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2008年5月

2008年5月31日 (土)

北欧の芝生文化

 北欧に行くと、教会、公園、キャンパスなどいたるところに青々と芝生が広がっていて、人々が寝転がったり読書をしたり・・・。まだ5月だというのに、天気が良くて暖かいと半そでやキャミソール姿で日光浴をしている人もいます。

Syokubutuen  ヨーテボリの植物園では広大な芝生があって、来園者があちこちで座り込んでいました。芝生でくつろぐというスタイルが定着しているんですね。日本では「芝生の中に入らないでください」なんて書かれているところもありますが、北欧の人たちにとってはそんな注意書きは理解不能でしょう。芝生は人がくつろぐところなのです。

 公園などでは必ずといっていいほどベンチがありますが、これも戸外でくつろくという習慣によるのでしょう。なにしろ冬は日照時間が少ないのですから、日が長いときはできるだけ戸外で日光浴をしたいようです。

 その芝生の多さ、広さを見てついつい「管理が大変だろうな・・・」と余計な心配をしてしまいました。だって、北海道では夏になるとあちこちの芝生で刈り払い機がうなりをたてていますから。暑い最中にあの音を聞かされるのにはちょっと閉口します。

Sibakari  と思っていたら、芝刈りをしていました。小回りのきく芝刈り車がすごい勢いで芝を刈っていきます。なるほど、これなら芝刈りもそれほど大変な仕事ではないでしょう。それに、雨が少なくて乾燥しているので、芝の生長も日本より遅いのかもしれません。

 ヨーロッパの夏は雨が少なくて本当に乾燥しています。西洋芝はもともと雨が少なくて乾燥した気候に適応している植物なのです。いたるところに芝生があるのも、手入れが簡単で美しいからなのでしょう。

 北海道でもあちこちで広大な芝生がつくられていますが、雨の多い日本では西洋芝は適しているとはいえません。春先など「雪腐れ病」で枯れていることもしばしばです。管理が悪いと雑草もどんどん侵入してきます。

 日本のゴルフ場ではきれいな芝生を保つために大量の農薬を使い、土壌を汚染しています。とりわけグリーンなどは砂などを使って水はけを良くしているのですが、雨水といっしょに農薬も流されてしまうので河川などの汚染につながっています。ゴルフ場の芝の管理が大変なのは、気候に合わない植物をつかっているからなのです。雨の多い日本にゴルフ場をつくるのはミスマッチといえます。

 ヨーロッパでは芝生の光景がとても美しいのですが、それは気候にマッチしているからでもあるのです。日本ではあまり西洋芝にこだわらないほうがいいのでしょう。

前回の記事 福祉国家の選択と自立

2008年5月30日 (金)

福祉国家の選択と自立

 北欧は物価が高いと聞いていましたが、やはり実際に行ってみるとそれを実感します。外貨は多めに換金していったつもりだったのですが、思っていたよりも物価が高くてぎりぎりに近い状況でした。それもそのはず、商品には20パーセントを超える税金が加算されています。もちろん、この税金は国民が安心して暮らせるために使われているのです。

 北欧といえば福祉国家。ちょっと旅行しただけでは詳しい事情はわかりませんが、それでもバスや路面電車はステップが低くて車椅子で利用しやすいようになっていますし、車椅子用のトイレなども整備され、福祉が充実していることを垣間見ることができます。

 女性の社会参加率が高く男性も育児に参加するといいますが、確かにベビーカーを押している父親が普通に見受けられました。日本では赤ん坊をおんぶしたり抱っこしている父親はまず見られませんが、男性も当たり前に赤ん坊を抱いて歩いています。男女が対等なのですね。こんな光景を見ると、この国の人たちの価値観などが伝わってきます。

 医療や老後の生活が保障されていますから、日本のように老後のための貯蓄などを考える必要はありません。基本的に蓄えは必要ないのです。ワーキングプアが深刻化し、高齢者の医療がどんどん切り捨てられているどこかの国とは大違いです。将来に希望を持てない若者、満足な医療も受けられず追い詰められた生活をしている高齢者があふれる日本は、まさに病的です。

 心身ともに健全な生活を送るうえで、不安の少ない精神的に安定した社会の構築は非常に大切なことです。高額の税金を負担してでも不安なく生活できる社会を選択してきたのが北欧の人たちです。

 このような選択の背景には、個人を尊重し自己の責任において行うことに干渉しないが、人々が助け合うことも大切にするという自立と思いやりの精神があるように感じました。

 以前、こんな話を聞いたことがあります。ドイツ人にいわせると日本人は自立しておらず子どものようだとのこと。ところが、スウェーデンの人たちから見ると、ドイツ人は自立していないというのです。スウェーデンの人たちから見たら、日本人はとてつもなく自立していない頼りない存在なのかもしれません。北欧の空港で日本人の団体旅行客を見ていると、そんな精神面での違いが見えてくるようでした。

 日本が福祉国家になるためには、まず国民ひとりひとりが自立するとともに他者を尊重する精神が求められるのではないでしょうか。そのためにどうすべきか・・・。日本人ひとりひとりに突きつけられている課題でしょう。

前回の記事 野鳥と人と

2008年5月29日 (木)

的外れのグリーンピース・ジャパン批判

 北欧に行っている間に、調査捕鯨船団が鯨肉を横領したとして環境保護団体のグリーンピース・ジャパンが証拠品を東京地検に提出して告発したとのニュースがありました。その後、グリーンピースの入手した証拠品が窃盗によるものだとして運送会社が窃盗被害を届出たとのこと。この件で、グリーンピース・ジャパンが窃盗をしたとして批判が強まっているようです。

 グリーンピース・ジャパンへの批判で真っ先に感じたのは、的が外れた環境保護団体バッシングともいえる批判です。証拠品を無断で持ち出したことが正当な行為といえるかどうかについてはさまざまな意見があるでしょう。窃盗であり犯罪だとする人もいるでしょうし、窃盗には当らない、あるいは不正を明らかにするためにはやむを得ない行為であり許容範囲である、と捉える人もいるでしょう。

 個人的には無断で鯨肉を持ち出したこと自体は適切な行為とは思いませんが、グリーンピースとしても弁護士に相談して行っていることです。この行為だけに焦点をあてて批判し、グリーンピースの活動自体をも否定するかのような批判がなされていることに大いなる疑問を抱かざるをえません。彼らの告発の目的は、日本の行っている調査捕鯨での不正疑惑に対し法的な行動に出たということです。その手法の正当性と行動の目的はきちんと分けて考えるべきです。

 世界的に鯨の保護が叫ばれている中で、調査という名目で行われている日本の捕鯨に疑問を投げかけ行動している団体が、その疑問や疑惑の解明のためにいろいろな手段を用いるのは当然のことです。自然保護団体も無駄な公共事業で自然破壊を行っている行政に対して抗議したり、講演会などで問題点を指摘したり、反対の署名活動をしたり、裁判に訴えたりとさまざまな活動を行うことで世間に問題点を知らしめ、また成果をあげてきました。

 ところが、今回はグリーンピースによる「証拠品の窃盗」ばかりが問題視され、肝心の調査捕鯨の問題はかき消されてしまっているようです。私は、イラクで拘束された3人への「自己責任」バッシングを連想しました。イラク戦争に反対し、イラクの悲惨な状況を知らせようとした彼らの目的は、彼らの行動を快く思わない人たちによる「自己責任」というバッシングにかき消されてしまったのです。

 とりわけ疑問に思ったのは、多くの読者を持つ池田信夫氏のブログです。「窃盗」に関する意見はともかくとして、池田氏はエコロジストたちが「鯨を殺すことが非人道的」と捉え、「すべての生命を尊ぶことを原則とする」と解釈しているようですが、これは大きな誤解といえます。このような考えのもとに行動しているエコロジストなど皆無でしょう。

 自然保護団体や環境保護団体は決して「生命を尊ぶこと」を原則とはしていません。グリーンピース・ジャパンのホームページを読めばそのことはすぐに分かるはずです。生態系について理解しているからこそ、海の生態系の頂点に立ち繁殖力も旺盛ではない鯨は保護するべきだという考えです。陸上で生態系の頂点に立つ猛禽類の多くが絶滅危惧種に指定され、保護の対象になっているのと同じです。

 また、日本政府の行っている調査捕鯨は、調査という名目での商業捕鯨といえるものだという主張をしているのです。「環境保護団体のエコロジストは、殺生が非人道的だから捕鯨に反対している」などと解釈している人がいるとしたら驚くばかりですし、それをして星川淳氏を「偽善的エコロジスト」と批判するのは的外れというものです。

 動物愛護団体には「殺生は非人道的」というような主張をする方がいるかもしれませんが、エコロジストの考え方とは明らかに異なります。ちなみに、私自身は何かというと「命を大切に」といって昆虫採集までも否定するような発言にはうんざりしています。

 グリーンピース・ジャパンは沖縄のジュゴンの保護活動も行っています。「ジュゴン訴訟」ではアメリカのサンフランシスコ連邦地方裁判所において勝訴判決を勝ち取り、米国防省はジュゴンへの配慮を行う責任が出てきました。日本政府のアセス調査も問われることになります。

 米国にとっても、日本政府にとっても環境保護団体は自分たちには都合の悪い目障りな団体といえるでしょう。日ごろグリーンピースのような行動的な環境保護団体を煙たがっている日本政府などにとっては、グリーンピース・ジャパンの「証拠品の窃盗」は環境団体批判にもってこいの話題といえます。それだけに、的外れな批判が環境保護団体バッシングに利用されてしまうことが懸念されます。

野鳥と人と

Kouennokamome  北欧の街に降り立ってまず気付いたのは、野鳥と人の距離が近いことでした。街中をカモメが飛び回り、公園にもたむろしています。駅ビル構内にまでドバトやイエスズメが入り込み、カフェのテーブルでこぼれたパンくずをついばんでいます。いったいどこから出入りしているのやら?と首を傾げてしまいました。

 フィンランドのセウラサーリ島に行ったときのことです。ベンチで昼食をとっているとどこからともなく野鳥たちが集まってきました。そして瞬く間にドバト、イエスズメ、ハシボソガラス(こちらのカラスは真っ黒ではありません)、カモメ、マガモ(アヒル?)に取り囲まれてしまったのです。鳥たちは、人間が食べものを食べ始めると大胆に近づいてきます。あきらかに人間の食べ物のおこぼれを期待して集まってきているのです。ベンチを中心に野鳥たちに取り囲まれてしまい、なんだかヒッチコックの「鳥」を思い出してしまいました。

Hatotokodomo  それもそのはず、公園などでは野鳥にパンくずなどを与えている人がいます。子どもたちもドバトやリスに餌を与えています。それに、こちらではカフェの前の歩道にテーブルと椅子をならべ、路上でお茶を楽しむ習慣があるので、そのおこぼれを頂戴しようとイエスズメやドバトたちが集まってきます。

 ヨーロッパでは野鳥に餌を与えることが、ごく当たり前になっているのですね。日本でも庭に餌台をつくっている人がいますが、近年はスズメの大量死や鳥インフルエンザの影響で、野鳥に餌を与える人は減り、野鳥との接近が警戒されるようになりました。ところが、北欧の人たちは平気で餌をやっています。長年の習慣を変えられないのか、それとも鳥インフルエンザに対する危機感が日本とは異なるのか・・・。

 北欧はハクチョウやガン、カモなど鳥インフルエンザの運び手の渡り鳥がたくさん繁殖しているのですから、もう少し野鳥との接触に対して敏感になるべきではないかと思うのですが、日本人とは感覚が違うのかもしれません。でも、この野鳥と人との距離の近さ、無防備さは、ひとたび鳥インフルエンザが発生したらかなり深刻な状況を引き起こすのではないかと心配になります。かつてのスペイン風邪のように・・・。

Sijuukaragan  野鳥といえば、セウラサーリ島では公園の路上をミヤコドリが歩いていたり、島のすぐ近くの海にシジュウカラガン(写真)やコブハクチョウ、カンムリカイツブリが浮かんでいたりと、日本ではあまり味わえない光景を楽しんできました。それに、街中であっても木々が茂る公園ではクロウタドリが本当にきれいな声で囀り、カササギが長い尾をたなびかせて飛び回っています。やはり、野鳥と人の距離感が日本とはちょっと違うかなという印象を持ちました。

前回の記事 氷河と生物多様性

2008年5月27日 (火)

氷河と生物多様性

 北欧の風景を見て一番に感じたことは、かつて大陸氷河に覆われた土地だということです。今回はスウェーデンとフィンランドの南部に行ったのですが、緩やかに起伏した大地が延々と続き、湖が点在しています。おびただしい数の湖沼は、かつてそこを覆っていた分厚い氷河が融けた名残です。

Syasoukara  緩やかに波打つ大地は森(造林地や二次林)と農耕地がモザイク状に延々と広がり、ところどころに湖を湛えています。ヨーテボリからストックホルムまで列車で移動したのですが、こんな光景がどこまでも続いているのです(写真参照)。南部の大地には原生的な自然は皆無といってもいいのではないでしょうか。

 車窓から景色を見ていてとても不思議に思ったのは「川が見当たらない」ということでした。山国で雨の多い日本ではいたるところに川がありますので、川がない風景はとても奇妙に感じられます。おそらく雨が少なく山のないこの地では雨水はすぐに大地に浸透し、余分な水分は点在する湖にゆっくりと注ぎ込まれるのではないでしょうか。だから川ができないのです。

 また、あちこちに岩盤の切り通しが目につきます。つまり基盤が地表に出ているところがとても多いのです。これもかつて氷河で大地が削りとられた名残なのでしょう。

 厚い大陸氷河に覆われた北欧は動植物が一度死滅しているために、生物の多様性に乏しいと聞いていましたが、実際に景観を見て実感したのはまさしくそのことでした。気候的には札幌などとあまり変わらないのに、森林がものすごく単純です。

 北欧は「森と湖の国」といわれますが、その「森」というのは氷河が融けて大地が現れるにしたがって南から徐々に北上したり、人が植えてでき上がった森なのです。針葉樹はヨーロッパアカマツとヨーロッパトウヒ、そして広葉樹の大半はシラカンバ(日本のものとはちょっと違うようです)です。かつてサハリンに行ったときにも森林のシンプルさを実感しましたが、大陸氷河の影響を受けた北欧の森のシンプルさはその比ではありません。さらに雨が少ない気候によって、生育できる植物が限られてしまうのでしょう。

 街中の公園や街路樹もとても樹種が少なく、菩提樹、マロニエ、カエデ、ハルニレ、ライラックなど、どこに行っても同じような樹ばかりです。西洋の女性は樹の名前を良く知っていると聞いたことがありますが、それは日本人より自然に関心が高いからということではなく、樹の種類が少ないので誰でも覚えられるからではないでしょうか。

 日本に帰ってきて本当に実感したのが豊かな森と生物の多様性です。氷河に被われなかった日本では第三紀からの生物たちがそのまま生き続け、雨の多い気候が多種の植物を育み、そこに棲む動物も本当に多様性に富んでいるのです。

 美しい森、美しい四季をもち、すばらしく多様性に富んだ日本の自然をあらためて実感し、そんな豊かな自然をもつところに生まれ育ったことをつくづく幸せに感じてしまいました。

前回の記事 遥かなる北極圏

2008年5月25日 (日)

遥かなる北極圏

 しばらく更新していませんでしたが、この間、母と私と娘の母子三代でスウェーデンとフィンランドに行ってきました。といってもこの北欧旅行、4月に入ってから急に行くことになり、飛行機・列車・ホテルを予約しただけで出かけたという全くの準備不足。海外旅行は北海道のお隣のサハリンへ地質見学のツアーに一度参加したことがあるだけなので、初めて同然なのです。そのうえ英語もダメ。

 乗り継ぎのためにフィンランドの空港に降り立ってから「こりゃ、ちょっと無謀だったか・・・」と思った次第。ちょっとしたアクシデントもありましたが、何とか予定どおりヨーテボリ・ストックホルム・ヘルシンキを巡って無事に帰ってきました。

Fiyorudo  この旅行のひとつの楽しみは、飛行機からシベリアやラップランドなどの北極圏を見ることでした。かなり高度の高いところを飛ぶので、もちろん雲があると全く下の景色が見えないのですが、それでも往路では雲の合間から東シベリアの山岳地帯や湿原、北極海周辺やフィンランドの無数に浮かぶ島々(写真)を見ることができました。

 はじめて知ったのですが、飛行機のカメラからの映像が座席のモニターに映しだされるようになっているので、窓側に座れなくても下の様子がわかります。往路は窓とモニターの映像から下界の光景をちょこちょこと見ることができました。残念ながら帰路はカメラのスイッチが入っていなかったようで、モニターは真っ黒でした。

 いつも小さな日本列島だけを見ている目には、シベリアやラップランドの光景はあまりにも壮大で息を飲むほどの魅力を感じてしまいます。ハバロフスク周辺に広がる湿地帯や河川、それにつづく東シベリアの広大な山岳地帯は、原始の姿を留めているところも多いのでしょう。ツンドラに広がる湖沼や湿原、大きく蛇行して海へ注ぐ河川は、上空から見る限りでは人跡未踏としか思えない大自然に見えます。

 私はどうしても熱帯より北方の自然に魅力を感じてしまうのですが、とりわけシギやガン・カモなどの水鳥たちの繁殖地であるツンドラ地帯の湿地に関心をそそられてしまいます。学生時代には時間さえあれば干潟に出かけ、シギやチドリなどの水鳥ばかりを見ていたせいもあるのでしょう。彼らの繁殖地をいつか訪れてみたいと思ったものです。それに、ツンドラに生息する北方系のサラグモ類に大きな興味を引かれます。もっとも本当に湿地帯に下り立ったなら、途方もない数の蚊やブユに襲われて大変なことになるのでしょうけれど・・・。

 最終氷期にはスカンジナビア半島は大陸氷河によって覆われてしまったのですが、空からの光景はフィヨルド地形や湖沼をつくりだした氷河の力をまざまざと感じさせてくれます。

 はるか上空からその広大な自然を眺めている限り、人の手によって破壊や汚染がされていない大自然が息づいているとしか見えないのですが、実際には北極圏にも暮らす人々がおり、また人間の活動による気候変動などがこんなところにまでさまざまな影響を及ぼしているのでしょう。

 人類による自然破壊がはっきりわかるのも飛行機からの光景です。区画整理された農耕地や単調な色合いの植林地などは一目瞭然であり、人が開拓してきた土地の広大さにも圧倒されます。飛行機からの光景は、大自然の壮大さとともにそれを切り刻んできた人類の開拓を見せ付けられ、なんともやりきれない思いにかられてしまいます。

 ということで、北欧で感じたことなどを何回かにわけて報告したいと思います。

2008年5月11日 (日)

誰が望んで設置したの?

Tokatioohasikanban  帯広市から十勝川を渡って音更町方面に向かうとき、いつも目に入るのが橋のたもとにある開発局のこの設備。ドライバーに向けてカラーの映像が流されているのですが、どう見ても、かなりの費用をかけて設置したとしか思えません。これを見たときには、開発局の感覚に仰天しました。

 いったい、何のためにこのような掲示板が必要なのでしょうか?

 誰がこのようなディスプレーに税金をつかうことを望んでいるのでしょうか?

 この費用はどのような予算から出されているのでしょうか?

 もしかしたら、特定道路財源?

 必要性があるとは思えない設備に湯水のように税金をつかっている開発局の感覚は理解できません。庶民の感覚とはかけ離れていますね。

2008年5月 9日 (金)

表現の自由と知る権利は何処へ

 新聞などではあまり報道されなかったようですが、去る4月22日にオリコンがジャーナリストの烏賀陽さんを名誉毀損で訴えていた裁判で、オリコンが勝訴しました。これは、烏賀陽さんが月刊誌「サイゾー」の電話取材に答えた20行ほどのコメントの内容が名誉毀損にあたるとし、記事を書いた者ではなく情報提供者の烏賀陽さんだけを対象に5000万円の損害賠償を求めたものです。

 判決では烏賀陽さんの主張は一切認められず、烏賀陽さんに100万円の支払を命じました。烏賀陽さんはもちろんこの判決を不服として控訴しました。また、烏賀陽さんは、この訴訟は言論を封じこめるための恫喝だとして反訴しましたが、これも棄却されてしまいました。

 この裁判の内容についてはインターネットメディアなどで報じられていますし、烏賀陽さんのホームページでも説明されていますので、詳しく知りたいかたはそちらをお読みいただけたらと思います。

 この判決には理解できないことがいくつもあります。たとえば情報提供者が明らかにされなかったために、烏賀陽さんの証言や取材ノートが信用できないと判断されていることです。ジャーナリストにとっては情報源の秘匿は最優先されなければなりません。たとえ裁判でも、情報提供者を明かすなどということにはなりません。しかも、問題の記事では烏賀陽さんの話したことが正確に伝えられておらず、烏賀陽さんはサイゾーに対して抗議しているのです。判決ではそのようなことも全く考慮されていません。このような判断が確定されてしまえば、大企業や権力者が容易にジャーナリスト個人を提訴して批判封じさせることができるでしょう。

 名誉毀損での損害賠償金額は高額化してきているようです。恫喝ともいえる名誉毀損訴訟によって、日本のジャーナリストは非常に萎縮させられているとしか思えません。提訴が恐くて企業批判などできず、疑惑を知りながら何も書けないという記者やライターは五万といるのではないでしょうか。このような環境では、とても言論の自由があるとは言えませんし、その結果として私達は知る権利も保障されないのです。日本はとんでもない国になってきたという思いがします。

 ところで、ある会社員がホームページで、フランチャイズのラーメン店に対して「カルト集団と関係がある」などと書いたことが名誉毀損にあたるとして起訴された事件がありました。この裁判では、東京地裁が「インターネットの個人利用者に要求される水準の調査をした上で、誤って真実と信じ発信した場合、確実な資料や根拠に基づかなくても名誉毀損に問えない」という新基準を示し、無罪を言い渡しました。

 名誉毀損裁判に怯えるジャーナリストが多い状況のなかで、一般の人が公益目的の発信をする際にも、「十分な調査を尽くして確実な根拠に基づき真実と信じた相当の理由」が求められるのであれば、一般市民によるネットでの社会的な発言さえ萎縮してしまうのではないでしょうか。検察側は控訴していますが、今回の判決は画期的といえると思います。

 私自身も、このブログで批判的なことを書いていますが、もちろん相手の名前を明らかにしている場合も「悪口」として書いているわけではありません。事実に基づき、公共の利害に関わることについて、公益目的に書いているだけです。ブログ全盛の時代こそ、ネット上での「表現の自由」や「知る権利」が保障されなければ、おとなしい日本人はさらに無口になってしまうでしょう。そういう風潮こそ恐ろしいと思います。

2008年5月 8日 (木)

北海道新聞社の共同出版

 今日の北海道新聞の生活面を見ていたら「『いずみ』作品集共同出版者募集」というタイトルが目に飛び込んできました。

 「いずみ」というのは北海道新聞の生活面に掲載されている女性だけを対象にした600字以内の投稿欄です。その投稿者を対象に「くらしの詩をつづって」という共同作品集をつくるので、参加者を募集するということでした。いわゆるオムニバス本ですね。

 募集要項によると一人につき2話掲載し、そのうちの1話は掲載作品という条件がありますが、もう1話は未発表作品でも可とのこと。100人募集で、参加費は一人15000円。参加者には3冊進呈とのこと。北海道新聞社から発行され、本の定価は1000円で市販もします。

 一人15000円?! 私は思わず計算をしてしまいました。100人募集ですから、全部で150万円集まることになります。1作品1ページとして、200ページをちょっと超える程度のページ数でしょう。2006年と2007年にも同様の本を出していますが、A5版で並製本です。印刷部数はわかりませんが、書店販売は道内が中心のようですからそれほど多く刷らないのではないでしょうか。

 印刷・製本の原価は部数によって異なりますが、たぶん数十万円でしょう。編集といっても、掲載分についてはすでに文字データがあります。編集やデザインの費用を入れても150万円あれば版元は費用負担しなくて済みそうです。

 ところで、この本を印刷しているのは株式会社アイワードのようですが、アイワードのホームページによるとこの本は自費出版に分類されています。でも版元は北海道新聞社ですし、著者に売上金を支払うとの説明はありませんから、売上金は版元に入るのでしょう。

 これって、要するに共同出版会社が行っている商法と変わらないのではないでしょうか? 一人15000円という費用は手頃のように感じられますが、それだけ出して贈呈分が3冊(定価で3000円分)だけというのもどうかと思います。このオムニバス本に参加する方は、このような価格や方法で納得しているのでしょうか?

 新聞社が自社の新聞に掲載した原稿をまとめて本にし、その売上金が版元に入るなら、少なくとも版元は出版費用の一部を負担すべきでしょう。もし著者と本の購読者の双方を顧客にしているのであれば、批判されている共同出版社と何も変わりません。北海道新聞社はその点について明確にすべきです。

 これじゃあ、新聞社が共同出版の批判などできるわけありませんね。

2008年5月 7日 (水)

北に渡るツバメ

 先日、道北に行った時、遠別川の河口近くにある公園の池の上をツバメが飛び回っていました。北海道で普通に見られるイワツバメでもショウドウツバメでもありません。背中がやや青っぽく、尾ははっきりとした燕尾です。「これはタダのツバメ?」と不思議に思いました。

 北海道ではツバメ(Hirundo rustica)は中部以北では繁殖していないのです。ですから、ここでも繁殖はしていないでしょう。とすると、このツバメたちは渡りの途中のようです。

 そこで家に帰ってからツバメの繁殖地を確認してみました。ツバメってずいぶん広く分布しているのですね。サハリンや千島でも繁殖していますし、カムチャッカにもいます。ユーラシア大陸や北アメリカでは北部を除いて非常に広い地域で繁殖していることを知りました。

 「北海道では南側にしかいない」ということが頭にあったために、てっきり北海道が繁殖の北限だと思っていたのです。先入観とは恐ろしいものです。北海道よりずっと北にまで分布しているにもかかわらず、北海道の中北部は空白地帯になっているということだったのですね。

 ツバメといえば人家や建物に営巣する代表的な夏鳥ですが、もちろん北海道の中部以北にも営巣可能な建物はたくさんあります。それなのに、繁殖していません。とても不思議なことです。こんな不思議なことがあるからこそ生き物を見るのが楽しいともいえます。

 イワツバメも建物や橋げたなどに巣を造りますが、岩壁などにも巣を造っています。人間の建造物が繁殖場所として都合が良いことを学習し、営巣場所を変えてきたのでしょう。

 現在ではツバメはすっかり人間の生活空間に依存し建物に巣を造っているようです。しかし、人が建物を造る以前はどんなところに巣を造っていたのでしょうか? 今は、まったくの自然の環境では繁殖していないのでしょうか? 建造物が出現する前は、イワツバメと同じように岩壁のようなところに巣を造っていたのかもしれませんね。

 人間生活と切っても切れない繋がりをもってしまった生物はツバメ以外にもたくさんあります。人の出現は、生き物たちにもさまざまな影響を及ぼしているのです。ただ、最近の建物はツバメが巣造りをするのには適さなくなっているような気がしてなりませんが。

2008年5月 6日 (火)

コンクリート大国ニッポン

 先日は天塩川の河口など、道北の日本海側の海岸でイソコモリグモの調査をしました。北海道の二大河川は石狩川と天塩川ですが、その両方が日本海側に流れており、河口部には広大な砂浜が形成されているのです。

Sunasaisyu  その海岸で見かけたのがこんな風景です。重機で海岸に近いところにある砂を採取しているのです。こうした光景は海岸沿いにあちこちで見られるようですが、どう見ても自然破壊ですね。

 こうやって採取した砂はコンクリートとして使われるのでしょう。また、セメントは石灰岩の山を壊して採取しています。コンクリートのために、あちこちで自然破壊がおこなわれているのです。しかも塩分を含んでいる海の砂は、コンクリートの質を低下させます。

 本来、山というのは徐々に浸食され、川によって土砂が海に運ばれていくのです。そうやって運ばれた土砂が砂浜をつくってきました。しかし近年は、治水、治山、発電、灌漑、水道水などの目的であちこちにダムが造られるようになり、土砂が堰き止められてしまいました。その結果、海に砂礫が運ばれなくなり海岸の浸食がますます進むようになったのです。砂浜もどんどん痩せていっているところが多いようです。

Tetorapotto  海岸に目を向けると、浸食が激しいところには延々とコンクリート製のテトラポットが置かれています。この場所では3重に並べられていました。こうやって大量のコンクリートが浸食防止に使われています。そして、自然の海岸線が消えてそこに棲む生き物たちは知らないうちに姿を消しているのです。

 大量のコンクリートを使ってダムを造り、そのダムが海岸の浸食を加速させています。その浸食を防ぐために大量のテトラポットを並べる。そのコンクリートを生産するために、山や川、海岸で自然破壊を続けているのです。このような悪循環にはまり込んでいます。

 日本の年間のコンクリートの使用量はアメリカより多いという話を聞いたことがあります。国土面積から考えたら、日本はものすごい量のコンクリートを生産し消費しているのです。公共事業という名の下に・・・。

 いまダムの堆砂が大変な問題になってきています。この国は、自然を破壊してコンクリートを使いつづける悪循環から抜け出す道を考えなければならないときにきています。

2008年5月 5日 (月)

オオバキスミレの不思議な分布

 先日は道北方面に行ってきました。ヤナギのみずみずしい新緑とイタヤカエデの黄色い花が山肌を彩っていました。キタコブシや桜も満開。いつになく早い花と緑の饗宴です。

Oobakisumire  とある道端の林床に、黄色いスミレの群落を見つけました。オオバキスミレです。スミレといえば紫系の花が大半で、黄色い花は少数派。しかも黄色い花のスミレは高い山に分布するものが多く、標高が低いところでも見られるのはこのオオバキスミレくらいでしょうか。

 オオバキスミレは北海道では西半分に分布しているようで、道東にはほとんど分布していません。同じところに咲いていたエゾエンゴサクやカタクリ、オオバナノエンレイソウなどはもっと広く分布しているのに、西側にしか分布していないのは不思議ですね。

 オオバキスミレは多雪地方に多いといわれているようですが、雪の量が本当に分布に関係しているのかどうかはわかりません。ササでは積雪と分布の関係がはっきりしているのですが、ササの場合は芽のつく位置が積雪と密接な関係にあるからなのです。春に生長して開花する春植物の場合、雪との関連性はよくわかりません。オオバキスミレの分布を決める要因は何なのかしらと思ってしまいました。

 このスミレ、開花している期間がとても短いようなのです。偶然の出会いでしたが、ちょうど満開でしたのでとても幸運でした。

2008年5月 2日 (金)

匿名言論への疑問

 私がブログを始めようと思った一年前、一般の方のブログの大半が匿名であることに違和感を覚えました。実名あるいは書き手が特定できるペンネームなどで書いている方は、タレントや歌手などの著名人、大学の教員、政治家、ジャーナリスト、弁護士などが大半のようです。

 インターネットの普及によって、これまでジャーナリストや知識人にしか開かれていなかった言論の公開という行為が、誰にでも可能になったのです。それにも関らず、多くのブロガーが匿名を使用している。これでは従来の紙のメディアと変わらないではないですか。言論の場を与えられているのに、日本人はなぜそこまで匿名にこだわるのでしょうか。

 私はこれまで自然保護活動に関わってきましたし、批判的な意見も書いていくつもりでしたから、はじめから匿名でブログを書くつもりはありませんでした。自分の意見・発言を公開する以上は名前を明らかにして責任を負うべきですし、発言の信憑性にも関ってきます。とりわけ共同出版批判をするのなら匿名では意味がないと思っています。それに、ブログでは読者がオーナーに直接連絡を取れるようにするのがベストでしょう。

 もちろん匿名のブログが問題だとは思いませんし、そのこと自体を批判するつもりもありません。仕事上の理由などで名前を出せない人もいるでしょう。しかし、どうしても匿名にしなくてはならないという人はそれほど多いとは思えません。ネットでは匿名が当たり前だという思い込みに支配されているのでしょうか。それとも、批判や誹謗中傷を恐れているのでしょうか。

 新聞などの投書欄では、匿名を不可としている場合が多いと思いますが、新聞社としてはたとえ一市民の発言であっても公にする以上、言論に責任を持つのが当然だと考えているのでしょう。また匿名が可能な場合でも、その媒体に投稿者の氏名や住所を明らかにするのが前提です。紙のメディアでは、匿名は投稿者を守るために、あくまでも「例外」として扱われてきました。言論の自由を求めるなら、かならず責任がつきまとうのです。

 ところが、インターネットによって誰もが発信できるようになった現在、「匿名」が当たり前で実名での発言はごく限られるという逆転現象が生じてしまいました。本来責任を持つべき言論の場において、これは異常な状態といえるのではないでしょうか。

 かくして匿名の隠れ蓑のもとに掲示板やブログのコメント欄での誹謗中傷がまかり通るようなったともいえるでしょう。気に入らない発言者に対しては、集団で言いたい放題の攻撃をして「炎上」だの「祭り」だのと騒ぐわけです。こんな形でしか発言できない人たちは、なんだか哀れですね。彼らの多くは自分で物事を判断しているのではなく、誰だかわからない大勢の人たちに左右されてしまっているのでしょう。

 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のような、「個」の確立のできない人たちがうようよしているこの国の未来は、残念ながらとても明るいとは思えませんねえ。もっともこの国では意図的に「個」を確立させないような教育をしているといえますけれど。「愛国心」なるものを押し付けたりしてね。

2008年5月 1日 (木)

裁判の目的とは?

 「新風舎商法を考える会」によると、昨年新風舎を提訴した原告らは破産管財人との和解に合意して、4月11日に訴えを取り下げたとのことです。新風舎が破産してしまったので、これ以上争う意味がなくなったとのこと。

 さて、提訴が「社会的使命を果たした」とのことですが、本当にそうでしょうか?

 この裁判とマスコミ報道について振り返ってみましょう。新風舎や文芸社の商法についてはネット上では以前から話題になっていました。また写真家の藤原新也さんがご自身のブログで取り上げたのは2006年の11月からです。藤原さんのブログはマスコミ関係者もかなり見ているようですから、これを契機にマスコミ関係者にもこの問題がかなり知れ渡ったといえるでしょう。

 しかし、広告を掲載している新聞社はその後も新風舎のことについてはずっと口をつぐんでいました。同じ頃、「新風舎商法を考える会」の世話人である尾崎浩一氏は、新風舎とトラブルになっている人たちと接触し、雑誌やテレビでその事例を紹介しました。でもそれだけでは原稿募集広告を掲げている新聞にこの問題を書かせることはできません。昨年7月の提訴で原告らが記者会見を開いてアピールしたことで、新聞がようやく記事にしたのです。裁判に持ち込んで話題にでもしない限り、新聞社は取り上げようとしなかったのです。こうした動きの中で、NHKの「クローズアップ現代」までもが原告の一人を取材して取り上げました。

 ただし、これまで私が書いてきたように、その争点は共同出版商法全体に共通する本質的問題点を突いていたわけではありません。販売についての虚偽説明だけを争点とし、損害賠償を求めたのです。

 悪質商法を全国紙が一斉に取り上げることの影響は、計り知れないものがあります。自転車操業状態だったところを提訴されたのですから、一気に破綻に向かったといえるでしょう。もし、この提訴が新風舎ではなく別の出版社であったら、やはり大きな影響を与えていたでしょうし倒産を招いたかもしれません。

 しかし、あれだけ提訴時に騒いでおきながら「和解して取り下げ」なのですから、争点とされた書店販売についての虚偽説明問題は結局うやむやになってしまったのではないでしょうか。原告の方たちが、「新風舎商法の悪質性を社会に訴えることに意義がありその目的を果たした」といっても、商法の悪質性が裁判の中で明らかにされたのではなく、提訴したという事実をアピールすることでマスコミが世間に知らしめたにすぎません。裁判では何も明らかにされなかったに等しいといえます。

 提訴はマスコミに新風舎の悪質性を報道させる手段として使われ、本来の目的である疑惑解明と被害回復には結びつかなかったといえるでしょう。さらに新風舎の破産は、碧天舎と同様の被害者を生み出してしまったのです。

 原告の方たちは文芸社に事業譲渡させた破産管財人と和解したとのことですが、あの譲渡劇に何も疑問を持たなかったのでしょうか? 疑惑が解明されていない文芸社に、新風舎の著者の個人情報が渡ってしまいましたが、その責任は破産管財人にあります。

 新風舎がなくなったことで同社による新たな被害者を防ぐことにはなりましたが、同業他社が批判されないまま相変わらず同じようなことをやっているのであれば、著者はそちらに流れるだけでしょう。文芸社への事業譲渡に不満を抱いている著者たちも多いはずですが、「考える会」の方たちはそれについてどう考えているのでしょうか? 原告の方たちが、そのようなことに目を瞑り「社会的使命を果たした」と満足しているなら、とても不思議に感じます。

 いったい何のための裁判だったのでしょうか? 「新風舎憎し」と怒っていた人にとっては、倒産させたことだけで満足なのかもしれません。しかし、その結果は共同出版問題を解決するためにプラスに働いたでしょうか? それどころか、同業他社に有利に働いたのではないでしょうか? 今いちど冷静になって考えてほしいと思います。

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