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2011年11月30日 (水)

印象に残った名言をめぐって思うこと

 ツイッター上の名言と思うツイートや、本で読んだ名言フレーズを紹介している@together_meigenという方がいる。この名言の中には、ときおり思わず頷いてしまうものがある。先日、印象に残った名言に以下がある。

http://twitter.com/#!/together_meigen/status/141414621654429696
僕は人とのつき合いはその人の思想でつき合わない。そんなことしたら自分と同じ思想の人は一人もいないので友人も知人も一人もいないことになる。その人の人格でつき合うことにしている。いくら頭がよくて社会的地位があっても人格的にいただけない人とはつき合わない。(横尾忠則) 

 ツイッターでの発言を見ていると、各人の意見や思考だけではなく思想・信条や性格などまで伝わってきて興味深いものがある。そして、つくづく感じるのは、本当に一人ひとりが実にユニークな個性を持っているということだ。そんなことは当たり前なのだけれど、ツイートというのはそれがとりわけよく見えるような気がする。

 ツイートを読んでいると、多くの点で意見や感覚が一致するなあと思う人は結構いるが、100パーセント同じなどということは決してない。大筋は同じ意見であっても、必ずといっていいくらい自分とは見解が違う部分があるものだ。それがけっこう面白い。ツイッター上だけではなく、もちろん日々接している友人や知人もそうだ。意見や考え方が違うのは当たり前のことだ。だから意見や思想・信条が違うからといってその人と付き合わないということにはならない。

 しかし、今まで信頼していた人であっても、その人が人間として信頼できないことが分かったなら、付き合うのは止める。たとえば、自分の利益のために平気で嘘をついたり騙したりするタイプだ。こういう人間は一番嫌いだ。あるいは平気で人権侵害をするような人。著名だったり、まっとうなことを言っていても、セクハラ、パワハラなどをする人間とはとても付き合えない。また、あきらかに非があるのに、それを絶対に認めないで誤魔化す人なども付き合いきれない。そういう人は基本的に相手にしないことにしている。そう、「人格がいただけない人」はいくら意見が支持できても付き合う気はしない。

 たぶん自分の良心に誠実に生きている人、本音と建前の使い分けをあまりしない人、そんな人は意見が違っても信頼しあえるのだと思う。上記の名言はそのことをよく言い当てていると思う。

 もう一つ、思わずリツイートした名言が以下。

http://twitter.com/#!/together_meigen/status/140674650232467456 
人は批判ではなく期待に縛られる。期待は人前で見せている人格の延長線上にある。期待が膨らめば本当の自分を見せる事すら裏切りと取られる。嫌われるべき人になるべく早く嫌われておいた方がいい。好かれるのは結果であって目的ではない。(為末大)

 私は他人から期待されることを望まないが、他人に期待することも基本的にしない。そして何よりも「他人に良く見られたい」「嫌われたくない」とは決して思わない。他人の期待に応えるために生きているのではないし、あくまでも自分の気持ち、自分の良心を尊重して生きたいと思っているからだ。

 私はブログもツイッターも実名でやっているが、匿名で他人の批判をすることは決してしようとは思わない。社会的にある程度影響力のある人が、あまりにもいい加減な、あるいは無責任な発言をしていた場合は、名指しで批判もする。それで他人から嫌われたって構わないし、そんなことはちっとも気にならない。逆に、私を批判したいなら「どうぞご自由に」と言う。ただし、コメント欄で匿名でねちねち批判するのはお断りだ。そういうのは批判ではなく嫌がらせだ。ご自身のブログなどで正々堂々とやっていただきたい。だから「嫌われるべき人になるべく早く嫌われておいた方がいい」という言葉はとてもしっくりとくる。

 それともう一つ、ブログなどでまるで宗教の教祖のようになっている人がいる。自信たっぷりに自説を披露し、その人物をとりまく信者たちが賛同コメントを次々と入れて支持したり賞賛している。たまに反論のコメントが入ると、信者たちが寄ってたかって潰すのだ。批判的な意見は受け止めるものではなく潰すものらしい。私から見れば、とても非科学的であったりいい加減な主張をしていても、信者はその方を信じてやまないようだ。こうなるととても気持ち悪くて見ていられない。

 教祖も教祖だが、盲信している信者の人たちもどうかと思う。教祖は信者たちに期待されているという関係にあり、信者にとっては教祖の言っていることは何でも正しいのだ。信者たちは自分の頭で物事を考えたり、客観的に物事を見ることができないのだろう。そうしてしまう心の底には、教祖に嫌われたくないとか、同じ思考の人たちが群れることで安心感を得たいという思いがあるのだろう。人と意見が違っていたっていいではないか。違う意見を言って嫌われるなら、嫌う方が心が狭いと私は思う。

 「好かれるのは結果であって目的ではない」というのもまさにその通りだと思う。最近は「空気を読んで」周りの人の意見に同調することを好む人が多いようだが、私はとてもそんな息苦しいことはできない。私だったらそういう集団から出て行くか、あるいは自分の意見を言うべきときに言う。他の人と違うことを言ったら叩かれるかもしれない。でも叩かれて何が悪いんだろう。反論されて自分が間違っていたと思えば間違っていたと認めればいいし、自分が正しいと思えば貫けばいい。それが対話とか議論というものだろう。他人に合わせてまで自分を良く見せたいのなら、何のために?と思わずにいられない。自分を良く見せようと振舞っていたなら、きっといつも緊張していなければならないし、すごく疲れてしまうだろう。

 尊敬できる人間を思い浮かべたら分かることだが、そういう人は他人から好かれることを目的に行動しているわけではない。簡単には揺らがないしっかりした意志を持ち、他者への思いやりがあり、邪心がなく、真摯な姿勢で物事に取り組んでいる人ではなかろうか。だから、背伸びせず、周りを気にし過ぎず、自分自身に誠実に振舞っていればいいのだと思う。

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