日の丸・君が代の強制問題に思う
昨日届いた週刊金曜日に、大阪府と東京都の卒業式での不起立を貫いた教師に関する記事が掲載されていた。それによると、大阪府では「君が代」斉唱時に起立しなかった教職員は21校、29人だったそうだ。また、東京都の卒業式では3人が不起立だったとのこと。
正直いって、この程度の教師しか不起立を貫けなかったことに大きな危惧と不安を感じてしまう。
さらに驚いたのは、大阪府が行った誓約書への署名捺印だ。2月末までの卒業式で起立しなかった府立高校の17人の教師を呼び出し、起立斉唱の職務命令違反と信用失墜行為を理由とした懲戒処分の辞令を渡したという。そして、服務規律に関する30分の研修の後に「今後、入学式や卒業式における国歌斉唱時の起立斉唱を含む上司の職務命令に従います」という書面に署名捺印させたそうだ。強制ではないというものの、見せしめと強要以外の何物でもない。
「日の丸」「君が代」問題というのは、基本的に「教育現場で強制すべきことか」ということだと私は考えている。卒業式や入学式でなぜ「日の丸」を掲げ「君が代」を歌わせなければならないのだろうか? 卒業式や入学式は個々の学校の行事であり、そこで国旗を掲げたり国歌を歌う必然性など何もない。校旗や校歌で十分なはずだ。疑問はここに突き当たるのだ。
東京都のあきるの学園高等部の卒業式で不起立を貫いた田中聡史さんは、週刊金曜日で不起立の理由を以下のように語っている。
「一つには、大阪の教師も悩んで闘っているので、東京での不起立をゼロにできない気持ちから。また、教育の場で強制はあってはならない。そういう現実を不起立を通して、生徒に見せたい気持ちもあります」
強制を人権問題と捉えているのだが、憲法で保障された思想・良心の自由からすれば当然のことだろう。日の丸・君が代を強制し、従わない教師を処分するという行為自体が憲法違反だと私は思っている。だからこそ、根津君子さんも自分の良心に従って不起立を貫き、それを処分する東京都と闘っているのだ。
私が小学校に入ったときも入学式や卒業式では君が代の斉唱があった。歌うのが当たり前だったので何の疑問も持たずに歌っていたが、考えてみれば歌詞の意味を教えてもらったことなど一度もない。何も分からないまま、強制的に歌わされていたのだ。「君が代」の「君」が天皇を指すと知ったのは高校生の頃だったろうか。国歌が天皇の歌であることに違和感をもったのは言うまでもない。
「日の丸」も「君が代」も、戦争を経験してきた人たちにとっては苦い思いしかないだろう。当時の人たちの大半は、まさに「お国のため」という大義名分によって戦争に行ったのだ。そして何の罪もない人々が殺人に加担し命を落とした。その国民のマインドコントロールに使われたのが「日の丸」「君が代」である。
このような「日の丸」「君が代」を国旗・国歌とすることに反感を持っている人が少なくないのは当然だ。血塗られた歴史を背負っているなら、一部の国民の賛同を得られないなら、国旗だって国歌だって変えればいいではないか。ところが、そういう国民的議論もなしに、国旗・国歌が決められてしまった。そして、教育現場での強制である。不起立はそれに対する教師の意思表示なのだが、懲戒処分によってそれが踏み絵となっているのが現状だ。処分は「思想・良心の自由」に基づいて強制に従わない教師への見せしめなのだ。こんなおかしなことがあっていいのだろうか? ところが、そんないわれのない処分に毅然として対峙する教師の何と少ないことか。ここに大きな危惧と不安を感じるのである。
教育現場というのは思想・良心の自由をもっとも重んじなければならないところだ。そして、はじめに書いたように卒業式や入学式といった学校行事に「日の丸」や「君が代」を持ち出す必然性は何もない。ならば何のために処分という見せしめまでして「日の丸」「君が代」の強制をするのだろう。
作家の辺見庸氏が何度も繰り返しているように、この国はひそかに「戦争ができる国」へと法律を変えてきている。それと並行して教育現場への「日の丸」「君が代」の強制が強まってきている。これは無関係ではないはずだ。
私は小学校で歌わされた「君が代」に何ら抵抗感も持たなかったし歌詞の意味も知らなかったと書いた。つまり、何もわからない子どもであるが故に国旗と国歌を教育現場で刷りこみたいのだろう。独裁者が国民を支配するためには国民をマインドコントロールし、独裁者に従うように仕向けなければならない。また戦争をするためには兵士となる若い人たちを支配する構図をつくらなければならない。国民への「刷り込み」や「騙し」が必要になる。「日の丸」も「君が代」も、「お国のため」という大義名分を刷り込ませるためには大きな意味をもってくるのだ。さらに不起立の教師を処分することで、子供たちに「決まったことに逆らってはいけない」と教え込むことになる。
太平洋戦争が終わったあと、学校では教科書に墨を塗らせた。今まで教えたことが間違いであったと子どもたちに教えねばならなくなったのだ。二度とこんな矛盾した教育を行うことがあってはならない。教え子を戦争に送ってしまったことで苦しんだ教師も少なくないはずだ。
あの戦争から私たちは何を学んだのだろう。国家に騙されてはならないことではなかったのか。あの戦争で「日の丸」「君が代」は何に使われたのだろうか? 子供たちや教師にそれらを強制することこそ、国歌の思惑があると警戒しなければならない。
だからこそ、教師は凛として自分自身の思想・良心の自由を貫いてほしいと思わざるを得ない。たとえ「日の丸」や「君が代」に違和感のない教師であっても、強制や懲戒処分という暴挙にはっきりと意思表示すべきではないかと思うのだ。
仮に教師の半数が不起立を貫いたならば、教育委員会はとても処分などしていられなくなるだろう。強制を許すか否かは教師一人ひとりの意思にかかっている。不起立を貫いた教師の真摯な想いを私たちはもっと深く考え受け止める必要があるのではなかろうか。
しかし、すでに国家の思惑すら感じ取れなくなっている教師も多いのかもしれない。非常に由々しきことだ。
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