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2007年11月

2007年11月28日 (水)

マスコミの弊害

 昨日のNHKの「クローズアップ現代」には、なんともがっかりしました。

 確かに、退職後の夢を狙っている悪質な出版社がたくさんあり、注意喚起を促したことは意味があります。しかし、約束どおり書店に並ばなかったことを問題にするのであれば、同時に「棚買い」のことや、アマチュアの本がほとんど売れないことも問題にしなければならないでしょう。

 また、著者が費用を負担する出版を指して「自費出版」とひとからげにした表現をつかっていましたが、問題となっている出版形態(いわゆる共同出版・協力出版)は、従来から行われている著者の出版事業(制作や販売)を手助けする自費出版サービス業とはまったく異なる、出版社の事業の契約(商業出版と同様の契約形態)です。

 そうした違いを明らかにしなければ、本来の自費出版も警戒され、自費出版業界全体のイメージの低下につながります。

 商業出版では、本が書店に置かれるかどうかなど確約できるはずがありませんし、出版社主体の事業なのですから、契約書に書店陳列のことまで書く必要もありません。あたかも書店に並べて売れると勘違いさせるような説明や棚買い方式のこと、そして不透明な費用や賞ビジネス、ローンなどを問題にしなければならないはずです。

 今回の放送には、リタイアメント情報センターの自費出版部会が関っているようでしたが、自費出版業界の方たちが複数加わっているこの部会が、番組制作者に対してどのような問題提起をしたのか気にかかるところです。

 新聞や雑誌はこうした出版社の原稿募集広告を垂れ流しにし、被害者の増加に加担しています。そして、テレビは特定の一社の問題ばかりを報道することで、結果としてほかの出版社なら問題がないかのような印象を視聴者に与えています。

 いまや、このような出版形態は業界全体に広まり、多数の出版社が同様のことをやっているうえ、問題のある出版社とそうではない出版社の線引きも困難な状況です。

 マスコミが問題の本質を理解せず、報道姿勢が偏っていたり問題点の認識が甘ければ、被害者の減少にはつなげられないのです。限られた時間の中で、何が問題で何を伝えるべきかの選択や判断を誤ったなら、その影響は計り知れません。

 とりわけ、クローズアップ現代のようなメジャーな番組は、大きな影響を与えることになります。報道の仕方を一歩誤れば、弊害にもなりかねません。

2007年11月26日 (月)

森を壊すのはだれ?

 住民訴訟になっている「えりもの森」の皆伐、刑事告発された上ノ国町のブナ林の伐採、屈斜路湖畔の違法伐採、台風の風倒木処理名目の皆伐、そして、大規模林道(緑資源幹線林道)の建設による森林の破壊・・・。北海道の天然林は、いまや虫食い状態。手付かずの天然林はほとんど残されていません。

 こんな状況を危惧した人たちが、森林を守る活動をしています。そして、多くの人に北海道の森林の実態を知ってもらい、どうしたらよいかを考え行動するために講演会を企画しました。

 今回の講演者は、ジャーナリストの大谷昭宏さんと、世界的植物学者の河野昭一さん。「大谷さんが森林問題?」と思われる方もいるかもしれませんね。さて、どんなお話しが聞かれるでしょうか?

 河野昭一さんからは、植物学者としての専門的な見地から、危機的状態にある日本の森林の現状と展望についてのお話しが聞けると思います。

 また、北海道の森林問題に精力的に取り組んでいる市川守弘弁護士と、寺島一男さんの報告もあります。

 お二人の講師の先生方には、超多忙の中を北海道まで来ていただきます。札幌近郊にお住まいの方、ぜひお越しください。

***  ***  ***  ***  ***

シンポジウム 森を壊すのはだれ?

広大な面積の北海道の森もすでに太い木はまばらです。苔むした切り株の大きさから、かつての鬱蒼とした森の姿を偲ぶほかありません。このまま「材」として木を伐り続けると、北海道から天然林は消えてしまいます。蝕まれている森林の未来を一緒に考えてみませんか。

講演 

「み・ん・なの命輝くために」 大谷昭宏氏 ジャーナリスト

「日本の森林の現状と将来像を展望する」 河野昭一氏 京都大学名誉教授、IUCN生態系管理委員会東アジア担当副委員長

報告

「緊急! 今も壊されている森」 寺島一男氏 大雪と石狩の自然を守る会代表

「どうする? こうする!」 市川守弘氏 弁護士、ザ・フォレストレインジャーズ代表

日時 : 12月1日(土)午後6:30開演(6:10開場)

場所 : エルプラザ3階ホール(さっぽろ駅北口前)

参加 : 資料代300円 申し込み不要

主催・連絡先/北海道自然保護連合&ザ・フォレストレンジャーズ(市川守弘法律事務所内)Tel 011-281-3343 後援/日本の天然林を救う全国連絡会議・日本環境法律家連盟・自然の権利基金・ナキウサギふぁんくらぶ・大規模林道問題北海道ネットワーク・北海道自然保護協会・大雪と石狩の自然を守る会・十勝自然保護協会・北海道の森と川を語る買い・自然史研究ネットワーク2000みなみ北海道

2007年11月24日 (土)

十勝からラリーが撤退か

 毎日新聞社が十勝地方に国際ラリーを誘致してから7年間、十勝地方の林道はラリーで痛めつけられ、そこに棲む野生生物はラリーカーに脅かされてきました。

 その世界ラリー選手権(WRC)も、今年で十勝から撤退する可能性が強くなってきました。

 北海道新聞によると、「ラリージャパン」(WRC)の大会組織委員会は、22日に「国際ラリー支援実行委員会」に対して、来年の十勝での開催は厳しい状況にあるとの認識を示したそうです。なにやら収支がかなり厳しい状況のようです。

 それに、国際自動車連盟(FIA)は、宿泊施設の不足や航空便の少なさなどの問題点を指摘したとのこと。海外から来る選手のラリーカーは、飛行機で運ばれるのです。ラリーカーは目が飛び出るような価格だといいますし、チームを組まなくてはなりません。ラリーというのは、すごくお金がかかる競技なんですね。

 来年は、道央圏に移す方向で検討しているそうですが、日本での開催にはいろいろな点で無理があるとしか思えません。

 ラリーコースにできる林道というのは、通り抜けができたり、周回できなければならないのです。それに、日本の森林にはさまざまな希少動植物が生息しています。林道の大半が急峻な山地にある日本は、ラリーコースとするにはふさわしくありません。

 ラリーは、大量の二酸化炭素を排出し、環境に悪影響を与えるのですから、この際、環境省や北海道が毅然とした態度で締め出してほしいものです。自然保護団体は主催者や関係省庁、北海道に環境問題について文書を送付しましたが、環境省と主催者だけは回答をしていません。

 そうそう、今年のラリーでは、家庭の廃油を集めて「環境対策」をアピールしていました。でも、そういう問題じゃないでしょう!

2007年11月22日 (木)

提訴第二弾と軌道修正の欺瞞

 「新風舎商法を考える会」の被害者二人が、21日に新風舎に対して2回目の提訴をしたとのこと。今回の争点は、増刷の約束の不履行と書店への陳列・営業に関する虚偽説明のようです。

 著者に印税を払う契約であれば、それは新風舎の出版事業の契約のはずです。それならば、新風舎が売れない本の在庫を断裁処分するのは当然です。新風舎は「在庫がなくなれば増刷する」「絶版にしない」と説明していたようですが、本当に売れ筋の本であれば在庫がなくなる前に増刷をかけますし、初版が500部などということはまずありません。また、何年もかけなければ初版を完売できないような本は、よほど注文がこないかぎり増刷などしないでしょう。

 在庫がなくなり重版の予定がない状態は「品切重版未定」であり、絶版ではありません。著者は新風舎が主体の出版事業の契約書に署名捺印しているのですから、売れない在庫を断裁されても仕方ないといえます。

 新風舎の不適切な説明と著者の勘違いが重なったというところでしょうか。契約部数を印刷していなかったのは、確かに問題ですが。

 そもそも詩集というのは売れないジャンルなのです。はじめから売れないことを承知のうえで、販売をうたい文句にして勧誘し、不透明な費用を請求することが問題なのです。もちろん、そうしたやり方は新風舎に限ったことではないのですが…。

 今回の提訴も相変わらず共同出版の本質的問題点を問うものにはなっておらず、「アホらしい」というのが率直な感想です。相次いで提訴してマスコミ発表をし、倒産を煽っているかのように感じられます。「新風舎商法を考える会」のサイトには「断末魔の様相」などと書かれていますが、これは同会が目的としている「業界の健全化」を求める姿勢とは程遠いのではないでしょうか。

 ところで、21日の東京新聞には、「シニアに人気の自費出版 トラブル急増」という記事が掲載されました。その記事にこんなことが書かれています。

 「出版社のなかには、銀行の信託口座に依頼者の資金を預け、出版後に出版費用を受け取るなどの依頼者を保護する制度を設けたところもあるが、『業界団体もなく、問題が起こるたびに軌道修正を試みている』(伊藤理事長)」(筆者注:伊藤理事長とは、NPO法人「自費出版ライブラリー」の伊藤晋理事長)

 これは文芸社の著作者保護制度のことを指しているのだと思いますが、ここには大きな落とし穴があります。文芸社の著作者保護制度では、著者から預かった出版費用を「出版委託金」としているのです。でも、文芸社の「流通出版(旧協力出版)」は出版委託契約ではありません。文芸社の出版事業に対し、著者が資金協力(出版費用の一部を負担)するというものです。

 ところがその協力金を「出版委託金」と表現することで、出版社の事業契約を委託契約だと錯誤させてしまうのです。文芸社は近年、協力出版という呼称をやめて自費出版というようになりましたが、それも同様に制作請負・販売委託契約だと錯誤させることになるのです。

 委託契約だと思わせることで、私の指摘している費用問題(水増し請求)を正当化しているといえます。こうした手法は新風舎となんら変わりません。

 「問題が起こるたびに軌道修正を試みている」とのことですが、どうみても「軌道修正」などという代物ではありません。私には、「騙しの巧妙化」としか思えないのです。そして「著作者保護制度」は、それを持たない新風舎を追い詰めることに一役買っているようです。

 さて、今回の原告の一人はこんなことを言っています。「新風舍は本を売って儲けている出版社ではなく、共同出版の制作費で儲けている。実は自費出版の会社である」(「新風舎商法を考える会」のホームページより)。

 そうです、このことこそ問題にしなければなりません。商業出版と同様の契約書を使用し、著者の協力金は出版費用の一部なのですから、本の売上金で儲けなければならないのに、実態は著者から利益を得ていると考えられるのです。もちろん新風舎だけの問題じゃありません!

 新聞や雑誌の原稿募集広告、書店の棚買いや売れ残り書籍の買い取り費用、「賞」の経費、無料出版に選ばれた人の出版費用、出版相談会の経費、会社の維持管理費…共同出版社のそういったもろもろの費用はどこから捻出されているのでしょうか?

2007年11月20日 (火)

携帯電話と使い捨て文化

 先月下旬のことです。3年ほど使っていた携帯電話の電池パックが、とうとう寿命になってしまいました。機種は古いものの本体は問題ないので、本当は電池パックだけ買い換えたいところでした。

 販売店に行くと、「電池パックだけで5000円しますから、機種や利用年数、ポイント利用によっては機種交換とあまり変わりませんよ」との説明。しかも、電池パックにはさまざまな種類があるので、確認して取り寄せになるとのこと。

 なにしろ僻地住まいの私にとって、何回も街に出て行くのはおっくうです。結局は一番安い機種に交換しました。

 でも、どう考えたって精密機器である電話機本体に比べて、電池パックの値段は高すぎます。原価はいったいいくらなのか? 電池パックの値段を高く設定することで、意図的に機種変更するように仕向けているとしか思えないのです。

 こうやって壊れてもいない携帯電話を次々と買い替えさせるというのは、消費者を馬鹿にしたやり方です。古い電話機はリサイクルするといって回収していますが、そういう問題ではないはず! 日本人は電話機まで使い捨てにするようになってしまった、というよりされているのです。

 携帯電話の生産現場では、派遣社員やアルバイトをつかって、低賃金で単純作業をさせていると聞きます。そして、次々と新しい機種をつくっては買い換えさせる・・・。これはまさに若者の労働力を使い捨てにしたうえで、電話機まで使い捨てにさせ、不必要な消費をさせるという企業の戦略です。

 そう思っていたところ、こんどは総務省から携帯電話本体の値下げを抑え、通話料を安くするようにとの見直しがかかったとのこと。携帯電話が普及し契約者の増加があまり見込めなくなったということなのか?

 方針転換をして電話機本体を高額にするのであれば、電池パックの値段は当然見直すべきですが、そのあたりはどうなのでしょうか? だいいち、電池パックの種類が多すぎるのも問題です。なぜ統一規格にしないのでしょうか。

 数年前にスペインに行った娘の話では、スペインの若者は、携帯電話はあくまでも電話として使うのが普通であり、日本人のように頻繁にメールなどしていないとのこと。彼らにとっては、次々と機種変更するような必要性はないのでしょうし、そもそも使い捨てにする文化ではないのでしょう。

 使えるものは大事に使う、無駄になるようなことは極力さける、それが循環型社会を目指す国の姿勢ですが、日本の使い捨て社会はそう簡単には変わらないでしょう。そうした社会の行き着く先に希望は見出せません。

2007年11月17日 (土)

イチイの実と野鳥

 イチイ(オンコ)は高さが10メートルから15メートルほどになる常緑樹で、9月から10月に枝先に点々と宝石のような赤い実をつけます。

 我が家の庭のイチイも10月ごろまでは赤い実をつけていましたが、早々と小鳥の餌となってしまいました。

 赤い実をつける樹は、野鳥や獣に種子を遠くに運んでもらうために、種子のまわりにおいしい果肉をつけるのです。赤い色は鳥や獣に見つけてもらうための目印です。ところが、イチイの実を食べにくる野鳥を見ていると、不思議なことに、種子の運搬にほとんど役立っていないようです。

 太くがっちりした嘴のシメはイチイの実が大好きなのですが、赤い果肉の中から種子だけを取り出し、砕いて食べてしまいます。おいしそうな果肉はもったいないことに捨ててしまいます。

 コガラやハシブトガラ、ヒガラなどのカラ類も、果肉はほとんど食べずに種子だけを取り出すと、どこかに運んで貯食したり、鋭い嘴でつついて食べたりているようです。種子を割って食べてしまうのでは、イチイにとっては迷惑でしかありませんね。

 スズメも食べにきますが、こちらは赤い果肉だけを食べて種子を捨ててしまいます。これでは種子が遠くに運ばれません。

 我が家のイチイの種はどうやらほとんど遠くに運ばれることがないようです。何のためにわざわざ赤い実をつけて小鳥を招いているのかわかりませんね。でも、実を丸呑みするヒヨドリやツグミが食べてくれたら、たぶん種子を遠くに運んでくれるでしょう。

 ところで、図鑑を見ると、イチイの種子は有毒と書かれていました。人間には有毒な種子も、シメやカラ類にはとっては毒ではないようです。

2007年11月15日 (木)

恐るべき裁判員制度

 裁判員制度については、なんだか胡散臭いと思っていました。国が今、本気で弱者の立場に立つことをやるとは思えません。検察の自白強要によってつくられた冤罪、国策捜査などが明らかになっていていますし、最近の刑事事件では被害者側の声ばかりが大きく報道され、極刑が増えているようです。それに、多くの日本人は、自分で物事を考え判断していくという姿勢に欠け、多数派の意見に流されてしまうのです。こんな状態の中に裁判員制度を持ち込んで、はたして公正な判断ができるのか・・・。

 そんなふうに懐疑的に思っていたところ、「創」の12月号の記事を読んで「うわっ~!」と思ってしました。その記事とは、10月13日に開かれた死刑廃止のシンポジウムの紹介記事です。そこで、安田好弘弁護士がこんなことをいっています。

 「裁判員制度が導入されると、年間3000件ほどの裁判で裁判員が導入されることになるでしょう。そのうち6~7割が死刑の規定のある犯罪です・・・」

 つまり、裁判員の多くは、「国家による殺人」である死刑の判断に関与することになるのです。責任重大です。さらに安田弁護士は次のように言っています。

 「私は、裁判員制度は21世紀の徴兵制だと言っているんです。裁判員制度では、出頭の通知がきたとしますね。赤紙とほとんど一緒ですが、出頭しなければ過料を課されます。次に「前科はありますか」などの質問書が送られてくる。答えに虚偽があれば刑罰になるわけです。裁判所で質問されれば黙秘の権利はなく、真実を答えなければならない。これに反すればやはり刑罰。それから裁判員として評決の際、評決を出さなければまた刑罰。秘密を漏らせば懲役にもなります。非常に厳しい義務、義務というより刑罰で駆り立てられる制度になっています。」

 さすがに、愕然としました。

 ある日突然、出頭通知を受け取っただけで、こんな責任の重いことを、刑罰でがんじがらめにして一方的に課されるのです! これがすんなり通るということは、同じような徴兵制だってそれほど抵抗なく通ってしまう可能性があります。恐るべし~!

 でも、このことをどれだけの人が理解しているのでしょうか? ほとんど理解していない、というより知らされていないのではないでしょうか? そして、こんなことを知ったら、多くの人が裁判員などやりたくないと思うのではないでしょうか?

 あらためて、日本のマスメディアが伝えるべきことを伝えていないと知って、腹がたってきました。

2007年11月14日 (水)

出版権の設定とは?

 私は、これまで商業出版の契約とは出版権(複製と頒布の権利)の設定契約で、自費出版は制作請負契約・販売委託契約だと説明してきました。しかし、自費出版でも出版社(出版サービス会社)に出版権を設定することがあります。では、出版権の設定とは何でしょうか?

 ミッキーマウスやキティちゃんなどのキャラクターを利用した商品を勝手につくって売ることはできませんが、それはキャラクターに著作権があるからです。それらのデザインを使用したければ、著作権者に著作権使用料を払わなければなりません。この契約は事業者の商品をつくることを前提とした財産権の取引契約であり、著作権者の商品をつくるサービスの契約ではありません。

 本を出版する場合も同様に、作家の著作物を勝手に印刷して販売することはできませんから、作家の持っている複製権と頒布権を出版社が使わせてもらうことになります。また、他社から同じ本を出版されないためにも一時的に出版権を独占するのです。それが商業出版における出版契約です。出版社は著作権使用料として著者に印税(一般的には定価の10パーセント程度)を支払います。

 出版社が本を出版するというのは、著者の本をつくって売ってくれるというサービスのように感じられるところがありますが、キャラクターの例と同様に、契約上は出版社の事業を前提とした財産権の取引契約であり、作家に対するサービスの契約ではないのです。

 ところで出版の世界には、自費出版があります。キャラクターの例でいえば、キャラクターの著作権者自身がそのキャラクターを使用した商品をつくって売るということです。この場合は、著作権者自身が事業者ですから、商品の制作を請負う事業者と著作権の取引契約をする必要はありません。

 商業出版が出版社の事業であるのに対し、自費出版は、著者の事業という位置づけになります。著者に諸権利のある本を請負契約でつくってもらう、つまり制作サービスの契約をするのが自費出版です。自費出版の場合は商業ベースに乗らないアマチュアの本が大半ですから、従来は制作するだけが普通でした。売りたい場合は著者が自分で販売するので、出版社に出版権を設定することにはなりません。

 しかし、自費出版であっても、書店で販売して多くの人に読んでもらいたいという本もあります。そこで、自費出版本を商業出版のように書店で販売するサービスを行う会社が出てきました。この場合は、著者が自費出版社に販売を委託することになります。

 本を書店に流通させるには、ふつう、取次という問屋を通すことになります。ただし、出版社が取次と取引するためには口座を持っているか、口座を持っている会社に依頼する必要があります。ですから、どこの自費出版社でも書店に流通してもらえるというわけではありません。

 さて、取次を通じて書店に本を流通させるためには、注文販売と委託販売の二つの方法があります。注文販売は、書店から注文によって本を取り寄せるシステムで、原則として書店の買い切りです。書店が注文しない限り、棚には並びません。

 一方、委託販売というのは新刊が発行されたときに取次から全国の書店に配本してもらうというシステムです。商業出版の大半はこの方法をとっています。この場合、何冊の本を配本するか、どこの書店に届けるかということは取次の判断になります。発行部数の少ない本は、ごく一部の書店にしか配本されません。また実際に棚に並べるかどうかも書店の判断であり、売れないと思うような本はすぐに返本されてしまいます。一日に200点以上もの本が出版されているのですから、内容面でも装丁でも、商業出版レベルの本づくりをしなければ取次も書店も相手にしてくれず、委託販売に向かないのです。

 そこで、委託販売を請負っている自費出版業者は、質の高い本づくりをする必要があります。大半がアマチュアの原稿ですから、編集で大きく手を加えることもありますし、装丁にもこだわります。そうやって自費出版社が大きく関った本を販売する場合は、著者が勝手に増刷したり、他の出版社から販売されないように、出版社に出版権を設定することがあります。

 しかし、これはあくまでも著者の事業を前提とした販売サービスの契約における出版権の設定ですから、出版社の事業を前提とした商業出版の出版権設定契約とは性質が異なります。

 事業者はあくまでも著者ですから、本の所有権は著者にあり、売上金は著者に支払われます。ただし、取次と書店のマージンのほかに、返品手数料や自費出版社のマージンなどを差し引かれることになりますから、著者に支払われる売上金は概ね定価の50パーセント以下と考えたほうがよいでしょう。

 ちなみに、新風舎や文芸社の場合は、大半の本で委託販売方式をとっていないようです。新風舎の場合は、大半は注文販売だけです。新風舎の裁判では、そのような書店流通の説明が不適切であったことを問題にしています。

 文芸社の場合は、書店の棚を借りて1ヶ月間陳列し、売れ残った本を文芸社が買い取るというシステムをとっていますから、本の内容や質を問わずに提携書店に並べることができます。ただし、ジャンル別の棚に置かれるわけではありません。書店にとっては、お客さんが買わなくても全部売れることになりますので、メリットがあるといえます。ただし、その買取費用は著者の負担金に含まれている可能性が高いといえます。

 「共同出版・自費出版の被害をなくす会」は新風舎と文芸社に公開質問書を送付し、新風舎からのみ回答がきています。この回答は、新風舎の共同出版(出版実現プログラム)は出版社の事業であるが、著者へのサービスでもあるという理解しがたい説明でした(新風舎の回答に対する見解参照)。

 新風舎の事業を前提とした出版権の設定契約であり、売上金も新風舎に入るのに、どうしてそれが著者へのサービスなのでしょうか? 「自費出版の販売サービス」というのであれば、制作請負・販売委託契約にしなければならないはずです。

 こうした自費出版と商業出版を混同させるやり方は、新風舎に限ったことではありません。共同出版・自費出版問題を考えるとき、この矛盾をきちんと理解することが重要です。

2007年11月13日 (火)

二風谷ダムと平取ダムの今後は?

Nibudanidamu  アイヌ民族の反対を押し切って、北海道開発局が日高の沙流川を堰き止めて建設した貯水量3150万㎥の二風谷ダム(日高管内平取町)は、完成後10年もたたないうちに1200万㎥という大量の土砂が堆積し、埋まりかけています。洪水対策の機能が失われつつあるなかでその問題点を再検討することなく、さらにその上流に573億円もの事業費を投じて、貯水量4580万㎥の平取ダムがつくられようとしています。北海道はそのうち約70億円も負担をするとされています。

 あちこちに造られたダムは、今、大量の堆砂に悩まされており、その除去作業を余儀なくされています。今後、堆砂の処理が果てしなく続けられることになるのです。ダムは本当に必要なのか? 増え続ける堆砂にどう対応していくのか? ダムは河川の生態系にどのような影響を与えるのか?  二風谷ダムと平取ダム予定地を見学し、その問題点と今後の取り組みについて話し合いをもちます。是非ご参加ください。 (写真は二風谷ダムです)

*  *  *

二風谷ダム現地見学会

日時    11月18日(日) 9時半~15時半頃

集合場所 平取町二風谷歴史館

内容    午前:二風谷ダムおよび平取ダム予定地見学  午後:話題提供と討論

参加費   500円(資料代ほか)

持ち物   昼食(近くにはコンビニはありません)、雨具、防寒具

2007年11月12日 (月)

赤木さんの言いたかったことは?(2)

 私は、詐欺的な共同出版の問題や自然保護運動に取り組んでいますが、そうしたNGO活動で常に感じることは、当事者以外の人の大半は無関心、あるいは関心を持っていても傍観者でしかないということです。たとえば共同出版社とトラブルになっても、自分のトラブルが解決してしまったらそれ以上は関わろうとしない人が大半です。当事者が黙っていたらだれも解決しようとはしません。

 だから、社会的な問題を解決するためには他者をあてにするのではなく、まず当事者たちが発言し行動しなければならない、状況を変えていくためにはじめに歯車を動かすのは当事者しかいないということを痛切に感じています。

 左派政党は無駄な公共事業を批判しその政策に環境保全を掲げていますが、だからといって自然保護活動に直接的な支援をしてくれるわけではありません。また悪質商法を取り上げて注意喚起をしているからといって、悪質商法をなくしてくれるなどということはまずありません。協力してくれることはあっても、主体者にはならないのです。そして現実に自然破壊を食い止めてきたのは、政治家でも政党でも知識人でもなく、現場で活動しているNGOといえます。

 左派に体制を変えろと要求し、何もしてくれないと不満をいってもはじまりません。だからといってもちろん自民党を支持するということにはなり得ません。自然破壊の大半は政府の推し進める公共事業であり、それは利権構造と直結しているのですから。こうした構図はワーキングプア問題であっても同じではないでしょうか。結局は消費型社会ではなく循環型社会・福祉社会に変えていかなければならないと思うのですが、その変化は誰かが与えてくれるものではなく、自分たちで築いていくものです。

 ワーキングプアの問題を解決するには、雇用の仕組みを変えていくとか、アルバイトやパートの賃金を正社員と同じように引き上げ社会保障を充実させていくことが必要でしょう。そのためには法改正をはじめとしてさまざまな視点からの取り組みが必要です。たとえばNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」は、生活に困窮したフリーターの若者に対して、さまざまな支援をしています。ほかにもいろいろな活動体があるでしょう。

 ところが、赤木さんは労働闘争は無意味、デモに参加すれば逮捕されるリスクがあるなどといって当事者の行動に消極的のようです。さらに生活保護もワークシェアリングも、ベーシックインカムもあっさりと否定してしまうのです。結局のところ、ああだこうだといっては、当事者が動くことも左派の提案する方策も無理だという。そしてひとつの解決方法として戦争を提案する。たとえそれが問題解決のひとつの方法論だとしても、その危険な飛躍に率直な疑問を感じます。

 社会的な活動をしているNPO・NGOなどは、自分たちに何ができるか知恵を絞りあって解決方法を探るのです。あれもダメ、これもダメと否定するのではなく、まず自分たちのできることを考え行動してみるのです。広報活動、署名集め、講演会、国や自治体への働きかけ、交渉・・・。

 もしフリーターの人たちを集結することができたなら、それは大きなうねりをつくることに繋がるのではないでしょうか。そのための試みなしに戦争に望みをつなぐことを強調してしまったら、せっかく重大な問題提起をしていながら反発を買うだけではないでしょうか。  たとえば、赤木さんはインターネットに精通しているようですから、サイバーアクションなどを行っていくという方法が考えられます。環境保護団体のグリーンピース・ジャパンでは、国に対してメールで意見を届けるサイバーアクションを行っています。メール署名を集めるという方法もあるでしょう。そうした活動をネットを通して広めていくことができます。問題意識をもっているがなかなか行動には移せないという人でも、このようなインターネットを通じた行動であれば手軽に協力してもらえるのではないでしょうか。

 しかし、そうはいっても赤木さんの発言には非常に大きな意味があります。赤木さんはご自身のサイト「深夜のシマネコ」で以前から自分の主張をしていました。だからこそそれを読んでいた「論座」の編集者が原稿を依頼し、それが注目を浴びたことから発展して単行本が発行されることになったのす。当事者によるこうした発信こそ、意味があります。「フリーターはなんの保障もなく、悲惨な状況に置かれている」「こんな若者を見殺しにするような国はおかしい」そう訴える続け、多くの人に知らしめたことこそ評価されなければならないでしょう。

 ただし、左派の注目を引くために丸山眞男をタイトルに掲げ、「希望は戦争」を方法論として使うことで、それは結果的に本質的な問題提起から目をそらせることに繋がってしまったように思います。左派が噛み付いて話題になることを見越して「希望は戦争」としたのであれば、その手法は感心できません。

 赤木さんは、平和を守ることは醜い社会を守ることだといいます。でも、社会というのはそのどこかに常に醜い部分を持っているものではではないでしょうか? その醜い部分に目をつむり放置してしまうことによって、醜さは次第に根を張り、不正がはびこり不平等が広がるのだと思います。赤木さんのいう「正しい平和」などというものがあるとは思えません。

 平和な社会を守るということは、醜い社会を守ることではなく、社会の構成員である一人ひとりが、自分のできるやり方でその醜さを摘み取る努力をしていくということではないでしょうか。他者に頼り期待するだけでは、なにも変わらないのだと思います。

2007年11月11日 (日)

赤木さんの言いたかったことは?(1)

 私はどちらかというと「あまのじゃく」なのかも知れませんが、話題になっているような本はあまり読みません。でも、例の「論座」に「『丸山眞男』をひっぱたきたい-31歳、フリーター。希望は、戦争。」を書いて反響を呼んだ、赤木智弘さんの「若者を見殺しにする国」(双風舎)は、さっそく購入しました。

 赤木さんの本を読みたいと思った理由のひとつは、我が娘も赤木さんとほとんど変わらない境遇に置かれているということ。もうひとつは、赤木さんの「希望は戦争」の真意はどの程度なのか、彼の意図するところは伝わったのか・・・ということ。

 実際に本を読んでみると、前段の第三章、つまりの「論座」に掲載された「丸山眞男をひっぱたきたい」を書くまでの説明は、こまかいところでは考え方の相違はあっても、さほど違和感も抵抗感もなく読み通すことができました。一度フリーターになってしまうと、その悪循環から抜け出すのは並大抵のことではないこと、ホームレスになった若者たちが生死にかかわるような状況にさらされていること、それが本人のせいではないこと、そしてそうしたフリーターたちに誰も手を差し伸べてくれないという主張はよく理解できます。彼は非常に鋭く社会を分析しています。

 で、やはり立ち止まってしまうのは、「丸山眞男をひっぱたきたい」の中で、その貧困を引き起こしている不平等な社会を変える手段として「希望は戦争」へと導いている部分です。前半で訴えてきた苦境の解決策のひとつとして、戦争による社会の流動化があるという主張です。

 この展開は、それまでの訴えや分析と比してあまりにも唐突で飛躍した感があるのです。「戦争は悲惨だ」「死にたくない」といいながら、貧困問題が平和的に解決できないなら「国民全員が苦しみつづける平等」を選択するということに。今の体制をまるごと壊してしまわなければ社会は変わらないという主張がわからないわけではありません。でも、ここで「希望は戦争」と言い切ってしまうべきだったのか。

 そして、最後に赤木さんは「『平和を守ろう』という人たちにとっての『九条をどうするのか』という議論が、平和を達成するための方法論でしかないように、私にとっての『希望は戦争』、すなわち戦争という希望も、『平和』との闘争のための道具にすぎません」と明かしています。さらに「『希望は戦争』で私は、戦争という道具によって『現状の平和』を打ち壊し、新しい秩序や平等な平和を達成できるかもしれないという希望を書きあらわしました。その希望は、現状の平和が、私にとっては平和でもなんでもないという現実があってこそ、生まれた希望です」と続けるのです。

 「希望は戦争」が、単に切実さを訴えるためのロジックであるなら、そのロジックは適切だったのかとの疑問が生まれます。

 赤木さんの書き方は、ロジックというより、本気で戦争を支持し扇動しているように読めてしまいます。だからこそ、彼に反論を寄せた左派の知識人たちは、ここに敏感に反応したのでしょう。それはある意味で当然のことのように思えます。彼が声高に「希望は戦争」といえばいうほど、定職につけないことを自分のせいにしてしまっている多くのフリーターが、「希望は戦争」を真に受けて、右傾化に拍車をかけることになるのではという懸念が先に立ってしまうのです。

 赤木さんも、平和的に問題を解決することを望んでいます。でも、左派の人たちは弱者の立場だといって「平等」と叫んでいても、具体的には何もしてくれないと批判します。さらに、貧しいものがいなくなるような再配分が、平和なままで守られる、その方法論を見つけだすのは学者先生の仕事だといいます。

 で、ちょっとがっくりしたのは、吉本隆明さんの意見についての彼の対応です。引用すると、

 「あのような不平・不満の持ち方で止まっていると、逆に、自分の待遇が良くなったらそれで終わりになって、人のことなどどうでもよくなる。自分が良くなったらそれでいいじゃねぇかって、必ずそうなるんですよ。その典型がスターリンです(笑い)。」という吉本氏の意見に対し、

 「まぁ、そうでしょうね。それは私も自覚しています。 雑誌『月間オルタ』(アジア太平洋資料センター)の二〇〇七年五月号の企画で、私が雨宮処凛と対談したときにも、そういう話になりました。たしかに、自分の立場がよくなったら、私はこれまでの左派的な考え方に戻ってしまうかもしれません」

 この発言は、正直といえば正直でしょう。でも、切羽詰った「自分のこと」であるからこそ窮状を訴え不平・不満をいうが、ひとたび自分の窮状が解決しそれが他人のこととなったら、また左派的な考えに戻るかもしれないというのであれば、左派や知識人の応答に対してまことしやかに反論したところで説得力はなく、この本の後半の主張はどれだけ意味があるのだろうかと考えてしまいます。(つづく)

2007年11月 9日 (金)

メディアがつくった血液サラサラ詐欺

 「血液がサラサラ・・・」っていう表現、近年よく聞くようになりました。でも、いつも不思議に思っていました。サラサラの血液とかドロドロの血液なんてあるのかって。

 一般的な感覚としては、サラサラという表現は粘性がない液体で、ドロドロというのは粘性のある液体です。確かに人によって血液の成分の割合は違うのでしょうけれど、それによって血液がサラサラだったり粘性を帯びてドロドロだったりなんてことがあるのでしょうか?

 先日、「ブレスレットをつけていると血液がサラサラになる・・・」と嘘をいって高額なブレスレットを売りつけたという詐欺が発覚しました。血液検査と称して採血した血を顕微鏡で見せ、その後ブレスレットを装着させてからまた血液を採り、ガラス板を押し付けて赤血球を拡散させて「サラサラになった」と信じ込ませたといいます。

 その新聞記事にコメントしていた医師は、「そもそも血液にどろどろやさらさらという定義はない」といっています。冷静に考えれば、ブレスレットをつけることで血液の性質が変わるなどということは考えられません。それなのにこんな詐欺が堂々と働けたのは、多くの人が「ドロドロの血液は健康によくない」と信じこまされていたからでしょう。

 そう信じ込ませたのは、テレビとか健康雑誌ではなかったでしょうか? これらのメディアが、しきりに「血液サラサラ」を喧伝し、ドロドロは大敵との思い込みを植えつけてきたのではないでしょうか? そして、それに対して「そんな定義はない」ときっぱりと否定する論説を載せたメディアはあったのでしょうか? 

 この詐欺の被害者は、まさにメディアの被害者でもあったのです。でも、メディアの被害者はこの詐欺にあった方たちだけではありません。今や大多数の市民がメディアの被害者といえるのでしょうね。

 メディアの不適切な報道によって、大勢の人が「思い込む」というのは、とても恐ろしいことです。それが「血液サラサラ・・・」などということだけではなく、もっと重要なことであったら・・・。

 たとえば「戦争をしなければ世の中がよくならない」と思い込んだらどうでしょうか?  しかし、それをメディアのせいだけにしてはいけないはずです。騙されない目をもつこと、そしてもし騙されたら黙っていないこと。そうしなければ平和も民主主義も守れないのではないでしょうか。

2007年11月 8日 (木)

「出版の価値」って何?

 共同出版社は、アマチュアの著者の作品を褒めちぎって「出版の価値がある」「世に問う価値がある」などといって契約を誘います。

 「出版の価値」という表現、とても曖昧で便利な言葉だと思いませんか? 決して「売れる可能性が高い」とは言わないで「価値がある」というのです。「出版の価値がある」って、どういう意味なのでしょうか?

 商業出版の場合は、「出版の価値」のある本といえば、まずは採算の採れる本、つまりは売れる本ということになるでしょう。出版社は営利企業ですし、しかも出版業界は非常に厳しい状況に置かれていますから、採算を無視することはできません。もっとも、採算が採れそうにないと思っても、企画することもあります。でもそのような本はごく一部でしょう。基本的には「出版の価値のある本」というのは「売れる可能性が高く、採算の採れる本」を指すのです。そして「出版の価値」があるかどうかは、編集者が決めることです。

 ところが編集者は、名前の知られていない一般の人が書いた原稿は、ほとんど相手にしません。それはほとんど「売れない」からです。たいていの原稿はボツです。それどころか、無名の素人といっただけで門前払いの出版社も多いでしょう。だから、商業出版の編集者は、アマチュアの著者に対して「出版の価値がある」などとはまず言わないでしょうね。たとえ費用の一部を著者が負担するという条件をつけたとしても、販売の困難な本に対して「出版の価値がある」などとは軽はずみに言わないでしょう。

 でも、商業出版社が売れないと判断してボツにする原稿でも、共同出版社は褒めあげたうえで「価値がある」といって販売を前提とした出版を勧めるのです。著者は褒め言葉と「出版の価値」という言葉によって、プロの編集者が認めてくれたのだと思い、「売れるかもしれない」と期待を抱いてしまうでしょう。

 それでは、共同出版ではなく、著者の注文によって本をつくる自費出版(請負契約)ではどうでしょうか? この場合、著者自身が出版したいと思って制作サービス会社に注文するのです。制作会社はお客さんである著者の注文を受ける立場であって、「価値がある」とか「価値がない」などと判断する立場ではありません。

 ただし、自費出版の本を販売すると謳った場合は、ちょっと違ってきます。アマチュアの書いた本はほとんど売れないのですが、中には書店に流通させて多くの人に読んでもらいたいような作品もあります。そのような本を、取次をとおして委託販売させる場合は、「販売する価値のある本」、すなわち読者に買ってもらえるような質の高い本づくりをすることが求められます。本を書店にどれだけ配本するかは取次が決めるのですから、売れそうにないアマチュアの原稿をそのまま本にしたところで、取次は相手にしてくれません。

 ですから編集者は優れた作品を選び、アマチュアの原稿に手を入れてレベルアップし、「販売する価値のある本づくり」を目指さなければならないのです。それでも、アマチュアの本を売るのは大変なことですから、この場合でも安易に褒めて「出版の価値がある」とか「世に問う価値がある」などといって勧誘しないのではないでしょうか。

 共同出版社が「出版の価値がある」などといって契約を迫るのであれば、それは結局のところ本の中身の価値のことを指しているのではなく、「出版社に一方的に有利な出版だから価値がある」ということなのだと思います。

2007年11月 7日 (水)

頓挫した北海道自然歩道

 前回の記事で書いたように、北海道自然歩道計画が策定され、北海道によって整備がスタートしました。十勝の「東大雪の道」ではじめに手がつけられたのは、大雪山国立公園の糠平から十勝三股の整備です。

 もともと、糠平と十勝三股の線路跡地に歩道をつくることを要望してきたのは、この路線に架かっているコンクリートアーチ橋の保存と利用を進めている団体などでした。このような経緯があって、アーチ橋の見学できるコースを一番はじめに着手することにしたのでしょう。

 アーチ橋を見学してもらいたいというのはわかります。でも、そのために長距離の歩道を整備してほしいというのがよくわかりません。アーチ橋の見学に訪れる人たちの大半はマイカーなのです。歩道に足を踏み入れても、また車に戻ってこなくてはならないのですから、長距離歩道を通して歩きたいなどという人は、ほとんどいないのが現実です。長距離の歩道など必要ないのです。

 ところで、アーチ橋の中でもっとも人気のあるのが、「めがね橋」と呼ばれているタウシュベツ橋梁です。ここも、北海道自然歩道の枝道として整備が計画されていました。ここには林道があって車で入れますから、歩いて見にいく人など、ほとんどいません。

 2004年の7月のことです。この「めがね橋」の近くで、若いヒグマが頻繁に目撃されるようになりました。若いクマですから、人間への警戒心が薄かったのでしょう。でも、「めがね橋」を見にくる観光客の多いところだから危険だとの理由で、地元自治体が駆除の許可を出し、射殺してしまったのです。

 この駆除には呆れました。観光客の多い知床ではヒグマが頻繁に観察されますが、まずはゴム弾などで追い払い、場合によっては立ち入り禁止としています。駆除というのは最終手段です。

 最近では、市街地の近くにクマが出てきても、簡単に射殺しないのが普通です。それなのに、人が住んでいない山の中の中の林道にヒグマが出てきたというだけで、すぐに射殺してしまったのです。国立公園であり、もともとクマの生息地であるところなのに、人間の一方的な都合で射殺してしまうという感覚には愕然としました。

 その翌年の2005年には、糠平とメトセップ(糠平湖の北部)間の自然歩道が完成して供用が開始されました。予想どおり、ここを通して歩いている人はほとんどいません。そんなことははじめからわかりきっていたことです。

 その後、三位一体改革によって、国立公園内の歩道整備は事業主体が北海道から環境省に移されました。メトセップから北側の「クマの道」を「人の道」にする事業は、環境省の事業となったのです。北海道はさぞかしホッとしたことでしょう。

 2006年の新聞報道によると、北海道自然歩道のうち、7路線の整備計画を白紙に戻したそうです。何しろ北海道は財政難なのですから当然でしょうね。

 そして、「クマの木」のもっとも多かった、メトセップから十勝三股までの歩道計画は頓挫しています。ここはもともと「人の道」ではなくて「クマの道」なんですから、クマさんが使うのが当然でしょうね!

2007年11月 6日 (火)

「クマの道」に「人の道」を計画した環境省

前回の記事

 環境省は長距離自然歩道という歩道整備を行っているのですが、2001年に、北海道にもこの長距離自然歩道を計画していることが報道されました。計画策定するのは環境省ですが、事業は北海道が行い、国が補助金を出すというものです。そして、2002年には、クマさんの通り道になっている、例の糠平から十勝三股間の旧国鉄士幌線跡地がその候補地に選ばれたのです。

 自然歩道といえば聞こえはいいのですが、糠平と十勝三股間の線路跡地をいったい誰が歩くというのでしょうか? 公共交通機関もないような山の中に長距離の歩道をつくっても、歩く人などほとんどいないでしょう。利用者が不在なのですね。はじめに「歩道ありき」なのです。しかも、幌加から十勝三股の間はクマさんが歩きまわっているのです。

 イギリスにはフットパスと呼ばれる歩道があります。この歩道は人々が自然の中を歩いて楽しむ権利を主張してできたもので、あくまでも人が歩いてできた道なのです。街と街を結んでいて、誰もが手軽に利用できます。

 そこで十勝自然保護協会は、環境省が北海道自然歩道を計画するにあたって、自然保護団体と意見交換をするように求めました。ところが、環境省は「専門家を交えた検討会を設置している」「計画策定前にパブリックコメントをする」「北海道が地元の団体から意見聴取をしている・・・」といって逃げたのです。でも北海道は、歩道整備を求めている団体の意見しか聞いていないのです。

 環境省の募集したパブリックコメントには、もちろん意見を提出しましたよ。でも、そのまま策定されてしまいました。  その後、新聞報道で明らかになったその計画の全容は「ちょっと待って!」といいたくなるような中身でした。なぜなら、その路線の大半が既存の道に看板をつけるだけのような計画だったのです。その整備費は10年間で28億円です!  こうして事業がはじまったので、こんどは事業主体である北海道に、ヒグマの道に歩道をつくるなどということはきわめて危険で問題があることを指摘しました。そのときになって、北海道ははじめてことの重大さに気づいたようで、かなり困った様子でした。そりゃそうでしょ。もしクマとの接触事故が起きたら、クマの道に歩道をつくった責任だって問われることになるでしょうから。

 自然保護団体の意見を無視せずに対応していたら、このようなことにはならなかったはずです。お役所というのは、どうしてこんな対応しかしないのでしょうか?

 ちなみに、これまでの経験でいうと、環境省というのは自然保護団体への対応を無視したり拒否したりと、非常に鷹揚な態度をとることが多いのです。それに対し、北海道開発局(国土交通省)や土木現業所(北海道)のほうが、はるかに誠実な対応をします。つまり、説明会を要請すればきちんと開催するのが普通です。

 環境保全に率先して取り組まなければならない環境省がこんな態度なのですから、困ったものですね。(つづく

2007年11月 4日 (日)

「クマの木」だらけの線路跡地

 かつて、帯広から十勝三股まで旧国鉄士幌線という鉄道が通っていました。十勝三股は林業で栄えた集落ですが、伐採する木がなくなって林業が衰退し、1978年には十勝三股と糠平の間は列車が運行されなくなったのです。そして線路跡地にはケヤマハンノキやアカエゾマツの若い木が育っていき、ときどき「鉄ちゃん」(鉄道マニア)が訪れるくらいでした。

 今から10年ほど前に、十勝三股の近くの廃線跡地をK氏と歩いたことがあります(ただし、われわれは「鉄ちゃん」「鉄子」ではありません)。

 線路跡地を歩いていると、自然に生えたケヤマハンノキやアカエゾマツに、クマの爪痕や噛み痕があるのに気づきました。さらに、不自然に幹が折れたアカエゾマツもあります。そうです、「クマの木」です。それが、線路跡地に集中してあるのです。橋の部分に張られた有刺鉄線には、クマの毛が絡みついているではありませんか。この線路跡地は、クマの通り道だったのです。

 そういえば、以前、鉄ちゃんがこの線路跡地の鉄橋を歩いていたら、反対側からヒグマがやってくるのが見えて、一目散に国道に向かって走って逃げたという話を聞いたことがあります。逃げ場のない橋の上で、クマさんとご対面ですよ!

 そこで、この線路跡地の「クマの木」をK氏と調査したのですが、その時はさすがにクマ撃退スプレーを握りしめて歩きましたよ。何せ、ここはあまり見通しがよくないところが多いのです。傍らの藪からクマさんがヌッと出てくるのではないかとか、カーブを曲がったら線路の上にクマさんがいるのではないかとか・・・ ついつい考えてしまうのです。

 いやいや、本当に「クマの木」の多いところでした。線路跡地に沿って、爪痕や噛み痕、幹を叩き折った痕などが続いていました。

 クマさんも藪の中より線路跡地の方が歩きやすいのでしょう。でも、「クマの木」がこんなにある理由はそれだけではありません。砂利を敷き詰めて枕木の置かれた線路跡地は、クマの好物のアカヤマアリの巣がたくさんあるのです。クマにとっては餌が豊富で、しかも歩きやすいという絶好の場所なのですね。それで、優位の雄が、自分のなわばりであることを誇示するために、あちこちに目印をつけたのでしょう。有刺鉄線に引っかかっていた毛も、わざと体をこすりつけたのだと思います。でも、痛くないんでしょうか?

 その後、ここの木は伐られてレールが取り外されてしまったのですが、その作業員もクマさんに出会ったそうです。それに、ここを散歩していてクマさんを見かけたという人も複数います。地元の人の話しでは、列車が通っていたときも、このあたりではしょっちゅうクマを見かけたそうです。

 かつて千数百人もの人が住んでいた十勝三股も、今は二世帯しか住んでいません。住宅のすぐ近くにもクマが出てきます。まさに、クマの生活圏に住み、クマと共生しているのです。  ところが、そんな「クマの道」におかしな計画がもちあがりました。(つづく

2007年11月 2日 (金)

クマの木

Kumanoki  北海道も晩秋となり、落葉が降り積もる季節です。そんななか、置戸町の中山風穴というところに行ってきました。岩塊地があって風穴となっており、ナキウサギも生息しているところです。

 何年か前に知人が行ったとき、道に真新しいヒグマの糞があったと聞いていたので、クマ撃退用のトウガラシスプレーも持って行きました。

 林道を少し登ったところで見つけたのは、ヒグマの爪跡がたくさんつけられ、樹皮が剥がされたトドマツの木。その少し先にも、同様の木があります。気をつけて見ていくと、爪跡や咬み跡のついた木があちこちにあるのです。そして、道にはクマの糞が・・・。

 爪あとがついた木はときどき見かけますが、これらの木は爪あとだけではなく、樹皮を咬んで大きく剥ぎ取っているのです。こんなふうに樹皮を剥いでいるのははじめて見ました。「これはすごい!」と思うと同時に、なんだかすぐ近くにクマがいるような気がしてきます。

 ヒグマが木の幹に爪跡や咬み跡をつけることは良く知られていて、「クマの木」と呼ばれています。そのような木は目立つところに多く、クマが木を咬んだり爪で引っかいたり、体をこすりつけて匂いをつけることで、優位な雄が存在を誇示すると考えられています。つまり、侵入してくる他の雄グマに対して、自分の存在をアピールするのです。

 こんなにたくさんの「クマの木」があるということは、どうやらかなり大きなクマのなわばりの中にいるということです! 秋は木の実などを求めてヒグマが人里近くに下りてくる季節です。しかも今年はヒグマの餌となるどんぐりが不なり年。暖かくて絶好の散歩日よりなのに、ついついクマの気配はないかと、あたりをキョロキョロ見回しながら歩くはめになりました。

 北海道では、森の中に入ったら、ヒグマの糞や足跡、爪跡、蟻塚を掘り起こした跡などをしばしば見かけます。でも、実物にはそう簡単にお目にかかれません。私も野生のクマを見たのは2回だけです。クマさんの方が、人の気配を察して避けているのでしょうね。

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