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2011年1月29日 (土)

「山の挽歌」に「ふるさと上野の思い出」を追加

 昨年、実家で片づけをしていたところ、父の原稿が出てきた。パラパラとめくると、ふるさと上野にまつわる随想だ。そこで、おまけとして「山の挽歌」に追加掲載した。関心のある方はお読みいただけたらと思う。

ふるさと上野の思い出

 以下は、文末に添えた私の解説。

                  *    *    *

 2010年の秋、実家の片づけをしていたら、紙袋に入った父の原稿が出てきた。どうやら生まれ故郷である上野についての回想らしい。完成した原稿ではなかったが、上野に関する資料や家系のメモも一緒に入っている。ワープロでその原稿を入力し、つぎはぎをするようにつなげてみたのがこの随想である。この原稿を書いたのは父の母が亡くなった年だから、1989年、父が74才のときだ。
 父は大正4年生まれで、生家は上野広小路の「山崎屋」という油屋である。この油屋のことは「
ボン・スキー」にも出てくる。「上野一丁目一番地」という住所によほど思い入れがあったのだろう。そこから本籍を移すことはなかった。私も北海道にくる前までは、この上野一丁目一番地に本籍を置いていた。
 父の父、すなわち私の祖父は怪しげな宗教にはまり、それが家業の倒産にも影響したらしい。そんなこともあってか、父は宗教が大嫌いで徹底した無神論者だった。
 父の母、すなわち私の祖母のことは私もかすかな記憶がある。私たち家族が新宿に住んでいた6年ほどの間に、何回か訪ねてきたことがある。いつも和服で、物腰の柔らかい温厚で上品な人だった。それなりに恵まれた生活から一転し、家業の倒産という苦労と悲哀を味わった父にとって、母の存在は大きかったようだ。母への思慕は、「
」「こぶし」などの詩からも伝わってくる。
 人は誰でも生まれ故郷にいいようのない郷愁をもっているものだ。父は昔のことをほとんど語らなかったが、上野の杜にフクロウが棲みついていたことや、中学時代に校長先生に叱られ始末書を書かされたことなど、懐かしく話してくれたことがある。私がまだ子どもだったころ、父と二人で上野に行ったことがある。どこをどう歩いたのかはよく覚えていないが、動物園をひとめぐりしたあとに弁天様の裏の「地獄の音」が聞こえるという石の線香立てにも連れていき、石の穴に頭を突っ込んでその音を聞いた。たしかに、不気味な低い音がしたのを鮮明に覚えている。あのときもふるさと上野をしみじみと回想していたのだろう。
 父の子どものころとはすっかり変わってしまった上野だが、私にとっても上野公園や不忍池、谷中霊園は郷愁の漂うところだ。上野公園に取り残されたわずかな森や、ひっそりと佇むお寺などが、かすかにかつての面影を残しているのが救われる。
 幼児期の楽しい思い出と、青春時代の苦い思い出のつまった生まれ故郷のことは、父の頭から一生離れなかったのではないだろうか。その思いが74才の父を上野に向かわせ、この原稿を書かせたのだろう。

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