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2010年1月 6日 (水)

死刑について考える(その2)

前回の記事

 前回紹介した森達也さんの著書「死刑」の中で、印象に残った部分をいくつか紹介したいと思います。  犯罪被害者、とりわけ親族を殺された被害者遺族の方たちの大半は、加害者に極刑を望みます。それは、愛する人を失った者として当然の気持ちなのだろうと思います。大切な人を失って精神的にボロボロになり、他者には分からない大きな痛みを背負って生きていかなければならないのですから。しかし、すべての被害者遺族が死刑に賛成しているわけではありません。たとえば、実の弟を殺された原田さんという方の以下のような事例が紹介されています。少し長いのですが、引用します。

 実の弟である明男を1984年に殺害された原田正治は、当初は主犯格の長谷川敏彦を激しく憎悪して極刑を願う。しかし獄中の長谷川から何度も謝罪の手紙をもらい、死刑確定直前に初めて面会を果たした原田は、その深い反省に触れると同時に、長谷川の姉や子供が逮捕後に自殺したことなども知り、彼を処刑したとしても誰も救われないと考えるようになる。その心境の変化を、原田は以下のように記述する。

 その頃、僕は、こんなことをイメージしていました。明男と僕ら家族が長谷川君たちの手で崖から突き落とされたイメージです。僕らは全員傷だらけで、明男は死んでいます。崖の上から、司法関係者やマスコミや世間の人々が、僕らを高みの見物です。彼らは、崖の上の平らで広々としたところから、「痛いだろう。かわいそうに」そう言いながら、長谷川君たちとその家族を突き落とそうとしています。僕も最初は長谷川君たちを自分たちと同じ眼に遭わせたいと思っていました。しかし、ふと気がつくと、僕が本当に望んでいることは違うことのようなのです。僕も僕たち家族も、大勢の人が平穏に暮らしている崖の上の平らな土地にもう一度のぼりたい、そう思っていることに気がついたのです。ところが、崖の上にいる人たちは、誰一人として「おーい、ひきあげてやるぞー」とは言ってくれません。代わりに「おまえのいる崖の下に、こいつらも落としてやるからなー。それで気がすむだろう」被害者と加害者をともに崖の下に放り出して、崖の上では、何もなかったかのように、平和な時が流れているのです(原田正治『弟を殺した彼と、僕。』ポプラ社、2004年)

 原田さんは、こうして死刑廃止運動に関わるようになったそうです。私はこの話に深い感銘を受けました。原田さんの語る「崖の上の世間の人々」こそ、被害者でも加害者でもない私たちなのです。

 被害者遺族と加害者が向き合い、心から反省して謝罪することで、気持ちや考え方が変わることもあるのです。「ニルス・クリスティの言葉」にも書きましたが、ノルウェーでは被害者・加害者・第三者による調停で和解が成立すれば刑事裁判にかけられることはなく、大半の事件が調停で解決するそうです。被害者と加害者が向き合うのはつらいことです。しかし、被害者も人であれば加害者も人です。加害者が被害者の苦悩を知って心から謝罪することで罪の意識が強まり、また被害者は加害者の深い反省と謝罪によって赦しの気持ちが芽生え、生への希望を持てるようになるのではないでしょうか。すべての加害者と被害者がこのような気持ちになれるとは思いませんが、人の持つ悔悟の気持ちや他者への優しさ、赦しという気持ちこそ、平和の根源ではないでしょうか。加害者を処刑したところで、「世間の人々」の気持ちが変わるとは思えません。

 もう一つ、冤罪の元死刑囚である免田栄さんの言葉を紹介しましょう。

 「最初に再審が決定したとき(1956年8月、熊本地裁八代支部は再審開始を決定、59年4月、福岡高裁はこの決定を取り消したために幻に終わった)、房の死刑囚みんなで胴上げをしてくれました。涙を流しながら喜んでくれた人もいた。あのとき私も初めて、みんなの人間性に触れたような気分になりました。それまでは他の死刑囚たちと潔白である自分とのあいだに一線を引いていた。そういう自分の浅はかな気持ちを反省しましたね。当たり前だけど血の通った人たちです。すれ違ったらこんにちはって頭を下げるし、こっちも挨拶するし、一人ひとりは何も変わらない人間です」

 「私の家庭は、私が小学校に入ってから卒業するまで、9人の継母さんが入れ替わるような複雑な家庭でした。多くの死刑囚と一緒に30年暮らしたけれど、同じような境遇の人がたくさんおった。みんな執行される朝、お世話になったって言って食器口から手を入れて握手して、涙を流していく。刑場に行きながら『免田さーん』って、大きい声で私を呼んだ死刑囚がおりました。その声は今も耳に残っています。消えんのです。どう考えても冤罪としか思えない人もたくさんおりました」

 拘置所での死刑囚の多くが恵まれない家庭環境に育っていること、罪を犯した人であっても、人情に溢れた普通の人たちであること、そして多くの冤罪があることが切々と伝わってきます。免田さんの獄中時代のメモによると、5人に1人くらいの割合で冤罪ではないかとの印象を抱いたそうですから、驚くほどの割合です。冤罪ではなくても誤判もあるでしょう。冤罪の人たちを死刑に追いやっているなら、死刑を認めている私たち国民は無実の者への殺人の共犯者でもあるのです。もし自分自身が冤罪で刑罰に処されたならどんな気持ちになるでしょう。以下は、冤罪で処刑された西武雄さんが拘置所で読んだ句です。

 叫びたし 寒満月の 割れるほど

 もう一つ、ある教誨師の言葉を紹介しましょう。

 「・・・・・・でも、僕はやっぱり、外的要因が強いと思っているんです。死刑囚の話を聞いているとわかるんだけれど、家族の愛情に恵まれた人はほとんどいない。ほぼ共通しています。もちろん家庭が恵まれなくても立派に生きている人はいくらでもいます。でももしも僕が彼らと同じような育ち方をしていたら、そうならない保証はない。紙一重だと思う」

 「紙一重だと思う」という言葉は、誰もが外的要因の影響で加害者になりうることを如実に示しています。死刑存置派の人の多くは「被害者の立場になって考えろ」といいますが、虐待を受け、いじめを受けてきた人の苦悩は考えなくてもいいのでしょうか。犯罪の原因を家庭や社会だけに求めることにはならないとしても、精神的に追い詰められて罪を犯してしまった人たちに死刑を求めることが平和な社会につながるとは思えません。(つづく

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