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2009年1月

2009年1月31日 (土)

クモは怖い動物か?

 出版関係の話題が続いていたので、少し気分転換です。

 私が「クモに興味がある」とか「クモが好き」などというと、怪訝そうな顔をしたり不思議がる人が大半です。嫌いな動物のアンケートなどをとると、クモはかなり上位にくるようですからそれもうなずけますが、クモ好き人間にとってはちょっと残念な結果です。

 では、人間のクモ嫌いは生得的なものなのでしょうか?

 私がクモ好きでクモを見たらニッコリすることもあって、わが娘たちもクモを怖がることはありません。子どもの場合、親などがクモを嫌がり騒ぐことで無意識のうちにクモを嫌悪してしまうという側面もあるのでしょう。でも、大きなクモの場合は必ずしもそういうことにはならないようです。

 実は、私も子どものころは昆虫が大好きだったのですが、クモは特に好きというわけではありませんでした。クモの網に虫をかけて遊んだりはしましたが、その程度です。でも小学生のとき、壁に大きなクモが足を広げて張り付いていたのを見たときには、一瞬「ギャッ!」という感じでした。アシダカグモです。アシダカグモで大騒ぎをする人は多いようですが、このクモはゴキブリを捕らえる益虫ですし攻撃性はありません。

 小さなクモはともかく、大きなサイズになるとどうしてもそれだけでグロテスクというイメージが強くなってしまうのでしょうね。肉食性、毒がある、音もなく歩くといったことがいっそうイメージを悪くするのでしょう。とりわけ毒性の強いクモが生息している地域に住む人などは、嫌悪感がしみついているのかも知れません。

 でも、幸いなことに日本では猛毒といわれるクモはほとんどいません。近年問題になっている外来種のゴケグモ類は注意が必要ですが、噛まれたからといって死に至るようなことはほとんどありません。大半のクモが毒をもっているのは事実ですが、それは獲物を捕らえるために発達したものであり、人間に大きな害を与えるクモはそれほど多くはないのです。

 北海道の場合はカバキコマチグモに気をつけていればほとんどクモを怖がる必要はありません。カバキコマチグモというのはススキなどの葉をくるりと巻いて産室をつくっているクモなのですが、これは噛まれるとかなり痛いようですし人によっては数日間苦しむようです。保健所の方がクモを持参して私のところに駆け込んできたこともあります。成熟して雄が徘徊する7月頃は要注意期間です。

 ところが、クモは「不快害虫」とされて殺虫剤まで販売されています。これはちょっと残念なことです。大きくてグロテスクというクモもたしかにいますが、大きいクモはそれほど多くはないのです。よくよく見れば可愛らしいクモや美しいクモもたくさんいます。少なくともクモは決して怖いような動物ではなく、見た目が気持ち悪いという先入観さえ取り去ることができたらとても興味深い動物なのです。

 不快というだけで目の敵のように殺虫剤をかけられることは、クモにとっては不当な扱いに違いありません。

2009年1月30日 (金)

文芸社の思惑

 昨日の記事の続きです。

 渡辺勝利氏は、「自費出版を殺すな2」の中で私個人のことについても触れていますので、補足させていただきます。私は渡辺氏が文芸社から提訴されたという情報を得て裁判に役立ててもらうべく資料を提供しましたが、それが渡辺氏と連絡をとることになったきっかけです。

 渡辺氏とは電話で何回か話しをしたほか、事務所を訪ねてお話しを伺ったことがあります。訪ねたのは裁判が終わってからのことです。渡辺氏との話のなかでとても印象に残っていることがあります。

 文芸社が渡辺氏に「自費出版クラブに入れてもらえないか?」というようなことをいってきたというのです。自費出版クラブとは、自費出版業界の健全化のために渡辺氏が自費出版業者の方たちに呼びかけて立ち上げた組織で、彼はそこで業界のガイドラインのようなものを作りたいと話してくれました。

 渡辺氏は裁判が終わってからも「文芸社商法の研究」という裁判記録を出版して文芸社に批判的な立場をとっていましたが、そんな彼に文芸社のほうから近づいていたということです。提訴した相手に同調するようにして近づいてくるとは、なんとも不可解な会社だと私はいぶかしく思いました。いったいこれは何を意味したのでしょうか? 私には何らかの思惑があったのではないかと思えてなりません。

 自費出版クラブについては詳しいことは知りませんが、活動が停滞しているという話は聞いてもガイドラインを作ったとは聞いていません。では渡辺氏が望んでいたガイドラインはどうなったでしょうか? それは彼がリタイアメント情報センターの自費出版部会に部会長として関わることで達成されました。そしてそのガイドラインには文芸社も賛同業者として加わっています。しかし、尾崎浩一氏の深く関わるリタイアメント情報センターは、文芸社との癒着疑惑が持たれているのです。

 私は渡辺氏が尾崎氏に利用されるのではないかと懸念して、尾崎氏の疑惑を彼にメールで伝えたことがあります。しかし、彼からは何の返事もなくその直後に自費出版部会長に就いたのです。それが彼との最後のやりとりです。渡辺氏は尾崎氏の疑惑を知りながら無視したということでしょう。このことをとても残念に思っています。

 ところで、渡辺氏は自著「自費出版を殺すな」(東京経済)の最後の部分で文芸社のことについて触れています。この中で彼は文芸社が渡辺氏との論争を参考にして軌道修正してきたとして一定の評価をしているのですが、文芸社については「…からだと聞く」「…成功したようである」「…心がけているという」というように、多くのことを他者からの間接的な情報によって判断されているようです。では、その情報は誰からもたらされたのでしょうか? 私は文芸社と関わった方たちの声を直接聞いていますが、そこから見えてくる文芸社の実態は渡辺氏の認識とはかなり違うものです。彼のところには真実が伝わっていないのではないかと思えてなりません。そのような情報をもとに彼が私を批判しつづけるとしたら、とても虚しく、また危険なものを感じます。

 私は、渡辺氏が同業者でありながら果敢に共同出版を批判してきたことに敬意を表していますし、渡辺氏の行なっている流通型の自費出版も評価していますので、まさか公の場であのような誹謗中傷に近い発言をされるとは思ってもいませんでした。批判されるのはご自由ですが、渡辺氏には自分の置かれている状況を見つめなおしていただきたいと心から思っています。

 なお、渡辺氏は「この人はかつて筆者のところにも何度か連絡をしてきた。共同出版の問題について質問に応えたり、意見を交わしたりしたことがある。ある時、筆者がその考え方に間違いがあると指摘すると、それから連絡はなくなった。新風舎騒動の時も『おかしな事を言い続けているな』と思っていたが、あの時期に批判をしてもかえって事態を混乱させるだけだと思い、ほうっておいた」と書いています。

 お互いに見解に違いがあることは認識していましたが、彼から私の考えに間違いがあると指摘された覚えはありませんし、連絡を絶ったのは渡辺氏の方です。意見は異なっていても、お互いの見解は尊重していたと認識していました。細かいことに目くじらを立てるつもりはありませんし記憶違いということもありますが、公の場でこのように書かれるのは正直なところ心外ですので、ここに指摘しておきます。

*この記事へのコメント 「com090130.doc」をダウンロード

2009年1月29日 (木)

いろいろな視点

 「江川紹子氏の責任」で、森達也さんの「創」の連載記事について触れましたが、森さんは、2008年12月号の「創」で「視点が違えば世界は違う」と題してとても興味深いことを書いていました。

 森さんが言いたいのは「さまざまな被害者がいる。さまざまな加害者がいる。それが世界の実相なのだ。封殺してはならない。萎縮してはならない」ということなのです。

 「視点が違えば世界は違う」、とても当たり前のことでありながら、私達はなかなかそれに気づくことができません。例えば、新風舎に関わった人たちにはどのような立場の方がいて、どんな風に感じているのでしょうか? ちょっと考えてみました。

 まず、被害者である著者はどうでしょうか? 騙されたことに怒り裁判を起こした著者は、おそらく経営陣に怒りを募らせたでしょう。新風舎のやり方に不満を持ち、抗議したり交渉したりした著者も同様でしょう。その一方で、問題点を理解できずに満足していた著者は、批判にさらされた新風舎をかばう気持ちになったかもしれません。

 倒産被害者はどうでしょう? 本も出なければお金も戻らなかった人たちは、最大の被害者です。まずは支払ったお金や本がどうなるのかが最大の関心事だったでしょう。また、批判したり提訴して新風舎を追い詰めた人たちによい感情は抱かなかったのではないでしょうか。もちろん、会社に怒りを抱いた人も多かったでしょう。すでに本を出版している人たちにとっては、自分の本がどうなるのかが最も気になったはずです。

 社員はどうでしょう? 著者を騙すようなやり方に、後ろめたさを感じながら仕事をしていた方もいたでしょう。倒産の前は給料も満足に払ってもらえず、会社に不満を感じていた社員も多かったのではないでしょうか。社員は加害者側ではありますが、給料ももらえず職も失った倒産被害者でもあるのです。

 社長をはじめとした経営陣はまさに加害者です。しかし、もし外部から意図的に倒産させるような力が働いていたなら、被害者ともいえるのではないでしょうか。

 外部の編集者やデザイナー、下請けの印刷会社なども倒産被害者です。

 新風舎に原稿を送ったものの契約しなかった人たちは、肩をなでおろしたかもしれません。当事者になっていなければ、他人事です。

 会社の広告塔になっていた著名人はどうなのでしょうか?

 原稿募集の広告を掲載していた新聞や雑誌は加害者に加担していたことになりますが、そういう意識はほとんどないようです。新風舎の悪質商法を報じたジャーナリストやマスコミ関係者はどうなのでしょう? 新風舎だけしか批判しない人物に振り回されてはいなかったでしょうか? 彼らは、倒産で多くの被害者が出たことをどう思っているのでしょうか?  それぞれの立場によって、新風舎の悪質商法や倒産に対する受け止め方は違うでしょうし、怒りの大きさや矛先も違うはずです。「視点が違えば世界も違う」からです。

 さて、「視点が違えば世界が違う」という視点から、もうひとつだけ言っておきたいことがあります。それはこれまで共同出版を批判してきた人の視点です。私のように契約をした著者・被害者の視点、商業出版業界の方の視点、自費出版業界の方の視点では主張も微妙に異なることでしょう。それぞれの視点、見方があって当然です。

 ところが自分の視点だけが正しく、私の視点は誤りであると公の場で断言されている方がいます。自費出版業者でありリタイアメント情報センターの自費出版部会長を務める渡辺勝利氏です。以下のサイトに彼の批判記事が掲載されています。

情報サイト ゼロイン

 私は渡辺氏の視点・主張は十分理解し尊重したうえで、契約を交わした著者の視点から共同出版や自費出版にかかわる問題を書いてきたつもりです。そして、渡辺氏と私では視点が違うのだということも説明してきました。しかし、どうやら彼は決して自分以外の視点を尊重できない頑迷な方のようです。

 森さんの言葉を再度ここで引用しましょう。

「さまざまな被害者がいる。さまざまな加害者がいる。それが世界の実相なのだ。封殺してはならない。萎縮してはならない」

 私は共同出版についていろいろな立場の方が発言されるべきだと考えています。被害者はもとより、業界関係者もそれぞれの視点で発言すべきでしょう。渡辺氏がご自身の視点から発言されることも大いに結構です。しかし、自分と視点の異なる者の主張を誤りだと決め付け、あたかも害毒であるかのように論じるべきでしょうか?

 そして何よりも不思議なのは、私の主張に対して文芸社は何ら自分たちの主張を公に展開しないということです。自分たちのやっていることが正当だというのであれば、その論拠こそ示さなければならないはずです。

 渡辺氏は私のことを「木を見て森を見ない」と批判されているようです。しかし、リタイアメント情報センターと文芸社の癒着疑惑、尾崎浩一氏の不可解な言動から推し量るなら、渡辺氏こそ文芸社に利用されているといえるのではないでしょうか? 「木を見て森を見ない」のはどちらでしょうか? その判断は読者のみなさんにお任せしたいと思います。

 渡辺氏が私の視点を誤りだと断言する以上、渡辺氏に反論しなければなりません。反論についてはこれから展開しますが、もし渡辺氏がこのブログを読まれているのならひとつだけ言っておきたいことがあります。私のJANJANの記事はネット上のものです。ネットによるネット記事の批判なら、引用元にリンクを張るのがマナーではないでしょうか。一部分だけの引用では、相手の主張が正しく伝わらないことにもなりかねません。

2009年1月27日 (火)

校正って大変!

 実はここ2週間ほど、とある原稿の校正とそれに関連する作業で忙しくしていたのですが、ようやく一段落しました。それにしても、校正ってなかなか大変な作業です。

 文章だけの校正であれば、それほど大変ではありません。でも、今回のものは図を多用した専門書なので図やその解説などのチェックもしなければなりません。もっとも図版のレイアウトをしたのは出版社なのですが、では図版に誤りがないかということまでは編集者にはわからないのです。そこで図の一つ一つをこちらでチェックしなければならないということになります。これがなかなか大変な作業でした。細かい字なので目はしょぼしょぼしてくるし…。

 で、直さなければならないところが実にいろいろありました。図の天地が逆だったり、番号が違っていたり、同じ図が複数あったり…。このまま印刷されてしまったら大変!というレベルのものがいろいろ。これはかなり冷や汗ものです。また2回読んでも気づかなかった重大な欠落が、パラパラと見直しをしていて気づいたというのもあります。人間の注意力というのはあまり当てになりませんね。初校は返送したものの、まだ見落としがあるのでは、とちょっと気がかりです。

 商業出版の本でもときどき誤字や脱字を見つけますから、校正というのはプロの編集者であってもなかなか完璧にはいかないのでしょう。とりわけ一人で編集をしているような零細出版社は大変神経をつかう作業ではないでしょうか。一人だと見落としも多いものです。

 それとは別のことですが、今月のはじめからブログで父の遺稿集「山の挽歌」の掲載をはじめました。本として出版した内容とほぼ同じなのですが、実は全く同じではありません。この本の編集は私がやり、知人にDTPによる版下作成を依頼したのですが、やはり後から読み返すとしっくりこないところがあるのですね。そこはやはり素人編集者の欠陥なのでしょう。

 このために、ブログ版では句読点などを若干変えています。また、ブログではルビが使えないためにふりがなを括弧書きにしました。出版後に何箇所か誤字や脱字が判明したのですが、何とブログに掲載する段階になって新たな誤変換を見つけたのです。本当に、何度読んでいても気づかないことがあるんですね。そんなこともあって、今月は校正の大変さを身をもって感じさせられました。

 このブログ版に関しては、在庫の残りが少なくなってきたこと、読者を意識して書かれた作品が多いということもあり公表しようと思ったのですが、このようなアマチュアの作品がネット上でどの位読まれるのかを知るための試みという側面もあります。ブログでの公表であれば、訪問元のアドレスや検索キーワードなどを知ることができます。

 今のところ、このブログからの訪問者が大半です。文学作品をネット上で不特定多数の人に読んでもらうのがいかに大変であるかということでしょう。検索で訪問される方もありますが、「出会い」とか「混浴」などというキーワードで検索されてきた方は、予想が外れたことでしょうね。

2009年1月25日 (日)

真実はどこに?

 先に書いた「法律詐欺に近いかも?」という記事に、春子さんという方から以下のようなコメントがありました。

松田まゆみ様

私は文芸社の社員の妻です。松田様がお疑いのように、文芸社は柴田晴廣さんと共謀して松田さんを罠にかけていたのです。私は主人の口からはっきりそのことを聞きました。私は複雑な思いです。著者の方々にはもうしわけないと思っています。しかし主人の勤めている会社がつぶれてしまっては私も困ります。ですから懺悔のつもりで、せめて事実だけは言っておきます。

 私にはこのコメントが真実であるかどうかを確かめる術はありません。でも、このコメントを書かれた方は以下のうちのいずれかになります。

1 文芸社の社員の妻

2 文芸社の社員または関係者

3 文芸社とは関係のない方

 あくまでも憶測ですが、私には1または2ではないかと思われます。1であってコメントの内容が真実であり、著者の方々に申し訳ないという気持ちをお持ちなら、ぜひとも尾崎氏の疑惑についても真実を語っていただきたいと思って以下のコメントを書きました。

春子様

それでは、尾崎浩一氏のことはどうなのでしょうか? 柴田氏のことを知っているのであれば、尾崎氏の疑惑についても当然ご存知ですよね? 著者の方に申し訳ないという気持ちをお持ちでしたら、ぜひ真実を聞かせていただきたいと思います。

 なぜなら、新風舎の倒産によって大変な苦しみを味わった方たちがたくさんいるからです。著者の方だけではなく、下請けの印刷会社やデザイナー、DTPオペレーター、新風舎社員など多くの方たちが被害を受けました。ほんとうに申し訳ないという気持ちがあるのなら、柴田氏と共謀して私を陥れようとしたということ以上に、多くの被害者を出してしまった新風舎倒産にまつわる疑惑こそ語ってほしいと思うのです。

 もし、2でありコメントの内容が真実なら、文芸社は柴田氏を見捨てたといえるでしょう。柴田氏を切り捨て、会社がつぶれるような発言をしないでほしいと私に訴えているようにも感じられます。ならば、尾崎氏のことはどうなのでしょう? 尾崎氏のことは沈黙するのなら、尾崎氏は切り捨てることができないのではないのかとも感じてしまうのです。

 私は柴田晴廣氏のことをはじめは信用しました。しかし、結果的にそれは文芸社にとっても柴田氏にとっても利益を与えるどころかマイナスに働いたはずです。なぜなら、柴田氏の不自然かつ不可解な発言によって私は彼にしだいに疑惑を持つようになり、公にするつもりではなかったことまで公にしたのです。もし文芸社が柴田氏と共謀して私を陥れようとしたのであれば、まさにその企みは失敗したといえるでしょう。こんなことを続けていたなら、会社にとってもマイナスでしかないはずです。

 以前にも書きましたが、私は文芸社とて倒産するようなことは望んでいません。新風舎と同様に多くの被害者が出てしまうからであり、倒産は負しか生み出さないのです。誰かさんのように、被害者に裁判をけしかけてマスコミで大々的に報道させるつもりもありません。だからといって、人を騙すような反社会的なことを続けていていいはずがありませんし、被害者が泣き寝入りすることもよしとしません。

 文芸社は血液型の本で十分儲けていてテレビコマーシャルをしたり、テレビドラマに出資できるほど潤っているのです。ならば、せめて不当な請求をされたと思っている著者に対し、水増し分だけでも返還すべきでなないでしょうか。そんな気持ちで「法律詐欺に近いかも?」という記事を書いたのです。

 騙された人は提訴したり公共の利益のために事実を公表する権利があるのです。騙され怒った人たちがどのような心理状態になるかは想像に難くありません。碧天舎の被害者の方たちを見ればそれがよくわかります。人を騙すような商法を続けていたなら、著者の怒りが爆発してもおかしくはないのです。

 会社の信用に傷がつかないようにするためにはどうすればいいのか? 著者の怒りを買わないためにはどうしたらいいのか? 倒産しないようにするにはどうしたらいいのか? 文芸社だけではなく、同様の商法を行っている出版社はそのことをもう一度考えてほしいと思います。

*この記事へのコメント 「com090125.doc」をダウンロード  

2009年1月23日 (金)

法律詐欺に近いかも?

 出版社の出版事業に際し著者にも費用を負担してもらうという出版形態で、実際の出版経費以上を請求している場合(共同出版とか自費出版などといわれている)は、著者の無知につけこんだ悪質商法といえるでしょう。

 一日に200点もの本が出版されて本の寿命が短くなっており、商業出版ですら満足に書店に並ばない本も多数あるのが現実です。商業出版でさえ、売るのは大変なこと。文芸社や文芸社ビジュアルアートのように提携書店に必ず並べると説明されれば、販売体制がしっかりしていると思う著者の方も多いようですが、そこに落とし穴があります。

 アマチュアの本を売ることがいかに大変なのかということをよく知っているのは出版社のはず。そうした実情を知っていながらきちんと説明せず、著者をおだてて販売する出版形態を強く勧め、そのうえ水増し請求をし、売れなければ「運がなかった」「売れるとは約束していない」「費用の内訳は出せない」などと言い訳するなら悪質です。

 また著者の中には出版契約のことがよく分からず、自費出版だと説明されて出版サービスの契約だと思ってしまう人も多いのです。でも出版社に所有権のある本をつくり売上金も出版社が得る形態が著者へのサービスですか? 著者は出版社に対して利益まで加算された出版費用を支払って出資協力しているのであり、著者こそ出版社に出血大サービスをしているのです。著者にサービスの契約だと勘違いさせることも、著者の無知につけこんだやり方といえます。

 多くの著者は出版業界のことも知らなければ出版契約についてもわからないのです。実態を知っていたなら契約をしなかった著者も多いはずです。悪質業者にしてみれば、「無知なのが悪い」「勘違いするのが悪い」ということになるのでしょう。柴田晴廣氏などの主張もまさにそうです。でも、本当に「無知が悪い」で済まされるのでしょうか?

 こんな記事を見つけました。

法律詐欺は許しまじ!! 

 以前、「私のウイルス体験」という記事のなかで、協力出版で刑事告発をしたが不起訴になったということを書きました。共同出版に関しては、刑事事件にするのは困難だということかもしれません。しかし出版について無知なことをいいことにおだてて勧誘し、費用に関する情報を出さずに不当というべき請求をしているのであれば、それは法律詐欺に近いのではないでしょうか。出版社は売れないことも過大な請求であることもわかってやっているのですから。

 以前は多くの人が泣き寝入りしていたサラ金のグレーゾーン金利による過払いも、最近では返還を求める訴訟が相次ぎ、返還されるのが当たり前になってきたのです。

 共同出版などの場合は、グレーゾーン金利と違って水増し分の費用が明確に出せないという難点がありますが、無知に乗じて巧みに契約させている以上、著者は法律詐欺を主張してみるのも有効かもしれません。納得できない著者の方は、せめて水増し請求分を取り返すような行動を起こしてみることも必要なのではないでしょうか。著者の方たちが行動することで、例えば印刷会社など下請けとの取引価格を開示させることができるようになるかもしれません。

 著者が勘違いをさせられたうえに出版社に出血大サービスをするような出版形態を、のうのうと続けさせるかどうかは、著者の行動にかかっているのではないかと思います。

*この記事へのコメント 「com090123.doc」をダウンロード 

2009年1月21日 (水)

人類はどうなるのか?

 昨日の記事に書いたように、18日の講演会では大雪山国立公園の高山帯で植生に大きな異変が起こっているという大変ショッキングな話を聞きました。その日の夜に放送されたNHKスペシャル「女と男」の第三弾「男が消える?」も、何ともショッキングな内容でした。予告でタイトルを見たときは環境ホルモンの話かと思ったのですが、それよりももっと本質的なことでした。

 このシリーズは一回目から興味深く見ていましたが、一番気になったのはこの第三弾。男性しかもっていないY染色体がどんどん小さくなっており、やがては消滅する運命にあるというのです。女性の場合は二本のX染色体をもっているので、染色体に異常が生じても修復することができるのに対し、一本しかないY染色体の場合は修復ができないために異常が生じた部分が欠落することで小さくなってきており、やがては消滅してしまうといいます。

 生物の基本形は雌だということはもちろん知っていましたが、Y染色体にこんなことが隠されているとは考えたこともありませんでした。

 また精子の数が減ってきているほか、活発に動きまわらない精子や異常のある精子が増えているという北欧の事例が紹介され、不妊の増加が懸念されるとのこと。人の精子が活発ではないのは、一夫一婦制によって精子の競争がなくなったからではないかとのこと。人工授精のことにまで言及されていましたが、もちろん人工授精に頼っていったら精子の劣化はさらに加速するでしょうし、そのような方法は到底賛同できません。この問題はちょっと深刻そうです。

 さて、シリーズの一回目と二回目では、女と男の違いがいろいろ紹介されていました。どうやらなんとなく感じていた以上に男女ではいろいろな差がありそうです。

 男女平等、男女共同参画などということが当たり前の社会(とはいっても細かいところではまだまだ格差が大きい)になりましたし、そのこと自体に異を唱えるつもりはありませんが、しかし生物としての役割分担とか適正というものは男女によって違うはずです。以前から感じていたことですが、すべてのことにおいて男女で同じであることがいいとも思いません。性差や個性を尊重した役割分担があってもいいのでしょう。

 女性はあくまでも子どもを産み育てる性です。かつては男性が狩猟、女性が採集・育児と役割分担をしていたのも、女性が子孫を残すという生物として最も大切な役割を担う性だからでしょう。狩猟を担っていた男性は、やはり本能的に闘争心とか独占欲が強いのかもしれません。女性が一般的に戦いを好まないのも、子どもを産み育てる性だからではないでしょうか。

 ならば、女性がもっと政治に参加することでより平和的な社会が実現できるのではないかと思います。少し前に比べたら、NGO活動に参加する女性の数はずっと増えてきたと思うのですが、女性の政治家はなかなか増えません。日本の女性は社会に関わったり自分の意見を主張することに消極的な人が多いようですが、社会を変えていく鍵は女性の意識にあるのかもしれません。

2009年1月20日 (火)

高山帯はどうなるのか?

 18日は、先にお知らせした工藤岳さんの講演会「大雪山の高山生態系の仕組みと地球温暖化の影響について」に参加しました。お話しの内容は盛りだくさんで、高山環境と高山植物の特徴、高山生態系の仕組み、高山植物と虫との関わり、地球温暖化と高山生態系と多岐にわたりました。

 大変興味深い内容でしたが、やはりショッキングだったのは最後に話された地球温暖化の影響です。工藤さんは1980年代後半から大雪山で研究をされてきましたが、人の影響がないところで植生に大きな変化が生じており、地球温暖化の影響である可能性が高いのではないかといいます。

 過去20年間のデータによると、大雪山の高山帯では雪解け日(平均)が早まってきているそうで、それが植生に影響を与えているそうです。

 一例として紹介されたのが、五色が原です。五色が原は、私も1980年前後に2、3回訪れていますが、ここはハクサンイチゲやチシマノキンバイソウ、ホソバウルップソウなどが咲き乱れる広大なお花畑の斜面として有名なところでした。ところが17年の間にハクサンイチゲの群落がイネ科の草本に置き換わってしまったのだそうです。以前の様子を知っている者にとっては、ちょっと信じがたいことです。その原因は、雪解けの加速によって乾燥化が進んだために乾燥に強い植物が進入したのだろうとのことでした。

 またチシマノキンバイソウの群落にはチシマザサが侵入してきたとのこと。こちらも19年間の間にすっかり様子が変わってしまったそうです。草丈が高いチシマザサが勢力を拡大すると、ほかの植物は衰退してしまうのです。過去30年の間に、高山帯ではチシマザサの分布が14パーセントも拡大したそうで、これも異常なスピードです。

 雪解けの加速によって高山植物の生育環境が変化したり、開花の時期が早まったり、成長速度が速くなったり、花粉を運ぶ昆虫との関係に変化が生じたりなどなど、生態系にさまざまな影響がでてきます。

 それにしても、たった20年足らずで植生がすっかり変わってしまうというのは驚くべきことです。おそらくこのような変化は誰も予測していなかったのではないでしょうか。こうした事態を懸念して、世界各地でモニタリング調査が始められているそうで、大雪山でも気温上昇による植物の変化を調査しているとのこと。

 これだけはっきりと温暖化の影響が現われているということは、かなり深刻な事態ではないでしょうか。10年後20年後の高山帯はどうなっているのでしょうか? 今以上にお花畑がササとイネ科植物に侵略されているのかもしれないと思うと、ゾッとしてきます。

2009年1月18日 (日)

命の重みと報道

 今日の北海道新聞朝刊の一面トップに「心肺同時移植が成功」という記事が大きく掲載されていました。脳死と判定された方から提供された心臓と肺の同時移植に成功したという記事です。

 その下にはイスラエルによるハマスへの攻撃に関わる記事が掲載されています。イスラエルは停戦を宣言する認識を示したとのことですが、今回の戦争によって亡くなったパレスチナ人は1201人にものぼるとのこと。

 移植手術によって命が救われることにもちろん異論はありません。しかし手術によって生かされる命があり、それがニュースとして大きく報じられる一方で、戦争という人殺しによって信じられないほど多数の命が簡単に失われているということが、日常のニュースとして当たり前のことであるかのように報じられているのです。

 移植によって人の命の尊さや大切さを伝えているニュースと、人による人の大量殺戮を当然のことであるかのように淡々と報じている記事が隣合わせに並んでいる矛盾…。何の問題意識もないかのように並べて掲載する新聞社の感覚、白々しさ…。この矛盾にどれくらいの人が違和感を覚えたのでしょうか?

 「命の重み」「命の大切さ」という言葉は、残虐な殺傷事件などが起こるたびに聞かせられてきました。しかし、ひとたび戦争となると命の重みは限りなく軽くなってしまうようです。人の命の重みを計る秤とは、人間の身勝手さが基準になっているのでしょうか。

 同種の動物がなわばりや異性などをめぐって闘う場合でも、相手を死に至らせることは滅多にありません。同種同士が大量殺戮をする動物は人間だけなのです。人間こそ、戦争がどんなに凄惨であるかを理解しているはずです。数限りない戦争を繰り返してきながら、いつになっても殺し合いを止めることができない人間こそ、地上でもっとも愚かな動物といえそうです。

 これだけ脳が発達し科学を発達させた人間は、その頭脳をなぜ平和のために生かすことができないのでしょうか。人はなぜこんなにまで憎しみ合うのでしょうか? そしてなぜ、すぐに暴力に及ぶのでしょうか? 頭脳が発達したがゆえに、エゴイズムが顕在化し牙をむき出しにしてきたのかもしれませんが、その暴走を止めるのもまた人の理性や頭脳でしかないはずです。

 人の命の大切さを報じるならば、せめて戦争という名の人殺しを報じるとき、戦争の非を、悲惨さを、道理のなさを、そして暴力を正当化する人々への怒りこめた記事を、攻撃されている市民の立場にたって力強く書けないものでしょうか。そういう記事がまったくないわけではありませんが、真実の多くが雲に覆われているかのようです。

 ジャーナリストの広河隆一氏のサイトによると、今回のガザ地区への攻撃についてのマスコミ報道は、おかしなところがいろいろあるようです。以下、広河さんのサイトです。

ガザ空爆報道のうそ 

メディアとガザ報道 

2009年1月17日 (土)

何でもテロを持ち出すマスコミ

 アメリカの旅客機がハドソン川に不時着したニュースをはじめて知ったのは、昨日(16日)のNHKのラジオ放送でした。そのニュースでは、「飛行機が墜落」とか「テロとの関連性は否定」などと報じていたのですが、最後までニュースを聞いているとエンジンに野鳥が衝突し、川に着水して全員救助されたとの説明がありました。

 はじめは、「墜落」したのに全員が無事に救助されたとはどういうことなのか??と思ったのですが、よくよく聞くなら墜落ではなく不時着だったのです。なめらかに川に不時着し全員救出されたことが確認されてからのニュースだったのに、どうして「墜落」などという表現になったのでしょうか? しかも野鳥と衝突したことが原因でエンジンが故障したと説明されていたのですから、テロとの関連性など疑うほうがおかしいのです。

 こんな報じ方になる根底には、必要以上にテロを持ち出し警戒させようとする意識があるとしか思えません。

 16日の北海道新聞夕刊にも「米国土安全保障省の報道官はテロとの関連性を否定した」と書かれていましたが、テロではないことくらいマスコミ自身が容易に判断できることなのですから、そんなことをわざわざ書くほうが不可解です。

 そういえば、元厚生事務次官と夫人が宅配便を装った犯人によって殺傷された事件でも、マスコミは当初、年金制度などに不満を持つものによるテロではないかと報じていましたよね。このときも犯人の動機がわかっていないうちから、どうしてすぐにテロなどという言葉を安易に持ち出すのかとマスコミの感覚を疑いました。

 とりわけ9.11事件以来、世界中が「テロ」という言葉に振り回されるようになったのかも知れません。その9.11も不可解なことだらけ。本当に同時多発テロだったのかは相当怪しいといわねばなりません。ところがあれ以来、ちょっとした暴力行為でもすぐにテロだといって警戒を強めようとするような動きが出てきたのではないでしょうか。アメリカは「テロとの戦い」といって、戦争という名の人殺しを正当化してきたのですし、日本もそれに便乗して何かというとテロという言葉を持ち出すようになりました。

 本当なら、マスコミこそそれを見抜いて正確な報道をしなければならないはずですが、何とも情けない。

2009年1月16日 (金)

「山のみち」で問われる地方公共団体の判断

 現在、大規模林道問題で活発に反対運動が起きているのは広島県と北海道です。北海道の場合は、「これが白紙での検討なのか」、「新聞記者の見識を問う」でも書いたように中止するか実施するかの検討をしており、今年度中に決めることになっています。一方広島では、とりあえず2009年度は休止すると決まったそうです。市民が積極的に行動することで、地方公共団体も安易に事業継続をしにくくなるといえそうですね。

 この件に関しては以下のサイトに詳しく報告されています。

09年度は予算化せず―大規模林道事業休止

 北海道は水面下で費用を抑えるべく代替案を検討していたことが発覚しましたが、広島でも事業費に関してはいろいろ不可解なことがあるようです。

 北海道はもちろんのこと、どこの地方公共団体も財政難で火の車のはず。大規模林道が優先される公共事業に該当しないのは当然でしょう。それどころか、崩落などによって継続的に補修費がかかることになるのですから。

 広島では賦課金をめぐって裁判も始まりますから、県が積極的につくりたいと思わないのは当然のことでしょう。裁判の第一回の期日は2月19日、広島地裁です。賦課金の問題は広島だけのことではなく、全国の大規模林道に波及する問題です。注目される裁判になるでしょう。

2009年1月14日 (水)

高山生態系と地球温暖化

 最近は昆虫の分布が北上したなど、地球温暖化の影響ではないかという話しをあちこちで聞くようになりました。

 それだけではなく、日常的にも暖かくなっていると実感することが多くなりましたね。私の住んでいるところでは以前は最低気温がマイナス25度以下になることもよくあり、マイナス15度くらいだと「今日は暖かいね」という具合でした。でも、今はそこまで冷えることは滅多にありません。マイナス20度になると「今日は冷えたね」というくらい、寒さに対する感覚も違ってきています。近年では北海道でも真冬に雨や湿雪が降るなど、地球温暖化は確実に進んでいると思われます。

 ところで、大雪山の高山帯で植物生態学の研究を続けている工藤岳さんという方がいます。工藤さんが毎年大雪山の高山帯で植物の調査をしているうちに、植物の分布にも変化が生じていることがわかってきたようです。

 その工藤さんの講演会が18日にあります。お近くにお住まいの方は、参加されてみてはいかがでしょうか。

      * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ * ~ *

講演会「大雪山の高山生態系の仕組みと地球温暖化の影響について」

講師 : 工藤 岳 (北海道大学)

日時 : 1月18日(日) 10時~11時30分

場所 : 糠平温泉文化ホール(上士幌町糠平)

主催 : 環境省、ひがし大雪博物館

2009年1月13日 (火)

子どもから冒険心を奪う大人

 少し前のことですが、北海道新聞の夕刊一面トップに「ボルダリング人気上り坂」という記事が出ていました。ボルダリングとはフリークライミングの一種で、ザイルを使わずに岩を登る技術のことです。人工の壁にホールドと呼ばれる突起物をつけた練習場がつくられており、十勝では新得町のトムラ登山学校に人工壁があります。その新聞記事によると、札幌の大型商業施設の中に国内最大級の人工壁がオープンしたとのこと。

 その記事には、人工壁にへばりついている子どもたちの写真が大きく掲載されていたのですが、正直なところその光景は私の目には異様としか映りませんでした。説明によると、昨年には札幌のクライミングジムでジュニア大会が行なわれ、壁に取り付く子どもたちに親が声援をおくっていたそうです。

 もはや岩登りの練習という目的は消え失せ、遊び感覚あるいはスポーツ感覚なのでしょう。でも何のために子どもたちに人工壁を登らせ、しかも大会で競争させるのでしょうか?

 今の中高年の方たちは、子ども時代は外で思いっきり遊んだのではないでしょうか。夏はもちろんのこと、冬でも雪遊びに高じていたと思います。わが娘たちも小さい頃はよく雪遊びをやっていて、ストーブの前には濡れた手袋や帽子、ウェアーなどがいつも並べられていたものです。でも、最近は外で雪遊びをしている子どもたちをあまり見かけなくなったような気がします。子どもたちは塾や習い事に行くか、あるいはゲームをしたり施設の中でスポーツでもやっているのでしょうか?

 子どもというのは本来冒険心や好奇心のかたまりであり、屋外でのさまざまな遊びはそんな子どもの欲求を満たしてくれるのです。どこで何をするのか決め、自分たちでルールをつくり、創意工夫をこらし、試行錯誤して子どもだけの世界にはまり込んで夢中になるのが本来の遊びの姿のはずです。そうやって自然に考える力や判断力を養っていったわけですし、友だちとの関わり方も知らず知らずのうちに身に付けたものです。

 ところが、今や大人は子どもたちを大人の管理化においてスポーツという名の下に競争をさせ、親が声援を送っているのです。このような傾向は近年とみに強まっているのではないでしょうか?

 こうした姿に、私は不健全なものを感じざるをえません。これでは大人が子どもたちから冒険心や探検心、考える力や行動力を奪ってしまっているも同然です。

 この記事の隣に、ずっと小さく「パレスチナ死者800人」という記事が掲載されていました。記事の配置や重要性の認識にも疑問を抱いてしまいます。

2009年1月11日 (日)

新聞記者の見識を問う

 「山のみち」事業の問題で、大規模林道問題北海道ネットワークが北海道に意見書を出したことは一昨日の記事で書きました。ネットワークは道の水産林務部に意見書を提出して話合いをもったあと、道政記者クラブで記者会見を開きました。北海道との話合いの内容と記者クラブでの記者の質問は以下に掲載されています。

「山のみち」について北海道に意見書を提出 

 驚いたのは、記者会見に参加した新聞記者の以下のような質問です。

「提出書面はこれまでの繰り返しのようだが、新しい問題は何か。」

「ただ反対しているようで、具体性がないようだが?」

 記者には「山の道」(大規模林道)の問題点について写真入りで要点をまとめたリーフレットと、北海道に提出した25ページにもわたる資料を配布していました。その資料の冒頭には、これまで「白紙」から考えていると明言していた北海道が、道民にも自然保護団体にも隠して路線検討のための道営計画調査をしていたことに対する抗議が書かれています。

 今回このような資料を作成して話合いに臨んだのは、北海道の姿勢に大きな疑問を感じたからにほかなりません。北海道はなぜ独自で路線選定の調査をしていたのでしょうか? そしてなぜそのことを隠していたのでしょうか?

 北海道は「白紙の立場にかわりはない。調査をしたのは、着工前提ではない。あくまでも様々なケースに対して数的把握をするためで、道では調べようのない未知の部分・作業道も入っていない道の部分を把握するためである。トンネルでなく迂回して砂利道にした場合の積算額などの算出に必要な調査である。さまざまな想定に対処するため。林道規定に基づく代替案ルートなど。140億円かかるということの確認、費用を緩和するための方策など。費用対効果を出すためには、どうしても数的把握が必要になる」と説明しています。

 どう考えてもこれは「白紙」の立場とはいいがたく、弁明にしか聞こえません。コストを抑えたルート案を検討することで費用対効果の数値を上げるためのようにも感じられますし、利害関係のある一部の建設推進派の人々への配慮とも思えます。着工前提ではないなら、道民にもきちんと説明するべきでした。自然保護団体が費用対効果のことについて質問したときにも、道営計画調査のことは全く口にしなかったのです。

 しかも北海道の報告書は、かつての事業者の杜撰な環境調査を利用して書かれているのです。北海道は自然環境について独自の調査もしていないのですが、自然保護団体は現地に何回もいって問題点を指摘しています。北海道は環境問題を軽視しているとしか思えないのです。

 「ただ反対しているようで、具体性がないようだが?」という記者の質問には、ただただ呆れてしまいます。たとえこれまでの経緯がわからないにしても、リーフレットを見れば問題点は一目瞭然です。それに新聞記者であれば、緑資源機構がどうして解体されたのかは知っているでしょう。大規模林道が機構の生き残りのための事業であり、談合発覚による解体によって化けの皮が剥がされたという意識を持つのがまっとうなジャーナリストの感覚ではないでしょうか。

 ジャーナリストがこのような視点をもてないようであれば、権力の監視などできようはずがありません。私達は過去にも何度も記者会見をしていますが、問題点をきちんと把握して関心を寄せる記者もいました。今回のように見識が疑われる新聞記者がいることに、愕然とするばかりです。

2009年1月 9日 (金)

これが白紙での検討なのか

 8日は、大規模林道問題北海道ネットワークが、「山のみち」の中止を求めて北海道に意見書を提出しました。

 北海道は「山の道」(大規模林道から北海道が受けついた事業)について、10月に開催した地元での説明会でも、また大規模林道問題北海道ネットワークに対しても「白紙で考える」と説明してきました。ところが、自然保護団体が北海道に情報開示請求をしたところ、2007年の12月末日までに4ヶ月かけて「道営計画調査」(委託調査)をしていたことがわかったのです。

 中止を考えている区間もあるのですが、峰を越す林道を開削して既存の林道とつなげるルートを検討していたのです。

 白紙といいながら、密かに独自の路線検討をしていたというのはどういうことなのでしょうか? これまで何度となく交渉をもってきたネットワークに対しても、このような調査をしているという説明はまったくしておらず、隠してきたのです。情報開示をしていなかったら、わからずじまいでした。なぜ地元住民や自然保護団体との意見交換会で説明しなかったのでしょうか? 

 白紙で検討するというのなら、まずは事業の目的や必要性を明らかにしなければなりません。目的が不明瞭で必要性のない道路であれば止める、というのが白紙からの検討です。そして必要と判断されたなら環境への影響、費用対効果の算出、路線の検討などを行なって建設が妥当か否かをさらに検討しなければならないはずです。やることの順序がおかしいとしかいえませんし、欺かれた気分です。

 では、目的や必要性はあるのでしょうか?  大規模林道の当初の目的は、計画された大規模林業圏での木材生産のための中核林道でした。しかし、大規模林業圏開発計画そのものはとっくに破綻してしまったのです。その後は地域住民の生活道路とか、森林の多面的機能を担う幹線林道などと目的をすり替えて続けられてきたのですが、人も住んでいない山奥の道路は生活道路とはなりませんし、森林の整備は既存の林道で十分行なえるのです。

 さらに、希少な動植物の生息地を破壊し、生態系・生物多様性に大きな影響を与えるにも関わらず、きちんとした環境調査も行なわれていません。というのも、長大な路線を区間ごとに細切れにしたり道幅を部分的に狭くするなどして事業規模を小さくし、アセス逃れをしてきたのです。過去に一部で環境調査が行われていますが、それとてきわめて杜撰なものでしかありません。

 また、すでに開削されたところでは大雨などのたびに崩落を起こしており、永遠に補修が必要になります。しかも、受益地の多くは国有林なのです。北海道がなぜ国有林の整備のための道をつくらなければならないのでしょうか?

 これらの問題にきちんと答えられなければ、計画は先に進めないはずです。そして、もちろん北海道はこれらにきちんと答えていません。必要だという声がある、ということしか説明できないのです。

 さて、北海道は費用対効果を算出し、二月末日までに結論を出すとのことです。この費用対効果はどのように算出するのでしょうか? 新たに峰越しの道を開削することで、どのような便益が生じるのでしょうか? たとえばアクセスが短くなったとしても、それによるコストの削減はごくわずかでしかないでしょう。

 大規模林道が緑資源機構という天下り組織のための事業であり、緑資源機構は談合の温床になって解体されたことを踏まえ、また北海道の逼迫した財政を考えて、北海道はまっとうな結論を出してほしいと思います。

2009年1月 8日 (木)

次のライバルは幻冬舎ルネッサンスか?

 「創」の2月号に「苦境の出版界だからこそ問われる編集力」として、植田康夫氏(読書人取締役編集主幹)、清田義昭氏(出版ニュース社代表取締役)、松田哲夫氏(筑摩書房顧問)の対談が掲載されていました。

 2008年のベストセラーのベスト10のうち4つが文芸社の血液型の本だったわけですが、これについては「世も末」との感想も。そのこともあって、自費出版のことについても清田氏が若干触れています。そこで清田氏の発言について、私の感想を書いてみたいと思います。青字が清田氏の発言です。

 自費出版がこれだけベストセラーになったというのは、文芸社にとってはいい宣伝になるんですよね。 

 確かにそうでしょう。何しろテレビのCMでも宣伝したのですから。文芸社にとっては願ってもない幸運だったでしょうね。たとえ「世も末」と評されても。

 新風舎なきあと、文芸社のライバルは幻冬舎ルネッサンスではないですか。宣伝も結構やっていますし、新書で出すという、また一歩セグメントされたところがある。

 講談社や小学館などの大手出版社の自費出版部門ではなく、幻冬舎ルネッサンスを名指しにしているというのは、清田氏が幻冬舎ルネッサンスの出版形態が基本的には文芸社と同じであることを理解しているからでしょう。要するに、販売を前提に会社の本をつくって会社が売上金を得、著者には印税を支払うタイプです。著者には契約書籍の出版費用以上の金額を請求していると考えられ、水増し請求やその流用(原稿募集の広告費などへの)が疑われるのは文芸社と同じです。

 幻冬舎ルネッサンスの場合、まず幻冬舎の知名度が利用できること、それに文芸社ほど悪評がたっていないことは有利でしょうね。いわゆる賞ビジネスもやっていないようですし、編集に力を入れている点など評価される向きもあるようです。でも、いくら編集に力を入れているといっても、原稿を選ばずに流通本にしてしまうこと自体がおかしいですね。いくら手を入れたところで、売れないものは売れませんし、まして素人の本がそれほど売れるとは思えません。売上収入はさほど期待できず、かといって原稿募集の広告にお金をかけなければ著者が集まらないわけで、NHKの家計診断で紹介されていたように300万円もの高額な費用を請求することになるのです。この費用は競争する際のネックになるでしょうね。

 さらにやっかいなのは「個人出版」などという呼称を使っているところです。「個人出版」という呼称は、悪質な共同出版と区別するために、出版社が主体の出版ではなく著者個人が出版の主体者(従来からの自費出版)であるという意味を込めて使われるようになった呼称です。出版社の商品として本をつくり売上金が出版社に入る出版形態に「個人出版」などという呼称を使っているのであれば、騙しに近いといえます。最近のHPでは、著者に印税を支払う形態であることなどを明記しなくなったようですが、これも意図的にそうしているとしか思えません。

 自費出版の裾野は相当広いと思います。新風舎と文芸社の競合の中で自費出版ブームが起こって、商業出版社も自費出版部門の宣伝を自社媒体でやったりしましたからね。 ビジネスモデルを文芸社が作り、それをより進めたのが新風舎だったと思うのですが、ああいう事件があった後、自費出版について一定程度ガイドラインができたことはよかったのではないかと私は思っています。それが通用するガイドラインかと言えば、疑問がないとは言えないですけどね。新風舎倒産のおかげで、少し透明化されてきたということは言えると思います。

 正確にいうなら、近代文藝社が商業出版と自費出版の中間型だといってBタイプという形態をつくり、それが新風舎や文芸社の共同出版の原型になったといえます。また、競合の中でブームが起こったというより、新聞や雑誌による広告合戦によってブームが作られてしまったということではないでしょうか。あのような広告がなければ、素人の本を書店販売するなどということがブームになるとは考えられません。

 新風舎の倒産やガイドラインについては微妙な書き方ですね。清田さんは新風舎倒産にまつわる疑惑は当然耳にしているでしょうから。共同出版を自費出版といっているのは、やはり業界の方の視点でしょうね。全額著者が支払っているから自費出版という感覚なのでしょう。それにしても商業出版業界の方は、いわゆる著者買取とか一部費用負担といった条件での商業出版と、共同出版の関係をどう捉えているのでしょうか?

 ガイドラインといっても、リタイアメント情報センターのつくったものと、日本自費出版ネットワークのつくったものがあります。そして両者とも自費出版業界の方たちが深く関係しているのです。前者の賛同事業者の中には文芸社や日本文学館が入っていますし、後者でも??と思ってしまう事業者があります。賛同事業者に入っていれば安心ということではありませんし、入っていない会社は信頼できないというわけでももちろんありません。ガイドラインで透明化されたというより、わかりにくくなったという側面もあります。

 文芸社の次のライバルが幻冬舎ルネッサンスであるなら、費用で対抗するのか、編集で対抗するのか、錯誤のさせ方で対抗するのかといったところでしょうか。

*この記事へのコメント 「com090108.doc」をダウンロード   

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2009年1月 7日 (水)

共生林と森づくり

 昨日紹介した石城謙吉氏の「森林と人間」(岩波新書)の話題の続きです。

 昨日の記事では、ドイツ林学による人工林をいまだに続けている嘆かわしい日本の林業について書きましたが、もうひとつ大変印象に残ったのが、最後の章「森と人の歴史」です。

 飛行機に乗っていつも感じるのは、日本の内陸部の大半が深い緑で覆われていることです。天然林、人工林の区別はともかくとして、日本が「森林の国」であることの証でしょう。ヨーロッパの内陸部も、今から2000年ほど前には深い森林に覆われていたといいます。日本もヨーロッパも共に森林文化圏だったのです。ところが農耕の受け入れ方に大きな違いがあったといいます。

 麦作の広まったヨーロッパでは牧畜がセットとして持ち込まれ、森林が大規模に切り開かれました。自然を征服し、大きく変えてしまう道をたどったのです。森林文化が駆逐されて農耕文化が広まりました。その後、18世紀の後半の産業革命で都市が発展し、大量生産と大量消費のシステムができあがりました。さらに海外貿易と植民地からの自然の収奪により、自然と共生していた海外の文化まで駆逐されたのです。ヨーロッパは自国のみならず、世界の資源を食いつぶしてきたといえます。

 一方、稲作が広まった日本では大規模な森林破壊は引き起こされず、雑木林と共生してきました。日本では森林文化と農耕文化の融合した共生圏が保たれたのです。ところが明治になると日本にもヨーロッパの近代文明が伝わり、ドイツ林学によって自然林が針葉樹の人工林へと変えられてきました。

 こうした歴史を踏まえて石垣先生が提唱するのが「共生圏」です。つまり人間には森林と共存するしか選択肢がないということなのです。そのひとつの試みとして、北大苫小牧演習林(研究林)で共生林づくりの実践をされたのです。目標とした共生林とは「市民の休養、自然の研究から木材の生産までを含め、さまざまな人の営みが絶えず関わり、その営みによって維持される森」です。

 今、地球温暖化問題にともなって各地で森づくりが盛んですが、苫小牧の試みはその手本としてさまざまなヒントを与えてくれます。もっとも、地域の自然を生かしたままで手を加えていくのですから、その地域の自然についての十分な知識をもとに不自然な改変にならないようにしなければなりませんが。

 ところで、共生林づくりに誰よりも率先して取り組んでほしいのは、広大な森林を所有する国や地方自治体です。北海道には手入れもされずに放置された人工林がいたるところにあります。林野庁は保護する森林と木材生産を行なう森林の線引きを検討していると聞きますが、人工林での施業をどのように考えているのでしょうか? 相変わらずの法制林しか頭にないのなら、明治時代から思考が停止状態にあるといえるでしょう。

 ヨーロッパの都市林では市民に憩いの場を提供しながら、木材生産も行なっているそうです。ヨーロッパは、治水のあり方も森林のあり方も歴史に学んで変えてきたといえます。

 日本でも、誰も見向きもしないような単純な造林地をつくるのではなく、いかに地域に根ざした共生林を造っていけるかが、今後の森づくりの課題になるのではないでしょうか。

2009年1月 6日 (火)

100年遅れた日本の林業

 お正月は、年末に刊行された石城謙吉氏の「森林と人間」(岩波新書)を読みました。石城先生は私の尊敬する研究者の一人です。この本は、石城先生が、大学演習林の改革を目指して苫小牧にある北大演習林(現在は研究林)に林長として赴任し、荒れた演習林を整備するとともにその一部を市民の森、研究者の森へと開放していった経緯が、軽妙な筆致で綴られています。

 私も苫小牧の北大研究林での調査に泊りがけで参加したことがありますが、樹木園、森林資料館、宿泊施設、池などが、石城先生の発案と職員の方たちの尽力によって造られ、研究林の一部が市民に開放されたことをこの本で知りました。この研究林には、すばらしい森林が保たれ、希少なクモも生息していることがわかってきています。

 さて、この本のはじめのところで、ヨーロッパではじまり林業の基礎を築いた「ドイツ林学」の問題について触れられています。

 皆さんは、人工林といったらどのような森林を思い浮かべるでしょうか? 日本ではスギやヒノキ、カラマツなど一種類の木が並べて植えられ、伐期になれば一斉に皆伐する造林地が人工林と呼ばれています。

 このような林業の基になったのは18世紀後半にドイツで確立された「ドイツ林学」といわれるものです。もともとあった森林を皆伐し、育成効率も利用効率も高い針葉樹の単一樹種による森林に変えていくというやり方です。持続的に効率よく木材を生産するために、木の生長量と収穫量を把握し、林齢の異なる造林地を計画的につくっていく「法制林」という考え方が主流となり、世界中に広まりました。日本には明治時代に導入されました。

 しかし、このような森林は生物多様性を大きく低下させます。広葉樹が主体の雑木林に比べ、人工林は生物が少なく魅力がないことは誰でも体験で知っているでしょう。また、単一樹種の森林は病害虫の発生を誘発し、薬剤散布によって環境汚染を引き起こすことにもなります。畑で病害虫が発生し、農薬を散布するのと同じです。皆伐は土砂の流出も引き起こします。

 ヨーロッパでは、19世紀半ばから20世紀にかけて市民の休養や環境保全を重視する都市林づくりが盛んに行なわれるようになりました。天然林を伐りつくした結果、森林は人々にとってかけがえのない自然空間であることに気づいたのです。また、ヨーロッパの都市林の多くは林業の技術と労働によって育成されており、市民の休養のためだけにあるのではなく木材生産も担っています。つまり、広葉樹と針葉樹の入り混じる森林をつくり、抜き伐りによる木材生産を行なっているのです。ヨーロッパは、だいぶ前から「法制林」からの脱却を図ってきたといえそうです。そして、今ではこのような方法が林業の基本となってきているようです。

 日本はどうでしょうか? 生物多様性の保全や森林の公益的機能の重視が叫ばれるようになりましたが、いまだに「法制林」の問題を省みることなく延々とつづけているのです。どうやら日本の林業は100年遅れているといえそうです。

 国立公園や奥山の天然林など、守るべき森林は基本的に手をつけずに保全し、里山を自然林に近い森林にしながら木材生産もしていく・・・そんな林業への転換こそ求められているのではないでしょうか。

2009年1月 5日 (月)

日本は高福祉、高負担社会になれるのか

 昨日のサンデープロジェクトで、フィンランドがとった政策が紹介されていました。今の日本と同様、危機的な経済状況に陥ったフィンランドは、短期間のうちに高福祉・高負担の社会をつくりあげたのですが、その政策は、今後の日本を考える上で大きなヒントになるだろうというものです。

 番組では、フィンランドがハイテク産業と教育に力を注ぐことで経済を回復させたことが紹介されました。産官学の連携を取り入れたのです。ノキアという、もともとは製紙メーカーだった会社が通信の分野に進出し、産官学の連携によって携帯電話で世界シェア一位にまで登りつめたそうです。

 おおよそのことは知っていたものの、やはり大変うらやましいと思ったのは、教育です。フィンランドでは大学はすべて国立で学費は無料。学生には生活費として国から月6万円が支給されるそうです。高等教育を受ける権利が誰にでも保障されているのです。

 小学校は1クラス20人ほどで、思考力を養うことに重点が置かれ、テストも競争もなし。グループで子どもたちが互いに教えあうことで、みんなが理解できるように指導しているそうです。

 学校に入ったとたんテストに追われ、競争の只中に放り込まれる日本とは正反対ですね。これでは他者を思いやる気持ちも育たないでしょうし、考える力も身につくはずがありません。

 日本の高い教育費は、あまりにも異常です。今や、高望みさえしなければ誰もが大学に入れるものの、低所得者ははじめからはじかれてしまいます。明確な目的もないまま大学に入り、就職の先延ばしのために大学院に進学することも当たり前のようになりました。いじめも学級崩壊も教師のストレスも、このような狂った教育環境によってもたらされているともいえるでしょう。

 こうなると、日本はもう根本的なところから改革せざるを得ないのでしょう。果たして、今の日本でそれがどこまでできるのでしょうか・・・。

 フィンランドの人々は、国民の負担が大きくても、福祉や教育が保障されているので納得しているといいます。その根底には、汚職が少なくて透明性の高い政治があり、信頼度の高い社会があるのです。

 そうですよね。日本では汚職は日常茶飯事、社会の秩序を保つべき警察は裏金をつくり、無駄な公共事業で自然を破壊し、詐欺的な商法がはびこっているのです。こんな状況では、誰も高額な税金など負担したくないはずです。

 この点をクリアできなければ、北欧のとった政策をヒントに日本を立て直すことは困難といえそうです。私たちはいかに賢明な選択、行動ができるのか、これから試されることになるのでしょう。

2009年1月 3日 (土)

隠された事実

 藤原新也氏のブログで、NHKの「日本巡礼」の案内があったのを思い出し、昨日は珍しく朝からテレビのスイッチを入れました。番組の最後に、京都の丹後半島にある伊根湾の舟屋群の写真を撮影する藤原新也氏が紹介されました。

 海に口を開けるように一階が船の格納庫になっている木造の舟屋が、伊根湾をとり囲むようにびっしりと並ぶ光景は、半世紀ほど前に引き戻されたかのような懐かしさを漂わせています。伊根湾の入り口にある無人島の青島には巨木が茂り、漁師たちが大漁を祈願する神社が祀られています。

 その映像から伝わっているのは、高波から伊根湾を守っている青島を大切にし、昔からの漁を守りつづけている漁師たちの姿でした。

 この美しい伊根湾の舟屋群は、先月の北海道新聞の日曜版にも紹介されており、日本にもまだこんな営みが残っていたのだと、その写真に見入ったものです。

 ところが、「日本巡礼」が放送されたあとの藤原氏のブログを読んで、私は正直、騙されたような気分になりました。

 NHKの映像からも、北海道新聞の写真からも、船屋には人々の生活が感じられたのですが、藤原氏によると現在でも漁をしているのは数件だけとのこと。考えてみれば、それは当然なのかもしれませんが、その事実は意図的に隠されているのです。しかも、聖なる島であるかのように描きだされていた青島に、漁師が大量のゴミを廃棄しているなどとは、誰が想像するでしょうか・・・。

 NHKも北海道新聞も、決して嘘を伝えているわけではないのですが、マイナーな部分を意図的にカットし、美しいところ、見せたいところだけを取り上げているのです。報じる側が負の部分を隠してしまうことで、見る側には良い印象しか伝わってきません。

 マイナーな部分を隠し一面しか報道しないことは、時として視聴者を錯覚に落としいれ、誤解を招くことになるのです。制作者側は、そのことをどれほど意識して番組づくりをしているのでしょうか? マスコミは一面しか伝えないということを、常に意識しなければならないのだと痛切に感じさせられました。

2009年1月 2日 (金)

作品ブログのお知らせ

 作品ブログといっても、私の作品ではありません。

 自費出版した父、松田白(きよし)の遺稿集「山の挽歌」をブログで公開することにしました。こちらのブログは、時間のあるときに随時更新していきたいと思います。新聞の連載小説のようになりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

松田白遺稿集 「山の挽歌」

 私の父は、若い頃はいわゆる文学青年だったようで詩の同人誌などにも参加していたそうです。若い頃から山登りを趣味とし、山行の随想なども書いていたようですが、残念ながら手元に残っているものはその一部です。文章を書くのが好きでありながら、ほとんどの作品は発表されることがありませんでした。そこで、遺品の中から出てきた作品をまとめたのが「山の挽歌」です。

 ここに収められている随想は、青春時代から晩年まで数限りなく歩いた山行のほんの片鱗でしかありません。しかし、わずか数十年の間にすっかり姿を変えてしまったこの国の自然や人々の日常を、作品の隅々から感じとることができます。

 人は、山や自然に身をおくことで心の安らぎを得、また人との交流の中に生きることの喜びや希望を見出すのではないでしょうか。しかし、そんな心の拠りどころとなる自然はすさみ、人々のつながりはとぎれとぎれになってきています。

 慌しく、またすさんだ時代にありながら、こんな豊かな自然とのどかな時代があったことに思いを寄せ、本当に大切なものは何かを考えるきっかけとしていただければ幸いです。

2009年1月 1日 (木)

新しい年に

 あけましておめでとうございます。

 十勝地方は晴天に恵まれ、おだやかなお正月を向かえました。お正月とは思えない暖かさで、ベランダの雪も融けてきました。そういえば、昨年の12月には3回くらい雨が降りましたっけ。雨と雪が交互に降って、雪の下はテカテカ状態。以前は真冬に雨が降るなどということは考えられなかったのですが、地球温暖化の影響なのでしょうね。暖かいお正月は過ごしやすいのですが、ちょっと複雑な心境です。

 今年もマイペースで、いろいろやっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

Kumonokeiki  この写真は、娘のつくった「蜘蛛のチーズケーキ」です。

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