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2007年9月

2007年9月29日 (土)

次の名前は「山のみち」!

 緑資源機構の悪質な官製談合事件で、機構は今年度限りで廃止されることになりました。当然のことでしょう。その機構の中心事業である大規模林道も当然廃止されるべきです。何しろ大規模林業圏構想はとっくに破綻して必要性がないうえに、談合の温床になっていたのですからね。

 ところが、林野庁はどうしても林道事業を続けたいようです。そこで考えたのが、独立行政法人緑資源機構としての事業としては廃止し、県や道が主体となって国の補助事業として進めるというやり方です。その事業名は「山のみち地域づくり」。

 林野庁は、地方公共団体の判断により、必要な区間について実施できるよう、新たに「山のみち地域づくり交付金」を創設したのです。そして、財務省に予算要求です。またまた税金をこんな道路につぎ込もうとしています。いやはや、利権構造を確保するためには、いろいろと知恵を絞るものですねえ!

 はじめは「大規模林道」、その次は「緑資源幹線林道」、そして今度は「山のみち地域づくり」。自然をこわし、森林の公益的機能を低下させて、どこが「地域づくり」なんでしょうか?

 だいたい、この道路工事では多くの路線でアセスメント調査もきちんとやっていません。アセスを行ったところでは、その杜撰さが明らかになっています。しかもそのアセスは、はじめから工事をすることが前提になっているのです。生物多様性条約に反する自然破壊道路であり、災害を誘発する道路にほかなりません。生物多様性条約を締結している国として、あるまじきことです。環境省も物申すべきではないでしょうか?

 県や道は自然を破壊するだけの道を本当につくりたいんでしょうか? 北海道はただでさえ財政難であえいでいるのです。道民は、こんな巨額の税金がかかる事業をどう考えているのでしょう? その前に、「山のみち地域づくり」のことを知らない道民も多いのでしょうね。

 昨日は、大規模林道問題全国ネットワークなど、この道路にずっと反対を続けている団体が財務省と総務省に、「山のみち地域づくり交付金」を凍結するよう申入れにいき、分厚い資料を提出して問題点を説明してきました。ところが、なんと新聞記者はその会場に入ることを拒否されてしまったそうです。国が取材拒否ですよ! 

 マスコミが大きく報道しないのであれば、知っている人たち一人ひとりがこの問題を伝え、声を大にしていかなければなりません!

2007年9月27日 (木)

なぜ騙されるのか?

 東京に行った際に、自費出版業界の方たちとお話しをする機会がありました。共同出版についてかねてから疑問を呈してきたのは、何といっても自費出版業界の方たちでしょう。同業者ですから声高に批判はできないまでも、著者を錯誤させて高額な費用を請求している共同出版のやり方に大きな疑問を持ち、ジャーナリストの取材に応じてきたのも彼らです。

 共同出版と称しながらアマチュアの著者をお客さんにしているなら、自分たち自費出版業者と同じではないのか? それなのに、なぜ本の所有権が著者ではなく出版社にあるのか? そもそも、著者はなぜ共同出版社の甘い勧誘につられて高額な費用を出してしまうのか? なぜ情報収集しないで契約するのか? なぜ商業出版社の賞を目指さないのか? 自費出版業者の方たちは、そんな風に受け止めているのです。

 私は、自費出版業界の方たちとお話しをして、業界の人たちと著者は、手品師と観客の関係に似ていると思いました。手品の種がわからない観客は、不思議なマジックに魅了されてしまいます。だからこそお金を払ってでも手品を見るのです。ところが、その手品のからくりを知っている手品師仲間は観客と同じ視点で手品に感動することはできません。

 出版業界の方たちは出版のことについて精通していますし、共同出版社の舞台裏が見えているので、そのような視点から共同出版というものを見て批判します。だから前述したような疑問が生じるのです。

 では、著者の方はどうでしょうか。まず、大半の人は出版についての知識がありません。本の編集や校正とはどういうことをするのか。流通のしくみはどうなっているのか。印刷や製本の原価はいくらくらいなのか。年間にどれくらいの本が出版され、どれくらい売れているのか・・・。それどころか自分が署名捺印した「出版権の設定」の契約が、請負・委託契約だと誤解している人すら多いのではないでしょうか。そして、たとえそれらを知っていても悪質な出版社か否かを見抜くのは難しいのです。

 朝日新聞や読売新聞は新風舎を持ち上げるような紹介記事を書いています。大手新聞社は共同出版社の大きな広告を何年にもわたって掲載しつづけています。広告掲載にあたっては、新聞社もチェックをしているはずですから、悪質な出版社の広告など掲載するはずがないと思うのがふつうです。悪質な商法であったら、とっくに社会問題になっているはずだと考えるのです。それに出版社というのはいみじくもメディアの一員なのですから、騙すようなことをするとは思わないのです。

 さらに、共同出版社の情報というのは公募ガイドや新聞広告、出版社のホームページなど、出版社側からの一方的なものが多いのです。もちろんそこにはメリットしか書かれていません。インターネット上でも、ニュースサイトで批判記事が掲載されはじめたのは、私の2005年秋のJANJANの連載からではないでしょうか。その私ですら、自費出版業界の方からの情報や若干の報道などがあったからこそ記事を書けたのです。新風舎のことがインターネット上で具体的に報じられ、騒がれはじめたのは比較的最近です。インターネットを利用していない方は、共同出版社の裏舞台はほとんどわからないのです。

 「審査する」としながら、実際にはマニュアルがあり、大半の応募者の原稿を褒めちぎって共同出版に勧誘するとか、提携書店に棚を借りて売れ残った本を買い取っているとか、編集や校正が杜撰であるとか、出版してから有料の広告掲載の勧誘があるとか、そういう実態は著者にはまったく見えません。手品に魅了される観客のように。

 アマチュアの場合、商業出版ではまず門前払いです。そこで、共同出版社に当たるのですが、「費用を分担」と説明されて、著者をお客にしているなどと思うでしょうか? 褒められて「世に問う価値がある」などと持ち上げられたら、自分の作品は「自費出版より有利な共同出版に選ばれた」と思うのは当然です。販売のためにプロが上質の本をつくるなら、制作費が高くても理解できるのです。

 著者にとっては、費用を分担するという共同出版は、自費出版よりはるかに魅力的です。ですから、いちど共同出版に気をとられると、共同出版社にしか見積をとりません。「同じ穴の狢」であることに気がつかないのです。そして、「おかしい」と気づいたときは、すでに本の制作にとりかかっていてどうにもなりません。出版してしまえば、少しでも多く売りたいと思うのが著者の心情です。だから多くの著者は不満があっても口を塞いでしまう・・・。騙されたとは認めたくないですしね。

 共同出版社から本を出してしまう弁護士だっています。インターネット上では「著者にも責任がある」などという意見をときどき見かけますが、共同出版社の内実が見えず、マスコミが広告を流す中で、著者にも問題があるなどと安易に非難することができるでしょうか? 非難すべきは騙す方であり、そのような実態を知らせようとせず、提灯記事や広告を掲載しているマスコミです。

 最近は新風舎のことがいろいろ話題になっていますが、共同出版で怒っている著者は新風舎を訴えた4人だけではないはずです。ジャーナリストたちはどうして騙され怒っている著者の声をあまり聞かないんでしょうか? 不思議ですよねえ? 火がついた新風舎なら「みんなで叩けば恐くない」のか? なんだか新風舎以外を批判するのが恐くて意図的に避けているような気が・・・。ジャーナリズムはどこへ行ってしまったんでしょう。

 そういえば、最近は新風舎の原稿募集の新聞広告は掲載されていないようです。「公募ガイド」からも新風舎の広告は消えて、文芸社のデカデカとした広告ばかりが目立ちます。世のジャーナリストさんはこの現象をどう捉えているんでしょうか?

2007年9月26日 (水)

不思議なオニグモの寄生バエ

 今年も9月の下旬になってしまいました。実は「今年の9月こそは!」と思っていたことがあったのですが、9月は東京に行ったり、札幌に行ったり、野外調査に出かけたりと外出続きで、今年も断念です。

 というのは、オニグモに寄生するハエの観察のことなのです。ちょうど8月から9月にかけて、この不思議なハエが現れるのです。

111601  軒先などに大きな円網を張るオニグモは、夏から秋にかけて産卵します。8月下旬から9月ごろ、網を張っている産卵前のオニグモのまわりを黄色い小さなハエが飛んでいることがあるのですが、よく見るとオニグモの腹部表面に卵を産んでいるのです。オニグモなどに寄生するオニグモヤドリキモグリバエです。

 オニグモの腹部に卵を産み付けるなら、幼虫がクモの体にもぐりこんで、クモを食べて育ち、寄生されたクモは死んでしまうというのが一般的な寄生方法です。ところが、このハエの成虫はオニグモを食べてしまうわけではありません。卵を産み付けられたオニグモを飼育していると、その後クモが産卵をするのですが、不思議なことにその卵のう(卵塊を糸でくるんだもの)からハエが孵化するのです。卵のうを開いてみると、ハエの蛹の抜け殻が見つかります。つまり、ハエの幼虫はクモの卵を食べて育つのです。

 クモの卵に寄生するハチやハエはいくつか知られていますが、それらはふつうクモの卵のうの表面に直接卵を産みます。ところが、このオニグモヤドリキモグリバエは、卵のうではなく、クモのお腹に産卵するという不思議な方法をとっています。

 それでは、ハエの幼虫はクモの腹部からどのようにして、しっかりと糸でくるまれたオニグモの卵のうの中に移動するのでしょうか? その移動方法は二つ考えられます。一つはオニグモが産卵するときに、ハエの幼虫がクモの腹部表面を伝って卵塊の中にもぐりこむ方法です。もう一つは、孵化したハエの幼虫がクモの体内に入り込み、卵塊と一緒に産卵されるという方法です。

 たぶん前者の方らしいということまでわかってきているのですが、それならクモの産卵を観察すれば、ハエの幼虫が卵塊に入り込む様子がわかりそうです。ところが、クモはいつ産卵するかわかりませんし、産卵はふつう夜中なのです。昨年は一度だけ産卵を観察したのですが、そのときは幼虫の移動は確認できませんでした。結局、そのオニグモの卵のうからは残念ながらハエが孵化しなかったのです。

 それで、今年こそ!と思っていたのですが、今年は外出続きでオニグモの飼育どころではありませんでした。この観察はまた来年に持ち越しです。

 でも、不思議ですよね。クモは産卵をするとすぐに卵のうに糸をかけて包んでしまうのです。ですから、ハエの幼虫が卵のうに入り込めるのは産卵中の限られた時間しかありません。昨年の観察例では、産卵時間は6分ほどでした。ハエの幼虫は、そのタイミングをどうやって知るのでしょうか? それとも卵のうを包んでいる糸の間を通り抜けて卵塊に到達するのでしょうか?

2007年9月25日 (火)

「シッコ」にショック!

 先日、札幌に行ったついでにマイケル・ムーア監督の話題作「シッコ」を見てきました。アメリカでは国による保険制度がないとか、医療費が高いということは前々から聞き及んでいましたが、ムーアが描き出したアメリカ社会に横たわるあまりにも酷い医療や保険制度は、背筋が凍りつくようなすさまじい世界でした。

 とりわけ愕然としたのは、保険会社と医者、政治家の癒着構造です。保険に加入している人が病気になっても、いろいろ難癖をつけては保険の対象外だといって「否認」してしまうのです。「あなたは若いからガンになるはずがない・・・」「既往症があるからダメ・・・」などなど、信じられない理由で「否認」をするわけです。

 その結果、保険金が下りずに高額な医療費を請求されるのですから、たまったものではありません。医療費が払えなくなった患者をタクシーで路上に放置する病院まであるのです。病院が病人を屋外に放り出すなどというのは、ほとんど犯罪行為ではないでしょうか?

 愕然としたのは、保険会社の利益を増やすために、「否認」を多くした医者ほど保険会社から報奨金が出されるシステムになっていることです。そして、国民皆保険制度を避け、民間保険制度を推進した政治家たちは、保険業界から多額の献金を受け取っているという構図。

 似たような構図、どこかの国にもありますよね?! そうそう、私は日本の土建屋と政治家の癒着を連想しました。まるで同じ構図ではありませんか。日本の場合は必要があるとは思えない無駄な公共事業を発注し、政治家が土建業者から政治献金を受けるという構図です。

 談合が発覚した緑資源機構による大規模林道事業では、政・官・民が癒着し、必要もない道路工事で自然が破壊されている構図が浮き彫りになりました。それで被害を受けるのは事業によって壊される自然や税金を払う国民ですが、アメリカでは何と言うことか「人の命」とりわけ「弱者の命」が保険会社と医者、政治家の利益に利用され、食い物にされているのです。「恐るべしアメリカ!」ではありませんか。

 「シッコ」というのは「病気」という意味。つまりアメリカの保険・医療制度は「ほとんどビョーキ」だというのですが、私には「ビョーキ」どころか「犯罪」に思えてきます。  あまりのひどさに呆れたムーアが取材したのは、カナダ、イギリス、フランス。これらの国では基本的に医療費は無料です。それどころか、病院への交通費を患者に支給するところすらあります。さらに敵国のキューバも医療費はタダ。

 日本の保険制度はどうでしょうか? アメリカほどひどくはないものの、国民の負担は増える一方です。介護保険制度だって、結局は厳しい審査と負担増を引き起こしただけです。国民健康保険の保険料を支払えないフリーターやホームレスは、無保険状態に置かれています。生活保護を受けられずに餓死する人までいる国です。何事もアメリカに追随する日本は、「医療費無料」からどんどん遠ざかり、アメリカ社会に近づいているのではないでしょうか。「シッコ」の世界も他人事ではありません。

 そういえば、アメリカで移植手術をするために募金をしている団体などがありますが、巨額の費用がかかることに疑問を持った人も多いのではないでしょうか。医療の技術は進んでいるのに、ゆがんだ医療制度のために、お金のある人しか医療が受けられないということなのですね。「貧乏人の命はどうでもいい」というのがアメリカの政治なのです。

 いやはや・・・。

2007年9月21日 (金)

北海道の天然林は何処へ

Rikubetudoba  大雪山国立公園での伐採現場を見た翌日は、十勝東部森林管理署が管轄する天然林に出かけました。視察したのは、主に一昨年から昨年にかけて伐採が行われたところです。

 このあたり一帯も過去に何度か択伐が行われ、古い切り株がたくさんあるのですが、全体的な印象は、前日の大雪山国立公園に比べたら大径木が多いということでした。直径が50センチから60センチくらいの木も残っています。前回の択伐では伐らずに残しておいたものでしょう。それを今、次々と伐っているのです。

 ということは、裏を返せば場所によっては国立公園の森林のほうが痛めつけられているということではありませんか!

 森林の木の量(蓄積量)や伐採する木の量は、材の体積で表されます。森林管理署では、5ヵ年ごとに伐採計画をたてていますが、十勝東部森林管理署の場合、平成16年度からの天然林での伐採量は年平均5万立方メートルを越えるとのことです。

 一口に5万立方メートルといってもどのくらいの量なのか、なかなかピンとこないかもしれませんね。おおよその目安ですが、エゾマツやトドマツなどの針葉樹の場合、胸高直径(地上から1.3メートルの高さで測った幹の直径)が35センチの木で、材積が約1立方メートルです。ということは、直径35センチの木に換算したら、一箇所の森林管理署だけで一年に5万本も伐っているということになります。5年間だと15万本以上! おびただしい量の木が、天然林から伐り出されているのです。その天然林のほとんどが「木材生産林」ではなく、「公益林」として「保安林」に指定されているところです。

 そして、疑問に思うのは「天然林択伐」「天然林受光伐」「風倒木処理」などの名目で、大径木が中心に伐採されていることです。本来は、「択伐」も「受光伐」も森林から木を抜き伐りし、それと同時に若木の生長を図って森林を更新させるための伐採なのです。ところが、どう見ても「更新」を考えて伐っているとは思えないんですね。

 切り株から見る限り、値段の高そうな木を狙って収穫し、更新など考えていないとしか思えません。伐採する木は事前に収穫調査をし、ナンバーテープをつけたり、特殊なスプレーで印をつけることになっているのですが、そのような印が見当たらない不審な切り株すらあります。

 「保安林」でありながら、大径木を狙い撃ちすることで森林の公益的機能をどんどん損ねているというのが、北海道の天然林伐採の現状でしょう。伐採によって森林の公益的機能を高めるなどというのはお題目だけ。

 北海道では地球温暖化防止のために植樹を推進するようですが、その一方で国も北海道もなけなしの天然林を壊し、生物多様性を損ねているのです。現在の天然林の伐採は、日本も締結国になっている生物多様性条約に違反する蛮行といえるでしょう。

2007年9月20日 (木)

無残! 国立公園の森林

 9月に入ってから、東京に行ったり札幌に行ったりと慌しくしていましたが、久しぶりに2日間かけて国有林の伐採現場の視察に行ってきました。

 以前にも「国立公園で木を伐る日本の恥」という記事を書きましたが、今回も国立公園で行われている酷い伐採の実態をまざまざと見せつけられました。

 大雪山国立公園の東部、十勝三股や幌加周辺の森林は、もはや原生林の面影はありません。かつてはエゾマツやトドマツなどの大径木が茂りうっそうとした森だったのですが、今は建材として使えるような大径木はほとんど伐り尽くされてしまい、材として価値のあるような木がほとんどない状態なのです。わずかに残されているミズナラなどの巨木は、幹の中が中空になるなどして、材として利用できないものばかりです。度重なる伐採によって、今では細い木ばかりの貧弱な森林になり果てています。

Horokakaibatsu  また、近年は頻繁に台風による風倒木の被害が発生しています。台風がきたからといって、森の木が一様に倒れるわけではありません。集中的に被害を受けるところと、ほとんど被害のないところがあります。多くの木が倒れたところでは風倒木処理が行われるのですが、その「風倒木処理」の名目で「皆伐」すら行われています。そのあまりにもひどい惨状に、怒りがこみ上げてきました。

 国立公園の中なのですから、倒れずに残っていた立木はそのまま残しておくべきでしょう。ところが倒れなかった木も伐ってしまうのです。重機を使った作業の邪魔になるからでしょうか。皆伐してしまうと、木の種子が供給されないのでやがてはササが茂り、森林の復元が困難になります。倒れなかった木を残し、倒木をそのままにしておけば、やがてその倒木を苗床にして木が育つこともできるのですが、倒木処理はその苗床を取り除いてしまうのです。林野庁は植林するといいますが、植林はいろいろな樹種で構成されている天然林を単一の人工林に変えることにほかなりません。

 また、ブルドーザーで山肌にジグザグに作業道を刻み表土を撹乱するので、土壌がむき出しになり、そこから大量の土砂が沢に流れ込みます。このようなところでは、雨が降るたびに雨水の流路ができ、どんどん浸食されていきます。これは風倒木処理というより、山の地形を変えてしまう「山壊し」です。ところが、森と山を壊して得られる収入は微々たるものなのです。

 表土を剥ぎ取った作業道から、大量の土砂が川に流れ込むために、川には砂防ダムが造られることになります。ところが砂防ダムは魚の生息地を分断し、川床の低下を引き起こし、河川の生態系を破壊してしまうのです。発電用のダムに土砂が堆積すれば、その土砂を取り除かなければなりませんが、それには膨大な経費がかかることになります。山を破壊した結果、ダムの建設で儲けるのは土建屋さんでしょう。そして、そのしわ寄せはすべて国民にまわってくるのです。ダムの建設費は税金ですし、発電用のダムの維持経費は、電気の消費者の負担になるのですから。また、伐採で森林の保水力が低下し、洪水や土砂崩れなどで被害を受けるのも国民です。

 国民の目にほとんど触れることのない山の中、しかも国立公園の中でどんなことが行われているのか、私たちはもっと目を向けなければならないのではないでしょうか。

2007年9月15日 (土)

携帯電話の中継基地局は安全?

 先日、東京の実家に一週間ほど滞在しました。その時、隣の駐車場になっている土地にソフトバンクモバイルが携帯電話の無線基地局を建設するということで、関係者が挨拶にきました。そこで私は思わず、抗議してしまいました。

「電磁波の影響についての説明が不十分なんじゃないの?」

「はあ・・・」

「電磁波に過敏な人は、携帯電話の電波でも影響があるでしょ。それくらいのこと、知ってますよね?」

「・・・庭とかに建てるのはたしかにお勧めできません・・・」

「ちゃんと影響を説明したうえで合意を得なければならないんじゃないの?」「パンフレットも配って、町内会長さんの了解を得ましたし・・・」

「でも、高齢者は電磁波の影響のことなんてほとんどの人が知らないでしょ?」

「はあ・・・」

 まあ、この担当者と言い合いをしても仕方ないのでこのあたりでやめましたが、そのあとで配布されていた「携帯電話用無線基地局設置計画のお知らせ」という、住民へのパンフレットを読んで、驚いてしまいました。そこにはこんな説明が書いてあるのです。

 「世界中で電波と健康について研究が行われており、これまでの膨大な科学的知見から、WHOは、「電波防護のための基準値を下回る電波によって健康に悪影響を及ぼすという確固たる証拠は認められていない」と表明しています。このため、WHOをはじめとした世界各国の政府・機関は、電波防護のための基準値を満足すれば安全上の問題はないとの見解を公表しています」

 ネットで、電磁波の影響について調べてみると、実にいろいろなことが出てきます。携帯電話を使い続けると脳腫瘍の発生率が上がることが示唆されているとか、高圧線の近くでは小児白血病の発生率が増えるなどという報告があります。そして、携帯電話の中継基地局や送電線からの電磁波が原因で、さまざまな症状が出る電磁波過敏症の人がいるのです。そこまでわかっているのに、「基準値以下だから安全」などと言い切るのはあまりにも無責任というものでしょう。

 結論を言えば、「電磁波が健康に影響を与えるという因果関係を認める研究は存在する。しかし、現時点では確固たる結論に至っていない」「基地局からの電波は、電磁波過敏症の人には影響を与える可能性が大きい」というところでしょう。とても安全とは言い切れないのです。

 問題は、「確固たる証拠は認められていない」ことを理由に「基準値以下なら安全」と曲解したうえで、住民にまったく問題がないかのように説明していることです。携帯電話が普及しはじめてからまだそれほどの年数がたったわけではありません。電磁波の影響はないと言い切れるデータを持っていないだけであって、安全だとは言い切れないのですから、「具体的なデータはありませんが、影響を及ぼす可能性はあります」と説明しなければならないはずです。そのうえで合意を得るのが筋でしょう。

 企業に都合のよい見解だけを紹介して「問題ない」とするソフトバンクモバイルの説明って、騙しではないでしょうか?

2007年9月14日 (金)

危ない「危ない!共同出版」

 8月下旬に尾崎浩一氏の「危ない!共同出版」(彩図社)という本が出版されました。サブタイトルは「夢を食い物にする錯覚商法」です。このタイトルを見たら、誰もが複数の出版社が行っている夢を食い物にした「共同出版」という出版形態の危険性を指摘している本だと思うのではないでしょうか。ところがどっこい、中身は新風舎と倒産した碧天舎のことだけを取り上げた新風舎批判の本です。「夢を食い物にした錯覚商法」を行っているのは、新風舎だけではないはずですが・・・。

 私が非常に驚いたのは、86ページの以下の部分です。少し長くなりますが引用します。

 「香川さんは、新風舎を自費出版社だとは考えていなかった。共同出版を自費出版のバリエーションだとも思っていなかった。共同出版というのは、著者も制作費を負担するが、新風舎はそこから利益を出すのではなく、本を売った売り上げで利益を出すと考えていたのである。だが、事実は、共同出版というのはあくまでも自費出版の一形態である。新風舎は、共同出版が自費出版ではなく、書籍の売り上げから利益を得て成り立っているなどとはひとつも言っていない。だが、自費出版だとも言っていない。しかし、複数の人が共同出版を自費出版だと思っていなかったというのは、単なる説明不足ではなく、そのように思い込まされていたと考えるべきだろう」

 前回の記事にも書いたように、香川さんの理解は正しいのです。新風舎の契約書は商業出版の契約書と同じ出版権の取引契約なのですから、著者が自費出版だと思わないのは当然です。ところがなぜか尾崎氏は著者の正しい理解を誤解だと決め付けています。そして「新風舎は、書籍の売り上げから利益を得て成り立っているなどとはひとつも言っていない」から、著者から利益を得ていても正当だと主張しているかのようです。

 また、「新風舎の企画書や契約書のどこにも『共同出資』という言葉はなかった」から、「共同出資ではない」としています(110ページ)。しかし、新風舎は新聞広告で「著者の負担は制作費」であると明記していたのです。それ以外の費用は新風舎が持つということも、松崎社長がみずから発言し、新聞記事になっています。それが「共同出資」を意味することくらい、小学生でもわかることでしょう。共同出資なら、出版社は本の売り上げで利益を得なくてはならず、著者から利益を得るのがおかしいことも理解できるはずです。

 さらに、相も変わらずの「消費者契約」だという主張。新風舎の契約も文芸社の契約も消費者契約ではなく、事業者同士の契約であることは明らかです。実態が自費出版なのだから、契約書も消費者契約だなどという主張はあまりにもムチャクチャでこじつけです。消費者契約ではないのですから、クレジットでも事業者用を利用するのは当然です。逆に消費者用を使用したら、著者に請負・委託契約だと錯誤させることになります。

 この本では、新風舎の問題として賞ビジネス、有名人の広告塔利用、褒めて契約を誘う手法、クレジット問題、金額を下げていく勧誘、営業マニュアルの問題、不透明な審査、杜撰な編集、不透明な費用などのことを取り上げていますが、これらの多くは文芸社にも当てはまることです。

 文芸社が新風舎と異なるのは、「諸作者保護制度により著者の負担金や印税が保障される」「HPで在庫の管理状況を明らかにしている」「契約書に刊行日が明記されている」「棚借りによって一定期間書店に並べ、一部の書店名を公表している」「売上還元タイプを設けている」などといったことです。しかし、基本的なシステムに違いがあるとは思えません。

 で、最後まで読み進むと、リスクの少ない出版社選びのために7つのチェック項目が掲げられています。それを要約すると以下のようになります。

1.前受け金が保全されているかどうか 2.在庫の保管状況が明らかにされているか 3.契約書に納期が明記されているか 4.クレジット契約は業者用か消費者用か 5.直接の分割払いでは最終納期は本が完成してからか 6.書店に並べるとしている場合、書店名と期間を明らかにしているか 7.所有権は誰にあるか

 これでは、文芸社はほとんど問題がないといっているように聞こえるではありませんか? まるで文芸社を擁護しているかのようで、意図を感じてしまいます。

 この本で参考になったのは、元社員へのインタビューくらいです。結局のところ、契約書に「共同出資」と書いていないことを理由に費用問題をはぐらかし、また事業者同士の契約を無理やり消費者契約だとこじつけているのです。私には、それによって共同出版商法の本質的な問題点をはぐらかしているとしか感じられません。

 こんなお粗末な論理で新風舎だけが問題だというのであれば、読者を錯誤させる「危険な本」といえるのではないでしょうか。

2007年9月 4日 (火)

置き去りにされた著者の視点

 前回の記事で、「出版ニュース社やメディアは、新風舎や文芸社を『自費出版系」』と呼ぶのはなぜでしょうか?」と書きました。なぜこのような疑問を投げかけたのかといえば、私は、文芸社と自費出版(制作請負・販売委託)の契約などしていないからです。ハンコを押したのは、「出版社に出版権を設定して出版社の刊行物をつくるにあたり、著者が出版費用の一部として制作費を負担し、出版社は著者に印税を支払い、かつ1000部のうちの100部を著者に寄贈する」という「商業出版形態」の契約書です。それなのに業界の方やメディアが「自費出版系」というなら、著者としてはその理由が知りたいわけです。

 私が文芸社と契約をしたのは、出版社も費用を負担する条件での商業出版(出版権設定)の取引だったからにほかなりません。この契約は、すべてのリスクを著者が負担して著者に所有権のある本をつくる「自費出版」とは明らかに異なります。この契約では出版社は本を販売して自社負担分を回収しなければ赤字になるので、良い作品を選んで売れる本づくりをし、販売努力をしなければならないことは自明です。だからこそ、高額であっても契約したのです。契約が守られているなら、「著者が顧客」などということはあり得ないはずですし「自費出版」でもありません。もしはじめから「著者は顧客であり自費出版」だと説明されていたなら、そんな出版社に一方的に有利な取引には乗らなかったでしょう。そして、この契約形態は、基本的には現在でも変わっていません。

 ところが「創」の9・10月号に「自費出版トップ『新風舎』に相次ぐ告発の声」という記事を書いた長岡義幸さんは、新風舎や文芸社などの共同・協力出版社を「自費系」とし、著者を「お客」としています。そして新聞やテレビなどのメディアも、業界の方たちの多くも文芸社や新風舎は「自費出版」だとしています。

 これらの出版社が本を売って利益を得るのではなく、著者を顧客として利益を得ているのであれば、実質的には自費出版といえるでしょう。それならば契約(説明も含む)内容と実態が異なっているということにほかなりません。出版社が費用負担していないなら契約が守られていないということです。それなのに、なぜこの矛盾点に言及しないのでしょうか? 契約が守られていないなら、契約違反であり「騙した」ということです。その騙しの部分をメディアが問題にしないことこそ、私にとっては理解できない不可解なことなのです。

 また、自費出版業界の方の多くは、本の所有権は著者にあるべきとの主張をされています。実態が自費出版と捉え、そう主張することは、一般論としては理解できます。でも、本の所有権が出版社にあるという契約書に署名捺印した著者は、出版社に対し「所有権が著者にないのはおかしい」という抗議はできないのです。

 ジャーナリストや出版業界の方たちの多くが、こうした契約に反する費用請求を「騙し」として声高に指摘しないのは、「説明や契約書を理解して印鑑を押した著者の視点」に立ってこの問題を捉えていないからではないでしょうか。はじめから「共同出版は著者が顧客であり自費出版」ということを前提としてこの商法を捉えているなら、契約を交わした著者の視点が欠落しています。

 私のJANJANの記事やブログを読み、同感だとの感想をくださる著者の方がいます。私と同じ矛盾を感じている著者はたぶんたくさんいるのでしょう。共同出版に関心を持つジャーナリストは、被害者意識を持っている著者にこそ取材し、「騙された」と感じている著者の視点から共同出版商法の矛盾点を明らかにしていくべきではないでしょうか?  ところで、アマチュアの著者が自分の著書を少しでも多く売りたいと思ったら、どのような出版社を選ぶべきでしょうか?

 商業出版で費用の負担なく出せるのが一番いいのかもしれませんが、それは容易なことではありません。たとえ狭き門をくぐって費用負担なしで出せたとしても、返品の山となり、早々と断裁、絶版になる可能性もあるのです。また、制作請負契約・販売委託契約をし、すべての費用・リスクを著者が負担する自費出版の場合、出版社は制作するだけでも事業として成り立つのですから、編集や販売にあまり力を入れない出版社もあるでしょう。その一方で、商業出版に負けない本づくりをし、売る努力をしている自費出版社もあります。

 本を売れるにはまず内容が良くなければなりません。それでも、実際に売れるかどうかは賭け事のようなものですから、半分は「運」なのでしょう。しかし、残りの半分は「志」だと思うのです。結局のところ、アマチュアの本を少しでも多く売るために大事なことは、商業出版とか自費出版という区別より、出版社や編集者が「多くの人に読んでもらいたい」と思う作品を選び、プロの編集者が丁寧な編集をして質の高い本をつくり、著者とともに販売努力をするという「志」があるかないかではないでしょうか。

 完全な商業出版であっても、著者がリスクの一部を負担する商業出版であっても、あるいは著者がすべてのリスクを負担する自費出版であっても、出版社の「高い志」がなければ、著者にとって満足できる出版にはならないと思うのです。そんな出版人としての誇りを持っている出版社こそ評価され伸びて欲しいのですが、現実は著者の夢を利用した「儲け主義」の出版社ばかりが台頭しているようです。

2007年9月 3日 (月)

石狩浜のイソコモリグモ

 恵山の帰りに、石狩川河口部の石狩浜に寄ってきました。石狩浜といえば海水浴場として有名なところですが、クモに関心のある人にとっては「イソコモリグモ」の発見された場所として忘れられないところです。ここで採集された標本に基づいて新種記載されたのです。今は「イソコモリグモ」という名前ですが、かつては採集地の地名をとって「イシカリコモリグモ」と呼ばれていたのです。

 イソコモリグモは、北海道と本州でのみ生息が知られているクモで、海岸の砂浜に穴を掘って生活している大型のコモリグモです。砂浜ならどこにでもいるというわけではなく、海浜植物群落がある砂浜に生息しています。夜に巣穴から出て虫を捕まえるのですが、昼間は巣穴にこもっていて姿を見せません。

Isokomorisuana  イソコモリグモの巣穴(写真)は、内側を糸で裏打ちされているので、他の動物の穴と区別できます。ところが、昼間は巣穴の入口を上手に閉じていることが多いので、そうなるとまず見つけることができません。このクモは関心がなければ、簡単に見つけることができないのです。

 日本の海岸は、開発や護岸工事、道路建設などによって自然状態のところは非常に少なくなってしまいました。それとともにイソコモリグモの生息地も破壊され分断化されていったのです。さらに近年ではダムによって土砂が河口に運ばれなくなり、砂浜が痩せてきています。こうしたこともイソコモリグモの生息地の減少につながるのではないかと懸念されます。そんな状況ですから、国のレッドリスト(絶滅の恐れのある野生動植物のリスト)にも掲載されています。

 石狩浜では、最近まで海岸砂丘に車が乗り入れて海浜植物群落を破壊していました。もちろんイソコモリグモも大きな影響を受けたのです。その後、石狩市が海浜植物の保護に乗り出し、今では車が自由に入れないようになっています。「石狩浜海浜植物保護センター」という施設があり、ここでは海浜に生息する生物などが紹介されていましたが、残念ながらイソコモリグモのことはまったく書かれていませんでした。たぶん地元の人たちはこのクモのことを知らないのでしょう。北海道のレッドリストではクモは対象外ですから、行政もまったく知らず、関心がないのだと思います。

 北海道では、いくつかのイソコモリグモの生息地が知られていますが、それらは開発や道路建設から免れているところです。過去には砂浜のある海岸一帯に生息していたのかもしれませんが、今は護岸工事や道路建設などで生息地が分断されてしまいました。個々の生息地が小さくなってしまえば、絶滅の可能性が増大します。

 石狩浜一帯は、残された貴重な生息地なのですが、これ以上破壊されることがないようにと願わずにはいられません。

2007年9月 1日 (土)

火山とクモ

Esann  恵山の「賽の河原」は、ガンコウランとエゾイソツツジの大群落。これほどのガンコウランの群落を見たのははじめてです。そこには、まるで北極圏に来たかのような荒涼とした光景が展開されていました。

 道東の硫黄山(アトサヌプリ)も標高が200メートルほどですが、ハイマツとエゾイソツツジ、ガンコウランの大群落があります。これらの植物は火山から噴出する硫化水素や酸性土壌に耐性があるため、このような厳しい環境にも生育できるのです。また、火山地帯や高山帯だけではなく、酸性の強い湿地にも生育することができます。

 大規模な火山活動があれば、その地域の生物は死滅してしまいます。その後、周囲から徐々に動植物が侵入してくることになります。ですから、新しい火山ほど、生物の種類が限られてしまいます。

 恵山にはハイマツがほとんどありません。ハイマツは野鳥に種子を運んでもらわなければ侵入できないために、まだこの山で勢力を拡大することができないのでしょう。一方、ガンコウランは大きな実をたくさんつけていました。そして、荒涼とした岩礫地にどんどん侵入しています。野鳥などがせっせと種を運び、勢力を拡大しているのでしょう。

 ところで、私の興味はどちらかといえば植物よりクモです。恵山火山の活動は約4~5万年前に始まり、現在の溶岩ドームは約8000年前に形成されたといわれていますから、今の恵山は氷期以降にできた非常に新しい火山です。

 寒冷な氷期には海水面が低下し、北海道は大陸と陸続きになって北からさまざまな生物が北海道にも南下したといわれています。ですから最後の火山活動が氷期の前あるいは氷期の火山であれば、北方起源のクモが生息している可能性が高いのですが、氷期以降の新しい火山では、周囲から高山性のクモが侵入できない限り、生息している可能性が低いのです。それで、どのようなクモが生息しているのか、とても興味がありました。とりわけ、似たような環境の硫黄山に生息しているタカネコモリグモがいるのかどうか・・・。

 先日の恵山の調査では、残念ながらタカネコモリグモをはじめとした高山性のクモは、まったく確認できませんでした。確認できたのは、平地にも生息しているウヅキコモリグモやモリコモリグモ、ヤミイロカニグモ、マミジロハエトリなど。これらのクモは麓から分布を広げたのでしょう。

 1回の調査だけでははっきりとしたことは言えないのですが、恵山の近くにはタカネコモリグモが生息できそうな山はほとんどありませんから、ここにはタカネコモリは侵入していない可能性が高いのではないかと思います。

 クモの分布と火山の関係は、じっくり調べたら面白いと考えているのですが・・・。

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