« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月

2010年12月31日 (金)

ネットでの転載やプライバシー侵害について考える

 つい先日のことですが、私の関係しているグループメールでのメールのやりとりが、無断であるブログに転載されていたことを知り仰天しました。メーリングリストやグループメールは限られたメンバー間でのメールのやりとりであり、当然のことながら公開されないことを前提に情報交換や意見交換をしています。たとえ多くの人に知ってもらいたいような内容であっても、非公開前提のメールを断りもなくインターネット上に公開してしまうなどというのは信じがたいことです。しかも、公開されていたメールには個人名まで入っていました。

 当事者からの要請によって当該記事は削除されたものの、インターネットのマナーを知らなすぎるとしか思えない出来事でした。当事者が気づかなければ、何年間も放置されていた可能性があります。

 それからしばしば気になるのは、著作権の問題です。他人のホームページやブログの記事を、出典も示さずに無断で転載する方がいるようですが、このような方は著作権に関する知識がまったくないとしか思えません。ブログやホームページを公開されている方は、無断転載が著作権法違反であることくらい認識していただきたいものです。

 自分の書いたものが個人のブログやホームページに無断転載された場合、そのサイトの管理人の連絡先が記載されていれば削除要請もできますが、大多数のブログは匿名のうえに管理人への連絡先が記載されているサイトはごく一部です。こうなると無断転載を見つけても削除要請すら簡単にできません。マナーを知らない人によって、プライバシーに関わる個人情報が公にされたなら、場合によっては重大な問題を引き起こすことにもなりかねません。ブログでの著作権やプライバシーについての意識は、全体として低いと言うのが私の率直な印象です。

 また、新聞や雑誌の記事をそのまま画像にして掲載したり、全文を転載されている方もいますが、これも厳密に言えば著作権上の問題が絡んでくることがあります。私は、新聞や雑誌記事であっても、基本的に全文を転載することはせず、必要な部分の引用にとどめるか、あるいは内容を要約して紹介するようにしています。

 かつて、植草一秀さんがご自身のブログに毎日新聞の記事を転載したところ、毎日新聞からブログ運営会社にクレームがつけられ、一時的にブログにアクセスできない事態が生じたことがありました。記事の全文転載は著作権法の「引用」には当たらず、違法だというクレームがついたのです。

 これについては植草さんの以下の記事に詳述されていますので、参照してください。

ブログ復旧のお知らせ

 また以下の記事も転載や引用をするうえで参考になります。

本ブログアクセス禁止措置についての考察(その1-再掲示)
本ブログアクセス禁止措置についての考察(その2) 

 ただし、新聞記事を全文転載しているブログなどはいくらでもあります。ところが新聞社はそれらに対しこまめに削除要請などをしている様子はありません。「本ブログアクセス禁止措置についての考察(その2)」にも書かれているように、植草さんが転載したものと同じ毎日新聞の記事を全文転載したブログが存在するのに、植草さんだけを著作権法違反だとしてクレームをつけたのであれば公平性に欠けますし、毎日新聞の削除要請には恣意的なものすら感じます。

 新聞や雑誌、テレビなどプロの編集者が関わるメディアが主体であった頃は、プライバシーや著作権などは比較的厳密に守られていたと思うのですが、誰もが簡単にインターネットで情報を発信することができるようになった現代では、チェック体制がなくなってしまったも同然です。とりわけプライバシーに関わる情報を公にしたことで何らかの被害を及ぼした場合、「知らなかった」では済まされないことを、アマチュアブロガーは肝に銘じるべきでしょう。

2010年12月28日 (火)

弘中惇一郎弁護士の不可解さ

 厚生労働省の文書偽造事件の冤罪被害者である村木厚子さんが、27日に不当な逮捕・起訴で精神的苦痛を受けたとして、国と前特捜部長大坪弘道被告ら3人に対し計3600万円の国家賠償を求める裁判を起こしました。当然のことでしょう。

 ここで気になるのが、村木さんの弁護人を務めている弘中惇一郎弁護士です。弘中弁護士といえばロス疑惑の三浦和義氏の弁護をしたり、薬害事件などを担当していた著名弁護士で、人権派と言われている方です。ところが、先日(12月24日付)の週刊金曜日「金曜アンテナ」に掲載されたジャーナリストの三宅勝久さんの記事で、三宅さんや週刊金曜日らを提訴した裁判で武富士の代理人をしていたのが、この弘中惇一郎弁護士であることを知りました。

 武富士といえば違法取り立てなど悪質な営業手法で知られたサラ金で、この秋とうとう破たんしました。そして、前記の裁判というのは武富士の内情を暴いたジャーナリストや週刊金曜日などの弱小メディアに対して1億1000万円も払えという言いがかり訴訟です。口封じを狙ったスラップですね。この件については三宅勝久さんの以下の記事をお読みください。

武富士事件にみる「名誉毀損ビジネス」言論弾圧に手を貸す弁護士

 武富士の弁護をするということは、武富士の悪質な営業手法を擁護するということです。悪質商法を行っている企業の弁護をしたなら、被害を食い止めるどころか、被害を拡大させることにもなりかねません。悪質企業の弁護をしてスラップを仕掛ける弁護士が、その一方で人権派と認められているのであれば、なんとも不可解です。弁護士の人権意識というのはどうなっているのでしょう。弁護士のモラルが問われます。

 村木さんの弁護人が武富士の代理人を務めた弘中弁護士ですが、その一方で、大坪被告の代理人は武富士の代理人をしたほか、文芸社という悪質出版商法を行っている企業の代理人も務めた田宮甫弁護士(これについては「検察の裏舞台と弁護士」を参照)。傍目からみたらちょっと不思議な関係ですが、この弁護士さんたちは、いったいどういう意識で代理人をしているのでしょう。

 いずれにしても、弘中惇一郎弁護士が悪質企業の肩を持ちスラップを仕掛けたこともある弁護士であることはあまり知られていません。弁護士が正義の味方、弱者の味方であるなどというのは幻想でしかないでしょう。もちろん、消費者、弱者の立場になって誠実に仕事をされている弁護士さんもたくさんいるのですが。

2010年12月26日 (日)

いつ崩壊してもおかしくない出版業界

 週刊金曜日(12月24日、829号)に「電子書籍バブル」との特集で、電子書籍と出版業界の現状についての記事が掲載されており、興味深く読みました。  日本の出版業界が出版不況によって自転車操業に陥っていることは、10年以上も前から指摘されてきました。その後どうなっているのかがリポートされています。

 結論から先に言えば、まったく変わっていないようです。つまり、売上は下がり続けているのに、出版点数は相変わらず増え続けています。2000年には6万5000点だった新刊点数は2009年には7万8000点になっているそうですから、新刊ラッシュはまったく変わっていません。さらに返品率は40%にもなっています。一般の人は、本が売れず返品率が高いのになぜ新刊がそんなに出るのかと不思議に思うでしょう。そのからくりは以下です。

 一般に、出版社が取次に本を卸す際、卸した部数分の代金を取次から受け取るのですが、本が売れずに返品されてきたときに、その分の卸値を取次に返金しなければなりません。そこで、すぐに次の新刊を出せば、返金分を相殺できることになります。こうして大手出版社は次々と新刊を出し続けているのですが、売上が減っているのですから経営状態が良い訳はありません。出版社と取次は、もはや危うい綱渡り状態といえるでしょう。

 さらに、取次は莫大な不良債権を抱えています。つまり、書店からの未払い金のうち相当額が回収不能らしいのです。書店をつぶせない取次は、未払い金の回収を先送りしています。取次も火の車です。もちろん書店も。

 版元(出版社)、取次、書店というシステムが完全に悪循環にはまりこみ、どうしようもない状態になっているのが、現在の出版業界といえるでしょう。出版社、取次、書店の流れのどこかが立ち行かなくなれば、崩壊してしまいます。というより、現在まで持ちこたえているほうが不思議なのかもしれません。なんだか、莫大な借金を抱えたこの国の経済状況にも似ているのではないでしょうか。

 いつ崩壊してもおかしくないような日本の出版業界ですが、あらたに注目されているのが電子書籍です。もっとも私は今のところiPadやキンドルなどで本を読みたいとはまったく思いません。電子書籍は、紙の本に慣れている中高年の方にはなかなか普及しないのではないでしょうか。私にとって興味深かったのは、「エスプレッソ・ブック・マシーン」というオンデマンド出版の機械がすでに登場しているという話。

 本のデータを電子化し、読者が欲しい本のデータを取り出して、その場で印刷・製本するという機械です。なんと約10分でペーパーバックの本が出来上がるそうです。アメリカのオンデマンドブックス社がこの機械を開発しており、日本でも三省堂書店が今年中に神保町の本店に置く予定とのこと。もちろん、まだ日本語のコンテンツがほとんどないので、現時点では一般の人が欲しい本をこのような形式で入手できるわけではありません。しかし、将来書籍のデジタル化が進めば、今のような大型書店は次第に消えていくのかもしれません。そして、紙の本が欲しい人は、「エスプレッソ・ブック・マシーン」のような機械で入手するというように変化していく可能性もあります。

 でも、電子書籍やオンデマンド印刷・製本機が普及するようになれば、これまで出版社がこだわっていた本の装丁、デザインなどはほとんど意味がなくなってしまうでしょうね。編集などという作業はどうなるのでしょうか・・・。

 どちらかというとアナログ人間の私にとって、大切な本というのはやはり出版社が装丁やレイアウトなどにこだわりをもってつくった紙の本です。中身だけではなく、装丁や判型、紙質などを含めたものが「本」であるという意識は、多くの人が持っているのではないでしょうか。アナログがどんどんデジタルにとって替わる時代と言えど、紙の本と電子書籍では存在感がまったく違います。今後、こだわりをもった紙の本が消えていくのであれば、それはなんとも寂しいことです。

 「紙の本」の出版業界は今後どのような結末を迎えるのでしょうか。何年か後には、出版の世界もすっかり様変わりしているのかもしれません。

2010年12月24日 (金)

シャンプーはいらない

 12月16日付の「新婦人新聞」に、アーサー・ビナード氏(詩人)のエッセイが掲載されていました。若いころはシャンプーは必要悪だと思いつつ使っていたが、結婚してからはシャンプーは必要ないものと分かり、純石鹸生活にしたという内容です。

 我が家も、洗剤は基本的に無添加の固形石鹸と洗濯用の無添加の粉せっけんのみです。お風呂場も、洗面所も台所も、固形石鹸がひとつあれば間に合います。もちろんシャンプーは使っていません。

 以前は、生協で販売している「石鹸シャンプー」なるものを使っていたこともありますが、それも添加物だらけだったので止めました。無添加の石鹸シャンプーを使ったこともありますが、それなら石鹸と変わらないと思い、それも止めました。だいぶ前からシャンプーなるものは一切やめ、固形石鹸で洗髪し、リンスには酢をつかっています。それでまったく問題はありません。これに慣れてしまったら、あの香料と添加物のたっぷり入ったシャンプーはとても使う気にはなれません。私は化学物質過敏症なのか、あの洗剤の香りが苦手ですし、それ以前に合成洗剤のシャンプーは恐ろしくてとても使えません。

 最近はホテルなどに泊ると、固形の石鹸がほとんど置かれていないのにはうんざりします。お風呂場はボディーシャンプーとシャンプー、洗面所は液体ハンドソープ。仕方ないので、旅行にも無添加石鹸を持参しています。

 合成洗剤のシャンプーを愛用されている方は、以下のサイトをいちどお読みになることをお勧めします。

禿げる!かゆい!シャンプー

2010年12月23日 (木)

セイヨウオオマルハナバチの脅威

 21日付の北海道新聞夕刊コラム「魚眼図」に、帯広畜産大学の岩佐光啓教授が特定外来生物であるセイヨウオオマルハナバチのことについて書いていました。私が「ついに十勝三股に侵入したセイヨウオオマルハナバチ」で書いたように、今年の夏に雪山国立公園の十勝三股に侵入してしまったのですがが、大変気になったのが、すでに生態系への影響が出てきているとの指摘でした。具体的に二つの事例をあげています。

 一つは、セイヨウオオマルハナバチが多い地域では、エゾエンゴサクが種子をつくる割合が低いことが明らかになっているという指摘です。

 エゾエンゴサクの花には「距(きょ)」という細長い袋状の部分があり、蜜はこの距の奥にあります。下のエゾエンゴサクの花の写真を参照してください。スミレやオダマキなども距を持つ植物です。

Dscn33112

 在来のマルハナバチの多くは花の開口部から蜜を吸うために、体に花粉がつき、他のエゾエンゴサクに花粉を運ぶようになっています。ところが、セイヨウオオマルハナバチは口吻が短いために花の開口部から蜜を吸わず、距に穴をあけて蜜を吸うのです。これを盗蜜といいます。ただし、盗蜜をするのはセイヨウオオマルハナバチだけではありません。下の写真はエゾエンゴサクの花の距に穴を開けて盗蜜をしているエゾオオマルハナバチです。エゾエンゴサクのように距が長い花の場合、このように在来のエゾオオマルハナバチも盗蜜をすることがあります。盗蜜をされると花粉を運んでもらえないので、植物にとっては迷惑でしかありません。

Dscn19181

 マルハナバチの口吻の長さや形は種によって異なっており、それぞれ好みの花も違います。マルハナバチと花は、長い年月をかけて共に進化してきており、両者はお互いになくてならない共生関係にあるのです。花粉媒介に役立たないセイヨウオオマルハナバチが増えたなら、エゾエンゴサクは結実率が低下してしまいます。エゾエンゴサクが減れば、在来のマルハナバチの吸蜜植物も減ってしまうことになります。このように、セイヨウオオマルハナバチは、植物とマルハナバチの共生関係を崩壊させてしまうのです。今は比較的普通に見られるエゾエンゴサクが、将来は珍しい植物になってしまうかも知れません。

 もう一つは、セイヨウオオマルハナバチが在来のマルハナバチと交尾することで在来種の繁殖阻害をしているという指摘です。DNA鑑定によって、在来のエゾオオマルハナバチ女王の30パーセントが、セイヨウオオマルハナバチの雄によって交尾されていることが分かっているそうです。交雑した場合、卵はふ化しないので在来種の減少につながります。

 すでにセイヨウオオマルハナバチは大雪山の高山帯にも侵入してしまいましたが、今後高山のお花畑でどんどん増えていったなら、高山帯の植生も様変わりしてしまうかも知れません。

 今からセイヨウオオマルハナバチを退治しようとしても、これだけ広がってしまったなら撲滅は不可能でしょう。アライグマのような大きな動物でさえ、いちど野生化してしまえば、駆除は非常に困難です。まして翅を持つ小さな昆虫の駆除は限界があり、ひとたび野生化して分布を広げてしまったら取り返しのつかないことになってしまうのです。

 ハウスでのセイヨウオオマルハナバチの利用に際しては、かねてから生態系への重大な影響が指摘されていました。しかし、速やかに手を打つことをしないままセイヨウオオマルハナバチの分布はどんどん拡大し、かつての懸念は現実のものとなってきました。このままセイヨウオオマルハナバチが増えると在来のマルハナバチが減少し、在来種に花粉媒介を頼っている植物も減っていく可能性が高いでしょう。

 利便性ばかりを重視し、警告を無視して対策を怠った結果です。予防原則がいかに大事かを教えてくれる事例です。

2010年12月19日 (日)

携帯電話の脳腫瘍リスクを報道しないマスコミ

 植田武智氏がMy News Japanと週刊金曜日に、携帯電話と脳腫瘍の関係性を調べた研究結果について記事を書いています。My News Japanの記事は以下。

ケータイ1日20分以上通話で脳腫瘍リスク3倍 税金投入の国内研究結果を隠す総務省

 携帯電話の電磁波が腫瘍の原因になるとしたら、携帯電話を使用している側の耳の腫瘍が多くなります。そこで、腫瘍が発生した側の耳と発生していない側の耳それぞれの携帯電話の使用頻度を比較すると、携帯電話による腫瘍のリスクを計算できます。日本全国の聴神経腫の患者1589人に質問書を送付したところ、1年前に携帯電話のヘビーユーザーだった人の腫瘍発生リスクは2.74倍、5年前にヘビーユーザーだった人の腫瘍発生リスクは3.08倍になったとのこと。

 携帯電話の電磁波による脳腫瘍のリスクについては、すでに以下の記事でも報じています。

恐るべき携帯電話の脅威

 この記事に書いているように、海外では以前から携帯電話の電磁波と脳腫瘍の関係が知られていました。今回は日本の研究でそれが実証されたことになります。しかも、その研究は総務省による電波の安全性調査事業によるものなのです。税金を使った調査で携帯電話の危険性を示す結果が出たのですが、マスコミはこのような事実を報道しようとしません。

 スウェーデンでは携帯電話で通話する際にイヤホン・マイクを使っている人が非常に多いそうですが、北欧では携帯電話のリスクがきちんと国民に知らされていて、個人でしっかりと予防策をとっているということでしょう。

 現代では多くの人が、携帯電話が欠かせないような生活を送っています。仕事などで一日20分以上の通話をしている人も少なくないでしょう。腫瘍発生には潜伏期間がありますので、今後、携帯電話の電磁波による健康被害はどんどん目に見えてくるようになるのではないでしょうか。国をあげて対策に乗り出さなければならない状態なのに、日本ではリスクを国やマスコミが隠ぺいし、携帯電話会社は基地局を増やして電波状態を改善することにやっきになっているようです。基地局周辺での健康被害の問題もありますし、かなり恐ろしい状況ではないでしょうか。

 携帯電話による脳腫瘍のリスクが気になる方は、イヤホン・マイクを使うことをお勧めします。

2010年12月18日 (土)

非行弁護士の実態

 昨日の「『先生』が大好きな日本人」という記事で、日本では弁護士が「先生」と呼ばれていることを指摘しました。弁護士という職業は、一般の市民から見たら正義に基づいて闘っている偉い方のように映っているのでしょう。「先生」と呼ばれて敬われているのですから、そう思うのも当然です。

 もちろんそのような弁護士もたくさんいます。でも、実はかなりの数の弁護士が懲戒処分になっていて、2010年は78人の弁護士が日本弁護士連合会から懲戒処分を受けているそうです。一般の方はほとんど知らないと思うのですが、非行によって懲戒処分を受ける「先生」がたくさんいるのですね。非行少年という言葉はよく聞きますが、非行弁護士はなかなか聞きません。そうそう、大阪府知事の橋下弁護士が業務停止2月の懲戒処分を受けたのは記憶に新しいところです。そんな非行弁護士の事情を公にしているのが、以下のブログです。

弁護士と闘う

 これだけあっけらかんと弁護士の非行を暴露するというのは、なかなかご立派。それにしても、非行弁護士の多いこと! 依頼された仕事をほったらかしたり、覚せい剤を所持するなどの犯罪行為をしたり、依頼者からのお金を横領したり、証拠隠滅したり、虚偽の書面を書いたり・・・。弁護士とて人間とはいえ、法律の専門家がこれではあまりにも酷いし、恥ずかしい。

 私たち市民の多くは弁護士のお世話になることは少ないのですが、普通に日常生活を送っていても、時として法律の専門家の判断を仰ぐ必要が出てくるものです。相続の問題などといったことから、悪徳商法に引っかかったとか、債務整理とか・・・。でも、問題はどうやって弁護士を探すのかということになります。ツテがなければ電話帳やインターネットで弁護士を探すしかありません。そうやって弁護士を探したものの、もし、依頼した仕事をほったらかしにしたり、横領をするような非行弁護士に当たってしまったなら二次被害です。

 ところが、この「弁護士と闘う」というブログによると、弁護士さんというのは弁護士を訴えるのを嫌うそうです。つまり、非行弁護士を相手に裁判を起こしたくても弁護をしてくれる弁護士がいないというのがこの国の現実のようです。となると、法の専門家を相手に素人が本人訴訟で裁判を起こさねばなりません。これじゃあ悪徳弁護士がはびこるのももっともです。でも、弁護士が同業者を訴える裁判の代理人にはならないって、なんとも不公平な話です。

 思わず笑ってしまうのは、このブログの「お笑い弁護士」というカテゴリー。ブログ主さんはかなりユーモアのある方のようです。ぜひお読みあれ。

お笑い弁護士

  「今年の弁護士の漢字」は、「尻(ケツ)」なのだそうです。橋下弁護士が業務停止2月の処分を受けて、この懲戒処分は「道頓堀で尻出すより下品だ」と言ったことに由来するとのこと。弁護士川柳なども、面白いですよ。

 このブログ、アクセス数もかなり多いようですが、こまめに見ているのは非行弁護士の被害者なのか、それとも弁護士先生なのか・・・。

2010年12月17日 (金)

「先生」が大好きな日本人

 日本人ほど「先生」という敬称が好きな国民も珍しいのではないでしょうか。学校の教員だけではなく、医者、弁護士そして代議士にまで「先生」をつけます。そして「先生」とついているだけで、なんだか特別えらい人たちのように扱うのですから、不思議なものです。

 さらに気持ち悪いのは、先生同士で「先生」と呼び合うこと。学校の教員など、そうですよね。生徒が教師を「先生」と呼ぶのはわかりますが、なぜ教員同士が「先生」をつけなければならないのでしょうか。先生同士は無意識にそう呼んでいるのかもしれませんが、悪しき習慣だと思えてなりません。

 師弟関係がない相手にやたらと「先生」をつけたがる人には、権威主義を感じてなりません。医者、弁護士、あるいは学者でも、権威主義を嫌う方は、自分が安易に「先生」と呼ばれることに抵抗を感じるのではないでしょうか。

 たしかに、医師や弁護士になるためには人一倍の努力が必要です。難関の国家試験もパスしなければなりません。だからといって特定の職業の人に「先生」をつけて特別扱いのようにするのはどんなものなのでしょう。勉学に秀でていたり難しい試験にパスしたからといって、そのような人だけが優秀というわけではなく、人間的な面で特にすばらしいというわけでもありません。

 たとえば自分自身が偉いと思っている「先生」は、他者を見下します。医者などでも、そういう感覚の方は、患者に対して非常に横柄な態度をとるのです。説明を求めても「私は専門家だ、素人が口を出すな」と言わんばかりの対応をします。私も、二度とかかりたくないと思った医者が何人かいます。でも、基本的に人間は対等。専門家に対して敬意を持って接することは必要ですが、ことさらに相手の職業を意識して言いなりになるべきではないし、あくまでも対等の関係で接するべきです。

 医師も弁護士もそして代議士も、本来は市民に向き合う仕事です。それだけでなんだか尊い仕事であるという感覚にさせられますが、中には権威をひけらかし、お金儲けに忙しい「先生」もたくさんいるのです。

 驚くべきことに、ただの市民の私にまで「先生」をつけてくる人がいます。一般の方よりちょっとクモについて知っているだけなのに、なぜでしょうか? 恐らく、「持ちあげたい」という意識があるのでしょう。人間、だれでも持ちあげられると嫌な気持ちはしません。その心理を利用したいのでしょう。先生、先生と呼んで、いろいろ頼みごとをするわけです。

 行政もよく「先生」を利用します。大学の教授などに先生、先生と言ってゴマをすりながら接近し、徐々に相手を自分の側に引きこんで御用学者に仕立てていくのです。行政に限らず、「先生」と呼んでおだてあげ、自分に有利に動いてもらおうという輩がたくさんいます。ですから、「先生」とおだてられたら要注意と思ったほうがいいでしょう。

 「先生」というのは、権力者にとっては実に便利な敬称なのです。権力者と医者や薬品会社が手を組めば、重大な副作用のあるワクチンとか、本当は必要ではない医薬品も広めることができるでしょうし、不要ながん検診も大々的に宣伝できます。法曹界と手を組めば、不当な裁判もまかり通ってしまいます。学者と手を組めば、「学識経験者の意見を聞いた」といって市民の声を無視し、無駄な公共事業も正当化できます。代議士にいたっては言うまでもありません。「先生」を利用するのは、権力者の常とう手段。

 そう考えていくと、やはり「先生」などという敬称を安易に使うのは考えものです。悪しき習慣を絶つためにも、教育現場以外では「先生」という敬称はやめたほうがいいのではないでしょうか。

2010年12月16日 (木)

「ダムか」「代替案か」の選択でいいのか?

 政府が見直しの対象としている全国のダムについて、ダム以外の治水対策を検討し、再検証する「検討の場」が始まりました。北海道では、国が建設主体のサンルダム・平取ダム・新桂沢ダム・三笠ぽんべつダム、北海道が建設主体の厚幌ダムが「検討の場」の対象です。14日に厚幌ダムの「検討の場」が開かれ、20日には平取ダム、24日にはサンルダムの「検討の場」が予定されています。平取ダムもサンルダムも「検討の場」の「構成員」は北海道知事と関係する自治体の長、そして「検討主体」は北海道開発局長。建設主体と建設を推進している地元の自治体だけが集まって検討するというのですから、お話になりません。

 国は、治水対策について「ダム」か「ダム以外」かの二者択一を迫っているのですが、そもそもこの図式には「ダムも代替案も不要」という選択がありません。また、ダムに替わる治水というのはどんな対策を指しているのでしょうか? 堤防のかさ上げや強化、あるいは河道の掘削などの河川改修なのでしょうか?

 河川管理者は河川整備計画を立てるにあたり、計画の規模(たとえば十勝川水系では150年に1度の確率で発生する洪水)の大雨が降った場合、基準となる地点での流量(基本高水)を定めています。十勝川水系では150年に1度の降雨確率を前提に治水計画が立てられているのですが、「計画の規模」は河川によって異なり、100年に1度の降雨確率にしている河川もありますし、200年に1度の降雨確率にしている河川もあります。

 しかし、300年に1度とか、500年に1度の確率の降雨など、想定外の大雨が降ることは当然あります。たとえば、十勝川水系でいうなら1981年の大雨です。この時は300年に1度と言われる大雨が降りました。こういう想定外の大雨が降ったなら、堤防から水があふれ出るのはやむを得ないのです(ただし、この時には人口密集地の帯広周辺で堤防から水が溢れることはありませんでした)。

 想定外の大雨なら氾濫するのもやむを得ないのに、「洪水被害が起こらないよう治水対策をしっかりしろ」とか、「ゲリラ豪雨に対応した対策を講じろ」などといっていたらきりがありません。あちこちダムだらけにしたあげく、さらに堤防のかさ上げや強化をしていかなければならなくなるでしょう。川は死に、自然の砂浜は消失していきます。そうして堤防のかさ上げを続け、万一堤防が決壊したなら、その時の被害こそ恐ろしいことになります。

 ですから、こういう想定外の大雨が降った時には、堤防から水が溢れることを前提にしたうえで被害が最小限になる対応策を考えるしかありません。具体的には、迅速な非難体制の確立、洪水の農地への誘導(遊水地等)、浸水に耐える住宅(基礎を高くするなど)、危険地域からの移住促進などです。

 ダムや代替案を検討する際に最も肝要なことは、「基本高水の流量が適正に算出されているのか」、ということなのです。この数値が過大であれば、過剰な治水対策をすることになります。つまり、不要なダムをつくったり、不要な河川整備をするということになるのです。

 そして、この基本高水というのは多くの場合過大になっていることが指摘されています。八ッ場ダムでも過大になっていることが明らかになり、国もそれを認めました。十勝川水系では十勝自然保護協会が数値の根拠を明らかにするよう求めていますが、帯広開発建設部は無視を続けています。

 まずは全ての河川において再計算をし、これ以上の治水が必要かどうかを見定めなければならないのです。基本高水が適正に算出されていたなら、「ダムもいらないし河川整備もほとんど必要ない」という河川だってたくさんあるでしょう。必要なのは、想定外の大雨で溢れたときの対応策なのです。

 また、「ダムによる治水か」「ダム以外による治水か」という議論には、自然環境にもたらす悪影響が考慮されていません。ダムが河川生態系に大きな影響を与えることは言うまでもありませんが、ダム以外による治水、たとえば河道の掘削などをしたなら河川生態系に影響が出るのです。ダムじゃなければいいというものではありません。

 ところが、実際には過大な基本高水流量の問題は棚に上げ、ダムかダム以外の代替案かという議論にすり替えられています。しかもその判断基準はコストというのですから、自然環境のことは無視も同然です。

 まずは計画規模の基本高水流量を計算し直して計算式を公開し、さらなる治水対策が必要という結論になった場合にのみ、生態系への影響を考慮した治水を検討し、それとともに計画規模外(想定外)の降雨における対策をきちんと考えるべきでしょう。二者択一とコストにこだわる「検討の場」は欠陥としかいいようがありません。

2010年12月13日 (月)

ウィキリークスの挑戦とインターネット

 ジュリアン・アサンジ氏の創設したウィキリークスとそれを敵視する人たちとのサイバー合戦が繰り広げられているとか・・・。

 少し前までは、いわゆるメディア(新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・書籍等)に一般の人が直接関わることはあまりありませんでしたが、インターネットが普及した今は、誰もがホームページやブログ、掲示板などで全世界に情報を発信できるようになりました。情報の正確さはともかくとして、誰もが自由にメディアを持つことが可能になったのです。2、30年前には考えられなかったことです。

 マスコミは自分たちに都合の悪いことはほとんど伝えません。まして、そのマスコミが権力者と結びついていたなら、マスコミは御用メディアでしかなくなるでしょう。それを是正することができるのは、権力者ともマスコミとも結び付きのない者による発信です。インターネットがマスコミの報じない不正などの告発の場として用いられるのは、当然の成り行きです。

 そして、衝撃的ともいえる告発サイトがウィキリークスです。イラクで米軍が市民を銃撃している映像などは、まさにアメリカの嘘と傲慢さを表しています。ウィキリークスの公開した米外務省の機密文書によって、アメリカの外交上の情報が丸裸にされ、イラクに戦争を仕掛けた陰謀が暴かれました。この告発サイトによって、国家機密の名の元に、市民に知られたくない情報が大量に秘匿されているという現実を、私たちは知ることができたのです。これまで一般のメディアには到底できそうもなかったことを、ウィキリークスは成し遂げました。これは大きな功績です。

 もっとも、機密情報がインターネット上に流出したことにおいては、公安警察の内部資料流出事件や尖閣ビデオ流出事件も同じです。これらの情報流出の正当性はともかくとして、もはやインターネットによって情報が世界中にばら撒かれる時代になったという認識をもたねばならなくなりました。

 ウィキリークス、公安内部資料流出、尖閣ビデオ流出などの問題で口ぐちに叫ばれるのが、機密情報の管理責任です。しかし、いくら情報管理を徹底したところで、情報を知り得る立場の人が内部告発を決意したなら、情報の流出を完全に防ぐことは容易にできないでしょう。内部告発というのは権力者などが不正をしたり、不都合な情報の隠ぺいを行うがために生じるのであり、それを根本的に防ぐには本来であれば不正をやめて透明性を高くするしかありません。

 ところが、まずそういう方向には動かず、権力者は告発者探しにやっきになり、告発サイトを潰そうとするのが世の常です。ウィキリークスに怒ったアメリカはサーバーのアマゾンドットコムに圧力をかけてサービスを停止させ、クレジットカード会社のビザとマスターカードもウィキリークスのカード使用を中止するなどして追い出し、さらにスウェーデンはアサンジ氏を性犯罪で指名手配し、英国警察が逮捕するという事態に至っています。アメリカは彼をスパイ罪で訴追すべく必死になっているようです。権力者の卑怯な手法が手に取るように分かります。それにしても、アサンジ氏の強姦容疑の真実はどういうことなのでしょうか。逮捕するほどのものなのか、大いに疑問です。

 ウィキリークス側もサイバー攻撃をしかけているようですが、何よりも強みなのはミラーサイトです。アサンジ氏を拘束したところで、いちどインターネット上に広まってしまった情報を回収するのはほぼ不可能でしょう。サイバー合戦もいつまでも続けていられないと思いますが、どういうことになるのでしょうか。

 告発情報というのはプライバシーの問題などもありますが、基本的にはウィキリークスに頑張ってほしいと思います。

 それにしても、日本のマスコミはウィキリークスでどんなことが暴露されているのか、ろくに報道しないのではないでしょうか。海外ではマスコミが中身を話題として取り上げ、アサンジ氏の逮捕に抗議してデモも行われているようですが、日本のマスコミはノーベル賞だの、小沢氏問題だの海老蔵事件だのに話題をそらせ、ウィキリークスの報じている中身のことや、アサンジ氏を支持する海外の市民の動きなどには触れないようにしているかのようです。なんともお粗末。

2010年12月12日 (日)

犯罪者に裁かれている日本国民

 生田暉雄弁護士が最高裁を訴えて闘っていることは、「驚くべき日本の裁判所事情」に書きましたが、この裁判の判決が10日に言い渡されたそうです。裁判官は10秒程度で判決を言い終えると、無言で法廷を後にしたとのこと。よほど、後ろめたい判決だという自覚があるのでしょう。この裁判長、まさにヒラメ裁判官(最高裁の顔色をうかがって判決を出す裁判官のことで、魚のヒラメに例えてそう呼ばれています)そのものではないかと・・・。以下の記事にその様子と生田弁護士の闘っている裁判の意味が詳しく報じられています。

最高裁による裁判官統制 ~生田弁護士が明かす「ヒラメ」の秘密~(三上英次)

 さて、三上さんの記事は生田弁護士の主張を分かりやすく紹介していますが、できれば以下の生田弁護士本人が書かれた文書をぜひお読みいただけたらと思います。世界からみて、日本の裁判がいかに遅れているのかがよく分かるのですが、この実態は国民としてあまりにも恥ずかしすぎて言葉もありません。

最高裁のウラ金-正常な司法なくして、正常な社会の発展はない(生田暉雄)

 生田弁護士は、最高裁がやっているのは犯罪行為(詐欺、背任、横領罪等)だと指摘しています。そして、「われわれ国民は、犯罪者による裁判を長年受けているのです」というのですから、国民はのほほんとしているわけにはいきません。

 生田弁護士によると、日本の行政訴訟の件数は年間1800件しかなく、これはドイツの500分の一とのこと。1800件のうち20%は門前払いされ、さらに市民の勝訴率はたった10%。日本は裁判所の数や裁判官の数も諸外国と比べると桁違いに少ないのです。裁判の費用を援助する法律扶助も、諸外国に比べて極端に少ないといいます。日本では、裁判を起こしたくても弁護士に依頼する費用も出せないという人が大勢いますが、そもそも庶民が裁判を起こしにくいシステムになっているわけです。そして、最高裁の裏金の仕組み・・・。この裏金は、どんなに少なく見積もっても、年間10億円は下らないといいます。これだけあったら、福祉や教育などにずいぶん回せるでしょうに・・・。さらに最高裁と行政庁のなれあいによる不正の隠ぺい。私たち一般の国民にとっては驚くべき実態が山盛りです。日本って、たいへんな裁判後進国なんですね。こういうことを知ってしまうと、もう唖然とするほかありません。

 現職のときに警察の裏金を実名告発した仙波敏郎さんは、裏金づくりに加担した警察官は犯罪者だといいますが、この国の国民は犯罪者集団によって捜査を受け、犯罪者によって裁かれていることになります。そして、マスコミは生田弁護士の主張をほとんど何も伝えません。この国では、裁判を利用した市民の権力監視も困難なうえに、マスコミも役立たずなのですから、救い難い・・・。

 とはいえ、救い難いと嘆いていてもどうにもならないので、微力でしかありませんが、せめてこうして記事にして皆さんに知ってもらう努力をしたいと思います。そして、こんな酷い司法事情の中で市民の立場にたって頑張っている弁護士さんたちには、声援を送りたいと思います。

2010年12月10日 (金)

ノーベル賞で騒ぎすぎの日本

 今年のノーベル賞では鈴木章さんと根岸栄一さんが化学賞を受賞され、日本中が湧きあがりました。お二人を多くの人が祝福するのはいいのですが、日本の受賞に関する報道はあまりにも騒ぎすぎではないでしょうか。

 受賞の決定のときや、授賞式の様子がニュースとして報道されるのはわかります。しかし、おそらくお二人の日常生活は受賞した途端、それまでの静かなものから一変し、マスコミからの取材要請が殺到する慌ただしいものに変わってしまったのではないかと思います。

 しかも、授賞式に出発する際には飛行場までまとわりついてインタビューし、ノーベル博物館にもつきまとって取材し、授賞式を前に記者会見したのでは、お二人もさぞかし疲れたのではないでしょうか。日本のマスコミ記者がこうやって行く先々でまとわりついている光景は想像するだけでも異様ですし、お二人ともゆっくりくつろぐこともできないのではと心配になってきます。いくら名誉なことであっても、受賞者は見世物ではありませんし、取材も程度問題でしょう。もう少し、静かに見守ってあげられないものでしょうか。

 一昨年、北欧に旅行したとき、ストックホルムのノーベル博物館を見学しました。この博物館には過去のノーベル賞受賞者の肖像が天井から吊るされて回転しているのですが、それがすごい数で、一周するのにかなり時間がかかるのではないかと思うほど。その中から日本人を見つけ出すのも大変です。それを見て、ノーベル賞の受賞者がこんなに多かったのかと改めて驚かされました。

 そもそもノーベル賞の賞金はダイナマイトの発明者であるノーベルの遺産が原資になっているわけです。そのダイナマイトは建設業で大きな役割を果たすだけに留まらず、戦争に利用されました。それによってノーベルは巨額の富を得たのです。ノーベルはその後悔から、戦争で得た莫大な遺産を基金とすることを遺言として残し、ノーベル財団が設立されました。

 ノーベル賞の賞金の原資は、ノーベルの爆薬開発と戦争での爆薬利用によって得たものであることを考えれば、ノーベル賞受賞を単純に喜んでいるだけでいいのかと考えされられます。戦争という犠牲と、戦争で得た富のもとに生まれた賞であることをほとんど忘れ、浮かれているばかりの昨今の報道はいったい何なのでしょう。「日本人って単純!」と思ってしまいます。

 創造的な研究によって権威ある賞に選ばれるというのは並大抵のことではなく栄誉あることは確かですが、受賞をめぐるマスコミの過熱報道には辟易とするものがあります。ノーベル賞に選ばれなくても、受賞者とおなじくらい優れた研究をしたり業績を残した人も大勢います。賞に選ばれるか選ばれないかは「運」も関わっているのであり、受賞者だけが優れているわけではありません。

 それに、昨年平和賞を受賞したオバマ氏などは臨界前核実験もやったのですから、あの選定は明らかに不適切というほかありません。受賞という栄誉だけに周りが振り回されるのはどうかと思います。

2010年12月 8日 (水)

若者に職場を!

 5日の北海道新聞に「道内大学 内定獲得へ課外授業」という記事がありました。就職氷河期再来とのことで、就職率を上げるために道内の大学が就職の支援に乗り出しているそうです。たとえば、企業に提出するエントリーシートの書き方を指導したり、就職講座を開講したり、あの手この手で就職率を高めようというわけです。

 でも、大学がこうして就職指導に力を入れたところで大卒の求人数は決まっているのですから、大学生全体の就職率がアップするわけではありません。自分の大学の就職率を向上させ新入生を集めようという大学の意図が見え見えですが、それによる効果がいつまでも続くはずがありません。

 学生にとっては、せっかく大学に入ったと思ったら、すぐに就活をしなくてはならないというのでは、大学でじっくり学んだり学生生活を謳歌するという感じではありませんね。それに、これほど就職難になると大学で専門的な知識を学んでも、それを仕事に活かすどころではありません。学生にとっても大変だし、大学にとっても大変な状況になってきました。

 今年は何回も東京に行ったのですが、電車内の広告などを見ていると、知らない名前の大学や専門学校がものすごく増えていて驚きの連続でした。この数十年で大学や専門学校の数が急増したことがよく分かります。今は選り好みさえしなければ、大学進学希望者はほぼ全員が大学に入れるような時代になりました。これだけ大卒者が増えたなら、就職が困難になるのも当然のことです。今後は子どもの数が減っていくのですから、大学にとってはいかに新入生の数を確保するのかは死活問題になりますが、大学を増やしすぎたツケというべきです。

 その一方で、私のまわりにも退職をする人たちが目立ちはじめました。団塊の世代が定年を迎えているのですから当然です。ところが、再就職をされる方が多いのです。働く意欲があるのは悪いことではないのですが、気になるのは年金や貯蓄がそれなりにあり老後の心配がないような人も、かなり再就職をされることです。もちろん、多くの方が正職員ではないので収入は激減しますが、それでも仕事をしたがるのです。私は、正直いってこういう方たちこそきっぱりとリタイアし、若者に職場を提供してほしいと思います。

 もちろん、それだけで若者の職場が確保できるわけではありませんが、少なくとも生活力のある退職者が再就職をしないことで、少しでも若者の雇用の場を広げるという意識も必要ではないでしょうか。

 退職したら時間をもてあますというのなら、ぜひボランティア活動などをしていただきたい。たとえば自然保護活動などは、私の若い頃のような勢いはありません。どの団体も人手不足なのですから、活動に参加してくれる人がいたなら大歓迎です。今の60代の人たちは、ほんとうに元気です。その活力をぜひ、自然を守る活動に活かせば、無駄な公共事業をもっと減らすことができるかもしれません。自然保護に限らず社会を改革していくような活動は他にもいくらでもあるでしょう。

 それに、職場から離れるということは自由に物を言える立場になるということでもあるのです。その特権を活かしておかしなことにノーを突きつけていくことも自由にできるのですから、これは大いに喜ぶべきことです。デモや集会に参加したり、ブログで意見を書いたり、いろいろなことができるのではないでしょうか。退職者がパワーをそんな風に使えたなら、日本の未来にももう少し希望が持てるような気がします。

2010年12月 7日 (火)

諫早湾の潮受堤防は直ちに開門を!

 諫早湾のことについては、「諫早湾の愚行」にも書きましたが、諫早湾の潮受け堤防の撤去や水門の開門を求めた訴訟の控訴審判決で、原告が勝訴しました。久々に嬉しいニュースです。

 自然保護に関わる裁判で勝訴することは、とても困難になっています。しかし、この裁判では一審に続いて二審も原告の勝訴です。ギロチンと言われた潮受堤防と漁獲量の減少の因果関係を認めて5年間の開門を命じたのですから、きわめて適切な判断がなされたといっていいでしょう。この自然を破壊し漁民を苦しめた事業に2度もノーが突き付けられたことは、無駄な公共事業であったという烙印が押されたということです。

 ただ、ちょっと気になるのが、「防災機能などの代替工事」との理由で3年間の猶予がついたことです。「本件各排水門を常時開放しても、 防災上やむを得ない場合にこれを閉じることによって、その防災機能を相当程度確保することができる」としているのですから、3年もの猶予期間は長すぎるのでは・・・と思えてなりません。すぐにでも開門すべきです。

 国は上告を断念し、一日でも早く開門して干潟が甦ることを願ってやみません。以下に、この裁判を闘ってきた「よみがえれ!有明訴訟弁護団」の声明を紹介します。

*****

弁護団声明

国は直ちに開門の政治決定を
福岡高裁の判決を受けて

2010年12月6日
よみがえれ!有明訴訟弁護団

 本日、福岡高裁は2008年6月27日に佐賀地裁が言い渡した開門判決の控訴審において、国の控訴を棄却して、再び国に開門を命じた。
 判決は、次のとおり判断して、国に開門を命じている。
 諫早湾及びその近傍場においては、本件潮受堤防の締切りによって、漁業資源の減少に関与する可能性のある要因が複数生じた可能性が高い。
 現時点において、本件各排水門を常時開放することによって過大な費用を要することとなるなどの事実は認められない。
 開門による有明海漁業被害の救済は、いまや待ったなしである。潮受堤防閉め切りから13年が経過し、累積する漁業被害の中で漁民の生活は逼迫している。多くの漁民が生活苦の中で自殺に追い込まれた。漁業を基盤になりたっていた地域社会も深刻な打撃を受けている。
 すでに事業が終了し、干拓地での営農が開始されている状況を踏まえ、私たちは、訴訟の内外で、開門こそが漁業と農業・防災を正しく両立させる方策であることを明らかにしてきた。干拓地農業が成功するためには、毒性のアオコが発生する調整池の汚濁水に代わる農業用水を確保しなければならない。真の防災を実現するためには、干拓事業のためになおざりにされていた排水路や排水機場の増設など、有明海沿岸で一般に採用されている防災対策をきちんと採用することが不可欠である。
 わたしたちが提唱する短期開門調査レベルの開門から開始する段階的開門の方法によれば、開門前の環境アセスメントは不要である。短期開門調査レベルの開門はすでに実績があるからである。国は、深刻な漁業被害を救済するため、短期開門レベルの開門を直ちに実施すべきである。そのうえで必要なデータを集め、対策をとりながら次の段階へと開門レベルを上げていき、同時にその間じっくりと本格的な防災対策と農業用水の確保を行うことこそが、安全安心の開門と地元合意の実現に向けた最善の方策である。
 開門を公約にかかげた民主党政権が誕生して1年が経過した。農水省が設置した諫早湾干拓事業検討委員会の郡司座長が、本年4月28日に、「有明海の再生への可能性を探るため、また、諫早湾干拓の排水門開門の是非を巡る諍いに終止符を打つため、環境影響評価を行った上で開門調査を行うことが至当と判断する」と報告して半年以上が経過した。
 もはや逡巡は許されない。
 司法による2度の開門命令を真摯に受け止め、国が、直ちに開門の政治決定を下すことを求めてやまない。

2010年12月 6日 (月)

裁判員裁判での死刑判決に思う

 東京に行っている間に、裁判員裁判で二回目の死刑判決が出ました。その間、テレビニュースも見ていなければ新聞も読んでいなかったので状況がよく分からなかったのですが、以下の宮崎節子さんの記事を読むとおおよそのことがわかります。

裁判員裁判、少年死刑判決報道

 裁判員裁判が始まった頃は、死刑に関わるような重大な事件はありませんでした。ところがこの秋からはどうでしょう。死刑に関わるような重い判断を求められる事件が続々と出てきました。被告人が自白を強要されたと主張している事例もあります。予想されていたとはいえ、堰をきったように難しい判断を迫られる事件が出てくるというのはどういうことなのか、不思議でなりません。もはや、裁判員は「いい経験になった」などとのんきなことを言っていられる状況ではありません。

 二例目の死刑判決は少年事件でした。光市事件について二例目の少年に対する死刑判決ですから、裁判員はきわめて重い判断を求められたことになります。しかし、上記の記事に書かれている判決骨子を見て、やはりこんな理由で少年を死刑にしてもいいものかと思わざるを得ませんでした。

 まず、「反省に深みがなく更生可能性は低い」という判断。愛情のある家庭で育った正常な精神の人ならばともかく、虐待などで精神的に深い傷を負ったり、人間を信じられない環境で生きてきた人が罪と向き合って反省をするというのは、それほど簡単なことではありません。何年もの月日がかかることもあるでしょう。死刑について考える(その4)」で取り上げた宅間守のように、虚勢を張って決して反省の態度を示さない被告人もいます。しかし、そんな意固地な態度をとり続けるのは恐らく生育歴に起因していると思われます。

 少年の取り調べでは違法行為はなかったのでしょうか? 犯行は事実であっても、違法ともいえる厳しい取り調べをしたり、事実をゆがめた調書を強引にとられていたなら、素直に反省の態度を見せることができないかもしれません。

 更生可能性といったことも、そんなに短期間で結論づけられるとはとうてい思えません。 少年事件なのに、家裁が作成した詳細な生育歴も証拠申請されなかったというのですから、これはちょっと信じがたいことです。以下の記事によると、少年は5歳で両親が離婚し、母親から虐待を受け、その母親も交際相手からDVを受けていたといいます。想像しただけでも壮絶な家庭環境です。

裁判員裁判初の「少年死刑」・・・悔やまれる予防教育の遅れ

 暴力が日常的な家庭で育っていたなら、暴力に対してまっとうな判断をできなかったとしても不思議ではありません。「ゆがんだ人間性」と切り捨てるのではなく、それがどこからもたらされたのかまで十分に検討し、更生の可能性を探るのが裁判の役割ではないでしょうか。情状や更生可能性を判断するための重要な証拠を出さないで、どうして更生の可能性が低いなどと軽々しく判断できるのでしょう。審理の迅速化のために重要な証拠を出さなかったというのなら、裁判員裁判は廃止すべきです。

 そして、残念なのが「残虐さや被害結果からすれば刑事責任は誠に重大で、極刑しかない」という判断です。これはまさに事件を起こした背景や動機を軽視し、残虐性や三人を殺傷したという結果ばかりを重んじたものですが、光市事件と同じ構図のように感じます。近年の厳罰化の流れも、こうした国の考えが根底にあるのではないでしょうか。

 記事の筆者の宮崎さんは「死刑判決を受けた二事件の少年二人は、豊かな時代に育ちながら生育歴は悲惨だった。人間らしい温かさを知らないで育ち、犯した罪では人間らしさを問われる。自分で犯した罪とはいえ少年の身に死刑判決。やりきれない思いになる」との感想を書かれていますが、同感です。悲惨な環境で育った子どもがどんな精神状態に陥るかといった考察が、この国の裁判ではあまりにも軽視されていると思えてなりません。被告人は控訴して、さらに審理をつくしてほしいと思います。

 少年による凶悪事件は激減しています。それなのに、なぜこの国は厳罰化ばかりを求めるのでしょうか。裁判員制度を利用して、厳罰化に市民を巻き込んでいこうとするこの国は、どこへ向かっているのでしょうか。国による厳罰化は、やがて自分自身の身にふりかかってこないとも言えません。軽微なことで市民が相次いで不当逮捕された事例を忘れてはならないでしょう。

【関連記事】

裁判員の苦悩はどこからくるのか

2010年12月 3日 (金)

NHKの未契約者への姑息な提訴予告

 昨日のニュースによると、NHKは東京都内の2世帯に対し、テレビを設置しているのに受信契約を結んでいないとして契約締結と受信料不払い分の支払いを求める訴訟を起こすとの通知を郵送したそうです。NHKはこれまで受信契約を結んでいるのに支払い督促に応じない人を提訴するなどしてきました。しかし、今回は受信契約を結んでいない人に対する提訴予告ですから、これまでとは話が違います。

 このニュースを聞いて、とても疑問に思ったことがあります。そのひとつは、なぜ2世帯だけに通知するのか、ということ。テレビを設置していながらNHKと契約をしていない世帯はいったいどのくらいいるのでしょうか。以下のサイトによると平成18年時点で未契約件数は1086万件にのぼるそうです。

NHKの受信料問題

 未契約の件数を把握しているのなら、すべての世帯に提訴予告通知をするというのが公平というもの。ところで1086万件という未契約数は、そもそもどうやってはじきだしているのでしょうか。そしてどうやってその中から2件を選びだしたのでしょうか。なぜ2件だけなのでしょうか。1000万件以上の未契約者がいるなら、たまたま通知の対象にされた人はたまらないでしょう。これまでの裁判もそうですが、公平性がまったくないやり方です。

 もっともすべての未契約者を相手にしたなら、裁判費用だけでもとんでもない金額になり大変な手間になりますから、そんなことはできないでしょうね。そもそも裁判費用だって受信料から支払われるのでしょうし、未契約者を端から提訴することなど費用対効果からいっても不可能でしょう。通知された人は、なかば見せしめのようなものであり、NHKのやり方は姑息としかいいようがありません。

 通知をした人の名前が分かりませんが、私が非常に関心を抱いたのは、NHKの受信契約を拒否しつづけ「NHK受信料拒否の論理」という本まで書いている本多勝一氏には提訴の予告をしないのか?ということです。本多氏のこの本の刊行部数は、朝日新聞社出版局からの文庫本を含めると、「10万の桁にはなっているはずだ」と、「NHK受信料を拒否して四〇年」(本多勝一著、金曜日刊)に書かれています。それだけ多くの人に読まれ、影響を与えているのです。私の知人にも、集金人がくるとこの本を見せて拒否しているという方がいます。

 ですから、NHKが未契約者に提訴予告をするなら、堂々と拒否を公言している本多氏こそ対象とすべきではないでしょうか。NHKが本多氏を無視しているのであれば、なぜ本多氏を対象としないのか聞きたいところです。

 もうひとつは、裁判を起こした場合、いったいNHKは放送を受信できるテレビを持っているかどうかをどうやって証明するのか、あるいは不払い期間をどうやって特定するのか、ということです。裁判を起こしたら、これらのことについてはNHK側に立証責任があるでしょう。しかし、NHK職員が勝手に家に上がり込んでテレビのスイッチを入れるわけにはいかないはずです。こんな状態で、未契約者に対する裁判は本当にできるのかという疑問が湧いてきます。

 なぜ、こんな不公平で姑息なことをするのでしょう。私はこんなふうに考えています。番組改編問題や不祥事をきっかけにNHKは大きな批判を浴び、不払いや解約をする人が急増しました。その対策として、NHKはこれまで受信契約を結んでいるが不払いになっていて督促にも応じない人を提訴してきました。それらの裁判はことごとくNHKが勝訴しています。NHKは、これらの裁判によって不払いの人に対しては強硬な態度がとれるようになったといえます。しかし、そんな姿勢を貫いていたなら、いっそのこと解約をしてしまおうという人が増えます。つまり、解約者を増やさないために、なかば脅しで提訴予告をしたのではないかと思えてなりません。

 私が非常に姑息と思うのは、NHK自身が放送法の第1章第1条の「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」を守っていないのに、それを棚にあげ、放送法の第2章第32条を持ち出して強制的に契約を結ばせようとすることです。放送法を盾に契約を強要するのなら、まずは自ら放送法を遵守するというのが筋というものです。

 さて、NHKから受信契約をしなければ訴えると言われたなら参考になるサイトがあります。

NHK受信契約の検証(論泉)

 つまり、契約を求められたなら「契約をする意思を示した上で、視聴者側の条件を突き付ける」ということです。たとえば、「NHKの受信料の金額には納得がいかない。NHKの放送内容は月額1円程度の価値しかない」などと言って交渉することができます。これは「契約の自由」の原則によって主張できることです。NHKの横暴と対峙するためにも、私たちは賢くふるまわなければならないと思います。

 なお、NHKの受信料裁判の問題については、以下の創出版のサイトが参考になります。

NHK受信料督促裁判を考える

2010年12月 2日 (木)

あまりにも情けない環境省

 「ついに十勝三股に侵入したセイヨウオオマルハナバチ」にも書きましたが、とうとう今年の8月に大雪山国立公園の十勝三股地区にセイヨウオオマルハナバチの女王蜂が侵入してしまいました。

 このことに関して十勝自然保護協会と北海道自然保護連合が11月20日付けで環境省に質問書を出しましたが、11月30日付けで回答がきました。以下をお読みください。

セイヨウオオマルハナバチの侵入についての回答

 この回答から、環境省は8月下旬には三股への侵入の報告を受けていたことがわかります。それにも関わらず、自からその事実を報道機関等に公表することはありませんでした。私が11月1日に上士幌自然保護官事務所に電話で聞いたときも、不可解なことに「夏に糠平で確認された」と事実と異なる説明をしたのです。どうしてこんな説明になったのでしょう?

 十勝自然保護協会では十勝三股にセイヨウオオマルハナバチが侵入することを懸念し、かねてからルピナスなどの外来種の駆除を求めてきました。しかし、環境省は何もしませんでした。自然保護団体から責任を追及されることを恐れ、不都合なことを隠したかったとしか思えません。隠しとおせることではないのに、情けない限りです。

 回答によると、環境省は三股における防除活動を来年の春に向けて準備を進めるとしています。私が電話で対応策について尋ねたときは「何もしていない」とのことでしたし、防除活動の計画もないと言っていました。ところが一カ月後の30日には防除活動の準備を進めていると回答しているのです。自然保護団体が質問書を出して十勝三股への侵入が公になってしまい、大慌てで駆除対策を計画したのではないでしょうか。

 この回答で、環境省の外来種対策の姿勢がよくわかります。環境省は以下のように説明しています。

 環境省所管地のある十勝三股には、今回発見されたセイヨウオオマルハナバチや、ご指摘のルピナスに限らず、様々な自然環境保全上の問題や課題があります。これらの問題や課題は関連するものも少なくなく、総合的に取り組むことが必要となっております。当事務所では、現在、大雪山国立公園としての十勝三股を含む東大雪地域全体の整備基本計画を、地域の方々にも参画頂きながら策定中ですが、この地域に位置する十勝三股地区の自然環境の保全・管理のあり方についても、その中に位置づけることとしており、そのうえでルピナスやカラマツなどの除去を含め、問題と課題解決に向けた取り組みを実施してまいります。

 つまり外来種の駆除については、地域の方たちに参画してもらって策定中の東大雪地域の整備基本計画がまとまらなければ決められない、というのが環境省の姿勢です。国立公園内の外来種の駆除対策ですら、地域の方たちにお伺いをたてなければ決められならないないというのですから、とことん情けないというしかありません。三股のルピナスが繁茂しているところは環境省の所有地なんですけどね!

 回答書では、報道機関等に情報提供をしなかった理由や、ルピナスの駆除などの予防措置をとらなかった理由についても答えておらず、都合の悪いことは無視を貫いています。よほど責任追及をされたくないのでしょう。

 一つだけ評価するなら、速やかに回答がきたということです。近年は、環境省は質問書を出しても回答すらしないことが多かったのです。回答の中身はともかくとして、質問に対して回答をするということについては、開発局や北海道のほうがきちんと対応していました。

2010年12月 1日 (水)

好きになれない言葉

 一週間ほど留守にしていたのですが、その間に渡辺容子さんがご自身のブログ「暗川」に興味深いことを書いていましたので紹介します。

「癒し」という言葉は大嫌いです

 この記事の中で紹介している社会学者の鵜飼正樹さんの文章は、共感するところが多々あります。私もいわゆる「癒し」ブームというのは嫌いで、この言葉を聞くと背筋がぞっとします。鵜飼さんは「多くの人が『癒されたがり』病にかかっているだけではないかと勘繰りたくもなる」と書いていますが、私も確かにそう感じることがよくあります。

 現代のように混沌とした社会では人はだれでもストレスを溜めてしまうものです。ですから疲れた心身を「癒す」こと自体が悪いことだとは思わないのですが、いわゆる「癒しブーム」の感覚は気持ち悪いとしか思いません。

 私の場合、精神的に疲れてしまったときの一番の薬は、自然の中に出かけることです。若いころは、野鳥観察の旅行に行ったり山に登ったりしました。旅先や山できれいな空気をいっぱいに吸い込み、自然の醸し出す香りや音、風などを五感で感じ取り、言葉ではとても言い表せない美しい光景に見とれ、可憐な花に目を見張り、小さいながらも逞しく生きている野鳥たちの姿を見ていると心が洗われ、生きていることの喜びが湧きあがってきたものです。そういったことが私にとっての「癒し」であり、他人に「癒してもらいたい」と思ったり、癒しの方法を教えてもらいたいと思ったことはありません。

 それに、鵜飼さんも書いているように、飢餓に苦しむ人々を前にしたなら、日本人の「癒しブーム」などというのは何の役にも立ちません。

 「癒し」という言葉とともに嫌いなのは「ふれあい」とか「元気をもらう」。これも「癒し」と同じくらい昨今のブームのような言葉ではないでしょうか。とても好きになれない言葉なので、自分で口にすることはまずありません。「ふれあい広場」とか「ふれあいコーナー」とか、「ふれあい」とつく言葉がそこらじゅうに溢れるようになりましたが、これも何とも気持ちが悪い。すぐに頓挫してしまいましたが、環境省の「ふれあい自然塾」という事業もありましたっけ。自然と「ふれあってもらう」ための施設づくりの事業です。

 そもそも「ふれあい」の場って他人が用意してあげるものでしょうか。「元気」って、他人からもらうものでしょうか? 人と人との出会いや交流というのは、自分の行動があってのものではないでしょうか。他者の言動に触発されて「元気づけられる」というのなら分かりますが、「元気」というのは誰かにあげたり、誰かからもらったりするものではないはずです。

 どうしてこれらの言葉が好きになれないのかと考えてみたのですが、結局、これらの言葉は他力本願というか、とても受動的な状態を前提にしていることに気付きました。自分で求めたり努力するのではなく、だれかがお膳立てをしてくれることを前提としているのです。黙っていても、誰かが「癒してくれる」ものを提示してくれるとか、人と人の交流の場を設定してくれるとか、「元気」を与えてくれるとか・・・。

 そこには自分の意思で何かをつかみとっていくという主体性がありません。でも、人間というのは他人に何とかしてもらって生きていく存在ではないと思うのです。苦しいことや辛いことがあっても、それを乗り越えるためには最終的に自分の頭で考え選び、行動していくしかありません。もちろんどうしていいのか分からないときにはアドバイスをしてもらったり、助けを求めることも必要です。人と人が理解しあい、協力しあって生きていくことも不可欠です。しかし、最終的に自分の信条や生き方を決定するのは自分自身の意思でしかありません。人がまっとうに生きていくうえで一番大切なのは自分自身の気持ち(良心と言い換えてもいいでしょう)を大切にし、意思をしっかりと持って行動していくことではないでしょうか。他力本願でのほほんとしていたなら、欲の塊となった権力者に利用されてしまうだけです。

 だからこそ、他力本願のような「癒し」「ふれあい」「元気をもらう」という言葉を聞くと、胡散臭いとしか思えないし、こんな言葉がもてはやされるこの国は大丈夫なのだろうかと不安にもなってきます。

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

フォト

twitter

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ