« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

2010年1月

2010年1月31日 (日)

言語力低下の背景にあるもの

 昨日のNHKテレビの「A to Z」では、「“言語力”を磨け」とのテーマで、日本の若者の言語力が著しく低下していることについて取り上げていました。自分の考えや意見を主張できなかったり、論理的な文章を書けない若者が非常に増えており、言語力を鍛える教育をしている企業もあるそうです。その背景には、以下のようなことがあると指摘していました。

 学校で、自分の考えを発表するような教育を行っていない。試験にしてもマークシート方式で複数の選択肢の中から選ぶだけであり、論理立てて文章を書くという訓練がなされていない。また、携帯メールでのやりとりが日常的になっている若者は、小さい画面で読める必要最小限の短い文章しか書かない。日本人はとりわけ以心伝心といったことを大事にし、自己主張することは敬遠されてきたが、グローバル化した情報社会では「以心伝心」に頼っていたのでは主張が伝わらず歪が生じる。

 そのような指摘はもっともでしょう。しかし、この番組では重要なことが語られていないと感じました。まず、子どもたちの間に定着してしまった「空気を読んで、周りに合わせる」という行動パターンです。週刊金曜日に青木悦さんによる「しんどいなあ」という連載が掲載されていましたが、2009年12月11日号に驚くような事例が紹介されていました。

 中学一年生のある女の子が、クラスの女子全員に「今日はごめんね、ごめんね」と言って謝って回っているというのです、なぜかと聞くと、「授業中、すごく目立つ発言をしちゃったの」とのこと。彼女曰く「いいか悪いかじゃなくてエ、とにかく今日中にイ、私がそのことを悪かったと気づいて謝っておくことが大事なのオ。そうじゃないとオ、今夜中にメールがまわってエ、明日の朝学校に行ったらみんなでシカト、なんて、あるのオ」

 「みんなと同じ」からはみ出てしまったなら、孤立していじめられるしかないのです。周囲の人たちに合わせ「空気を読む」ことに必死になっている現代の子どもたちの姿が浮かび上がってきます。子どもたちの間には「周りに合わせていなければいけない」「目立ったことをしてはいけない」ということが理屈抜きに無意識に浸透しています。いじめられたり仲間外れにされないために、ここまでピリピリして気を使っているのが現実であれば、「自分の考えを言う」「他人と違うことを言う」ことなどトンデモナイことでありタブーでしょう。

 これは、以心伝心などという以前の問題であり、恐るべき状況です。しかし、今の子どもたちの置かれたこうした状況を、中高年以上の年齢層の多くが理解していないと思います。ここ数十年で、子どもたちを取り巻く環境は激変しています。「空気を読む」ことにがんじがらめにされている状況を把握し正面から取り組まない限り、いくら授業で「自分の意見を言う」ことを取り入れても、それを子どもたちの日常生活に根づかせることは困難でしょう。もっとも、子どもたちをこのような状況に陥らせたのは、周囲の大人の責任でもあるのですが。

 学校でのいじめや仲間外れが社会問題になってから久しいのに、日本ではいじめに対する取り組みがあまりにもおざなりにされています。携帯メールなどの普及がそれに拍車をかけています。若者の言語力の低下の問題はここから論じなければならないでしょう。

 言語力の低下で、もうひとつ指摘しなければならないのは、読書量の低下です。10年以上前のことですが、娘の中学校に行ったとき、図書室に鍵がかけられているのを見て驚きました。子どもたちに本を読む機会を与えるべき図書室が、その役割を放棄しているのです。しかも、子どもたちは部活、部活に追われる毎日で、授業が終わって部活に参加したらそれだけでクタクタです。しばしば休日にも部活に出かけます。さらに多くの子どもが塾や習い事を抱えています。これでは読書どころではありません。大半の子どもがろくに本を読まない生活をしているのではないでしょうか。

 読書好きの子どもは、自然と論理的な文章が書けるようになるものですが、現代の子どもたちは読書する時間もありません。「みんなに合わせる」ことで精神的に消耗し、部活や塾通いでクタクタになり、読書を楽しむ時間もないような毎日を過ごしていたら、言語力の低下が起きるのは当たり前です。子どもの生活にゆとりを与えることから考えなければならないことです。

2010年1月29日 (金)

小沢一郎氏を巡る事件でのネットメディアの重要性

 小沢一郎民主党幹事長の政治資金管理団体の収支報告書に誤りがあった問題に関する検察の強引な姿勢とマスコミの報道には、あきれてものが言えません。今回の件ではネットメディアが大きな役割を果たしています。マスコミの一連の報道と市民によるネット報道の差異によって、異常ともいえる検察の体質と事実を伝えようとしないマスコミの姿がはっきりと浮かび上がってきました。ブログなど、インターネットを利用した市民メディアの意義が際立った事象でしょう。

 多くの人がこの問題を伝えていますので、真実を見抜いて問題提起している方たちのサイトをいくつか紹介しておきたいと思います。日本の検察という組織はいったい何なのでしょうか。

植草一秀氏のブログ

小沢代表秘書不当逮捕

反戦な家づくりさんのブログ

自民でも民主でも国会議員は国民の代表だ

連日8時間以上「嘘をつくな!」と激しく罵倒され続けている石川議員 

数学屋のめがねさんのブログ

小沢一郎氏の政治資金規正法違反を巡る問題を考える「視点」の考察 

小倉秀夫弁護士のブログ

検察からのリークがあるかをもっともよく分かっている新聞社がこの点について沈黙していることについて 石川議員の供述内容を知りうる立場の「小沢氏側の関係者」? 

北海道新聞の高田昌幸記者のブログ

事件報道自体の量的規制が必要だ

弁護士の「ヤメ蚊」さんのブログ

石川議員が水谷建設の元幹部から金を受け取ったことを推認させる特ダネが誤報~取消すが、謝罪はしない読売 

 探せば、ほかにもいろいろ出てくるでしょう。ネットではあちこちで検察の暴挙への批判が噴出しているのに、マスコミはいったいどうなっているのでしょうか。マスコミがマスゴミと呼ばれる所以ですね。

2010年1月28日 (木)

希少種の移植は環境保全策ではない

 ダムや道路工事などの環境アセスメントでは、多くの場合、絶滅危惧種とか希少種が確認され、事業者にとってはそれが事業を進める上で大きな妨げとなります。日本のアセスメントでは基本的に事業を行うことが前提となっているので、レッドリストに掲載されているような種が確認されたなら、なんらかの対策を講じなければならなくなります。希少な猛禽類などが生息していれば、繁殖期を避けて工事をするとか、騒音や振動を小さくするなどといった対策をとります。希少生物の生息地そのものを保全するとなると工事ができなくなりますので、こうした対処療法でその場しのぎをするわけです。

 ところが、植物はそうはいきません。工事予定地にある植物は、どうしても生息地が破壊されてしまうのです。そこでどうするのかというと、「移植」という方法がしばしばとられます。たとえば、道道鹿追糠平線のシェルター工事の際にも帯広土木現業所は希少植物を移植したと説明しました。富村ダムの堆砂処理のためのトンネル工事に関しても、北海道電力は希少植物を移植するとしています。つい先日訴訟が始まった北見道路でも、希少植物を移植したそうです。

 しかし、植物というのは生育地の環境がその種に適しているからこそそこに生存しているのです。移植によって微気象などさまざまな環境条件がそれまでと違ってしまえば、うまく適応できるかどうかわかりません。しばらくは生存していても、やがて消えてしまうこともあるでしょう。多年草の多くは種子から芽生えても成熟して花をつけるようになるまでは何年もかかります。移植された個体が繁殖集団として持続的に生存できないのであれば、やがて滅びてしまいます。

 事業者はすぐに「移植」で済ませようとしますが、これまで移植した植物はその後どうなっているのでしょうか? 継続的な調査はなされているのでしょうか。

 改めて言うまでもなく、「自然を保全する」ことは「個体を保全する」ということではありません。長い目でみて持続的な生存が保障されなければ、保全とは言えないのです。生態系やそれを構成する生物多様性そのものをまるごと保全しなければ、環境保全にはなりません。その場しのぎの工事対策や、安易な植物の移植は到底まっとうな保全策とは言えないのです。移植することで、「環境に配慮した」などというのは誤魔化しでしかないでしょう。

 こうしたまやかしの環境対策のもとに環境アセスがクリアされ、自然が破壊されて希少種がどんどん絶滅の危機に追い込まれているのです。

2010年1月27日 (水)

褒めることの功罪

 昨日のNHKのクローズアップ現代では「褒める」ということを取り上げていました。子育て中の主婦が「ほめ言葉のシャワー」という冊子に出会い、「ほめ言葉」を日常生活に取り入れることで不安の解消になったという事例、覆面調査員が職場に入り込んで職員の働きぶりをチェックし、職員の長所を企業に伝えるという事例、あるいは企業の経営者が職員を積極的に褒めて職員のやる気を引き出す試みをしている事例などが紹介されていました。

 確かに、人は叱られてばかりいたら気分が落ち込み、自信をなくしてやる気がなくなってくるものです。褒められることで自信がつき、意欲が湧いてくるというのは理解できます。人が社会の中で生きていかなければならない存在である以上、他者から認められるというのは大切なことです。しかし、ここまで意識して意図的に「褒める」という行為をしなくては、自信を持つことができない状況に陥っていることに疑問を抱かざるをえません。

 子育てなどでもよく「褒めて育てよ」などと言われますし、誰にでもいい面がありますから、良い面を率直に褒めることはもっともなことです。しかし、「褒める」行為も行き過ぎてしまえば「おだて」ということになりかねません。意図的に褒める行為が、適切な評価ではなく単なる「おだて」であれば、それは必ずしもいい結果になるとは思えません。意欲を引き出すという目的のもとに「褒める」という行為を重ねていくうちに、相手に「褒められたい」「よく評価されたい」「嫌われたくない」という意識が植え付けられ、褒められることを目的に行動するようにならないでしょうか? そのような意識が強くなることで、自分自身に無理を強い、それがストレスにつながってしまうことにもなりかねません。

 私はクモをはじめとした動植物や自然に興味を持っており、観察や調査・研究をすることがありますが、そうした行為はあくまでも自分の好奇心から生じたものです。好きだから、疑問に思うことがあるから行動するのです。それが他人にどう評価されるか、あるいは評価されないかは、あまり関心がありません。評価されることを目的にやっているわけではないのですから。

 市民活動にしても然り。自然保護運動なども、決して運動を評価してもらうためにやっているわけではなく、そうすべきだと思うからこそボランティアでもやるのです。「褒めてもらう」とか「評価される」などという意識とは無縁の世界です。行為に対して適切な評価がなされることは大切ですが、褒められたり評価されることを目的に行動するということになれば、本末転倒ではないでしょうか。

 ところが、近年は多くの人が褒められたり、評価されることで自分の存在を認めてもらいたいと思っているようです。社会的に孤立して不安を抱えている人が多いのでしょう。「ほめ言葉のシャワー」を読んで元気づけられる人が多いという現象に、それがよく現れています。「褒める」行為には確かにプラス効果がありますが、一方で、他者の評価を気にしない生き方ができなければ、本当の意味で苦境を乗り越えたり精神的に自立することは難しいのではないでしょうか。褒めてもらわなければ気力がわかないという社会状況は黄色信号であり、決して喜んでいられることではないように思います。

 「褒める」という行為ですぐに頭に浮かぶのは、文芸社や倒産した新風舎の勧誘です。アマチュアの著作物を褒めちぎったり、ちょっとだけマイナーなことも入れながら全体的に高く評価することで著者を有頂天にさせ、出版への気持ちを高めさせ、出版社に一方的に有利な契約へと誘いこんでいく手法です。

 褒めるという行為も、悪意で使われたなら人を陥れることにもなりえますし、不信感を深めることにもなります。「褒め言葉は」決して良い面だけではないことを、意識すべきではないでしょうか。

2010年1月26日 (火)

増田美智子さんへのインタビュー(その3)

― 私は増田さんが、福田君が死刑にならないことを願い、また、裁判でも役立てることができると考えて本を書かれたと感じたのですが、どんな気持ちで本を執筆されたのでしょうか。

 ご指摘のとおり、私にとって本書の出版は、福田君の死刑回避を願った乾坤一擲の勝負でした。

 新聞報道などではどうしても、「罪を犯した少年を実名で暴いた」ということのみが本書の特徴とされてしまうのですが、私が本書を執筆した意図は少年犯罪の実名化を議論するためではありません。本書の特徴は、殺人犯という特徴しか報じられていなかった福田君を、日々悩み、迷い、笑う、ひとりの人間として描き、彼が紡ぎ出す言葉を正確に報じることで、福田君の人間性に迫ったことであると自負しています。ですから、本書について実名の是非ばかりが議論され、新聞の紙面上で本書のことを「実名本」などと表現される現状が、私は残念でなりません。

 しかし、私が福田君の死刑回避を願っているからと言って、福田君にとって不利益と思われることを隠すことはしないよう心がけていました。それをしてしまえば、本書に書いたことのすべての真偽が疑わしくなってしまいます。また、福田君にとって有利か不利かという観点から、報道する事実を仕分けすることは、ライターとしては決してしてはならないタブーだとも思っています。

 弁護団から受けた仕打ちを書いたのも、事実だからです。しかし、弁護団については、とくに読者の興味をひくことだとも思わなかったし、それほど重要なことでもないと感じたので、かなりはしょって書きました。弁護団からは、本書に書いたこと以外にも、数々の理不尽な仕打ちを受けています。

 本書は、福田君にとってはきわめて有利な情状を示すものだと思います。弁護団の方々には、死刑判決を受けて現在上告中の最高裁に情状証拠として提出するくらいの気概を持っていただきたかったです。

― 読者からはどんな反響がありましたか。実名で厳しい批判を寄せた読者はいたのですか。

 郵送やメールなどで、私のもとに直接届くご意見・ご感想は、「初めて福田君がどういう人間かわかった」とか、「報道をうのみにしていた自分が恥ずかしい」といった、好意的な感想がほとんどでした。

 新聞などでは厳しく批判され、落ち込むことの多い日々でしたが、こうした感想に何度励まされたかわかりません。

 批判的なご意見をいただいたことも、2度ありました。一方は、「少年法違反の本を出すのはやめなさい。恥を知りなさい」という匿名のメールで、もう一方は、ご自身の名前や住所がきちんと記された、被害者のご遺族の心情を考えるべきだという手紙でした。

― インターネット上では増田さん個人のことについて事実と異なることや誹謗中傷が飛び交っていると思いますが、看過できない虚偽事実があれば教えてください。

 見ると落ち込んでしまうので、2ちゃんねるなどに書かれていることは、あまり見ないようにしています。なので、どのような虚偽事実が書かれているのかは把握していません。すいません。

 ただ、インターネットでも新聞や雑誌の読者欄でも気になるのが、本書を読まないままに批判されている方が多いという点です。そのため、批判がまったくの的外れになっていることも多々あります。できれば、読んだうえでのご意見をうかがいたいと思います。

― 本では、弁護団がこれまで裁判で行なってきた立証や主張については触れていません。これについて、増田さん自身はどんな意見を持っていますか。

 弁護団が出している出版物や『年報・死刑廃止』シリーズなど、光市母子殺害事件について活字になっているものはほとんど目を通していますので、弁護団がどのような主張をしているのかも、それなりには把握しているつもりです。個人的には、福田君が犯した罪が本当に「強姦致死、殺人」であるのかはわからないと思っています。弁護団が主張するように傷害致死の可能性もあると思います。ただし、裁判資料を見ることもできない状況で、事件の真相を私が勝手に推測することはできません。ですから、できれば弁護団から話を聞き、「弁護側は事件の真相をこのように主張する」というふうに本書で触れたいと思っていました。しかし、弁護団は取材に応じてくれなかったため、やむを得ずあきらめました。

 弁護団の立証・主張に触れていないと感じられるかも知れませんが、それでも刊行物などからわかる範囲で弁護団の言いぶんを紹介したつもりなんです。従前の報道が公然と行っていたような「死刑回避のためのでっちあげ」といったやみくもな批判もしていません。 弁護団の主張の真偽はわかりませんし、軽々しく言えることでもありませんが、本書の出版に関する弁護団の一連の振る舞いを見ていると、『ドラえもん』や『魔界転生』が登場する「新供述」がどこまで福田君自身の言葉なのか、疑ってしまいます。すべてではなく、一部では弁護団による創作があったのかもしれないと思うようになりました。

― 今は、福田君には面会できないのですか。

 法曹界には、双方に代理人弁護士が就いた争いの当事者同士は、直接やり取りをしてはいけないという暗黙のルールがあるそうで、福田君とは面会できません。

 そのルールを知らずに、本書の出版当日に福田君に本の送付と合わせて手紙を送ってしまいました。数日後、足立弁護士から堀弁護士のもとにFAXが届き、厳に抗議されました。

 できることなら福田君に直接会い、いま私の心を占めているたくさんの疑問をぶつけてみたいと思っています。弁護団を名誉毀損で提訴した際、福田君も被告に入れたのは、そうすることで福田君に対する出張尋問が認められる可能性があるからです。裁判で直接福田君に質問ができるよう、強く要望していくつもりです。

― 最後に、皆さんに是非知ってもらいたいことなどありましたら、お願いします。

 本書を読まれていない方には、どういう手段でもかまわないので読んでいただきたいです。私に対する嫌悪感があってあえて本書を読まないという方もいらっしゃると思うのですが、購入するのがイヤだとおっしゃるのなら、お友達や図書館から借りても、書店での立ち読みでもいいです。ただ、仮処分や本訴を抱えているため、いまだに本書の販売を控えている書店もあるようです。本書が入手しにくい状態であるのは、著者としては非常に心苦しいです。本書を購入していただいた方には、どんどん人に貸していただきたいです。

 福田君のことを「荒唐無稽な新供述で遺族を愚弄した、狡猾な知能犯」と思われている方は多いと思います。報道だけで福田君の人間性を決めつけることなく、現実にいま生きていて、いろんなことを考えて日々を送っている福田君の姿を想像してみてください。できれば、想像するだけでなく、現実の福田君とコンタクトをとってみてほしいとも思います。いまは弁護団による監視が厳しいようですが、拘置所は本来、面会も文通も、自由にできるのですから。

増田美智子さんへのインタビュー(その1

増田美智子さんへのインタビュー(その2

2010年1月25日 (月)

増田美智子さんへのインタビュー(その2)

― マスコミ報道では双方の主張などもごく一部しか伝えられません。福田君側の主張で納得のいかない点はいろいろあると思うのですが、いくつか教えてもらえますか。

 弁護側の主張はこちらが反論を出すたびに変わるので、挙げるときりがないのですが、もっとも許せないと思ったのは、取材目的であることを告げずにひとりの女性として福田君に近づいた、私が福田君を脅迫して取材に応じることを強いた、という主張です。弁護団は、これらを記者レクで何度も語り、何度も報道されています。しかし、そのどちらについても広島地裁決定は事実ではないとしています。

 私は福田君に送った最初の手紙のなかで、在京のフリーライターであることを告げています。福田君と初めての面会がかなう前には、福田君の弁護団メンバーである、本田兆司弁護士、足立修一弁護士と取材目的で福田君と面会したいと何度も交渉しています。弁護団は、明らかにウソとわかりながら、私に対する悪評を喧伝しているのです。

 人権問題に熱心に取り組んできた方々も多い弁護団が、女性記者に対して「女を武器に近づいた」といった女性蔑視の低俗な批判を展開させたのは意外なことでした。私も女ですから、痴漢に遭って「おまえにスキがあるからだ」などと批判されたこともあります。弁護団による私への批判も、これと同じく低レベルな男女差別に基づくものです。

― 本では弁護団が取材を拒否した経緯などが詳しく書かれています。また、寺澤さんは弁護士から「事前にゲラを見せないと仮処分をする」と脅しのようなことを言われたそうですね。こうしたことから、私は福田君からの仮処分や提訴は、福田君本人の意志というより弁護団の意志が大きいのではないかと感じているのですが、その点はどう感じていますか。

 仮処分や本訴が福田君の意思で行われたものか、もしくは、弁護団が福田君のためを思ってやっているものかどうかすら、非常に疑わしいと思っています。一連の騒動の発端は、「福田君は事前にゲラを見せてもらう約束をしていたと言っている。出版前にゲラを見せろ」という足立修一弁護士からの電話でした。

 私は、取材を通じて福田君とはきわめて良好な信頼関係を築いてきていましたが、その一方で、弁護団は私のことをずっと邪険に扱ってきていました。弁護団の許可を得ずに福田君と面会していた時点で、弁護団は私のことをけしからん存在だと思っていたようです。取材の過程で、何度か弁護団メンバーにも取材を依頼しましたが、徹底的に拒否されていました。だから、本書のなかで、私が弁護団についてどのように評しているのか、弁護団は非常に気になっていたと思います。要は、弁護団がどのように書かれているのか検閲したかったということでしょう。事前にゲラを見せてほしいというのは福田君ではなく弁護団の要望だと思っています。

 仮処分や本訴をしたことは、福田君にとっては不利益でしかありませんでした。前述のように、無反省をことさら印象づけることになってしまううえに、私が本書で書いた福田君の反省の言葉すら、虚偽であるかのような印象を与えてしまいます。福田君の代理人であるはずの弁護士が、なぜこのような暴挙に出るのか理解に苦しみます。

 仮処分では、第1回目の審尋の段階になっても福田君本人の陳述書が提出されませんでした。私や寺澤さんの代理人となってくれている堀敏明弁護士がその点を書面で質したところ、第2回目の審尋で、ワープロ打ちによる福田君の陳述書が裁判所に提出されました。しかし、拘置所にはワープロなどありません。そこで堀弁護士が作成経緯を尋ねると、次回からは福田君の手書きによる陳述書が提出されるようになりました。また、堀弁護士が準備書面で、「弁護団は人権侵害だと主張するが、法務局に人権救済の申し立てもしていない」と指摘すると、その翌日に広島法務局に人権救済の申し立てをするなど、弁護団はこちらから指摘されて初めて実行に移すことばかりでした。

 曲がりなりにも弁護団は法律の専門家なのですから、本書の出版が本当に人権侵害行為であると思っているのなら、上記のことは他人に指摘される前に自ら行っていてしかるべきです。人に言われるまでその発想がないというのは、つまり、弁護団も本書が人権を侵害するような書籍ではないとわかっているのだと思います。

― タイトルに名前を入れたことで「実名を売り物にしている」という批判がありますが、タイトルを決めた経緯やこうした批判についての見解を聞かせてください。

 正直なところ、私は「実名を売り物にしている」という批判の意味がよくわからないんです。本文で実名を書くのはOKだけど、タイトルにするのはけしからん、というのは筋が通らないし、タイトルに実名を入れたからと言って、どうしてそれが「売り物」になっちゃうんでしょうか。

 本書のタイトルは寺澤さんがつけてくれたものです。寺澤さんは「原稿を読んで、本書でいちばん言いたいのはこういうことではないかと思った」と言っていました。

 いいタイトルをつけてもらえて満足していますが、もともと私はそれほどタイトルにはこだわりはありません。本は内容で勝負するもので、タイトルはしょせんタイトルに過ぎません。「実名を売り物にしている」かどうかは、内容を読んだうえでそれぞれの読者が判断してくださればいいと思います。また、内容を読んでもらえれば、タイトルの意味も十分にわかってもらえるものと思っています。

― 増田さんの福田君に対する印象については本に書かれていますが、本を読んでいない方のために簡単に説明してもらえますか。

 私から見た福田君は、28歳の青年にしては非常に幼い性格をしていますが、彼なりに犯した罪と向き合い、反省を深めようと日々努力する純粋な青年でした。面会室での会話は、私が何か質問する以外で彼が自発的に語ることと言えば、どうすれば謝罪・反省を深められるか、ということばかりでした。

 福田君は、死刑という量刑には不服はないそうです。けれど、誤った報道などにより生じた誤解が、遺族をさらに苦しめている面があると思っているようで、その誤解を解くことで遺族の苦しみを少しでも和らげたいと語っていました。でも、彼が遺族に謝罪の意を伝えようとすると、どうしても「死刑回避のためのパフォーマンスだ」と見なされてしまう。福田君はそのこともよく理解しており、もし遺族との面会がかなうのなら、そのときは弁護団や裁判のことは抜きにして、真正面から遺族と向き合いたいとのことです。

 ただ、福田君には、他人との距離感をうまくはかれない面があるのも事実です。他人から嫌われるのを極端に恐れており、必要以上に迎合してしまう面もあるようです。

 今回の仮処分や本訴についても、福田君の迎合型の性格が悪い方向に作用してしまったように思います。冷静に考えれば、仮処分も本訴も、福田君にとっては死刑確定へとコマを進めてしまうような自殺行為であることは明らかなのですが、自らの死刑が確定するか否かよりも、目の前の弁護団のご機嫌を損ねてしまうことのほうが彼にとっては辛かったのかもしれません。

 弁護団の行為は、こうした福田君の性格を利用したものであり、許せません。

増田美智子さんへのインタビュー(その1

増田美智子さんへのインタビュー(その3

2010年1月24日 (日)

増田美智子さんへのインタビュー(その1)

 このブログでも何回か取り上げてきた「福田君を殺して何になる」(インシデンツ)の著者である増田美智子さんとコンタクトをとることができました。この本は、光市事件の被告人である福田君やその関係者を取材したルポルタージュですが、福田君の弁護団が出版差し止めの仮処分を求めたことをきっかけに、裁判に発展して波紋を呼んでいます。

 マスコミ報道というのは往々にして偏っていたり、物事の本質が正しく伝わっていなかったり、重要な事実が報じられないことがあります。この問題に関しても、私は、マスコミ報道では実名報道の可否ばかりが話題になり、著者側の主張がきちんと伝わっていないという印象を強く抱いていました。そこで、増田美智子さんにメールでインタビューを申し入れたところ、快く応じてくださいました。

 増田さんの回答には、マスコミでは報じられていない重要な指摘がいろいろあります。そんな声にぜひ耳を傾けていただけたらと思います。3回に分けて掲載します。

              **********

― 出版の直前になって、出版差止めの仮処分を申し立てられ、その結論が出ていないうちに福田君側から本訴がありました。広島地裁で仮処分が却下されると高裁に即時抗告しました。その後、増田さんやインシデンツの寺澤さんが反訴したり、毎日新聞を訴えたわけですが、一連の経緯や心境などについて聞かせてください。

 これまでの報道で、福田君は「狡猾」「鬼畜」「知能犯」などとさんざん批判されていました。福田君のことが正確に報道されているとは言い難い状態のなかで、世間の人々は、福田君のことを、より凶悪で、より残酷なモンスターのようにイメージしていたように思います。

 しかし、実際に面会し、手紙を交わしてみれば、彼は自らの犯した罪と向き合い、反省しようと一生懸命に努力する青年であり、報道との大きなギャップがありました。

 福田君も、私たちと同じように悩み、迷い、笑い、泣きながら日々成長していく一人の人間であることを知ってもらいたい。そのうえで、読者の方々には、彼に下された死刑判決の当否を改めて考えてみてほしい。私は、そういう思いで本書を出版しました。犯行当時18歳だった福田君の実名を書いたのも、福田君をありのまま描きたかったからです。おそらく、私の思いは福田君の弁護団ともそれほどかけ離れていないと思っています。

 弁護団が「福田君の実名表記は少年法違反だ」として、出版差し止めの仮処分や本訴を提起したことにより、「大罪を犯したにもかかわらず、実名で報道されるのを嫌がる不遜な人間だ。やはり反省していない」という印象を世間に与えることになってしまいました。これでは、私が本書で訴えようとしたことが無になってしまいます。仮処分や本訴となれば、福田君への誤解を増大させることはわかりきっていましたから、弁護団との間ではできる限り法的措置を避けられるよう努力しましたが、力及ばず、このような事態になってしまったことは、非常に残念に思っています。

 この過程で、弁護団は私のことを、「福田君を脅迫して取材に応じさせた」「一人の女性として福田君に近づいた」などと、ありもしない事実を報道陣に語り、それがたびたび報道されました。しかも、そうした誹謗中傷はどんどんエスカレートしており、放置しておけばこの後さらにエスカレートすることが予想されたため、反訴に踏み切りました。

 本書はおもに新聞紙上で厳しい批判を浴びてきました。そうした批判を目にして、反論したいと思うこともたびたびありましたが、論評は自由であるべきですから、問題視することはありませんでした。

 しかし、2009年11月11日付け毎日新聞社説のように「当事者に知らせることなく出版しようとした行為は、いかにも不意打ち的だ」などと、誤った前提事実をもとにしてまで批判されてはたまりません。私は、福田君に出版を何度も知らせていましたし、それは広島地裁決定も認めている事実です。毎日新聞は地裁決定のコピーを持っており、地裁決定をきちんと精査すれば避けられた過ちです。しかも、毎日新聞はこの社説を書くうえで、私や寺澤さんに取材することもありませんでした。こんなに適当に書かれた批判に対して抗議しなければ、「著者は何を書いてもOKな人」という認識を新聞社に与えかねません。

 弁護団に対する反訴や、毎日新聞社への提訴は、エスカレートする誹謗中傷に対して、きちんと事実確認しないのなら、こちらも怒りますという姿勢を、弁護団やマスコミ関係者に示しておくことも大きな目的のひとつでした。

― 出版差止めの仮処分や本訴では「福田君に実名で書くことの了解を得ていたか否か」「事前に原稿をチェックさせるという約束があったか否か」が最大の争点だと私は理解しているのですが、増田さんはどう捉えていますか? 増田さんは、「実名で書くことについては了解を得ていた」「事前の原稿のチェックの約束はなかったと」と主張されているということですね。

 ご指摘のとおり、「福田君に実名で書くことの了解を得ていたか否か」「事前に原稿をチェックさせるという約束があったか否か」、が重要な争点であると思います。

 実名で書くことについては、2009年3月27日の面会で福田君の了承を得ました。彼は、「それって、僕の了解が必要なの? 『週刊新潮』とかは了解なしに書いてるよね」と言いつつ「僕は書いてもらってかまいません」とあっさり了承しました。福田君が言うように、彼の実名は事件直後から何度も『週刊新潮』が報道してきましたから、彼の名前は今さら秘密でもなんでもありません。だから、断られることもないと思っていました。その後の面会も、福田君の実名を書くことを前提に、事実関係の細部にわたる確認をしていましたが、福田君から実名記載をやめてほしいと言われたことは1度もありません。

 事前に原稿を見せる約束をしていたという主張は、福田君からそういうお願いをされたことは一度もなく、弁護団か福田君によるゼロからのねつ造です。仮処分の書面のやりとりのなかで、いつ事前に原稿を見せる約束をしたというのか、何度も弁護団を質しましたが、弁護団は約束したとする時期さえ明らかにすることはできませんでした。それほどまでにあいまいな主張なんです。

増田美智子さんへのインタビュー(その2

増田美智子さんへのインタビュー(その3

2010年1月23日 (土)

国交省がひた隠しにする八ッ場ダムのヒ素問題

 品木ダムや八ッ場ダムのヒ素問題については「八ッ場ダムのヒ素問題」として取り上げましたが、保坂展人氏がご自身のブログで「週刊朝日」の記事をもとにヒ素問題について言及しています。

スクープ「八ッ場ダム最大のタブー「ヒ素汚染問題」 

「品木ダム、隠された真実」 

 「H20年 ダム湖堆積物調査分析業務 地質調査・分析結果報告書」では、ダムサイトに近い部分で1キログラムあたり4~5グラムのヒ素が確認されていると記載されているそうです。あの猛毒のヒ素がこれほどの高濃度でダム湖に堆積しているという事実は非常に驚くべきことであり重大です。さらに八ッ場ダムにもヒ素が堆積することを予想して、50年後、100年後の予測も立てていたというのです。それにしても、こんな高濃度のヒ素を含む堆積物をこの先どうするつもりなのでしょうか。

 どうやら国土交通省は、3年以上前から有識者を集めて非公開でヒ素問題の対策を検討していたようですが、国民の税金を使ってこのような調査や検討をしておきながら、ひた隠しにしてきたことに大きな憤りを感じずにはいられません。吾妻川の酸性水とヒ素問題は、あまりに重大な問題であるがゆえに、事業主体によってひた隠しにされ握りつぶされてきたといえるでしょう。

 ヒ素問題とは直接関係ないのですが、「八ッ場ダム自然環保全対策検討業務」に関しては国土交通省の天下り法人が受注し、目が飛び出るほどの高額の事業費が付けられていたことが以下の「八ッ場あしたの会」のサイトに掲載されています(2008年2月11日付けの「しんぶん赤旗」の転載ですが)。この莫大な事業費は、いったい何に使われたのでしょう。そして、ヒ素問題の対策にはいくらの事業費が使われてきたのでしょうか。こんな実態であれば、ヒ素問題がひた隠しにされ握りつぶされてしまうのも頷けます。

「会議1回600万円? 八ッ場ダム関連業務」(しんぶん赤旗)

 ダム建設が何から何まで癒着と利権の構図になっていることを物語っています。このようにして日本中の川にダムが建設されてきたのですから、恐るべきことです。

2010年1月22日 (金)

手放しで賛同できない砂防ダムのスリット化

 1か月ほど前の12月18日付の北海道新聞に「スリット式ダム道内で着々」という記事が掲載されていました。日本の川にはいたるところに砂防ダムが造られてきましたが、最近、砂防ダムに切れ込み(スリット)を入れる工事が広まってきているようです。

 具体的には、ダムの堤体に幅1~数メートルのV字型や四角い切れ込みを入れたり、一部を鋼鉄管を組み合わせた棚状にすることで透過性を高める工法(同記事の説明)です。落差がなくなるために、魚の往来も可能になり、魚道より優れているうえに防災機能も維持できるのが利点とのこと。

 帯広土木現業所が、「魚道の確保」を理由に然別川三の沢の砂防ダムのスリット化について十勝自然保護協会に意見を求めてきましたが、どうやらこうした改修工事は全道的に進められているようで、新たな公共事業といえそうです。

 スリット化は、魚が往来できるようにするという点では評価できるのですが、巨礫や流木の捕捉を目的に鋼鉄の工作物を設置したところ、そこに大量の流木がひっかかって魚の往来を妨げてしまった事例もあるようです。そうなってしまったのでは、魚類の往来という点ではほとんど意味がありません。また三の沢砂防ダムの現場を見る限りでは、洪水で巨礫や流木が大量に流下したような形跡がありません。ならばいっそのこと、スリットなどといわず中央を大きくカットするか、あるいはダムそのものを撤去してしまえばいいのではないでしょうか。

 実際に堤体の中央を大きくカットするという大胆な改修工事を実施したのが、知床の砂防ダムです。知床では、ダムそのものが必要ないのではないかと思えるくらい大きくカットしています。そこで、十勝自然保護協会では然別川三の沢砂防ダムも、知床と同じように大きくカットすることを提案しました。ところが帯広土木現業所は、それでは洪水で巨礫などが流下して人的被害を与える可能性があると主張し、2本のスリットを入れ、スリット部分に鋼鉄の横棒を入れるといって譲りません。しかし、人的被害を与えるような洪水が生じる確率はいったいどれくらいなのでしょうか。その点が非常に不透明なのです。

 河川管理者は「砂防ダムは必要」だとして造ったのですから、その機能を否定してしまうような大胆なカットや撤去などは建前上できないということなのでしょう。しかし、砂防ダムによって魚の遡上が妨げられていることは大きな問題です。そこで、スリット化という公共事業を広めたいのではないでしょうか。三の沢砂防ダムの改修工事も、当初の予定では2億円ほどの事業費を予定していました。これをあちこちで進めていけば、かなりの事業費になるでしょう。確かにスリット化は魚の往来には大きな意味があるのですが、手放しでは賛同できない側面があります。

 なお、日本でもようやく砂防ダムの撤去が行われるようになりました。スリット化に巨額の費用をかけるのであれば、いっそのこと撤去すべきでないかと思えてなりません。

 以下の記事は砂防ダムの問題を考える上で参考になります。

「砂防ダム」が全国各地でどんどん増えるワケ

2010年1月16日 (土)

死刑について考える(その4)

これまでの記事

死刑について考える(その1)

死刑について考える(その2)

死刑について考える(その3)

 これまでの記事では、森達也さんの「死刑」(朝日出版社)、辺見庸さんの「愛と痛み 死刑をめぐって」(毎日新聞社)を紹介しましたが、今回は篠田博之さんの「ドキュメント死刑囚」(ちくま新書)について紹介します。

 篠田さんは月刊誌「創」(つくる)の編集長をされていますが、子どもを襲って死刑となり執行された宮崎勤と宅間守、そして確定囚である小林薫などとの交流があり、「創」誌上でもたびたび死刑囚の手記などを取り上げてきました。そのような立場から、この三人のことについて取り上げたのが「ドキュメント死刑囚」です。一般のマスコミ報道ではわからない彼らの生育環境や、手紙に書かれた死刑囚自身の言葉、精神鑑定などをつぶさに取り上げ、死刑という刑罰が罪を償うことになるのかを問いかけています。

 はじめに、宮崎勤、小林薫、宅間守の三人の事件について簡単に説明します。彼らに敬称をつけるべきか否かに迷いがあるのですが、ここでは敬称は省くことにします。宮崎勤は、埼玉県で1988年8月に4歳の幼女、10月に7歳の幼女、12月に4歳の幼女を誘拐し殺害。89年2月に最初に誘拐した幼女の自宅前に殺害した幼女の骨や歯を入れたダンボールを置き、今田勇子を名乗った犯行声明が被害者宅や新聞社に送付されたという事件です。さらに89年6月には第4の犯行も行われました。

 小林薫の事件は、奈良県で帰宅途中の小学生の女児が連れ去られ、母親の携帯電話に「娘はもらった」との犯行メールが届き、翌日道路の側溝で遺体が発見されたというもの。新聞販売店に勤務する小林薫が逮捕されました。小林薫は自ら控訴を取り下げて死刑が確定しました。

 宅間守の事件は、2001年6月に大阪教育大学附属池田小学校に包丁を持って乱入し、生徒や教師を次々と殺傷したという無差別殺傷事件です。生徒8人が亡くなり、15人が重軽傷を負いました。弁護人の行った控訴手続きを自ら取り下げて死刑を確定し、早期執行を望んで異例の速さで執行されました。

 これらの3人に共通しているのは、弱者である子どもへの犯行であること、反社会性人格障害と診断されていること、また父親を激しく憎悪しているということです。彼らの生育環境や常識では理解できないような精神状況について、かいつまんで指摘しましょう。

 宮崎勤は手に障害を持って生まれ、子どもの頃からいじめを受けていました。高校時代には幻聴などに悩まされたといいます。また、事件を起こす直前に、小さいときから彼を可愛がっていた祖父が亡くなり、精神に変調をきたしています。こうした境遇や家庭環境によって精神面でさまざまな変調や歪みをきたしていたのは明らかです。本書に掲載されている海で遊んでいる宮崎勤の少年時代の写真は、屈託のない笑顔をした子どもらしい生き生きとした表情のものであり、残虐な犯行をした人にもこんな無垢な時代があったのかと感じさせるものです。

 宮崎勤は、親を憎悪して両親を「ニセモノ」だとし、法廷などでは「母の人」「父の人」などと言っていたそうです。彼の言動には常軌を逸したものがいろいろあります。たとえば、篠田さんが死刑判決を受けたときの心境を聞くと、死刑のことには触れずに、いつもと違ったテーブルのない椅子だったために頬杖をつけなくて、いつもの姿勢がとれなくて困ったというようなことを答えているのです。また、法廷で傍聴者に「早く死ね!」と大声で罵られたことについては「そんなことがあったのですか? 知りませんでした。寝ていました。…」と、常識では捉えなれない返事をしているのですが、自分の置かれた状況が理解できているのかどうかも分からない状態だったようです。宮崎勤の精神鑑定では、反社会性人格障害とされたものの、弁護側の二次鑑定では多重人格説と精神分裂病に分かれたそうです。

 小林薫は小学生の時に母親を亡くしていますが、父親を憎悪しているのは宮崎勤と同じです。小学生のころから学校でいじめを受け、孤立していました。中学校意向は新聞配達のアルバイト代の半額ほどを父親に渡していたのに、私立高校への学費を払ってもらえず、奨学金をもらって高校を卒業しています。精神鑑定では小児性愛、反社会性人格障害と診断されました。篠田氏は、「恐らく彼は、家庭環境が違っていたら、あのような犯罪者にならないですんだ人間ではないかと思う」という感想を寄せています。なお、主任弁護人は最終弁論で以下のように発言したそうです。

 「情状鑑定で明らかになった通り、被告人の反社会性人格障害とされるものは生来のものでなく、学校でのいじめや父親の暴力といった生育環境に負うところが大きい。犯罪が社会の病理現象だとすれば責任の一端は社会にもあるのであって、被告人に全責任をおしつけて抹殺すればよいと考えるべきではない。女児と遺族がもちろん最大の犠牲者ではあるが、被告人もまた一人の犠牲者だと考えられないことはない。被告人は小学生の時に人間味あふれる作文を書いており、今回のような残虐な犯罪との落差に愕然とせざるをえない。被告人が本来持っていた人格にもう一度戻ってほしい。もう一度戻ることはできるのだと信じたい」

 宅間守の父親について、篠田さんは「父親は権威主義的で、強い男への憧れや自負があり、教育熱心だったこととあいまって、子供への激しい体罰を加えたという。守は小さい頃からこの父親に激しく反発していた」と書いています。彼は、取り調べや裁判でもまったく反省の様子を見せず、自分は死ぬ覚悟で無差別殺人を実行したのだと、自分の行為を鼓舞して正当化し、もっと殺したかったとまで言ってのけています。まるで人間性のかけらもないかのような発言をしているのですが、そうした発言の数々の背後から見えてくるのは、ひたすら虚勢をはって突っ張ることで自分を保とうとする姿です。宅間守も反社会性人格障害と診断されています。

 このように残虐で悲惨な事件を起こした加害者の背景にはまず、不遇な家庭環境があります。父親からの虐待や暴力、威圧的な態度が親への反発心や憎悪に繋がっています。それに加え、学校でのいじめが人への不信感を募らせ、社会から孤立していくきっかけになっていることが伺えます。彼らは、こうした強いストレスによって認知に歪みが生じ、偏った思い込みに陥ってしまうなどして精神に異常をきたしているとしか思えません。この国ではうつ病や自殺、ひきこもりといった状況が蔓延し深刻化していますが、こうした犯罪もその延長線上あるのではないでしょうか。精神的に追い詰められて自分を責めてしまえばうつ病や自殺となりますが、ストレスの矛先が外に向けば傷害や殺人へと向かってしまうことにもなります。何の罪もない人を殺傷するようなことがあっていいはずはありませんが、強いストレスを抱えた人間が犯罪へと突っ走ってしまうか否かは「紙一重」に思えてなりません。

 日本ではこのような精神的な症状を抱えた人が増え続けているにもかかわらず、しっかりとした対応がとられていないのが現状のようです。外的要因で社会から孤立し、強いストレスで精神的に不安定になり追い詰められてしまう人たちに、適切な対応や治療がなされていたなら、犯罪には至らなかったのではないかと、考えされられました。

 殺人事件のマスコミ報道では、「残虐極まりない犯行」「遺族に謝罪しておらず反省していない」などという、まるで判を押したような裁判所の判断しか伝わってきません。しかし事件を起こした背景にはさまざまな要因が重なっているのです。原因の究明もなされないまま、犯罪者を死刑に処してしまうのは、適切な対応なのでしょうか? 自分で死刑を望んで殺人をしたような人を死刑に処することが処罰になるのでしょうか? 加害者の背景や精神状態に言及し考察した価値のある本だと思いました。

2010年1月14日 (木)

クライメートゲート事件と情報源の信頼性

 クライメートゲート事件については、「クライメートゲート事件とマスコミ」で書きましたが、その記事で紹介した江守正多さんの記事の続報が日経エコノミーに掲載されています。

「クライメートゲート事件」続報・科学にとって「査読」とは何か

*参考までに、クライメートゲート事件に関する江守さんのこれまでの関連記事も紹介しておきます。

[急]気球温暖化捏造疑惑 

過去1000年の気温変動の虚実

 ここでは論文が学術雑誌に掲載されるために通過しなければならない「査読」についての説明と、IPCCの報告書の信頼性についてわかりやすく解説されています。

 地球温暖化に関してはIPCCの報告書をもとに温暖化による危機を唱える方が多いのですが、その一方でIPCCの報告に対してはさまざまな批判があり、温暖化懐疑論があります。ところが物理や気象などの専門知識のない多くの一般の人たちにとっては、これだけさまざまな主張があると、いったい何を信じるべきか?ということになりますし、判断ミスで誤った主張を信じてしまうことにもなりかねません。さらに、その誤った主張がネットなどによって大きく報じられることで、さらに誤った主張を広めてしまうことにもなりかねないのです。こうした連鎖はとても恐ろしいことです。

 江守さんが12月28日付けの一連の記事の最後に書かれている以下の言葉は、温暖化人為説に賛同する方も、懐疑論者も、そして一般の人たちも心に留めておかなければならない重要なことだと思います。

「最後に、僕自身がこのような解説を書くときにも、文献を調べる作業を自分の判断によりどこかで打ち切っています。その結果、もしもその判断が間違っていて、間違った内容の解説をしてしまったとしたら、その責任は自分にあると思っています。

 いわゆる「懐疑論」を語る方々にも、そのような責任をしっかりと感じていただきたいものだと思います。

 2009年ももうすぐ終わりです。新年を迎えるにあたり、読者のみなさんも、ご自身の信用している温暖化に関する科学的な情報を、情報源の信頼性をご自身の責任で判断するという観点から、今一度振返ってみてはいかがでしょうか」

 ここで、クライメートゲート事件についてやはりネット上で取り上げていて江守さんとは対極的な意見を書かれている経済学者の池田信夫さんの記事も紹介しておきましょう。

「クライメート事件」が壊すマスメディアの独占情報

 是非、読者の皆さんには江守さんの一連の記事と池田さんの記事を読み比べ、どちらが信頼に足る記事であるかを判断していただきたいと思います。

 「もしもその判断が間違っていて、間違った内容の解説をしてしまったとしたら、その責任は自分にある」という指摘は、私自身にも当てはまります。私は物理学や気象学については素人ですが、温暖化に関してはたとえ素人であっても自分が納得できる情報を紹介し、意見を言っています。しかし、あくまでも自分が納得できるということを判断基準にしているだけですので、私の判断が誤っている可能性ももちろんあります。

 「情報源の信頼性をご自身の責任で判断する」ということは、なにも温暖化問題に限ったことではありません。日本のマスメディアの多くが権力者の意向を汲んだ記事を書き「権力の監視」をできる状況になっていないのですから、たとえ一般市民であっても社会問題についてブログのような公の場で発信する場合は、このことを常に肝に銘じなければならないと思います。そして、もし自分の判断に重要な誤りがあった場合は、きちんと訂正や謝罪をすることも大切なことです。

2010年1月12日 (火)

「メディアへの出版情報のリリース」の実態

 私は自然保護運動に関わっていることもあり、新聞記者の知り合いが何人もいます。昨年のことなのですが、ある新聞記者と雑談をしていて自費出版の話題になったとき、こんな話を聞きました。

 「そういえば、文芸社からカタログというか情報誌のようなものが送られてきて迷惑しているんだ。いつも中身も見ないで『即ゴミ箱行き』だけどね」

 それで思い出したのが、文芸社の広告などに書かれている「1000のメディアに出版情報をリリースします」というフレーズです。新聞社が迷惑している送付物というのは、このことだったのでしょうか。そうであれば、多くのメディアは興味もない素人の書いた本に関する資料を一方的に送りつけられ、迷惑しているのではないでしょうか。そして、ろくに中身も読まれずに処分されている可能性が高いのではないかと思います。それにしても、1000ものメディアに送付しているのなら、結構な費用をかけているのでしょう。

 また、文芸社は山田悠介氏や秋山香乃氏など、文芸社からデビューした方を持ち出しては、素人の自費出版からでも作家になれるチャンスがあるとアピールしています。でも、冷静に考えてみてください。文芸社はこれまでに万単位の点数の本を出版していますが、その中で作家としてデビューできた方は何人いるのでしょうか? 初版1000部の素人の著書が売れ、作家としてデビューできることなど極めて低い確率なのです。

 「無料で本を出せるチャンス!」という宣伝もしていますが、どうやらこれに選ばれた人は必ずしも「全く負担を求められない」ということではないようなのです。ならば「看板に偽り有り」ではないでしょうか。

 著者の心をくすぐるようなメリットや甘い言葉が並べられている広告には、くれぐれも気をつけましょう。

2010年1月11日 (月)

自費出版の販売とリスク

 昨今では、作家でも専門家でもジャーナリストでもないごく普通の人が自費出版した本を書店などで販売することが普通になってきました。つまり、自費出版であっても販売サービスを付加している自費出版社が多くなったのです。本を書店で販売するということ自体を否定するつもりはないのですが、自費出版の販売にはリスクが伴うことを十分に認識しなければなりません。なお、ここで言っているのは制作請負・販売委託契約を交わす自費出版(文芸社の場合は流通出版の「売上還元タイプ」に該当)のことであり、著者に印税(著作権使用料)を支払ういわゆる共同出版(文芸社の場合は流通出版の「印税タイプ」に該当。単に自費出版といっている出版社もある)のことではありません。

 本を書店に置いてもらうためには書店や取次のマージン、倉庫での保管費用などのお金がかかります。もし著者が自分で直接本を売ったなら、売上金は100パーセント著者のものになります。ところが出版社に販売を委託した場合は、売上金から販売や保管の費用を差し引かれることになるのです。ですから、著者に入る売上金はそれほど多くはありません。

 気をつけなければならないのは、取次を通じて書店に委託配本されてもほとんど売れずに返品されてしまう場合です。この場合は売上金が入らないだけではなく手数料や保管費用ばかりがかさむことになります。ですから、販売をしても著者は売上金が得られないどころか、持ち出しになってしまうこともありえるのです。販売してもマイナスになってしまうのなら、はじめから流通させない私家本とし、著者が自ら売ったり配ったりしたほうがいいのではないでしょうか。もしマイナスになることはないと説明されたのであれば、注文にしか対応していない(書店には置かれない)か、あるいはそうしたリスク分がはじめから販売費用に含まれていると考えるべきです。

 さらに、書店流通をする場合は少なくとも500部とか1000部程度はつくらなければなりません。ほとんど売れなければ大量の無駄な本をつくることになるのです。大金をつぎこんでつくった本を断裁処分してしまうのはつらいことですし、著者が残部を引き取っても保管場所や処理に困ってしまうでしょう。ですから、売れない可能性が高いのであれば、流通はさせずに著者が自分で捌ける部数だけをつくってもらうほうがいいのです。

 また、自費出版社に販売を委託した場合、実際にどこの書店でいつ何冊販売されたのか確認できればいいのですが、必ずしもそうではありません。文芸社などでは提携書店で売れ残った本を文芸社が自ら買い取っているとされていますが、そうして買い戻された本が販売数としてカウントされているのか、あるいは除外されているのか分かりません。たとえば出版社から「300部売れた」と報告されても、そのすべてが読者に買われたのかどうかはわかりませんし、著者は確認のしようがないのです。買い戻されたものは「実売数」ではありませんから、もしそれまで販売数としてカウントされているとしたなら、まるで騙しであり詐欺的です。販売数に疑問を持たれた方は、出版社に問い合わせてみるといいでしょう。倒産した新風舎を擁護するわけではありませんが、新風舎ではどこの書店でいつ何冊売れたのかというデータを著者に提示していました。

 良心的な自費出版社は契約時にこのような販売のデメリットも説明しますが、著者からお金を儲けることしか考えていない悪質な出版社の場合は、著者のデメリットを説明せず書店販売を勧めるところもあります。アマチュアの本の販売を安易に勧める自費出版社は要注意ということです。

 自費出版を考える際には、アマチュアの本の流通は非常にリスクが大きいことを知っておかなければなりません。内容やジャンルにもよりますが、個人的には自費出版の本の流通はお勧めできません。

2010年1月 9日 (土)

シー・シェパードの衝突事故をめぐる真相

 先日、シー・シェパードの捕鯨監視船アディ・ギル号が日本の調査捕鯨団の監視船である第2昭南丸と衝突したというニュースが流れましたが、日本ではもっぱらシー・シェパードを非難する論調の報道ばかりだったのではないでしょうか。この報道を耳にしてまず思ったのは、日本のマスコミ報道だけでは真実や問題点が正確にはわからないだろうということでした。シー・シェパードの過激で行き過ぎた行動を擁護するつもりは毛頭ありませんが、捕鯨問題では、事実をきちんと確認したうえでどちらに非があるのか、そして何が問題なのを見極める必要があります。

 この件については、1月7日付けの北海道新聞では以下のように書かれていました。

 シー・シェパードは「(事故発生時)ギル号は静止していたが、突然衝突された。(日本側は)救助もしてくれなかった」と批判。

 一方、水産省によると「ギル号が第2昭南丸の右側から左側に横切ろうとした際に、急激に減速した後、再度急加速したために衝突した」としています。

 双方の主張が真っ向から対立しているようですが、海上自衛隊のイージス艦と漁船との衝突事故のことが頭に浮かびました。イージス艦との衝突事故では、明らかにイージス艦側に落度がありました。今回の衝突に関しても、船の位置関係や大きさから考えれば、第2昭南丸の方がギル号を回避する義務があったのではないかと感じたのです。つまり、衝突は予測でき、第2昭南丸が回避行動をとらなければならないのに、意図的に回避せずに衝突させて、シー・シェパードの活動を一方的に非難しているのではないかという印象を持ったのです。シー・シェパードの妨害行動も問題ですが、もし第2昭南丸が意図的に回避を怠ったのであれば、第2昭南丸も同じように問題です。

 と思っていたら、カメクジラネコさんがJANJANにまっとうな記事を書かれていました。以下です。

マスコミが伝えようとしない調査捕鯨の「負の側面」

 捕鯨問題に関しては、そもそもなぜ根強い反対運動があるのか、抗議活動があるのかという根本的な問題をもっときちんと論じなければならないと思うのですが、この国ではそういう原点が置き去りにされ、捕鯨反対を訴える団体の行動ばかりが非難の的になっているように感じます。

2010年1月 7日 (木)

死刑について考える(その3)

これまでの記事

死刑について考える(その1) 

死刑について考える(その2)

 私が森達也さんの「死刑」を読んですぐに読み返したのが、辺見庸さんの「愛と痛み」(毎日新聞社)でした。森さんがこの本で出した結論は、辺見さんの思考と通じるものであったからです。辺見さんはいくつもの著書の中で死刑について語っていますが、辺見さんの死刑に関する著述には死刑廃止論者の方たちが口にするような論理はほとんど見当たりません。

 「愛と痛み」は、2008年4月5日に「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム’ 90」が主催して開催された講演会「死刑と日常―闇の声と想像の射程」を改題し、講演草稿を修正、補充したものですが、ここには辺見さんの死刑に対する根源的な思いが凝縮されています。本当なら本を読んで辺見さんの言葉のひとつひとつを噛みしめ、考えてほしいのですが、ここでは印象に残った部分をいくつか取り上げることで辺見さんの思考の片鱗でも感じとっていただけたらと思います。どうしても長くなってしまうのですが、辺見さんの想いは彼の表現を通してこそ意味がありますので、あえて長めに引用します。

 さらに私は想像します。四人を殺した刑場に、これまで死刑囚を殺してきたあらゆる刑場に、はたして憎しみはあったろうか。あるいは衝動はあったか。悪意はあったか。狂気は。体が灼けるような情欲は。身を焦がすような倒錯が。あるいは殺意はあっただろうか。私はなかっただろうと思います。死刑は予定どおりに冷静におこなわれただけではないでしょうか。憎悪や衝動や情欲や殺意、それら人間の上津が微塵もないのに成立する殺人が死刑です。(中略)私たちは日々、殺人事件の報道を目にしています。それにはなんらかの憎悪、衝動、狂気、倒錯、金銭欲、性欲、情欲、殺意、あるいはものの弾みというものが介在している。しかし死刑にはそれがない。誰がおかしているのかわからない殺人です。誰でもないものが殺人をおかしている。いわばNOBODYが殺人をおかしているように装われているのが死刑です。これこそ言葉のもっともただしい意味において、戦慄すべき殺人ではないでしょうか。

 死刑囚が最後に立つ鉄板を開くボタンが五つあるのは、執行官の罪悪感をなくすためだといわれています(以前はハンドル式だったが押しボタンに変更された。現在でも押しボタンが作動しない場合にハンドルが用いられている)。鐶を締める二人の係官も同様の理由からです。また鬼門の立たせるような呪術的な方策をえらぶことにも同じ心性がはたらいているのではないでしょうか。責任を拡散させ、主体をなくし、誰がやったことかわからないようにする。誰でもないものがやったことのように装う。この死刑のありようは世間と見事に重なっています。主体をあかさない、個人がいない、誰も悪意をもたない、それなのに人が殺されてゆく。これが私たちの日常です。

 (中略)被害者への配慮と死刑囚への愛をひとつの次元で語るのは誤りだと私は考えます。私がいいつのっているのは、被害者と対峙しての死刑囚のことではない(中略)

 死刑を執行する五つのボタンの先に私たちは存在している。死刑は私たち世間が支えているのです。それを私は「黙契」tacit agreementと呼ぶ。明文化されず、契約書を残さず、暗黙のうちに互いの意志を一致させ、私たちは沈黙したままくらい契約を交わしているのです。黙契のなかで私たちは口を閉ざしたまま死刑を委託しているにすぎません。だから私たちは目にしません。死刑囚が鼻血をだし、眼の玉を飛びださせ、下を剥きだし、失禁し、脱糞し、射精し、痙攣しながら死んでゆくのを見ずにすむ。まるでゴミ処理のように人まかせにして自分は安全なところにいる。

 ここに例外はありません。つまり、死刑に反対する人も、意図ぜずともそれに加担していることに変わりはない(後略)

 死刑を肯定する方たちの多くが、「殺人を犯した者は死刑になって当然」といい、「自分の親族が殺されたなら加害者を許せるのか」と被害者に同化して死刑を正当化します。しかし、そのような思考の底には、被害者と加害者を対峙させた復讐の意識が横たわっています。はたして死刑を支持する方たちは、死刑囚についてどれほどの想いをめぐらせたことがあるでしょうか。死刑の場面をどれだけ想像したことがあるでしょうか。拘置所のことをどれだけ知っているでしょうか。「死刑は法律で決まっている」といっても、そもそも法律は人のつくったものです。不適切な法であれば変えていかなければなりません。法律で死刑を認めるか否かは、私たち国民ひとりひとりの意思に関わっているのです。

 私も知らなかったのですが、EUのホームページに死刑廃止宣言が掲載されているとのことで、本書ではそれが引用されています。私はこれを読んで、ぼんやりしている頭に水をかけられたようにハッとさせられました。この死刑廃止宣言から、なぜ多くの先進諸国では死刑廃止が受入れられ支持されているのかを読み取ることができます。その部分を以下に引用します。

 欧州連合は世界中で死刑制度が廃止されることを求めています。欧州連合は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人にあてはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。このように死刑は最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利を侵害する、極めて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのです。

 「すべての人間には生来尊厳が備わっている」という、論理というより人権や尊厳を前面に押し出し謳い上げた死刑廃止宣言こそ本質を射抜いたものであり、私たちがもっともっと深く考え意識しなければならないことではないでしょうか。ニルス・クリスティの語った「すべての人間は人間である」という言葉ともぴったりと重なります。被害者が人間であると同時に、加害者もまた人間です。

 最後に、マスコミや世間について書かれた部分を紹介します。

 テレビに関しては追従どころではない。裁判がはじまると被害者側の談話ばかりをまるで誘導のようにカメラの前でかたらせる。そうして被害者感情に限りなく同化し報復環境を煽りたてておいて、裁判で死刑判決が下されなかったときは裁判官に非があるかのような報道をする。ましてや弁護人が被告人を擁護する言説を展開すると、彼らを「公共敵」呼ばわりする。いま、日本のマスメディアの果たしている役割を見ているとその必要性さえ疑わしくなってきます。そこには個人が埋没し、その片鱗すら見当たらない。

 (中略)世間は感情的です。山口県光市の母子殺害事件の弁護団にあびせられた非難のすさまじさを振り返ればわかります。世間はきわめてエモーショナルで、それに歯止めをかけるのはたいへんにむずかしい。ひとたび階調を乱す行動や発言やふるまいをしてしまった個人は、容易に世間から排除されてしまう。世間は異物を排除し、同時に私たちは世間から排除されることをもっとも恐れる。その恐怖心が私たちこの国で生きる者の行動を心理的に拘束している。しかし、私たちはそれを踏み越えなくてはなりません。

 人間的な感情から出発して死刑反対の意志をもつのは大事なことだと思います。しかしながら、さらに、私たちが例外なく属している世間という敵対的なものとたたかわなければなりません。世間のなかにある、なんとなく死刑を受入れていく感情とたたかわなくてはならないのです。(中略)この国にいきわたっている集合的な感情は、被告人の心神喪失を認めてはくれません。世間感情が許さないからと政治的な判断がくだされる。そんな司法がどこにあるのか。江戸時代でさえそんなことはなかった。現在の司法もまた世間を背負っているのです。

 前回の記事に引用した、被害者遺族である原田さんの文章が頭の中に甦ってきました。「マスコミ」と「世間の人々」が被害者と加害者を崖の下に放り出し、崖の上では何事もなかったかのように平和な時が流れているという原田さんの例え話です。被害者遺族でありながら、加害者の謝罪や反省と向き合い、さらに一歩下がって客観的に見つめることにより考えが変わり死刑廃止運動に加わっていった原田さんの想いと行動こそ、まさしく辺見さんの上記の言葉と一致するのではないでしょうか。

 「世間の人々」は限りなくマスコミに操られ扇動されているのがこの国の現実です。被害者心情ばかりを大きく報道するマスコミには、殺人を犯してしまった人たちへ想いを寄せることすら許さないような無言の圧力のようなものを感じるのです。何事につけ、周りの人々の顔色を伺い、同調することで安心しようとする日本人の感覚と、マスコミによる偏った報道が重なることで、私たちの多くは死刑という人間の尊厳、人間に対する愛の問題から目を逸らしているのではないでしょうか。ネットでの犯罪者たたきもそうです。匿名の人たちがひたすら犯罪者をたたき罵詈雑言を吐き出していますが、そこには個人の顔も意志も見えてきません。まるで覆面をした人たちが手も足も縛られて身動きのとれない人を一斉に袋叩きにしているかのようです。だからこそマスコミ報道を鵜呑みにしたり、「世間」に同調するのではなく、ひとりひとりが死刑という問題に正面から向き合い考えない限り、この国から死刑をなくすことはできないのかもしれません。私たちひとりひとりの意識に関わっている問題なのです。(つづく

2010年1月 6日 (水)

死刑について考える(その2)

前回の記事

 前回紹介した森達也さんの著書「死刑」の中で、印象に残った部分をいくつか紹介したいと思います。  犯罪被害者、とりわけ親族を殺された被害者遺族の方たちの大半は、加害者に極刑を望みます。それは、愛する人を失った者として当然の気持ちなのだろうと思います。大切な人を失って精神的にボロボロになり、他者には分からない大きな痛みを背負って生きていかなければならないのですから。しかし、すべての被害者遺族が死刑に賛成しているわけではありません。たとえば、実の弟を殺された原田さんという方の以下のような事例が紹介されています。少し長いのですが、引用します。

 実の弟である明男を1984年に殺害された原田正治は、当初は主犯格の長谷川敏彦を激しく憎悪して極刑を願う。しかし獄中の長谷川から何度も謝罪の手紙をもらい、死刑確定直前に初めて面会を果たした原田は、その深い反省に触れると同時に、長谷川の姉や子供が逮捕後に自殺したことなども知り、彼を処刑したとしても誰も救われないと考えるようになる。その心境の変化を、原田は以下のように記述する。

 その頃、僕は、こんなことをイメージしていました。明男と僕ら家族が長谷川君たちの手で崖から突き落とされたイメージです。僕らは全員傷だらけで、明男は死んでいます。崖の上から、司法関係者やマスコミや世間の人々が、僕らを高みの見物です。彼らは、崖の上の平らで広々としたところから、「痛いだろう。かわいそうに」そう言いながら、長谷川君たちとその家族を突き落とそうとしています。僕も最初は長谷川君たちを自分たちと同じ眼に遭わせたいと思っていました。しかし、ふと気がつくと、僕が本当に望んでいることは違うことのようなのです。僕も僕たち家族も、大勢の人が平穏に暮らしている崖の上の平らな土地にもう一度のぼりたい、そう思っていることに気がついたのです。ところが、崖の上にいる人たちは、誰一人として「おーい、ひきあげてやるぞー」とは言ってくれません。代わりに「おまえのいる崖の下に、こいつらも落としてやるからなー。それで気がすむだろう」被害者と加害者をともに崖の下に放り出して、崖の上では、何もなかったかのように、平和な時が流れているのです(原田正治『弟を殺した彼と、僕。』ポプラ社、2004年)

 原田さんは、こうして死刑廃止運動に関わるようになったそうです。私はこの話に深い感銘を受けました。原田さんの語る「崖の上の世間の人々」こそ、被害者でも加害者でもない私たちなのです。

 被害者遺族と加害者が向き合い、心から反省して謝罪することで、気持ちや考え方が変わることもあるのです。「ニルス・クリスティの言葉」にも書きましたが、ノルウェーでは被害者・加害者・第三者による調停で和解が成立すれば刑事裁判にかけられることはなく、大半の事件が調停で解決するそうです。被害者と加害者が向き合うのはつらいことです。しかし、被害者も人であれば加害者も人です。加害者が被害者の苦悩を知って心から謝罪することで罪の意識が強まり、また被害者は加害者の深い反省と謝罪によって赦しの気持ちが芽生え、生への希望を持てるようになるのではないでしょうか。すべての加害者と被害者がこのような気持ちになれるとは思いませんが、人の持つ悔悟の気持ちや他者への優しさ、赦しという気持ちこそ、平和の根源ではないでしょうか。加害者を処刑したところで、「世間の人々」の気持ちが変わるとは思えません。

 もう一つ、冤罪の元死刑囚である免田栄さんの言葉を紹介しましょう。

 「最初に再審が決定したとき(1956年8月、熊本地裁八代支部は再審開始を決定、59年4月、福岡高裁はこの決定を取り消したために幻に終わった)、房の死刑囚みんなで胴上げをしてくれました。涙を流しながら喜んでくれた人もいた。あのとき私も初めて、みんなの人間性に触れたような気分になりました。それまでは他の死刑囚たちと潔白である自分とのあいだに一線を引いていた。そういう自分の浅はかな気持ちを反省しましたね。当たり前だけど血の通った人たちです。すれ違ったらこんにちはって頭を下げるし、こっちも挨拶するし、一人ひとりは何も変わらない人間です」

 「私の家庭は、私が小学校に入ってから卒業するまで、9人の継母さんが入れ替わるような複雑な家庭でした。多くの死刑囚と一緒に30年暮らしたけれど、同じような境遇の人がたくさんおった。みんな執行される朝、お世話になったって言って食器口から手を入れて握手して、涙を流していく。刑場に行きながら『免田さーん』って、大きい声で私を呼んだ死刑囚がおりました。その声は今も耳に残っています。消えんのです。どう考えても冤罪としか思えない人もたくさんおりました」

 拘置所での死刑囚の多くが恵まれない家庭環境に育っていること、罪を犯した人であっても、人情に溢れた普通の人たちであること、そして多くの冤罪があることが切々と伝わってきます。免田さんの獄中時代のメモによると、5人に1人くらいの割合で冤罪ではないかとの印象を抱いたそうですから、驚くほどの割合です。冤罪ではなくても誤判もあるでしょう。冤罪の人たちを死刑に追いやっているなら、死刑を認めている私たち国民は無実の者への殺人の共犯者でもあるのです。もし自分自身が冤罪で刑罰に処されたならどんな気持ちになるでしょう。以下は、冤罪で処刑された西武雄さんが拘置所で読んだ句です。

 叫びたし 寒満月の 割れるほど

 もう一つ、ある教誨師の言葉を紹介しましょう。

 「・・・・・・でも、僕はやっぱり、外的要因が強いと思っているんです。死刑囚の話を聞いているとわかるんだけれど、家族の愛情に恵まれた人はほとんどいない。ほぼ共通しています。もちろん家庭が恵まれなくても立派に生きている人はいくらでもいます。でももしも僕が彼らと同じような育ち方をしていたら、そうならない保証はない。紙一重だと思う」

 「紙一重だと思う」という言葉は、誰もが外的要因の影響で加害者になりうることを如実に示しています。死刑存置派の人の多くは「被害者の立場になって考えろ」といいますが、虐待を受け、いじめを受けてきた人の苦悩は考えなくてもいいのでしょうか。犯罪の原因を家庭や社会だけに求めることにはならないとしても、精神的に追い詰められて罪を犯してしまった人たちに死刑を求めることが平和な社会につながるとは思えません。(つづく

2010年1月 4日 (月)

死刑について考える(その1)

 年末からの腰痛もあり、お正月はゆっくり読書と決め込んだものの、それとなく選んだ本は買ったままで手をつけていなかった森達也氏の「死刑」(朝日出版社)という重いテーマを扱った本。読了してから、すでに一度読んでいる辺見庸氏の「愛と痛み」(毎日新聞社)というやはり死刑について語った本と、篠田博之氏の「ドキュメント死刑囚」(ちくま新書)まで読んでしまいました。

 はじめに申し上げておきますが、私は死刑には反対です。一刻も早く、死刑制度を廃止すべきだと考えています。なぜなら、たとえどんなに残虐な殺人を犯した人であっても、その人は私と同じ血の通った人間であり、悪魔でもなければ鬼畜でもないからです。私自身、絶対に人を殺したくはないからです。おそらくその感覚は私の良心からくるもの、というより人間の生物としての本能のようなもの、人という生物に備わったタブーではないかと思うのです。「殺人はしてはいけない」と教えこまれなくても、人というのは、本来は殺人など安易にしない動物ではないでしょうか。

 「死刑では償いにならない」「冤罪であれば取り返しのつかないことになる」といった論理もその通りだとは思うのですが、それ以前に、人は同種である人を殺すようにできてはいない(犬や猫であればいいというわけではありませんが)と思えてなりません。もちろん、実際には人を殺してしまう人がいるのが現実なのですが、それには何らかの事情があり、どこかで道を間違えたり、あるいは迷ったり、追い込まれたということではないのでしょうか。生まれもっての殺人者などいるとは思えません。誤ったり迷ったり、追い込まれた人たちに与えるべきは、命を絶つことではないはずです。

 ところが、この国ではおよそ8割もの人が死刑を支持しているといいます。ネット上には殺人犯の加害者に対し「殺せ」、「死刑が当然」との書き込みが氾濫しています。「殺人は凶悪犯罪」と言って否定しながら、なぜ、死刑という国家による殺人であれば多くの人が肯定するのか・・・。報復なら殺人も許されるのか・・・。私には「正義の戦争」を謳って人殺しを正当化するのと同じ論理であり、矛盾に満ちたこととしか思えないのです。

 もちろん、被害者遺族の「極刑を望む」「死んで償ってほしい」という心情を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、私たちの大半は被害者遺族でもなければ加害者でもありません。そういう人たちが、なぜ死刑という国家による殺人を許容するのか、なぜ被害者遺族に同化して死刑を求めるのか。加害者のことはどうでもいいのか。そんな思いをずっと持ち続けるなかで森達也氏の本を書店で手にしたのですが、そのテーマの重さと本の厚さにたじろいで、そのままになっていたのです。

 森達也氏は、死刑に関わる人、関心を持つ人などに取材を重ねながら、「死刑は必要なのか」「死刑にはどんな意味があるのか」「償いとは何か」と自問自答することで、自らの答えを引き出していきます。取材したのは死刑廃止の活動に関わり死刑囚の弁護人も務める安田好弘弁護士、オウム真理教の死刑囚、死刑をテーマにした漫画を描いている漫画家、「死刑廃止を推進する議員連盟」の保坂展人氏や亀井静香氏、死刑を執行された宅間守の弁護士、冤罪の元死刑囚である免田栄氏、死刑執行に立ち会った経験のある元高検検事、元刑務官、教誨師、死刑存置派のライターである藤井誠二氏や、犯罪被害者の会のメンバー、光市事件の被害者遺族である本村洋氏など。

 森氏は、彼らから死刑に反対あるいは賛成する論理を聞き出し、自問自答していきます。そして森氏が最終的に行き着いた結論は以下のようなものでした。

 冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺人であろうが、殺すことは嫌だ。

 多くを殺した人であっても、やっぱり殺すことは嫌だ。

 反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。

 再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。

 また、光市事件の被告少年に面会して以下のように思ったとも書いています。

 僕は彼を死なせたくない。

 なぜなら彼を知ったから。会ったから。会って話したから。自分が出会った人が、言葉を交わした人が、やがて殺されるかもしれないという状況を前にして、それを仕方がないと肯定することは僕にはできない。これは論理ではない。情緒とも少し違う。

 敢えて言葉にすれば本能に近い。

 人は人を殺す。でも人は人を救いたいとも思う。そう生まれついている。

 さらにこう語ります。

 僕は人に絶望したくない。生きる価値のない人など認めない。

 この重いテーマの本を最後まで読んで、私は緊張がほぐれるような安堵感を覚えました。あれだけ死刑について調べ、論理を追求し、悩んでたどり着いた結論は、私の感覚とほとんど同じだったのです。このような感覚的な結論に不満を覚える人がいるかも知れませんが、被害者遺族が加害者に極刑を求める心情もほとんど感覚的なものであり、他者がそれに同化して死刑を求めることもやはり感覚的なものです。論理というより意識こそ、死刑制度をめぐる賛否の本質ではないかと思えてなりません。

 森氏の取材の内容をここでこと細かに取り上げるつもりはありません。関心のある人は、是非この本をお読みいただけたらと思います。(つづく  

« 2009年12月 | トップページ | 2010年2月 »

フォト

twitter

2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ