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2008年10月12日 (日)

江川紹子氏の責任

 「創」11月号で、森達也氏は「極私的メディア論 江川紹子さんへの反論」と題してオウム問題で森氏を批判した江川氏に反論しています。森さんと江川さんの論争についてここで言及するつもりはありませんが、森さんの記事を読んで私は江川さんに大きな違和感を持ったのです。

 オウム問題を追及してきた江川さんは、被害者の視点からの発言が多いようです。オウム問題では自らも被害者の立場ですから、それはそれでいいでしょう。しかし、新風舎問題ではどれだけ被害者に寄り添って意見を発信してきたのでしょうか? 私には被害者の立場に立つどころか、新風舎を擁護することで保身にこだわったとしか思えないのです。

 森さんとの論争のもとになったのが江川さんのブログでしたので、久しぶりに彼女のホームページにアクセスしてみました。その同じサイト内で、彼女は「受難の時代に」と題して新風舎問題について言及しています。森さんの記事がきっかけで、私はもう一度江川さんのその記事を読み返し、正直いって以前読んだとき以上に違和感を強くしたのです。オウム問題ではあれだけ被害者感情に寄り添って発信しているのに、新風舎の広告塔として被害の拡大に加担した責任は微塵も感じられません。オウム問題とはあまりにも対照的です。

 私が江川さんの「受難の時代に」を読んで、もっともカチンときたのは以下の部分です。ちょっと長いのですが引用します。

 
 元々詩人である松崎義行社長は、自分の思うような本を出したいという夢もあって出版社を設立した、と聞いた。すべての「表現者」は平等であり、尊重されるべきだ、と松崎氏は語っていた。理念としては私も共感する。しかし現実には、同社の出版は二つの形態があった。一つは、本を出したい人がお金を出す自費出版。もう一つは、筆者に印税を払う、通常の商業出版だ。私が出版したのは、もちろん後者の形態である。ところが同社の目録では、どちらの形で出された本も同じように扱われており、「著者」としてはプロの書き手も初めて本を自費出版する人も混在する形で名前が並んでいた。
 私が同社に申し入れた事柄の中で、受け入れられなかったことの一つは、出版形態の異なる書籍はきちんと区別することだった。
 書店に並ぶ本は、出版される本の一部であって、書店が注文してくれなければ店に並ばない。まして300部や500部といった出版部数で、全国の書店に出回るはずがない。そんなことは、出版社や本を出した経験のある者には、当たり前に思える。しかし、そうした業界とはまったく縁がなく、初めて自費出版で「自分の本」を作ろうという人はどうだろうか。
 しかも、目録では自分の横にそれなりに名の通った書き手の作品が載せられており、その作品は大きな書店に行けば売られている。となれば、それだけで自分の本も同じように扱われる、という思いこみを招きかねない。
 自費出版をする人は、「思いを本という形にする」「もしかして私も作家デビュー?!」など様々な夢を抱いて、依頼をしてくるのだろう。多くの自費出版本は書店などでは売れないのが現実でも、時たまヒットして、皇室に愛読されたり、マスコミに取り上げられたりするものも、ないわけではない。「次は私が……」と大きな夢を持つ人もいるだろう。新風舎の自費出版は、流通ルートに乗せる可能性を持っているという点で、そうした諸々の夢を売る仕事、あるいは夢を本に託す人を相手にしたサービス業と言えた。だからこそ、会社側は相手を商業出版の「著者」とは分けて、むしろ「お客様」と心得て対応しなければならない、というのが私の主張だった。今の出版や書店業界の厳しさも、業界の外にいる「お客様」だからこそ、分かりやすくお伝えして分かっていただく必要があるのではないか、と。
 「お客様」には、出版にかかる実費に加えて、社員の人件費や事務所費、それに会社の利益を上乗せしたものを払っていただくことになる。これは、いわば夢を買う代金だ。夢の実現に向けたお手伝いをするサービス料金といってもいいかもしれない。ところが同社は、「著者」と出版社が「共同」して本を出すための「編集費」と説明していた。それが、編集に関わる実費のことだという誤解を受け、実費以上の金額を支払わされた、明細が不明朗であるといったクレームも招いた。
 にもかかわらず、こうした点が変わらなかったのは、「表現者」を平等に扱いたい、という松崎社長の理念、あるいは思い入れゆえだろう。けれども、現実に出版形態が異なり、実際に苦情が来ている以上、作品に対しては平等の敬意を払いつつも、現実に合わせた対応が必要だったのではないだろうか。

 江川さんは新風舎に申入れをしたと書いていますが、これは私が2006年の末に彼女にメールを送って新風舎の商法の問題点を指摘したからです。まっとうなジャーナリストであれば、悪質商法に加担した責任を感じて新風舎と縁を切り、問題点を指摘していくくらいの気概をもってほしいと思いましたし、このままでは批判の対象にされかねませんので忠告したつもりでした。新風舎と縁を切った平間至さんのことも知らせていました。

 また、自分のJANJANの記事(はじめに投稿した10本)も江川さんに紹介しましたから、私が「水増し請求」を最大の問題としたうえで文芸社や新風舎の共同出版を悪質商法として批判していたことを知っていたはずです。

 ところが彼女の意見は、新風舎共同出版はサービス業といえるものであり著者はお客様であるのだから、請求金額は実費ではなくても当然だというわけです。私の指摘している「費用は実費であるべき」という主張は誤解だというのです。しかし、誤解だという見解を示すにあたって根拠がまったく書かれていません。これでは、私の一連のJANJAN記事は誤解のもとに書かれているということになってしまいます。

 私が主張する水増し請求については、文芸社ですら「誤解」だなどとは言明していません。私はこれまで新風舎からも文芸社からも誰からも、「水増し請求という主張は誤解だ」という指摘を直接受けたことはありません。「請求費用は実費であるべき」ということに関し、「誤解」とされたことはないのです。新風舎の社員自身が詐欺だと思っているのです。誤解だと決め付けるなら、その根拠を説明すべきでしょう。彼女は新風舎が「共同出資」を謳っていたことを確認しなかったのでしょうか? 契約書を読んで理解していたのでしょうか? 彼女の解釈こそ誤解といえます。 

 さらに、江川さんの意見はまるでアマチュアの本は商業出版の本と同列に扱うべきではないとも受け止められます。でも、そうでしょうか? 自費出版社の中には商業出版に劣らない本をつくり、商業出版と同様の販売方法で書店流通してそこそこ売れている本もあるのです。新風舎の共同出版の本の中にも、優れた本は数多くあったことでしょう。出版形態の異なる本、アマチュアとプロの書き手の本を区別して扱うべきだという主張には、著名人の驕りが感じられるのです。

 また、不思議なのは新風舎が派手に展開していた「賞ビジネス」についてまったく言及していないことです。藤原新也さんが取り上げて問題提起していましたので、私は藤原さんの記事も知らせました。ところが彼女は、賞ビジネス問題については無視しています。

 新風舎の商法が悪質であるという認識も、自分が広告塔にされているという自覚もほとんどなしという態度です。そのうえで、破綻の原因は新風舎の無謀な経営にあると片付づけています。それが本心ならジャーナリストの資質を問われるというものでしょう。私には責任逃れの態度としか思えません。

 オウム問題で被害者に寄り添って加害者を糾弾する彼女は、新風舎に騙されて怒っている被害者、破産によって夢を砕かれ、お金が戻らずに悲嘆にくれている被害者の気持ちを想像したのでしょうか?

 江川さんは森さんのことを「この森という人は、被害者の置かれている状況について、あまりに想像力が欠けている。というより、実は被害者には(死刑に反対してくれる人以外)興味がないのだろう。さもなければ、見たくない現実は徹底的に無視する主義なのか…」と批判し、「この感性が、やはり私には、どうしても理解できない」と書いているのです(「ある犯罪被害者批判について参照)。

 私はこの記述を読んで、思わずのけぞってしまいました。森さんに発した言葉こそ、新風舎問題に関して彼女自身がとった態度ではないでしょうか。江川さんの感性こそ、私には理解できません。

 江川さんについてはこんな記事もあります。

江川紹子の功罪

 

*この記事へのコメント 「com081012.doc」をダウンロード 

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