に向き合い、語ることの意味の大きさを悟ったのだと思う。

 被害を受けた人たちが、自分たちの辛い体験を吐露することで責任のありかを明らかにして世に問わねば、同じ悲劇をまた繰り返すことになるだろう。中沢さんのように、あるいは阿波根さんのように、体験された方が語らない限り、その辛さ、理不尽さ、悲惨さは伝わらない。事故の責任も反省も曖昧になってしまう。だからこそ、語らねばならないと思う。

 身勝手と言われるかもしれないが、福島の方たちには可能な範囲で原発事故や被ばくの問題を、心の葛藤を、加害者の責任を語ってほしいと私は思う。それが今できなくても、せめて原発事故について、被ばくについて語っている人を批判するようなことだけは慎んでほしい。

 思い出したくない、語りたくない、という心理に陥ることで怖いのは、安心を求めるがために「エートス」のような精神論に誘導されてしまうことだ。チェルノブイリの事故でエートスが健康被害を拡大させたこと、エートスには原発推進派が絡んでいることを忘れてはならない。

2013年1月10日 (木)

異常としか思えない日本の中学、高校の部活動

 大阪市立桜宮高校で、バスケットボール部の生徒が顧問の教諭から体罰を受けて自殺したという痛ましい事件があった。日本の学校では、未だに体罰が平然と行われている。部活動での体罰は、権力者による指導という名のいじめと言うべき行為だ。

 この事件では、どうも教師による体罰、指導のあり方ばかりが問題とされているようだが、私は中学や高校の部活動自体にも問題があると思えてならない。

 部活動に参加するかどうかは、本来、生徒が自分の意思で自由に決めることだ。ところが実際には全く違う。娘の中学校でも、教師は部活動に参加するよう強く勧めた。部活動が内申書にまで関わってくるというのだ。ここからおかしい。

 しかも地方の小さな中学校では部の数も少ない。娘の学校では文科系の部活は吹奏楽部しかなかった。運動が苦手で、音楽も苦手な生徒はどうしたらいいのだろう。内申書という脅しによって、個性を無視した部活の準強要が行われているのが実態だ。

 もうひとつ異常だと思うのは、部活動の時間の長さだ。私の中学・高校時代には、部活は週に1回から数回だった。文科系のクラブに入っていた私の場合は、基本的には週に1回程度。体育系でも部活によって曜日が決まっていて、週に2~3回程度だったと思う。ところが、今は毎日夕方遅くまで部活をするというのが当たり前だ。

 私の知人の息子さんは、バスの時間の都合もあって、部活をして帰ると帰宅時間が毎日夜の9時過ぎだった。疲れて帰ってから夕食を摂って入浴をしたなら、自習などほとんどできないのではなかろうか。しかも土曜日まで部活があり、親が車で送迎をする。夏休みも然り。教師による体罰もあったらしい。毎日毎日、部活のために学校に通っているようなものだ。

 このような部活動は生徒の時間を著しく拘束してしまう。読書をしたり、趣味を楽しんだり、考え事をしたり、家事の手伝いをするということからも遠ざかってしまう。青春時代こそ、読書をし、親友と議論し、さまざまなことで悩む時期だと思うのだが、そうしたかけがえのない時間を奪っている。今の生徒たちは、そういう自由な時間の意味すら考えたことがないのかもしれない。異常としか思えない。

 体育系の部活の場合、しょっちゅう他校との試合がある。だからどうしても試合に勝つということが目標になる。なんでも勝つことがよいとされ、試合に向けてひたすら練習をさせられる。勝利至上主義は今も根強い。そんなに試合で勝つことが大事なのだろうか? 楽しめれば負けたっていいじゃないかと思うのだが、そういうことにはならないらしい。なんでもっとスポーツを楽しむというスタンスを保てないのだろう。

 ところが、これを異常だと思わない親が大半なのだ。頑張れることがあるのはいいことだ、という考えらしい。で、休みの日の部活の送迎も当たり前だと思っている。子どもたちも、勉強より部活が楽しいから、部活のために学校に行くも同然という生徒すらいる。だから、部活漬けの毎日でもみんなそれが当たり前だと思っている。

 部活そのものを否定するつもりはないのだが、日本の部活はあまりに異常なことだらけだ。それを異常だとも思わない教師や親も異常としか思えない。部活自体が異常なのだから、その異常の中で教師による体罰も黙認されたり見逃されてしまうのではないか。また、生徒が部活にばかりのめりこむ背景には、授業そのものが面白くないということもあるのかもしれない。受験、受験で追い立てられ、詰め込むだけの勉強ばかりさせられていたなら、そうなるのも不思議ではない。

 いちど定着してしまった部活動のあり方を大きく変えるのは難しいのかもしれないが、せめて部活への参加の自由を保障し、内申書と切り離し、活動時間も見直すべきだ。勝利至上主義になってしまうのは学校や教師の責任も大きい。無理なく楽しんで取り組むというのが本来の部活だと思う。

2013年1月 7日 (月)

消えゆく心の豊かさ

 沖縄在住の「木枯」さんのブログの今年はじめの記事に、木枯さんがインドを旅したときの写真が掲載されている。実に生き生きと輝いた目をしているインドの子どもたちの写真に、私はしばし見入ってしまった。

 いちごいちえ 

 そして、すぐに故渡辺容子さんがフィリピンに行ったときの写真を思い出した。そこには木枯さんの写真と同じような子どもたちの笑顔があった。

1994年フィリピンの子どもたち 

 彼女はその前の年にネパールにも行って子どもたちの写真を撮っている。

1993年ネパールの子どもたち 

 インドの子どもたちも、フィリピンの子どもたちも、ネパールの子どもたちもとても生き生きとした顔をしている。ちょっとはにかみながらも、屈託のない笑顔、豊かな表情。今の日本の子どもたちに、こんな笑顔を見つけることができるだろうか?

 彼女がフィリピンの子どもたちについて書いた文章がある。

フィリピンにて 

 できれば全文を読んでもらいたいのだが、最後の部分をここに引用したい。

 それにしても、カバジャガンの人たちの笑顔は豊かで美しかった。大人も子どもも、美しい海と空とゆったりと流れる時間の中で、「食べて住んで、そして楽しむ」という、人間の最も基本的で人間らしい生活を、日々自分自身の手で紡いでいた。美しい豊かな笑顔は、その喜びに裏打ちされているのだった。
 ふりかえって、今の日本に住む私たちはどうだろう。そんな自然な暮らしとはほど遠いところへ来てしまった。今となっては、戻ることなどできはしない。それはわかっているけれど・・・。カバジャガンにはまだあるような、真の意味での豊かさが失われ、物ばかりあふれ、時間に追われ、効率だけが求められ、友だちと1本のギターを共有するのではなく、友だちをけおとし、自分が出世しなければならない日本の生活、そういう日常生活それ自体が、今、子どもたちに襲いかかって、押しつぶそうとしているのではないだろうか。それはもちろん、子どもばかりでなく、大人も同じである。
 今の時代の<不安>の中で、大人もまた自分の心を偽っている。こんなふうに物があふれ、次から次へとコマーシャルなどの刺激によって欲望を生み出さされ、物(文化も含め)を消費することだけを押しつけられているような、すべてが管理、操作されている世の中。そこでは、自分のやっていることをちょっと立ち止まって考えてみることすら、相当意識的にやらないと、できないで流されていく一方だと思う。流されているうちに、自分が本当に大切にしたいものなど、ひとつ残らず忘れてしまった。
 最後に残された人間らしさが、<不安>だけを感じている。その<不安>が見えてしまったらこわいから、自己防衛本能でみんなそっちを見ないようにしている。だから、むしろ望んで管理、操作されているのではないか。こうなると悪循環だ。管理、操作され、自分を見失う。すると<不安>になるから、自分を見たくなくて、管理、操作されたがる。
 でも、そうやって逃げてばかりいると、いまにきっととりかえしのつかないことになる。それに、<不安>は確実にあるのだから、永遠に逃げ回っているわけにはいかない。勇気をもって立ち止まるしかない。そして、ふりかえって、<不安>をしっかりと見据え、対決するのだ。

 写真からも分かるように、彼らの生活は物質的にはひどく貧しい。それゆえに、子どもとて家の仕事を手伝うのが当たり前の生活。たぶん文句を言うこともなく、当たり前の日常として仕事をこなしているに違いない。もちろん、今は渡辺さんがこの文を書いたときとは状況が変わっているのだろうが、こんな生活をしている人たちは世界にはまだまだ沢山いる。溢れる物に囲まれている今の日本の子どもたちには想像もつかない世界だろう。

 私が子ども時代を過ごした頃はまだ物も少なくて、少なくとも精神的には今よりもはるかに健全だったのだと思う。ちょうど、「ALWAYS三丁目の夕日」のあの時代、あの風景だ。今はいたるところに物が溢れて生活も便利になった。鉛筆1本も大事に使った子どもの頃の生活が嘘のようだ。その反面、「人間の最も基本的で人間らしい生活」がどんどん無くなっている。子どもも大人も、周りの人の顔色を窺いながら本音を隠し、自分を殺して生きている。そこから屈託のない笑顔など生まれるはずもない。それで本当に私たちは幸せになったのだろうか?

 もちろん、昭和時代のような生活に戻るべきだというつもりはないし、そんなことにはならないだろう。しかし、社会のありようがあまりに非人間的になっていることに改めて驚かされる。私たち人類はいったいどこまで物質的豊かさや利便性を追求しつづけるのだろうか? それが本当に豊かな生活なのだろうか?

 渡辺さんも書いているように、不安を見ないようにしているうちに、私たちは管理され操られていた。そしてとんでもない格差社会になり、原発も爆発してしまった。彼女がいっていた通り「とりかえしのつかないこと」になってきている。

 生き生きとした子どもたちの写真は、人間にとって本当に大切なものを思い出させてくれる。

  

 さだまさし氏の「やはり僕たちの国は残念だけど何か大切な処で道を間違えたようですね」という言葉を、どれほどの日本人が実感しているのだろうか。

2013年1月 4日 (金)

すべての日本人に読んでほしい辺見庸氏の「明日なき今日」―下

すべての日本人に読んでほしい辺見庸氏の「明日なき今日」―上 

 辺見氏はファシズムについてこうも述べている。

 ファシズムっていうのは必ずしも強権的に「上から」だけくるものではなくて、動態としてはマスメディアに煽られて下からもわき上がってくる。政治権力とメディア、人心が相乗して、居丈高になっていく。個人、弱者、少数派、異議申し立て者を押しのけて、「国家」や「ニッポン」という幻想がとめどなく膨張してゆく。(中略)
 逆に、「なめられてたまるか」という勇ましい声が勢いづいてきている。ミリタントな、なにやら好戦的な主張が、震災復興のスローガンとともに世の耳目をひき共感を集めたりしています。(88ページ)

 これは今の日本社会に強い危機感を持っている人なら、皆感じていることだろう。多くの民衆はメディアによって完全に操られてしまっている。まさに、この国は狂気によって支配されつつある。

 そうした中で、震災、原発事故を失地回復のチャンスとみて歩み寄る米国。ルース大使の被災地訪問の背景には、同盟国アメリカによる思惑がもちろんある。辺見氏は以下のように述べる。

ルース大使の被災地訪問および米軍の救援活動について米国側は連日すごい広報をしている。「トモダチ作戦」は対日関係、対中国を強く意識し、朝鮮半島情勢をにらんだ、まさに総合的な日米共同オペレーションでした。そういう重要な問題を削いで本土メディアは報じた。(77ページ)

 それを見抜けずにまんまと策略にのせられてしまう多くの日本人。「トモダチ作戦」によって沖縄の米軍基地の問題はどんどん後退している。

 さらに「トモダチ作戦」の裏側にある米国の思惑を、米国に遠慮してなんら報道しないジャーナリストとマスコミ。こうした遠慮は何もジャーナリストに限ったことではない。物事を荒立てず丸く収めたいがために、本当は言わねばならぬことも口に出さないというのが多くの日本人だ。

 マスコミが知っていながら自己規制したこととして、メルトダウンのことにも触れている。

・・・複数の在京メディア関係者から実際に聞いた話で、福島第一原発の事故のときに当初からメルトダウンが起きたことは分かっていたと。でもメルトダウンという衝撃的な用語を使わせない空気が社内にあった。で、メルトダウンという言葉の使用をみんなで避けたと。それがしばらく続いた。(91ページ)

 原発が爆発したあと、NHKテレビには関村直人という東大教授が登場し、「格納容器は健全です」「心配ありません」などと解説していた。メルトダウンを知っていたマスコミは、放射性物質が大量に漏れていることだって当然知っていたはずだ。それなのに、こういう人をテレビに登場させていた。まじめな顔をして茶番劇を演じ、国民を欺いて被ばくに加担したのだ。

 この本では、多くが沖縄問題に割かれている。そして、沖縄と東北、つまり米軍基地と原発という犠牲や差別についても言及している。原発は地元が誘致してきた(つまり拒否することも可能だった)のに対し、沖縄の米軍基地は断じてそうではない。また、原発は中央の単なる被害者や犠牲者というわけではなく、中央政治の加害を支えてきた構造だってあるというのだが、確かにそのとおりだろう。

 こうしたことは多くの人があまり口にしない。しかし、過疎の町村が地域振興の名のもとに原発にしがみついてしまったのは確かだ。原発を誘致した人たちは、過疎の自治体が生きていくために仕方がないというようなことを言うが、本当だろうか? 北海道には過疎に悩む町村がいたるところにある。原発がなければ生きられないというのなら、原発を誘致できない内陸の自治体はとうの昔に破綻しているだろう。しかし、実際にはそんなことはない。結局、それは言い訳でしかないと私は思うし、原発がないとやっていけないからリスクがあっても再稼働に賛成するというのはどう考えても視野狭窄ではないか。到底あの福島の原発事故の反省から出てくる言葉ではない。まるでまだ安全神話にすがりついているかのようだ。原発交付金に目がくらんで原発を受け入れてきた地元首長には、もっと反省があって然るべきだ。

 これに対し、沖縄の基地問題は根本的なところで違う。本土の者にとって沖縄は「捨て石」にされたから仕方ないという犠牲の押し付けの意識がある。そして辺見氏は日本が憲法を変えて軍隊を持つべきだという発想に対し、「中国と戦争をやるのか、ロシアと軍事力を競うのか」「あんなマンモス像みたいなのにどうやって対抗するのだ」と単刀直入に問う。

・・・九条死守より軍備強化のほうが客観的合理性を書くのです。だからだから米国の軍事力に頼れ、日米安保を強化しろ、沖縄は我慢しろ、というのは絶対に違う。その逆です。身体をはった徹底的なパシフィズム(平和主義、反戦主義)が僕の理想です。九条死守・安保廃棄・基地撤廃というパシフィズムではいけないのか。丸腰ではダメなのか。国を守るためではなく、パシフィズムを守るためならわたしも命を賭ける価値があると思います。(113ページ)

 この意見に私は深く頷く。なぜ日本人はそれほど武力を持ちたがるのだろう。いつまでも安保にしがみついてアメリカの言いなりになっていることこそ諸悪の根源ではないか。米軍基地を否定せずに沖縄問題の真の解決はありえないと私も思う。かつて鳩山首相は普天間基地移設について「最低でも県外」と言ったが、沖縄の負担を減らせばそれでいいという問題では決してない。

 原発の安全神話、米軍の抑止力神話、経済成長神話を生みだしはぐくんだ土壌については次のように言う。

 神話を信じているほうが、悩まなくてすむからね。自分の頭で考え、疑り、苦しみ、闘うという主体的営みの対極に神話はある。皇軍不敗神話、天皇神話もそうです。神話は、われわれの思惟、行動を非論理的に縛り誘導する固定観念や集団的無意識、根拠のない規範にもなる。(119ページ)

 これはまさに日本人の特性ではないか。原発事故による放射能汚染もまったく同じだ。安全神話を信じていたほうが悩まなくていい。だから、真実を見ようとしないし、避難した人たちを批判すらする。原子力ムラにとって、これほど神話を信じたがる日本人を操るのは訳もないのだろう。日本全体が悪魔によるマインドコントコールに覆われているかのようだ。

 結局、この国はもうどうしようもないところにまで、つまり破滅の手前まで行ってしまっているということなのだが、この先、社会が闘争化していく現象が日本にもいつかくるのではないかとの予感があるという。そして、そのためには「一回、完全に滅亡し崩壊しないと駄目だという思いがありますね」という。部分的な滅亡ではなく、徹底的な敗北を経験しなければ新しいものは生まれてこないという考えだ。

 あれほどの原発事故を起こしておきながら、選挙で原発安全神話を振りまき原発を推進してきた自民党に投票し、まるで何事もなかったかのように安穏と暮らしている人たちがそれなりにいることを思うと、そうなのだろうと辺見氏の言葉に同意せざるを得ない。部分的被害では懲りないし、何も反省しない。棄民政策すら気づかない。

 徹底的に滅亡し崩壊しなければ新しいものが生まれないとしたなら、その時に日本には人が住めるような場所があるのだろうか? 大地震も原発事故も必ず繰り返される。そして、新たな原発過酷事故が起きたなら、あるいは福島第一原発の4号機が倒壊したなら、いったい誰が収束作業をするのだろう? 日本人はどこに住むというのか。汚染されていない食べ物など手に入るのだろうか。原発事故は地震や津波からの復興とは根本的に違う。核戦争と変わらないのだ。新しいものが生まれる土壌すら失われているのではなかろうか。

 だからこそ、「明日なき今日」をすべての日本人に謙虚な気持ちになって読んで欲しいと思う。

2013年1月 3日 (木)

すべての日本人に読んでほしい辺見庸氏の「明日なき今日」―上

 あけましておめでとうございます。

 今の社会情勢を見ているともちろん「おめでたい」ことなど何一つないのだけれど、昨年一年を無事に生き、今までと同じように新しい年が迎えられたことは、たぶんめでたいことなのだと思う。もちろん心は軽くはなく澱が溜まっているような感じだ。

 最近は、お正月は静かに読書をして過ごす。年頭からバカ番組をやっているテレビなど全く見たいとは思わない。年末は年賀状書きやおせち料理づくりなどで忙しいが、正月だけは一息ついてのんびり過ごしたいと思う。世界には暮れも正月もなく飢えている人がいるし、戦争で亡くなる人もいる。お正月に暖かい家の中でのんびりとした時間を過ごせるのは、それだけで幸せだ。ただし、こんな時間をいつまで持ちつづけられるのだろうかという不安がここ数年いつも心の奥底につきまとっている。

 今年は昨年9月に出版された、辺見庸氏の「明日なき今日 眩く視界のなかで」(朝日新聞社)を読んだ。「明日なき今日」というタイトルだけでもショッキングで、中身がなんとなく想像できる。しかし、こんな今だからこそ辺見氏の本を読まねばならないとも思う。

 4章からなる本書の各章に通低しているのは3.11の大震災と原発メルトダウン、沖縄の痛み、死や破局である。3.11を境に、これまで辺見氏がずっと訴えつづけてきたことが、まさに現実のものとなって蠢きはじめた。それが今日という時だ。今の日本に関して、これほど鋭く突いている書はないかもしれない。

 辺見氏は3.11の前から今の日本の姿を予測していた。彼は3.11の直前に「標なき終わりへの未来論―生きのびることと死ぬること」(朝日ジャーナル2011年3月19日号)を著している。私はこのコピーを東京に行ったとき渡辺容子さんからいただいた。そして辺見氏の慧眼にうちのめされた。彼はその中で日本についてこう予測している。

日本は軍備を増強し、原子力潜水艦をもつかもしれない。海兵隊またはそれと同質の機動部隊をつくるだろう。戦術核を保有するかもしれない。天皇制は、だいじょうぶ、まったく安泰だろう。憲法九条は改定されるだろう。キミガヨはいつまでもうたわれるだろう。貧しい者はよりひどく貧しく、富めるものはよりいっそうゆたかになるだろう。すさまじい大地震がくるだろう。それをビジネスチャンスとねらっている者らはすでにいる。富める者はたくさん生きのこり、貧しい者たちはたくさん死ぬであろう。階級矛盾はどんどん拡大するのに、階級闘争は爆発的力を持たないだろう。性愛はますます衰頽するだろう。テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になっていくであろう。非常に大きな原発事故があるだろう。おおくの新聞社、テレビ局が倒産するだろう・・・

 このあとすぐに巨大地震が東北を襲い、福島の原発事故が起きた。辺見氏の予想通り、津波で生じた瓦礫の処理も、また除染もビジネスチャンスとして利用された。そして、これほどの大災害に見舞われながら、加害者である自民党は何の反省もないまま原発の再稼働や新設、憲法9条の改定を目論んでいる。愚かな日本人は「自然を侮るな」という大地震・大津波の警告すら聞き取ることができず、また公共事業という名のもとに自然を制しようと躍起になるだろう。

 辺見氏は今の日本の状況について「正直に言えば、もういまさら危機感なんかないね。来るものはすでに来たのだから」と言い放っている。それはそうだろう。彼にとっては巨大地震も原発事故も、またそれらをビジネスチャンスとする人が出てくることもすべて予測されたことだったのだから。来るべきものが来ただけにすぎない。

 もちろん、破滅的な原発事故がいつか来ることは高木仁三郎氏をはじめ何人もの人が予測していた。何となくそれを感じつつも、どこか頭の隅に追いやっていた人もそれなりにいただろう。私もそうだった。だから、原発の建屋が吹き飛んだときの衝撃は頭から冷水を浴びせられたかのようだった。そして3.11を堺に、潜んでいた本性が剥き出しになり、この国はさらに加速度を増して全体主義に傾いている。

 ところで私はこのブログで原発事故のことについては何度も書いてきた。しかし、震災からの復興についてはほとんど何も書いていない。たぶんそれは、世の中の「復興」の掛け声があまりに白々しくウソ臭さに満ちていたからだと思う。私はあるメールマガジンに登録していたのだが、あの震災以降そのメルマガは震災時の絆や復興に向けて動く日本人の素晴らしさばかりを強調していた。物事の良い面に光を当て前向きに考えればきっといい未来が開ける・・・そんな論調で原発事故に関してはほとんど問題視していなかった。私の心の底にあるものと向かうところがはっきりと違っており、読むに耐えなくなって購読を停止した。

 震災からの復興がどうでもいいと思っているわけではないし、支援物資や義援金、ボランティアなどで被災者を支えることも大事だ。しかし、津波という自然災害からの復興とは、周りの人たちが掛け声をかけて騒ぐことではなく、被災者の方たちのどん底の苦しみを土台に粛々と築いていくことではないかという気がしてならない。なのに、あの外からの「復興」、「絆」の掛け声は何なんだろう。あまりに違和感があった。

 テレビをほとんど見ない私は実は知らなかったのだけれど、NHKで「花は咲く」という震災復興支援ソングが流されているという。そして辺見氏は「花は咲く」こそ翼賛歌だという。それで、なるほど、と思った。あの新聞紙面に躍る「復興」の掛け声こそ現代風ファシズムなのだ。知らず知らずのうちに、復興という掛け声で国民を全体主義へと導いている。そして多くの人が「復興」に共感することで、知らず知らずにファシズムを支えている。それだけではない。また同じような巨大地震が、54基もの原発が建ち並ぶ日本列島を襲うに違いないのに、もう福島の事故すら忘れかけている人が多い。メディアがそう仕向けている。それが現代の恐るべき風景なのだ。

 辺見氏は今の状況をこんなふうに言っている。

一見、民主的で自由選択的で非統制的外貌というか外面のファシズムはこの国では可能だし、現にそうなっている。この国はまさに「自由と抑圧、生産性と破壊、成長と退化の恐るべき調和」を示している。ついでに加えれば、正気と狂気の協調的混合社会でもある。三月十一日以前の発想で、復旧だとか希望だとか言って、それが有効だと思いたがっているわけだけど、でもすでにそうじゃないということに気づく者は気づいている。われわれはまちがいなく、いま来てもおかしくない次のメガクウェイクを待っているわけで、それを踏まえた思想や文芸がないといかんのだけど、まだないと思う。(54ページ)

 私が読むに耐えなくなったメルマガは、まさに3.11以前のままの発想だった。だから私はとてもついていけなくなった。私もあれ以来、ずっと次の巨大地震や大津波について考えている。おそらくそう遠くない将来にまた日本は巨大地震に襲われるだろう。はたしてその時に日本の原発は持ちこたえられるのだろうか? とても無事とは思えない。そのことを抜きに日本の将来は考えられないし頭から離れない。

 もはや、この国はいつ破滅するのかという段階ではあるまいか。もちろん原発だけが破滅の要因ではない。平和憲法が改定されて再び戦争へと突き進むのもそう遠い未来ではないかもしれない。そう思うと「復興」や「希望」という言葉があまりに虚しく、空々しく感じられるのだ。いつ来るか分からないことに気を揉むのは馬鹿馬鹿しいと思う人も多いのだろうけれど、そうだろうか? 今のことだけを考えていればいい、という思考が今のこの状況を生んだのではないか。

つづく

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