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2012年11月

2012年11月29日 (木)

北国の非常時体制は大丈夫なのか?

 先日の暴風雪で室蘭や登別では大規模な停電が発生した。送電鉄塔が倒壊したというから、数日間の停電が生じるのは致し方ない。

 しかし、真冬の停電はなかなか大変だ。北海道の場合、大半の家庭は灯油の暖房機を使用している。灯油ストーブや灯油によるセントラルヒーティングだ。燃料が灯油なら停電になっても使えると思ったら大間違いだ。灯油ストーブといっても本州などで使うポータブルストーブとは異なり、電気で送風ファンを動かす仕様になっている。だから、停電=暖房機の停止になってしまう。

 灯油ボイラーなども電源が必要なため使えない。ポータブルの灯油ストーブがあればなんとか一時しのぎをすることができるが、なければ厚着をしたり、ガスでお湯を沸かして湯たんぽで暖をとるなどするしかない。だから、今回の停電では避難所が設置されることになった。

 わが家を建てるときも、私は停電時のことを一応頭に置いていた。高断熱・高気密住宅の場合、換気システムが必要なのだが、それも多くは電動だ。セントラルヒーティングの場合は暖房はもとより換気システムも動かない。そんなこともあって、煙突ストーブで自然換気システムの住宅にした。

 新築当時に使っていた灯油ストーブは昔ながらの中央設置タイプで、普段は電気で送風をする必要があるのだが、微小燃焼なら「自然通気」でも燃焼ができた。これなら少なくとも停電で凍えてしまうことはない。ところが、最近の壁置き型のストーブは「自然通気」ができない。ストーブを買い替えたとき、停電時には使えないということが気にかかった。真冬の停電は1、2日なら厚着で何とかなるが、何日も停電が続いたなら仕舞い込んであるポータブルの灯油ストーブを引っ張りだしてくるしかない。

 今回の停電では、ポータブルのストーブを持っている人は何とか寒さをしのげたのではないかと思うが、そのような準備をしていない人たちも多かったに違いない。燃料が灯油でありながら電気がなければ使えない暖房機というのは、停電という非常時のことをまったく考えていない。停電時は乾電池でも使えるようにするなどの工夫をなぜしないのか不思議だ。

 新聞報道によると、車庫の電動シャッターが開かずに車が出せないという事例もあったそうだ。結局、現代社会というのは「停電はしない」という考え方が基本にあり、利便性を求めてなんでも電動にしてしまったのだ。もちろんその背景には原発がある。原発を推進するためにオール電化住宅などというものが登場するようになった。オール電化住宅は、停電になったら暖房はもとより炊事もできない。

 しかし、今回のような暴風雪や大地震、台風、雷、竜巻など、自然災害による停電はいつ起きてもおかしくない。停電になっても数日くらいは何とかしのげる、という準備をしておく必要がある。もっとも、3.11の大震災を受けて、食料や水、非常用品の準備をしていた人も増えたに違いない。そういう人たちは今回の停電も難なくしのげたのではないかと思う。

 大学3年の春休みのこと、東京に住んでいた私は北海道に探鳥旅行に出かけた。ところが根室の民宿に宿泊していた時に、なんと暴風雪に遭遇して宿に閉じこめられてしまった。いわゆる春のドカ雪だ。雪の少ない根室で膝上ほどの湿雪が降り積もり、宿の前の道は2、3日除雪車も来なかった。風雪がおさまってから国道のバス停まで雪をこいで行き納沙布岬に出かけたのだが、バスの車窓からは目を疑うような光景がつぎつぎととび込んできた。湿雪の重みで電線があちこちで垂れさがり、電柱が傾いたり折れたりしているのだ。この時、はじめて湿雪の恐ろしさを知った。

 それでも泊まっていた宿は大きな混乱もなく、ランタンの明かりで食事を摂った。当時はまだ薪ストーブや石炭ストーブを使っている人もそれなりにいただろうし、灯油ストーブも自然通気で使えるタイプが大半だったのではなかろうか。それに、以前は今よりも停電への備えができていたのではないかと思う。あれから35年以上が経った今、人々はすっかり電気に依存した生活をしている。だから真冬に一日停電したら大騒ぎになる。携帯ラジオを持っていればラジオのニュースを聞くことができるが、ラジオを持っていない人も増えた。携帯電話が不通になったら連絡もとれない。電気が止まったら、避難所に頼るしかない人も出てくる。

 しかし、いつまた大地震や大津波に襲われるか分からない。北海道では暴風雪もあり、雪で身動きがとれなくなることもありうる。避難所にも行けないことになりかねない。「備えあれば憂いなし」というが、どこに住んでいても非常時への備えはしておくべきだとつくづく思う。そして、何でも電気に頼る生活を見直す必要もあるだろう。

2012年11月27日 (火)

戸籍と住民票の不正取得で逮捕された事例があった!

 東京の金坂滋行政書士が私の戸籍を勝手に取得し、それが興信所に流れていたことは何回も報じてきた。私は戸籍法違反で行政書士と興信所経営者を刑事告訴したが警察は受理しようとせず、東京地検は受理したもののあっという間に不起訴にした。

 しかし、昨年11月に発覚したプライム事件では探偵会社や司法書士を逮捕し、組織的な犯罪であることが解明された。プライム事件では個人情報の取得に用いた職務上請求書が大量に偽造されて1万を超える不正取得が明らかになった。たしかにこれだけ悪質だと立件するのは当然だ。

 罰金刑の戸籍法違反ていどでは捜査機関はなかなか動かないのかと思ったら、そんなことはない。一例の違法取得から容疑者を逮捕している事例があったのだ。以下をお読みいただきたい。

本人通知で不正発覚(部落解放同盟中央本部NEWS & 主張)

 一人の戸籍・住民票の不正取得から、鹿児島県警は実行犯や信用調査会社を割り出し、組織的犯罪であることまで突き止めた。強制捜査権をもつ警察ならこうした背景を解明するのは難しいことではない。

 この事例では、本人通知制度で自分の戸籍と住民票が勝手に取られたことを知ったAさんが弁護士に相談して被害届を出し、鹿児島県警が捜査に乗り出して不正取得の事実を突き止め逮捕したという。捜査によって、指示役・実行犯・行政書士・信用調査会社が絡んでいることがわかり、他に12人分の戸籍や住民票の不正取得があることも発覚した。

 行政書士と信用調査会社の間に指示役や実行犯がいたというのだから、行政書士は信用調査会社と直接取引をしていたわけではないようだ。実行犯とされる人物(S容疑者)がAさんに成り済まして行政書士に戸籍の取得を依頼したということなのだろうか? どうやら、戸籍や住民票の違法取得では探偵会社(調査会社・興信所)と行政・司法書士を仲介している者がいる場合もあるようだ。こうした犯罪ネットワークの解明が急がれる。

 もし私の事例が発覚する前にプライム事件が発覚していたなら、東京地検ももう少しまじめに捜査をしたかもしれない。まあ、それもおかしな話なのだが・・・。

 この本人通知制度は戸籍などの違法取得の発覚や防止に有効なのだが、なんと日弁連が「弁護士が訴訟や債権差し押さえなどの準備をする際、住民票などを請求したことが相手に知られると、財産を隠されたりする恐れがある」として強硬に反対しているという。日弁連がそこまで反対するのなら、それに代わる有効な対策を提示してもらいたいものだ。

本人通知、不正取得に効果=反論も、普及進まず―個人情報漏えい(とれまがニュース)

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2012年11月26日 (月)

危機に瀕している更別のヤチカンバ

 先日、更別村を通った際にヤチカンバ自生地に寄ってみた。ヤチカンバは、周極分布をするヒメカンバの一種で、氷期に日本列島に分布していたものと考えられている。いわゆる氷河時代の遺存種だ。日本では更別村と別海町の湿原に分布している。おそらくかつては広い自生地があったのだろうが、開発によって大半が失われてしまったと思われる。更別村の自生地は北海道の天然記念物に、別海町の自生地は町の天然記念物に指定されている。

 更別村のヤチカンバ自生地は以前にも何回か見ているのだが、驚いたことに景色が一変していた。
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(写真:奥の白っぽい幹の木がヤマナラシ)

 以前とどう変わったのかというと、以前は背丈の低いヤチカンバ林が一面に広がっていたのに、今はヤチカンバの中に抜きんでるように若いヤマナラシが何本も立っているのだ。このまま放置したらヤマナラシが優勢となりヤチカンバを駆逐してしまうのではないか・・・。

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(写真:湿原に侵入するヤマナラシ)

 ヤマナラシは根萌芽をする。根萌芽とは、地下で水平に伸ばした根から芽をだして幹を立ち上げる性質のことだ。これによって、どんどん個体を増やすことができる。外来種のニセアカシアも根萌芽の性質がある。根萌芽する植物は、地上部を伐っても根が残っていればまた幹を立ち上げてしまう。だから、このような植物は一度侵入してしまうと駆除がとても困難になる。

 ヤマナラシがヤチカンバ生育地の中にまで侵入してきたということは、この湿原は乾燥化が進んでいるのではなかろうか。

 そこでちょっと調べてみると、更別村のヤチカンバ自生地は乾燥化が進み、自生地の面積も縮小していることが分かった。

氷河期の生き残り:ヤチカンバ(森林総合研究所北海道支所研究レポート

 このレポートによると、湿原外植物の侵入や乾燥化といった環境条件の悪化によってヤチカンバがストレスを受けているという。枯死率を下げるために、排水溝を埋め戻したり湿原外植物を取り除くなどの対策を提言している。

 このレポートが発行されたのは2004年7月である。8年も前にこのような問題提起と提言がなされていたにも関わらず、さらに環境条件は悪化して湿原外植物が広がり深刻な事態になっているのである。管理者は何の対策も講じてこなかったのだろうか。

 天然記念物に指定したり、レッドリストで絶滅危惧種に指定しも、それだけでは保護することはできない。ヤチカンバ林を保全するためには乾燥化を防ぐ手立てをするとともに、ヤマナラシなどの湿原外植物の駆除をするべきだろう。

2012年11月23日 (金)

ペクチンやサプリメントが放射能対策にならないというのは本当か

 福島の原発事故以来、被ばくの危険性を訴え続けている木下黄太氏は、ユーリー・バンダジェフスキー博士やヘレン・カルディコット博士を日本に招いて講演会や記者会見を開いてきた。私は両者の講演は聞いていないが、木下氏のブログでバンダジェフスキー氏がペクチン等の吸着剤について発言し、ペクチン製剤であるビタペクトを製造しているベルラド研究所に対して批判的であることを知ってとても不可解に思っていた。

 バンダジェフスキー博士の「ベラルド」への見解。また、放射性物質に関するペクチンの限界について。 

 また木下氏はカルディコット博士の発言を受け、先日ツイッターで以下のツイートをしており、多くの人がリツイートしている。

http://twitter.com/KinositaKouta/status/270404116923174912
ペクチンなどは効きませんと明言。カルディコット博士。

 木下氏はバンダジェフスキー博士とカルディコット博士の意見から、ペクチンなどの吸着剤を否定しているようだ。そして、それを多くの人が拡散している。こういう状況に疑問を感じざるを得ない。

 アレクセイ・ヤブロコフ博士らの著書によると、投与試験でペクチン(ビタペクト)は体内のセシウム137の排出を促進させる効果があることが認められている。

チェルノブイリの放射性核種を除去する(チェルノブイリ被害実態レポート翻訳プロジェクト)

 ペクチンには生命維持に必要な微量元素まで除去してしまうというデメリットもあるが、これについても説明されていて、年4回の摂取を推奨している。

 だから、私はなぜバンダジェフスキー博士がベルラド研究所やペクチンについて否定的なのかという疑問をずっともっていた。この疑問を解消してくれたのが、以下のブログ記事だ。

バンダジェフスキー博士のペクチンへの見解について(追加記事あります。) (ベラルーシの部屋ブログ)

バンダジェフスキーとネステレンコ 決別の理由(ベラルーシの部屋ブログ)

 ペクチン製剤であるビタペクトを開発・製造しているベルラド研究所のネステレンコ博士とバンダジェフスキー博士は、以前は親友の仲であったが、服役後の就職をめぐって仲たがいしたと理解できる。ただし、バンダジェフスキー博士もペクチンの効果を全否定しているわけではない。仲たがいした経緯があるゆえに、ネステレンコ氏に批判的になっているように感じられる。

 上に紹介した記事にもあるように、経口摂取されたペクチンは消化管内でセシウムと結合して体外への排出を促進する効果があると言えるだろう。だから、汚染された食品から放射性物質を取り込んでいるなら、同時にペクチンを摂取することで消化管内のセシウムを速やかに排出できるだろうし、それによって血液などで運ばれて筋肉などに蓄積するセシウムの量を減らすことにつながるだろう。ならば、汚染されている食品を食べている人にとって、ペクチンは放射能対策になると言える。

 また、ペクチン以外で同じような効果をもつものもあるかもしれない。その一つの可能性は菌類だ。放射性物質を濃縮する性質のある菌類を摂取すれば、消化管内の放射性物質を濃縮して便とともに排出させることができるだろう。菌類に関しては、国立環境研究所の以下の研究事例がある。

微生物による環境汚染物質の濃縮 

 菌による放射性物質の濃縮を除染などに応用できる可能性はある。また、EM菌の中にそのような性質をもつ菌が含まれているならば、野呂美加さんが推奨しているEM菌による体内放射性物質の排出促進もデタラメとはいえない。ただし、私はEM菌にそのような性質の菌類が含まれているかどうかは知らない。

 もちろんペクチンや菌類が放射性物質の排出を促す効果があっても、あくまでもそれは消化管内においてのことだ。一度筋肉や骨などに蓄積してしまった放射性物質を取り除くことはできないだろう。そういう意味では、こうしたものは根本的被ばく対策にはならないというのも事実だと思う。

 ところで、ニセ科学批判の人たちはこのような放射能対策を全面的に否定している。自分たちで実験を行って放射性物質の吸着や濃縮が確認できないのなら否定するのも分かるが、何もせずに「効果はない」と断言するのはおかしなことだ。さらに安全側に偏っているニセ科学批判の人たちとは正反対のような木下氏までもが、カルディコット博士の発言に影響されて「放射能に効くものはない」と広めるのはいかがなものかと思う。

 「チェルノブイリの放射性核種を除去する」では「食品中の安定的な元素量を増やすことにより、放射性核種が体内に取り込まれるのを防ぐ。たとえば、カリウムやルビジウムはセシウムが体内に取り込まれるのを阻害し、カルシウムはストロンチウム(Sr)を、三価鉄はプルトニウム(Pu)の摂取を阻害する。」と書かれている。これは放射性ヨウ素による甲状腺被ばくを防ぐために安定ヨウ素剤を飲むのと同じ論理だろう。

 だからサプリメントなど効果がない、という主張にも賛同できない。私自身はこうしたサプリメントや菌類をとりたてて推奨するつもりはない。その判断は個人個人がすることだと思う。しかし、「効果がない」「でたらめ」と断言するのなら、その根拠を具体的に示すべきだろう。

【関連記事】

菊池誠さんの野呂美加さん批判は科学的か? 

 再度、菊池誠さんの野呂美加さん批判とEM菌について

【11月24日追記】
 週刊金曜日の11月23日号に「ベラルーシ・ベルラド放射能安全研究所所長A・ネステレンコ博士が語る放射線被曝と『エートス・プロジェクト』」という記事が掲載されている。A・ネステレンコ氏は、ベルラド研究所を創設した故ワシリー・ネステレンコ博士のご子息で、ベルラド研究所の現所長。この記事でも、ペクチン剤を与えた子どもの内部被ばく量が減少したが、ペクチンを与えられず放置された子どもではセシウムの減少が見られなくなったと書かれている。

 カルディコット博士がどのような理由あるいは観点でペクチンが効かないといったのか不明だが、事実に反する発言だと思う。

【11月24日追記2】
 以下の記事でもチェルノブイリの教訓を活かしペクチンを摂取することを勧めている。

ミシェル・フェルネックス(WHOの独立のために)

 私は、汚染地域に住む人々は基本的に移住するのがベストだと思う。しかし、実際にはさまざまな理由で移住できない人もいるし、移住によるリスクやデメリットがあるのも事実だ。やむを得ず汚染地域に住んでいる人にとって、体内の放射性物質を減らす有効な対策があるならそれを取り入れるのは当然のことだと思う。

【11月26日追記】
 ペクチンがセシウムを体外に排出するメカニズムについては以下の記事に説明されている。この記事によると、ペクチンは消化管内のセシウムの排出を促進するだけではなく、腸粘膜から吸収されて血液によって内臓に運ばれ、内臓のセシウムと結合して尿として排出すると説明されている。

ペクチンが体内の放射能を排出するメカニズム(ベラルーシの部屋ブログ)

 以下はネステレンコ博士のペクチンに関する論文(PDF)

チェルノブイリ地区の放射性物質からの開放

2012年11月21日 (水)

福島第一原発の事故対策が第一

 マスコミは来月の衆院選の話題で持ちきりだ。雇用、TPP、消費税増税・・・どれも大事なことではあるけれど、候補者からは不可解なくらい危機的状況にある原発の事故処理に関する主張が見えてこない。完全に置き去りにされている。原発を推進してきた連中は、事故の過小評価をしたいがために現実を見据えようとしない。野田首相は昨年末にさっさと「冷温停止」の宣言をし、あたかも福一の事故が落ち着いたかのように国民を騙した。マスコミもこぞって事故処理や廃炉の困難さ、福一の抱える危険性をまともに報じようとしない。

 今の福一はとんでもなく恐ろしい状態が続いていて、危機はまったく去っていない。アウターライズ巨大地震による大津波の可能性も否定できないし、福島第一原発から数キロ西の双葉断層で直下型地震が起こる可能性も指摘されている。そのことを日本人の多く、政治家や候補者の多くが分かっていないようだ。

 廃炉に向けての困難さも課題も分かっていない。そうでなければ、「2030年代までに原発ゼロを目指す」とか「経済のために再稼働が必要」などといったのんきなことは、とてもじゃないが言っていられない。事故処理や被害の補償で莫大なお金がかかるのに、その現実を抜きにして経済を語るのはあまりに馬鹿げている。日本は、世界に対しはかり知れない重い責任を負っているのだ。これほどインターネットが発達した情報化社会でありながら、こうした現状がほとんど報じられないことがただただ恐ろしい。

 本当のことを理解しているならば、再稼働など論外。今すぐにでも福一の処理を東電に任せるのを止めさせて情報を公開せねばならないし、事故処理と最悪の事態の回避のために世界の専門家の知恵を結集させて全力で取り組まねばならない。なのに、こうしたことを訴えている政治家や候補者がどれほどいるのか・・・。

 以下の「星の金貨プロジェクト」に掲載された一連の記事は、アー二―・ガンダーセン氏とヘレン・カルディコット氏の対談だ。この話しの中には推測や想像が含まれているとはいえ、おおむね福一の現状を言い当てていると考えてよいのではないか。長いのだが、是非読んでもらいたい。

 こういう情報が海外からしかもたらされないということは、日本人にほとんど真実が知らされていないということだろう。これほどの重大かつ緊急な原発事故の対処を第一に考えないような政治家はあまりにお粗末ではないか。

福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実1 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実2 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実3 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実4 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実5 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実6 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実7 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実8 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実9 
福島第一原発で今も続く事故、そして危険、その真実10 

 上記の対談から重要なことをいくつか箇条書きにしておきたい。

・まずやらなければならないのは、建屋のプールにある使用済み核燃料をすべて取りだすことだが、そのためには巨大クレーンを壊れた建屋に隣接して建設しなければならない。その建設に18カ月かかり、燃料の取り出しに1年かかれば、2年6カ月を要する。
・もし地震で汚染水が漏れ出して使用済み核燃料が火を噴くようなことになれば、日本全土がたちまち汚染される。時間との戦いである。
・4号機のプールに7000トン、1~3号機にそれぞれ約600トン、合計で8800トンの核燃料がある。当面の目標は、これからの10年ですべての核燃料をドライ・キャスクに収納すること。
・日本の原発には、最低でも3万トンの使用済み核燃料がある。
・原子炉のメルトダウンした燃料は、5年は水で冷却しつづけなければならない。
・原子炉に注ぎこまれる水によって膨大な量の高濃度汚染水が溜まりつづけている。
・今は大量の汚染水が地下水脈に入らないようにしなければならない。
・私(ガンダーセン)が東電の役員なら、作業員の被ばくを防ぐために使用済み核燃料の温度が下がるまで2年間待ち、原子炉建屋にコンクリートを流し込んで300年待つことにするだろう。ただし、原子炉をコンクリート漬けにしてしまえば、汚染物質が地下水脈に流れ込み、海を汚染させ続ける。だから、現段階では究極の解決策はない。
・原子炉建屋から漏れ出した汚染水は、地面にしみこむと同時に隣の建屋にも流れて高濃度に汚染している。
・福一は犠牲になった土地として汚染物質の集積場にすべき。
・汚染を取り除き、人が入って福一を完全に解体するためには100年、200年という単位で汚染水を汲みだしつづけなければならない。
・300年後でも福一は最低でも今と変わらないレベルに汚染されているだろう。
・事故処理費用は40兆円になり、日本は高齢化と人口減少のなかで多額の債務を抱えることになるだろう。
・スリーマイル島の事故で1万人、チェルノブイリで100万人、福島でも100万人が亡くなると推測している。
・日本は癌、その他の病気、先天性異常の発生などの問題と向き合わねばならない。
・1~4号機の全てで水素爆発が起き、3号機は即発臨界が起きたと考えている。
・1~3号機にはまだ水素爆発の危険性が残っている。
・現在、福一からは液体、気体合わせて、1日10億ベクレル(1秒ごとに10億回の放射性崩壊の放出、が毎日続いている。
・子どもの甲状腺に異常が見つかる確率は1%だが、福島では36%。大量のヨウ素が体内に入ってしまった可能性がある。
・最も心配しているのはウラニウム。東京で採取したサンプルにウラニウムがあったが、これは原子炉の内部から直接外に漏れ出したものがあることの証拠。
・福一から160キロメートルのところで暮らしている人々は、肺、口、その他の期間に放射性物質の塵を貯め込んでいる可能性がある。日本の状況はきわめて深刻。
・高速増殖炉のもんじゅは事故を繰り返し、とんでもない巨額の費用がかかっている。
・地震大国であちこちに断層がある日本には、核廃棄物を保管できるところなどどこにもない。この問題の解決に答えられる人など地球上に存在しない。

 読んだだけで青ざめ、体中の力が抜ける。頭がくらくらする。あまりの恐ろしい状況に、言葉もでない。

 チェルノブイリの事故では速やかに石棺が建設されたが、福一ではそれをしたくてもできない。現時点で速やかな事故処理の解決法がなく、われわれは何十年も大地震に怯え、被ばくに怯え、破局に怯えて暮らさなければならない。さらに安全に保管できない途方もない量の核燃料を抱えている。いつ爆発してもおかしくない超巨大原爆を抱えながら生活しているのだ。

 再び大地震や大津波に襲われる前に、ボロボロの建屋が倒壊したりプールが水漏れしないように補強し、できる限り早く原発内の使用済み核燃料を移動させなければならないのに、そういう対策を提案もせず再稼働させてこれ以上核燃料を増やすなどというのは狂気でしかない。

 「原発ゼロを目指す」などと言っていながら、「電気が足りない」、「経済のために再稼働は必要」という政党や候補者に騙されてはならない。こういう人を私はまったく信用していないし、絶対に投票はしない。

 日本はこういう危機的状況に置かれていることを、多くの人に知らせてほしい。この現状を知った人は、とにかく原発を早急に止めるという候補者や政党に投票してほしい。

2012年11月19日 (月)

フユシャクの舞う晩秋

 今頃の季節、車で出かけて帰りが夕刻になることがよくあるのだが、車のライトに道路の上をヒラヒラと舞う薄茶色の蛾が何匹も浮かび上がる。11月ともなると、夕刻の外気温は数度しかない。1、2度のときもあるのだが、そんな寒い中を飛んでいるのはフユシャクという蛾だ。

 フユシャクというのは冬(晩秋から早春)に成虫が発生するシャクガ科のガの総称で、日本では36種が知られている。

 他の虫たちの多くが越冬のために姿を消してしまう季節に、フユシャクは成虫が発生して産卵する。変わっているのは発生時期だけではない。フユシャクの雌はなんと翅がない、あるいは翅が退化していて飛ぶことができないのだ。飛べない雌はフェロモンを出して雄を呼び寄せる(もっとも雌がフェロモンで雄を呼び寄せるのはフユシャクに限ったことではないのだが・・・)。

 雄は車のライトに照らし出されるので頻繁に見ることができるのだが、雌は木の幹などでじっとしていることが多く、その気になって探さないと簡単には見つからない。

 2010年の11月にサホロ岳に登ったとき、登山口で変な虫が地面を歩いていた。白っぽい体に黒い斑点がある、ちょっとおしゃれな虫だったが、実はこの写真を撮ったときは何という昆虫なのかピンとこなかった。

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 その後、これはチャバネフユエダシャクの雌であることが分かったのだが、この虫を見てガの成虫だと分かる人はそれほどいないだろう。

 フユシャクの雌は以前見たことがあるのだが、その種は薄茶色をしていて、「翅が退化したガ」だと言われればすぐに納得できる容姿をしていた。ところが、このチャバネフユエダシャクの雌ときたら、ちっとも「翅のないガ」に見えない。フユシャクの中でも変わり者だ。

 本州では真冬でもフユシャクが見られるようだが、日中でも気温がマイナスになる北海道では厳冬期になると見られなくなる。北海道では晩秋の今頃がフユシャクの季節なのだ。  以下は札幌の方が撮影されたフユシャクの写真。

フユシャクを探す (円山原始林ブログ)
フユシャクを探す(2) (円山原始林ブログ)
フユシャクを探す(3) (円山原始林ブログ)

2012年11月17日 (土)

金坂滋行政書士に業務停止1カ月の行政処分

 文芸社が興信所を使って私の情報を収集していたのだが、その際に金坂滋行政書士が私の戸籍を不正取得していたことに関しては何回か記事にしてきた。

興信所を使って私のことを調べていた文芸社 
行政書士が私の個人情報を不正に取得していたことが判明! 
告訴状を送った警察署の速やかなる対応 
行政書士による個人情報不正取得事件の中間報告 
警察官らの戸籍不正取得で司法書士らが逮捕、私の告訴は不起訴 
統一教会も関わっていた司法書士による個人情報不正取得事件 

 この不正取得事件で私は刑事告訴、東京都への懲戒請求、東京都行政書士会への懲戒請求を行ったが、刑事告訴はあっという間に不起訴にした。東京都と行政書士会の処分に関しては今まで何ら通知が来ていなかったのだが、15日にようやく東京都から処分結果の通知がきた。平成24年11月10日から12月9日までの一カ月間の業務停止である。しかも、処分通知書には東京都がどのような調査を行ったのかということなど一切書かれていない。

 東京都は懲戒処分について報じているのだろうかと思って調べてみると、報じることは報じるようだ。しかし、驚いたことに処分をした者の名前などは非公開となっている。以下は金坂行政書士とは別の事例。

行政書士に対する行政処分について(報道発表資料[2012年10月掲載])

 名前も出さず、たった1カ月の業務停止とは、甘い、甘い、大甘だ。これでは処分されても「運が悪かった」くらいにしか思わないだろう。私は厳罰には反対である。しかし、この処分に関しては「甘い」としか思えない。昨年、探偵業者が司法書士らと共謀し、偽造した「職務上請求書」を使って1万件に及ぶ戸籍謄本を不正入手した事件が発覚した。いわゆる「プライム事件」である。

 この事件では、探偵社の社長、粟野貞和に懲役2年6カ月、プライム総合法務事務所の経営者である奈須賢二に懲役3年の実刑、元弁護士である長谷川豊司に懲役2年、執行猶予4年、司法書士であり行政書士でもある佐藤隆に罰金250万円の判決が言い渡されている。また、佐藤隆に対しては、東京法務局が業務の禁止の処分を行った。事件の概要は以下参照。

プライム総合法務事務所 戸籍不正取得事件 

 私の事例も、金坂滋行政書士が不正取得した私の戸籍は、興信所に渡されていた。探偵業者や興信所が司法書士や行政書士と共謀し、お金のために違法行為を行っているという構造はプライム事件と同じである。プライム事件の方は職務上請求書を偽造して大量に違法取得していたとはいえ、プライムの佐藤司法(行政)書士が250万円の罰金+業務禁止に対し、金坂行政書士は業務停止1カ月だけである。あまりにも違いが大きすぎないか。

 それにしても、腹立たしいのは私の告訴に対する検察の不起訴処分だ。東京地検は「嫌疑不十分」で不起訴処分にしたのである。今回、東京都が金坂行政書士を懲戒処分したということは、東京都の調査によって金坂自身も不正の事実を認めたということだ。検察がきちんと捜査していれば、当然不正を確認できたはずであり、不起訴であってもその理由は「起訴猶予」にしなければならない。まともな捜査をしなかったとしか言いようがない。

 私がなぜ東京都の懲戒請求だけではなく刑事告発をしたのかといえば、プライム事件のような全容解明だ。金坂行政書士がいったどこの興信所に私の戸籍情報を渡したのか? 興信所に調査を依頼した文芸社は戸籍の取得まで求めていたのか?(もし戸籍取得を依頼していたなら文芸社も教唆罪である) 金坂行政書士には余罪はないのか? 不起訴によって、検察は事件の全容解明を闇に葬ってしまった。

 こんなこともあろうと東京都にも懲戒請求をしたのだが、強制捜査権をもたない自治体による調査ではせいぜい私の事例に関する事実確認くらいしかできなかったのだろう。しかし、金坂行政書士が私の事例一件しか不正取得に関わっていなかったとは考えにくい。

 それにしても、東京都はなんでこんなに処分が遅いのだろう。業務停止1カ月の処分をするのに、1年3カ月もかかったというのは驚きを通り越して呆れ果てる。プライム事件で被疑者が逮捕されたのは2011年11月で、佐藤隆司法(行政)書士の判決確定は2012年7月18日だ。そして、東京法務局による懲戒処分が8月15日。複雑なプライム事件ですら8カ月、9カ月で処分が出ているのである。

 あとは東京都行政書士会の処分を待つことになるが、こちらは身内だから重い処分はしないだろう。こちらの対応もあまりに遅い。何をやっているのだろう。

 職務上請求書による住民票や戸籍の違法取得は以前から知られていたが、プライム事件によってその悪質性がようやく世間に知れ渡った。この事件では、どれほど真相究明と再発防止が取り組まれているのだろうか?

 以下のサイトでは本人通知制度の実現を呼びかけている。東京都では、本人の同意なく第三者から戸籍謄本などが取得された人に対し行政が通知を行う「本人通知」が行われるようになってきているそうだ。

プライム事件の真相究明と東京における本人通知制度(部落解放同盟東京都連合会)

 戸籍の不正取得はずっと前から行われているのであり、本来ならとっくの昔にこうした対策を取るべきだったのだ。証拠をつかんで告訴してもまともな捜査をしない捜査機関や、再発防止策を講じてこなかった国や自治体には大きな責任がある。

【11月21日追記】
 金坂行政書士の行政処分が東京都のホームページで公表され、名前や事務所所在地などが公表されていた。

行政書士に対する行政処分について  ここに書かれている処分理由は以下だ。

 被処分者は、平成20年8月22日、職務上請求書を使用して戸籍謄本を請求したが、当該戸籍謄本請求に関して依頼人の本人確認をせず、依頼について記録することもしなかった。このことは、行政書士法第10条の規定に違反する。
 被処分者は、業務に関する帳簿を備えていなかった。このことは、行政書士法第9条第1項の規定に違反する。
 被処分者は、日本行政書士会連合会の定める領収証を使用していなかった。このことは、行政書士法第13条及び東京都行政書士会会則第28条の2の規定に違反する。

 不可解なことに、この理由は私に送られてきた通知には書かれていない。「当該戸籍謄本請求に関して依頼人の本人確認をせず」としているのだが、この書き方では興信所が関わっているという背景は一般の人には分からない。

 金坂行政書士は職務上請求書の依頼者名欄に私の名前を書き、使用目的欄に「遺言書作成資料」と書き、提出先欄に「作成後依頼者に渡す」と記入している。しかし、そもそも私は金坂行政書士など知らないし遺言書の依頼もしておらず、当然のことながら金坂行政書士は遺言書を作成してもいなければ私にも渡していない。

 「職務上請求書に記入した依頼人とは別の者(興信所)からの依頼によって不正に戸籍謄本を取得し、職務上請求書に依頼者名や使用目的、提出先について虚偽の記載をした」というのが事実である。興信所からの依頼なのだから、私に本人確認をするつもりなど毛頭なかったはずだ。不正を認識しているから、依頼の記録もせず、帳簿も備えず、日本行政書士会連合会の定める領収書を使用していないのだろう。

 「依頼人の本人確認をせず」という表現で、興信所からの依頼であったこと、嘘を記入したことを曖昧にしているのである。

2012年11月15日 (木)

新岩松発電所アセス見解書で言い訳に終始する北海道電力

 北電は新岩松発電所新設工事環境影響評価準備書に寄せられた道民意見に対して見解書を公表し、これに対する意見を募集していた。

 北電の見解はシマフクロウに関しては希少動物のために非公開にしているとの理由で一貫して回答を避けている。しかも、相変わらず事実を隠蔽した言い訳をしている。

 大変問題の多い見解書であるために、十勝自然保護協会は北電の見解を精査して問題点を具体的に指摘した意見書を提出した。

新岩松発電所新設工事環境影響評価見解書への意見書 

 この意見書の、要点を簡単に説明しておきたい。

 北電の見解書で最も問題なのは、シマフクロウやイトウなどの希少動物の存在をことごとく隠蔽しようとする姿勢だ。北電は環境影響評価の手続きについて北海道と事前に相談をしている。その相談内容の書かれた書類を開示請求で入手したところ、シマフクロウの生息地であるがゆえにアセスを行う必要があると北海道が北電を指導していることが明らかになった。

 北電は、アセスを行うことによってシマフクロウなどの希少動物の情報を流布させてしまう可能性があるとしていたのだが、これに対して、北海道は希少種の情報が外に漏れるおそれがあるからアセスをしないというのは理由にならない、としている。

 開示資料から、この事業において最も影響が懸念されるのがシマフクロウであるということを、北電はよく知っていたことが明らかになった。それにも関わらず、北電は「方法書」に「野生生物への配慮」を記載しなかった。この点について指摘すると、今度は論点をすり替えた言い訳をしてきた。北電の主張は「環境影響評価に関する技術的方法等の一般的指針」とこの指針に解説を付した「環境影響評価技術指針の解説」に反するものだ。

 また、アセスの概要を説明して道民に配布している「要約書」には肝心なシマフクロウについて種名すら出していない。これは重要な生物種の存在を隠蔽することにつながる。

北電は、生態系の「上位性」の注目種にシマフクロウを選定していないのだが、その理由は「対象事業実施区域(新岩松発電所新設工事を実施する区域)ではシマフクロウの生息は確認されていないことから選定していない」と説明した。

 しかし、シマフクロウは対象事業実施区域も採餌場として利用しているのである。そのようなことをアセス調査で確認していないのであれば、北電の調査が杜撰であったということに他ならない。

 また、シマフクロウについての影響は繁殖に関わることしか考慮していないことも明らかになった。岩松地区は環境省が保護増殖事業を行っているところであり、他の地域から移動してくる個体が定着する可能性がある場所だ。シマフクロウにストレスを与え定着に影響を及ぼす可能性のある事業は、繁殖しているか否かに関わらず回避しなければならないが、北電の見解にはそういう考慮が全く見当たらない。

 シマフクロウについての具体的情報はすべて非公開になっているし、アドバイスをする専門家の名前も非公開だ。これでは道民を無視して特定の人物が密室で判断することになる。重要な種に対する影響の判断を委ねられている専門家は名前を公表すべきだ。

 また、今回の新設工事は既存の発電所の水車や発電機の老朽化に伴うものであるが、新設ではなく老朽化した水車や発電機の交換だけに留めるという選択肢があって然るべきである。ところがこのような選択肢を用意していない。北電はこの意見に対して、経済性を優先した計画策定であるとの見解を示した。しかし、そのような見解は環境影響評価条例の主旨に反するものである。

2012年11月14日 (水)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

少年法と「人権」派について

 内藤氏は、自らを「人権派である」としながらも、少年犯罪の厳罰化反対を唱える人権派と称する人々を批判している。その部分を以下に引用したい。

 「人権」派が少年犯罪の厳罰化に反対する根拠は次のようなものだ。
 殺人などの犯罪に手を染めた少年は、家庭環境に問題を抱えていることが多く、それが犯罪の原因になっている。また、福祉の切り捨て、男女不平等、「新自由主義」の展開・・・・・・といった現代社会の矛盾もまた、原因とされる。
 そしてさらには、家庭的および社会的な逆境に置かれた少年の「心」を心理学的に理解し、共感することで、少年の刑罰は軽くすべきだという結論に至る。

 しかし、「人権」派の主張は明らかに間違っている。
 統計的に見れば、誰かを嬲り殺しや快楽殺しをするような人物が幸福な人生を歩んできた確率は少ないかもしれない。しかし、逆は必ずしも真ならずだ。
 不幸な生い立ちの少年が、すべて殺人を犯す「心」を持つわけではない。たとえ、家族的・社会的に不遇だったとしても、殺さないこともできたわけだ。にも拘らず、殺人を犯したのは少年の主体的な意思決定によるものである。よって、少年には犯罪の責任があるといえる。(150ページ)

 内藤氏は、「心」の物語は、心理的説明がついた「言い訳」にすぎないという。しかし、私はこの意見には賛同しない。

 もちろん、家庭的・社会的に不遇だった少年のすべてが犯罪者になるわけではない。しかし、親から暴力や虐待を受けつづけたなら精神に異常を来たすのは当然のことだ。光市事件の福田君は精神的な発達が非常に遅れていたというが、それは生育環境によるものとしか考えられない。本来なら治療が必要な状態だし、心の病になったのは本人の責任ではない。

 内藤氏が上記のような考えを持つ根底には、福田君の書いた手紙が影響しているのだろう。以下の手紙だ。

「知ある者、表に出すぎる者は嫌われる。本村さんは出すぎてしまった。私よりかしこい。だが、もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿(ジャンキー)は精神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」

 以下の記事にも書いたが、この手紙は福田君を死刑にしたいと目論む検察が拘置所での福田君の友人を利用したヤラセというべきものである。しかも複数やりとりしている手紙の中からごく一部分だけをマスコミがセンセーショナルに取り上げたものだ。

「福田君を殺して何になる」を読んで 

 福田君の不謹慎な手紙については、今枝仁弁護士による「なぜ僕は『悪魔』と呼ばれた少年を助けようとしたのか」(扶桑社)にも事情が説明されている。今枝氏の本から引用したい。

 しかし、これらの手紙はF君自らが進んで積極的に書いたものではなく、拘置所で知り合った友人、A君からの手紙や面会時の発言に触発されて、「迎合」して書いたものなのだ。A君というこの友人はF君から届いた手紙を検察庁に提出し始めた後も、さらにF君を煽りたてて手紙を書かせ、それも次々と検察庁に提出していた。過去の記録にも、F君は周囲の期待に合わせておどけて見せる傾向がある、との記載がある。(210ページ)

 F君は、家族からも「死んで償え」と言われて見放され、裁判でも自分の認識とは違う態様の事実について追及され、さらには、当初、無期懲役の求刑を示唆するような「生きて償いなさい」という検察官の言葉で、検察官が見立てた筋書きを受け容れてきたのに死刑を求刑され、戸惑う孤独な状況の中、数少ない友人にまで見放されるのが怖く、繋ぎ止めておきたい一心から相手が期待するような「ワルぶり」を演じていたのだ。そのような未熟さがあったとはいえ、自分の置かれた状況や立場からは決して発せられるべきではない不謹慎な言葉だったことは、今ではF君もよく理解して反省している。(212ページ)

 A君は福田君に手紙を書かせるために、本村さんの著書「天国からのラブレター」をF君に差し入れ、本村さんに対する反発心を煽っているのである。

 福田君は決して怪物ではないし狡猾な知能犯でもないことは、増田さんや今枝弁護士の本を読めば誰もが理解できるだろう。

 いじめ被害者がいじめのトラウマを抱え込み、長年にわたって大変な苦しみを受けるのと同じように、福田君のように不遇な家庭に育って心の病に陥った加害者もある意味では被害者だろう。犯罪を語る上で、このような加害者の精神的な問題を無視することはできない。

 福田君の不謹慎な手紙に関しては、内藤氏はマスコミ報道を真に受けて真実を見落としているとしか思えない。私にはそれが残念でならない。以下参照。

事実を報じず訂正しないマスコミの怖さ 

 また、神戸の酒鬼薔薇事件の加害者とされる少年も、ほぼ間違いなく冤罪だろう。多くの人がマスコミ報道に騙され、無罪の少年が凶悪犯人に仕立て上げられたのだ。犯罪者とされる少年に、「怪物」や「狡猾な知能犯」がいったいどれくらいいるのだろう? 私にはそのような事例はほとんどないと思えてならない。

 神戸の酒鬼薔薇事件の冤罪問題を封印してはいけない 

 内藤氏は、学校という強制収容所がいじめを生み出していると主張する。前回の記事でも書いたように、人が特異な状況におかれるとどんな残酷なこともしてしまうということはノルウェーの犯罪学者ニルス・クリスティも述べている。学校という特異な環境で生徒が残虐になれることは何も不思議なことではない。

 内藤氏とニルス・クリスティの認識はこの点において同じなのに、加害者への対応は正反対だ。これは内藤氏が徹底的に被害者に寄り添い、速やかな被害者の救済を論じているからだろう。しかし、ひとたび人が特異な環境に置かれたなら、誰もが被害者にも加害者にもなりうる。私たちはいつどこで犯罪被害者やその家族になるかもしれないし、犯罪加害者やその家族にもなるかもしれないのだ。いじめを論じるのであれば、被害者の救済のみに視点を当てるのではなく、加害者も一人の人間であり社会の一員であることを忘れてはならないと思う。

 なお、本書に光市事件の加害者のことを持ち出すのは場違いな感をぬぐえない。内藤氏は福田君のことを持ち出すことで、罰を逃れることしか考えない狡猾な「怪物」少年がいることを強調したかったのだろうが、福田君は怪物ではない。また、酒鬼薔薇事件の加害者は恐らく少年ではなく大人だ。

 福田君は被害者遺族の本村さんに会って謝罪することを望んでいた。しかし、本村さんがそれを拒み続けた。もちろんかけがえのない二人の家族を殺された本村さんの心情は理解できる。しかし、もし二人の間で対話の試みがなされていたなら、あれほどまで本村さんの憎しみが増幅されなかったのではないかと思えてならない。

 もちろん、内藤氏の指摘するように、世の中には罰を逃れるために形だけの謝罪をし「和解」で事をすませようとする加害者もいる。精神的暴力であるモラルハラスメントのように、被害者をマインドコントロールすることによって被害者自身が被害者であると気づきにくくさせている事例もある。モラハラ加害者は自己愛的変質者(ナルシスト)で「症状のない精神病者」ともいわれている。また、世の中にはサイコパスといわれるような異常人格者がいることも確かだと思う。このような人たちは精神病として治療が必要だ。

 経験豊富な調停員(仲裁人)なら加害者が異常人格者であるか否かを見抜けるのではなかろうか。犯罪者の中に稀に異常人格者が存在するからといって、修復的司法を否定する理由にはならない。

 なお、私は刑事罰そのものを否定するつもりはない。とりわけ詐欺商法や暴力団などの組織的犯罪に対しては、警察や検察による捜査はなくてはならないと思う。

 最後に一言。「いじめ加害者を厳罰にせよ」に共感する人は多いと思う。特にいじめを受けたことのある人はそうだろう。そのような人には、是非、ニルス・クリスティの「人が人を裁くとき」も合わせて読んで欲しい。犯罪や刑罰について考える人には必読の書だ。

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4) 

【関連記事】
内藤朝雄氏の指摘するいじめの論理と解決への提言

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4)

修復的司法による解決

 私は社会学者でもなければ犯罪学者でもないから、専門的な見地から意見を述べることはできない。しかし、犯罪問題を考える際にはノルウェーの犯罪学者であるニルス・クリスティの論理こそ大きな示唆を与えてくれると思うし、彼の主張は誰もが知ってほしいと思っている。そこで、ニルス・クリスティの著書「人が人を裁くとき」(有信堂、平松毅・寺澤比奈子訳)から、彼の考え方を紹介したい。

 クリスティは、本書の前半で市場原理主義と犯罪の因果関係について具体例を交えながら解説する。端的に言うならば、福祉が充実して格差の少ない国家では犯罪が少なく、逆にアメリカのように市場原理主義により格差が拡大した社会で犯罪が増えていると指摘する。アメリカなどでは、増え続ける犯罪への対処として刑事罰を強化し、それによって刑務所に囚人があふれる状況になっている。市場原理主義によってもたらされた犯罪者を刑務所という壁の中に閉じこめて市民に安心感を与えているのであれば、罰を与えることは問題の根本的解決にはならないだろう。犯罪者を社会から追放することはその場しのぎの対策でしかない。格差のない福祉国家の樹立と、刑務所に頼らない紛争解決が求められるのだ。

 ナチスによるユダヤ人の大量虐殺は誰もが認める残虐な行為だ。では、加害者にはどのような対処がなされたのか。ニュールンベルグで司令官とナチスの首謀者たちを絞首刑にし、復讐は成し遂げられた。「しかし、それと同時に、ナチス時代の背後にあった思想や利害やそれに関連する問題に関する議論は、事実上切り捨てられてしまったのである」とクリスティは言う。和解はなされなかった。そのためにどうなったのか。クリスティは以下のように述べている。

 ドイツ軍による占領が終わったとき、協力者と戦争犯罪人は全員厳しい処罰を受けた。しかし、大規模な処罰も国民の中の憎しみを消すことはできなかった。協力者は今でもノルウェーでは軽蔑され、その子どもたちの世代にも追放者のように扱われ、孫も家族の過去については沈黙している。人口のかなりの部分が今でもまともな社会的地位から遠ざかっている。また、ほとんどのノルウェー人が、強制収容所における殺戮は、ドイツ人だからできた行為であると今でも考えているのである。(135ページ)

 彼は、刑罰によって復讐を成し遂げても、なぜあのような惨事が起きたかの議論はなされないまま終わり、人々から憎しみは消えていないという。処罰という復讐でも憎しみを消すことはできず、真相の解明にもつながらない。刑事罰とは、犯罪に対し与えるべき苦痛(刑)を決めるだけなのである。

 また、クリスティは「怪物」に出合ったことはないという。彼は以下のように書いている。

 上述したように、私は人生の大半を犯罪と刑罰に関わって過ごしてきたが、1人の怪物にも出会ったことはない。強制収容所の殺人者の中にもいなかったし、それ以降も怪物には出会ったことはない。嫌いな人間はいるが、全く理解できない人間はいない。私の基本的な仮定は、我々は人間として共通の体験を有してきたということである。我々は皆人生の最初の時期を誰かに保護され、育てられたという共通の体験を有している。その後の人生においても、良い経験であれ、悪い経験であれ、ほとんどの人間は共通の体験をしている。そこに、最小限の共通の基盤が生まれるのである。(140ページ)

 ホロコーストの残虐な殺戮をした人でさえ決して怪物ではない。どこにでもいる普通の市民によって殺人がなされたということだ。また、以下のようにも述べている。

 私がいおうとしていることは、残虐行為は人類の歴史では一般的にみられるものであり、人間の宿命の一つだということだ。多くの国家が、被害者としてまたは加害者として、あるいはその両方の立場で残虐行為に関わってきた。ゆえに、残虐行為を異常な行為ではあるがありふれているとみなすことが重要になる。残虐行為を防ぎかつそれに対処する方法を、社会紛争の解決策に関する我々の共通の知識を動員して、見いださねばならないのである。(142ページ)

 交渉を始めるように常に努めなければならない。暴力の前に、できれば暴力の代わりに、また暴力の後でも、対話のための場を設定する試みがなされるべきである。言語道断なことだと考える者に会うべきである。そして、なぜ彼らがそれをしたのか理解しようとし、その行為を別の観点からみる努力をし、共通の基盤を探す試みをすべきである。そうしなければ、どうやって暴力を止めることができるだろうか。敵対する両者がお互いの状況を全く別々の解釈に基づいて突き進んでいけばどうなるだろうか。(143ページ)

 クリスティは、真実を解明すること、そして和解の努力の必要性を説く。被害者と加害者による話し合い、調停、和解である。このような手法を修復的司法という。

 「人が人を裁くとき」ではクリスティによる本論の前に、平松毅氏による「クリスティの人と業績」という解説がある。修復的司法についてはこの中の平松氏の説明が分かりやすいので以下に引用したい。

 修復的司法とは、概括的には「犯罪の加害者に被害者に対する説明責任を負わせ、両者の合意に基づいて、両者間の意思疎通を図り、犯罪により被害者に引き起こされた害悪を可能な限り修復することによって、犯罪に対応するための手続き」と定義される。(18ページ)

 さらに、刑事司法の独占によって失われるものに、被害者の不安と誤解がある。被害者は、事件全体を理解するためには、探偵小説に描かれている犯罪者の古典的なステレオタイプを思い描くしかない。被害者は、犯罪者と接触する機会がないままに、犯罪者を非人間として説明してもらうことを望むだろう。こうしてステレオタイプの犯罪者像ができあがる。
 加害者は、より複雑な状況におかれる。被害者との直接的な接触を経験することは苦痛であるから、しりごみするであろう。それが最初の反応である。しかし、次の段階では若干肯定的になる。人間が行動するときには、それなりの理由がある。その理由は、法律家が選択した理由ではなく、当事者が理由と考えるものである。弁護士は、刑罰を決めるために量刑に関連性のあるものは何かを判断する能力を訓練されている。このことは、逆にいうと、何が関連性があるかを当事者に決定させないように訓練させているということだ。こうして許しを得るという最も重要な機会を失ってきた。そこで、被害者はステレオタイプの犯罪者像を想像し、加害者に対して極刑を主張することにより、鬱憤を晴らしてきた。そこで、被害者に加害者が自己自身を説明する機会を与えること、これがまさに被害者を再度事件に引き込むことによってなされなければならないことなのである。
 そうすれば、被害者が受けた被害や苦痛にも注意が向けられるであろう。損害賠償が議論されるであろう。加害者は、現在刑事裁判においておかれている立場、すなわち、いかなる苦痛を与えられるべきかという法廷の傍聴者から、いかにして彼が更生するかという議論の参加者へと変化するであろう。(20ページ)

 学校でのいじめに対しても、刑事罰の前にこうした修復的司法による和解努力がなされるべきではなかろうか。日本でも、そのような実践例が報告されている。

生徒指導と修復的司法(大阪教育法研究会)

 この事例は、まさにクリスティの主張する修復的司法の効果を裏付けている。いじめを行った生徒は決して怪物ではない。お互いに向き合って話しをすることで相手を理解できれば、加害者は自分の過ちに気づいて謝ることができるし、被害者から許しを得る可能性も高まる。補償の責任感も生じるだろう。また加害者には必要に応じて謹慎処分や停学処分も適用される。和解や調停は決して不可能ではない。

 さらに、こうした取り組みが「学校モード」からの脱却にもプラスに働くのではないかと思う。もちろん、これは単なる一例であり、すべての事例がこのように解決するとは思えない。しかし、例え解決できなくてもこのような機会をつくることは決してマイナスにはならないだろう。

 上記の事例では教師が仲裁役を務めている。しかし、いじめを見て見ぬふりをして何の対処もしない教師もいる。そうした背景には教師自身が修復的司法という手法を知らず、生徒間のいじめにどう対処していいのか分からないという現実もあるのではなかろうか。また、学校があくまでもいじめを隠蔽しようとし、教師が修復的司法の仲裁人の役割を果たせないのであれば、学校関係者以外の第三者を仲裁人(調停員)にするという方法もあるだろう。この場合は教師も修復的司法の当事者に加えるべきかもしれない。

 もちろん内藤氏の主張するように、凄惨な暴力をすぐに停止させるために警察に通報するという方法も全面的に否定するわけではない。しかし警察権力の力を借りるのは修復的司法が実現できない、あるいは実現しても解決せず暴力を停止する方法が他に見つからないような場合に限るべきではなかろうか。その際にも警察を過信すべきではないし、リスクやデメリットも知っておく必要がある。

 ニルス・クリスティについては、以前にも記事にしているので参照していただきたい。

ニルス・クリスティの言葉 

 上記の記事で紹介したNHKの番組制作に関わった森達也さんの記事は以下。

殺人事件は年1件だけ!?ノルウェー紀行(DIAMOND online)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

2012年11月13日 (火)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3)

学級制度の廃止について

 さて、内藤氏はいじめの解決のためには「学級制度の廃止」と「学校への法の導入(法に基づいた加害者の処罰)」を提唱する。前者はコミュニケーション操作系(シカトする、悪口を言う、嘲笑する等)のいじめに効果を発揮すると主張する。学級を廃止して、たとえば大学のように授業ごとに教室を移動して席を特定せず、食事も好きな相手と好きなところで食べ、班活動なども強制しないようにすることでいじめは効力を大幅に失うという。

 このような発想自体は納得できるものだ。しかし、地方の過疎地などではそもそも学級が一つしかない小学校や中学校、高校が珍しくない。それどころか複式学級で一クラスが数人とか、全校生徒でも数人あるいは十数人などといった小学校すらある。給食も全校生徒が同じ教室で食べ、学年の枠すらすでにない。このような小規模校では、全校生徒での「仲良し」を強制される。力をもった高学年の子どもが下級生をいじめる状況になれば、被害者は逃げ場がない。「学級制度の廃止」は、小規模校に適用できる方法ではない。また、小学校では学級を廃止するのは現実的ではないだろう。

 学級制度の廃止だけでは不十分である以上、「学校に行きたくない子どもが学校へ行かなくても学習を続けられる環境を整える」ことも必要ではないか。通信教育とか、家庭教師による学習とか、フリースクールの充実である。現在でも通信制や単位制の高校があるが、過疎地ではそれらの利用もままならない。今よりもっと手軽に、誰もが学校以外での学習を保証する制度が必要だと思う。

賛同できない加害者への刑事罰

 内藤氏は、市民社会で暴力が目撃されれば警察に通報するのが当たり前だから、それと同じように学校での暴力を警察に通報すべきだという。学校は無法地帯であるうえ市民社会の常識が通用しない「学校モード」に支配されている。しかも学校には教育ムラがあり教師はいじめを隠蔽するので学校内部では解決ができない。だから一般社会のルールを持ち込むのがベストだという。

 暴力系のいじめはすぐに止めさせるべきだという主張はもっともだが、その解決策として刑事罰をいきなり持ち出すのは賛同できない。刑事罰にはたしかに暴力行為をすぐに止めさせる効力はあるだろう。しかし同時にさまざまなデメリットやリスクを伴う。

 まず報復ともいえる刑事罰でいじめの本質的問題が解決されるのかということ。もう一つは子どもの間の紛争の解決を警察という治外法権の国家権力に頼るべきことなのかという問題。警察では裏金が作られ警察官の違法行為も後を絶たないが、内部の犯罪には極めて甘い。捜査では相変わらず自白強要などの違法行為が絶えない。しかもこの国は厳罰化に向かっている。そういうところに解決を委ねるべきなのか。

 私は過去に個人で2回警察に告発・告訴をしている。ひとつは悪質商法を行っている文芸社の詐欺疑惑の刑事告発。もう一つは私の個人情報を不正取得した行政書士への告訴。両方とも証拠資料等を添えて警察に告発状・告訴状を提出したが、警察は受け取ろうとすらしなかった。警察に被害届を出しても、明瞭な証拠がなければ警察はなかなか捜査に乗り出さない。しかし被害者自身がいじめられている証拠まで押さえるのは容易なことではない。被害届を出しても警察が速やかに動かなければ、加害者がさらに被害者を追い詰めることすらあり得るのではなかろうか。女性がストーカー行為で警察に被害を訴えたのに放置され、殺されてしまった事件も複数ある。

 被害届や告訴に警察がきちんと対応し加害者を処罰したとしても被害者は刑事裁判に関われないし、被害への補償もなされない。また、加害者のいじめ行為の根底にストレスが関係しているのなら、動機や背景こそ解明されなければならないだろう。そうした解明がないまま刑罰を与えて、心からの反省や謝罪につながるだろうか。加害者に必要なのは刑罰より精神の安定化であり、カウンセラーや臨床心理士だ。刑事裁判を全否定するつもりはないが、個人間での争いの解決を刑事罰だけに期待するのはいろいろな意味で賛成できない。

 かといって、監視社会にしてしまうのも恐ろしい。少し前の北海道新聞によると、近年は探偵事務所などに依頼していじめの調査をしてもらう親が増えているという。いじめの現場を動画などで撮影して学校に証拠として突き付けることで学校もいじめを否定できなくなるのだ。学校がいじめの隠蔽をする以上、いじめ現場の隠し撮りは確かに有効な方法だろう。しかし、これはどう考えても異常な事態だ。しかも、こうした方法は金銭的に余裕のある親しかできない。

 刑事罰に異議を唱えれば、「それならどうやって被害者を救うのか?」という声が聞こえてきそうだ。次回は刑事罰以外の方法について書いてみたい。

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

2012年11月12日 (月)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2)

学校モードはいつから生じたのか

 内藤氏自身がかつていじめ被害者であっただけに、いじめを生み蔓延させるメカニズムは真を突いている。

 まず、内藤氏は学校という場を以下のように表現している。

 役人が便宜上引いた学区というエリアの中にある学校に、それまでほとんど縁がなかった子どもたちが義務教育(小中学校の場合)の名の下に「強制出頭」させられ、「同年齢だから」という理由だけでひとまとめにされる(学年制度)。さらに、それを30~40人に分けられ、朝から夕方まで窮屈な部屋に「軟禁」される(学級制度)。クラスでは一人一人の能力を無視した「集団学習」が行われ、刑務所や軍隊のような「集団摂食」を強要される。グループを組まされて反活動に「動員」されたり、掃除などの「不払い労働」に従事させられる―。(34ページ)

 こうやって並べてみるなら、学校は「強制」のかたまりだ。私は、学校という「強制収容所」でベタベタした集団生活を強要されることがいじめの温床となるという内藤氏の主張はもっともだと思う。

 また内藤氏は、子どもたちは学校で集団生活を送ることで「学校モード」と呼ぶべき特殊な心理状態になり、市民社会では「悪いこと」されるいじめが、学校モードでは「良いこと」となってしまうという。このために残酷ないじめに加担する「怪物」になるという。子どもたちに「学校モード」が存在するということも事実だろう。

 ところで内藤氏は、長期にわたっていじめが増加しているデータはなく、いじめが残酷化してきているとは言えないとしている。本当にそうだろうか?

 学校での様々な強制は今にはじまったものではない。私が学校に通っていた1960年代初めから1970年代も同じだ。しかし、その頃と今では明らかに子どもたちの感覚に違いが生じている。

 何が違うのか・・・。私の経験から考えるなら、私が小学生の頃は「学校モード」は内藤氏が指摘するほど明確に確立されてはいなかったといえる。たしかに学校では嫌がらせ、悪口、無視、暴力などのいじめはあったが、子どもたちは学校でも「いじめ」が悪いことであると認識しており、いじめをする子においそれと同調はしなかった。だから、いじめられる子が孤立しているというより、いじめる子が非難されるという状況があった。学校はたしかに強制が多く窮屈な場ではあったが、市民社会での常識もそれなりに存在していた。

 いわゆる反抗期に当たる中学時代も、少数だが先生に反抗的な態度をとる生徒がいた。しかし、多くの生徒はそうした生徒に安易に同調したりはせず、むしろ醒めた目で見ていた気がする。中学・高校時代にも、皆に同調しないマイペース型、あるいはガリ勉タイプの生徒は必ずクラスに一人や二人はいた。そういう生徒は概して友だちがいないか少ないのだが、それでも陰湿ないじめにまで発展しないのが普通だった。そのような生徒にとって学校が苦痛ではあっても自殺するほどの苦痛の場にはなっていなかったように思う。

 生徒の多くは気の合う者同士で付き合い、お互いに干渉することはあまりなかったように思う。もちろん悪口、陰口の類はあったが、集団での「シカト」「無視」にまで発展することは少なかった。もちろん、私の知らないところで陰湿ないじめもあったのだろうが、それは一般的ではなかったと思う。

 「皆に同調する」ということに関して、内藤氏は「ノリ」という表現を使っている。つまり、その場の「ノリ」に神経を尖らせ、皆に合わせていることが学校モードでは要求されるというのだ。そしてみんなの「ノリ」に従わずに「浮いて」いることは「悪い」ことで、「浮いて」いるにも関わらず、自信を持って生きているのは「とても悪い」ことになり、身分的に下の者が人並みの自損感情を持つことは「すごく悪い」という。

 ならば、私などは学校に通っていた頃から今に至るまで「すごく悪い」の典型だ。多くの女子グループが話題にしている異性やタレントの話しなど興味がなかったし、趣味も読んでいた本も周りの生徒とはかなり異なっていた。高校時代に陰口を言われていたことも知っている。それでも陰湿ないじめに遭うことはなかった。たぶん私のようなタイプは、今の学校ではまっさきにいじめのターゲットになっているのだろう。つまり、かつてはたとえ「浮いて」いて「わが道を行く」タイプであっても、それはそれで許容されていたのである。

 しかし、今はあきらかに違う。「みんなに同調しない者は悪である」という「学校モード」がどこの学校にも明瞭に存在し、子どもたちは否応なしに自分が「浮かない」ように緊張を強いられている。

 このように、一般社会の常識が通じない強固な「学校モード」が昔からずっとあったとは思えないのである。明瞭な「学校モード」がいつ頃から確立されてきたのかはわからないが、1980年代のはじめ頃ではなかろうか。私と同年代で今年の3月に亡くなった渡辺容子さんはかつて学童保育の指導員をしていたのだが、子どもたちと接している中で、彼女も同じ変化をはっきりと感じ取っていたという。

 子どもたちは明らかにかつてより「皆と同じにしなければならない」という強迫観念に強く捉われるようになってきている。私にはその変化とともに、いじめが頻発化、残酷化していると思えてならない。ならば、いじめの蔓延の原因は「強制収容所」だけにあるのではなく、もっと複合的なものと言えないだろうか。

 「皆と同じが良くて、異質なものはダメ」という考えは、なにも学校に通う子どもたちに限った感覚ではない。実は、親自身がそうした感覚を以前よりより強く持つようになっているのではないかと思えてならない。

 私が住んでいる北海道の地方の町でもそういう傾向は強い。たとえばある親がスキー学習のために子どもにメーカー品のスキー用具やウェアを一式買いそろえると、他の親も次々と真似をして同じような物を買い与える。マウンテンバイクが流行れば、わが子が仲間外れになってはいけないとばかりに買い与える。そんな光景が日常的に見られた。

 親が「自分の子どもが流行りに乗り遅れたらいじめられる」と、先取りしてしまう。また、親自身が保護者集団の中で特定の親のいじめをすることもあった。その理由は「皆と違う」である。つまり、社会全体に「皆と同じにしていることがいい」「異質なものは叩き排除する」という内藤氏の言うところの「全体主義」がはびこってきている。かつての「村八分」である。これでは、子どもたちの間に「皆と違っていてもいい」という感覚が生まれるはずもない。もちろん親がこのような意識になっているのも社会的背景があるはずだ。

 子どもたちが親から「皆と違っていたらいけない」と刷り込まれれば、「皆と違う子はいじめていい」という意識ももちかねない。学校という強制収容所と「皆と同じが良くて、違うことは悪い」という価値観、全体主義が結びつくことで、いじめすら「良いこと」とされる強固な「学校モード」が確立されていったのではなかろうか。

 学校では「学校モード」という特殊な心理状態になるという内藤氏の論理は理解できる。しかし、子どもたちだって日々のニュースによって、人を傷つけたり暴力をふるうことが犯罪であり悪いことであるくらい十分理解しているはずだ。いじめをストレス発散の場として楽しむ加害者グループも、そんなことは分かり切っている。

 善悪の判断ができる子どもが、「学校モード」になると陰湿ないじめすら悪いと思わないという感覚に陥ってしまうのは、学校という場が治外法権の強制収容所ということだけでは説明がつかない。かつては学校にもそれなりに存在していた社会常識、倫理といったものがなぜ消えてしまったのか・・・。

 本書にはこうした指摘が見当たらない。どのようにして異常な「学校モード」が確立されたのかの考察なしに強制システムだけを問題視する単純さが私には疑問だ。

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

2012年11月 9日 (金)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(1)

内藤氏の主張

 内藤朝雄氏の「いじめ加害者を厳罰にせよ」(ベスト新書)が10月に発行された。本書は、大津市の中学生のいじめ自殺事件がマスコミで大きく取り上げたことをきっかけに、いじめ問題の第一人者ともいえる内藤氏が、いじめのメカニズムとその解決策を訴えたものだ。私自身は「いじめ加害者を厳罰にせよ」というタイトルに驚きを禁じ得ないが、このタイトルには一刻も早くいじめ被害者をなくしたいという内藤氏の思いが込められているのだろう。

 内容的には、内藤氏がこれまで主張してきたことを誰にでも分かるように解説した本といえる。しかし、内藤氏の主張を知らなかった人にとっては、「目からうろこ」といえるような主張かもしれない。なぜなら、内藤氏の主張はマスコミに登場する教育評論家や著名人などの持論とはかなりかけ離れたものであり、日本社会に浸透しているとは思えないからだ。それどころか、内藤氏はマスコミでばら撒かれる些末ないじめ対策はむしろ有害であると批判しているのである。

 私は内藤氏の論じるいじめのメカニズムは評価するのだが、刑事罰導入による解決策は賛同できないし、不十分あるいは不適切だと思う部分もある。そこで、この本を読んで気づいた感じたことについて、何回かに分けて書いてみたいと思う。

 内藤氏の主張について考えるために、まず本書での彼の主張の要旨を以下にまとめてみた。

【いじめに関する誤解】
・長期にわたっていじめの件数が増えていることを示す信頼できる統計はない。
・1979年、1986年にも残酷で陰湿ないじめ事件が報道されており、近年になって残酷化したとは言えない。
・いじめは子どもたちだけの問題ではなく、あらゆるところに存在する。
・イギリスやノルウェーでも残忍ないじめ事例がある。
・教育評論家や著名人などによる「いじめ論」は矛盾だらけである。

【いじめのメカニズム】
・市民社会では悪とされるいじめが、学校では「当たり前」「良いこと」になってしまう。これは「市民社会モード」と「学校モード」の違いからくる。
・学校という「強制収容所」でベタベタした集団生活を強要されることがいじめの温床となる。
・生徒の選択肢は、①仲良くしたくないクラスメイトやグループと友だちになることを拒否し、孤独で過ごす。②自分の自然な重いや感情は諦め、自分をいじめる加害者も含めがクラスメイトやグループと友だちになる。という二者択一しかない。
・「学校モード」では、みんなに同調せず「浮いている」(「ノリ」に従わない)者、いじめの「チクリ」をする者がもっとも嫌われいじめの対象とされる。
・いじめ加害者は「損か得か」という利害で行動する。 ・いじめには暴力系のいじめ(殴る、蹴る、衣服を脱がせる等)、とコミュニケーション操作系のいじめ(シカトする、悪口を言う、嘲笑する等)がある。
・長くつづくタイプのいじめは、加害者グループが被害者を囲い込み、表面上は友だちを装いながら家畜を飼育するかのように躾け玩具にする「友だち家畜」と言うべき「飼育タイプ」が主流である。

【いじめの隠蔽構造】
・学校や教育委員会がいじめを隠蔽するのは、利害関係でつながる「教育ムラ」のため。ムラの安泰のために隠蔽が行われる。
・保護者や地元民が被害者の親に嫌がらせをすることで教育ムラの隠蔽に加担することもある。
・有名人等の「心の問題」にフォーカスさせるコメントをマスコミが報じることが、状況を悪化させる。

【いじめ解決策】
・長中期的な教育制度の抜本的改革は短期間では実現できないので、まずは短期的な解決策を実施することが重要。
・短期的解決策は「学級制度の廃止」と「学校への法の導入(法に基づいた加害者の処罰)」である。 ・「学校制度の廃止」は「コミュニケーション操作系」のいじめに効果を発揮する。
・「暴力系のいじめ」に対しては、市民社会の法を学校内の暴力に持ち込み加害者を処罰することが有効である。

 これ以外に、少年法や厳罰に反対するいわゆる「人権派」に関しての意見、個人でのいじめへの対処法などにも触れられている。これについては後で言及したいが、ここでは割愛する。

 おそらく内藤氏の主張は、いじめの被害者にとって、非常にすんなりと受け入れられるものだろう。被害者は、加害者がなんら制裁を受けずに大きな顔をしてのさばり、被害者ばかりが苦しみに耐える状態に置かれていることに大きな矛盾や怒りを感じているからだ。

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(3) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(4) 
内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(5)

2012年11月 8日 (木)

質問のマナーを忘れた日本人

 一週間ほど前に、ブログのメッセージ欄から質問があった。以下のような内容だ。

拝啓、いつも楽しくブログを拝見しています。

さて、気象庁では桜の観測など生物の観測をしていますが、アキアカネの初見(山で一夏を過ごし赤く成熟した固体)の観測をしています。最近、過去の観測が間違っていたので統計に使わなくなりました。

この件について鬼蜘蛛おばさんの見解を教えて下さい。

 正直いって回答をする気になれず返信していない。インターネットや電子メールの発達により、今では見ず知らずの人にも簡単に連絡をとれるようになってきている。しかし、この質問はあまりに不躾だ。

 電子メールが普及しておらず、手紙や電話が主な通信手段だったころのことを思い返してほしい。見ず知らずの人に問い合わせの手紙を出す場合、こんな質問の仕方をする人がいただろうか?

 常識的な手紙の書き方を考えてみよう(電話で問い合わせる場合も基本的に同じである)。まず挨拶、自己紹介をする。そして、質問をする理由や動機の説明。また質問事項については、相手がよく理解できるように詳しく、場合によっては資料を添えて質問するだろう。また、質問の内容によっては自分の見解なども書き添えることが望ましい。それが時間を割いて回答をしてもらうための最低のマナーだろう。もちろん、相手が質問に答えられる知識や情報の持ち主であることが前提である。通信手段が電子メールであろうと、このようなマナーは基本的なことだ。

 ところが上記の質問はどうだろう。まず、自己紹介も質問の意図の説明も書かれていない。質問内容に至っては、気象庁の観測がいつごろからどのように行われているものなのかという具体的説明がまったくない。過去の観測が間違っていたとのことだが、それについて気象庁の説明なども紹介されていない。そして、これらの情報が掲載されているウェブサイトすら記載されていない。質問者自身の見解もない。

 この質問に答えるためには、私自身が時間を割いて情報収集しなければならないのだ。質問の意図の説明もない見ず知らずの人からの問い合わせに、いちいち時間など割いていられない。単なる興味本位の質問であるならなおさらだ。しかも、私はトンボの生理・生態の専門家でもない。はっきりいって非常識である。私のメールアドレスを知るためのヤラセ質問という可能性も考えられる。

 いくらメールで簡単に意見や質問を送信できるようになった時代とはいえ、見ず知らずの人に質問をする際のマナーくらい心得てほしい。よって、このような質問には回答しない。

2012年11月 7日 (水)

ウクライナと福島の「イタイイタイ病」

 「みんな楽しくHappyがいい」というブログに「小若氏の低線量被ばくのウクライナ調査報告」という動画の書き起こしが掲載されている。

<ウクライナ報告>「5から10ベクレルの食品で被害が出ているという事を確認しました」小若順一氏11/2(内容書き出し) 

 具体的なことは上記の記事を読んでいただきたいのだが、ウクライナの第3種汚染地域や非汚染地帯の子どもたちの多くが、足が痛い、頭が痛い、喉が痛い、などの体の痛みを訴えているという。

 食材の検査をすると、だいたいKgあたり5~10ベクレルの食事で子どもに痛みが出るということが分かってきたそうだ。痛みの原因は、再生しない細胞が内部被ばくで遺伝子に傷がつきダメージが蓄積していくためだとしている。

 そして、なんと福島では原因不明の「福島イタイイタイ病」が増えているという指摘がある。

福島イタイイタイ病が拡大。原因不明で寝たきり(福島県は「放射能死灰の町」となった)

福島イタイイタイ病(続き):うつ病と放射性物資tと福島エイズ(福島県は「放射能死灰の町」となった)

 南相馬市在住の「ぬまゆ」さんも「身体中が、痛いです」と言っている。

福島県民の叫びです。 

 もちろんこの福島イタイイタイ病が被ばくによるものだと断言はできない。しかし、被ばくが原因ではないとも断言できない。放射能汚染された地域で生じている「イタイイタイ病」が被ばくと関係がないとしたなら、いったい何が原因なのだろう?

 癌だけが放射能による健康被害ではないことは、今では多くの人が認識しているだろう。特に心臓疾患や循環器系の疾患が増えるとされているし、免疫力が低下してさまざまな病気にかかりやすくなる。チェルノブイリの事故では子どもの白内障も増えた。癌の発症率だけで被ばくによる健康被害を論じるなどというのは完全に誤りだ。

 日本の食品の基準値はKgあたり100ベクレルになったが、基準値以内だから大丈夫などという主張は鵜呑みにしてはならないし、可能な限り汚染されていない食品を選ぶべきだ。だるさ、痛みなどの症状が出ている人は、一時的にでも疎開をしてみるという選択肢もあるだろう。汚染されていないところにいって症状が改善されるのなら、被ばくを疑うのは自然だ。こんなことを言うのは他人事のようで心苦しいが、とにかく、福島はとても安全といえる状況ではないことだけは確かだと思う。

2012年11月 3日 (土)

文化勲章受章という堕落

 今日、11月3日は皇居で文化勲章の授与が行われる日だ。そして今日は秋の叙勲の受章者が発表された。叙勲の季節になると、何ともやるせない気持ちになる。反権力を標榜している文化人までもが、必ずといっていいくらい受章の知らせに対して「光栄です」というコメントをし、あっけらかんと授与を喜んでいるのである。国家から勲章をもらうことがそんなに名誉で光栄なことなのか。名誉がそんなに大事なのか・・・。

 価値観は人によってさまざまだから、まあ、人によっては名誉で喜ばしいことなのだろう。権力に迎合している人や改憲派の人なら権力者から褒められるのが嬉しいというのも分かる。しかも、彼ら彼女らは勲章だけをもらうわけではない。文化勲章受章者は文化功労者の中からから選ばれるから、文化功労者に選ばれた時点で国から年額350万円の終身年金が支給されている。

 しかし権力を批判している立場の者がその権力者から勲章やお金をもらうということに何ら違和感を持たないのだろうか? 私には理解しがたい。彼らの大半は、そもそも年金などもらわなくても生活していける人たちだろう。そのような人たちに国が終身年金を支払うのである。いったい何のために?と思わずにいられない。

 大江健三郎氏が文化勲章を辞退したのは1994年。Wikipediaによると「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」というのが辞退の理由とされている。私の記憶では、表向きにはかなりやんわりと辞退の意思表示をしていたと思うのだが、権力者からの勲章、天皇からの授与にノーを突きつけたということだろう。彼の信念、姿勢は反権力志向の多くの人に影響を与えたのではなかったのか。

 しかし、大江氏の後に文化勲章を辞退した人は杉村春子氏だけである。今年は映画監督の山田洋次氏が選ばれた。彼は教育基本法改悪に反対だったのではないか。そういう人が文科省から文化功労者に選ばれて国から年金をもらい、文化勲章までもらって喜んでいる。梅原猛氏も「九条の会」の呼びかけ人であるが、文化功労者であり文化勲章を受章している。故井上ひさし氏も同じく「九条の会」の呼びかけ人であり天皇制にも批判的だったが、文化功労者だった。今年は宮崎駿氏も文化功労者に選ばれている。いったいこの国の文化人はどうなってしまったのだろう。叙勲の季節がくるたびに一人暗澹たる気持ちになる。

 こうしたことに何ら違和感を持たず、ただただ文化勲章やその他の叙勲をめでたいといって喜んでいる人は、私には能天気にしか映らない。

 ちなみに、文化勲章が授与される「文化の日」は、明治天皇の誕生日である。日本の叙勲制度は政治的な色合いが濃いというほかない。以下参照。

叙勲・褒章制度の歴史的な意味と事情(社会科学者の時評)

 辺見庸氏の「永遠の不服従のために」(毎日新聞社)という本がある。私がいちばん初めに手にした辺見氏の本が真っ赤な表紙のこれだった。タイトルに引き込まれて購入した。この本の3章に「堕落」という一節がある。そこに叙勲者についての感想が書かれている。辺見氏にとって、受章者はまさに「堕落」なのである。その部分を以下に引用しておこう。

 試しに、秋の叙勲の受章者リストを見るといい。改憲派の政府・法曹関係者ばかりではない、かつての護憲派の名誉教授様、芥川賞作家まで名前をつらね、あたら晩節を汚し、じゃなかった、輝かしきものとしているのである。これにかつての褒章受章者を加えれば、反権力を標榜していた映画監督や著名俳優、反戦歌を詠んだことのある歌人もいたりして、意外や意外どころのさわぎではない。革新政治家、かつては“社会の木鐸”を気どっていたはずのマスコミ経営者、万人平等を教えていたはずの学者ら、その他諸々の、ひとかどの人物たちが、ま、いっとき色に耽るのもよろしかろう、お金をもうけるのも結構でしょう、名前を売るのもどうぞどうぞではあるのだけれども、強欲人生の最後の仕上げと夢なるものが、勲章・褒章と、おそれ多くもかしこくも、宮中にての親授式だと知ってしまえば、「なーんだ、そうだったの」というほかはない。
 受章と反権力は矛盾しないだろうか。受章と護憲は矛盾しないだろうか。私は、ごく単純に矛盾すると思う。しかも、権威への欲が矛盾をなぎ倒し、国家主義を直接に手助けして、今日的反動の土壌をこしらえている。そのことに恥じ入りもしない受章者、彼らを嗤わず軽蔑もしない文化、受章の大祝宴を正気で開くアカデミズム、言祝ぐジャーナリズム―民主主義の安楽死も憲法破壊も必然というべきであろう。

 辺見氏の文章は強烈ではあるが、実にもっともなことである。反権力を標榜する者が矛盾を感じずに受章を喜んでいるのなら、あるいは矛盾を感じながら辞退をしないのなら、どちらも堕落ではないか。

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