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2009年2月

2009年2月17日 (火)

ガラス蜘蛛とメーテルリンク

 先日札幌に行った際に、昨年出版されたメーテルリンクの博物文学「ガラス蜘蛛」(工作舎)を買いました。メーテルリンクは1862年にベルギーで生まれた文学者で「青い鳥」の作者です。ノーベル文学賞も受賞しているのですが、博物学に関する著述もいくつかあり「ガラス蜘蛛」もそのひとつです。そして「ガラス蜘蛛」とはミズグモのことなのです。

 ミズグモはその生活の大半を水中で過ごすという驚くべき生態をもった蜘蛛なのですが、魚のように水中の酸素を利用して呼吸しているわけではありません。腹部に空気をまとうことで呼吸をしているのです(クモの呼吸器官は腹部下面にあります)。また水草に糸でドーム状の住居をつくって水面から空気を運びこみ、休息や食事に利用しています。腹部を包む気泡が銀色に輝いて見えることから、メーテルリンクは気泡をまとったミズグモを「クリスタルの潜水服」と称しています。

 メーテルリンクは少年時代に祖父のところでミズグモを見たのですが、その後はミズクモのことを忘れていました。ところが60年ほど後のこと、ベルギーから瓶に入れられたミズグモが送られてきました。この偶然の巡り合わせともいうべきミズグモとの再会によって、ミズグモの生態について書き上げたのがこの「ガラス蜘蛛」なのです。

 彼はミズグモの不思議な生態を紹介したあとで、虫は本能によって機械的に行動しているだけだとするファーブルを批判します。そしてミズグモは知性によって水中生活を選んだのではないかと想像し、虫に知性を見出そうとするのです。私も昆虫やクモなど小さな動物の織り成す美しさや正確に網を張っていくクモに目を奪われ息を呑むことがあります。そしてこの繊細な造形や行動が偶然だけによって生まれたのだろうかと、心の隅で密かに疑惑を抱くこともあります。ですから彼の、小さな虫にも知性があるのではないかと意識する感性には魅かれるところがあります。

 さて、私がこの本を読んでメーテルリンクに大いに共感したのは、少年時代の体験を綴った「青い泡」という一文でした。家の前の運河で溺れそうになったこと、洗濯用のたらいを船の代わりにして運河へ漕ぎ出たこと、完全防備のもとにスズメバチの巣を襲ったものの反撃にあったことなど、自然を相手に冒険を繰り広げていた少年時代がその後の博物文学の土台となっていたのです。

 この本の導入部ではセキショウモという水草の実に不思議な受粉のしくみが紹介されています。セキショウモの雄花は水面に向けて伸びていくものの短い花茎によって水面に到達できません。しかし雄花に封じ込められた気泡が花茎を断ち切って水面に浮かび出ることで、水面で待機している雌花に花粉を届けるのです。セキショウモの気泡からミズグモの気泡へとリンクして展開していくという視点も、メーテルリンクがすぐれた博物文学者であることを窺わせます。(つづく)

2009年2月16日 (月)

やっぱり次々商法では

 ちょっと古いのですが、こんな記事を見つけました。

「自費出版」は美味しい商売! 

 お断りしておきますが、この方の意見に私が賛同しているというわけではありません。自費出版であっても、中には商業出版と変わらない編集をしている本もあるでしょうし・・・。

 ただ、ここに紹介されている事例って、次々商法ではないでしょうか。販売の費用って、会社持ちのはずでは? 本の仕様が変われば費用が変わるのはわかりますが、それにしてもこういうやり方は悪質でしょう。最初の見積もりってどうやって計算していたのか? この記事、契約した著者の心理も伝わってきますねえ。

 今はこんなことをやっていなければいいのですが・・・。

 余談ですが、「えりもの森裁判」で札幌に出かけた際、とある文芸社の提携書店に立ち寄ってみました。すると、文芸社の専用棚の上に例の「自費出版失敗しないための心得」が置かれていました。なんで文芸社の専用棚の上なんでしょうね? 文芸社の棚には、相変わらず「売れるのか?」と大いに疑問に思う本が並んでいましたが・・・。

2009年2月15日 (日)

越境伐採の隠蔽工作?

 2月13日は「えりもの森裁判」の口頭弁論でした。この日の主張は前回もお知らせした越境伐採疑惑なのですが、さらに驚くべき新たな事実が明らかになったのです。

 この裁判で問題にしているのは152林班の43小班(10伐区、2.40ヘクタール)で行なわれた伐採です。書類上では日高森づくりセンターは、ここで376本の木の収穫調査を行い立木のまま業者に販売したということになっています。

 ところが実際には43小班(10伐区)の区画から大きくはみ出し、しかも700本を越える伐採が行なわれていたのです。その越境した面積はおよそ1ヘクタールほどもあります。こんなに越境していたなら林班図と現地を見比べてすぐに気づくはずです。ところが、私たちは現場に何回も行っているのに、10月の現地裁判のときまで越境していたことにはっきりと気づきませんでした。なぜでしょうか?

 私たち原告がここの皆伐地を発見したのは平成17年の9月のことです。この皆伐に疑問を抱いた原告は、伐採に関わる資料を情報公開で入手しました。その資料の林班図は、実際の伐採状況に近いような形になっていたのです。そして私たちはこの図が43小班(10伐区)の線引きだとずっと信じていました。

 しかし、昨年10月の現場検証のときに被告の出した図面(伐採の実態に即した図)によって越境伐採疑惑が持ち上がりました。なぜなら、その図面は上記の情報公開で入手した図とも異なっていたのです。いったいこれはどういうことなのか?

 そこで43小班(10伐区)の線引きについて再度調べ直してみたのです。すると、情報公開で入手した図はなんと北側のラインが修正液のようなもので修正されて範囲が拡大された痕跡があったのです。今回の口頭弁論でも林班図の原図を実際に見せてもらったのですが、確かに小班の線を白く消した跡がはっきりとわかりました。「なんじゃこりゃ?!」という感じです。

 つまり我々に越境伐採を見破られないように、情報公開の資料では小班の区画を勝手に修正し本来の区画より広くした図を出したと推測されるのです。これって、文書の偽造では・・・。ところが、実際にはその図面よりさらにはみ出て伐採していたのです。そこで伐採の実態に合わせて線引きした図面が現地裁判のときに出されたのです。これまでも情報開示で入手した文書と裁判で出された同じ文書の日付が異なっていたという不可解なできごとも起きており(「原告の主張を展開します」参照)、被告が文書を改ざんしている疑惑が拭えません。

 越境伐採は、日高森づくりセンターの職員が森林管理の権限を逸脱して北海道の財産を業者とともに伐採・搬出したということですから、森林法197条(保安林内の盗伐)に違反した違法行為といえます。

 被告側は越境伐採を「誤差」だというような弁解をしているのですが、1ヘクタールもの誤差など常識的に考えられず、故意によるものとしか思えないのです。どうもこの裁判では、突っ込めば突っ込むほどさまざまな疑惑がゾロゾロ出てきます。道民の財産である道有林が、道民の知らないところでいかにいい加減に扱われているかということなのです。

 裁判のあとにこの越境伐採について記者会見をしたのですが、マスコミの皆さんもかなり興味津々という感じでした。

2009年2月11日 (水)

冬山造材のなごり

 山を歩いていると、ときどき地際から高い位置で伐られている切り株を見かけることがあります。それらの切り株の多くはかなり太い木で、苔に覆われていたり半ば朽ちかけていたりします。かつての冬山造材の伐根なのです。

 今のように山奥まで林道や作業道がつくられていなかった頃は、造材といえば冬の仕事でした。雪が深く積もっているときに伐り出すために、切り株の位置が高いのです。そして伐り出した丸太は馬などを利用して雪の上を滑らせて降ろしたのです。このために林床を傷めることはほとんどなかったといえるでしょう。奥山まで砂防ダムが造られるようになったのも、急斜面に林道や作業道をつくって土砂の流出を加速させたからです。

Fuyuyamazouzai  写真の伐根は大雪山国立公園の標高1000メートル近いところのものですが、昨年は夕張岳の登山道でもこのような伐根をたくさん見かけました。直径が1メートル前後の切り株もあり、かつての森林には巨木が茂っていたことを物語っています。太い木からどんどん伐りだしていったということです。

 山の中でときどき、「ここは人が手を加える前はどんな森だったのだろうか」と思うことがあります。それほどまで北海道の山は奥地まで伐採が入り太い木が伐りだされてしまいました。かつて山で仕事をしていた人たちは、夏場はものすごい蚊やヌカカ、ブユの襲撃に見舞われたといいますが、今では登山をしていてもそのようなことはほとんどありません。森林の環境が大きく変わってしまったのでしょう。

 これからは失われたかつての森林を蘇らせる努力をしていかなければならないのではないでしょうか。

2009年2月10日 (火)

格差と犯罪

 昨日のNHKスペシャルは「職業“詐欺”」というショッキングなタイトルで、振り込め詐欺に関わる若者の姿を追ったものでした。

 マンションの一室で携帯電話を利用してあちこちに電話をかける主犯グループ、ATMからお金を引き出す者、銀行口座や携帯電話を入手する役目の者。主犯格の者は捕まらないようになっている巧みなシステム。犯罪行為に手を染めながら罪悪感のない若者・・・。

 あれだけマスコミが報道して注意を呼びかけている振り込め詐欺が一向に減らず、犯人がなかなか摘発されないのは、このようなシステムがあったのです。

 ATMからお金を引き出す役目の者や、銀行口座を提供してしまう者の背景には、貧困に陥っている若者たちの姿がありました。職を失い無一文のホームレスになった若者などが、捕まる確率の高いお金の引き出しなどの役割を担っているというのです。一回で数万円が手に入るという誘惑にかられて犯罪に手を染めてしまう若者たち。彼らはほとんど罪悪感がないそうですが、罪悪感を持てなくなってしまっているのでしょう。それは何故なのか?

 職を失った途端に何の保証もなされず路上に放り出されてしまう若者たちに罪はありません。職を失い住む場所を失っても何のケアもされない社会で、彼らはどうやって生きていけばいいのか。格差社会がもたらした貧困が罪のない若者を犯罪に導いているのです。アメリカの新自由主義に追随して格差を広げてきたこの国の政治こそ、振り込め詐欺をもたらし蔓延させたといえるかもしれません。主犯格の人たちは詐欺で得たお金で豪遊し、生きるためにそれを手助けする貧困層の若者たち。犯罪に罪悪感を持たなくなるのも社会の荒廃と無関係ではないはずです。

 虎の子の貯金を騙しとられてしまった方たちはどんなに悔しい思いをしていることでしょう。人を騙して大金を巻き上げてしまうことはもちろん許されないことです。しかし、格差社会は他者の痛みを考えることのできない人々、犯罪を罪悪とは感じない人々をどんどん生み出しているのではないでしょうか。それは決して自分とは無縁の世界のできごとではありません。

 この荒廃した社会を私たちは立て直すことができるのか・・・。年越し派遣村では失業者とそれを支援する人たちのあたたかい気持ちと行動、協力があったはずです。そんなことをふと思いだしました。

2009年2月 9日 (月)

不思議な「心得」

 NPO法人リタイアメント情報センターの自費出版部会では、「自費出版失敗しないための心得」という冊子を作成して、全国の消費者センターや書店などに配布しています。自費出版部会長である渡辺勝利氏は、この冊子の責任者といえます。

 さて、私はこの冊子を見ていろいろな疑問が湧きました。

 この冊子は、表紙と裏表紙(裏表紙はリタイアメント情報センターの紹介)を除く中身が22ページです。はじめの1ページは前書き、次の3ページは「自分の本を書店に並べたいと思っている人のための自己診断シート」とその見方、続いて「消費者保護のための自費出版営業・契約ガイドライン」が4ページ。残りの14ページは賛同事業者(11社と2団体)の紹介です。半分以上が事業者の紹介…。そして前書きには「自費出版に関心のある方は本冊子を参考にして、できるだけ目的にかなった出版社を見つけ、有意義な成果を上げてほしい」としています。NPO法人は公益的・非営利活動を行なう団体のはずですが、多数の自費出版業者がある中で特定の企業や団体の宣伝をするのであれば公益的な活動とはいいがたいのではないでしょうか。

 自費出版部会では消費者向けに「消費者のための流通させる自費出版チェクリスト」を、事業者向けに「消費者保護のための自費出版営業・契約ガイドライン」を作成しています。ところが、この冊子に掲載されているのは事業者向けのガイドラインだけなのです。広く一般の方に向けて作成した冊子なのに、なぜ消費者向けではなく事業者向けのガイドラインの方を掲載するのでしょうか? とても不思議なことです。ちなみに消費者向けのチェックリストでチェックするとどうもひっかかってくる賛同業者があるようなのですが、そのためではないかという疑念が湧いてきます。

 ガイドラインの紹介の前に次のような断り書きがあります。「このガイドラインに賛同し、自費出版事業を行なう出版社はNPO法人リタイアメント情報センター・自費出版部会が行なう事業実態調査に協力し、所定の情報開示を行なったうえで、所定の手続きによってNPO法人リタイアメント情報センターにガイドライン賛同事業者(仮)として登録することができる」

 そして、賛同事業者について次のような説明があります(23ページ)。

「現時点で賛同いただいた事業者がすべてガイドラインと同じ内容の営業・契約システムとなっているわけではありません。共同出版問題を契機に、まずガイドラインの趣旨としての消費者保護について積極的に取り組んでいく意志を示していただいたことが第一歩であると考えています」

 要するに、登録している業者というのはあくまでも「賛同」であって「遵守」ではありません。でも、遵守でなければ事業者を登録する意味などどれだけあるのでしょうか? 渡辺氏はかつて文芸社の協力出版を強く批判していました。そして文芸社は今でも「流通出版印税タイプ」として基本的に同じことをやっています。ところが、その文芸社を賛同事業者として認めているのです。これほど矛盾したことはないでしょう。また「賛同事業者(仮)」となっているのですが、「仮」とはどういう意味なのでしょうか。

 そもそもリタイアメント情報センターや尾崎浩一氏は文芸社との癒着疑惑が持たれているわけですが、癒着が事実であるとしたならリタイアメント情報センターに相談を持ちかけることがどういうことなのかは想像に難くありません。賛同事業者のトラブルを隠蔽してしまうことも可能でしょう。このNPO法人が自らガイドラインをつくって賛同業者登録を取り仕切り、トラブルの相談まで受け付けるというシステムは、非常に不透明です。

 リタイアメント情報センターがガイドラインをつくってから1年以上が経ちますが、賛同事業者の数はほとんど増えていません。文芸社と日本文学館が加わってから、新規登録があったでしょうか? 渡辺氏はその理由を今一度考えてみたほうがよいと私は思います。

 この冊子を見た方は、ここに紹介されている出版社は安心だと思うことでしょう。でも、文芸社や日本文学館と関わりを持ち、怒っている著者の方が何人もいます。そのような方たちが見たなら欺瞞に満ちた冊子に見えることでしょう。

 渡辺氏は被害をなくすためにガイドラインをつくり、冊子を発行したはずです。しかし、その冊子によって反社会的なことをしている業者に著者を誘導したなら責任も問われることになるでしょう。そうならないことを願いたいものです。

2009年2月 7日 (土)

コメントの責任

 お笑いタレントのスマイリーさんのブログが炎上し、名誉毀損や脅迫の書き込みがされた件で警視庁が立件を決めたそうですが、ブログの炎上をめぐって警視庁が立件に動いたのが全国初というのはちょっと意外でした。

 このブログを定期的にお読みいただいている方はご存知と思いますが、私のブログにも嫌がらせや情報操作と受け止められるコメントや、提訴をちらつかせた脅迫めいたメールがありました。そこで「嫌がらせに警告」という記事を書いたこともあります。

 私の場合は、スマイリーさんのように噂を基にした誹謗中傷ではなく、身の危険を感じるようなものではありませんが、悪質な誹謗中傷や身の危険を感じるようなコメントやメールがきたならば、告訴をする心積もりはあります。

 私の場合はとりあえず上記の記事を書いたら落ち着いたのですが(もっとも柴田晴廣氏などは、その後も言い訳めいたコメントを入れてきましたが)、スマイリーさんの場合は誹謗中傷が収まらず被害届けまで出さなければならない状況になったということでしょう。第三者への誹謗中傷であれば管理者が削除する必要がありますが、管理者への誹謗中傷や脅迫は本人に大きな精神的被害をもたらすのです。

 まあ、私への嫌がらせコメントやメールの多くは、私に批判されて私を嫌っている人物や組織が関与しているのだと思われますが、大の大人がそんなことまでするとは何と情けないことか。

 今回の立件で匿名による嫌がらせがなくなるとは思いませんが、安易な書き込みが減ることには繋がるでしょう。たとえコメントの書き込みであっても軽く考えず、責任を持つべきだということです。

*この記事へのコメント 「com090207.doc」をダウンロード 

2009年2月 6日 (金)

あふれるペットボトル対策

 昨日のNHKクローズアップ現代では、リサイクルができずに溜まってしまったペットボトルの問題を取り上げていました。これまでは回収されたペットボトルの多くが中国に買い取られて綿などにリサイクルされ、衣類やぬいぐるみの中綿などに利用されて輸出されていました。ところが世界的な経済危機でリサイクル商品が売れなくなり、ペットボトルが中国の国内でもダブついてきているとのこと。また、リサイクルでつくった綿よりも石油からつくった綿のほうが品質がよいのだそうです。このために日本のペットボトルは売れなくなり、山積にされているそうです。

 リサイクルを中国に頼っていたツケがまわってきたということです。番組ではその解決策のひとつとしてペットボトルからペットボトルを再生する技術が開発されていることを紹介していました。

 しかし私はこの番組を見て、ハタと考えてしまいました。廃棄されるペットボトルを減らすには、リサイクルする方法とペットボトルそのものを減らす方法があるはずです。しかし、ここではペットボトルを減らすという方策についてはなんら触れないのです。

 昨年の春に北欧に旅行したのですが、北欧では日本のように多くの種類のペットボトル飲料がありません。清涼飲料の自動販売機などというものもほとんど見かけないのです。それに比べて日本はどうでしょうか? コンビニにはありとあらゆるペットボトル入り飲料が並び、自動販売機はいたるところにあります。自販機はかなりの電力を使って地球温暖化に貢献しているでしょう。また、最近では会議などでもお茶を淹れるのではなくペットボトル飲料をそのまま出すことも多いようですね。

 ペットボトル飲料が生活に浸透し、私達はそれをほとんど抵抗なく受け入れることでペットボトル文化ができあがってしまいましたが、まずはここから見直すべきでしょう。

 つまり、メーカーには「リターナブル容器の利用」、消費者には「自分で携帯用ポットなどにお茶を入れて持ち歩く」という呼びかけをすべきではないでしょうか? ちょっと前まではそれが当たり前でした。そういえば瓶入りのビールなんかも、すっかり見かけなくなりましたね。

 国民に節約だとか節電をよびかけるなら、使い捨て容器に入った物を買わないことも呼びかけるべきです。NHKはメーカーから反発されるようなことは言えないのでしょうか。

2009年2月 5日 (木)

渡辺勝利氏への反論 第3弾

出版権と所有権

 渡辺氏は、「自費出版を殺すな3」で、私が本の所有権と出版権を混乱しているとして批判しています。はじめに断っておきますが、私は本の所有権と出版権が違うことは十分に認識しています。

 渡辺氏が指摘している「文芸社・新風舎の盛衰と自費出版(2)「契約」締結の重要チェックポイント」で、私は自費出版と商業出版の契約について取り上げています。ここで私が取り上げている商業出版の契約書とは日本書籍出版協会が作成している「出版契約書(一般用)」を指し、商業出版において一般的に用いられているものです。そして、これは出版権設定契約(著作権法第79条以下に規定)という法律構成をとっています。文芸社や新風舎の契約書はこの契約書の雛形をベースにしたものです。したがってこの記事においても、商業出版においては出版社に出版権を設定すると説明しました。この出版権設定契約では出版社の商品として本をつくることが前提となっていますから、出版権設定によって自動的に出版社に所有権のある本をつくることになります。そこで、「協力・共同型出版における契約では、出版権を出版社に設定することで本は出版社のものになってしまう」という説明をしたのです。

 共同出版問題では「所有権が出版社にあるか著者にあるかがポイント」とよく言われますしそれはその通りです。ところが上記の出版契約書には所有権のことは記されていません。だからこそ、わざわざこのような説明をしているのです。

 ところが渡辺氏はこのことを理解できず、「ここで言いたいのは『契約書に出版権は出版社に帰属すると書かれているので、自費出版ではない』という考え方は間違っているということである」と勝手な解釈をしているのです。私は「契約書に出版権は出版社に帰属すると書かれているので、自費出版ではない」などとは考えていませんし、そのようなことはどこにも書いていません。

 渡辺氏がこのようなことにこだわるのは、ご自身の会社(MBC21・東京経済)の自費出版の契約書で出版権を設定されているからでしょう。渡辺氏の会社の契約書は渡辺氏の著書「考察 日本の自費出版」(東京経済)に紹介されており、私は目を通しています。この契約書は、出版権が出版社に設定されてはいますが、上述した商業出版の契約書の雛形を利用しているものではありません。著者には印税ではなく本の売上金を支払うという制作請負・販売委託契約ですから、商業出版や協力・共同出版の契約には該当しません。

 渡辺氏は、自費出版における出版権について以下のように説明しています。

「自費出版の著作権は著者に帰属するのは当たり前であるが、それを書店流通させる本として仕上げた場合、素人の原稿を商品として編集した編集著作権なるものは、出版社に帰属すると考えるのが正しい。 つまり、著者が持ち込んだ生原稿を完全原稿にし、タイトルにも工夫を凝らし、本として出版したものがそのまま他社から出版された場合、出版社の編集権が著者との契約部数以外で他社に侵されたことになる。その上、市場での混乱を招く結果となる。 それゆえ、出版社から書店流通される本の出版権利は出版社に帰属するのが一般的である。」

 書店流通する自費出版において出版権を設定するかどうかは出版社の考え方によって異なります。編集著作権にこだわっているようですが、「編集著作権なるものは、出版社に帰属すると考えるのが正しい」とうのはかなり強引です。アマチュアの著作物でも完成度が高く編集で大きく手を加えなくてもいい作品もあるはずです。そのような作品にまで編集著作権を主張するのは不適切でしょう。ケースバイケースで対応すべきことだと思います。渡辺氏の指摘している事柄は、出版権の設定という形をとらなくても編集著作権の扱いや他社から出版する場合の取り決め等を契約書に記載しておくことで対処できるのです。

 なお、「考察 日本の自費出版」(2004年発行の第1刷)に掲載されている渡辺氏の会社の出版契約書について、私見を述べさせていただきます。ただし、これ以降に契約書が書き換えられている可能性があることをお断りしておきます。

 商業出版は出版社が本を販売することを目的とした出版です。これに対し、自費出版は著者の本を制作するサービスです。その本を出版社が書店などで販売する場合は流通サービスを付加させることになります。自費出版では制作と販売という異なる二つのサービスがあります。

 渡辺氏の会社の契約書(販売するタイプ)は名称が「出版契約書」となっていて制作と販売が一体となっており、第一条で出版権の設定が定められています。商業出版の契約書と似た体裁になっているのです。請負(委託)契約であるなら出版請負(委託)契約書と明記するか、あるいは制作と販売の契約書を別々にしたほうがわかりやすいのです。本の所有権もよりわかりやすくなります。NPO法人日本自費出版ネットワークの作成したガイドラインでも、委託制作契約と委託販売契約の二つの契約内容を明記あるいは別個に作成することを盛り込んでいます。

 ちなみに文芸社の売上還元タイプの契約書は「出版委託契約書」となっており、出版委託と販売委託が分けて記載され、本の所有権についても明記されています。編集著作権は甲(著作者)に譲渡されるとしているほか、契約の有効期間内での独占的出版の許諾と排他的使用が定められています。出版権を設定しなくても渡辺氏の指摘している問題はクリアされています。請負契約においてはこのような契約書の方が適切であり、著者にとってもわかりやすいと私は考えます。

 渡辺氏は、自社の契約書にこだわるがために、私が出版権や所有権について理解していないと勘違いして批判しているようです。

*この記事へのコメント 「com090205.doc」をダウンロード  

2009年2月 4日 (水)

渡辺勝利氏への反論 第2弾

共同出版は自費出版か?

 渡辺氏は、私のJANJANの記事「文芸社・新風舎の盛衰と自費出版(1)協力・共同型出版への批判と疑問」を引用して以下のような批判をしています(二重山カッコ内が私の記事の引用部分)。

《この商法がその実態から常に「自費出版」として語られることに疑問と問題を感じます。なぜなら、こうした出版形態の契約は自費出版とはまったく異なるものだからです》 この論点から記事を書き続けているために、どんどん現実とずれていってしまっているのである。自費出版に関して法律による定義づけはない。さまざまな解釈と見方があっていいが、「共同出版」は明らかに自費出版の一形態である。それを大々的に展開した事業者が「消費者トラブル」を起こし、経営に失敗して大量の被害者が発生し、社会問題化した。 ただそれだけの話であるのに、松田氏は「自費出版」であると理解できなかったためにわざわざ問題を複雑にし、問題がないところにもあるかのような論理を作り上げてしまった。「契約書」の文言にとらわれて「木を見て森をみない」まま誤った解釈による「自費出版」論を展開しているのである。自費出版を殺すな2 より)

 渡辺氏の言うように、自費出版に関して法律による定義づけはありません。しかし出版においては、出版社が自社の商品として本をつくり販売する商業出版と、著者が出版費用を負担して著者自身に所有権のある本をつくる自費出版という二つの方法があることは周知の事実です。前者は出版社の出版事業、すなわち本の製造・販売事業です。後者は著者の本の制作サービス事業であり、販売サービスが付加されることもあります。

 本というのは確実に売れるという商品ではありません。商業出版は非常にリスクの大きな事業といえます。そこで、出版社が「出版はしたいがリスクが高い」と判断した著作物の出版において、著者に費用の一部を負担してもらうという条件がつけられても何ら不思議ではありませんし、実際にそのようなことをやっている商業出版社もあります。

 沢辺均氏は、「自費出版年鑑2008」(NPO法人日本自費出版ネットワーク)の「自費出版の意味と強み(弱味)」と題した記事(小見出しは「自費出版でなくても著者の制作費負担は珍しくない」)で以下のように書いています。

「それから費用負担です。僕は、いろんな人にずけずけと「数字」を聞くのが好きで、出版社仲間にも、その出版社が出版している本の印税とか制作費用をことあるごとに聞いてきました。すると、(1)印税なし、(2)著者に(たとえば数百部とか)買い上げてもらうのを条件にする、(3)自費出版と同じようにその制作費用を著者に丸々負担してもらう、などなどの話が出てきます。もちろん、その数は(1)→(3)にむかうほど少なくなるようですが、でもまあ、実質上、本の制作費の負担を著者がすることだって、出版業界でも(自費出版業界ではない)それほど珍しくはないようなんです」 

 これが商業出版業界の実態です。

 文芸社の契約書は私が契約をした2001年時点でも、ごく最近の2008年のものでも(前回の記事参照)商業出版の契約書の雛形を応用したものであり、費用は出版社と著者の両者が負担することになっています。つまり、著者が費用の一部を負担する条件での商業出版にほかなりません。そして作品を高く評価して「全額負担することはできないが全国刊行の価値がある」といって勧誘するのです。

 文芸社自身も渡辺氏との裁判の中で自費出版と違うと主張していましたが、当然のことです。「共同出資をする」と出版社自身が提示しているのに、出版社が全く費用負担をしていなければ請求金額がおかしいということでしかありません。

 渡辺氏は、「出版費用の全てを著者が負担したものは、自費出版以外の何物でもない。単に本を出版することのみで、出版社に利益がもたらされている場合には、出版費用の一部を出版社が負担しているとはいえないからだ。つまり、実質的に出版社が、販売促進や在庫管理によほどの経費をかけない限り、資金を共同や協力して出し合う出版とはいえない。ゆえに出版された本の所有権は、本来全て著者にあるべきであり、著者に所有権のある本が出版社を通じて売れた場合は、販売にかかわった経費やマージンを差し引いた売上金は著者のものである。本の全てを有する著者が、自らに印税を支払うなどということはあり得ない」という主張をしています。しかし、それはあくまでも「著者がすべての費用を支払っている」ということを前提として成り立つことです。

 渡辺氏は出版業界の方ですから共同出版社が著者に請求している費用が分担にはなっておらず、全額が著者負担であることを見抜くことができます。しかし、著者は「出版費用の一部」とか「制作費」という約束ならば出版費用の全額を請求されているとは考えません。中には費用に疑問を感じない人もいますが、それは著者が勘違いしている(させられている)からでしょう。  契約内容を理解して契約した著者が出版社に対して「所有権は著者にあるべき」とか「売上金を支払わないのはおかしい」と主張することにはなりません。たとえ裁判でそんなことを主張しても通らないでしょう。著者が主張できるのは、契約内容と請求金額が矛盾しているということです。

 渡辺氏と文芸社の裁判においても、裁判所は「文芸社の契約書が法的に認められないようなものではない」と判断しており、契約書は法的に瑕疵がないとしています。また、新風舎の破産管財人弁護士も「本の所有権は出版社にある」としました。碧天舎のときも同じだったはずです。契約書を法的に判断するなら、それは当然のことといえます。  つまり渡辺氏の主張は契約した著者が主張できることではありません。被害の回復をしたい著者は実効力のある主張をしなければなりません。実効力のない主張は意味のないものであり、混乱をきたすだけです。

 共同出版問題の最大の被害者は契約をした著者です。そして悪質商法のトラブル解決においては被害者が実効力のある論理で出版社に対峙していかなければなりません。サラ金のグレーゾーン金利が廃止されることになったのも、被害者が不当な請求だといって行動を起こした結果です。だからこそ、私は著者の視点に立ち契約に基づいた主張をしているのです。渡辺氏の主張は、著者ではなく業者に対してすべきことなのです。

 共同出版を自費出版というべきではないとする理由はもうひとつあります。私は一貫して共同出資としながら共同出資にしていないことを問題にしてきました。すると、新風舎も文芸社も契約書の形態はそのままにして共同出版という呼称を使わなくなったのです。そして費用問題に関して新風舎は「請求金額に納得して契約したはずだ」と言い訳をし、サービスの契約だと言い張りました。文芸社も著者負担金を「出版委託金」などと称するようになりました。しかし契約書はサービスの契約でも委託契約でもないのです。著者がサービスの契約、委託契約であると勘違いをしたなら、出版社は「請求金額に納得して契約したはずだ」という都合のいい主張ができます。

 沢辺氏は、「実は、ぼくは、商業出版と自費出版の違いについてはそれほど明瞭な線引きはないと思っているんです」と書いています。確かに混沌としています。でも、それでいいのでしょうか? 以前はもっときちんと線引きされていたのではないでしょうか?

 その線引きが崩れてしまったのは、費用の一部を著者が負担する条件付での商業出版の契約でありながら出版費用の全額を著者に請求するという非常識な共同出版社が台頭し、そのやり方が「自費出版」の名の下にまかり通るようになってしまったからではないでしょうか。「費用の全額を著者が負担しているから自費出版」という論調は、問題を見えづらくし、線引きに混乱をもたらしたのです。

 費用負担、リスク負担をしない製造業などという非常識な業態が、ほかにあるでしょうか? 製造業である以上、多少なりとも費用負担・リスク負担をするのが常識でしょう。これについては、「企業の利益・企業の倫理」に書いています。

 商業出版で著者にも費用を負担してもらう場合には「適正な負担額」というのがあるのです(http://www.kobeport.net/news/kyodo.html参照)。だからこそ私は契約に合った適切な費用請求をすべきだと主張しているのです。

*この記事へのコメント 「com090204.doc」をダウンロード 

2009年2月 3日 (火)

太陽光発電と環境産業

 政府は地球温暖化防止のために自然エネルギーの利用を進めようとしており、家庭での太陽光発電にも補助金を出すようになりました。地球温暖化、環境問題、化石燃料の枯渇…どれをとっても自然エネルギーの利用を進めていかなければならないのは自明です。

 で、わが家にもしつこく電話がありました。太陽電池のメーカーである京セラからです。でも、その勧誘はかなり驚きのものでした。なんだか設置者を錯誤させて契約させようとしているのではないか…とも受け取れかねないものです。JANJANにこの体験を投稿しました。

太陽光発電の勧誘と問題点 

 まあ、メーカーにとっては契約さえとれればいいのでしょうけれど、環境問題にかこつけてこんな勧誘をやっていたならそのうち契約者からクレームがきて問題になるのではないでしょうか?

 私の記事の最後にリンクされている関連記事を読むと、補助金制度もいろいろ問題があるようです。まずは電力会社への売電価格の保証を優先すべきなのかもしれません。

 太陽光発電を広めていくのはもちろん非常に重要なことですが、どうもこの国の政策はあくまでも企業にやさしくしているようで、基本的な姿勢に問題がありそうです。

2009年2月 2日 (月)

渡辺勝利氏への反論 第1弾

共同出版はなくなったのか?

 リタイアメント情報センターの自費出版部会長を務める渡辺勝利氏が、私がJANJANに連載してきた共同出版関連の記事に対し、zero—inというサイトのコラムで反論を書いています。このサイトは文芸社との癒着疑惑の持たれるリタイアメント情報センターの尾崎浩一氏が編集・発行人です。

 渡辺氏はこのコラムの「自費出版を殺すな2」 で、次のような発言をしています。

「ところが、松田氏は、新風舎騒動がおさまっても、まだ、おかしな論調でネット新聞に記事を投稿し続けている。またネット上では過去の記事も簡単に見ることができる。筆者の見る限り、松田氏の記事はその論理の出発点に重大な誤りがある。早くそれに気づいて欲しいが、JanJanという形の上では社会的に認知されたメディア上で続いているだけに、自費出版への誤った認識が広まることが心配だ。誤った情報は是非とも正していかなければならない」

 渡辺氏は自分の意見だけが正しいとして私の記事を誤りであると決め付けています。 でもニュースメディアであるJANJANが誤ったことを掲載しつづけていたなら、大変なことではありませんか? なぜ渡辺氏も尾崎氏もJANJANに誤りであることの証拠を示して訂正を求めないのでしょうか? 正直なところ、同じ主張を何回もしたくはありません。しかし私の主張を理解しようとしたり尊重する姿勢もなく公の場で誤りであると決め付けをされる以上、反論もやむを得ません。どうやら「人間の脳に一度すり込まれた意識は、なかなか拭い切れない」という発言をそのまま渡辺氏にお返ししなければならないようです。

 渡辺氏は以下のように共同出版は過去のものとなったと主張しています。

 「(前略)今ではほとんどこうした共同出版的な出版形態は姿を消したと考えられるが、もしまだ契約書の内容を変更していなかったり、共同出資をしないで著者にすべての費用を負担させながら、共同出版的な文言を使用している出版社があれば、即刻やめていただきたい。松田まゆみ氏は、ネット新聞や自らのブログで、すでに無くなっている共同出版や協力出版が、大手企業として存在しているという前提で論調を展開している。それはこの世に存在しない幽霊に対して理論展開しているということである」

 では、文芸社はどうでしょうか? 文芸社はホームページで流通出版の印税タイプについて、販売の費用(販売委託金としているが販売委託契約ではないので不適切な表現)と倉庫費用は文芸社負担と明記しています。また契約書(「文芸社に騙された!」のコメント欄に掲載)の第5条(費用の負担)では、「本著作物の初版第1刷発行にあたりその制作・販売・宣伝に要する出版費用のうち、甲は本条別表のとおりの金額(以下、「出版委託金」と称する)を負担する」となっています(平成20年11月に契約を交わした方の契約書)。つまり請求金額は契約書籍の初版の「制作・販売・宣伝に要する費用の一部」であることを意味します。なお、委託契約ではないのに「出版委託金」としているのは「販売委託金」同様に不適切です。

 これらのことから、文芸社は明らかに共同出資を謳っており、著者の負担金は基本的に制作費といえるでしょう(宣伝費については不明瞭ですが)。しかし、その請求金額は私が契約をした当時とほとんど変わらない高額な費用であり、著者がすべての出版費用を負担していると考えるのが妥当です。また新風舎からひきついだデータがあるにも関わらず、新風舎と同額の費用を著者に請求した例もあります。文芸社は事業譲渡の際に、仕掛かり中の書籍の出版にあたっては「利益はとらない」と川島弁護士に約束していたはずですが、約束が守られているとは思えません。文芸社がほんとうに共同出資しているのなら、文芸社の負担分と著者の負担分についての内訳を示すべきでしょう。しかし、文芸社は著者に出版費用の内訳を出さないと聞いています。また、「共同出版・自費出版の被害をなくす会」の費用に関する質問書に対しても、無視を貫いているのです。

 渡辺氏が自費出版部会長を努めるリタイアメント情報センターのガイドライン賛同業者になっている文芸社こそ、渡辺氏が「即刻やめていただきたい」としている「共同出資をしないで著者にすべての費用を負担させながら、共同出版的な文言を使用している出版社」といえましょう。そして、その文芸社は現在、共同出版最大手といえる存在なのです。

 新風舎騒動がおさまって「共同出版的な出版形態は姿を消した」と判断しているのであれば、とんでもない誤解といえます。

*この記事へのコメント 「com090202.doc」をダウンロード  

生態系がサービスをするのか?

 「生態系サービス」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 私がこの言葉をはじめて耳にしたのは、昨年6月に札幌で開催された国際シンポジウム「救おう!森のいのち 考えよう!森の未来」での、中静透氏(東北大学生命科学研究科教授)の講演でした。

 中静氏は、例えば里山が花粉を運ぶ昆虫や農作物の天敵となる昆虫の生息地になっているという例などをとりあげ、それを生態系サービスと称していました。その時は、なんともしっくりこない表現だなあと思ったのです。

 その後、北海道新聞の魚眼図というコラムで、柳川久氏(帯広畜産大学准教授)が生態系サービスのことを書いていました。どうやらこの言葉は最近よく使われるようになった、半ば流行語のようなもののようです。柳川氏の説明では、「われわれをとりまく多種多様な生態系から人間が享受することのできる、さまざまなサービスのことを示す」ということです。自然界の生物からもたらされる経済的なものから、癒しなどの精神的なもの、あるいは災害の発生を抑えるような自然の機能のことです。

 これを読んで、「なーんだ、要するに自然の持つ公益的機能のことじゃん!」と思ったのですが、これに生態系サービスという言葉を当てはめるのは私にはどうもピンときません。なんだか、自然が人間のために奉仕しているかのように感じられるのですもの…。生態系の持つ公益的機能というほうがはるかにしっくりときます。

 人類が狩猟採集生活をしていたころ(今でもそのような民族はいますが)、人は生態系にすっぽりはまりこんだ生活をしていたのです。自然からの恵みは生活の糧そのものでした。今でも漁業などはそれに近いですね。自然のサイクルの中で人は生きているのです。きれいな空気や水なども…。そして、自然はなにも人間のためにサービスをしているわけではありません。あるがままにそうなっているだけです。

 機能(物の働き、作用)をサービス(奉仕)だと解釈して使うことに違和感を覚えざるを得ません。

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