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2012年11月12日 (月)

内藤朝雄著「いじめ加害者を厳罰にせよ」の主張と問題(2)

学校モードはいつから生じたのか

 内藤氏自身がかつていじめ被害者であっただけに、いじめを生み蔓延させるメカニズムは真を突いている。

 まず、内藤氏は学校という場を以下のように表現している。

 役人が便宜上引いた学区というエリアの中にある学校に、それまでほとんど縁がなかった子どもたちが義務教育(小中学校の場合)の名の下に「強制出頭」させられ、「同年齢だから」という理由だけでひとまとめにされる(学年制度)。さらに、それを30~40人に分けられ、朝から夕方まで窮屈な部屋に「軟禁」される(学級制度)。クラスでは一人一人の能力を無視した「集団学習」が行われ、刑務所や軍隊のような「集団摂食」を強要される。グループを組まされて反活動に「動員」されたり、掃除などの「不払い労働」に従事させられる―。(34ページ)

 こうやって並べてみるなら、学校は「強制」のかたまりだ。私は、学校という「強制収容所」でベタベタした集団生活を強要されることがいじめの温床となるという内藤氏の主張はもっともだと思う。

 また内藤氏は、子どもたちは学校で集団生活を送ることで「学校モード」と呼ぶべき特殊な心理状態になり、市民社会では「悪いこと」されるいじめが、学校モードでは「良いこと」となってしまうという。このために残酷ないじめに加担する「怪物」になるという。子どもたちに「学校モード」が存在するということも事実だろう。

 ところで内藤氏は、長期にわたっていじめが増加しているデータはなく、いじめが残酷化してきているとは言えないとしている。本当にそうだろうか?

 学校での様々な強制は今にはじまったものではない。私が学校に通っていた1960年代初めから1970年代も同じだ。しかし、その頃と今では明らかに子どもたちの感覚に違いが生じている。

 何が違うのか・・・。私の経験から考えるなら、私が小学生の頃は「学校モード」は内藤氏が指摘するほど明確に確立されてはいなかったといえる。たしかに学校では嫌がらせ、悪口、無視、暴力などのいじめはあったが、子どもたちは学校でも「いじめ」が悪いことであると認識しており、いじめをする子においそれと同調はしなかった。だから、いじめられる子が孤立しているというより、いじめる子が非難されるという状況があった。学校はたしかに強制が多く窮屈な場ではあったが、市民社会での常識もそれなりに存在していた。

 いわゆる反抗期に当たる中学時代も、少数だが先生に反抗的な態度をとる生徒がいた。しかし、多くの生徒はそうした生徒に安易に同調したりはせず、むしろ醒めた目で見ていた気がする。中学・高校時代にも、皆に同調しないマイペース型、あるいはガリ勉タイプの生徒は必ずクラスに一人や二人はいた。そういう生徒は概して友だちがいないか少ないのだが、それでも陰湿ないじめにまで発展しないのが普通だった。そのような生徒にとって学校が苦痛ではあっても自殺するほどの苦痛の場にはなっていなかったように思う。

 生徒の多くは気の合う者同士で付き合い、お互いに干渉することはあまりなかったように思う。もちろん悪口、陰口の類はあったが、集団での「シカト」「無視」にまで発展することは少なかった。もちろん、私の知らないところで陰湿ないじめもあったのだろうが、それは一般的ではなかったと思う。

 「皆に同調する」ということに関して、内藤氏は「ノリ」という表現を使っている。つまり、その場の「ノリ」に神経を尖らせ、皆に合わせていることが学校モードでは要求されるというのだ。そしてみんなの「ノリ」に従わずに「浮いて」いることは「悪い」ことで、「浮いて」いるにも関わらず、自信を持って生きているのは「とても悪い」ことになり、身分的に下の者が人並みの自損感情を持つことは「すごく悪い」という。

 ならば、私などは学校に通っていた頃から今に至るまで「すごく悪い」の典型だ。多くの女子グループが話題にしている異性やタレントの話しなど興味がなかったし、趣味も読んでいた本も周りの生徒とはかなり異なっていた。高校時代に陰口を言われていたことも知っている。それでも陰湿ないじめに遭うことはなかった。たぶん私のようなタイプは、今の学校ではまっさきにいじめのターゲットになっているのだろう。つまり、かつてはたとえ「浮いて」いて「わが道を行く」タイプであっても、それはそれで許容されていたのである。

 しかし、今はあきらかに違う。「みんなに同調しない者は悪である」という「学校モード」がどこの学校にも明瞭に存在し、子どもたちは否応なしに自分が「浮かない」ように緊張を強いられている。

 このように、一般社会の常識が通じない強固な「学校モード」が昔からずっとあったとは思えないのである。明瞭な「学校モード」がいつ頃から確立されてきたのかはわからないが、1980年代のはじめ頃ではなかろうか。私と同年代で今年の3月に亡くなった渡辺容子さんはかつて学童保育の指導員をしていたのだが、子どもたちと接している中で、彼女も同じ変化をはっきりと感じ取っていたという。

 子どもたちは明らかにかつてより「皆と同じにしなければならない」という強迫観念に強く捉われるようになってきている。私にはその変化とともに、いじめが頻発化、残酷化していると思えてならない。ならば、いじめの蔓延の原因は「強制収容所」だけにあるのではなく、もっと複合的なものと言えないだろうか。

 「皆と同じが良くて、異質なものはダメ」という考えは、なにも学校に通う子どもたちに限った感覚ではない。実は、親自身がそうした感覚を以前よりより強く持つようになっているのではないかと思えてならない。

 私が住んでいる北海道の地方の町でもそういう傾向は強い。たとえばある親がスキー学習のために子どもにメーカー品のスキー用具やウェアを一式買いそろえると、他の親も次々と真似をして同じような物を買い与える。マウンテンバイクが流行れば、わが子が仲間外れになってはいけないとばかりに買い与える。そんな光景が日常的に見られた。

 親が「自分の子どもが流行りに乗り遅れたらいじめられる」と、先取りしてしまう。また、親自身が保護者集団の中で特定の親のいじめをすることもあった。その理由は「皆と違う」である。つまり、社会全体に「皆と同じにしていることがいい」「異質なものは叩き排除する」という内藤氏の言うところの「全体主義」がはびこってきている。かつての「村八分」である。これでは、子どもたちの間に「皆と違っていてもいい」という感覚が生まれるはずもない。もちろん親がこのような意識になっているのも社会的背景があるはずだ。

 子どもたちが親から「皆と違っていたらいけない」と刷り込まれれば、「皆と違う子はいじめていい」という意識ももちかねない。学校という強制収容所と「皆と同じが良くて、違うことは悪い」という価値観、全体主義が結びつくことで、いじめすら「良いこと」とされる強固な「学校モード」が確立されていったのではなかろうか。

 学校では「学校モード」という特殊な心理状態になるという内藤氏の論理は理解できる。しかし、子どもたちだって日々のニュースによって、人を傷つけたり暴力をふるうことが犯罪であり悪いことであるくらい十分理解しているはずだ。いじめをストレス発散の場として楽しむ加害者グループも、そんなことは分かり切っている。

 善悪の判断ができる子どもが、「学校モード」になると陰湿ないじめすら悪いと思わないという感覚に陥ってしまうのは、学校という場が治外法権の強制収容所ということだけでは説明がつかない。かつては学校にもそれなりに存在していた社会常識、倫理といったものがなぜ消えてしまったのか・・・。

 本書にはこうした指摘が見当たらない。どのようにして異常な「学校モード」が確立されたのかの考察なしに強制システムだけを問題視する単純さが私には疑問だ。

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