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2012年4月

2012年4月28日 (土)

御用学者のカリウム被ばく論に騙されてはいけない

 昨日、松元保昭さん訳、矢ヶ崎克馬さん解説・監修によるECRR2010年勧告の概要が公表されたことを知った。

ECRR2010勧告の概要和訳 矢ヶ崎克馬解説・監訳(Peace Philosophy Centre)

 以下が本文。

市民版ECRR2010勧告の概要本文と解説前半

市民版ECRR2010勧告の概要本文と解説後半

 この和訳の特徴は、原文にない質問と解説が加えられていることだ。これによってICRPの問題点が浮き彫りになっており、ICRPモデルを元にして安心情報を振りまいている御用学者の誤りがよくわかる。質問と解説だけでも読む価値がある。

 また、御用学者たちがよく持ち出すのが自然界に広く存在するカリウム40による被ばくのことだ。人体内にはカリウム40が4000ベクレルほどあり内部被ばくを受けているのであり、食品による内部被ばくなどたいしたことがない、という説だ。これについてはこの和訳を引用しながら解説している以下のサイトの説明が分かりやすい。

ECRR2010年勧告の概要・和訳完成(膵臓がんサバイバーへの挑戦)

 重要な部分を引用しておこう。

4000Bqのカリウム40とは、人体内にはカリウム40の放射性原子が1.6×10^20個存在するということで、人体はおおよそ60兆個(6.0×10^13)の細胞でできているから、細胞1個あたり263万個の放射性カリウム原子がある。すごい数のように見える。しかし、細胞の寿命を平均して30日(260万秒)とすると、1秒で崩壊するカリウム原子が4000個であるので、260万×4000=100億回の崩壊が起きる。
つまり、60兆個の細胞のうち、その寿命の間にカリウム40からの放射線を受ける確率は100億÷60兆=0.00018=0.018%なのである。カリウム40からのベータ線をたまたま受けて細胞のDNAが切断されたとしても、短時間に同じ細胞に次のベータ線が照射されることはほとんどない。二重鎖切断も起きないからDNAは修復される。

一方でハットパーティクルといわれる100ミクロン程度の放射性物質(仮にストロンチウム90としておく)にはやはり100億個ほどの放射性原子が存在する。その放射能が仮に1Bqだとしても、毎秒毎秒1回のベータ線が照射され、それがごく近傍の細胞だけを攻撃する。細胞の寿命ないでは100億回の攻撃を受けるのである。DNAが切断されて、修復する暇もなく次のベータ線が飛んでくる。違いは明かだろう。全身にほぼ均等に分布しているカリウム40と、食物や呼気から吸収された”放射能の塊”を、シーベルトという単位で同じ値になるからといって、同じ影響であるはずがない。

 自然放射性物質であるカリウム40とホットパーティクルという微粒子の人工放射性物質を単純に比較するのは誤りであり目くらましだ。

 そして、福島の原発事故では関東地方にまでホットパーティクルが飛んできていることが、アー二ー・ガンダーセン氏の報告でも明らかになっている。多くの人がホットパーティクルを呼吸で体内に取り入れてしまったと考えるべきだ。御用学者の巧みな話法に騙されてはいけない。

 なお、ICRPの問題点については以下の記事も参考になる。

「被曝リスク基準」は信用できるか?(上)ICRPに欠ける「科学性」と「合理性」

2012年4月27日 (金)

失われゆく沼沢地の原風景

 25・26日に紋別方面に出かけた。雪の多かった北海道もだいぶ雪解けが進み、渚滑川や湧別川の河畔にはアズマイチゲの群落が清楚な花をつけていた。いよいよ春の到来だ。

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 25日の夜はコムケ湖畔の駐車場で車中泊をした。この季節、こんなところで泊まるような人はまずいない。夕闇の迫る湖面にハクチョウやカモたちの鳴き声が響き渡る。湖畔のヤチハンノキではノビタキがのびやかな声で囀っている。こんな景色を見ながら食事をするのはこの上ない贅沢だ。

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 私は山も好きだが、沼や湿原の風景もたまらなく好きだ。学生時代にシギやチドリを見るために全国の干潟や湿地をほっつき歩いたことも影響しているのかもしれない。とりわけ北国の荒涼とした沼沢地の風景は、はるか遠いシギの繁殖地の光景を連想させる。

 本州に比べたら北海道はまだ湿地や沼地が自然の状態で残っているのだろう。釧路湿原、サロベツ原野、浜頓別から猿払にかけての一帯、オホーツク海沿岸の湖沼地帯、十勝地方の海岸部にある湖沼地帯などなど・・・。とはいっても、沼の周辺の湿地は埋めたれられて農地へと変わってしまったところも少なくない。湿地の原風景は失われつつある。

 さらにがっかりするのがキャンプ場の出現だ。日本人は湖があるとキャンプ場をつくりたがる。トイレと炊事場だけの簡素なキャンプ場ならまだしも、たいていは立派な管理棟を造り、街灯を煌々と灯すのだ。シャワーまで付いているところもある。キャンプサイトは芝をはってきれいに整備されている。至れり尽くせりなのだが、せっかく野外で過ごすのになぜこんなに文明を持ち込んでしまうのだろう。

 結局、日本人のアウトドアなどブームにすぎないのだろう。だから、ブームが過ぎ去ればキャンプ場は閑散とし、維持管理費ばかりがかさむことになる。廃れてしまったキャンプ場も少なくない。だいたい所狭しとテントが並ぶキャンプ場では、隣のテントの人たちの声は筒抜けだし、夜中まで騒いでいる人も多い。こんなところにはタダでも泊まりたくない。こういう整備されたキャンプ場を利用する人たちは、自然の楽しみ方を知らないのだろう。しかも北海道はキャンプの季節など夏を中心とした数か月しかない。そのために大々的な施設を造るなど愚の骨頂だ。

 10年ほど前に行ったサハリンでは、人々は週末になると何の施設もない湿地のほとりや渓流のほとりにテントを張ってキャンプを楽しんでいた。彼らのほうがはるかに自然の楽しみ方、付き合い方を心得ている。

 自然の楽しみ方を知っている人なら、そもそも大規模なキャンプ場など造ろうとは思わないのではなかろうか。景観破壊、自然破壊でしかないからだ。結局、地元の町村はお客さんに来てもらいたいがために、キャンプ場などを整備するのだ。整備の先には必ずお金儲けがある。そうやって自然の原風景がどんどん失われていく。

 サハリンには北海道によく似た沼沢地があちこちにある。北海道で失われつつある原風景がまだ残されている。湖沼地帯に施設はいらないし、北海道に今残されている原風景をそのまま子孫に残しておいてほしいと願わずにいられない。

2012年4月24日 (火)

今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

 今日の北海道新聞のトップニュースは、泊原発が稼働しないと、この夏が猛暑だった場合は節電をしても3.1%の電力不足になり、平年並みの暑さでも電力が逼迫するという記事だった。まるで原発がないと「停電になるぞ」と言わんばかりだ。原子力ムラの連中は夏の電力不足を理由に、何が何でも原発を再稼働させたいらしい。この発想には「停電はあってはならない」という前提がある。

 しかし、そうだろうか? かつては、落雷などによる停電がしばしばあり、そんなときはロウソクや懐中電灯で過ごしたものだ。ガスが使えれば調理もさほど支障はない。数時間の停電ならたいして苦にはならなかった。

 私の住む十勝地方の僻地では、何年か前までは「作業停電」というのが時々あった。数時間は電気が使えないが、みんな仕方ないと思っていたし、とくに混乱もなかった。そういう時は、たまに電気のない時間に何をして過ごそうかと考えたものだ。

 今だって、雷や台風などで大都市が停電になることもあるし、大地震がおきても停電になる。自然災害による停電をすべてなくすことなど不可能だろう。病院など、停電になれば命に関わるようなところでは自家発電を持っている。

 それなのに、なぜ原発停止による停電をこれほどまで騒ぎ恐れるのだろうか? 数時間くらい停電になったところで、命の危険にさらされるような人はほとんどいない。電力会社はオール電化住宅を後押ししてきたが、それは原発をつくるためだったのだ。

 日本人は知らず知らずのうちに「停電はあってはならない」と思い込んでしまっているように思えて仕方ない。しかし、それは原子力ムラの連中による刷り込みではないだろうか。だいいち、猛暑で電力の需要が大きくなるようなときは「停電警報」でも発して節電を呼び掛けるだけでも電力消費量はかなり減らせるだろう。

 「停電」を持ち出して市民を脅す原子力ムラの連中を見るにつけ、学生時代に読んだ松下竜一氏の「暗闇の思想を」という本を思い起こす。九州電力豊前火力発電所の反対運動について記したのが「暗闇の思想を」だ。この本が出版された1974年は高度経済成長の真っただ中だったが、松下氏の「暗闇の思想」は今も色あせていない。というより、われわれ日本人は今こそ彼の言葉を重く受け止めねばならないのではないか。以下に一部を引用して紹介したい。

 あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱり答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の想いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならないという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造論政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電気需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならないという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに-誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

(中略)

 いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。冗談でなくいいたいのだが「停電の日」をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熟しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自律的なものでなければならぬという予感がしている。(松下竜一著「暗闇の思想を」朝日新聞社刊、158-161ページ)

2012年4月23日 (月)

放鳥トキのひな誕生から学ぶもの

 昨日、佐渡に放鳥したトキのひなが誕生したというニュースが流れた。自然界でのひなの誕生は36年ぶりだという。これまで繁殖に成功しなかっただけにあまり期待していなかったのだが、久々に嬉しいニュースだ。

 トキといえば私が子どもの頃から絶滅が危惧されていて、しばしばニュースに登場していた。江戸時代までは日本に広く生息していたというが、人間による乱獲や環境破壊は簡単に野生生物を絶滅に追いやってしまう。気がついたときにはすでに回復が難しいほど減少しているということになりかねない。コウノトリなどもそうだが、トキの事例はひとたび絶滅してしまった生物をふたたび野生に戻すことの難しさを物語っている。

 今日の北海道新聞朝刊に、今回のトキのひな誕生に関する記事が載っていたのだが、その記事の中の環境省の担当者が以下のコメントを寄せていた。

 「自然との共生という考えは浸透しつつあるが、保護のために農薬を減らすなど、地元の産業に負担をかけるケースも多い。地域にとってのメリットを探りながら、持続可能な形で続けることが大事だ」

 トキの保護のために農薬を減らすことが、地元に負担をかけるという発言がどうも引っかかってしまう。トキが減少した理由は、乱獲、トキが棲めるような環境の減少、農薬による餌動物の減少などがあると言われている。

 トキはドジョウやカエルなど湿地に生息する小動物を餌としている鳥なので、水田は格好の生息地となった。それゆえに田んぼを荒す害鳥とされて乱獲されたのだ。営巣には樹木が必要であり、水田と里山といった環境がどんどん減少したことに加え、農薬による餌動物の減少が絶滅に拍車をかけたのだろう。

 野生生物が安定して生きていくためには、何よりも生息環境が整っていなければならない。トキが普通に生息していた頃の環境に戻すことはできないとしても、営巣できる樹木を保全し、餌となる動物が棲める環境に戻していくことは可能だろう。地域が一丸となって地道な努力を続けなければ野生復帰もうまくいくとは思えない。

 トキの絶滅は人間の行きすぎた環境破壊への警告だ。近年の環境破壊は多くの種の絶滅をもたらしてしまった。それは自然にとって、生物の歴史にとって大きな損失なのだ。その反省にたつならば、減農薬が産業に負担をかけるという視点こそ変えていかなければならないと思う。

 農薬を減らした農業は大変な手間がかかるのは理解できる。しかし、そもそも毒物である農薬が生物である人間の健康をじわじわと蝕んでいくのは言うまでもない。しかも農薬は害虫に耐性をもたらし悪循環に陥るのだ。農薬に依存した農業から脱却するためにもトキの保護を契機にした減農薬、無農薬の取り組みは歓迎されることだ。

 トキのようには目立たないだけで、人間による環境破壊により絶滅の危機に追い込まれている生物は無数にいる。気づかないうちに、私たちの身の回りから多くの生物が姿を消している。気が遠くなるような時間を経て進化してきた生物が、ほんの短期間のうちに人間というたった1種の生物によって滅ぼされているのであり、地球の歴史にとってはとんでもない絶滅の時代を迎えているのである。生物の多様性の損失は、取り返しのつかないことであり人間の罪は大きい。

 トキの絶滅は身勝手な人間への警鐘である。その教訓を活かすことができなければトキの野生復帰に力を入れる意味もないのではなかろうか。

2012年4月22日 (日)

女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは・・・

 「弁護士と闘う」というブログがある。弁護士の非行や懲戒処分などについて報じているサイトだ。それを見ていてある記事が目に止まった。

植田忠司弁護士【埼玉】懲戒処分の要旨 

 この弁護士、同じ事務所に勤務する女性弁護士を負傷させたために日弁連から業務停止1月の懲戒処分を受けたという。体力的に自分より劣る(であろう)部下の女性に暴力を働いたのなら傷害事件でありパワハラだ。

 植田忠司弁護士という名前、どこかで聞いたことがある。たしか文芸社から本を出していた弁護士ではなかったか・・・。そう思って調べてみたら、太陽綜合法律事務所のホームページにご自身の略歴と著作が紹介されていた。

http://www.taiyolaw.jp/lawyer/index.html 

 「だまされて泣き寝入りしている消費者たち」(2005年9月刊)という本を文芸社から出している弁護士なのだ。Amazonの「商品の説明」によると債務整理の手引書らしいのだが、弁護士に依頼して解決することを勧めているようだ。早いはなし客集めの本ではないのか?

 この本ははたして企画出版(商業出版)で出されたのか、それとも協力出版で出されたのか気になるところなのだが、植田先生、文芸社という企業についてどれほどご存知なのだろう?

 文芸社に騙されて泣き寝入りしている人はかなりいると思うのだが、「だまされて泣き寝入りしている消費者たち」というタイトルの本をよりによって悪質商法を展開している文芸社から出しているのである。これはほとんどマンガではないか。この本が企画出版であるならうまく利用されたとしか思えないし、協力出版であるならあの契約書をどう理解したのだろう? もし共同出資ということに関して何も疑問を感じなかったのなら本当に不思議だ。

 どうやら植田弁護士はヤメ検(検事から弁護士になった人)さんのようだが、文芸社から本を出している弁護士というのは私にはどうにも不可解で仕方ない存在だ。

 ともあれ、女性に暴力をふるうなどとんでもない人権侵害だが、このような弁護士が人権を語るとは・・・。それに懲戒処分がたった1ヶ月の業務停止とは軽すぎないか。

2012年4月21日 (土)

原発はそれ自体が無責任の極み

 5月5日に泊原発3号機の運転が止まり、日本の原発がすべてストップする。泊がストップしたところで、私たちの生活は何も変わらないだろう。つまり電気は足りている。福島第一原発の事故のあとの東電の計画停電が、原発を維持するためのパフォーマンスであったことは間違いない。それどころか、原子力の平和利用などというのがそもそも偽善であり、人類の手に負えない原子力には決して手をつけてはならなかったのだ。

 福島第一原発の事故が起きる前、狭い日本でどうしてこんなに原発ばかり増えていくのか不思議だったが、何のことはない、すべて原子力ムラの人たちの利益のためだったのだ。なんだかんだ理屈をつけ、必要もない公共事業を生みだす構図と何も変わらない。しかし、他の公共事業と決定的に違うのは、原発の場合ひとたび大事故を起こせば世界が汚染され、人類を含めた地球上の生物が危険にさらされるということだ。

 とりあえずこの国のすべての原発が止まるのは喜ばしい。地震による事故のリスクが少し減るし、使用済み核燃料も増えないからだ。しかし、使用済み核燃料が原発の建屋にある限り、地震によってまた悪夢のような事故がおきる危険性はまったく変わっていない。この国は非常に危うい状態に置かれていることに変わりはない。

 たとえば4号機の燃料プールに関しては、日本より海外からその危険性への警告が発せられている。もし4号機が倒壊したなら日本は終わりだし、世界への影響も計り知れない。もはや世界中の人が黙ってみていられない状況なのだ。

カタストロフィー回避のためにアメリカの議員が動き出した(カレイドスコープ)

 東電はあの状態で「補強した」というが、傍目に見てもとても大きな地震や大津波に耐えるとは思えない。もっと全体をコンクリートで固めるなどの対策はできないのだろうか。いったい東電は何を考えているのだろう。この期に及んで、保身しか考えていないのだろうか。

 問題となっている瓦礫も、今後福一を石棺にするために使うのが合理的ではないか。あれを封じ込めるにはとんでもない量のコンクリートが必要だろう。しかし瓦礫利権によって全国を汚染させようというのがこの国なのである。

 そして、大飯原発を再稼働させようという人たち。彼らは表向きには「夏の電気が足りなくなる」ことを理由にしているが、それが嘘であることくらいよく分かっているはずだ。結局は原子力ムラの存続のためであり、お金なのだ。

 福島の事故が原因で一体何人の方が亡くなったのだろう。そしてこれから何人の方が亡くなるのだろう? 考えただけでも身の毛がよだつ。因果関係を証明できないだけで、すでに多くの方が亡くなっているに違いない。そんな状況なのに、これほどまでにお金に固執して原発を続けようとしたがる原子力ムラの住民たちにはほとほと呆れる。彼らは恥を知らないのだろう。

 そして彼らの無責任体質の極みは、使用済み核燃料の問題の先送りだ。今、地震大国の日本列島の原発には、おびただしい量の使用済み核燃料が行き場もないまま貯蔵されている。再処理も高速増殖炉も頓挫したままだ。大地震がきても使用済み核燃料を安全な状態で保管することが何よりも重要なのだが、いったい燃料プールからすべての燃料を取り出すのにどれくらいかかるのだろう。取り出したところで、頻繁に地震、火山噴火、洪水などの自然災害に見舞われる日本列島でそれを10万年も管理していかねばならない。想像すらできないことをしなければならない。それが原発というものなのだ。

 日本人はこの先ずっと危険と背中合わせに生きていかねばならない。人類はなんととんでもないものに手を出してしまったのかとつくづく思う。目の前の利益に目がくらんだ人は未来へのつけのことなど考えたくないのだろうが、それこそが無責任の極みだ。

 核燃料については以下の説明が分かりやすい。

小出裕章の「使用済み核燃料の再処理」の説明が、ウナるぐらいにわかりやすい! (ざまあみやがれい!)

 こういうことを考えたのなら、原発をつぎつぎと建て、湯水のように電気を使うことがいかに無責任であり罪なことであるかが分かる。いまだに原発にしがみつこうとしている人たちには率先して使用済み核燃料のお守をしてもらわねばならないだろう。

2012年4月18日 (水)

被ばく問題を取り上げないマスコミの罪

 先日、以下のツイッターを見つけた。

http://twitter.com/#!/kaori_sakai/status/191641397147877377
これは上杉さんも言おうか迷いながら仰っていたのですが・・・。実はおしどりマコ@makomelo さんが赤旗から執筆を依頼されたのだそうですが、被爆に関して書くのはNGなのだそうです。あの、赤旗でさえ、です。これはとても不気味な流れです。

 福一が爆発してからインターネットで喉の痛み、鼻血、下痢、紫斑などの症状を訴える人たちが大勢いる。体がだるいとか、脱毛というのもある。それらの症状のすべてが被曝によるものではないだろうが、原発事故以来、このような症状を訴える人たちが増えているのは明らかだ。

 「ぬまゆ」さんの症状も被ばくと関係しているとしか思えない。それにジャーナリストの岩上安身さんも被ばくと思われる症状が出ているという。

 それだけではない。ツイッターでは心筋梗塞などによる突然死の情報も頻繁に流れているし、東北や関東で葬儀場が混んでいて待たされるという話も複数流れていた。これらはチェルノブイリの原発事故のときにも人々を襲った症状と共通しているという。

 ところが、マスコミはこうした被ばくが関係していると思われる症状、話題はまず報じない。報じられているのは、甲状腺の検査をしたところ一部の子供たちに「しこり」や「のう胞」が見られた、というようなニュースくらいだろう。ICRPも放射性ヨウ素と甲状腺癌の因果関係は認めているので、国や自治体なども甲状腺の検査をしないということにならないだろうし、マスコミもそれについて報道しないことにはならない。ただし、甲状腺のしこりにしても「問題ない」という説明しかしない。子どもの甲状腺にしこりがあること自体が異常ではないのか?

 それ以外の被ばくに関する情報はまったくと言っていいほど報道していない。どうやらテレビや商業新聞だけではなく、赤旗も同じらしい。

 なぜマスコミは報道規制を敷いているのだろう? ひとつ考えられるのは、なんとしても過小評価をすることで責任を回避したい東電や国の意向を汲んでいるということだ。しかし、電力会社から広告をもらっている商業新聞はともかく、赤旗ならそんなことを考慮する必要がないのではないか・・・。

 もうひとつの理由として、健康被害は不安を煽りストレスになるから避ける、ということがあるだろう。赤旗とて、被ばくに関する記事を載せたなら、一部の読者から抗議や問い合わせなどがきて混乱することが懸念される。読者離れに繋がるかもしれない。

 しかし、不安やストレスを理由に報道しないというのはどう考えてもおかしなことだ。被ばくの恐ろしさ、被ばくによる症状などを恣意的に知らせないのは、被害者を増やすことでしかない。簡単に避難できない人にとっては確かにそういう情報はストレスになる。しかし、ストレスを理由に黙っているのは犯罪に加担するも同然ではないか。ことは大勢の人の命にかかわるのだ。

 そもそも国が汚染されている地域の住民を「避難させない」「自主避難しても補償しない」ことがおかしい。国の責任を棚に上げ、被ばくの危険を訴える人やメディアを問いつめたり攻撃するのはお門違いだ。避難によって症状がなくなった人は大勢いる。避難したり食べ物に気をつけるだけでも、結果はまったく違ってくるのではないだろうか。

 そんななかで果敢に福島の事故のことや被ばくに関することを取り上げているのが、ラジオの「たね蒔きジャーナル」だ。先日は、矢ヶ崎克馬さんの被ばくの話があったのだが、これは是非とも聞いてほしい。

1/2たね蒔きジャーナル「内部被曝の知られざる内幕」
http://youtu.be/T0S98cMQTO4 

2/2たね蒔きジャーナル「内部被曝の知られざる内幕」
http://youtu.be/ePYGw8YZs7Q 

 矢ヶ崎さんによると、チェルノブイリの西120キロから150キロくらいに位置する郡山市や福島市より汚染が低いような地区で、4年後くらいから病気が急増し、10年後には10人に1人が甲状腺の病気にかかり、がんも増加したという。

 チェルノブイリの事故では年5ミリシーベルト以上は移住義務区域、1ミリシーベルト以上は移住権利区域とし、移住義務区域のみならず移住権利区域から移住した人たちにも補償がなされたのだ。ところが、日本では年間20ミリシーベルト以下の地域に避難した住民を戻そうとしている。チェルノブイリの教訓を活かすどころか、逆のことをやっているのがこの国だ。食品の100ベクレルという基準値もドイツの基準の10倍以上なのだ。

 日本政府がいかに異常であり、いかに国民の命を軽視し、いかに無責任であるか再認識させられる。国の言うことを信じてはいけない。

2012年4月16日 (月)

内部告発の意義

 元文芸社社員で文芸社についての告発ブログを書いている「クンちゃん」、そして不当な退職勧奨のことでクンちゃんに情報提供をしている日本文学館(=文芸社)社員の西瓜谷南瓜さんに対し、いろいろな嫌がらせがあるようだ。たとえばクンちゃんに対しては嫌がらせコメントやメッセージが送信されているようだし、西瓜谷南瓜さんにも嫌がらせがあるらしい。

日本文学館=文芸社の西瓜谷(すいかや)さんに退職勧奨!成り行きを詳報 

 誰が嫌がらせをするのだろうか? ひとつは会社側の人間、あるいは同業者だろう。都合が悪いことを暴露されるのだから、腹いせに告発者に嫌がらせをするというのは分かる。でも、嫌がらせをするのはおそらく会社側の人だけではないだろう。

 「クンちゃん」は文芸社の元社員、「西瓜谷南瓜」氏は社員という事実がある。だから、自分のやっている(いた)ことを棚にあげて告発することを批判したがる人もいるのだろう。著者の立場の人なのか、あるいは2ちゃんねるなどに集って著者を「カモ」呼ばわりしている人なのか分からないが、業界関係者以外の人でも告発者を批判する人がいるのではなかろうか。

 しかし、私は悪質会社の社員に対して恨みのようなものはあまり感じないし、批判する気持ちもない。なぜなら、一社員が自社の悪質な商法について何とかしたいと思ったところで、内部から会社の体質を変えることなどほとんど不可能だからだ。悪質商法を行っている会社の責任は、ほぼ100%経営陣にある。

 それに、悪質商法をしていると知って入社する社員もほとんどいないだろう。入社してみたら、なにやら「人を騙すようなことをやっている」と気づき、罪悪感にさいなまれる人も多いだろう。しかし、新入社員が上司に物申すなどまずできないに違いない。良心が咎める人は辞めるという選択肢しかないし、生活のことを考えるとそう簡単に辞めることができない人だって多いと思う。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というが、新風舎の場合は罪悪感すらなくなっている社員もいたらしい。

 そして、文芸社では会社を辞めるときには内部で知り得たことを口外しないという誓約書を書かされるのだ。だから良心の呵責に耐えかねて辞めた社員は、退職しても口をつぐむしかない。たしかに社員が悪質商法に加担したことは事実なのだが、しかし見方によっては彼らも被害者ではないだろうか。

 警察の不正にしても然り。警察官はほぼ全員が裏金づくりという犯罪行為をしている。警察という組織にいる以上、犯罪と知りながら裏金づくりに手を染めるしかない。頑として裏金づくりに手を染めなかったのは愛媛県警の元警察官で、現職で裏金告発をした仙波敏郎さんくらいだろう。その仙波さんだって、裏金づくりに加担はしなかったが警察の不正を知りながら警察官を続けていた。巨大組織の悪に対して、個人が闘うことなど所詮無理なのだ。

 しかし警察官の中には、いつか裏金を告発してやろうと考え、不正に加担して裏帳簿などの証拠を手に入れるという人もいる。そうでもしない限り、個人が巨大な組織を相手に告発するなど不可能だし、証拠がなければいとも簡単に潰されてしまう。悪と闘うためには、時としてそういう戦略や覚悟が必要なのだ。

 警察の裏金もそうだが、悪質商法を続けていれば、いつかは内部告発をする人が出てくるものだ。それが「クンちゃん」であり「西瓜谷南瓜」さんだ。だから、私は彼らが悪質商法に手を染めていたとしても、そのことを責める気持ちにはなれない。彼らが会社を辞めたなら別の社員が同じことをするだけで、会社の体質は何も変わりはしない。もし少しでも会社を変えることができるとしたなら、あるいは被害者を少なくすることができるとしたなら、事実を告発するしかない。

 そして告発にはものすごく大きなエネルギーが要るのだ。匿名で告発者に嫌がらせをしたり批判する人は、そんな覚悟もエネルギーも責任感もないのだろう。だからこそ内部告発者には頑張ってほしいとエールを送りたい。

 「クンちゃん」や「西瓜谷南瓜」氏に嫌がらせをしている人たちに言いたい。悪質商法の諸悪の根源は経営陣にこそあるのだ。告発者に嫌がらせをしたところで、悪質会社の経営者を喜ばせるだけだ。そのことをよく考えてほしい。

2012年4月13日 (金)

形式敗訴・実質勝訴の受益者賦課金裁判の意義

 「広島地裁が受益者賦課金の市による肩代わりを違法と認定」でお知らせした広島の細見谷訴訟判決の意義について「細見谷に大規模林道はいらない」で報告されている。

形式敗訴・実質勝訴の判決-受益者賦課金への補助金支出は違法- 

 主文を引用すると以下。

主文
1 第2事件に係る訴えのうち,被告に対して,松田秀樹及び山田義憲に2 1 4 万7 6 3 9円及びこれに対する平成20年9月19日から支払済みまで年5分の割合による金員の賠償の命令をすることを求める部分をいずれも却下する。
2 第2事件原告らのその余の請求及び第1事件原告らの請求をいずれも棄却する。(以下略)

 確かに、主文だけを見れば損害金の返還を認めないという判決であり、訴えた住民側の敗訴だ。しかし、この裁判の目的は損害金の返還ではない。原告らは受益者賦課金を自治体が肩代わりして支払うということの違法性を問題にしたのである。

 そして、その違法性については明確に違法であると判断している。大規模林道という事業の公益性は認めてはいるものの、受益者賦課金(受益者は西山林業組合)を地元自治体(廿日市市)が負担することの公益上の必要性はない、という判断である。だから、実質的には原告の勝訴になる。

 林道事業は林業組合の利益になるがゆえに受益者賦課金が生じる。それを林業組合に代わって地方自治体が支払うことに合理性がないと裁判所は認定した。地方自治体自体はそもそも林道の受益者ではないのだから、これは至極当たり前の判断だろう。今までこうしたことが問題視されなかったのがおかしいといえばおかしいのかもしれないが、多くの市民がこのような実態を知らなかったと言うべきなのかもしれない。

 形式的には被告の勝訴なので被告に公訴権がない。原告も訴訟の目的は達したので控訴をせずに判決が確定した。これによって、「受益者賦課金の自治体による肩代わりは違法」という判例ができたのである。これは大きな意味を持つ。

 記事の筆者も書いているが、今後、同じような受益者賦課金の自治体による肩代わりについては「確たる公益性」を証明しなければならないだろう。

 たとえば、富秋地区国営かんがい排水事業においては、帯広開発建設部は「冠水被害の解消」や「国民の食料の増産」が目的だと説明してきた。しかし、排水事業によって収穫量が増えたことで利益を得るのは自治体ではなく農家である。だからこそ受益農家には事業費の5%という負担が定められているのだ。一部の農家の増収のために、自治体が税金を投入することに合理性があるのかが問われることになる。

 こうした税金による受益者負担の肩代わりは全国で行われており、無駄な公共事業の温床にもなっている。ただし今回このような判決が出たからといっても、市民が黙っていたなら自治体はおそらく賦課金の肩代わりを止めようとしないだろう。自分の住む市町村でこのような受益者賦課金の肩代わりが行われているのであれば、市民はどんどん住民監査請求をすべきだ。

2012年4月12日 (木)

矢ヶ崎克馬・守田敏也著「内部被曝」を読んで

 先日3日ほど東京に行ってきた。最近は本を買うこともあまりなくなったのだが、都心を通ったついでに気になっていた本を2冊購入した。一冊は矢ヶ崎克馬・守田敏也著「内部被曝」(岩波ブックレット)だ。今日はこの本について紹介したい。

 本書では守田敏也さんの質問に矢ヶ崎克馬さんが答える形で内部被ばくについての解説がなされている。5つの章からなり、各章のタイトルは以下。

第1章 被曝直後の福島を訪れて
第2章 内部被曝のメカニズム
第3章 誰が放射線のリスクを決めてきたのか
第4章 なぜ内部被曝は小さく見積もられてきたのか
第5章 放射線被曝に、どのように立ち向かうのか

 これらの解説の中から、重要と思われる点についていくつか紹介しておきたい。

急性症状と晩発性障害
 放射線被ばくによる症状には急性症状と晩発性障害がある。

 たくさんの放射線が身体に吸収されて、多量な分子切断が生じるとそれぞれの生命機能がうまく働かなくなることで脱毛、下痢、出血、紫斑などの急性症状が出る。分子切断が多量の場合は死にいたる。

 もう一つの晩発性障害は、分子切断が密集して起こり、それを修復する際に間違ったつなぎ直しをすることで遺伝子が組み換えられてしまうことによって生じる。これは内部被曝で増大し、がんや様々な病気、体調不良を起こす。

内部被曝の恐ろしさ
 原発事故で発生する放射線はアルファ線、ベータ線、ガンマ線で、それぞれ性質が違う。アルファ線は重い粒子で最もエネルギーが多く、大気中では45ミリメートル程度、体内では40マイクロメートル程度しか飛ばない。ベータ線は高速電子で、空気中では1メートル程度、体内では1センチメートル程しか飛ばない。ガンマ線は電磁波で、空気中では70メートルほど飛び、人体の体を突き抜けるが、分子切断は少ない。

 外部被曝はほぼガンマ線のみであるが、内部被曝の場合は体の中で発射される全放射線に被曝するため、外部被曝よりはるかに多くの被曝をすることになる。これが内部被曝の恐ろしさである。

 アルファ線は細胞の中で100分の4ミリメートル飛ぶ間に10万回の分子切断をし、ベータ線では10ミリメートルの間に2万5千回の分子切断をする。アルファ線の方が高密度に分子切断をするのだが、放射性原子の半減期を考えると必ずしもベータ線よりアルファ線の方が危険とは言えない。また内部被曝では生物的半減期も考えなくてはならないので、放射性原子の種類によって被曝の具体性が違ってくる。被曝を考える際には内部被曝について理解しなければならない。

ICRPの問題点
 内部被曝の影響を過小評価してきたのがICRP(国際放射線防御委員会)である。ICRPは「経済的・社会的要因」を考慮しているが、それは即ち核戦争や原子力産業の都合のことを意味している。つまり人の命を守ることを考えているのではなく、政治的な判断をしているということ。

 ICRPの評価を批判しているのがECRR(ヨーロッパ放射線リスク委員会)である。矢ヶ崎氏は「外部被曝と内部被曝を比較するならば、数百倍の危険性を見積もるべきだ」としてECRRの見解を支持している。

 ICRPの評価の元となっているデータは広島・長崎で集められたものとされているが、そこでは内部被曝による犠牲者を徹底的に隠してしまった。核戦略を進めるためには核兵器による放射線の長期の被害を隠さなければならなかったということである。また、核兵器以外で濃縮ウランを使う道が原発であった。原発と核兵器は表裏一体のものということだ。

放射能とどのように向き合うか
 矢ヶ崎氏の提言は、「悲観して恐怖のうちに汚染を待つのではなく、怒りを胸にしっかり収めて、開き直って、楽天的に、知恵を出し、最大防護を尽くしつつ、やるべきことはすべてやる」ということだ。避難、内部被曝を避ける努力、リスクの総量を減らし免疫力を上げる努力などだ。カルシウムをたっぷり摂ることでストロンチウムの骨への吸収を減らすなどという例もあげている。

 薄い本ですぐに読めるので、詳しく知りたい方はぜひ本書をお読みいただきたい。

 なお、福島から遠く離れている関東地方などでは被曝によって鼻血や下痢といった症状が出ることはないと主張している方がいる。たとえば、大阪大学の菊池誠氏だ。以下参照。

野呂美加さんと放射能対策 

野呂美加さんと「チェルノブイリへのかけはし」についてもう少しだけ 

 菊池氏は日本保健物理学会の見解を根拠に、関東地方などで鼻血や下痢の症状が出ることはないと断言している。以下がその日本保健物理学会の見解。

0.07μSvという空間線量率が継続したとして、これを年間の被ばく線量に換算しますと0.6mSv/yとなります。この値は直ちに健康に影響を与えるものではありません。また自然放射線による年間被ばく量の世界平均は2.4mSv/yです。日本平均では1.5mSv/y、またブラジル等では10mSv/yを超える地域もあります。
また、飛行機に乗るなど高度が上昇すると、宇宙線と呼ばれる宇宙から降り注ぐ放射線によって被ばくしますが、例えば東京-NY間を飛行機で往復する間に0.1mSv被ばくすると言われています(参考:放医研HP 放射線影響早見図 http://www.nirs.go.jp/data/pdf/hayamizu/j/0407-hi.pdf
)。このような自然放射線が鼻血などの原因とは考えられていません。
放射線被ばくによる紅斑(毛細血管拡張)が発症するのは、1回に受ける放射線量が3~6Gy(GyはSvと同じと考えてください。)のときと言われています。また、放射線影響研究所のHPに記載があるように、原爆被爆者の皮下出血といった急性放射線症についても同程度の線量で、被ばく後数日から数週間におけて起こったということです。これらのことから、0.6mSv/yという僅かな被ばく量の増加で、子どもの鼻血が増加するということはないと思います。
http://radi-info.com/q-1243/より引用)

 これに関して矢ヶ崎氏は以下のように説明している。

 体内にとりこまれた放射性微粒子が鼻の粘膜にくっついてしまえば、鼻の粘膜が集中して被曝します。この場合、外的に見て傷はないのに多量の出血をもたらす。目では認められにくい小さな傷がいっぱい作られているのです。同様に下痢や血便なども、ベータ線などの局所的に集中した被曝を想定すると、放射線を原因と考えうる根拠が明らかに存在します。
 もし外部被曝だけで同じ症状を出させるには、そうとう大量のガンマ線照射をしなければなりません。なぜならば、外部からまばらにしか分子切断をしないガンマ線の照射では、鼻の粘膜や小腸の壁に分子切断をする確率が非常に少ないので、多量のガンマ線を照射することが必要になります。
 これに対して内部被曝では、局所的に実効線量が高くなる被曝がおこなわれるのです。
 医師の方には、内部被曝による影響のいろいろなあらわれ方を、頭ごなしに否定することを、命を守る医師の使命にかけて、ぜひおこなわないでいただきたいのです。

 日本保健物理学会は外部被曝しか問題にしていないことがよく分かる。原発を推進してきた団体の調査結果を引用するなど、御用学会といってもいいだろう。菊池誠さんをはじめとする「ニセ科学批判」の方たちは、矢ヶ崎氏の見解をどう思っているのだろうか。

2012年4月10日 (火)

「作業員が語る福島第一原発」から見える実態

 ラジオ番組「たね蒔きジャーナル」で、報道特番「作業員が語る福島第一原発」という放送があった。以下がその番組。

1/4種蒔きジャーナル報道特番「作業員が語る福島第一原発」 

2/4種蒔きジャーナル報道特番「作業員が語る福島第一原発」 

3/4種蒔きジャーナル報道特番「作業員が語る福島第一原発」 

4/4種蒔きジャーナル報道特番「作業員が語る福島第一原発」 

 この番組は20人の作業員の方たちの生の声、そして京大の小出裕章さんと東工大の澤田哲生さんの対談によって構成されている。

 作業員はマスコミの取材を受けることを禁止されている。そして驚いたことに、グループの一人でも問題を起こしたなら連帯責任で全員を解雇すると脅されているそうだ。同僚を人質にし、マスコミの取材も受けないよう圧力をかけているのだ。

 だから、この番組で話をしている作業員も福一の具体的な状況にはあまり触れていない。きっと、言ってはいけないことが沢山あるのだろう。

 作業員の発言(要旨)をいくつか紹介しておこう。

・マスコミの取材に答えたらえらいことになる。
・崩壊寸前の建物の下で働くのであり、非常に壮絶。
・1~4号機は蒸気が出っぱなしで瓦礫だらけ。10センチ以上ある扉が曲がっていた。
・放射線に対する管理が甘く、指導が徹底していなかった。
・ヨウ素剤は14日飲むと検査がある。
・ヨウ素剤が何かわからなかった。
・全面マスクは蒸れて呼吸が困難。
・一日に1ミリシーベルトでブザーが鳴るが、30分もたたずに鳴ることもある。
・賃金は7割以上もピンはねされ、会社によって賃金が違う。
・いくらで雇われているのかお互いに聞いてはいけないことになっている。
・東電は何もかも隠そうとする。どこが線量が高いのかも分からず、体験してやっと分かるのが実態。
・線量が高く仕事ができる時間が20~30分くらいで作業が進まない。ものすごく進捗が遅い。
・2号機は何もしていない。どんだけヤバいの・・・と思う。
・野田首相の収束宣言は実態とあまりに違う。現場は何も変わっていない。
・現場を見て原発がどれだけリスクがあるものか初めて知った。まだやろうとするのが信じられない。
・将来がんや白血病になるかもしれないが、国は作業との因果関係を認めてくれるのか不安だ。
・原発の作業員だったことを知られたら差別されるのではないかと不安だ。

 東電は作業員に一日1万円の賃金を支払っているというが、6500円しか支払われず93%がピンはねされているケースもあるという。命を削り差別を覚悟しなければならない作業なのに、まるでアルバイト賃金と同じだ。東電はなんと無責任なことか。

 彼らがいなければこの国は終わっている。いまだに原発が必要だと言う人こそ作業員として現場に入って実態を知ってもらいたい。

 小出さんと澤田さんの対談はあえて紹介することもないだろう。澤田さんは女川や東海原発など、重大な事故を起こさなかった原発をみれば地震で壊れない原発の条件がはっきりするので原発の安全性を確立できるとし、韓国や中国への貢献を提言している。これに対し、小出さんは安全な原発などあり得ず、日本が手本を示して原子力から撤退すべきだと主張している。なお、澤田氏に関しては以下を参考にしていただきたいが、バリバリの原発推進派である。

澤田哲生(原発関連御用学者リスト)

2012年4月 8日 (日)

日の丸・君が代の強制問題に思う

 昨日届いた週刊金曜日に、大阪府と東京都の卒業式での不起立を貫いた教師に関する記事が掲載されていた。それによると、大阪府では「君が代」斉唱時に起立しなかった教職員は21校、29人だったそうだ。また、東京都の卒業式では3人が不起立だったとのこと。

 正直いって、この程度の教師しか不起立を貫けなかったことに大きな危惧と不安を感じてしまう。

 さらに驚いたのは、大阪府が行った誓約書への署名捺印だ。2月末までの卒業式で起立しなかった府立高校の17人の教師を呼び出し、起立斉唱の職務命令違反と信用失墜行為を理由とした懲戒処分の辞令を渡したという。そして、服務規律に関する30分の研修の後に「今後、入学式や卒業式における国歌斉唱時の起立斉唱を含む上司の職務命令に従います」という書面に署名捺印させたそうだ。強制ではないというものの、見せしめと強要以外の何物でもない。

 「日の丸」「君が代」問題というのは、基本的に「教育現場で強制すべきことか」ということだと私は考えている。卒業式や入学式でなぜ「日の丸」を掲げ「君が代」を歌わせなければならないのだろうか? 卒業式や入学式は個々の学校の行事であり、そこで国旗を掲げたり国歌を歌う必然性など何もない。校旗や校歌で十分なはずだ。疑問はここに突き当たるのだ。

 東京都のあきるの学園高等部の卒業式で不起立を貫いた田中聡史さんは、週刊金曜日で不起立の理由を以下のように語っている。

 「一つには、大阪の教師も悩んで闘っているので、東京での不起立をゼロにできない気持ちから。また、教育の場で強制はあってはならない。そういう現実を不起立を通して、生徒に見せたい気持ちもあります」

 強制を人権問題と捉えているのだが、憲法で保障された思想・良心の自由からすれば当然のことだろう。日の丸・君が代を強制し、従わない教師を処分するという行為自体が憲法違反だと私は思っている。だからこそ、根津君子さんも自分の良心に従って不起立を貫き、それを処分する東京都と闘っているのだ。

 私が小学校に入ったときも入学式や卒業式では君が代の斉唱があった。歌うのが当たり前だったので何の疑問も持たずに歌っていたが、考えてみれば歌詞の意味を教えてもらったことなど一度もない。何も分からないまま、強制的に歌わされていたのだ。「君が代」の「君」が天皇を指すと知ったのは高校生の頃だったろうか。国歌が天皇の歌であることに違和感をもったのは言うまでもない。

 「日の丸」も「君が代」も、戦争を経験してきた人たちにとっては苦い思いしかないだろう。当時の人たちの大半は、まさに「お国のため」という大義名分によって戦争に行ったのだ。そして何の罪もない人々が殺人に加担し命を落とした。その国民のマインドコントロールに使われたのが「日の丸」「君が代」である。

 このような「日の丸」「君が代」を国旗・国歌とすることに反感を持っている人が少なくないのは当然だ。血塗られた歴史を背負っているなら、一部の国民の賛同を得られないなら、国旗だって国歌だって変えればいいではないか。ところが、そういう国民的議論もなしに、国旗・国歌が決められてしまった。そして、教育現場での強制である。不起立はそれに対する教師の意思表示なのだが、懲戒処分によってそれが踏み絵となっているのが現状だ。処分は「思想・良心の自由」に基づいて強制に従わない教師への見せしめなのだ。こんなおかしなことがあっていいのだろうか? ところが、そんないわれのない処分に毅然として対峙する教師の何と少ないことか。ここに大きな危惧と不安を感じるのである。

 教育現場というのは思想・良心の自由をもっとも重んじなければならないところだ。そして、はじめに書いたように卒業式や入学式といった学校行事に「日の丸」や「君が代」を持ち出す必然性は何もない。ならば何のために処分という見せしめまでして「日の丸」「君が代」の強制をするのだろう。

 作家の辺見庸氏が何度も繰り返しているように、この国はひそかに「戦争ができる国」へと法律を変えてきている。それと並行して教育現場への「日の丸」「君が代」の強制が強まってきている。これは無関係ではないはずだ。

 私は小学校で歌わされた「君が代」に何ら抵抗感も持たなかったし歌詞の意味も知らなかったと書いた。つまり、何もわからない子どもであるが故に国旗と国歌を教育現場で刷りこみたいのだろう。独裁者が国民を支配するためには国民をマインドコントロールし、独裁者に従うように仕向けなければならない。また戦争をするためには兵士となる若い人たちを支配する構図をつくらなければならない。国民への「刷り込み」や「騙し」が必要になる。「日の丸」も「君が代」も、「お国のため」という大義名分を刷り込ませるためには大きな意味をもってくるのだ。さらに不起立の教師を処分することで、子供たちに「決まったことに逆らってはいけない」と教え込むことになる。

 太平洋戦争が終わったあと、学校では教科書に墨を塗らせた。今まで教えたことが間違いであったと子どもたちに教えねばならなくなったのだ。二度とこんな矛盾した教育を行うことがあってはならない。教え子を戦争に送ってしまったことで苦しんだ教師も少なくないはずだ。

 あの戦争から私たちは何を学んだのだろう。国家に騙されてはならないことではなかったのか。あの戦争で「日の丸」「君が代」は何に使われたのだろうか? 子供たちや教師にそれらを強制することこそ、国歌の思惑があると警戒しなければならない。

 だからこそ、教師は凛として自分自身の思想・良心の自由を貫いてほしいと思わざるを得ない。たとえ「日の丸」や「君が代」に違和感のない教師であっても、強制や懲戒処分という暴挙にはっきりと意思表示すべきではないかと思うのだ。

 仮に教師の半数が不起立を貫いたならば、教育委員会はとても処分などしていられなくなるだろう。強制を許すか否かは教師一人ひとりの意思にかかっている。不起立を貫いた教師の真摯な想いを私たちはもっと深く考え受け止める必要があるのではなかろうか。

 しかし、すでに国家の思惑すら感じ取れなくなっている教師も多いのかもしれない。非常に由々しきことだ。

2012年4月 3日 (火)

ぜひ読んで欲しい福島大学の被ばくに関する副読本

 「さつき」さんのブログで、福島大学が「放射線と被ばくの問題を考えるための副読本」を作ったことを知った。以下である。

https://www.ad.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a067/FGF/FukushimaUniv_RadiationText_PDF.pdf 

 監修をしている福島大学放射線副読本研究会は教員有志の組織とのことだが、福島大学の副読本は福島県立医科副学長の山下俊一氏とまっこうから対峙する内容だ。

 「さつき」さんも取り上げているのだが、この副読本の解説は的を射ており、御用学者らの安全・安心発言の危うさを的確に指摘している。

 とりわけ、「放射線は正しく怖がることが大切です」という主張に対する説明は非常に納得がいくものだ。以下に引用するが、結論は「正しい怖がり方」というものは論理的に成立しないというものだ。

■放射線は、正しく怖がることが大切です  
→このような表現には、多くの場合、「怖がりすぎるのは間違っている。心配するな」という見解が含意されています。
 ここでは、放射線の怖がり方に「正しい」ものがあるかどうかを考えましょう。7~8ページで見たように、高線量被ばくによる確定的な健康被害はとても恐ろしいものです。高線量被ばくのように危険性が分かっているものを「怖い」と思うのは「正しい」として差し支えないでしょう。
 一方、低線量被ばくについては、その影響は解明されていません。専門家でも、安全と考える立場から、小さくてもリスクはあるとする立場まで捉え方に幅があり、「正解」は出ていません。解明されていない以上、「正しい」怖がり方というのは論理的に成立しません。例えば、穴の深さが分かっていない「落とし穴」がある場合、10cmと考え安心する人や、10mと考えて心配する人など、誰の怖がり方が正しいかは判定できないのと同様です。つまり、「怖がりすぎ」を「間違い」と断定できる根拠はありません。

 非常にわかりやすい説明だ。もう一言付け加えるならば、チェルノブイリの事故によって低線量被ばくが深刻な健康被害を生じさせたとしているバンダジェフスキーの研究なども紹介してほしかった。

 もう一つ、放射能を気にするストレスのほうが問題だという意見だ。これは御用学者がよく主張していることだ。この副読本では以下のように解説している。

■放射能のことを心配し過ぎる方が、健康によくない
→文部科学省が2011年に公表した「放射能を正しく理解するために~教育現場の皆様へ~」などで、同様のことが述べられています。確かに、人間の精神的な状態は身体的な健康状態とも関連しますが、ここでは、「このような見解が、原発事故の加害者と被害者、どちら側に建つことになるか」という点について考えましょう。被害者のことを慮っての発言のように見えますが、本当にそうでしょうか。
 このような見解は、放射線の被ばくによる健康影響の原因を、被ばくした人の心の不安、つまり「被害者側」に帰着させます。そこには、「加害者の責任を見えにくくし、被害者へ転嫁する」という、倫理的な問題があります。例えば、次のような状況を考えてみましょう。あなたが傷害事件の被害者になってしまったとします。障害の程度は軽微で、「直ちに健康に影響が出るレベルではない」ものでしたが、再び同じような事件に遭うかもしれないことを不安に思っています。そのとき、友人が、「傷害事件を心配し過ぎる方が健康によくない。日本では、がんなどで死亡する人の方が多いんだから、自分の健康管理の方をしっかりすべきだ」とアドバイスしたとします。あなたはその友人のことをどのように思うでしょうか。
 誰が不安の原因を作りだしたのか、誰が責任を負うべきなのか、その最も重要なことを忘れて発言することがあれば、その言葉は被害者をさらに傷つけ、逆に加害者を助けることになりかねません。本当に被害者のことを想うのであれば、行うべき言動は、「あなたが被害者として不安を抱くのは当然のことです。加害者の行為を防ぎ、責任をとらせる対策を出来るだけやろう」と声をかけることではないでしょうか。

 これに付け加えるなら、心配をせず内部被ばくを避ける注意を怠ることで被害がより深刻化することを忘れてはならないだろう。

 がんによる死亡率についても、たいしたことはないという意見をよく聞くが、これについては以下。

■年間100mSvの放射線被ばくによるがん死亡者の増加割合は0.5%だから、たいしたことない
→0.5%は確率でいうと1000分の5です。福島第一原発の事故後に引き上げられた年間20mSvの被ばくの場合は、8ページで述べた閾値なし線形モデルで考えると1000分の1程度です。この確率の意味を考えましょう。
 福島県の人口約200万人で単純に考えれば、1000分の1は2000人に相当します。このような千人規模の命を奪うかもしれない確率を「たいしたことない」と言えるでしょうか。また、今回の大地震と津波は1000年に一度の規模とされています。その1000分の1の確率を想定の外において対策を行わずに事故を招いた人々に、1000分の1を軽視するようにアドバイスされるいわれはないでしょう。
 そもそも、確率が高かろうが低かろうが、実際に被ばくしている人に対して「許容せよ」と強要できるような倫理は成立するか、正義に敵っているか、そこから議論する必要があります。

 低線量被ばくでは発がん率のことがよく取り上げられるが、バンダジェフスキー博士が指摘しているように、放射性セシウムは心臓血管系の病気や免疫力の低下をもたらすという点も指摘してほしかった。がんが発症する前に、他の病気で亡くなる人も多いのだから、がんの確率だけを取り上げるのは不適切だ。

 リスク論もよく聞かれるが、これは以下のように説明している。

■放射線よりもタバコや自動車の交通事故の方が危険だ
→新副読本の教師用資料には、放射線の被ばくによるリスクと、他の日常的なリスク要因(喫煙、飲酒、肥満など)について、比較した表が掲載されています。これによると、例えば年間100~200mSvの放射線被ばくによってがんになるリスクは1.08倍で、それよりも喫煙や肥満などの方が高うなっています。がんになるリスクで見た場合は、日常低なリスク要因の方が高いと言えます。
 しかし、ここで考えるべきは、放射線被ばくと日常的なリスク要因を同列に扱うことが、果たして妥当かどうかです。ここでは少なくとも3つの論点が考えられます。1点目は、そのリスクを個人で管理できるかどうか、2点目は、そのリスクに伴う便益(ベネフィット)があるかどうか、3点目は、リスクの代替が妥当かどうかです。
 1点目について、喫煙や飲食、交通事故による死を避けるには、禁煙することや食生活に気をつけること、自動車に乗らないとことといった、個人での対応が可能です。しかし、放射線に汚染された地域では、その被ばくを完全に避けることは極めて困難です。つまり、リスクの制御可能性に大きな違いがあります。
 2点目について、喫煙や飲食、自動車の利用、あるいはレントゲンやCTスキャンの利用でも、目的をもってそれを行う人にとって、何らかの便益を得ることが可能です。このことは新副読本(高校生用)や教師用資料にも書かれています。しかし、放射能の汚染による被ばくは、何ら便益をもたらしません。リスクを比較するのであれば、その便益や負担の公平性についても、同時に考慮されなければなりません。
 3点目については、次のような例を考えましょう。あなたが病院で医者から「今日は無用な放射線を少し浴びてもらいましょう。なぁに、喫煙や肥満の方がリスクが高いですから、そちらを気をつけて下さい」と言われたとします。あなたは納得できるでしょうか。
 性質の異なるリスクの比較は、危険性の目安にはなっても、それを許容させる根拠にはなり得ません。
 ちなみに、ドイツの環境省が作成した原子力に関する副読本は、公平性にとても配慮した構成となっており、リスクを扱ったページでも、原子力に関するリスクが他の日常的なリスクに比べて相対的に低いと見せるような内容にはなっていません(Box5参照)

 若干不十分なところがあるとは思うが、全体的には大変分かりやすく公平な視点で書かれていると思う。

2012年4月 2日 (月)

協力出版は詐欺商法か? 文芸社刑事告発回想記 その4

理由がわからない不起訴の判断

 さて、告発してから何の音沙汰もないまま月日が過ぎていったのだが、告発のことも忘れかけた一年後に東京地検から一通の封書が届いた。7月11日付けの不起訴通知だった。

 私の頭の中に不信感が渦巻いた。検察はいったいどこまでまじめに捜査したのだろうか? まじめに捜査していれば、文芸社の請求費用の水増しくらい洗いだすことは難しくない。いったいどういう理由で不起訴なのか?

 不起訴通知とともに以下の書面が同封されていた。

 貴殿から告訴・告発した件につきましては、同封の「処分通知書」の記載のとおり処分しました。
 この処分の理由については、東京地方検察庁検察官あてに請求していただければ、速やかに書面にて告知します。なお、過誤の防止のため、貴殿からのこの請求も、書面によっていただきようお願いしています。
 また、この処分に不服がある場合は、東京地方裁判所(東京地方検察庁ではありません。)ないの検察審査会に対し、処分の当否について審査の申立てをすることができることとなっています。なお、これについても書面で行うこととされており、この書面では、審査の申立てをする理由を明らかにしてください。
 これらの請求については、いつまでにしなければならないという期限はありませんが、処分後余り長い期間が経過してしまいますと、記録が保存期間経過により廃棄処分されたり、また当該事件について公訴時効が完成して起訴が不可能となってしまいますので、その点留意してください。

 とりあえず、書面で理由を請求すると、不起訴処分理由告知書なるものが送られてきた。そこに書かれた理由とは「嫌疑なし」の一言である。こんなものが理由として通用するとは恐れ入る。文芸社の請求金額に利益が含まれていることは、渡邊さんの裁判の中で文芸社の小野寺潤氏も証言しているのだ。「嫌疑なし」とはいったいどんな捜査をしたのだろう? 頭に来た私は、担当検事に対して質問書を送付したのだが、もちろん回答はなかった。回答義務がないといえばそれまでだが、こんな理由で納得する者などいないだろう。

 検察審査会への申立もダメ元でいちおうやった。2005年(平成17年)8月25日付けで審査を申し立て、10月21日付けで不起訴処分は相当であるとの議決結果が届いた。検察審査会が検察の判断を覆すのは並大抵のことではないのではじめから当てにしていなかったから、これも致し方ない。

検察の判断は正しいのか?

 でも検察の判断はほんとうに正しいのだろうか? つまり、文芸社はほんとうに水増し請求をしていないのだろうか? 文芸社はちゃんと費用負担をしており、本が売れなければ利益が出ていないのだろうか?

 かつて渡邊勝利さんは私に、「文芸社の請求金額が実費だなんてことはありえない」と断言していた。業界関係者にとっては請求費用が実費ではなく、本が一冊も売れなくても利益が出る金額であることなど明白なのだ。東京地検がまともに捜査していたならこんなことを立証するくらい朝飯前ではなかったのか? だから私は、東京地検はまともに捜査しなかったのではないかと疑った。しかし、クンちゃんによるとそうでもなさそうだ。そんなことも調べられない捜査機関は無能だとしか思えないのだが、それとも文芸社側がうまくすり抜けたのか・・・。

 何年か前、北海道の上ノ国町の国有林で大々的な違法伐採があった。この森林窃盗をめぐり、市川守弘弁護士は函館地裁に森林法違反で刑事告発をした。はじめのうちは地検の反応は良かったという。ところが、結果は嫌疑不十分で不起訴になってしまった。森林管理署は伐根の調査も行っており証拠も十分だったのだから、まったくおかしな判断だ。どこかから圧力がかかったか、あるいは裏取引でもあったとしか思えない。この件に関しては以下を参照していただきたい。

上ノ国違法伐採告発の不自然な不起訴

 検察が不当請求を立証できなかったのはなんといっても残念だ。しかし、不起訴になってほっとしたという側面もある。もし立件されて詐欺罪になっていたら、恐らく文芸社は今存在していなかっただろう。そして「本もでなければお金も戻らない」という被害者をたくさん生みだしていたに違いない。それだけではない。社員は職を失い、下請けの会社も巻き添えを食っただろう。そう思うと非常に複雑な気持ちになる。

 さて、検察が不起訴にしたのだから文芸社は堂々と「わが社も費用負担をしている」「本が売れなければ利益は得られない」と断言し、「協力出版」を続けるのが筋だ。ところが、この告発のあと文芸社は協力出版という呼称を使うのをやめ自費出版と言うようになった。そして契約書の条項の費用の分担の部分を曖昧にしてしまった。著者の負担金の表記も「協力負担金」から「出版費用」になり、さらに「出版委託金」に変えた。委託契約ではないのに委託契約だと錯誤させる表現だ。こうしたことは共同出資ではなかったことを示唆している。

 その後、これまでの協力出版を「印税タイプ」とし、請負契約の販売型自費出版を新設して「売上還元タイプ」と命名した。当初、ホームページには「印税タイプ」と「売上還元タイプ」の違いを示す表を掲載し、「印税タイプ」はやはり共同出資を謳っていた。ところがこの表はその後削除された。共同出資ではないがために削除したのだろう。

 文芸社の刑事告発は不起訴に終わったが、しかしだからといって文芸社の商法が問題ないというわけではまったくない。私の目からみれば、今でも著者への請求金額は実費費用ではなく、不当請求としか考えられないものだ。出版社側にばかり有利で片務契約ともいえる契約だ。委託契約ではないのに、委託契約だと勘違いさせようとしている。原稿を褒めちぎることで著者を舞い上がらせる手法も相変わらずだ。大半の本がほとんど売れないことを知りながら、大量の本を作らせている。著者に知らせている販売数だって、実売数かどうか分からない。とてもまっとうな商法とは思えない。

 契約の際、著者に「売れることを期待しないでください」と説明すればいいというものではない。著者が金額に納得しているなら問題ないというものでもない。そういう著者の多くは請負契約だと勘違いしているのだ。売れないことが分かっているなら、販売前提の契約を勧めるべきではない。著者の大半は、書店に並べたり売れ残りを買い取る費用だって著者が出していることを知らないのではないか。印税だってそうだ。どうしても印税タイプを続けたいなら、文芸社も必ず費用負担するべきだ。この点で、「クンちゃん」の以下の主張には与しない。

・費用が高いのは、それを納得して支払う人については問題はない。一般にオーダーメイドは高い。ただし、契約の隅々まで、説明をつくして、すべて納得してもらう必要がある。
・著作が売れることは稀であることをきちんと説明する。 (
http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/5332f1892e27c8335b29706b52ec8386より引用)

 文芸社の社員は退職をする際に社内で知り得たことを口外しないよう誓約書を書かされると、だいぶ前にある元社員から聞いたことがある。だから内部告発者はほとんど現れないのだ。また、トラブルとなった著者には和解を提案し、合意書にはトラブルや和解の内容を口外しないという条項を盛り込むのである。だから、トラブルもほとんど発覚することがない。これによって悪質商法が続けられるのである。

 それでは文芸社のような悪質企業はどうしたらいいのだろう? ただ指を口にくわえて見ているしかないのだろうか? 私はそうは思わない。被害者は泣き寝入りをせずに声を上げつづけるべきだ。消費者センターや消費者庁に情報提供をするのもいいし、ブログに書くのもいい。違法行為があれば告訴だってできるだろう。

 また、内情を知る者による告発は大きな意味を持つ。誓約書を書いたといっても違法行為を告発するのは罪にならないのではなかろうか? こんな商法はおかしいと思い、良心の呵責に耐えかねて辞めた社員もたくさんいるだろう。是非沈黙を破ってほしい。この点では「クンちゃん」のような告発者を大いに支持するのである。

 最後に一言。これは文芸社に限ったことではない。同様の商法を行っている幻冬舎ルネッサンスなどにも当てはまることだ。こういうあこぎな商法は、いい加減に終止符を打つべきだ。

【関連記事】
協力出版は詐欺商法か? 文芸社刑事告発回想記 その1
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協力出版は詐欺商法か? 文芸社刑事告発回想記 その3

2012年4月 1日 (日)

協力出版は詐欺商法か? 文芸社刑事告発回想記 その3

詐欺罪に絞り込んだ告発
 ここで、東京地検への告発の主旨について簡単に説明しておこう。容疑は前の記事にも書いたように詐欺罪で、被告発人は文芸社社長の瓜谷綱延氏と私の契約担当者であったT氏である。

 文芸社は当時、企画出版・協力出版・自費出版の3つの出版形態を提唱していた。企画出版というのは商業出版のことである。自費出版は販売をしないタイプだから、本の制作請負契約だ。問題は協力出版である。文芸社が私に推奨してきたのもその「協力出版」だ。後に「創」2003年7月号に掲載された文芸社元スタッフによる「私が関わった『文芸社』商法の内幕」という記事で知ったのだが、実は作品の善し悪しに関わらず大半の著者に「協力出版」を勧めていたという。協力出版の謳い文句は出版社と著者の共同出資である。

 文芸社は契約書(当時)の第5条で「本著作物の初版発行にあたりその制作費・販売・宣伝に要する費用は甲乙双方の分担とする。甲は、乙に次項の通りの条件で協力金を負担する。」としている。文芸社からの書面では、著者の分担金は制作費と明記されているし、私が契約の際に要求して出させた内訳費用も制作費のものであった。

 また、文芸社の協力出版の契約書は日本書籍出版協会がつくっている商業出版の契約書(出版権設定契約)のひな型をベースにしたものなのである。だから本の所有権は出版社にあるし、著者には印税が支払われるのだ。

 協力出版の契約というのは「制作費を著者が負担する条件での商業出版」なのである。制作費以外の費用は文芸社が負担するのであり、本の売上金で文芸社負担分の費用を回収できないと赤字になるという契約なのだ。だから、一冊も売れなくても利益が得られるなどということはありえない。そういう契約だ。このことは契約する前にすぐに理解できた。

 商業出版における出版費用とは言うまでもなく出版社が出版のために負担する経費であり、もちろん実費である。ところが文芸社が私に提示した制作費の内訳の金額はとうてい実費などというものではなく、どう考えても水増しをしていた。たとえば、編集費は760,352円となっていたのだが、編集者はほとんど編集作業らしきことをしないまま印刷所に回してしまった。手抜き編集などで制作費の水増し分を大きくすればかなりの利益が得られ、文芸社はなにも費用負担しないで済む。つまり、本が一冊も売れなくても利益が得られることになるのだ。契約と矛盾が生じるのである。

 したがって水増し分は詐取であり、詐欺商法であるとの主張をしたのである。

 詐欺罪というのは人を騙して財物や財産上の利益を得る犯罪である。文芸社に関して言うならば、褒めちぎって舞い上がらせて契約を決意させるとか、あたかも本が売れるかのように錯覚させるなど「錯誤」を誘う行為がいろいろある。しかし、私は告発状を書くにあたり請求金額の不当性を中心に据え、勧誘による錯誤の問題はあくまでもこの主張を補強するための説明として付け加えた。水増し請求こそ協力出版問題の核心だと思っているからだ。出版社にリスクがないから半ば騙しのトークで勧誘するのだ。

 同じような契約形態で協力・共同出版を謳い、ちゃんと費用負担している出版社もある。そういう会社では、それなりに本が売れて負担分を回収できる見込みがある著作にしか協力・共同出版を勧めない。会社がちゃんと費用負担しているなら、悪質商法だとは思わない。そこが詐欺的か否かの分かれ目なのである。

 ところで印刷所の取引価格とか、編集者やデザイナーの賃金など、著者は知る由もない。したがって著者には詐取金額を正確に特定することなどできない。しかし、水増し請求を主張する以上ある程度の詐取金額は示すべきだと思い、文芸社と取引もある印刷会社の見積もり明細をもとに詐取金額の推定もした。この推定では印刷や製本などのハード面では40万円以上の水増しをしているとした。

 難しいのが編集費やデザイン費などのソフト面での水増し額だ。こちらはきわめて寛大な数値で推定をした。当時の年間の出版点数1600点を12で割り1カ月あたりの出版点数を出すと133点になる。これを編集、校閲スタッフの人数97人(渡邊さんの裁判で文芸社が提示した人数)で割って1カ月の一人当たりの担当冊数を出すと約1.4冊になる。スタッフ一人当たりの月給を50万円と仮定して私の本の編集費を出すと52万円となった。76万円の請求額と比べると24万以上の上乗せがあったことになる。

 デザイン費も他社の事例を参考にし、高く見積もって100,000円と仮定した。実際にはもっとずっと安いに違いない。ちなみに私に提示したデザイン費は354,177円だから25万円ほどの上乗せをしたと推定した。

 ただし、文芸社の賃金は安いというから、この数字を文芸社の職員が見たら、あまりに実態と違っていて目を丸くするに違いない。また、実際には編集者一人あたり月4冊くらいがノルマだったらしい。ちなみに、「クンちゃん」の以下の記事によると、文芸社の関連会社である日本文学館のある従業員の給料は「手取りで23万円」とのこと。実際の水増し額は私の推定よりずっと多くなるだろう。このあたりのことを知っている元社員などは、コメント欄で是非教えていただきたい。

http://blog.goo.ne.jp/92freeedition44/e/5332f1892e27c8335b29706b52ec8386 

 しかし、賃金水準もしらない外部の者が推定するのだから、このくらい甘く計算しておいたほうが無難だし、検察がまじめに捜査すれば賃金の実態くらい容易にわかるはずだと思った。

 このようにして推定した詐取金額は90万から130万円になった。常識的に考えても販売や宣伝の費用はこれで十分まかなえるはずだから、文芸社はまったく費用負担しておらず、一冊も本が売れなくても儲かるということが証明できるはずだ。だいたい、本が売れなければ赤字になるのであれば、文芸社はとうの昔に倒産しているに違いない。

 東京地検が告発状を受理したということは、こうした主張を認めたからにほかならない。捜査によって文芸社がなんら費用負担していないことを確認できれば詐欺罪として立件しなければならないだろう。

(つづく)

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協力出版は詐欺商法か? 文芸社刑事告発回想記 その4

 

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