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2011年1月

2011年1月30日 (日)

三宅勝久著「債鬼は眠らず」があぶり出す悪徳貸金ビジネスの世界

 ジャーナリストの三宅勝久さんの著書は「『自衛隊員が死んでいく』が暴く凄まじい自衛隊の内実」でも紹介したが、昨年出版された「債鬼は眠らず サラ金崩壊時代の収奪産業レポート」(同時代社)もサラ金にまつわる凄い世界が描かれている。

 この本が出版されたのは、ちょうど昨年の秋に武富士が破たんし会社更生法を申請した直後。武富士の破たんはいわゆる「過払い」金の返還請求が経営を圧迫したなどと報道されてきた。しかし、この本を読むどうやらそんな単純な話ではなさそうだ。サラ金破綻の影に債権回収ビジネスの姿が浮かび上がってくる。

 すでに多くの人が知っていると思うが、サラ金業界は債務者(お金を借りた者)に対し、利息制限法で決められている利息の上限(年18%)を超える金利を請求してきた。つまり、利息を払いすぎている債務者が大半なのだ。この超過して支払った利息は、サラ金に対して返還を求めることができる。近年はこの過払い金の請求が増えたため、サラ金業界の経営を圧迫しているという。

 ここまではごく一般的な話なのだが、実は、債権が知らないうちに別の会社に売られてしまっていることがあるのだ。その場合、お金を借りたサラ金からではなく、別の会社から借金の請求がくることになる。過払い金があれば、本来それは取り返せるものなのに、ある日突然、まったく知らない会社から借金返済の取り立てがくるというのだからたまらない。これが債権回収ビジネスだ。

 サラ金の債権の中には回収不能の不良債権が多数入っている。それを隠して海外の会社に売り付け、日本の債券管理回収会社に回収させているという。国際的なマネーゲームが展開されているわけだ。そして、債権回収の際には違法な取り立てが行われている。つまり、過払い金があっても無視して取り立て、本人が返せないと親族をターゲットにするという無茶苦茶な取り立てだ。

 悪徳ビジネスを展開しているサラ金は、不動産を担保にして回収するという手法もとる。複数のサラ金から借金があると「おまとめ」と称し、不動産を担保にして借金を一本化させる。ところが、借金は膨らむばかり。そうやって行き詰まらせて担保をとろうというのだ。これを業界では「焼畑商法」というそうだ。やり方も凄いが、名前も凄い。

 サラ金業界の肩をもつ早稲田大学の教授の話も出てくる。サラ金は情け容赦なく債務者から絞りとれるだけ絞りとる。さらに、過払い金返還や債務整理を謳って、あこぎな商法を展開している弁護士や司法書士・・・。近年は債務整理を謳った法律事務所の広告をあちこちで見かけるようになったが、派手な広告を出している事務所は要注意だろう。債務者にとっては二重、三重の地獄が待ち受けていることになる。

 そして、今は奨学金の貸与がサラ金化してきているという。奨学金といえば、私も学生時代に日本育英会から奨学金をもらっていた。月額9000円だったから、それほど無理なく返還できた。しかし、今は貸出金額の桁が違う。月に12万円というコースもある。年額にしたら144万円。4年間借りたら576万円だ。卒業したとたんに、大変な借金を負うことになる。本書では、こうした奨学金ビジネスの裏側にも迫っている。

 この本が描きだしている世界は、労なくしてお金を得ようというマネーゲームの裏舞台だ。額に汗して働いている人々を食い物にし、お金を操ることで金儲けを企んでいるサラ金や関連ビジネスの恐ろしい罠だ。

 そして、三宅さんは最後にこう締めくくっている。

 回収がきつくなっているのは奨学金だけではない。国民健康保険、税金、公営住宅の家賃、NHK受信料-あらゆる「公的」な料金が、かつてない強い方法で取り立てられている。そして民間企業が関与を深めている。

 これが何を意味するのか筆者にはまだよくわからない。だが、サラ金崩壊の先に、国境を越え、役所と一体化した、より大規模な債鬼の襲来を予感するのである。

 そういえば、「これが国民年金の未納者対策?」にも書いたように、国民年金の取り立てもクレジット会社だ。

 そして、昨日の北海道新聞夕刊の桂敬一氏の「ニュースへの視点」というコラムを読んでドッキリした。そこには以下のように書かれていた。

 アメリカがTPPに託するもうひとつの狙いは、金融・流通・サービスの完全自由化だ。リーマン・ショックでギャンブル資本主義に懲りたはずのアメリカが、これらの市場での世界支配で起死回生を図ろうとしている、とみてまず間違いない。日本の郵貯も簡保も、今度こそ狙われるだろう。

 アメリカを中心に国際的な恐ろしいマネーゲームが展開されようとしており、日本もそれに飲み込まれつつあるのではないか・・・。アメリカの穀物メジャー「カーギル」が日本の悪質債権回収業者に資金を融資していたと、三宅さんの本にもあった。穀物メジャーなどは実に不気味な存在だ。三宅さんの予感は現実のものになろうとしているのではなかろうか。なにやら背筋が寒くなってきた。  多くの人に是非読んでいただきたい本だ。

 以下は、三宅さんのブログ。三宅さんは、杉並区の監査委員や選挙管理委員の不当報酬について、果敢に住民訴訟で追及している。

ジャーナリスト三宅勝久公式毒舌ブログ

鳥インフルエンザと大規模養鶏

 このところ毎日のように高病原性鳥インフルエンザに鶏が感染して殺処分したとのニュースが流されている。何万羽もの鶏を飼っている大規模養鶏場が多いから、あちこちで驚くような大量処分が行われている。そして、鳥インフルエンザを運ぶ野鳥に注意するよう喚起されている。

 もともと鳥インフルエンザウイルスは、カモなどの野鳥が昔から持っているものだ。鳥は昔からウイルスと共存してきたのだ。その鳥インフルエンザウイルスのうち、強毒性といわれるタイプが感染を繰り返して変異を起こすことで毒性が増し、人から人へ感染するタイプが生じた場合にいわゆるパンデミックが起きるといわれている。だから、繰り返して変異を起こす場がなければ、そう簡単に感染爆発が起きるとは思えない。

 今、養鶏場で殺処分が行われているのは、そこがウイルス変異の場となり、また人間に感染する場ともなり得るからだ。養鶏場の鶏の密度は尋常ではないから、いちどウイルスが入り込めば次々と感染して変異が生じる可能性が高い。鶏たちは信じがたいような密度でケージに詰め込まれ、生物の飼育場というより卵や鶏肉の生産工場と化している。こうした場所がパンデミックの震源地になりかねないからだ。

 しかし、ひとつの養鶏場で何万羽もの鶏をすし詰め状態で飼育していることこそ異常であり、不自然なのだ。人間が自ら強毒性鳥インフルエンザの発生源をつくりだしているようなものだ。結局、自然を無視した効率第一の大規模経営化の弊害が表面化したということだろう。

 これは鶏に限ったことではない。豚や牛などの家畜も同じだ。かつては牛の放牧は当たり前だったが、大規模化が進むにしたがって舎飼いにするようになった。最近は屋外に牛を放牧している酪農家はほとんど見ない。これでは牛のストレスが増加するだけだろう。しかも、輸入穀物に頼り、抗生物質に頼るというきわめて不健康な飼育をしている。家畜だって生物である以上、自然を無視したような飼育をしたらやがて問題が生じるのだ。鳥インフルエンザもそのことをわれわれに警告しているかのようだ。

 今こそ、大規模経営の見直しを図り、できるかぎり自然な飼育に方向転換していくべきだろう。そうしない限り、この問題は解決するとは思えない。ところがそのような視点で報道をするマスコミは見かけない。野鳥に近づかないよう、あるいは養鶏場に野鳥が侵入しないよう警告するばかりで、まるで野鳥が悪者みたいな扱いだ。

 同じようなことを考えている人は他にもいる。

ニワトリの飼い方をそろそろ見直すべきでは

鳥インフルエンザって、野鳥が悪いのか

2011年1月29日 (土)

「山の挽歌」に「ふるさと上野の思い出」を追加

 昨年、実家で片づけをしていたところ、父の原稿が出てきた。パラパラとめくると、ふるさと上野にまつわる随想だ。そこで、おまけとして「山の挽歌」に追加掲載した。関心のある方はお読みいただけたらと思う。

ふるさと上野の思い出

 以下は、文末に添えた私の解説。

                  *    *    *

 2010年の秋、実家の片づけをしていたら、紙袋に入った父の原稿が出てきた。どうやら生まれ故郷である上野についての回想らしい。完成した原稿ではなかったが、上野に関する資料や家系のメモも一緒に入っている。ワープロでその原稿を入力し、つぎはぎをするようにつなげてみたのがこの随想である。この原稿を書いたのは父の母が亡くなった年だから、1989年、父が74才のときだ。
 父は大正4年生まれで、生家は上野広小路の「山崎屋」という油屋である。この油屋のことは「
ボン・スキー」にも出てくる。「上野一丁目一番地」という住所によほど思い入れがあったのだろう。そこから本籍を移すことはなかった。私も北海道にくる前までは、この上野一丁目一番地に本籍を置いていた。
 父の父、すなわち私の祖父は怪しげな宗教にはまり、それが家業の倒産にも影響したらしい。そんなこともあってか、父は宗教が大嫌いで徹底した無神論者だった。
 父の母、すなわち私の祖母のことは私もかすかな記憶がある。私たち家族が新宿に住んでいた6年ほどの間に、何回か訪ねてきたことがある。いつも和服で、物腰の柔らかい温厚で上品な人だった。それなりに恵まれた生活から一転し、家業の倒産という苦労と悲哀を味わった父にとって、母の存在は大きかったようだ。母への思慕は、「
」「こぶし」などの詩からも伝わってくる。
 人は誰でも生まれ故郷にいいようのない郷愁をもっているものだ。父は昔のことをほとんど語らなかったが、上野の杜にフクロウが棲みついていたことや、中学時代に校長先生に叱られ始末書を書かされたことなど、懐かしく話してくれたことがある。私がまだ子どもだったころ、父と二人で上野に行ったことがある。どこをどう歩いたのかはよく覚えていないが、動物園をひとめぐりしたあとに弁天様の裏の「地獄の音」が聞こえるという石の線香立てにも連れていき、石の穴に頭を突っ込んでその音を聞いた。たしかに、不気味な低い音がしたのを鮮明に覚えている。あのときもふるさと上野をしみじみと回想していたのだろう。
 父の子どものころとはすっかり変わってしまった上野だが、私にとっても上野公園や不忍池、谷中霊園は郷愁の漂うところだ。上野公園に取り残されたわずかな森や、ひっそりと佇むお寺などが、かすかにかつての面影を残しているのが救われる。
 幼児期の楽しい思い出と、青春時代の苦い思い出のつまった生まれ故郷のことは、父の頭から一生離れなかったのではないだろうか。その思いが74才の父を上野に向かわせ、この原稿を書かせたのだろう。

2011年1月28日 (金)

頑張っているフリー記者と自由報道協会

 このところ記者クラブ問題をめぐって、フリーの記者が頑張っている。そして、とうとう「日本自由報道記者クラブ協会」が発足したという。以下の田中龍作さんの記事を参照いただきたい。

フリー記者らが「自由報道協会」を設立 

 この会のサイトはこちら

フリーランス・雑誌・ネットメディア有志の会

 設立準備会のメンバーは以下のページに掲載されている。

自由報道協会(仮)について

 第一回の記者会見のゲストは小沢一郎氏だ。小沢氏の以下の言葉は重要だ。

 「FCCJ(日本海外特派員協会)ではお互いに意見が違っても『あなたはそう考えるのか』と理解してくれる。ところが(日本の記者クラブメディアは)片言隻句を捉えて悪く書きたてるだけ」

 日本と海外の記者の姿勢の違いがはっきりと分かる。

 そして、笑えたのは記者クラブメディアからの出席者は誰もいなかったということだ。記者会見をオープンにしていても、名前を明らかにしてフリーランス主催の記者会見に出ようとする大手マスコミの記者はひとりもいないらしい。もちろん、ゲストが小沢一郎氏だということもあるのだろう。

 マスメディアの記者は恵まれた待遇にあるが、フリーの記者は大変だ。記事を掲載してくれる雑誌メディアなどがどんどん少なくなっているし、出版業界も倒産が相次ぎ低迷を続けているから本を出すのも容易ではない。そうした苦境の中で、権力・大企業と向き合い事実をきちんと掘り起こして伝えているジャーナリストの多くはフリーで頑張っている方たちだ。今やフリーのジャーナリストの方たちがいなければ、この国の真実は見えてこない。国民にとっては貴重な存在だ。

 自由報道協会の今後の活躍を期待したい。

チャンネル北国tvのお知らせ記事にトラックバックを送った

 「納得のいかないチャンネル北国tvのブログ削除方針」にも書いたように、チャンネル北国tvが長期間更新のないブログを削除する方針を決めた。

【重要】更新のないブログの削除について

 このお知らせによって、あわてて形だけ更新した方もいるようだ。でも、ブログを保存するために形だけ更新するというのもどんなものだろう。パスワードを変えられた「反米嫌日戦線」さんなどは、更新すらできない。

 チャンネル北国tvの事務局には利用者の意見をしっかり把握していただきたいと思い、上記のお知らせ記事にトラックバックを送った。更新のないブログを一律に削除してしまうというやり方は利用者へのサービス低下ではないかと思うのだが、皆さんどう思われるだろうか? 少なくとも、利用者がきちんと管理をしているブログ(更新がなくてもときどきログインしているブログ)、一人で複数のブログをもっていてそのどれかできちんと更新がなされている場合は、削除の対象から外してほしいと私は思う。

 規約の変更の権利はブログ運営会社にあるとはいえ、運営会社は利用者がいて記事に広告がつくからこそ成り立っているのだ。「方針が納得いかないなら出て行け」みたいな対応をしていたら、良質のブロガーは利用しなくなるだろう。ブログ運営会社は利用者を大事にし、いろいろな意見を聞くという姿勢をもってほしいと思う。

2011年1月27日 (木)

自殺の賠償金を認めない自衛隊「たちかぜ裁判」の判決

 「自衛隊のいじめ自殺事件を追求する『たちかぜ裁判』」でお知らせしたように、昨日、「たちかぜ裁判」の判決が横浜地裁であった。私は傍聴していないが、今朝の新聞記事の「海自隊員自殺国に責任 横浜地裁『先輩のいじめ原因』」というタイトルを見て一瞬勝訴かと思った。しかし、被害者遺族が求めていた1億3千万円の賠償金に対し、国と加害者に命じた賠償額はたったの440万円だ。水野邦夫裁判長は「先輩の暴行、恐喝が自殺原因」と認めたが、「上官らが自殺を予見できたとまでは認められない」として、死亡に対する賠償は認めなかったという。なんとも理解不能の判決だが、三宅勝久さんの解説によって、その意味が呑み込めた。

「自殺に追いつめた自衛隊の責任は認めるけどカネは払わなくていいよ」という横浜地裁の不可思議判決

 女性自衛官の人権裁判でも感じたことだが、日本では人権に関する意識がとても低く、損害賠償額が信じがたいほど低い。強姦に近いようなセクハラを受け、それを告発したら嫌がらせをされ、退職に追い込まれる・・・。裁判で闘えば大変な時間と労力、お金が必要だし、精神的な負担ははかりしれない。それなのに、この裁判で認められた損害賠償金額はたった580万円だ。勝訴とはいえ、金額の低さには愕然とした。

 今回の「たちかぜ裁判」は、上司のいじめを苦にした自殺だ。三宅さんも指摘しているが、交通事故による死亡でもこんな低額はありえない。遺失利益といって、その人が生きて働いていたなら得られた収入が損害賠償の対象になるのだ。ところが、今回の判決では自殺したことに対する賠償をまったく認めていない。440万円の慰謝料はいじめによる精神的苦痛と弁護士費用だという。どうしてこんな自衛隊を擁護する判決を出すのだろうと思うが、お上の顔色をうかがった判断なのだろう。

 暴行や恐喝が自殺の原因になったことを認めておきながら、自殺すると予測できなかったという判断はどう考えても矛盾している。こうした暴行や恐喝の被害者はほかにも複数いるし、暴行が行われていたことは多くの隊員が目撃していたのだ。予測できないわけがない。

 「たちかぜ」の加害者はさまざまな暴行を行っているのだが、その中でも特異的なのがガスガン・エアガンによる暴行だ。三宅さんの著書「自衛隊員が死んでいく」によると、ガスガンというのは充填したガスの圧力で樹脂製のBB弾を発射するもので、数メートルの距離からジュースのアルミ缶のアルミ板を貫通するほどの威力を持つそうだ。加害者は至近距離から隊員に連続発砲するという暴行を繰り返していたという。発砲を受けたある被害者は「苦しそうでとても物が言える状況ではなかった」そうだ。とんでもない暴行だ。加害者は数丁のガスガンや電動ガンを持ちこんでおり、「サバイバルゲーム」などと称した撃ち合いゲームもしていたというから、かなりの隊員に知れていたはずだ。船の中でこんな暴行を受けつづけていたなら、それを苦にした自殺が起きるのはまったく不思議ではない。

 いじめによって子どもが自殺するという事件が後を絶たないが、このようなときに学校側がきまって主張するのは、似たような屁理屈だ。まずは「いじめを把握できなかった」といい、次に「予測できなかった」という。しかし、しっかりと調査をすれば、いじめがあったことはすぐにわかるはずだ。いじめと自殺には深い因果関係があるのに、それを認めようとしないでみっともない自己保身をしようとする。そして、時には訴えた遺族が「金欲しさ・・・」などと誹謗されることすらある。

 しかし、いじめそのものやいじめを放置したことの責任をしっかりととり、職場環境が改善されない限り被害者は報われない。真実と責任を明らかにするためには被害者や被害者遺族が損害賠償を求めて訴えるしかない。こういう人権訴訟は被害者や被害者遺族だけのものではない。私たちすべての国民に関わることだ。

 国や大企業などを相手に裁判で闘うということの大変さは、おそらく経験した人でなければ分からないだろう。そうまでしても闘うというのは決してお金欲しさからでのことではない。不都合なことを隠し、責任のがれをする者に対する毅然とした抗いであり、人としての当然の権利の主張だ。

 われわれはこんな人権軽視の国に住んでいるのかと思うと背筋が寒くなる。控訴するというのは当然の判断だろう。

2011年1月26日 (水)

納得のいかないチャンネル北国tvのブログ削除方針

 今日、チャンネル北国tvから以下のようなお知らせが届いた。

こんにちは、チャンネル北国tvサポートセンターです。

このたび、チャンネル北国tvでは、サービス提供環境の改善のため、
長期間更新のないブログにつきまして、削除をさせて頂くこととなりました。
対象となるのは、以下の条件に該当するブログとなります。

≪2008年1月1日~2011年2月28日の間に、一度も記事投稿がないブログ≫

※削除されるのは該当するブログのみですので、会員IDは引き続きご利用頂けます。

※複数のブログをご利用の場合、上記条件に該当するブログのみが削除対象となり、
 条件を満たしていない(2008年1月1日以降に記事投稿があるブログ)は、
 引き続き、ご利用頂くことができます。

※現時点でブログの更新が止まっている方でも、
 2月28日までに記事を1件以上投稿頂ければ、削除対象とはなりません。
 ぜひ、この機会にブログの更新を再開頂ければと存じます。

今回のブログ削除は、活発にブログを更新して頂いている皆様に、

引き続き、価値あるサービスの提供をして参るための対応となります。
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 チャンネル北国tvでは、一人で5つまでブログを持てることになっている。私の場合、「鬼蜘蛛おばさんの疑問箱」と「山の挽歌」の二つを持っているが、ログインすると両者の管理画面を切り替えることができる。つまり、管理者が同一のブログは連携しているのだ。

 ところで、「山の挽歌」の方は、作品ブログだ。しかも父の遺稿集だから、ひととおり作品を紹介してしまったら更新することはない。最後の更新は2010年の3月だからすぐに削除対象にはならないが、いずれ削除されるということだろう。

 ブログ運営会社にとって、更新もされずにそのままになっているブログは、新しい広告はつかないし、メリットはないのかもしれない。ブログに飽きてしまったとか、管理人が病気になったり亡くなったりして更新できないという人もいるだろう。だから何年も更新されていないブログを削除して整理したいというのは理解できなくもない。

 しかし、ブログといってもその内容はピンからキリまである。たとえ管理人が亡くなってしまったブログでも、内容的に非常に意義の大きなものもある。たとえば、昨年亡くなられた黒木昭雄さんのブログなどだ。岩手県で起きた殺人事件の真相を追っているブログであり、たとえ更新がなくても存在意義は非常に大きい。黒木さんが亡くなられた後は関係者の方が管理を続けられているようだが、このように故人の遺志をついで家族の方が迷惑コメント・トラックバックを削除するなどして管理しているブログだってあるだろう。病気療養中の方で、ブログを更新したくてもできない方もいるだろう。ヤフーは個人的には好きではないが、更新のないブログでも削除はしていないようだ。しかし、チャンネル北国tvの方針では、こういうブログも削除の対象だ。

 納得いかないのはそればかりではない。複数のブログを持てるとしていながら、その複数のうちの一つを「更新がない」という理由で勝手に削除するということだ。複数のブログのうち、ひとつでもそれなりに更新しているのであれば、管理人は健在ということだ。一つ目のブログの画像の容量が一杯になったので、続編として二つ目、三つ目をつくった人もいるだろう。そういう人は過去のブログを削除されてしまうことになる。これはどう考えたって利用者の立場を無視したやり方だ。

 私が父の遺稿集を作品ブログとして残しておこうと思ったのは、冬野由記さんの影響が大きい。芸術家であり、作家でもある冬野さんはメインブログ「冬野由記のチャンネル」のほかに作品ごとにブログをつくっている。メインブログはきちんと更新されているが、脱稿した作品ブログは当然のことながら更新がない。しかし、冬野さんの作品ブログは存在していることに意義があるのだ。このようなブログを、更新がないという理由で削除してしまうというのはとても納得できない。これは排除に等しいのではないだろうか。

 長期間更新しなければ削除するということがはじめから分かっていたなら、ブログを作るときにチャンネル北国tvを選択しない人だっているだろう。

 チャンネル北国tvは、過去に「死ぬのはやつらだ」さんの「反米嫌日戦線」を追放した経緯がある。「やつらだ」さんはその後「反米嫌日戦線『狼』」で記事を書いているが、旧ブログは削除されてしまうのだろう。チャンネル北国tvは、古いブログもそのままにしているところが良かったのだが、どうやらそのメリットもなくなるようだ。

 チャンネル北国tvがブログを削除する理由は「サービス提供環境の改善のため」「活発にブログを更新して頂いている皆様に、引き続き、価値あるサービスの提供をして参るための対応となります」だそうだ。「サービス提供環境を良くする」「価値あるサービスを提供する」のに、どうして削除することになるのだろう。私にはサービスの低下としか思えず、「ご理解のほど、よろしくお願いいたします」といわれたところで、理解はできない。

 チャンネル北国tvを利用している方で、私と同じような疑問や不満を抱いた方は、事務局に意見を伝えるとか、ブログで意見を表明するなど、意思表示をされることをここに提案したい。また、チャンネル北国tvには削除の見直しをしていただきたいと思う。

【2月2日追記】
チャンネル北国はユーザーからの要望を受け、2月1日に方針を転換した。2月20日までに連絡をすると、削除対象から除外されるとのことだ。詳細は以下をお読みいただきたい。今回のチャンネル北国の速やかな対応については、評価したい。

「追記」【重要】更新のないブログの削除について

2011年1月25日 (火)

経済成長の限界

 前回の記事「ニセ科学と陰謀論」でも取り上げた「日本の科学者」2月号は、巻頭言でも大変興味深いことが書かれていたので紹介したい。

 今回の巻頭言は、早大名誉教授である北村実氏の「持続可能な経済か、それとも縮減か?」だ。以下がその要約。

 M・ワカナゲルらによると、地球の資源供給と汚染物吸収に必要な土地面積の指数(エコロジカル・フットプリント)が、1980年代に入る直前より1.0を上回るようになり、1999年には1.2強になったという。20年間で地球の扶養力を20%も上回っていることになる。さらに、デニス・メドウズらもワカナゲルらの結論を追認し、人類の決意次第ではまだ間に合うとの警告を発したそうだ。経済成長の限界である。

 こうした状況に対し、環境経済学者のハーマン・デイリーは、「成長なき経済」を提唱した。経済の量的拡大(増大)は不可能だが、質的改善としての発展は可能だというものだ。一方、経済哲学者のセルジュ・ラトウシュは、「経済の規模を徐々に縮小させ、本当に必要な消費にとどめることが真の豊かさにつながる」とし、発展を否定した退行主義だという批判を浴びた。私は持続可能な経済の現実的可能性を追求する、デイリーを評価したい。

 人類はもはや地球の扶養力を超えて食糧や燃料などの資源を食いつぶしており、人間の排出する温室効果ガスや有害物質は、地球の浄化作用を超えている。世界的に生じている異常気象などが、それを証明しつつある。このままの状態を続けていたなら、人類は破局への道を歩むしかないだろう。破局を免れるには、もはや経済成長を続けるという選択肢はない。とにかく早急な対策が必要だ。

 われわれは、デイリーのいうように経済の質的改善としての発展を維持しつつ量的拡大を止める路線をとるべきなのか、あるいはラトウシュのいうように経済を縮小させるべきなのだろうか?

 私は二者択一で考えることではないように思う。まず先進国は量的な経済成長を止める。戦争のような無駄な争いや消費、環境破壊は一刻も早くやめねばならないだろう。それと同時に徐々に人口を減らして経済活動全体を縮小させるような政策も必要だと思う。食糧の確保にしても、燃料の確保にしても、今の人口は地球が無理なく賄える規模を超えている。

 事態の深刻度から考えるなら、今は経済の質的改善に大きな力を注いている場合ではないのではなかろうか。少なくとも、十分な利便性を享受し贅沢な暮しをしている先進国の一部の人たちは、生活の質の低下もやむを得ないと思う。そして、ラトウシュの提唱する「本当に必要な消費にとどめる」という精神は、やはり生物の本質なのではないかとも思う。人間ほどお金と物に固執する生物はいない。その欲が膨れ上がれば、かならずしっぺ返しを受ける。だから、質素な生活をすることが退行だとは思わない。しかし、人の好奇心はつきないし、人類の暴走を止めるためにも科学の発展は必要だろう。

 それにしても、たった20年の間に私たち人類は地球の扶養力を20%も上回る活動をしていたというのが事実なら衝撃だ。今はさらに深刻な状態になっているはずだ。エコロジカル・フットプリントが1.0に近かった1980年という時代を振り返ってみたなら、日本の国民の大半は、中流意識のもとにそれほど貧困とはいえない生活を送っていたのではなかろうか。たとえ古くて狭い借家住まいであっても、住む場所を失うようなことはほとんどなかった。ところが、今は失業などによって路頭に迷う人が後を絶たず、1980年頃より苦しい生活を強いられている人だって少なくないだろう。

 多くの人が携帯電話だのパソコンだのといった便利な機器を持つようになったが、庶民の生活が経済成長に比例して豊かになったとは思えない。むしろ貧困層が増え、自殺者が増え、心を病む人が増え、無縁社会が広がった。いくら経済成長したところで、労働者は搾取されつづけ、環境は破壊され、人類は危機に立たされているのだ。経済成長によって誰が潤ったのか、得られた富はどこへ行ったのか・・・。大量のゴミを発生させた大量生産、大量消費とは何だったのか・・・。私たちひとりひとりが本当に必要な消費にとどめていたなら、こんな大変な状況にまでならなかっただろう。

 こんな危機が迫っているのに、政府はまだ事の重大性を理解していないようだ。地球や人類の将来より、自分の目先の利益の方が大事な人が多いらしい。

2011年1月24日 (月)

ニセ科学と陰謀論

 日本科学者会議発行の「日本の科学者」2月号の特集は「21世紀の科学リテラシー」だ。中でも興味深かったのは、江守正多氏の「地球温暖化論争を経験して、科学リテラシーについて思うこと」と、菊池誠氏の「ニセ科学問題から見た科学リテラシー」という論考だ。

 江守氏は、人為起源温暖化論を肯定する勢力と否定する勢力のせめぎ合いを、一般の人たちがどう捉えるべきかについて論じている。専門家ではない一市民が、肯定派の主張と否定派の主張に出会ったとき、どのような根拠でどちらの主張を信用するのかは、科学リテラシーやメディアリテラシーが深く関係してくる。

 そして、論理性、正確性、不偏性について主張を評価する必要があるという。しかし、実際に、専門家ではない市民が、これらについて吟味し判断するのは困難だ。したがって、判断を保留する市民が多いことについては共感できるという。ただし、「共感できないのは、否定派の主張を断定的に受け入れ、肯定派の主張を断定的に誤りと決めつける態度である。理性的な判断が難しい問題に対して、多くの専門家が支持する主張を断定的に否定する態度をとる背景には、組織的な否定派の影響を受けている可能性や、権威を批判したい、あるいは陰謀論を信じたいという誘惑の存在が想像できる」としている。

 地球温暖化についてはこのブログでも何回か取り上げている。私自身は専門的な数式等は分からないが、肯定派、否定派の主張を客観的に見るなら、肯定派の主張のほうが論理的に納得でき、説得力があると考えている。そして、否定派の一部の方が主張する「陰謀論」については、大いなる疑問を感じている。もちろん、否定派の方たちの主張がすべて間違っているとは思わない。しかし一部の主張が正しいからといって、全てが正しいというわけではない。

 とりわけ陰謀論が先にあり、人為起源温暖化論を主張する国の研究機関の人たちをひとからげに御用学者呼ばわりするような否定派・懐疑論者の方たちは理解できない。冷静に考えたなら、専門家の方たちが一致団結して御用学者になっていることなどあり得ないだろう。江守さんの主張はもっともだと思う。

 菊池さんの論考も面白い。ニセ科学として、たとえば「水からの伝言」を挙げている。私は「水からの伝言」という言葉は聞いたことがあるが、具体的にどういうことなのか知らなかった。はじめから関心がなかったということだ。私と同じように知らない人のために、菊池さんの説明を引用しよう。「これは、水に『ありがとう』という言葉を見せてから凍らせると樹枝状に成長したきれいな結晶ができ、『ばかやろう』という言葉を見せたのではそのような結晶にはならないという説である」ということだ。

 いやあ、この説明を読んで驚いてしまった。水が言葉を理解して結晶の形を変えるなんて、逆立ちしたってありえない。こんなことを信じる人がほんとうにいるのだろうか。しかし、それを実証した写真集によって、大きな評判になったという。科学的な教育を受けているのなら、水が人間の言葉を理解するなどということを疑うのが当然だろう。本に書かれていることが真実とは限らない。嘘でたらめを書いている本など世の中にはたくさんあるだろう。写真集の実験を信じるかどうかは、本来それを見る人が考えなくてはならないことだ。ところが、これを小学校の道徳教育に使い、いい言葉を使うように指導した教師がいたというのだからたまげた。

 ほかにも、民間療法のホメオパシーや9.11の陰謀論、理系の専門教育を受けた信者がオウム真理教を受け入れていたことなどについて、紹介している。9.11については、確かにインターネットなどでは根強い陰謀論があるようだ。つまり、米政府による自作自演説だ。週刊金曜日などでも、米政府の中枢の人たちがあの事件を事前に知っていたという証言を取り上げていた。そのことは事実かもしれない。しかし、事前にテロを察知していたことと、事件そのものが米国の自作自演であるというのはまったく別のことだ。そこはきっちりと切り離して考えるべきだ。

 何を信じていいのかわからない一般の人にとって、陰でまことしやかに囁かれる陰謀論というのはちょっと魅力的なのかもしれない。なんだか推理小説みたいだし、誘惑にかられるのはわかる。たしかに世の中には陰謀といえることがしばしばある。しかし、だからといって不可解なことに対してすぐに陰謀論を持ち出すのは著しく論理性に欠ける。ところが、陰謀論こそ正しいと信じて、他の主張を受け付けない人もいる。それは、ときとしてほとんど宗教のようになっている。しかし、ニセ科学の場合「信じるものは救われる」で済むはなしではない。「信じるものは騙される」のである。そして、場合によっては破滅に向かう。

 今、私たちのまわりには情報が氾濫するようになった。わからないことはすぐにインターネットで調べることができる。しかし、紙のメディアの情報であれ、インターネットであれ、その情報をそのまま鵜呑みにしてしまうのはとても危険だ。何が正しいのか、何を信じるべきなのかは自分の頭で考え判断していかなければならない。だからこそ、科学リテラシーが必要なのだ。ところが、この国の教育はそういうことを重視しているとは思えない。この国に科学リテラシーが根づく日がくるのだろうか。

2011年1月23日 (日)

石川議員の事情聴取で功を奏した佐藤優氏のアドバイス

 昨日の北海道新聞夕刊のコラム「各自核論」に、佐藤優氏の「検察捜査可視化先取り」という記事が掲載されていた。

 佐藤氏の主張を要約するとこうだ。

 石川知裕衆議院議員が昨年5月に東京地検特捜部の事情聴取を受けたとき、聴取の全過程を録音していたのだが、ICレコーダーで録音することを勧めたのは、筆者(佐藤優氏)だ。石川氏はそれを実行した。担当検事から「録音していないよね」と確認されたが、石川氏は録音した。検察庁は公にはリークを否定しているが、担当検事は「今回のうちからのリークはひどいね」と、検察リークを認める発言をしている。取り調べでは検察官と被疑者・参考人は対等ではなく、任意の取り調べを検察官の了解を得ずに録音するのは違法行為ではない。この事情聴取では、陸山会の土地購入費に充てられた小沢氏からの借入金4億円について、石川議員が「違法な資金と思わなかった」と供述すると、「それじゃ上が納得しない」と検事が説得したという。また、石川氏が規則に起訴内容を大筋で認めておきながら、その後否認に転じたことについて「これは検察審査会向けの取り調べなんだ。違う供述をすると、審査会の印象が悪くなる」などとただした。石川氏の裁判で、取り調べの可視化が先取りされ、国民に取り調べの実態を知る機会が得られた。

 ここから浮かび上がってくるのは、検察官の強引な誘導だけではない。検察は取り調べの内容をリークし、世論誘導をしていたということだ。マスコミを利用した国民の騙し行為が明瞭になったのだ。

 そして、検察審査会とグルになっているのではないかと思わせる取り調べだ。検察審査会というのは検察が起訴しなかった事件に関し、検察の判断の妥当性を審査する機関であり、無作為に抽出された11人の国民によって構成される。検察官による不当な不起訴などを抑制する目的があり、検察からは独立していなければならない。だから、検察官が「検察審査会向けの取り調べ」などということ自体が、非常に不可解だし怪しい。検察が起訴できなかった事案を起訴すべきだとした第5検察審査会の独立性を疑わせるものだ。あの第5検察審査会のメンバーはいったいどうやって選ばれたのだろうか。

 この佐藤氏の記事ひとつから、特捜検察が自ら描いたストーリーに合うように強引に被疑者を誘導し、さらにマスコミを利用して世論誘導しているという、とんでもない組織であることがうかがい知れる。今回の佐藤氏による石川氏へのアドバイスは見事に功を奏したのである。

 それにしても、こういう重要な話題のほとんどが有識者などによる「コラム」としてしか掲載されない。新聞自身が、検察リークによって世論誘導をしたからだろうか。そして、新聞は相変わらず小沢氏の「政治とカネ」をやり玉に挙げているのだ。佐藤氏のコラムを掲載している新聞社は、どういう感覚をしているのだろう。

2011年1月21日 (金)

人間関係の希薄化が生んだ鉄道ファン

 昨日のNHKクローズアップ現代は、鉄道ファンについてだった。最近、鉄道について関心を持つ人が増えているらしい。「鉄道マニア」ではなく「鉄道ファン」と書いたのには理由がある。なぜなら、テレビに出てきた人たちは、いわゆる「鉄道マニア」と呼ばれる人たちとは明らかに違うという印象だったからだ。

 私のいう「鉄道マニア」は、どちらかというと大勢を好むのではなく、一人でマニアックに楽しむという人たちだ。暑かろうが寒かろうが、ローカル線などを尋ねて線路脇でカメラを構え列車が来るのを待っているとか、日本中の列車に乗って乗車券をこつこつと集めるとか、各地の廃線跡を歩くとか・・・。こういうことは大勢でわいわいと楽しむものではない。どちらかというと一人とか数人でひっそりと楽しむ趣味だ。

 私が学生だった頃、野鳥を見るために全国を旅行した。ザックを背負い三脚つきの望遠鏡を肩にかついで、海岸の草地や湖沼、干潟など、普通の人が行かないようなところをひたすら野鳥の姿を求めてうろうろしていたのだ。その望遠鏡を望遠カメラと間違えて声をかけてくる人がときどきいた。特に、線路の近くを歩いていると、列車の写真を撮る鉄道マニアと間違えられた。よほど物好きな旅行者に見えたにちがいない。

 今ならバードウオッチングといえば誰もが不思議に思わないだろうが、当時は写真を撮るわけでもなくただ野鳥を見るだけという趣味に、いかにも不可解な顔をする人が多かった。野鳥を見て歩くのも特異な人だろうが、列車の写真を撮る人も特異だった。

 ところが今回テレビに出てきた人たちは、それとはずいぶん雰囲気が違う。いつもと違う電車に乗ったことがきっかけで車窓からの風景に魅せられ、大学の鉄道関係のサークルに入ったという女子学生。鉄道マニアの社会人と一緒に鉄道の旅をする小学生。鉄道ツアーに嬉々として参加する女性・・・。鉄道そのものに強い関心を求めるというより、鉄道を通じて人と人とのつながりを求めているのだ。

 鉄道を通じて人と人との関わりを築こうとする人が増えているということは、とりもなおさず社会での人間関係が希薄になっているということの証だろう。無縁社会になってきているのだ。社会の閉塞感は一向に改善されないし、「空気を読む」という神経をつかう人間関係の中で人々は孤立している。鉄道ファンという旅行を伴った趣味は、そうした孤独から抜け出して新たな人との出会いを求めたり、気持ちをリフレッシュするのにはとてもいいのだろう。

 そういえば、昔は旅をするというのはまさに人と人との出会いだった。いっときの出会いと別れであっても、そこには温かい心の交流があった。今の社会にはそれがほとんどない。一人で悩みを抱え込んだり、インターネットのバーチャルな世界にのめりこんだり、ひたすらメールで繋がっていようとしたり・・・。これは人としてとても健全な状態とは思えない。  ここまで書いて、ブログで公表した父のエッセイを思い出した。旅先で心惹かれる女性との出会いを描いた作品と、その女性との別れを綴った作品だ。一昔前はこんな出会いがどこにでもあったのだ。よかったら、是非読んでいただきたい。

トベラの島 

青春挽歌 

 「旧き良き時代」とひとくくりにするのは好きではないし、懐古趣味に陥りたくないとも思うが、やはり人との関わりが希薄な時代になり、無縁社会がじわじわと広がってきているのは確かだろう。とはいえ、なにも鉄道ファンにならなくても人と人との交流はできるはずだ。

2011年1月20日 (木)

米国追従しか頭にない菅総理への怒り

 天木直人氏が、ご自身のブログで東京新聞の「こちら特報部」の記事のことを書いている。ウィキリークスが暴露した米公電の中に、米国が鳩山-小沢民主党政権を切り捨てて、菅民主党政権を傀儡化しようとしていた証拠が明らかにされているという。天木氏のブログ記事は以下。

ウィキリークスが暴露した米公電が示す、米国が小沢・鳩山を切り捨てた瞬間

 国民が自民党政権から民主党政権への転換を求めてそれが実現した一昨年、はじめのうちこそ八ッ場ダムなどの無駄な公共事業の中止を明確に打ち出したし、普天間基地の移転問題でもまだ期待が持てた。しかし、普天間問題は何も解決せず、相変わらず小沢氏攻撃が続けられている。その背景に米国の圧力があるのは当然だろう。どうやらウィキリークスがそれを暴露したらしい。

 私自身は小沢一郎氏という政治家そのものを支持しているというわけではない。しかし、姑息な手法で小沢氏の政治家生命を絶とうとする一部の人たちの汚いやり方には、大いに怒りを感じる。検察が起訴できないのにも関わらす、検察審査会を利用して強引に起訴に持ち込む不可解な人物。小沢氏排除に懸命な菅首相。そして、裏を報じずに「政治とカネ」を持ち出して小沢氏を叩くマスコミも同罪だ。

 今の米国追従の菅政権を見ていると、米国の忠犬のごとく振舞っていた小泉氏と何も変わらない。大型公共事業はまた復活しそうだし、与謝野氏を起用したあの閣僚人事には呆れる。民主党は今や消費税の増税やらTPPへの参加など、とんでもない方向に進みつつある。沖縄の人々を裏切っただけではなく、国民全体に対する裏切り行為だ。

 小泉元首相の米国追従の政治が一体私たちに何をもたらしたのか、もう忘れてしまったというのだろうか? 福祉も教育も切り捨て、貧富の差をもたらして大量の失業者と自殺者を生み出し、イラク戦争という理由なき非道な人殺しに加担し、無駄な公共事業で自然を破壊してきた。国民は大きな負担と混迷を強いられた。そんな政治にノーを突きつけたからこそ政権交代したのだ。その国民の想いを踏みにじってふたたび米国のいいなりになるというのだから、菅首相は国民を愚弄するにもほどがある。いつまでも米国様様の姿勢から脱することができないこの国の首長には、あきれてものが言えない。

 この国はいったいどこへ行こうとしているのだろう。

 さとうしゅういちさんが「菅総理・与謝野大臣よ『君、国を滅ぼしたもうことなかれ』」という記事を書いているが、やはり「滅びの道」に一歩を歩み出しているとしか思えない。

2011年1月19日 (水)

黒部川ダムの排砂の真実

 ダムの抱える問題のひとつに堆砂があることは、このブログでも何回も取り上げてきた。治水目的のダムの場合、堆砂が進行すると治水機能が低下してしまう。また、発電目的のダムでも堆砂の除去があちこちで行われている。発電目的のダムで堆砂除去がどれだけ必要なのかよく分からないのだが、いずれにしてもダムの堆砂があちこちで深刻な状況になってきているのは確かだ。

 堆砂の影響はそれだけではない。たとえば、今とんでもない速さで海岸浸食が進んでいるが、これもダムに土砂が溜まって海にまで流れてこないことが大きな要因のひとつになっている。海岸浸食の凄まじさは、北海道のイソコモリグモの調査で嫌と言うほど見せつけられた。海岸に行く機会があったら、じっくり観察してみてほしい。砂浜がやせ細っていたり、砂丘が段丘状に浸食されている光景がいたるところで見られる。

 富山湾に注ぐ黒部川で堆砂対策として始められたのが、ダムに設けられた排砂ゲートからの排砂だ。出し平ダムでは1991年から排砂が始まった。ところがヘドロが流れ出て漁業被害が発生して大問題になり、訴訟に発展した。このため排砂の影響を少なくすることを目的に、2001年から降雨量が多いときに水の流れを利用して排砂放流を行うという方式をとるようになった。上流の出し平ダムでまず排砂放流を行い、そのあとで下流の宇奈月ダムも排砂放流をするという連携排砂だ。

 では、連携排砂で問題は解決したのだろうか? どうやら漁業被害は改善されるどころか、むしろ拡大しているようなのだ。ヘドロ化した土砂は川から河口沿岸の海に堆積し、漁業は壊滅的な被害を受けているという。

 この排砂をテーマにした「黒部川ダム『排砂』問題を追う」というテレビ番組が、23日の16時からフジテレビ系で放送されるそうだ。番組の内容は以下を参考にしていただきたい。

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/19th/10-129.html

 私自身も黒部川の実態はよく知らないが、ダムに溜まったヘドロを排出し続けていたなら川や海に悪影響が及ぶことは容易に想像できる。自然状態では少しずつ流れ下っていく土砂を、人工物によって止めてしまえば本来の川の生態系は失われ、かならず何らかの影響が出てくるのだ。こうした事実は、いくら国が隠したくても隠しきれるものではないし、私たちは直視しなければならないだろう。

 いちどは中止するといった八ッ場ダムも、また建設の方向に向かいつつあるようだ。こうした流れは八ッ場ダムだけではない。ダムによる弊害を今こそ多くの人が知り、考えていく必要があるだろう。

2011年1月18日 (火)

「自衛隊員が死んでいく」が暴く凄まじい自衛隊の内実

 前回の記事では「たちかぜ裁判」のことをお知らせしたが、今日はジャーナリストの三宅勝久さんが書かれた「自衛隊員が死んでいく」(花伝社)という本を紹介したい。自衛隊員の自殺者の多さや、いじめ・暴行・セクハラなどの実態について告発している本だ。

 まず驚くのが、自衛隊員の自殺者の多さだ。三宅さんは自衛隊員(自衛官+事務官等)の自殺者数のグラフを示して説明しているのだが、年間50人ほどだった自殺者が1997年頃から増え始め、近年では90人前後で推移している。自衛隊員の自殺死亡率は、一般の国家公務員と比べると2倍前後だ。自衛隊の自殺率は米軍のそれの2倍を軽く超えているという。

 長期にわたって行方不明になり、懲戒免職処分になる隊員も年間10人はくだらないそうだ。また、自殺以外にも殺人、強姦、強盗といった凶悪犯罪に手をそめる自衛官が後を絶たないという。これらが何に起因するのかは、そのあとに出てくるいじめや暴行の実態を読めば明らかだ。

 自衛官の自殺や死亡事件、ハラスメントなどで裁判になったのは、「女性自衛官の人権訴訟」や「たちかぜ裁判」だけではない。全国で複数の裁判が起こされている。そのひとつに「浜松自衛官人権裁判」(静岡地裁浜松支部)があり、本書でも第一章で紹介されている。

 この事件は29歳の若き自衛隊員が、上司のいじめを苦にして自宅アパートで首をつって自殺したというものだ。遺族が疑問を抱き、真相を明らかにしたいと裁判を決意した。  そこで明らかになってきたのは、上司による信じがたいようないじめの数々だ。本書にもそれらが箇条書きになっているので、その一部を引用しよう。

・「お前はバカなんだから」とののしり、無理難題を押し付けて自宅でやらせる。・自宅で反省文を書かせて提出させ、赤ペンで細かくチェックを入れて突き返す。
・書類に押した印影が少しでも傾いていると怒りだすなど、些細なことに文句をつける。
・宴会で楽しそうに騒いでいたら叱責された。
・終業後、先輩が帰らないため夜遅くまで帰宅できない。長時間のグチや説教を受ける。
・居眠りをとがめられ「反省文100枚を書くか辞表を書け」と迫られた。
・トイレに行くにも「トイレに行きます」と言わなきゃ行かせてくれない。「トイレが長い。さぼっているだろう」などと文句を言われる。
などなど・・・。

 そればかりではない。「直立不動のまま、怒鳴られながら帽子で顔をはたかれていた」という目撃もあるというから、暴行も日常的なのだろう。

 被害者の隊員は、上司のいじめから解放されたイラク派遣のときは一時的に体調も回復したのだが、帰国して元の職場に戻ってからは相変わらずのいじめで憔悴していく。こんなことが黙認されている職場がいったいどれだけあるだろうか。普通の人なら耐えられないだろう。

 「浜松自衛官人権裁判」は、昨年の末に証人尋問が行われた。詳しくは以下のサイトを読んでいただきたい。

浜松自衛官人権裁判 

 第二章は「たちかぜ」の事件。そして第三章は、護衛艦「さわぎり」と「あまぎり」でいじめに遭い、一度は脱走したという元隊員の話だ。このいじめの内容もとにかく凄まじい。たとえばベッドメーキングが完璧でないと朝食に行っている間に上司が全員のシーツをはがし、一番出来の悪いシーツとマットを窓から外に放り出す。放り出された人はマットを背負ってグランドを走らされる。工具の持ち方が悪いといった理不尽な理由で、スパナや棒きれで叩かれるという暴行。これは他の人が見ているところではやらない。この元隊員はいじめがもとで鬱になり、酒浸りになり、そして脱走・・・。こんなことをされていて平気でいられるほうがおかしい。話を聞いただけで、背筋がぞっとしてくる。

 第四章で扱っているのは、厳しく叱責されたために上司を殺害してしまった事件だ。しかし、この加害者も上司によるいじめの被害者だ。いじめさえなければ、人を殺めることもなかっただろう。殺される方も悲惨だが、殺した者も悲惨な状態だったのだ。刑事裁判で加害者には懲役18年の実刑判決が言い渡された。被害者遺族は自衛隊を相手に国家賠償請求訴訟を起こし、勝訴した。いったい何で殺人まで犯してしまったのか。秋葉原の無差別殺人事件を彷彿とさせる事件だ。

 第五章で扱っているのは、自衛官による連続強姦罪だ。ゲームセンターやスロット店で女性を物色し、トイレに入ったのをつけていってスタンガンで脅して個室で強姦するという凶悪な犯罪だ。自衛隊では強姦をはじめ性犯罪が頻繁にあるという。隊員へのアンケート結果によると、女性隊員のうち18.7%が性的関係の強要を受け、強姦・暴行(未遂)は7.4%だったという。単純計算だと自衛隊全体で700人以上が「強姦・暴行(未遂)」の被害を受けたことになるというのだから、とんでもない数字だ。人権意識のかけらもない、異常な職場であるとしか言いようがない。

 丁寧な取材を基に書かれた本書は、自衛隊の恐るべき実態を克明に描きだしている。しかし、裁判になるなどして明らかにされたいじめや暴行、性犯罪などは氷山の一角だろう。

 最後に、本書には取り上げられていないが、「命の雫」裁判を紹介しておこう。沖縄出身の20歳の自衛官が、真駒内基地で暴行を受けて亡くなったという痛ましい事件だ。自衛隊はこの事件を訓練中の事故として処理し、加害者らは送検されたものの刑事責任は問われていない。自衛隊は「徒手格闘訓練」だというのだが、事故というより訓練に名を借りたしごきとしか思えないものだ。そして遺族が事件の真相を求めて札幌地裁に提訴したのが「命の雫」裁判だ。この裁判については以下のサイトをご覧いただきたい。

『命の雫』裁判 

2011年1月16日 (日)

自衛隊のいじめ自殺事件を追求する「たちかぜ裁判」

 自衛隊では暴行やいじめが後をたたないという。自衛隊の内部でどんなことが行われているのか私たちの目に触れることがないが、いじめや規則違反が常態化していることは女性自衛官の裁判でもはっきりした。

非常識が常識の自衛隊

 いじめ・暴行によって自ら命を絶った自衛官のご両親が国と加害者に対して起こした裁判が「たちかぜ裁判」だ。2006年に提訴してから4年9カ月にわたる長き闘いの判決が1月26日にある。この裁判を支援している「たちかぜ」裁判を支える会から、判決の期日のお知らせが届いたので、以下にその内容を紹介したい。

たちかぜ裁判 2006年提訴から4年9カ月、いよいよ判決

1月26日 横浜地裁101号法廷

●12時50分に横浜地裁に集合 傍聴券配布抽選あり ●判決 午後1時半

護衛艦の中で、ガスガン、電動ガンで部下に暴行、上官は見て見ぬふり!!

 2004年10月に、21歳の若者が自ら命を発ちました。横須賀を母港とする護衛艦たちかぜの乗組員でした。
 ご両親は、防衛省にこの事件に関する情報開示を求めましたが、ほとんどが拒否されました。
 真実を、自衛隊の責任を明らかにしたいと望んだご両親は、提訴に踏み切りました。しかし、防衛省・自衛隊は、裁判所が促しても関係資料を提出しようとはしませんでした。横浜地裁、次いで東京高裁は文書提出命令を出し、自衛隊が「たちかぜ」の乗組員に提出させた答申書などの調査資料が、ようやく公開され、自衛隊の隠蔽体質に風穴を開けました。ガスガン、電動ガンで繰り返し暴行を受け痣ができた隊員が数多くいるのに、上官が有効な対策を取っていなかったことが明らかに。職場でこんなことが通用するでしょうか。しかし、「たちかぜ」の幹部は、証人尋問でも「見ていません」との証言を繰り返し、自らの責任回避にのみ汲々としているのです。こんな対応が許されてはなりません。判決を傍聴し、自衛隊の責任をハッキリさせましょう。

■報告集会 横浜職能開発総合センター会議室

JR石川町駅北口下車徒歩5分 横浜中央病院の隣

14時10分頃(開始時間は多少前後します)

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 なお、この裁判の経緯と内容については、以下のサイトで説明されているので参照していただきたい。

護衛艦たちかぜ 自衛官いじめ自殺事件

2011年1月14日 (金)

奥が深いクモの同定

 一昨年、日本で生息の確認されているクモをほぼ網羅した「日本産クモ類」(小野展嗣編・著、東海大学出版会)が出版されたことは「新しいクモ図鑑が発売」で紹介した。全種について生殖器など同定のポイントとなる図が示されている画期的なクモ図鑑だ。

 こんな図鑑が発行されると、これ一冊あれば「日本のクモの同定は完璧!」などと思う人がいるかもしれないが、それは甘い。そう思っている人は、この図鑑を利用して片端からクモの同定をしてみるといい。大型のクモはともかく、小型のクモの場合、そんな簡単に同定ができないことがすぐに分かると思う。

 まず、クモの同定をほとんどしたことがない人の場合、「科」のレベルで間違えてしまうこともある。こうなると、先に進まない。科の分類はクリアしても、種数が多いサラグモなどになると、該当する種に到達するまでが大変だ。検索表も、一つ間違えてしまうとたどり着かないし、かといって端から生殖器の図と「絵合わせ」をしていたら大変な時間と手間が必要になる。

 たとえ絵合わせでよく似た種にたどり着いても、こんどはそれと似た「近縁種」との違いを調べなければならない。外雌器(雌の生殖器)がとてもよく似ていて、クモの研究者でも同定に苦労する種もあるのだ。

 しかも、図というのは、「分かりやすいようで分かりにくい」のだ。生殖器は立体的だから、立体感がある図は比較的分かりやすいのだが、そのような図を描くのはとても難しい。私が描く図もとても立体的とは思えない。そもそも普通は絵に関しては素人の研究者が図を描いているのだから、それは仕方ないことでもある。さらに、外雌器(雌の外部生殖器)などは、個体変異も結構あり、これも同定する際には厄介だ。

 そこで威力を発するのは、やはり経験と勘、そして現物の標本との比較だ。しかし、その「経験と勘」というやつも、使わないと衰えてくる。

 今日も、その「勘」の衰えで振り回された。あるカニグモの雌を調べるために、手持ちのカニグモの標本に当たっていた。そしてゾウシキカニグモ(オオヤミイロカニグモ)と同定していた標本の中に「これは誤同定では?」と直感する雌個体を見つけたのだ。「あーあ、誤同定なら調べ直しだ!」と言うわけで、図鑑を当たった。一見したところ外雌器はオビボソカニグモとかクロボシカニグモに似ている。しかし、いくら目を凝らして図鑑と照らし合わせても、どちらにもぴったりと一致しない。個体変異なのかと疑ってはみたが、自信を持って同定できない。ピットフォールトラップ(誘引物質などを入れたコップを地面に埋め込み、そこに落ちた昆虫などを捕える採集法)による採集品なので、色彩や斑紋は明瞭ではないが、背甲の斑紋はオビボソやクロボシではなさそうだ。

 さんざん眺めまわした挙句、外雌器を少し下方から見てみた。そして、別のゾウシキカニグモを隣に並べ、外雌器を同じ角度から見て納得した。「誤同定では?」と直感したものは、結局ゾウシキカニグモで間違いなかったのだ。一気に力が抜け、自分でも可笑しくなった。外雌器の雰囲気が違って見えたのは、トラップ採集品のために内部生殖器まで透けて黒っぽく見えていたからだった。

 そんなこんなで、普通種の同定にずいぶん時間をかけてしまった。お恥ずかしい限りだ。

 しかし、こんな経験はたぶん私だけではないだろう。日ごろクモの同定を手掛けている人なら、似たような経験をしているのではないだろうか。そうやって、ときどき勘違いをしながら同定の腕を上げていくのだ。

 「日本産クモ類」には約1500種のクモが掲載されている。しかし、ここに掲載できなかった種はまだまだ残されている。つまり、まだ種名が判明していない種だ。特に、サラグモ科はこれからも新記録種や新種がかなり出てくるだろう。

 いくら日本で記録されているクモの大半の種が掲載されている図鑑ができたからといって、決して専門家が不要になるという訳ではない。そして、時には猿も木から落ちる、つまり専門家であっても誤同定をすることがあるのである。同定という作業は奥が深いとつくづく思う。

2011年1月13日 (木)

ブログの楽しみ

 「人生を問う旅の記録『幻の旅路』」で紹介した大湾節子さんが、ブログを始められた。本の出版にまつわる話のほか、日本とはだいぶ違うロスアンジェルスの生活の一端がうかがえる。

『幻の旅路』大湾節子のブログ

 大湾さんの本は、ご自身の気持ちをとても率直に表現しているところが好感をもてるのだが、このブログもまた日々のできごとにまつわるご自身の気持ちなどが記されていて、彼女の人柄がよく伝わってくる。文章も、本と同じようにとても読みやすい。ブログで自分の気持ちを綴ることは、彼女にとてもよく合っているように思う。

 大湾さんはアメリカで写真展も開かれているアマチュア写真家だ。本に掲載されている写真がとても素晴らしいのだが、これらの写真がブログにも散りばめられている。本ではカラーの写真はグラビアとして前のほうにまとめて掲載されているが、掲載できなかったすばらしい写真が他にも大量にあると思うとても残念だ。とはいっても、カラーのグラビアは高額になるからこれは仕方ない。

 しかし、インターネットなら写真も存分に載せられるだろう。アナログのカメラの写真はフィルムをスキャンするという手間がかかるが、今後は写真のスキャンを手掛けていくらしい。彼女のすばらしい写真がブログで紹介されるのなら、とても楽しみだ。

 ブログの最初のページには、ある翻訳者の方による彼女の著書のレビューが紹介されているが、これがまたとてもいいので是非読んでいただきたい。

『幻の旅路』大湾節子ご紹介

 ブログを書いていると、コメントやトラックバックをしてくださった方などのブログを訪問するなど、他の方たちのブログを拝見する機会が増えていくものだ。そしてお気に入りのブログを見つけると、しばしば訪問することになる。社会問題について書いているブログ、ジャーナリストのブログ、日常を綴ったブログ、自然についてのブログ等々、実にさまざまなブログがあるが、大湾さんのように自分自身の体験に基づいたエッセイは、気軽に楽しく読めていい。ブログを読みながら、「そうだそうだ」と共感することも多い。

 それに対しつまらないと思うブログは、自分の行動を報告したり、食事などを写真で紹介している類のものだ。他人のプライベートな行動とか、自慢話とか、食べたものの写真を紹介されたところで、面白くも何ともない。継続して読みたいと思うブログは、自分の体験に基づいて意見がきちんと書きこまれているものだ。

 私がブログを開設したときはインターネットの知識もほとんどなく、説明を読みながら恐る恐る設定をしたものだが、慣れてしまえば意外と簡単で、これなら誰にでもできるだろうと実感した。退職などで時間ができた方は、ブログを書くのもボケ防止になるだろう。仕事を持っているときには立場上書きにくかったことも、自由になれば書きやすい。日本人には公の場で自分の意見をはっきりと言わない人が多いが、だからといって意見を持っていないというわけではないだろう。ブログをつかって自由に意見を発信してみたらどうだろうか。自分の意見や考えをまとめて書くという作業は、脳のためにもいいに違いない。

2011年1月12日 (水)

成人式はファッションショーではない

 慌ただしくしているうちに、1月ももう半ば。つい先日は成人の日だった。成人式というと、なぜ女性はこぞって振袖を着るのだろうかと毎年思う。

 私の住んでいる北海道の地方の町では、成人式の写真が町の広報紙に掲載される。男性は大半がスーツで羽織袴姿も数人交じっているが、女性はほぼ全員が振袖だ。何とも個性がないし、まるでファッションショーだ。以前は洋装の女性も少しはいたと思うが、近年はまずいない。どうしてここまでワンパターンになってしまうのだろう。

 そもそも成人式とは、成人に達した青年を祝い、社会人として自立と責任を自覚してもらうことが目的ではないか。趣旨からすれば、服装などまったく関係がないのだ。それがいつのまにか振袖のファッションショーに化してしまっている。

 その背景にあるのは呉服業界や美容業界の「成人式ビジネス」だ。二十歳の女性の多くが振袖を着るこの日は、呉服業界にとっては最大の稼ぎ時だろう。美容業界も同じだ。そして、それを加速させているのが「皆と同じ」であることが良いとする日本人の横並びの価値観と、娘の晴れ着姿を見たいという親の見栄ではないか。早い話、呉服業界に踊らされて、本来必要でもない高価な晴れ着を買わされている(あるいはレンタルさせられている)のだ。

 地方の町では、成人式は同窓会に等しい存在だ。そういう場で、皆と違う服装をするにはそれなりの勇気と覚悟が必要だろう。しかし、そんなふうに覚悟しなければ成人式に出られないということ自体がおかしい。それに、今の時代、晴れ着にお金をかけられない家庭だってそれなりにあるだろう。なぜ、自治体はそのような家庭のことも配慮して「平服」を勧めないのだろうか? そんなことを言ったら、ファッションショーを楽しみにしている人たちからひんしゅくを買うから言えないのだろうか。

 我が子に晴れ着を着せたいという親心は分からないでもない。しかし、振袖を着る機会などほとんどないにも関わらず、つまらぬ意識と見栄のために高価な着物にお金をかけることにどれほどの意味があるのかとも思う。成人式の服装などにお金をかける必要はないと思うし、洋装のほうが着まわしがきいてずっと経済的だ。しかも、北海道の場合、成人式は雪が積もった厳冬期だ。吹雪のときもあるだろうし、道路も晴れ着で歩くような状態ではない。無理して着ているとしか思えない。

 30年以上も前の話になるが、私はといえば、成人式の日は防寒着に長靴スタイルで、日本野鳥の会が行っていた全国一斉の水鳥のカウント調査に参加していた。式典に出たからといって成人としての自覚が持てるというわけではないし、はじめから行く気などなかった。ただ、当時は今ほど振袖の人は多くなかったように思う。普段着の人もいたのではなかっただろうか。日本の若者の意識レベルの低下はかなり深刻だ。

 社会人としての自覚を持つべき日であればこそ、晴れ着を着てはしゃいでいるのではなく、厳粛な気持ちになって同じ地球上に飢えや貧困で苦しんでいる人、戦争で怯えている人がいることを考えてほしい。そして、社会人として自分がどうすべきなのかも考えてほしい。

2011年1月 9日 (日)

アドバイザーの責任

 近年では開発行為などを行う際に、環境アセスメントが行われることが一般的になった。都道府県や政令指定都市などでは条例によって環境アセスメントを義務付けており、事業規模が大きければ事業者はアセスメントを行わなければならない。しかし、条例の定めに該当しないような小規模な事業でも、環境調査を行うことは多い。普通はいわゆるコンサルタント会社が請け負うのである。

 もっとも、日本の環境アセスメントというのは事業を行うことが前提であり、アセス調査によって事業が中止されることなどまずない。絶滅危惧種や希少種の生息が確認されても、事業による影響を極力少なくするというのが基本だ。

 ところで、自然保護の観点から事業にクレームをつけると、しばしば「有識者から意見を聞いた」という説明がある。いわゆるアドバイザーであり、動植物の専門家なる人物がその役を引き受けているらしい。

 たとえば、北海道電力が富村ダムの堆砂除去のために、湖畔に通じるトンネルを掘っている。この場所は十勝川上流部原生自然環境保全地域のすぐ近くであり、絶滅危惧種の猛禽類なども生息しているところだ。環境庁(当時)は富村ダムの建設にあたっては、自然破壊となる取り付け道路の開削は許可しなかった。だから、ダムの堤体に行くにもトンネルを通っていくようになっているし、ダム湖の湖岸にも道路はない。仕方がないので、堆砂除去のためにトンネルを掘るというのである。

 十勝自然保護協会はもちろん反対をした。希少な動植物の生息地であるばかりか、そもそも堆砂除去が必須とは思えないからだ。ところが、アドバイザーはあくまでも動植物への影響を極力回避する提案をすることでゴーサインを出してしまうのだ。たとえば、希少な植物は移植である。猛禽類は、工事や堆砂運搬にあたって繁殖期を避けるように指導したり、騒音や振動の少ない機械を使うよう求めるのである。こうした配慮をさせることが、アドバイザーの任務だ。

 「美蔓貯水池の欺瞞(16)シマフクロウ報道で北海道新聞にエール」にも書いた美蔓貯水池の工事もそうだ。電柱にシマフクロウ用と思われる止まり木をつけるよう指導したのはアドバイザーであろう。そうやってゴーサインを出しているのだ。

 しかし、考えてみてほしい。美蔓貯水池に関してはそもそもその必要性、あるいは費用対効果に大きな疑問がある。「とかち・市民『環境交流会』の発表を聞いて」に書いたように、水は足りているという農家もあるし、受益地の半分は牧草地なのだ。そして、酪農家が使いたいのは牛の飲み水や機械の洗浄、あるいは農薬の希釈のための水だという。これはかんがい用水ではない。こういう事業のために、絶滅危惧種や希少種の生息地で大掛かりな工事をするということの問題を考えなければならない。ところが、アドバイザーにはそういう視点はないらしい。彼らは、問題の本質に目をつぶり、事業者に環境への配慮をさせることしか目を向けようとしない。

 業界関係者から聞いたことなのだが、アドバイザーは公共事業の発注者からではなく、コンサルタント会社から依頼されているという。そして、コンサルタントの社員が車でアドバイザーを現地に案内し、「先生」とたてまつってお伺いをたてるのである。アドバイザーの謝礼は仕事のわりに驚くほど高額なのだそうだ。事業そのものを否定するようなアドバイスはできないだろうし、一度やったらそう簡単にやめられないだろう。逆に言うなら、無駄な公共事業に手を貸すようなことをしたくない人は、アドバイザーなど引き受けないはずだ。

 電柱にシマフクロウの止まり木をつけるようアドバイスしたということは、その地域にシマフクロウが生息しているか、あるいはその時点では生息が確認できていなくてもシマフクロウが来る可能性があると判断したということだ。このアドバイザーに、美蔓貯水池の必要性や費用対効果のことについて問うてみたいものだ。

 公の場では、「自然保護が大事だ」「ダムは反対だ」「生物多様性の保全をしなければならない」と言いながら、アドバイザーを引き受けている人物もいる。いかがわしい専門家には注意が必要だとつくづく思う。

2011年1月 7日 (金)

美蔓貯水池の欺瞞(16)シマフクロウ報道で北海道新聞にエール

 今日の北海道新聞の十勝版に、「点検 美蔓かんがい」のシリーズ記事として「電柱に止まり木100本 シマフクロウ保護?」との記事が掲載された。

 内容は、美蔓地区国営かんがい排水事業の導水管埋設工事が行われているペンケニコロ川沿いの林道で、工事用電力を引くために設置した電柱にシマフクロウ用と見られる止まり木が約100本付けられているということを指摘したもの。取材をうけた住民の一人は、「かつてはたくさんいたが、電柱にぶつかったり、感電死したりした」と答えている。シマフクロウのような大型の鳥類は翼を広げたときに電線に触れると感電死してしまう。そのような事故対策として環境省はシマフクロウの生息地では電柱に止まり木をつけるなどの対策をとっている。

 記事によると、帯広開建はこの止まり木について「環境に配慮したとしか言えない」と言っており、シマフクロウが生息しているかについても答えられないと言っているらしい。

 このシマフクロウ用としか考えられない止まり木については、私の以下の記事に写真を掲載している。

美蔓貯水池の欺瞞(15)導水管工事による自然破壊

 このペンケニコロ林道は、世界ラリー選手権(WRC)のコースとして利用されたこともあり、私たち十勝自然保護協会はシマフクロウ・クマタカ・ナキウサギなどの絶滅危惧種や希少種の生息地でラリーをするなと反対運動と抗議を続けてきたのだ。

野生生物を脅かすラリー

 2004年には北海道の鳥類研究者ら6名が連名で、ラリー主催者に対して「世界ラリー選手権(WRC)『ラリージャパン2004』の新得林道コースの使用中止を求める要請書」を出している。このメンバーの中には環境省のシマフクロウ保護増殖検討委員も複数含まれている。その文書は、新得の林道コース周辺にシマフクロウが生息していること、また警戒心が強い鳥であるためラリーによる車の走行や観戦者などの立ち入りがシマフクロウに影響を与える可能性があるので、このコースの使用の中止を求めるという内容だ。

 つまり、鳥類の専門家もこのあたりにシマフクロウが生息していることを認めてコース変更を申し入れているのだ。

 また、同じく2004年8月31日付の北海道新聞では、このラリーコースの周辺にクマタカの営巣地が二カ所あることを報じており、猛禽類の研究者がラリーによる影響を懸念しているという内容だ。この記事の最後には「ラリー選手権をめぐっては、シマフクロウなどの生息に影響があるとして、自然保護団体が開催に反対している」とも書かれている。

 ペンケニコロ林道周辺がシマフクロウの生息地であることは鳥類研究者も認めるところであり、すでに新聞でも報じられていることなのだ。ところが、導水管工事をしている帯広開発建設部はもとより、環境省も決してそのことを明らかにしない。

 その理由は、おそらく保護増殖事業をしている絶滅危惧種の生息地を明らかにすると、写真愛好家などが殺到して影響を与えるということなのだろう。しかし、北海道新聞の報道は、シマフクロウが生息していると断定しているものではないし、まして具体的な営巣場所などが書かれているわけではない。シマフクロウの行動圏は広く、これだけの情報でシマフクロウを探すなどというのは至難の業だし、そんなことをする人などほとんどいないだろう。写真愛好家の多くは、口コミ情報などによって、簡単に写真撮影できる場所に集中するのである。現実に、シマフクロウが見られることを売りにしている温泉旅館すらあるが、カメラマンや見物客の影響で来なくなったという話は聞いたことがない。カメラマンなどによる影響を盾に、林道の周辺にシマフクロウが生息しているという事実をひた隠しにしようという姿勢には大いなる疑問を感じる。

 この国は、絶滅危惧種というだけですぐに情報を隠ぺいしたがる。情報公開で資料を取り寄せても、絶滅危惧種は黒塗りになって出てくる。たしかに、種によっては生息情報が公開されることで盗掘されるなどの被害が予想されるものもあるから、すべて公開すべきだとは言わない。しかしこうした隠ぺい主義によって、絶滅危惧種の情報が開発行為を行う者や一部の研究者のみしか知りえない状況のまま、平然と絶滅危惧種の生息地で開発行為が行われているのがこの国の現状だ。

 情報を隠ぺいすることで絶滅危惧種の保護をないがしろにしているにも等しい。希少種がいるのであれば、できる限り情報を共有してその保護策を考えるべきだろう。そのような意味からも、この北海道新聞の記事の意義は大きいと思う。

2011年1月 5日 (水)

暖かい冬

 お正月は家で過ごすことが多いのだが、年賀状を出しに完全防備の格好で外に出たら、ピリッとした身が締まるような寒さがまったく感じられない。それどころか、着込みすぎで暑いくらいだ。今年のお正月はなんだか気持ちが悪いくらい暖かい。寒暖計を見ると、日中なのにマイナス2、3度もある。最低気温もマイナス10度ちょっとくらいの日が多い。そういえば、よく冷えた日にみられる霧氷も今年はさっぱり見られない。

 私が北海道に来たのは30年くらい前だが、その頃は最低気温がマイナス15度くらいだと「今日は暖かいね」と言っていた。マイナス25度以下になる日がひと冬に何日もあった。ところが、ここ数年はマイナス20度以下になると「今日は冷えたね」という感じなのだ。マイナス30度近い寒さは、これからは稀になるのだろう。

 それにここ数年は冬でも雨やみぞれが必ずといっていいくらい降るようになった。とても北海道とは思えない。雨が降ったあとは道路がテカテカに凍りつき、それこそ大変なことになる。以前は雪かきといっても軽いパウダースノーが普通だった。みぞれが降れば、ずっしりと水を含んだ重い雪になり、雪かきは大変な重労働になる。そんな大変な雪かきが近年はずいぶん増えた。夏の暑さはそれほどでもないが、冬の温暖化傾向は著しい。

 昨年は東京に5回も行ったのだが、7月と8月の猛暑の時はさすがにバテた。かつて東京に住んでいたころは、ここまで暑くはなかった。「暑い暑い!」とフーフーいっても、せいぜい32度とか33度くらいだったと思う。都市ではヒートアイランド現象や冷房による放熱などによって夏の気温が上昇しているのは確かだろうが、冬がどんどん暖かくなっていくところを見ると、ヒートアイランド現象だけが温暖化の原因などということではない。

 温暖化が進むと寒冷地でも作れる作物が増えるからいいという人がいるが、暖かければ作物がよく育つなどという単純な話にはならない。寒冷な気候であるがゆえに適している作物もあるし、温暖化が思わぬ被害をもたらすこともある。以下は無農薬有機栽培をしている知人のブログ記事だが、猛暑の悪影響が作物に出てしまったようだ。

http://pub.ne.jp/hiroooui/

 そう言えば、私が北海道にきたころは、地球は寒冷化に向かうというようなことが言われていたように思う。氷河期の再来だ。長い目で見ればそうかもしれないが、地球が寒冷化するといっても数千年は先のことだ。それに比べたら今の温暖化の方がはるかに深刻な問題をはらんでいる。

 人類は縄文時代の温暖な気候も乗り切ってきたという人もいるが、現代はその頃とは人口も自然環境もまったく違う。これだけの人口を抱えていたなら、農作物の収量の低下は深刻な事態を引き起こすだろう。

 石油に頼った経済成長のつけが回ってきたのだ。この期に及んで経済成長を唱え続ける人がいるが、人間が地球という有限の生態系の中で生きている以上、資源も有限であり、永遠の経済成長などあり得ない。温暖化対策でひと儲けしようと思っている人もいるようだが、お金儲けが目的なら、早晩、人類は自分で自分の首を絞めることになるだろう。

 あまりの暖かさに、正月早々こんな暗いことばかり考えてしまう。

2011年1月 3日 (月)

年頭にあたって

 あけましておめでとうございます。

 ブログを始めてから早くも3年半が経ちました。この間、多くの方にブログを訪問していただきました。チャンネル北国tvのアクセス数は約38万、そして言論妨害のために並行して開設したココログのアクセス数は約6万5000。拙ブログに訪問してくださった皆様にあらためてお礼を申し上げます。また、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は私にとっては精神的にかなりしんどい一年でした。一昨年秋からはじめたクモの不明種の検討も中断状態に陥りました。とはいってもいつまでも停滞しているわけにはいきません。新年を機に、気持ちを新たにして歩みたいと考えています。体力と記憶力の衰えを実感するこの頃ですが、マイペースで自然のこと、クモのこと、そして自然保護などに関わっていく所存です。

 ところで、これまでは「ですます調」で書いてきましたが、心機一転ということで、文体も変えてみたいと思います。

~~~~~~~~~~

 さて、下の写真は元旦につくったリサイクルの手作りロウソク。これまではなかなかゆっくりとこのようなことを「楽しむ」時間がとれず(というか、そのような気持ちになれなかった言ったほうが正しいかも・・・)にいたので、今まで持ち越していた。一人で作ればこれほどカラフルなものにならなかったと思うが、帰省した娘たちの手伝いもあって、色とりどりのロウソクができあがった。ロウソク作りは簡単そうなのだが、上手につくるには意外とコツがあるようだ。

P10204321

 ところで、できあがったロウソクを灯しながら、夜でも明るい光が得られる生活が楽しめるようになったのは、人類史上でもごく最近のことであることを身にしみて感じた。人が電気を手に入れる前は太陽の光とともに活動し、自然に逆らうことなく謙虚な生活をしていたのである。人は近代においてなんという発展をとげたのだろう。しかし、その陰で失ったものはあまりにも大きい。

 なによりも何億年という進化の歴史がつくりだしてきた大自然を壊しつづけてきた。北海道であれば、昼なお暗い原生林の森が広がり、アイヌのユーカラに出てくるような動物たちの天国であったはずだ。オオカミもシマフクロウもあちこちに棲みついていたのだろう。たかだか100年ほど前に広がっていた雄大な自然を、私たちはもう見ることができない。私たちが目にしている自然の大半は、人によって切り刻まれた無残な姿である。

 また、人類は戦争で悲惨な殺戮を繰り返し、それは今も止まない。これほど科学が発達し生活が便利になったといっても、貧富の差は拡大し収まるところを知らず、精神を病む人が絶えない。こんな生物は地球上には人類しかいない。生物としてあまりに異常な事態だ。政権交代が実現したといっても、明るい未来が見えるどころか暗澹たる状態である。地球の温暖化が叫ばれているのに、欲にとりつかれた人類は自分の利益を優先するばかりに、その対策すらおぼつかない。人間は賢い生物であると同時に、地球上でもっとも愚かしい生物であるとも思う。人間の賢さと愚かしさを天秤にかけるなら、愚かしさのほうが重いに違いない。

 昔の生活に戻ることがいいとは言わない。人は、いちど享受してしまった便利さを簡単に捨てることはできないだろう。しかし、人生において何が必要で、どんなことが無意味であるかを振り返ることは大事だと思う。そこから自ずと見えてくるのは、決して物の豊かさや見栄えの良さは心の豊かさとイコールでではないということだろう。大切なものは目に見えないものである。年を重ねるほどに、そう思えるようになった。

 世の中には支配欲や名声、お金や虚栄心のために理念もモラルも捨ててしまう人がいる。彼らにとっての幸福とは何だろうか。人の欲ほど恐ろしいものはない。50代も半ばを過ぎた今、せめてそんな欲にとらわれず謙虚な気持ちで余生を生きたいと思う。

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