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2010年6月 8日 (火)

深刻な若者の読書離れ

 小田光雄さんの執筆されている「出版状況クロニクル25」を読んでいて、大学生の読書離れに触れた記事が目に留まりました。大学生協の「第45回学生の消費生活」に関する実態調査によると、まったく本を読まない学生が何と約4割。また4割から5割の学生が、専門書もそれ以外の本や雑誌も、一カ月に一冊も買わないそうです。

 大学生の一カ月の書籍費は、30年前の1980年は自宅生が4,240円で下宿生が5,350円。それが現在は自宅生が2,000円で下宿生が2,370円とのこと。こうやって比べてみると、一昔前の学生はずいぶん本を買っていたのですね。親からの仕送りが減り、アルバイトや奨学金で何とかしのいでいる学生も多いと聞きますから、書籍への投資が減るのはわかります。それにしても、この数字はどうなんでしょう・・・。本の値段は高くなっているのに、書籍費は半減です。たぶん、彼らは携帯電話やファッションなどにはそれなりの投資をしているはずです。しかし、本には投資しないわけです。コミュニケーションの手段や価値観が変わったといえばそれまでですが、「若者が本を読まない」ということに危機感を持たざるを得ません。いったい何から知識を得ているのでしょうか? それとも知識を得ること自体をしなくなっているのでしょうか?

 私は本を読むのは好きですが、それほど多くの本を読んでいるというわけではありません。とはいうものの、学生時代には比較的本を読んだ方だと思いますし、「本を読まない」などという生活は考えられませんでした。専門書というほどではなくても、自然に関する本をよく読みました。野鳥など動植物に興味を持っていたのですが、自然にまつわる興味深い本がたくさんあったのです。休日は野に山に海岸に・・・と外をうろつきまわって野鳥などの観察にいそしみ、平日は大学の往復と読書の生活といっても過言ではありません。

 大学の図書館もよく利用しましたし、ちょっと時間ができたときのために、必ずといっていいほど本の一冊は持ち歩いていました。卒業してからもその習慣は変わらず、通勤の電車の中でもしばしば本を読んでいました。今でも、でかけるときはよく本を持ち歩きます。でも、昨今では電車で本を読んでいる若者はほとんど見かけません。携帯電話をいじっているか、眠っているか(高齢者に席も譲らず!)です。ちなみに、2年前に行った北欧では乗り物で本を読んでいる若者をよく見かけましたし、携帯電話をいじくりまわしている若者などほとんど見かけませんでした。日本とはずいぶん違います。

 今の大学生は調べたいことなどはインターネットで済ませてしまうのかも知れません。でも、本というのはインターネットの断片的な情報とは違って奥が深く、存在感があります。一人の著者の研究や考えが順序だてて書かれていますから、著者の視点や主張、論理の展開がはっきりと伝わってくるのです。本には著者のさまざまな体験や人生観、思想などが詰まっていて独自の新鮮な世界があります。さらに、本を読むことで自然に読解力がつき、文章を書く力が備わってくるのだと思います。いくらネットで瞬時にして様々な情報が得られたとしても、やはり本を読まないということにはなりません。

 きちんとした文章を書けない学生が増えていると聞きますが、これも本を読まないことや携帯メールの独特の短い文章ばかり書いていることと関係しているのでしょう。いくら試験で良い点数をとっても、大学生にもなってきちんとした文章が書けないのでは、どうにもなりません。卒論の指導をする教官はさぞかし大変なことでしょう。それに、社会人になって仕事が務まるのか、このさき日本語はどうなるのかと心配になってきます。  

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雑記帳」カテゴリの記事

コメント

>たぶん、彼らは携帯電話やファッションなどにはそれなりの投資をしているはずです。しかし、本には投資しないわけです。コミュニケーションの手段や価値観が変わったといえばそれまでですが、「若者が本を読まない」ということに危機感を持たざるを得ません。いったい何から知識を得ているのでしょうか? それとも知識を得ること自体をしなくなっているのでしょうか?


なぜ携帯電話やファッションに投資しているはずと、またそれらへの投資が読書より劣るものと決め付けられるのだろうか…。
大学生はともかく全ての若者が読書をしていた(するべき)時代はただの一度も存在していなかったと私は思う。
危機感を持たざるを得ませんとのことですが具体的にどういう弊害が起きるのでしょう?
一般大衆が読書を習慣とする歴史なんてここ百年ぐらいで、それ以前の庶民は文字すら読めない人間が大半の時代だった。西洋の絵画はキリストを題材にしたものをよく見かけるがあれは聖書を読めない農民らに神をイメージさせるために書かれていた。
知識を得ること自体をあきらめた若者がなぜ大学に入れるのでしょう?
若者の側に問題が、それとも採用する大学の側に問題があるのか?


>学生時代には比較的本を読んだ方だと思いますし、「本を読まない」などという生活は考えられませんでした。専門書というほどではなくても、自然に関する本をよく読みました。野鳥など動植物に興味を持っていたのですが、自然にまつわる興味深い本がたくさんあったのです。

学生時代に興味ある分野を見つけられたのは何よりです。
今の学生も自分の興味あるものを見つけるに違いない。若者は本も読んでいるだろうしネットも利用している。
将来インターネットよりも便利な道具(テレパシーか何か?)が出現して今の若者がオッサンになれば「なぜ若者はネットで調べないんだ?ノイズとガセネタの中から情報を探すのは面白いのに」と言ってるに違いないだろう。


>今の大学生は調べたいことなどはインターネットで済ませてしまうのかも知れません。でも、本というのはインターネットの断片的な情報とは違って奥が深く、存在感があります。一人の著者の研究や考えが順序だてて書かれていますから、著者の視点や主張、論理の展開がはっきりと伝わってくるのです。本には著者のさまざまな体験や人生観、思想などが詰まっていて独自の新鮮な世界があります。さらに、本を読むことで自然に読解力がつき、文章を書く力が備わってくるのだと思います。いくらネットで瞬時にして様々な情報が得られたとしても、やはり本を読まないということにはなりません。


なぜ調べられる道具が目の前にあって使ってはならない理由になるのか…。
本がない時代は自分の足を運んで目で見て調べ、本がある時代は本で調べ、ネットがある時代はネットで調べるのだ。何の問題もないノープロブレム。
書物でも断片的なことしか書かれていないものはあるし、ネットでも詳しく書かれている場所もある。奥が深く存在感があるかは本人の主観的な印象なのでどうしようもない。
また著者がどんな人生を送ろうが興味がないものは読まないし、専門家とでも間違いはよく起こす。
カール・マルクスという思想家が昔いて「資本論」という壮大な思想書を書いたが、人類に与えて影響は害悪のほうが大きかった。
書物を発行できる人物は社会的にある程度信頼が寄せられる立場だが、正しいわけでは当然なく鵜呑みにするのは危険だ。
そして本を読むやつは知識熱が高じてネットもするというのは統計としてある。馬鹿なやつもネットで妙な自己主張して社会問題になってはいるが…。

若者に興味を持ったのであれば若き日の蜘蛛など自然に対する探究心を持って彼らの生態を研究すると良い。

ベリヤさん

私は自分の意見としてブログ記事を書いています。「私の勝手な決めつけ」と捉えているようですが、意見とはそんなものではありませんか? もちろん自分の意見が絶対に正しいなどという主張をするつもりもありません。あなたが私の意見に賛同しないのも自由です。

 ただし事実誤認があれば、具体的に根拠を示していただけたらと思います。納得できる根拠を示していただければ謝罪と訂正をします。

>なぜ調べられる道具が目の前にあって使ってはならない理由になるのか…。
私は、ネットで調べることを否定はしていませんよ。ただ、ネットばかりに頼ることに疑問を呈しているだけです。

松田さま
読み返してみると個人ブログへ書き込みとしては私の文章は長く攻撃的だったと反省、失礼しました。(;;;´Д`)
私の突然の書き込みでお気を悪くなさらないでくさい。あなたが何を主張しようともちろん自由であります。
以下のサイトは私の主張を代弁しているのではないですが、指摘の根拠のとして張っておきます。

http://www.sogotosho.daimokuroku.com/?index=hon&date=20090907

ところで私自身は若者といえぬ年齢でかつ大学生といわれる若者が好きではないほうです。
にしても昨今の若者論は実際の若者からかけ離れ、観念的なそれを(主にマスコミ)勝手に作り上げた上で批判する。この風潮に疑問と反感を覚えます。
あと巷で信じられている読書論=古典や思想、哲学や純文学ジャンルへの過度な礼賛、読書量主義、有名(な作家や作品)主義、これらは本を読む醍醐味を倦厭させていると日頃感じています。
もっとも学問の徒である学生がそれらのジャンルを教養と留めとくのは必修かもしれませんが…。

ところでテーマは変わりますが、義務教育のもとで子供の頃から活字であれば読書は無条件によいものと聞かされる。
一方、思索を要しない記憶偏重の〇×式テストや学歴制においての有名(な大学や会社をよしとする)主義を経て若者は大学に来ている。
大学の単位に加算されわけでも具体的なペナルティーを課されもしない読書に見向きもしないのは当然の成り行きと思うのでしょう。
もし「深刻な問題」であればなぜ若者は受験に合格して大学に在籍し大学を卒業出来るのでしょう?
読書離れなんかより教育システムのほうに深刻な問題があるのでは…。
もしかしたら「読書から若者が離れている」のではなく「若者から読書が離れている」ではないですか?
トピックが広がりすぎて私も話題の焦点が拡散気味になりましたが、「なぜそんなに読書と若者を結び付けなければならないのか?」と純粋な疑問です。

「若者の〇〇離れが深刻~」とはよくマスコミで使われる言い回しですが、それらの課題をじっくり考えると若者側ではなく年配者側の固定観念が問題なことが多いのです。
中世の魔女狩りと同じく「魔女の側が問題ではなく」それに怯えるキリスト教のモノの観かたの問題でしょう。心理学者はこれをマインドセットというそうです。

学生が安易にネットを頼ることについてはゼミや卒業論文の取り組み方のことですね?
学生の情報リテラシーに問題はあると思いますが、学内の課題ですので私は深入りしにくいです。
長文になりました、失礼。

ベリヤさん

関連サイトの紹介ありがとうございました。当該記事(第32回)とその前の記事(第31回)を読みました。

ご紹介いただいた記事のように学生の読書率が増えているデータがある一方で、私がこの記事の冒頭で紹介したように、まったく本を読まない大学生が約38%もおり、書籍購入費が自宅生、下宿生に関わらず大幅に減少しているというデータがあるのも事実です。この出版状況クロニクルを書いている小田さんも出版業界の方です。

また、以下のような記事もあります。
「1冊も本を読まない」・・・47.5% 文化庁調査で「読書離れくっきり」
http://www.sankei.com/premium/news/141011/prm1410110018-n1.html

なぜ調査によってこのような大きな違いがあるのでしょう? そしてどれが真実に近いのでしょう?

このようなデータの場合、調査の仕方などからも結果は変わってくると思いますし、どんなジャンルを読むかでも読書の意味合いが違ってきます。たとえば料理の本などというのは、私の感覚では読書には含まれません。しかし、「読書世論調査」ではそのようなジャンルの本も読書に含めているようですね。ひとつのデータだけで「増えている」とか「減っている」と言ってしまうのは危険ではないかと思います。ただし、二極分化が起きているという意見は確かにその通りだと思います。

それから、小学生の読書量の変化というのはあまり意味がないように思います。学校では読書感想文を書かせるなど、かなり恣意的に本を読ませようとします。自分の意思で読んでいるか否かが大事ではないでしょうか。

私の経験ですが、子どもの参観日に中学校に行ったところ図書室に日常的に鍵をかけていて大変驚きました。また、中学・高校になると平日どころか休日まで部活漬けの子どもたちが大半です。あれではいったいいつ読書をするのか?と思います。以下は私が以前書いた記事ですが、多くのコメントがつけられました。

http://onigumo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-28a4.html

なお、私は学力と読書量が関係しているとはあまり考えていません。私が読書が大事だと思う理由は本文にも書いていますが、ひとつは文章力の問題です。あくまでも感覚的なものですが、それなりの高等教育を受けている公務員などでも国語的にみておかしな文章を書く人がしばしば目につきます。きちんとした日本語が書けない人が増えているのではないかという印象を持っています。日頃から本を読んでいる人は知らず知らずのうちに文章を書く力がついているのではないかと感じています。

また、学生がインターネットを利用するのはもちろん否定しませんが、専門的なことを学んだり研究する際には専門書を読むことが必須です。もしネットに頼り読書量が減っているのであれば学習や研究の質にも関係してくるのではないかと懸念します。

私も書くのに気力が足りなく筆が遅くなりコメントに時間が掛かり過ぎるので、勝手ではありますが話題をそろそろしぼまさせてもらいます。

図書室に鍵が掛けられているとのことですが、それは確かに学校が変ですね。
管理する責任から逃れたくてそうしているのか部活動偏重せいで締め出しているのか、私はそれに対して詳細は知らずあなたのほうがお詳しいと思います。
最近のニュースで学校の必修にダンスが取り入れられたかと今度は柔道が必修になったりと極端な話も聞きます。
最後に「なぜ読書をしない若者に危機を感じるのか?」あるいは「若者の読書は足りていないと感じるのか?」について個人的な洞察を書いておきます。

現代の日本は情報社会の中にありますがそれ以前は工業社会。
期間は1868年の明治維新からちょうど100年ぐらい、農業社会や戦前までは庶民は食うや食わずの生活で本を読む余裕などなかっただろうと思います。
ただし江戸時代の町人に見られる寺子屋など生活に必須となる読み書きそろばんを教わる習慣は広まっていたので、知的なものへ理解や尊重する下地はあったのでしょう。
生活に喘ぐ庶民には「高等遊民なんぞいい気なもんだ」とも思っていた反面、明治の時代に登場した文豪など文化への憧れでもあった。
昔の大学生はいい意味でも悪い意味でもエリート意識があり「僕がは政治家になって、俺が企業家になって、私が研究者になって、国や社会を牽引しよう」と意気込む。物がなく時間があまる彼らは授業以外に学問の手がかりを読書に求めるのは当然でしょう。
科学と産業が進歩により社会が発展して社会が高度化すれば大学生の数は増え知識も学生もインフレ化し、大学も就職予備校やレジャーランド化すた。
物が増え時間が少なくなり飯のタネにつながらない読書を大衆化した学生は当然しなくなると同時に、庶民が食うや食わずの生活から開放されるという前代未聞の時代が到来。
「ついに貧乏から開放されたー、よかった!」と喜ぶ反面「私たちは暇を持て余している」と罪悪感を心の奥底では抱えている。
年配者ほど読書は教養や人格陶冶として重要という意識が文化として残ってはいる一方、その必然性がなくなりつつある。
教養への意気込みを感じない若者を見ると彼らに時代への苛立ちと不安を覚えるのだと思います。

ベリヤさん

ご意見ありがとうございました。

私は、読書は思考力をつける上でも重要ではないかと思っています。いろいろな立場の人の書いた書物を読むことは個人の思想の形成に大いに役立ち、自分で考え判断し行動することに通じるのではないかと思います。

しかしITはちょっと違うのではないでしょうか。若者はメール、ライン、SNSなどでの繋がりを重視するようになってきており、それに時間をとられるようになってきています。子どもも外で遊ぶより一人でゲームで遊ぶ時間が増えていると思います。しかし、そういったネットでのやりとりやゲームは思考を深めることに繋がっているとは思えません。ネットは、匿名性を利用してストレスの発散の場になることもあります。

読書をしてきた年配の方たちは、自分で考えて行動するというより、仲間外れにされないよう本音を引っ込めてSNSで繋がろうとする若者の姿に危機感を募らせているのではないでしょうか。

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