« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008年2月

2008年2月29日 (金)

根っこまで腐った防衛省

 イージス艦と漁船の衝突事故で明らかになったことといえば、自衛隊のいい加減さと防衛省の隠蔽体質。事故が発生してからのニュースを見ていても、彼らがいかに事実を隠蔽しようとするかに興味をそそられましたが、やっぱりという感じでしたね。

 この事故のニュースを聞いたとき、すぐに頭に浮かんだのは北海道の航空自衛隊に勤務する女性自衛官が裁判で告発している自衛隊の夜勤の実態です。最も階級の低い者が当直の仕事をし、上司は好き勝手なことをやっていたり、酒盛りをしていたり・・・。「非常識が常識の自衛隊」にも書きましたが、自衛隊では一般の企業ではとても考えられないようなことが当たり前になっているわけです。さらに、提訴した女性に退職を強要して隠蔽をはかったのです。

 大勢の見張りがいてレーダーも備わっているイージス艦で、漁船を見落とすなどということ自体が信じがたいのですが、見落としてしまうような状況になっていたということでしょうね。当直の人たちはいったい何をやっていたのかと、航空自衛隊の例を思い出してしまうわけです。そこにはあまりにもモラルが欠如した怠慢な勤務体制があるのではないでしょうか。

 それに加えてひたすら責任逃れをしようとする防衛省。けがをした隊員の付き添いとの理由で航海長をヘリに乗せたというのも嘘であれば、海保庁に事前了解を得ていたというのも嘘。航海長の事情聴取の記録を取っていなかったというのも嘘。次ぎから次ぎへの嘘を並べられたのなら、隠蔽だと思わない人など誰もいないでしょう。

 だいたい戦争をしないといっている国がイージス艦などというものに巨額を投じ、ミサイルの迎撃実験をしていることのほうがおかしいわけです。こんな自衛隊、こんな防衛省にわれわれ国民が税金を投じているのかと思うと、心底腹立たしくなります。

 今は市民がみな発信者です。こういうことこそ、世のブロガーは一斉に書き立てるべきではないかなどと思ってしまいます。

2008年2月28日 (木)

本を売るということ

 私は自分自身の経験からも、書店流通を謳った共同出版社に多くの人が引き寄せられる心境がよくわかります。できることなら誰だって費用負担なしに商業出版として本を出版したいでしょう。でも、多くの商業出版社はアマチュアの原稿は相手にしません。そこで、著者が費用を負担しても流通を約束してくれる出版社に惹かれるのです。

 ところが、書店流通を謳っていた碧天舎や新風舎の場合、大半の本がほとんど売れていなかったわけです。これは碧天舎や新風舎に限ったことではないでしょう。

 では、アマチュアの本は絶対に売れないのでしょうか? 売るべきではないのでしょうか? 

 私は文芸社とトラブルになったあと、「自費出版Q&A」(渡辺勝利監修、東京経済)という本に出会いました。その本で知ったのは、自費出版であっても商業出版と同じように取次を通した委託配本を扱っている出版サービス会社があるということです。

 では、委託配本している出版社と契約すれば売れるのでしょうか? 答えは否です。

 取次に委託配本してもらうためには、その本が商品として完成されていることが必要なのです。「[考察]日本の自費出版」(渡辺勝利著、東京経済)にはこう書かれています。

 「自費出版本をこの正常ルートに乗せるとき、自費出版のにおいが少しでもあれば、搬入部数を極端にしぼられるか、受け付けてさえもらえない。本が売れる商品として認められなければ書店へ流通することはない」  出版社は新刊を出版すると、取次に見本を届けて流通させたい部数を伝えるのですが、最終的に何部を流通させるかは取次の判断になります。つまり、取次では本のタイトル、体裁、編集や定価、著者の知名度などなど、さまざまな角度から判断して流通部数を決めるのです。

 このために、自費出版の本を流通させるためには買ってもらえるような魅力的な内容であることが必要です。アマチュアの方の原稿は、玉石混交というのが実態でしょう。出版社が書店流通を売りにするのであれば、そのような作品の中から光るものを選び、プロの編集者が徹底した編集を行ってクオリティを高めることが不可欠なのです。カバーデザインも重要な要素になります。こうして「自費出版のにおいがしない」レベルまで高めなければ取次は相手にしないということです。

 売れる商品としての本づくりをするためには、商業出版と同じ本づくりが求められるのです。こうした自費出版の精神、あり方を知って感銘をうけたものです。もちろん、そのような本づくりにはそれに見合った費用がかかることになります。費用の安さを謳う出版社にはできないでしょう。

  共同出版社ではごく一部の本を除いて取次を通じた委託配本をしていないようですが、それはとりもなおさず委託配本できるような質の高い本づくりをしていないからともいえるでしょう。

 取次の委託配本の関門を通るためには「売れる本」を目指さなければならないのです。著者が「売りたい本」をつくっただけでは取次は相手にしませんし、まず売れません。著者は委託配本のための経費を負担したものの、配本部数が少なく、ほとんど売れないということにもなりかねません。

 アマチュアの方が商業出版と同じように書店に本を置いてもらいたいのであれば、商業出版社に原稿を持ち込むか、あるいは商業出版と遜色のない本づくりをしている自費出版社を探すべきだということです。書店流通を謳った自費出版社が多数あるなかで、売れるための本づくりをしている出版社を探すのはなかなか大変なことですが、出版社選びこそ悔いのない出版の決め手になると思います。

 また、販売に向かないジャンルというものもあります。たとえば自分史とか詩集、歌集、句集などといったものです。たとえ内容がよくても、売れないジャンルなのです。

 著者がお金を払って出版をするのであれば、何のために出版をするのかよく考えて、目的にあった出版社をじっくりと探すのが一番ではないでしょうか。

2008年2月27日 (水)

知床のダムはなぜ撤去できないのか?

 国際自然保護連合のデビッド・シェパード氏が、世界遺産に指定された知床の再評価のために現地を訪れましたが、ルシャ川の3基の砂防ダムについては案の定、撤去を求めたそうです。

 知床が世界遺産に登録されるときにも、123基もあるという砂防ダムなど工作物のことが課題として取り上げられていましたから、当然のことでしょう。日本が行ってきた対応策はあくまでもダムの撤去ではなく、魚道などの設置です。それも31基のみ。

 欧米ではだいぶ前からダムが河川の生態系に大きな影響を与えてきたことを認め、撤去を進めていますが、日本は頑なにダムが必要であるとの姿勢を崩しません。

 ほとんど人が住んでいないような場所にあるダムの撤去に、なぜここまで抵抗するのでしょうか?

 日本の河川は、山奥まで砂防ダムが造られています。ひどいところでは、階段状に連なるようにいくつものダムが造られているところがあります。伐採によって森林の保水力を低下させ、雨が降れば作業道からは大量の土砂が河川に流れ込むので砂防ダムを造る・・・。

 そうやって森と川の生態系を破壊し、魚の移動を妨げてきましたし、今もこのようなことが延々と続けられています。

 このような中で日本政府が「知床のダムは魚の移動を妨げるから撤去しよう」と決めたなら、新規の砂防ダム建設に与える影響も大きいに違いありません。「ダムは生態系を破壊する!」「ダムを撤去すべきだ!」ということになったなら、都合の悪い人がでてくるわけです。

 ダムの撤去を求められながらも、魚道の設置で誤魔化してきた理由は、このようなところにあるのではと思えてしかたありません。

 日本政府も、いつまでもダム必要論に固執していたなら、世界の恥となることをいいかげんに認めるべきでしょうね。

 20日の国際自然保護連合と国連教育科学文化機関の調査団に対する説明会で、環境省はシェパード氏らの発言内容を非公開としたと報道されました。しかも非公開の理由として「調査団側の要望」という嘘までついたそうな。まったく驚くべき隠蔽体質です。

 これでは、恥の上塗りでは・・・。

2008年2月26日 (火)

暴露された日高横断道

 22日に報道ステーションを見ていたら、道路特定財源の話題に関連して、中止になって放置されている日高横断道路の映像が出てきて「なんで今頃?」とびっくりしました。険しい山岳地帯の山肌を削って延びる道路や鉄骨だけの橋梁などのヘリからの映像は、雪景色でも生々しいものがあります。

 日高横断道路というのは、十勝管内の中札内村から日高管内の静内町を結ぶ101キロの道道(北海道が建設・管理する道)なのですが、日高山脈を横断する25キロは、国の直轄の開発道路だったのです。

 1965年から地元などによる陳情がはじまり、1980年に道道として認定、81年には開発道路として指定され、84年から着工されました。自然保護団体はもちろん反対しました。トンネル部分のすぐ近くにはナキウサギの生息地もあったのです。

 日高は非常に急峻で脆い地質ですから頻繁にがけ崩れが生じ、工事は難航しました。当初は工期が15~20年、工費は297億円とされたのですが、18年後の2002年までに総工費は1520億円(540億円をすでに投入し、今後980億円必要)に膨らみ、さらに完成までに35~40年もかかると言われたのです。

 2002年2月には「止めよう日高横断道路」全国連絡会が発足して反対運動が活発化しました。堀知事(当時)は同年6月に財政難などを理由に見直しを表明し、翌年2月に凍結を表明、8月には、国(開発局)も開発道路部分の中止を決めました。こうして長年の自然破壊に終止符が打たれたのです。

 しかし18年間の工事によって、日高山脈の両側に崩落をつづける道が開削されてしまったのです。造った端から崩れるというとんでもない道路でしたが、とりわけ日高側の破壊はひどかったそうです。

 報道ステーションに出てきたのは、その日高側の放置された道路です。頻繁な土砂崩れで、使い物にならないといわれてきた道路です。番組の中でインタビューに応じていたタクシー運転手は、恐ろしくて通れないといっていましたが、いまだに完成させてほしいという地元の商工会の人も・・・。

 日高山脈は、狩勝峠、日勝峠、天馬街道の3本の道路があり、最近高速道路も開通したばかりです。どうしてそんなに道路ばかりを欲しがるのでしょうか? こんな無駄な工事に血税が使われてきたのですから、国民はもっと怒るべきでしょう。

 巨額を投じて山を壊し、自然を破壊し、結局は中止に追い込まれた日高横断道路という「負の遺産」を、私たちは教訓としていかなければならないはずですが、大規模林道(緑資源幹線林道)という立派な舗装道路が緑資源機構解体によって「山のみち」へと看板をかけかえ、人も住まない日高の南部の山中に計画・着工されています。

2008年2月23日 (土)

絶滅危惧種を釣る不思議

 22日の北海道新聞に「イトウ 繁殖期の釣り自主規制」という記事が掲載されていましたが、これを呼んで「おやっ?」と思った人も多いのではないでしょうか。

 環境省のレッドリストで絶滅危惧種に指定されているイトウを保護するために、北海道は繁殖期の釣り自粛を呼びかける方針を固めたという内容の記事です。

 国や地方自治体は生物多様性保全のために、絶滅の恐れのある野生生物をレッドリストとして選定しているのですが、そのような保護が必要な種であっても法的には捕獲が禁止されているわけではありません。

 このために保護が必要とされている魚であっても釣りをすることができます。イトウだけではなくオショロコマも同様です。なんとも不可解ではありませんか。

 クモのように採集する人がほとんどいない生物は、たとえ絶滅危惧種に指定されていたとしても採集圧による減少などということはまずないといえますが、魚は状況がまったく異なります。

 私は釣りはしませんが、釣り人というのは驚くほど大勢います。その大半は趣味として楽しんでいるのですから、道楽で絶滅危惧種を捕獲してもよいとしていることになります。

 魚だけではありません。エゾライチョウは環境省のレッドリストで情報不足というカテゴリーに入っているのですが、狩猟鳥獣なのです。だからハンターに鉄砲で狙われることもあるわけですね。

 研究のための採集ならともかく、保護すべき動物が趣味のために捕獲しても良いことになっているというのは、理解に苦しみます。

 マニアの多い昆虫などでは、天然記念物などに指定されていて採集禁止になっている種が多いのです。採集圧の大きな生物こそ、もっと実効力のある保護策が必要なのではないでしょうか。

2008年2月22日 (金)

変質した生活協同組合

 私は地元の市民生活協同組合に加入してから20年以上になりますが、この間の生協の変化に大きな失望を感じざるを得ません。

 今はコープ札幌に吸収されてしまいましたが、加入していたコープ十勝(帯広市民生協)は、そもそも粉石けんの普及から始まったと聞いています。その根底には環境問題があったのです。

 20年前は共同購入のみで商品の数も多くはありませんでしたが、たしかに「安心・安全」といえる商品が揃っていましたし、環境問題にもついての意識も高かったのです。

 それがだんだん変わってきたのは、店舗を構えてからだったと思います。維持経費のかかる店舗は共同購入を圧迫しました。店舗の経営を安定させるためには他のスーパーとの競争を余儀なくされます。売り場面積を増やして商品の種類を増やさないと、利用者は増えないのです。その結果、「安心・安全」とはいいがたい商品まで並べることになったといえるでしょう。

 このような経営方針の変化は商品の種類を増加させた一方で質の低下につながったように思います。それでも十勝独自で運営していた頃は、共同購入の商品も「安心・安全」を重視していたといえるでしょう。

 しかし、ひとたび店舗重視の方針をとってしまうと、大手スーパーとの競争に永遠にさらされることになってしまうのです。こうして経営の厳しくなった北海道の生協の多くは、「コープさっぽろ」に吸収合併され、十勝もその道をたどったのです。

 「コープさっぽろ」は、早くから大型店を導入し、規模も品揃えも大型スーパーと遜色のない状況でした。例えば合成保存料などの添加物の入っていないウィンナーソーセージを買いたくても見当たらず、洗剤コーナーには合成洗剤が山と積んであるという状況でした。一般のスーパーとほとんど変わりません。

 「コープ十勝」が「コープさっぽろ」に合併吸収された結果、共同購入の商品数は増えたものの質が一気に低下したと感じています。「安心・安全」を売りにしていた商品が減り、どこにでもある大手企業の商品が大量に導入されました。共同購入の商品案内には、季節はずれの外国産の野菜や「中国加工」と表示された冷凍の魚や野菜などが目立つようになりました。これまで購入していた減農薬の提携米もなくなりました。食の安全を考えているとは思えない品揃えです。

 中国製の冷凍食品から農薬が検出された事件からも、生協の「安心・安全」神話は崩れ去ったといえます。

 「安心・安全」をモットーに市民の生活を守り支えるという精神を守りつづけるためには、店舗を持つという選択は誤りだったとしか思えません。

 すっかり変質した生協ですが、せめて今回の事件をきっかけに初心にかえってできる限りの見直しをして欲しいものです。

2008年2月21日 (木)

死んだ鳥と御用学者

 福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」の第5章の冒頭の「死んだ鳥症候群」では、日本の学問の世界に横たわる閉鎖的で封建的な大学の実態が如実に描かれています。

 ちょっと引用すると、こんな具合です。

「講座制と呼ばれるこの構造の内部には前近代的な階層が温存され、教授以外はすべてが使用人だ。助手-講師-助教授と、人格を明け渡し、自らを虚しくして教授につかえ、その間、はしごを一段でも踏み外さぬことだけに汲々とする。雑巾がけ、かばん持ち。あらゆる雑役とハラスメントに耐え、耐え切った者だけがたこつぼの、一番奥に重ねられた座布団の上に座ることができる。古い大学の教授室はどこも似たような、死んだ鳥のにおいがする」

 こうした大学のシステムの中で、仕事を習熟した研究者が円熟期を迎えたとき、すでに研究への情熱は消えうせ、優雅に羽ばたいていた鳥はすでに死んでいるというのです。

 このような世界は、大学内部のことを知らない私にも想像に難くありません。生物関係の学会や研究者を傍目で見ていても、それはなんとなく感じられるものです。大学でのポストが上がっていくにつれ、何かずれていく感覚。研究の中身よりペーパーの数や功績に気を取られていく研究者と、そうせざるを得ないいびつなシステム。

 ここには純粋な学問とはかけはなれたドロドロとした世界が広がっています。業績重視の企業などと何もかわらない思考が・・・。

 若き日に、あれほど純粋な目で見ていた科学に対する探究心も、ひとたび研究者となって競争にさらされる環境に身をおくと、知らぬまに軌道からそれていくのでしょうか。もちろんそうではない研究者もいるはずです。

 いま、研究者をとりまく状況は劣悪といえるかも知れません。地道な研究者は陰に追いやられ、行政や権力におもねる研究者は持ち上げられて一般の人の目には輝いて見えます。でも「そう見える」だけです。

 彼らは御用学者として重宝され、浮ついていますが、その時にはすでに死んだ鳥になっているのです。でも、本人は悠々と空を羽ばたいている気分でいるのかもしれません。

 あふれる御用学者が悪を善に見せかけ、事実を捻じ曲げています。魂を売り渡した腑抜けの研究者がなんと多いことか。○○審議会、○○検討会、○○委員会の常連さんたちは、瀕死状態をとおりこして死んだ鳥になってしまっていると思えてなりません。

2008年2月20日 (水)

続・事実から見えてくるもの

 この世の中には、人を騙そうとしたり利用したりする人がなんと多いことでしょうか。私はよほどのことがない限り、個人を公の場で批判するつもりはありません。たとえ騙されても自分だけが被害をうけたのであれば黙って無視します。しかし、自分の利益のために人を騙したり利用したりする場合は別です。

 以前「事実から見えてくるもの」で尾崎浩一氏を批判しましたが、今は自費出版業者であるJPS出版局の高石左京(ハンドルネーム「秦野の隠居」)氏のとった行動も黙認することはできません。事実を伝えず黙認することは、事実を知らされていない新風舎の被害者の方たちや外部編集者の方にまで影響を及ぼしてしまうからです。

 高石左京氏は共同出版を公に批判している数少ない業界関係者でした。そこで、私が代表を務める「共同出版・自費出版の被害をなくす会」の世話人になっていただきました。私たちは出版のことについては素人の集団ですから、業界に詳しい方に適宜アドバイスをしていただきたいと思ったのです。事業者ですから、あくまでも事業と会の活動を区別していただくという約束をしていただきました。常識のある方であれば、このような約束をとりつけなくても立場を心得ると思いましたが、念のためにお願いしたのです。

 しかし、新風舎が倒産してから状況が一変しました。高石氏のブログを見た新風舎の外部編集者が、制作途中の本のデータを何とか著者に渡したいと相談し、高石氏は自分のブログで著者の方たちを探しはじめました。おそらく外部編集者の方はそのデータが新風舎の資産であり出版権も新風舎にあることをよく理解されておらず、善意で申し出たのでしょう。

 私は、高石氏にこのような行為は債権侵害であると伝えましたが、ご自身の主張を固持されたのです。また、私には新風舎被害者の出版については、ボランティアであり利益は考えていないと説明していました。しかし、利益(マージン)をとらない請負業なんてあり得るでしょうか? たとえ薄利であっても、事業は事業なのです。

 ご自身のブログで会の世話人を名乗っていながらこのような行為を続けるのであれば、会としてもこのまま関係を続けるわけにはいきません。そこで、世話人を退任していただいたのです。

 こうした中で私が大変不思議に思ったことがあります。高石氏は会の世話人でありながら、倒産で困惑している被害者の方たちを「被害をなくす会」に紹介することをまったくされないのです。すべてご自分で相談に対応されているようでした。ご自分への相談に対応すること自体はいいのです。しかし、その一方で高石氏と関係の深い方がミクシィ内に被害者の会をつくっていたのです(私は2ちゃんねるも見ていなければ、匿名性の高いミクシィにも興味はありません)。

 また、高石氏は「被害をなくす会」に、新風舎の保全管理人である川島弁護士に要望書を送ることを提案しましたが、後になってからその要望書はミクシィの被害者の会の方が提案したものであることが分かりました。なぜミクシィ内に被害者組織をつくるのでしょうか? そしてなぜその被害者組織で要望書を出さないのでしょうか?  私は、ミクシィの被害者の会の管理人に連携を打診したのですが、理由も説明せずに断わられてしまいました。

 この経緯については、以下をご覧ください。

http://nakusukai.exblog.jp/8075495/

 世話人を退任した高石氏は、相変わらず新風舎の編集者などと著者をつないで出版させようとしています。もちろん、自費出版業者が希望する著者の本を制作し流通させることは自由ですし、そのこと自体をどうこう言うつもりはありません。

 しかし、二つの疑問があります。ひとつは出版権が消失していない本の出版を手がけていることです。業界関係者として信じられない行為です。

 もうひとつは編集についてです。新風舎の場合、杜撰な編集が問題のひとつとして取り上げられていました。プロの作家の作品でも編集はなくてはならない作業なのですから、アマチュアの本を販売するのであればなおさら十分な編集が必要です。それなのに新風舎の本のデータをそのまま使って出版するのでしょうか?

 しかも、新風舎の本の大半はほとんど売れていなかったはずです。取次を通じて委託販売したからといって、本当に売れるのでしょうか? 何しろ商業出版ですら売れずに断裁処分され、「品切れ重版未定」になってしまう本がたくさんあるのです。これまでの販売実績なども説明しているのでしょうか? 販売委託契約なら、流通の費用を負担するのは著者です。売れなかった場合のリスクなどについて著者に説明しているのでしょうか?

 個人を責めたり攻撃するつもりは毛頭ありません。退任された時点で、指摘された問題を見つめ直し、変えるべきところを変えていただきたかったのです。そうしていればこのようなことまで書くことはありませんでした。

 著者に所有権のある本をつくって、それを流通させるサービスを行っている出版社はいろいろあります。著者の方たちには、自分の出版の目的をしっかりと考えて、悔いのない出版になるよう深く考え行動されることを願っています。

 また、先の記事「良心的な出版社とは?」も参考にしていただけたらと思います。

 なお、反論がある場合は公の場で議論したいと思いますので、名前を明らかにしたうえでコメントに書いてくださいますようお願いいたします。

2008年2月19日 (火)

生物とは何か?

 福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」(講談社現代新書)を、感慨深く読み終えました。すばらしく魅力にあふれた語り口はもとより、その深い洞察力に引き込まれながら。

 エピローグに綴られた子供のころのアオスジアゲハの飼育の経験、そしてトカゲの卵の内部を覗いてしまった体験・・・。私はエピローグを読み終えたあと、すぐにプロローグを読み返しました。

 昆虫少年が大学生になったときに問われた「生命とは何か?」という問いの答えを求めて分子生物学の扉をたたき、ミクロな視点からの研究に没頭した著者は、「動的平衡論」を紡ぎだすのです。

 そして最後に「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的平衡の謂である」と提示します。さらに「私たちは、自然の流れの前に跪く以外に、そして生命のありようをたた記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ」と結んでいます。

 私も子供のころから昆虫が大好きでした。アゲハチョウの幼虫を採ってきて蛹に育てては、羽化を見届けました。草むらから名前のわからない蝶の蛹を持ち帰り、そこから何が出てくるのか見守ったものです。そして昆虫の後は野鳥に夢中になっていました。

 高校生のときには生態学が全盛期で、コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンなどの動物行動学がもてはやされていました。子供のころからの生物への興味は、目の前で躍動する動物そのものに向けられていたのです。学生時代には分子生物学の講義をとってはみたものの、興味を持てずにすぐに放棄。結局は野鳥やクモの世界にはまっていました。

 目の前に息づく動物たちを見ていると、それが分子からできている生物であることは百も承知のうえで、ミクロな世界よりマクロな世界へと引き込まれていったものです。そして今はといえば、クモの分類やら分布に興味が移っています。まさしく種についての興味です。種とはその生物の生きている環境と、進化という世代を越えた時間軸のなかの「動的平衡」の結果として存在しているともいえましょう。

 私たちがいま目にしている生物の種は、さまざまな環境の影響を受けながら、数億年の進化の歴史という時間軸のうえを一方向にたどってきたものなのです。おそらく危ういまでのバランスをとりつつ・・・。その進化の陰で、おびただしい絶滅種があったはずです。

 ミクロな分子生物学から導きだした生命の「動的平衡論」が、少年の日の体験に重なっていくというエピローグに深い感銘を受けたのは、まさに生命にも種にもあい通じるものがあるからなのでしょう。

 それにしても、生命とは、生物とは何と不可思議な存在なのでしょうか?

 私たち人類はその不可思議な生物たちに、いま決定的なダメージを与えようとしています。何億年もの進化の歴史がもたらした動的平衡に・・・。

2008年2月18日 (月)

大樹海?

Mikunitouge  写真は、大雪山国立公園の三国峠の十勝側にある展望台からの写真です。

 中央の平らな部分はかつての爆裂火口で、その昔は湖があったといわれています。山のなかにこんなふうに盆地になっているところがあるのですね。そして、トドマツやエゾマツ、ダケカンバなどの森林が広がっています。

 こんな風に雄大な森林が広がっている光景を見渡せるところはそれほど多くはありません。

 でもこの大樹海、実は上からみるととんでもないことになっています。林道が網の目のように山奥まで張り巡らされ、裸地化した土場(丸太を積み上げたところ)が点々としているのです。樹海とは名ばかりのスカスカの森林になっているのです。

 森の中にはいると、直径が1メートルくらいの苔むして崩れかけたような切り株を見つけることができますが、かつてはそんな巨木があちこちにある鬱蒼とした森林だったのでしょう。今は細い木ばかりで、明るくなった林床にはササが生い茂っています。

 観光客の多くは、この広大な光景をみて原生林が広がっていると思うのでしょうけれど、原生林と呼べるような人の手の入っていない森林はほとんどありません。

 北海道には「日勝樹海ロード」とよばれる道路があるのですが、そこも樹海とは名ばかりのみすぼらしい森林しかありません。

 巨木の茂る、本当の樹海はどんな光景だったのでしょうか・・・。

2008年2月16日 (土)

カイコからクモの糸?

 先月の新聞に、「クモ遺伝子で強い絹糸 信州大・中垣教授ら開発」という記事が出ていました。その記事によると、カイコにクモの糸をつくる遺伝子を組み込むことで強くて伸縮性に優れた糸を生産する技術を開発したとのことでした。

 クモの糸が絹糸と同じように生産されるようになれば、クモ糸のストッキングやスカーフ、ネクタイなどが出回るようになるのかも知れません。でも、遺伝子組み換えと聞くと、内心穏やかではないものを感じてしまいます。

 クモの糸というのは非常に強く、しかも横糸(オニグモなどの円網のらせん状の糸)は非常に伸縮性に富んでいるのです。そんなすばらしい糸なのですが、これまでほとんど実用化されてきませんでした。

 というのは、クモは動物食でありカイコのように大量に飼育できないからなのです。たとえ飼育したとしても、おしりから出される糸を巻き取るのには大変な手間がかかるのですね。このようなコストを考えると、いくらすぐれた繊維であっても実用化には結びつかなかったのです。

 そこで登場したのが遺伝子組み換え技術でした。2002年にはカナダの企業が遺伝子組み換え技術によってヤギのミルクからクモの糸をつくったとのことが報道されましたが、防弾チョッキにもクモの糸が利用されているそうです。飼育しやすい動物からクモの糸がとれるのであれば、伸縮性に優れた「夢の繊維」も夢ではなくなります。

 でも気になるのは遺伝子組み換え技術を利用しているという点です。飼育されているカイコは完全に家畜化されていて自然状態では生きてはいけないそうですが、それでも野生種から改良されたものです。それに対して、遺伝子組み換えカイコはまったく違う生物の遺伝子を人為的にカイコに組み込んでしまうのですから、明らかに自然の摂理に反する行為です。

 このように遺伝子組み換え技術を何にでも応用していくことで、将来とりかえしのつかないことが生じるかもしれません。現実問題として、遺伝子組み換え作物はさまざまな問題を引き起こしており、生態系に大きな影響を与えることが懸念されています。もちろん食品としての安全性も保障されていません。

 人間の都合だけで、安易に遺伝子組み換え技術を使うべきでしょうか? クモの糸の靴下はどうしても必要なものではないはずです。防弾チョッキというのも??? そんなものが要らない社会にしていくことのほうが先決ではないでしょうか。

 クモの美しい網は、クモが獲物を捕るために進化してきたものです。長い長い時間をかけて、餌を採る道具として丈夫で伸縮性のある糸が生み出されてきたのです。いくら優れた繊維であっても、自然の摂理を乱してまで利用することは慎むべきではないでしょうか?

2008年2月14日 (木)

懸念される被害者の新たな出版

 新風舎の保全管理人弁護士は、本もできなければお金も戻らない被害者を出さないために、債権をそのままの状態にしながら事業譲渡の交渉をされているようです。

 そのような状況のなかで、未刊の本のデータを所持していた外部編集者の方がそのデータを著者に渡したいと考え、ブログなどで共同出版を批判しているある自費出版社の方に相談を持ちかけたところ、その自費出版社の方は新風舎の未刊や既刊の著者を集める行為をはじめました。そして現在、連絡のとれたある未刊の被害者の本の出版作業を進めています。

 毎日のようにブログで状況を報告されているようですが、私は正直なところ背筋が寒くなる思いをしています。

 外部編集者の方はもちろん著者のことを想って善意でこのような申し出をしたのでしょう。また、それに応じた著者の方も、親切な行為として受け止めて喜んでいるのだと思います。

 しかし、現時点では制作途中のDTPデータも、印刷会社の版下も新風舎の資産といえます。いくら善意の行為であっても、そのようなデータを利用して勝手に出版してしまう行為は法に抵触すると思われ、大変懸念されることです。

 外部編集者の方や著者の方はこのことに気づいていないのでしょうか? 外部編集者や著者にも責任のあることです。テレビの取材予定まで入っているとのことですが、法に抵触するような行為をさも被害者の救済行為であるかのようにマスコミで喧伝してしまうことになればあまりにも不適切であり、とても気がかりです。

 こともあろうに、編集者と著者の橋渡しをしているのは長年出版業界にいた方です。その方は、新風舎の本の所有権は著者にあると主張し、本のデータの所有権も外部編集者や印刷会社にあると主張されているようですが、このような主張は私のような業界関係者ではなくても理解に苦しみます。

 ネットで新風舎の著者の方たちを集め、既刊の本も印刷会社にあるデータを利用して再度印刷・流通することを考えているようですが、現時点では複製権や頒布権は新風舎にあり、著者や印刷会社にはありません。また、新たに流通させる場合は、流通や保管などの諸経費は著者に負担してもらうことになると思われます。これでは新風舎の被害者を利用した事業と捉えられても仕方ありません。

 本の所有権については「目を覚ましてほしい所有権問題」に書いたとおりですし、DTPデータや版下も印刷会社は預かって所持しているだけであり、出版社に所有権があると解釈すべきだと思います。しかも、現在は外部編集者も印刷会社も債権者であり、その方たちの所持しているデータなどは保全管理人の管理下にある資産です。

 被害者の救済であり、制作はボランティアだといっていますが、そうやって安く制作したり流通させることが本当に著者のためなのでしょうか? 私はとても疑問に思います。

 いろいろな出版社がアマチュアの方の本の出版を手がけています。昨日の記事「良心的な出版社とは?」にも書いたように、著者の方たちはどんな出版社が良心的であるのか、何のために出版をするのか、販売することだけが出版の目的なのか、じっくりと考えて判断されることを願っています。

2008年2月13日 (水)

良心的な出版社とは?

 私は、文芸社と契約を交わしてしまったという体験から共同出版や自費出版のことに関ることになってしまいましたが、そんな中で「アマチュアの著者の方たちは何のために出版するのだろう・・・」「何を基準に出版社を選ぶのだろう?」と考えさせられることがあります。

 出版業界はすっかりおかしくなってしまったと感じる昨今ですが、高い理念をもって著者の方とともに納得できる本づくりを手がけ、地道に頑張っている編集者や出版社の方たちもいるはずです。しかし、そのような貪欲さのない良心的な出版社は影が薄いように思えるのです。

 ところがどうでしょう? ほとんど売れないことを承知で流通を謳い、大きな広告や派手なホームページで著者を集め、いい加減な本づくりをしている共同出版社・自費出版社があります。大手の商業出版社はあたかも消耗品であるかのように短命の本を大量に出版しています。

 商業出版でも自費出版でも、目立っている出版社はどうにも魅力が感じられません。そこには、著者とともに少しでも良い本をつくり長く売っていこうという姿勢が感じられないのです。

 アマチュアの著者の本の流通を謳うのであれば、販売するに値する原稿かを見極め、細かい内容まで検討されなければなりません。発行部数もジャンルや内容によって違ってくるはずです。著者に出版費用の全額あるいは一部を負担してもらうような出版では、とりわけ著者と編集者が信頼しあって目的に合った本を作り上げ、長く売り続ける姿勢が何よりも大切なのではないでしょうか。内容によっては販売を勧めない場合もあるでしょう。

 日本には零細出版社がたくさんあります。中には1人で何から何までやっている出版社もあります。商業出版社でも自費出版社でも。そんな小さな出版社でも理念をもった編集者なら、一冊の本のために時間をかけて著者と打合せを重ね、丁寧な編集作業をしていくことでしょう。そのような零細出版社の場合、おそらく年に数点の本しか出版できないはずです。

 文芸社から本を出されたある方から、こんなお話しを聞いたことがあります。その方は、文芸社の校閲が杜撰でとてもがっかりしたそうですが、別の原稿をある小さな出版社に持ち込んで相談したところ、社長さんまでがきちんと原稿を読み、編集者ともども直接会って細かい点まで相談にのってくれたそうです。

 そして、文芸社とは比べ物にならないほどの安価な見積を示され、その内訳や根拠、見通しや会社の負うリスク、著者のリスクなどを説明してくれたそうです。その出版社とはさまざまな角度から議論ができたといいます。

 私はその話を聞いて、とてもほっとした気持ちになりました。そこには、著者と出版社のこころの通う交流と出版社の誇りが感じられるからです。その出版社の社長さんは、きっと高い理念を持った出版人なのでしょう。

 プロの編集者が本当に良い本を仕上げようと思ったなら、商業出版であれ自費出版であれ、一冊の本の編集や校正に二ヶ月ぐらいはかけるのではないでしょうか。私は文芸社との契約を解除した父の遺稿集を自分で編集し、知人にDTP編集を依頼して自費出版しましたが、編集作業はなかなか大変で何ヶ月もかかってしまいました。

 ですから、編集や校閲を謳いながら一ヶ月に何冊もの本を出版している零細出版社があったとしたら、どんな編集をしているのか疑問に感じます。たとえそれが著者を騙すようなことをしていない会社であっても、取次ぎを通した委託販売をしている会社であっても契約する気にはなれません。それに、いつ廃業してもいいなどと考えている出版社があるなら、著者の立場にたって長く売り続けるということなど考えていないのでしょうね。

 また、費用が安ければいいというものでもありません。前述したように丁寧な編集をして装丁などにも気を配ったなら、それなりの費用がかかるのは当然なのです。

 著者にとって大切な本であるからこそ、造本や紙質も大切にしたいものです。自分の例ばかり持ち出して恐縮なのですが、文芸社と解約して自費出版した父の遺稿集は、紙質も良く大変しっかりした造りの本に仕上げていただき、とても満足しています。

 もし利益ばかりを追求する会社や安さばかりを売り物にする会社から出していたのであれば、質的に雲泥の差のある本になったでしょう。でき上がったずっしり重い本を手にして、そのことを実感しました。

 印刷技術が発達して安価な印刷も可能になりましたが、費用が安ければそれだけ質が劣ると考えるべきです。ソフト面(編集やデザイン)だけではなくハード面(印刷や造本)の質も、著者の想いを込めた本であればあるほど大切にしたいものです。

 もし、私が自費を投じて出版をするなら、どんな本でも流通させる出版社、出版点数を誇るような出版社、安さだけを売りにする出版社、機械的に流通させるだけの出版社には何の魅力も感じません。いつ廃業してもよいなどという出版社は論外。

 これから出版を考えている方、あるいは共同出版で本を出された方は、どんな出版社が本当に著者のことを考えていて良心的であるのか、今いちど考えていただきたいと思います。

2008年2月12日 (火)

生物多様性に富むえりもの自然

 2月8日は「えりもの森裁判」の口頭弁論がありました。

 この日、裁判所のいつもの法廷に入って原告席に座った途端、目に飛び込んできたものがあります。それは、原告席と被告席の上部の壁に取り付けられた大型モニターです。原告席や被告席、裁判官などの席にもそれぞれモニターが取り付けられています。

 前回の裁判のときはなかったので最近設置されたようですが、どうやらこれから導入が予定されている裁判員制度に向けて、裁判員に映像を見てもらえる設備を準備しているようなのです。

 裁判員制度についてはいろいろな疑問が出されていますが、裁判所はこんなふうに設備投資をして着々と準備しているんですね。

 で、そのモニターを使って(もしかしたら初めての利用?)、市川弁護士が意見陳述をしました。中身は現場一帯の生物多様性に富んだ自然についてです。

 クマゲラやナキウサギ、絶滅危惧種のコウモリ類、エゾオオサクラソウなどの希少植物について、原告らの現地調査の映像を紹介しました。

 クマゲラはあちこちで食痕を確認していますが、皆伐地の近くで食痕のある木を伐採木としてナンバーテープをつけている例もありました。収穫調査を行うときに、クマゲラの採餌木の調査も行っていないということでしょう。

 また、原告らはナキウサギの貯食や雪の上に残された足跡も確認しています。近くで行った原告らのコウモリ調査では多くの絶滅危惧種を確認しました。

 植物では、皆伐地にエゾオオサクラソウやクリンソウが多数生育していることが確認されています。

 さらに、被告である北海道は、この地域一帯が希少な動植物の生息地であることを知っていたことを説明しました。というのは、この地域は緑資源公団(後の緑資源機構)によって大規模林道(緑資源幹線林道)のための環境調査が行われていたからです。

 その報告書の調査は不十分な内容なのですが、皆伐現場の一帯でシマフクロウやクマタカ、ナキウサギなどの生息が確認されていたことが記されています。それらの報告書は北海道に提出されており、道はこの地域の希少動植物について把握していたといえるのです。

 皆伐によって豊かな森林生態系が破壊され、そこに生息していた希少な動植物に影響を与えたといえます。

 さて、今までは事実を主張してきましたが、次回の口頭弁論では法的な観点からこの伐採の違法性を主張する予定です。

 次回の期日は4月18日(金)10時から、札幌地方裁判所8階3号法廷です。

2008年2月11日 (月)

非常識が常識の自衛隊

 北海道の航空自衛隊に勤務する女性自衛官が、深夜に上司から呼び出されて暴行され、強姦されそうになったとして国家賠償請求訴訟を起こしています。2月7日は、5回目の口頭弁論とその報告会があり、以前からこの裁判に関心を持っていた私は、それらに参加しました。

 この裁判によって、外部の者にはほとんどわからない自衛隊の実態が明らかになってきているのですが、それが何ともまあ・・・すごいのです。

 夜勤中に山にクワガタやカブトムシを採りにいって、インターネットでそれを売って稼ぐ人がいるとか、夜勤中の私的な行動や飲酒は日常茶飯事とか。

 さらに、提訴した原告女性に対する執拗な嫌がらせと退職勧告。原告の意見陳述ではそんな自衛隊の内情が赤裸々に語られました。

 このまま憲法が変えられて自衛隊が軍隊となったならどうなるのか? 軍隊内部の事件は軍事法廷で裁かれることになり、一般の人には公開されなくなるのです。軍隊の中で今回のような事件があっても一般市民は知ることはできません。

 この裁判では、「女性自衛官の人権裁判を支援する会」が頑張っています。東京までこの問題を訴えに行く支援する会の女性パワーには圧倒されました。

 多くの人に注目してもらいたい裁判です。JANJANにも記事を投稿したので、お読みいただけたらと思います。

女性自衛官人権訴訟で明らかになった自衛隊の実態 

 女性自衛官の人権裁判を支援する会では、署名も集めています。こちらもご支援よろしくお願いします。

2008年2月10日 (日)

驚いた道庁の派手な広告

Dotyoskoukoku  7日から9日まで、裁判や集会に参加するために札幌に行ってきました。道庁にも用事があり、そこでこんな写真を撮ってきました。このど派手な広告は道庁にあるエレベーターの扉なんです。

 財政難の北海道が、道庁のロビーにコーヒーショップを入れてテナント料を取るということはニュースなどで知っていましたが、実際に道庁に足を踏み入れて「なに、これ?」とびっくりしたのがこのエレベーターの扉。

 並んでいるエレベーターの扉すべてがカラフルな全面広告になっているのです。中にはトヨタのハイブリッドカーの広告まで・・・。

 道庁という公共の場にあまりにも不釣合いな企業広告。こんな広告に違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。

 少しでも収入を増やしたいというのはわからなくもありませんが、こんなみっともないことをやる以前に、もっと浪費をなくす努力をすべきでしょうに!

 何しろ北海道には無駄な公共事業が山のようにあり、北海道もそれらにかなりの予算を投じているのですから。

 とはいうものの、もちろん建設現場で働く人たちの仕事がなくなってもいいといっているわけではありません。不要な公共事業を止める一方で、労働者に仕事を保障したり職業訓練の場を提供することこそ、国や地方自治体の仕事ではないでしょうか。

 来年の洞爺湖でのサミットを前に、北海道は「環境」を前面に押し出してアピールしていますが、それにしては道庁の暖房は温度設定が高めのようです。ワイシャツ一枚の職員の姿も目に付き、ウォームビズはどこへやら・・・。

2008年2月 7日 (木)

消えゆくエゾマツの森

 最近、元帯広営林署長の書いたとても興味深いエッセイを読みました。大雪山国立公園の然別湖一帯の森林についての随想です。

 北海道の針葉樹といえは、トドマツ・エゾマツ・アカエゾマツです。かつて然別湖一帯は老齢のエゾマツがうっそうと生い茂り、生木から枯立木までサルオガセがびっしりとついていたそうです。

 大雪山一帯の森林は、昭和29年の洞爺丸台風で大きな被害を受けました。大量の風倒木が発生して森林の様子が一変してしまったそうです。その風倒木処理を契機に、山奥まで伐採が入るようになりました。

 然別湖一帯のエゾマツ林も例外ではありませんでした。洞爺丸台風の被害木は北日本製紙(現在の王子製紙)に販売されて運び出され、さらに地元にチップ工場ができると、チップの原料とするために倒木だけではなく枯れた立木までことごとく森から運びだしてしまったそうです。

 その後の森林がどうなったかといえば、暗く茂っていたエゾマツがすっかり衰退し、トドマツの優占する森林へ様変わりしてしまったというのです。

 トドマツやアカエゾマツは地面に落ちた種子が発芽して生長できるのですが、エゾマツの場合は種子が地面に直に落ちると菌類などに侵されてうまく育つことができません。エゾマツの苗が育つには倒木が必要なのです。母樹となる老齢木を伐り、苗床となる倒木を運び出したために、エゾマツの苗は育つことができなくなったのです。

 洞爺丸台風から半世紀を経て木々も生長し成熟した森林になりつつありますが、サルオガセに覆われた湿度の高いエゾマツの森から、トドマツの優占する乾いた森へと林相が大きく変わってしまったのです。かつての森を知る人にとっては、たとえ木々が茂ってきたといっても決して「昔の森」に戻ったとはいえないのです。

 もちろん、このようなことは然別湖一帯に限ったことではなく、大雪山国立公園一帯の森林も同じです。

 その昔、造材に従事していた人々は、夏にはおびただしいカ・ヌカカ・ブユなどの襲来に悩まされたそうですが、今はそのような吸血性の昆虫も激減しました。森林がすっかり乾燥化してしまったのです。

 林相の変化とサルオガセの激減は、とりもなおさず森林の樹種構成が変わり乾燥化して生態系が大きく変わってしまったことを意味します。

 そのような変化は、湿った森林を好むさまざまな生物を激減させました。クモでいうならキタグニオニグモやキンカタハリオニグモ、ヤマキレアミグモの減少です。ほかにも多くの昆虫や植物が姿を消していったことでしょう。

 また、好んでエゾマツで採餌するといわれるミユビゲラにとっても大きな影響を与えたことでしょう。ミユビゲラはすでに「幻の鳥」となってしまいました。

 かつての原生林を取り戻すには、倒木を残さなければならないのです。風倒木処理の名目で皆伐するなどというのは論外です。

2008年2月 5日 (火)

裁判どうなってるの?

 「新風舎商法を考える会」のメンバーの方たちが起こした裁判、7月と11月に提訴した時は記者会見を開いてマスコミに大々的にアピールしてたけど、会のHP見ても全く状況が分からない。口頭弁論の期日も不明・・・。いったいどうなっちゃっているんでしょうか?

 マスコミは注目されている裁判であっても、提訴のときや証人尋問、あるいは判決のときにしか関心を示さないものです。そういう特別なときには傍聴するにも傍聴券が必要だったりしますよね。

 でも、通常の口頭弁論のときこそ原告や弁護士が意見陳述をしたりして、具体的な主張が示されるのです。ただし、意見陳述をしたい場合はその旨を裁判所に事前に伝えておかなければなりません。そうしなければ、口頭弁論なんてあっという間に終わりです。出された準備書面に関していくつかのやり取りをして次回の期日を決めるくらい。はるばる傍聴にきても、ものの数分で終ったりするのです。そして、傍聴者にはどんな書面が出されて、どんなやり取りをしたのかはチンプンカンプン!

 そこで、多くの人に関心を持ってもらうために、弁護士や原告、支援者は工夫をします。弁護士はなるべく意見陳述の時間をとってもらい傍聴者に来てもらう努力をし、裁判が終ってから傍聴者に内容を説明したり意見交換をしたりします。

 でも、それだけでは傍聴に来た人にしか裁判の内容がわかりませんね。そこで、HPなどを利用して裁判の内容や原告の主張を紹介するのです。

 また、支援者たちが支援組織をつくって会員にお知らせすることもあります。「ナキウサギ裁判」では、支援組織がニュースを発行してずいぶん頑張りました。その頃はまだインターネットもそれほど普及していなかったので、ニュースを郵送していたのです。

 でも今はインターネットを活用する時代ですから、弁護士や支援組織などがネットで裁判の内容をお知らせしていくことが広く行われています。私も「えりもの森裁判」のことをこのブログでお知らせしているのですから、誰だってできることです。

 だからこそ不思議なんですよね。「新風舎商法を考える会」はHPも持っているのに、初めの提訴から7ヶ月近くもたった今でも、裁判について何の情報も出さないことが。

 非公開の弁論準備はともかくとして、口頭弁論は公開が原則です。個人情報などの扱いに気をつければ、準備書面だって公開できるはずです。それなのに、いまだに新風舎の批判をしているだけで裁判情報は何一つ出さない・・・。

 いったい何のための提訴だったのでしょうか? それとも破産したら裁判はどうでもいいとか?

2008年2月 3日 (日)

地球温暖化と永久凍土の融解

前回の記事 大雪山の永久凍土

 地球温暖化でもっとも気温の上昇の激しいところはシベリアやアラスカです。ですから、このまま温暖化が加速すれば、これらの永久凍土は消えていくことになります。でも、直接的な気温上昇だけで永久凍土が融解するわけではありません。

 北極海の氷がどんどん融けていることは、マスコミなどでもよく報道されていますね。温暖化で北極海の海氷が縮小すると、海面からの水分の蒸散が活発化します。蒸散した水蒸気は雪となって降り注ぐので、積雪が増えることになるのです。永久凍土帯に雪が厚く積もるとどうなるでしょうか?

 雪が冷蔵庫の役目をして凍土が保存されると思ったら大間違いです。深い積雪は断熱材となって冷たい外気を遮断してしまうので、冬でも地面が冷やされなくなります。その結果、凍土が融けてしまうのです。

 また、温暖化で気温が上昇すると、夏の気温上昇と乾燥によって森林火災が頻発するようになります。火災になると乾燥した泥炭が燃えるのです。地表を覆っていたミズゴケやハナゴケ、コケモモ、ガンコウラン、イソツツジなどの植物が焼失してしまうと、断熱効果がなくなって凍土を融かします。また焼けた地面は太陽の熱を吸収して、凍土の融解を促進させるのです。火災によって、凍土がなくなってしまったところもあるといわれています。

 さらに、永久凍土帯で木を伐ると、土壌の水分が蒸散されなくなって水溜りができます。すると、永久凍土の中に封じ込められていた嫌気性バクテリアが活動をはじめて、大量のメタンガスを発生させるのです。

 驚くべきことに、3万2000年前の氷からも生きたバクテリアが発見されているそうです。火災や伐採によって凍土が融けると、どんどんメタンガスが放出されてさらに温暖化が加速されることになります。

 このように、温暖化による気温上昇は火災や積雪を増加させて凍土を溶かし、さらに温室効果ガスの放出を加速させることになるのです。これを正のフィードバックシステムといいます。

 さてさて、このような状況を考えるなら、私たちは本気で対策を講じなければなりません。温暖化対策のためにどんな研究に力を注ぐべきか、何をすべきか? 各国が利権にとらわれずに真剣に考え行動することが求められます。

2008年2月 2日 (土)

裁判を傍聴しませんか?

 私はかつて東京にいたころ、ある刑事事件の裁判の傍聴に何回か行ったことがあります。この傍聴は私的なものではなく、仕事だったのですが・・・。その頃の裁判所はメモも禁止されていて、その閉鎖性に驚いたものです。

 この裁判の関係では井田恵子弁護士(故人)にいろいろお世話になったのですが、その後この井田弁護士が日弁連の事務総長になられたことを知ったときには「そんな偉い先生だったんだ!」とびっくり。猫好きでとても気さくな弁護士さんでしたので、訃報を聞いたときには信じられない思いでした。

 その後は裁判とは縁がなかったのですが、大雪山国立公園に計画された「士幌高原道路」の建設をめぐって提訴された「ナキウサギ裁判」では、「支援する会」に入って応援していました。この裁判では原告にはなっていなかったのですが、証人尋問のときには札幌まで傍聴に行きました。

 そして、いま関っているのが「えりもの森裁判」です。北海道日高地方の「えりも」の道有林が皆伐されたことで、住民3人が日高支庁長を相手に闘っています。ひょんなことから、私も3人の原告のうちの1人に・・・。 

 近年では、法廷で映像を見せることができるようになりました。裁判所も変わったものです。そこで「えりもの森裁判」の第一回口頭弁論のときには、私がパワーポイントを使って意見陳述をすることになってしまったのです。

 その後も、原告はこのパワーポイントによる意見陳述を活用しています。「支障になっていない支障木」などは口で説明するのは難しいのですが、映像にして視覚に訴えれば一目瞭然。

 前回の口頭弁論では、時間が迫ってきているのにパソコンの操作がうまくいかず、映像がすぐに映し出せなくて原告席でハラハラしていたのですが、何とか無事に・・・。

 次回の口頭弁論でも、パワーポイントをつかって自然についての意見陳述をする予定です。関心のある方は、ぜひ傍聴にいらしてください。

期日:2月8日(金)13時15分から

場所:札幌地方裁判所8階3号法廷

以下のNJPのサイトにも紹介されています

http://www.news-pj.net/npj/2007/erimonomori-20071113.html

2008年2月 1日 (金)

大雪山の永久凍土

前回の記事 北海道の永久凍土

 本州の山岳地帯は急峻なところが多く、北アルプスの稜線などはお花畑などもそれほど広大ではありませんね。それに対して、大雪山は山頂部に平らな部分が広がっています。赤岳から白雲岳一帯、高根が原などでは、息をのむような雄大な光景が見られます。大雪山に魅了されて通っている方もいますが、ほかの山にはない広大な光景に惹きつけられるのでしょう。

 この平らな部分には、永久凍土地帯に見られる独特の地形があります。その中でも有名なのは構造土でしょう。砂礫地に多角形の模様ができるものです。

 冬に地面が凍結すると、収縮して多角形の割れ目ができます。干上がった田んぼに多角形の割れ目ができているのを見たことがあると思いますが、原理はあれと同じです。永久凍土の上の活動層では、地面が凍結と融解を繰り返すので、石などが動くのです。まさに「活動」しているわけですね。そして、長い年月をかけて割れ目に石が集まってきます。  北極圏にいくともっと大規模な多角形度が見られるそうです。割れ目には氷が詰まっているのでアイスウェッジと呼ばれています。

 ほかにも、永久凍土のある泥炭地ではパルサと呼ばれる独特の地形が見られるのですが、大雪山でもパルサの存在が知られています。

 北極圏よりはるか南の北海道で、北極圏と同じような地形が見られるなんて、すごいですよね。でもどうしてポツリと離れて大雪山に永久凍土があるのでしょうか?

 それには風が大きく関っているようです。私は冬山には登らないので体験したことはないのですが、大雪山は冬になると強風が吹き荒れているそうです。ですから、山頂部の平らなところでは雪が吹き飛ばされてしまい、地表は寒気に直にさらされて、地下深くまで凍結することになります。

 高山帯には植物がほとんど生育していない砂礫地がありますが、冬に雪が吹き飛ばされて非常に厳しい寒さにさらされている証拠です。

 そして風下の斜面には深く雪が溜り、夏には雪渓となります。雪渓の雪が融けたところから高山植物が可憐な花を開いていくのです。

 アイヌの人々は、大雪山の高山帯をカムイミンタラと呼びました。「神々の遊ぶ庭」という意味です。短い夏には色とりどりの高山植物が次々と咲き乱れ、秋には目の覚めるような紅葉に彩られる大雪山。ここにたどり着いたアイヌの人々は、そのあまりに美しい別天地の光景に、神様たちが優雅に集う姿を思い浮かべたのでしょうか。

« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

フォト

twitter

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ