2020年6月18日 (木)

スギナ撲滅作戦

 花壇や畑に生えてくる植物を一言で雑草と言ってしまうのは少々抵抗があるが、春から夏にかけての季節はその雑草との根比べになる。

 

 我が家の庭の場合、厄介な雑草はスギナ、ヒメスイバ、キレハイヌガラシなど、地下茎によってどんどん広がっていく植物だ、中でもスギナは根が深く、取っても取っても生えてくる。これを根絶させるのはほぼ不可能だと思い、今までは庭の草取りは1週間に1度くらいのペースでまとめてやっていた。

 

 この厄介なスギナを根絶する方法はないのかとネットで調べてみると、除草剤を使えとか、防草シートを敷けといった記事ばかりが出てくるのだが、さらに調べていくうちに「毎日抜いていればそのうちに生えなくなる」と書かれているブログ記事を見つけた。

 

 言われてみればその通りだ。休眠している冬の間は地下茎で生き続けていても、成長期に光合成をする地上部を徹底的に除去すれば、いくら丈夫な植物でも生きていくことはできないはずだ。ということで、今年は雨の日を除いて毎日、花壇や畑などの雑草を除去してみることにした。花壇や畑の中は抜き取り、通路など広い場所は草削り(小型の除草ホー)で取り除く。

 

 スギナに勢いがあるときは、こんな感じで地面から顔を出す。

 

P53000021

 

 しかし、毎日抜き続けていると、だんだんと細くなり勢いがなくなっていく。

 

P53000042

 

 とはいうものの、スギナはなかなかしぶとい。毎日の除草を始めてからすでに1か月以上が経つが、まだまだ生えてくる。どうやら1日に1~2センチは延びるのではないかと思う。取り残すとすぐに5センチ、10センチと伸びている。恐ろしいほど成長が早い。とはいうものの、初めのうちは1~2時間かかっていた除草が、最近では30分~1時間ほどになってきた。スギナの勢いがなくなってきたからだ。

 

 一体いつまで続けたら枯れるのだろうか? とりあえず、今年は実験ということで当面のあいだ毎日の草取りを続けようと思っている。スギナが生えなくなるだけで、庭の草取りは断然楽になるはずだ。まさに根比べだ。

 

2020年6月16日 (火)

山本太郎氏の言動から見える彼の目的

 昨日、山本太郎氏が記者会見を開き都知事選への出馬を表明した。山本氏に関してはこれまでもこのブログで何回か批判的記事を書いてきたが、以下は今日の連続ツイート。彼の扇動的な街宣や記者会見での発言を「迫力がある」といって評価したり注目する著名人もいるが、私はとても危ういと思っている。

 

~~~~~~~~~~

 

山本太郎氏が「れいわ新選組」なる政党を立ち上げてから、彼の言動を関心を持って見てきたが、彼はおそらく野党共闘などまったく関心がなく自分の支持率を上げ自分の政党を大きくし、願わくは総理大臣になり、自分の理想とする政治をすることが目的なのだろうと私は考えている。

 

彼は野党共闘とか野党統一候補に関して、必ず条件をつける。そして、他党が条件を呑まないからと他党の責任にして共闘に参加しようとしない。立憲民主党の悪口を言い、共闘の話し合いにすら参加しようとしない。一見、共闘に関心があるように見せかけているが、本音では共闘に関心がないのは明らか。

 

それならはじめから「共闘には参加しません」と明言すればいいのにそうは言わず、自分が共闘に加わらないことを他党のせいにして様々な言い訳をする。共闘に参加しないことが自公政党を利することは誰にでも分かることだが、「自分こそ庶民の味方」「自分こそ正義」を掲げて庶民の心をつかもうとする。

 

そうした行動から見える彼の目的は、「自分こそ救世主だ」「他の人には自分と同じことはできない」と生活の苦しい人たちに訴えかけることで権力を手にすることだ。彼の「総理大臣を目指す」「権力よこせ」という発言に端的にそれが表れている。後者の発言を聞いたときに、私は心底ぞっとした。

 

「権力よこせ」というのは、「権力さえ手にすれば、自分の思い通りになる」という発想に基づいている。民主主義とは正反対であり独裁者の思考だ。正直いって、安倍首相の発想とどこが違うのかと思う。どんなに「庶民の味方」を強調したところで、独善的な人物をリーダーにしたならば独裁政治になる。

 

地方自治であれ国政であれ、こういう思考の政治家を選んではならないと私は思う。彼の発言、彼の振る舞いを観察していれば、彼の目的が自ずと見えてくる。パフォーマンスの効いた迫力のある演説の裏にある彼の真の目的と独善性を、有権者はきちんと読む必要がある。

 

~~~~~~~~~~

 

山本太郎氏が野党共闘に参加する気などないことはこれまでの言動から明白だ。しかし、今の与野党の勢力を見れば、野党が統一候補を立てない限り政権交代はできないし、まして弱小政党の党首が総理大臣になどなれるはずがない。ならば彼はどうやって総理に上り詰めるつもりなのだろうか?

 

そこで思い出すのが「消費税減税で一致すれば自民党とも組む」という彼の発言だ。彼にとっての敵は自公政権ではなく、消費税減税に賛同しない人たちなのだろう。政党の枠を超えて消費税減税とMMTを基にした独自の財源論に乗ってくる人達でまとまり政権を取ることを考えているのではないか。

 

そんなやり方で政権がとれるとはとても思えないが、それにしても「消費税減税・廃止」と「借金によるバラマキ政策」にあれほどにまで固執することに、「ブレていない」というより何か異様なものを感じてしまう。経済政策とはそんな単純なものではないだろうに。

2020年5月 2日 (土)

人口あたりの死者数が極めて少ないという事実に向き合わない政府

 安倍首相は5月6日を期限としていたインフル特措法に基づく緊急事態宣言を延長する見通しを示した。緊急事態宣言の発令に際してあれほど及び腰だったのに、延長に関しては早々決断したようだ。しかも1、2週間様子を見ながら解除や緩和を見定めるというのならまだしも、1か月も延長するという。

 私には政府も専門家会議の見解も理解しがたい。この1か月の外出制限が効果がなかったとは思わない。しかし、安倍首相が一日2万人に増やすと言っていたPCR検査は相変わらず絞っている。感染者が多い都道府県では、相談窓口に電話をしてもほぼ繋がらないという状況は変わっていない。相談窓口業務が破綻している。新型コロナではないかと疑われる症状があっても放置されている人が大勢いるのだから、大都市などを中心に3月から4月には感染爆発が起きていたと考えるのが自然だろう。ただし、あまりに検査を絞っているので陽性者数から実際の感染者数を推測することもできないし、ピークに達したのかどうかも分からないという状態だと思う。あまりにお粗末だ。

 私は前回の記事の最後に「日本が西欧諸国や米国のような大変な状況になるか、それとも台湾のように比較的低い死亡率に留まるかはあと数週間もすれば分かるだろう」と書いた。それから3週間ほどたったが、日本の人口あたりの死亡者数は非常に少ない状態のままだ。現時点で100万人あたりの死亡者数は3.9人ほど。200~500人レベルの欧米諸国と比べるとけた違いに少ない。日本の場合はおそらく軽症者や無症状者の割合が非常に高く(このような人達は感染しても抗体ができていない可能性が高い)、こうした人達が気づかないうちに感染を拡大させて都市部では感染爆発が生じているが、重症者や死亡者の割合は非常に少ないというこではないかと思う。

 この要因はBCG効果によるものだろうと私は考えているが、BCG仮説を措いておいても、重症者や死亡者の割合が非常に少ないというのが事実だ。そして同じように死亡者が少ない台湾や韓国では、検査を充実させ陽性者の隔離を徹底するなどの政策だけで、都市封鎖や厳しい外出規制をせずとも何とかなっている。人口当たりの死亡者数が少ない日本も、厳しい外出規制なしでも経済活動を続けられるのではなかろうか。

 こう言うと、「医療崩壊が・・・」と言う声が聞こえてきそうだ。しかし、日本の医療崩壊は多くの病院が新型コロナ患者の受け入れを拒否しているために、受け入れをしている一部の病院の負担が大きくなりすぎているという事情がある。受け入れをしていない医療機関は閑散としているという。新型コロナ患者を受け入れる病院に対して資金援助をするなどして病床を確保することができれば、何とかなるレベルではないかと思う。

 これほど死亡者数が少ないのに政府も専門者会議もその事実をほぼスルーするのは何故なのだろう? 「緊急事態宣言を解除してもし感染者数が増加したら批判にさらされる」という自己保身から継続を主張しているだけなのではなかろうか? しかし、十分な休業補償もせずに今の規制を続けたなら、中小企業の倒産が相次ぐだろうし失業者があふれることになる。廃業したり生活が困窮する個人事業主も急増するだろう。こんな時期だから、失業してもすんなりと仕事が見つかるとは思えない。家賃が払えない、食費すらない、住まいを失うという人達がどんどん増えてしまう。十分な補償がないままではおそらく自死や飢餓で亡くなる人も続出するだろう。政府はそのことをどう考えているのだろうか?

 もちろん新型コロナによる死亡者を抑えるという努力は大切だ。西欧や米国で経済を犠牲にしてでも厳しい制限をしているのは、死者があまりに多いからだ。しかし、日本は明らかに西欧や米国とは違う。3月まではほとんど対策らしい対策をせずにきたにも関わらず今も死者数は非常に少ない状態を保っているのだ。緊急事態宣言の延長で新型コロナによる死者を減らすことばかりに拘り、別の死者を増やすということはあってはならない。死者数が少ないという幸運を生かし、そろそろ経済活動を再開させる方向に舵を切るべきではないか。5月に入っても死者数は少ないままなのだから、「これから西欧や米国みたいな悲惨なことになる」などという思考はリセットする必要がある。

 日本は他の先進国と異なり、流行早期に徹底すべきだった検査と隔離をせず、今でも検査を抑制しているゆえに実際の感染拡大の状況もピークもわからない状態になってしまった。さらに感染拡大が相当進んでから緊急事態宣言に踏み切ったために、早期の感染拡大防止に失敗。そして感染者が急増している割には人口当たり死亡者数が非常に少ないことが判明したのに、経済活動の再開よりも緊急事態宣言の延長という選択。2か月もの猶予がありながらマスクや防護服の増産体制すら整備しなかった。また、漏洩率100%の粗悪品布マスクに多額の税金をかけるという無駄。日本政府のやることは失敗と愚策に終始している。

 安倍政権は、今回の延長に関しても論理的な判断というより「延長すべきだ」という専門家や国民の声の大きさで判断しているように思えてならない。つまり国民の命や生活を守ることよりも、自身の支持率を落とさないための延長判断だろうと私は捉えている。自分の利益しか考えていない政権は、まともな対策を講じることも適切な判断もできない。

 最後に、「雲ノ平山荘」の記事を紹介しておきたい。私の言いたいことが的確に凝縮されている。「感染症が社会の主役なのではなく、あらゆる人々の生命や生活が社会の主役なのです」という筆者の言葉に深く同意する。

コロナ禍の風景① 混乱と向き合う

 

2020年4月 9日 (木)

新型コロナウイルスはどのように終息するのか

 前回の記事を書いてから、非常に興味深い仮説を知った。ごく簡単に言ってしまうと結核のワクチンであるBCGが新型コロナウイルスの重症化を抑制しているのではないかという仮説だ。さらに、BCG株には複数あり、株の違いによって効果も違うのではないかという。日本で用いられている株は抑制効果が高い可能性が示唆されている。以下の大隅典子さんのブログによる解説が分かりやすい。

【さらに追記しました】新型コロナウイルスとBCG

 また、結核罹患者が多い国ほど、100万人あたりの新型コロナウイルスによる死者数が低いということも以下の二つの地図から読み取れる。

100万人あたりの新型コロナウイルスによる死者数

結核の罹患者数

 このBCG仮説が正しいのであれば、BCGの接種率が高い国(日本のような強毒株は特に)や結核の感染者が多い国では新型コロナウイルスによる重症化が抑えられている可能性がある。ただし注意しなければならないのは、BCGを接種していても新型コロナウイルスに感染しないというわけではない。あくまでも重症化する割合が低いということだ。また、免疫が落ちていたり基礎疾患のある高齢者は重症化するリスクが高くなる。

 日本では欧米などに比べて感染爆発が遅れているように見えるが、その一つの要因は検査の抑制があるのだろう。日本の場合、クラスターや重症者に偏った検査をしてきており、症状があって検査を求めても拒否されるという事例が続出した。東京などはほとんどの人が検査拒否されてきたようだ。だから、実際の感染の広がりをつかむことができていない。たぶんすでに相当蔓延しているのではないかと思う。

 もう一つは、無症状者や軽症者が非常に多いのではないかということだ。新型コロナウイルスの特徴として感染していても症状が出ない人や軽症の人(下痢だけという例もある)が多く、そのような人が感染を広めていると考えられる。

 希望者全員に検査を行っていて症状がなくても検査を受けられるアイスランドでは、陽性になった人の50%が無症状だったという。このことからも、自分が感染していることに気づかずに他者に感染させてしまっている人がかなり多いのではないかと推測される。以下、参照。

「何年もかけて備えてきた」アイスランドではだれでも新型コロナウイルスの検査が受けられる

 BCG仮説が正しいのなら、日本ではBCG効果によって無症状者や軽症者の割合が非常に高いかもしれない。ツイッターに流れてくる情報からも、このウイルスは家族のうち一人が感染すると多くの場合は全員が感染してしまうようようで、非常に感染力が強い。とすると、東京などの人口密度の高い都市では、満員電車に乗るだけで感染する可能性が高い。感染力の強さと無症状者や軽症者の多さによって、都市部ではすでに感染が相当広まっている可能性がある(とすると死亡率はそれほど高くないのかもしれない)。これを確かめるには抗体検査が必要だ。

 もしこの推測が当たっているのであれば、今後の対策も違ってくる。この感染力の強い感染症は大多数の人が感染することで集団免疫状態になるか、特効薬ができるか、ワクチンが開発されるまでは終息しないのではないかと思えてくる。ワクチンはできるかどうか分からないし、できたとしても実際に接種できるようになるまでかなりの時間がかかりそうだ。特効薬といってもまだ確実なものはない。

 指数関数的に感染者が増加する感染症の拡大防止にはロックダウン(都市封鎖)のような政策をとるしかないが、それも感染者を急増させないことで医療崩壊を防ぐという役割にしかならないのではなかろうか。BCG仮説が正しく、集団免疫を獲得するまで終息しないとしたなら、もっとも効果的な対策は免疫の低下した高齢者やBCG陰性者に対して日本で用いている強毒株のBCGを接種することで重症化を防ぐということのように思える。

 ただし、日本ワクチン学会は新型コロナウイルスに対するBCGワクチンの有効性が確立されていないことと、ワクチンの供給量の問題から、乳児への接種以外のワクチン接種は実施しないという方針のようだ。こちら参照。

 仮に集団免疫を獲得するまで終息しないとしても、もちろん外出制限やPCR検査は感染拡大速度を緩めて医療崩壊を防ぐことにつながるから必要だし、検査拡大によって感染の広がりもある程度は把握できる。しかし、それと同時に抗体検査もやったほうがいいのではないかと思う。大都市ですでに相当数の人が感染してしまっているのなら免疫を持っている人から順次仕事に復帰してもらうとか、リスクの高い高齢者などはしばらくの間できるだけ安全なところで生活してもらったほうがいいのかもしれない。

 また、人の移動を完全に止められない以上、地方ではこれから感染が拡大していく可能性がある。人口密度の高い都市より感染拡大速度は緩やかになるだろうが、地方も油断してはならない。一旦は落ち着いても、2波、3波が押し寄せるかもしれない。いずれにしても簡単に収まるようなウイルスではなさそうだ。もしかしたらインフルエンザのように人間社会にずっと生き残るのかもしれない。

 それと、気になるのは、中国では二回目の感染で死亡する事例が報告されていたことだ。もし、抗体ができていても不十分であれば再び感染して重症化する可能性も否定できない。

 以上はあくまでも私の推測にすぎない。日本が西欧諸国や米国のような大変な状況になるか、それとも台湾のように比較的低い死亡率に留まるかはあと数週間もすれば分かるだろう。今後の報告や研究を待ちたい。

2020年3月20日 (金)

検査を抑制する新型肺炎対策は日本を滅ぼしかねない

 昨年末に中国で謎の肺炎が発生したとの報道があったときは、ちょっと気持ちが悪いくらいにしか思っていなかったが、武漢ではあっという間に感染爆発が起こり1月23日には武漢封鎖という事態にまでなった。この頃から私は主にツイッターでこの新型コロナウイルスに関する情報をチェックしていた。

 ツイッターでは患者であふれる武漢の病院や突然死する人達、病院から搬出される多数の遺体袋、公共施設にベッドを並べた仮の病院や突貫工事でつくられた専用病院、路上に放置される遺体などの映像が流れていた。若い人や子供も亡くなっている。さらに、武漢以外の都市は外出が大幅に制限され、学校の休校や企業の休業が余儀なくされたほか、マスクなしの外出は禁止、鉄道の駅やオフィスビルの入り口での検温、紙幣の消毒など徹底的な感染拡大防止措置が取られた。これらの映像を見て、中国から多くの観光客が訪れている日本も早期に徹底した対策をとらないと大変なことになるに違いないと直感した。

 ツイッターで新型コロナを警戒する私に対し「なにをそんなに怖がっているのか」と冷笑するようなことを言ってきた人もいたが、このような人は感染爆発によって多くの人が亡くなるばかりではなく、コロナをきっかけとした不況が日本の経済に決定的な打撃を与えるという危機感がないと言わざるを得ない。

 そもそも不都合な真実を何もかも隠蔽し決して責任を取らない安倍政権が、新型コロナウイルスのような強い感染力をもった致死性の感染症に対してきっちりと対策がとれるとはとても思えない。アベノミクスの失敗で日本の経済が窮地に陥っているときに、この新型コロナウイルスによる景気低迷は財政破綻を引き起こしかねない。

 案の定、安倍政権の対応は驚くほど鈍く、目先の経済ばかりに捉われているとしか思えないものだった。2月に入ってからようやく専門家会議を立ち上げたが、その専門家会議の提言は、集団感染(クラスター)対策を重視し、経済への影響を最小限に抑えるという政権に忖度しているとしか思えないような甘い内容だった。クラスターを見つけ出して追跡することで感染爆発を抑えるという理屈は分からなくはないが、その対策が有効なのは初期のうちだけだろう。専門家会議がクラスター対策を打ち出したときは、すでに日本各地に新型コロナウイルスは蔓延していた。そんな甘い対応で感染爆発を防げるはずがない。

 そして日本ではさらに驚くべきことが明らかになっている。医師がPCR検査が必要だと認めても保健所があれやこれやと条件をつけて検査を拒否する事例が後を絶たないのだ。ツイッターにはそのような事例が多数流れてきているし、北海道では国立感染症研究所から職員が派遣されてから、このような検査拒否が増えたという。国が検査そのものを抑制しているのだ。確かに検査をさせなければ陽性者は増えないし、見かけ上は医療崩壊という状況になりにくいだろう。また、肺炎で亡くなっても検査をしない事例が多いという。これは新型コロナウイルスによる死亡の隠蔽といってもいいだろう。私は中国の公表している感染者数や死亡者数は隠蔽があり過小評価になっていると考えているが、その中国でも検査は徹底してやっていた。ここまでの検査拒否をやっている国などおそらく日本だけだと思う。

 日本が検査拒否をする理由は以下のようなことではないかと考えている。①検査費用を抑えたい。②感染者数や死亡者数を少なくすることで、対策が成功しているように見せかけたい。③隔離施設の確保、ベッドや医療従事者の拡充をする気がない。④国立感染症研究所が検査データを独占したい。

 いずれにしても国民の命より、対策費を抑えることや国の体裁、利権を重視しているということだ。安倍政権の体質ならこういうやり方をするのも納得がいく。

 私が最も怒りを感じるのは、専門者会議がPCR検査の拡充や隔離施設の確保、病床・医療従事者の増強についてほとんど触れないことだ。感染症の拡大を抑えるには、まずは感染の実態を把握する必要があるし、そのためには検査による確定が欠かせない。そんなことは医師ではなくても理解できる。ところが、専門家会議の医師をはじめ、日本では多くの医師が検査の拡充を求めない。それどころかPCR検査をたくさん行うと陽性判定者が多くなり医療崩壊が起きるから、検査は重症者に限ったほうがいいと言う。これは世界の流れと逆行するし、感染者を放置することで感染拡大を助長することになる。

 感染爆発が起きている韓国はクラスター対策をすると同時に多数の検査を実施し、医療崩壊も起こさずに必死に抑え込んでいるし、その効果が数字となって表れてきている。感染爆発が続いている欧州も、検査は積極的にやっている。感染力の強い感染症は早期に封じ込めをしなければ手の付けようがなくなるのだから、当然の判断だろう。

 昨日(3月19日)は、専門家会議が新たな提言をとりまとめた。全文は以下。

「感染拡大地域では自粛検討を」専門家会議が提言【全文】

 この提言の最大の問題は、検査拒否によって実態をほとんど把握できていない日本のデータを基に語っていることだ。極端に抑制された検査の結果から導き出されたこの提言自体が茶番劇といっても過言ではないだろう。北海道では新たな感染者の増加を抑えられているというが、前述のとおり検査条件が厳しくなっているのだから感染者数の数値自体が信頼できない。また北海道の場合はマイカー通勤が多く満員電車などでの通勤は都市部に限られるし、人口密度が低いのだから感染の拡大の状況も都市とは異なることは容易に想像がつく。

 日本国内は「引き続き持ちこたえている」状況だというが、これも根拠などない。韓国や欧州での感染爆発を踏まえて、「爆発的な感染拡大を伴う大規模流行につながりかねない」と言い始めたが、これはクラスター対策と自粛という前回の専門家会議の提唱は甘かったということに他ならないだろう。

 それにも関わらず今後の対策も相変わらずクラスターにこだわり、個人や企業などの自粛がメインだ。自粛しなければオーバーシュートする可能性があると、感染爆発を国民や企業に責任転嫁している。また、医療機関については「この感染症を重点的に受け入れる医療機関の設定や、重点医療機関等への医療従事者の派遣、予定手術、予定入院の延期等できうるかぎりの医療提供体制の整備を各都道府県が実施することかが早急に必要と考えます」としているだけで、積極的な病床の増加や隔離施設の確保などには触れていない。PCR検査についても国による検査拒否への批判はなく、ドライブスルー方式や郵送方式による検査の拡充の提案もない。

 結局、日本は政府も専門家会議も経済への影響を考慮して自粛に重点を置いている。しかし、感染爆発をしている海外の状況を見る限り、日本では恐らく目に見えないだけですでに感染爆発状態にあるのではないかと思う。目先の経済を優先し感染の広がりの把握を怠る日本型の対応は、諸外国の早期発見・早期隔離と治療、都市封鎖をしてでも早期の封じ込めを図る方策とは対照的に、だらだらと長期間にわたって感染者や死者を増やし続けることになり、経済的損失も莫大なものになりかねない。

 日本経済はアベノミクスによってただでさえ危機的状況になっていたが、コロナ対策に失敗すれば財政破綻も現実のものになりかねない。そうなればすべての国民が辛酸をなめることになる。ほんとうに危機に立たされていると思う。

 なお、イタリアでは中国より致死率が高いと言われている。しかし、中国の場合は自宅で亡くなった人などはカウントされていないと考えられるので、実際の致死率は公表されているものよりずっと高いのではないかと思っている。また、新型コロナウイルスはすでに多数の型に変異しており、タイプによって致死率にも違いがあるのではないかという指摘もある。日本では複数の型が確認されており、現時点で致死率が低いとしても決して油断はできない。いずれにしても、極めて厄介なウイルスであることは間違いない。感染爆発が起きれば人の移動を徹底して制限するしか手立てがなく、決して甘くみてはいけない。

 

2020年1月17日 (金)

資本主義がもたらしたもの

 先日、辺見庸氏の「しのびよる破局」を再読した。本書は2009年3月に発行された辺見氏の思索である。つまり民主党が政権をとる前であり、東日本大震災が起きる前である。その時期に、辺見氏は「破局」を予感していた。辺見氏が本書を著してから10年以上たった今、再び読み返してみると、彼の予感はまさに的中しているというほかない。そして状況はさらに悪化している。

 民主党政権の次の第二次安倍政権を見ればもはやこの国の民主主義は死に体であり独裁者が好き勝手にやっているという状況だ。森・加計問題にしても「桜を見る会」にしても首相自らが国家を私物化し、違法疑惑を追及されても決して責任をとらず嘘と隠蔽でかわしていく。国会を軽視し、社会的に許されないことがまかり通っている。多くの国民が政府の対応を「おかしい」と思っているにも関わらず、安倍政権の暴走を誰も止めることができない。自民党が与党復帰して7年ほどでこの国はすっかりファシストに牛耳られてしまったのだ。

 また地球温暖化対策はいつまでたっても進まず、あの福島の大事故は収束の目途すらついていないのに原発を稼働しつづけている。いつまた大地震や大津波に襲われるかも分からないのに反省というものが全くない。アベノミクスは完全に失敗し、格差はさらに拡大した。日本は相当恐ろしいことになっている。

 辺見氏の言う破局とは金融恐慌のような経済の問題、地球温暖化、新型インフルエンザ、あるいは大地震などの災害だけではなく人間の内面の崩壊のことを指している。内面の崩壊について辺見氏はこう綴る。

 だから、いまなにが危機で、なにが破局なのかといったばあい、ある程度横断的に問題を整理していったほうがいいとおもうのです。経済だけではなく、むしろ経済の元を支えているいろいろな人間の動機というのでしょうか、生きていく動機のようなものが千々に乱れている。というよりも、変調をきたしている。これはもう何度もくりかえしたいとおもうのですが、人間の内面が変調をきたしている。価値観というのは人間の内面の問題ですから、いま、その内面の崩壊と、外部の世界の崩壊が、同時的に信仰しているのではないかとおもうのです。

 思えば、私たちの大半は戦後の高度経済成長によって物質的豊かさを享受し、さらなる経済成長を求めてきたのだと思う。経済が成長すれば誰もが豊かで幸せな生活を手に入れられると信じてきたのではないか。しかし、どうも人々は内面からおかしくなっている。これは辺見氏だけが感じていることではないだろう。

 資本主義というものについて、辺見氏はこう言う。

 このことに関連し、資本主義とはなんであるかぼくは自問します。端的にいって、それは〈人びとを病むべく導きながら、健やかにと命じる〉システムです。それはまた、「器官のない身体」になぞらえられます。資本主義はさらに、この世のありとあらゆる異なった「質」を、お金という同質の「量」に自動転換していく装置でもあります。「器官のない身体」としての資本主義は、そこに棲む生体としての人間の欲望をどこまでもどこまでもたきつけ、開拓し、抽出し、それを養分にして増殖し、さらにまた新種の欲望の種をまき育て、肥えていく。
 人々を病むように育て導きながら、健やかにあれと命じる資本主義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて、“狂者”を(正気を世覆った狂者が)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるのか……ぼくはそのことがとても気になります。

 私たちの多くは資本主義が幸福をもたらすと信じてきたのに、現実を見れば「一億総中流」と言われた時代はとっくに過ぎ去り、心がどんどん荒んできている。大企業であろうと中小企業であろうと労働者は奴隷のように働かせられ搾取され使い捨てにさせられたうえに富者と貧者の格差はどんどん拡大し、精神疾患にかかる者や自殺者が急増している。SNSでは貶め合いや罵倒が繰り返される。格差が憎悪を生み、憎悪が精神を蝕む。人の精神が歪み、狂ってきていると思うほかない。

「豊かになる」といいながら、じわじわと人の心を崩壊させているものの正体は、やはり資本主義だと考えるしかない。ところが恐ろしいことに大半の人々は資本主義のもたらした心の崩壊に気づかない。だからこそ、辺見氏は問う。「人間とはいったいなにか」「人間とはいったいどうあるべきなのか」と問い、資本への疑問を投げかける。

 とりわけ小泉政権以降、この国は米国と同様の新自由主義路線をとりつづけてきたが、2012年からの安倍政権はさらに大企業優遇に走り労働者を見捨ててきた。アベノミクスであたかも経済が好転するかのように喧伝したが、結局は国債という借金を増大させ、国民を貧しくさせただけだった。この経済政策の失敗のツケは近い将来私たちに襲いかかってくるだろう。

 この悲惨な状況の中でさらに懸念されることがある。それは安倍政権に代わる新たなファシズムの台頭である。再び辺見氏の文章を引用しよう。

 ぼくがいまの日本の文化は腐敗している、そんなものは叩きつぶしちゃえと、テレビのお笑いやめちまえ、壊しちゃえというとしたら、それは三〇年代のドイツみたいなことになるのかもしれないとおもうのです。世の中を“浄化”するとか、改革するとかいう、かならずそういう人たちがでてくる。しっかり見ておいたほうがいい。ヒトラーのナチスは改革派として、しかも“社会主義者”として登場してきたのだから。それを忘れてはいけない。異様な顔をしてでてきたのでは、ちっともないのです。

 実質賃金が上がらず国民がどんどん苦しくなっていく中で、独裁となっている安倍政権にそれなりの人々が怒りを感じている。そこに登場したのが山本太郎氏率いる「れいわ新選組」なる政党だ。MMT(現代貨幣論)を基にした無謀な経済政策を掲げ、消費税を悪税だと言い切って、自分が権力者となって「世の中を変える」と息巻いているのが彼だ。今はほんの1%ていどの支持率だし大多数の人は相手にしていないと思うが、独裁的という意味では安倍政権と何ら変わらない。

 さて、辺見氏は「しのびよる破局」の根源として資本主義に疑問を投げかける。これは私もまったく同じだ。私自身、若い頃から資本主義は富の偏在を生み出しいつか行き詰まると思っていたし、人間の限りない欲望を利用し、資源を食いつぶし、いつか破綻するシステムではないかと懸念していた。そもそも、資本主義は持続可能なシステムではない。そして資本主義が成熟した今、その限界が見えてきたように思う。格差を拡大させ、人々が疲弊し、精神を病むような社会はまともではない。

 ツイッターを見ていても、憎悪の感情が溢れている。それは決してネトウヨと呼ばれる人達に限らない。他人を小馬鹿にし、罵り、貶める人々。嘘やデタラメを垂れ流す人々。ネットの世界で見ず知らずの人達が罵り合って、いったい何をしたいのだろう? こうした罵声も、資本主義がもたらした精神の荒みからきているのだと思えてきた。

 これまでは「経済成長」が人々の欲望を喚起させてきたが、資本主義の末期に至って経済成長は鈍り、人々は苦しさと虚しさに苛まれている。もはや資本主義に期待する時代ではない。さりとて資本主義に代わるシステムがどんなものなのかと問われても、私には分からない。ただ、これまでのように経済成長を求めつづけることにはならないということだけは言えるのではないか。たとえ求め続けても終焉にさしかかった資本主義ではもはや大きな成長など不可能だろう。

 正常な精神状態の社会とは、おそらく成長をめざす競争社会ではなく、大きな成長がなくても人々が支え合い助け合うような社会だと思う。人の欲は制御できないとしても、欲に踊らされない協力的な社会に変えていくことでこの狂気の世界から抜け出すしかないのではないか。成長神話から脱し持続可能な社会を築く努力をすることにしか人類の生きる道はないような気がする。

 ともあれ、社会のシステムを一気に変えることはできないのだから、現実的にはしばらくはこの資本主義のシステムを継続しながら格差の是正を図っていくしかないだろう。ただし大きな成長を求めないという思考の転換が必要だし、一刻も早く新自由主義的な思考から抜け出す必要があると思う。そしてとりあえずは幸福度が高い北欧型の社会を目指すというのが最善の選択のように思われる。

 そのために日本人に最も欠けているのは、主体性だろう。日本の社会では「出る杭は打たれる」を恐れておかしなことにも異を唱えず見て見ぬふりをする人が非常に多い。要は自分が不利になったり損をしないようにふるまう習慣がついている。さらに新自由主義的な自己責任論がはびこってしまった今、人々はますます自己中に陥っているように見える。そんな中で「協力」や「支え合い」あるいは「信頼」を築いていくのは並大抵のことではないが、そこにしか明るい未来はないと思う。

 

 

2019年12月18日 (水)

山本太郎批判は野党を分断し与党を利するのか?

 私はツイッターでれいわ新選組(以下れ新と略す)や党首である山本太郎氏の批判をしているが、「野党支持者が山本太郎氏の批判をするのは野党の分裂につながり自公を利するからやめるべきだ」という意見をときどき見かける。しかし、私はこうした意見には賛同できない。与野党問わず、政治について批判的な見方をすることは「どのような社会にしたいのか、そのためにはどうすべきか」という提言と共に非常に重要なことだと思っているからだ。そこで、政治に関する批判について私見を述べておきたい。

 政党の政策や政治家の姿勢について意見を持ち発言することは当然の権利だし、おかしいと思うことを率直に言えるというのが民主主義の基本であり表現の自由だ。この権利は誰も侵してはならないし、そもそも他人の口を封じることなどできない。平和で安心して暮らせる社会を構築するためにも政治に対して批判精神を持ちつつ合意形成によって社会をより良く変えていくことは、国民としての責務だと思う。

 ただし、批判する相手は政党の政策や、公人である政治家、政党党首のほか、影響が大きく公人に準ずる立場である著名人や知識人、文化人、専門家、ジャーナリストやメディアに限るのが基本だと思う。政党や、公人および公人に準じる立場の者に対する正当な批判は公共性や公益性があり、虚偽でなければ通常は名誉棄損に問われることはない。

 従って、私は自分とは意見の異なる一般人に対して名指して批判することは原則としてしないようにしている(ただし事実誤認は指摘することがある)。個人がどの政党を支持するかも、政治的にどのような考えを持つかも自由であり、それにいちいち反応して目くじらを立てるのは思想信条の自由を尊重する態度ではない。自分の主張はするが、他者の主張も尊重するというのが民主主義のルールだ。

 立憲民主党も共産党もれ新も自公政権を倒したいという方向性は同じだが、基本的考え方や政策は異なっている。だから、立民支持者が共産党やれ新の政策や政治家を批判することもあるだろうし、共産党支持者が立民やれ新の政策や政治家を批判することもあるだろう。れ新の支持者にも同じことが言える。

 野党支持者であっても人それぞれ考え方が違うのだから、個々の政党の掲げる政策や政治家の姿勢が納得できなければ批判するのは当然のことだ。そうした批判は野党内の紛争や分裂とは言わない。公党や公人である以上、批判は受けて立たねばならないし、誠実に対応すればいいだけの話だ。

 野党の政党同士がいがみ合っていれば、確かに与党を利するだろう。しかし、今は野党は共闘を進めておりいがみ合いはそれほどない。では、冒頭で述べた「野党支持者が山本太郎氏の批判をするのは野党の分裂につながり自公を利するからやめるべきだ」という主張はどうして生じるのだろうか? 私は、意見の異なる野党支持者同士が言い争うことが問題ではないかと思っている。

 一般市民の論争や紛争は個人的な権力闘争(論争での主導権争い)であり、公共性も公益性も乏しい上に一般の人に悪印象を与えてしまう。野党支持者同士の批判と応戦は内紛と見られ、無党派層から敬遠されて与党を利することにもなりかねない。本来なら政策や政治家そのものに対して批判をすべきなのに、批判の矛先を一般市民の言論に向けることで内部紛争を印象づけかねない。

 そもそも、なぜ野党支持者同士が争ってしまうのか? 私は「議論」そのものを否定するつもりはないが、議論というのは意見を異にする者たちがお互いに理解を深める努力をすることでより良い提案をしたり問題解決を図るためにするものだと思っている。だから、そういう姿勢がない人と議論しても意味がない。

 そういう姿勢がない人というのは、競争心が強く劣等感の強い人ということになる。このような人は相手を言い負かすために議論をふっかけて相手の意見を否定する。あるいは自分の意見こそ正しいと主張して相手を説得したり屈服させようとする。これは意見の強要であり他者の支配ともいえる。ツイッターで個人の意見に反論してくる人の大半はこのようなタイプだ。

 反論の目的が初めから個人間の「権力闘争」や意見の押しつけだから、建設的な意見交換にはなり得ない。もし個人に対して異論や反論があるのなら、個人に直接返すのではなく「こういう意見があるが、自分はこういう理由でこう思う」と主張すればいいのだ。こうすれば紛争状態にはならない。

 一市民の見解を否定して論争をふっかけてくる人達は、批判の矛先を間違えていると思う。れ新の支持者が、れ新の政策こそ正しく他の野党の主張は間違っていると考えるのなら、他の野党の政策のどこがどう間違っているのか主張するのが筋だ。一市民を批判するのはお門違いというものだろう。

 だから、私は政治問題で異論・反論をふっかけてくる人は原則として対応しないことにした。相手の土俵に乗りさえしなければ紛争状態にならないし、第三者が見ても内部紛争を起こして与党を利しているようには見えないと思う。

 最後に、なぜ私が山本太郎氏の批判をするのか、今一度明らかにしておきたい。

 一つは、彼の財政政策だ。彼の主張する消費税廃止とMMTを基にしたバラマキ政策を実行したなら、最悪の場合財政破綻を招きかねないし、財政破綻しなくとも将来世代に大きな負担を強いることになる。具体的には過去記事をお読みいただきたい。

 二つ目は、彼の主張の正しさの問題がある。彼は、誤った認識(例えば今はデフレだという主張)を振りまいたり、不正確な言説を振りまいたり、誇張やミスリードをしたり、根拠を示さず他の野党の批判をしている。具体的なことはツイッターやブログで指摘しているのでここでは言及しないが、多くの人が同じ指摘をしている。

 三つ目は、彼の手法の問題だ。私の目から見れば、彼の街宣は明らかにマインドコントロールの手法と重なる。マインドコントロールとは、あたかも自分の意思で選択したかのようにあらかじめ決められた結論に誘導する技術や行為のことを指す。要は騙しだ。例えば複雑な物事を単純化して繰り返すことで刷り込むという手法がある。増税を嫌う市民感情を利用し、消費税の欠点だけを強調して悪税と断言したり、複雑な経済を無視して消費税廃止が景気回復につながると断定し、消費税廃止論に誘導することなどもマインドコントロールだろう。弱者の不安や不満を利用して「こうすれば一挙に解決する」と提示し安心感や希望を与えたり、他の野党の批判をして差別化を図ることで自党こそまっとうな政党であると印象づける手法も当てはまると思う。

 こうした手法はナチスでも用いられていた。以下の記事にゲッペルスの宣伝術について詳述されているが、とても興味深い。

ゲッペルスの宣伝術について

 これを読むと、宣伝は識者ではなく大衆にのみ向けるべきであること、宣伝は大衆の注意を喚起するものでなければならず大衆の感情的観念界をつかんで心に入り込むことが必要であること、重点を絞りスローガンのように利用し継続的に行うこと、などの手法を用いていたことが分かる。「街頭を征服するものは、いつか必ず国家を征服する。なぜならあらゆる権力政治や独裁政治はその根を街頭にもっているからである」などという記述にはドキリとさせられる。こうした手法を山本氏が自覚しているかどうかは分からないが、彼の街宣にかなり当てはまる。

 街頭記者会見の質問でも、真正面から答えられないことに関しては質問の趣旨から逸れた自説を主張して、なかば誤魔化してしまう。図表などを使い、一見、ていねいに説得力のある説明をしているように見えるが、正面から答えられないことに関しては論点を逸らして自己主張にすり替えるところは非常に巧みだ。

 四つ目は彼の矛盾した言動だ。野党が共闘しないと与党を利することになると言いながら、野党共闘の話し合いに積極的に参加する姿勢がない。それどころか「だらしない野党にお灸を据える」「消費税5%に同意しなければ共闘できない」などといって、野党に刺客を立てると言う。野党を分断し与党を利する行為に他ならない。明らかに矛盾した言動だ。実に傲慢であり、合意形成を重視しているとはとても思えない。

 五つ目は、政党組織の問題がある。最近になって党の綱領や規約がHPにアップされた。私はこれを読んで仰天した。代表や役員の選出についての規定が何もない。しかも、この規約に定めていない事項については代表が決定する(第12条)とのこと。民主的な党運営どころか代表の独裁政党といっても過言ではない異様な規約だ。山本氏の独裁的性格がよく表れている。

 以上のことから、私は山本太郎氏は独裁的で危険な人物ではないかと疑っている。

 れ新支持者で立民支持者を批判、攻撃している人が一定程度いるが、立民支持者を批判するのではなく、是非とも立民の政策や政治家の姿勢について具体的に根拠を示して批判してほしいと思う。そうしてこそ、公共性・公益性のある批判になる。

 

 

 

2019年11月22日 (金)

消費税は大企業と富裕層の優遇目的に導入されたのか?

 ツイッターでは消費税が法人税減税と所得税減税の穴埋めのために導入された、即ち大企業と富裕層の優遇のために使われた、ゆえに社会保障などには使われていないという主張がかなり見受けられる。

 法人税や所得税の減税は以前からのことだが、今頃になってこのような穴埋め論を主張して消費税廃止を叫ぶ人が増えたのは、「れいわ新選組」の山本太郎氏が街宣で声高にこのような主張を始めたことが大きく関わっている。さらに、日本共産党の志位委員長まで穴埋め論を主張しているので、これを信じている人は少なからずいる。

 では、本当に消費税は大企業や富裕層の優遇のために導入されたのだろうか? 日本の複雑な税制について分かりやすく解説している三木義一著「日本の税金 第3版」(岩波新書)から、関連部分を引用して検証してみたい。

 まず、三木氏は本書の序章(7ページ)で以下のように記している。

 戦後日本の税制改正は、自然増収を背景に、消費税騒動を除いては、基本的に減税の歴史であった。さらに、バブルがはじけたあとも、政権党は政権を維持するために減税を続行してきた。減税を維持するために国債を乱発し、未来の税収が先食いされてきた。そのため、市民が愛想を尽かして政権交代させたときには、新政権には新政策に使う資金が枯渇していた。政権交代の意義を失わせる財政状態になっていたのである。
 政治家も減税を主張するのが正義であるかのように振る舞った。本来、「減税」を要求するのは富裕層で、国に自分の財産は出さない、その代わり、国は何もしなくていい、という発想のはずである。これに対して、一般市民は増税による公的資金の確保で社会保障の充実を願うはずなのに、減税が正義の味方の主張としてまかり通ってきた。
 もちろん、これまでの増税論の多くが、高所得者の適正な負担を求めるものではなく、中低所得者層の負担増を意図したものであったことも影響していたが、こうした税制改革の結果、日本の税制はかなりやせ細っている。日本は、税の負担率は低く、公務員の人口比率も低い、小さな政府になっている。

 高度成長期は減税しても何とかなっていたが、バブルがはじけた後も自民党政権は国民の支持を得ることを目的に減税を続けてきたことをまず認識する必要がある。もちろん減税はこそこそと秘密裡に行われたわけではない。税負担を嫌う国民が減税政策を支持してきたということを多くの人が忘れてしまっている(あるいは知らない)のではなかろうか。要は、国民自身が「減税」という甘言に誘惑され「小さな政府」を支持してきたのだ。

 しかし、減税をすれば当然社会保障費は足りなくなるので国債を増やさざるを得ない。政権維持のために減税をして不足を賄うために国債を乱発した結果、日本の借金はダントツ世界一に膨れ上がった。その責任はもちろん政権政党にあるが、国民も増税を忌避して減税政策に乗ってしまったことは否めない。

 消費税が社会保障には使われていないという主張がある。しかし社会保障費を国債で賄ってきた以上、その返済に消費税を充てたからといって文句を言う筋合いではないと思うし、社会保障には使われていないという主張も正確ではない。

 民主党政権は公約を破って消費税増税に賛成したと盛んに批判されるが、三木氏の指摘するように民主党に政権交代したときには自民党の減税政策のために財源が枯渇し、借金の山になっていた。消費税増税という判断は、社会保障費の確保や財政の健全化のためにやむを得ない選択だったと言えるだろう。

 また、法人税の減税は日本に限ったことではなく世界的な流れだ。三木氏によると、法人税引き下げ競争の仕掛け人はアイルランドで、1988年には47%に達していた法人税率を12.5%にまで引き下げたとのこと。これによってグローバル企業がアイルランドに投資を始め、欧米各国が減税競争に引き込まれた。法人税についてはグローバルな視点でとらえる必要があり、国際的な競争を考えるなら日本だけが減税をしないということにもならない。

 とは言うものの、日本の法人は100の所得のうち課税対象になるのは31.9%で、世界的に見ると低い数値であり(アメリカ49.3%、イギリス63.4%、ドイツ48.9%、フランス47%)まだ増税の余地はあると言えるだろう。

 法人税減税は財界の望むところではあるにせよ、単に大企業を優遇するという目的だけで減税がなされてきたわけではない。

 では、消費税は所得税や法人税の穴埋めのために導入されたのだろうか? 消費税が導入された理由は、以下の3点だ。

1.税制全体の公平性の確保
2.個別間接税の問題点の解決
3.高齢化社会への対応

1は、いわゆるクロヨンと言われる所得税の把握率の問題だ。給与所得は源泉徴収によって9割は把握されているのに対し、事業所得は6割、農業所得は4割という把握率であり、納税者に不公平感があったため、格差を是正するために消費税が必要だとされた。

2は、消費税導入前には間接税として贅沢品に課税する物品税があったが、贅沢品とすべき物品の判断が困難になってきたことから、物品税を廃止して消費税にするということ。

3は、少子高齢化による社会保障の増大に充てるということ。

 ただし、1のクロヨン問題については消費税導入後にこの格差が縮まったというデータはないようだ。結局、消費税導入の最大の理由は3の少子高齢化への対応ということになると思う。少子高齢化により労働者人口が減る半面、高齢者が増えて年金や医療、介護などの費用が増加することは以前から分かっていたが、国債だけに頼りつづけると借金返済で財政が火の車になることは目に見えている。極端な少子高齢化への対応として消費税導入はやむを得ない選択だったと言えるのではなかろうか。

 消費税廃止派の人たちは、法人税や所得税を増税すればいいと言う。そのこと自体は私も賛同する。ただし、法人税を支払っている大企業はごくわずかであり、増税したところで大きな税収増は見込めないだろうし、あまり税率を高くすれば国外に逃れてしまうという事情もある。

 また所得税の累進的課税をすればいいという主張もあるが、富裕層は多くはない。所得税の累進化を強めることで消費税分を賄うというのは以下の記事で指摘されているように現実的ではない。

所得税の累進課税強化では財源確保できない(東洋経済)

 所得税の累進制を強化したり法人税を上げたとしても、消費税分を賄うことは無理だろう。もちろん米国の武器を爆買いなどの無駄の削減も必要だが、それだけでは十分な財源確保はできない。一方で社会保障費は右肩上がりに増え続けている。財政赤字も将来的には減らしていく必要もある。消費税をなくしてしまったらいったいどうやって財源を確保するのだろう?

 財源確保のための財源がどうしても消費税でなければならないとは言わないが、消費税が安定的な財源で大きな税収をもたらすことは間違いない。給付付き税額控除を取り入れることで消費税の逆進性の問題はほぼ解決できるし、消費税に限らず低所得者の税負担軽減効果が大きくなる。詳細については本書に譲りたい。

 所得税減税や法人税減税、そして消費税導入の経緯を振り返れば、決して「大企業と富裕層を優遇するための政府の謀略」などという陰謀論じみた話ではないことが分かると思うし、国民自身が減税を支持してきたという事実を忘れてはならない。

 いずれにしても国会議員や政党党首は単に消費税の賛否を主張するだけではなく、日本の税制についてしっかり学ぶ必要があるし、私たち国民も税金への理解を深める努力をしなければ、自分で自分の首を絞めることになると思う。少なくとも「減税」というのは「小さな政府=自己責任」の考え方であることを肝に銘じてほしい。

 

 

 

2019年10月 9日 (水)

野党共闘では消費税は棚上げに

 れいわ新選組の山本太郎氏が、野党共闘の条件として消費税5%への減税を頑なに主張し続けている。他の野党が消費税5%を呑まなければ独自の闘いを進めるというようなことも言っているようだ。

 安倍政権の勢いは衰えず、今も支持率は50%近くある。しかも衆院選は小選挙区制なのでひとつの選挙区で当選できるのは1人だけだ。こうした状況の中で政権交代を目指すのなら野党が選挙協力をして候補者を1人に絞るしかない。もちろん、それでも政権交代は相当厳しいだろう。選挙協力しなければ政権交代など到底できないことは、山本太郎氏だって百も承知のはずだ。

 今の状況で、ほとんど独裁といえる安倍政権を退陣させるためには、野党(維新とN国を除く)が共闘して衆院選で過半数の議席を得、連立政権で政権運営をしていくしか道はない。

 では、選挙協力とか共闘というのはどういうことなのか? 連立政権を成功させるにはどうしたらいいのか?

 方針や政策が異なるから複数の政党が存在する。それらの政党が違いを乗り越えて協力関係を築かない限り選挙協力とかとか連立政権は成り立たない。共闘や連立政権のためには絶対に「協力」あるいは「折り合いをつける」という考え方が必要だ。話し合いの中で自党の主張をするのはいいが、そこで意見を戦わせるのではなく、お互いに他党の考えを聞いて理解する努力をした上で一致点や妥協点を探る、という思考ができなければ共闘などできない。仮に、政権交代を果たし連立政権で政権運営をすることになったとしても、こういう思考ができなければ内部で意見が対立し政権運営自体がうまくいかないだろう。

 先の参院選では立憲民主党、国民民主党、日本共産党、社会民主党、社会保障を立て直す国民会議の5野党・会派と「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」が13項目の共通政策に合意をし、野党と市民が協力して選挙戦を闘った。政党だけではなく市民が協力して野党共闘を実現した。その合意事項はこちらを参照していただきたい。

 9月12日、共産党の志位委員長とれいわ新選組の山本代表の党首会談が行われ、野党連合政権をつくるために協力すること、並びに野党と市民連合による13項目の政策合意を土台にするという確認がなされた。つまり、山本氏は上記の13項目を土台にすることを認めた上で、野党連合政権への参加の意思を示したということになる。

 13項目の合意事項の中で、消費税に関しての合意は「2019年10月に予定されている消費税率引き上げを中止し、所得、資産、法人の各分野における総合的な税制の公平化を図ること。」である。

 しかし、参院選ではこの野党の意見は支持されず10月に10%への増税が実施された。次の選挙ではこれを踏まえ、再び話し合いによって合意内容の修正をしなければならない。ところが、これに関して、山本氏は話し合いをする前から「5%で合意できなければ共闘に参加しない」と主張しているのだ。先の共産党との合意を反故にしたといってもいいような発言だ。

 消費税に関しては各党で意見の違いが大きい。共産党とれ新は廃止を求めているが、立民は減税には慎重な姿勢をとっている。民主党政権では事業仕分けで不要な支出を抑えたものの税収が足りず消費税増税へと舵を切らなければならなくなったのだから、減税に慎重になるのは当然のことだ。第三者が見ても、消費税の税率で妥協点を見出すのは困難としか思えない。

 しかし、税制に関して言うならどの党も法人税や富裕層への累進的課税の必要性は認めているのだから、消費税率に関しては棚上げし、たとえば「法人性や富裕層への累進課税を進め、税のベストミックスによって社会保障の充実を図る」というような内容なら、反対する政党はないように思う(れ新とていきなり消費税を廃止しろと言っているわけではなくまずは5%への減税だと言っているのだから、消費税を含めたベストミックスを否定することにはならないだろう)。その上で、消費税に関しては各党がそれぞれの考え方を主張していけばいいと思う。

 消費税に関し、自分の選挙区の野党候補者と意見が異なっていた場合は比例区で自分と一致する主張をしている政党や候補者に投票し、選挙区では野党統一候補に入れる、ということにすれば大きな混乱は生じない。野党が選挙協力し選挙区で統一候補を立てるということは、自分が支持しない野党候補者に入れざるを得ない場合もあり得るということだ。これに文句を言っていたら共闘などそもそもできない。

 こうした妥協ができないという人には野党共闘は無理であり、独自に闘うしかない。もちろん独自に闘い小選挙区に刺客を立てるということなら共闘とは正反対の行動をとるということであり、結果的に与党に与することになる。

 政策の異なる政党同士が選挙で共闘するということは、一致できる政策に焦点を絞り、一致できない政策は共闘に持ち込まないというのが基本だ。もちろんその後の政権運営についても同じで、例えば共産党が共産主義を目指す政党であるからといってそれを政権運営に持ち込んでしまったら連立政権がうまく機能しないのは目に見えている。そこは引っ込めなければならないし、実際に共産党も持ち込むことはしないだろう。

 5%にこだわり続けている山本太郎氏は、残念ながら「協力する」とか「折り合いをつける」「異なる考えを尊重する」といった思考をしない人のように思える。自分が主導権を握り他者を自分に従わせなければ気が済まない性格なら、たとえ政権交代をして野党の連立政権が誕生したとしても、他党と協力して政権運営をすることは難しいし、政党のリーダーとしても相応しくない。

 山本氏の主張をそのまま鵜呑みにし「消費税は悪税」「消費税が景気後退を招いている」と信じ込んでいる人たちは、山本氏の姿勢に何ら疑問を抱かない人が多いようだ。そのような人たちも、やはり「協力」とか「異なる考えを尊重する」という思考ができない人たちなのかもしれない。結局それは自己責任の新自由主義の考え方と重なるのだけれど。

 山本氏が野党統一候補に刺客を立てるという選択をしたなら誰もそれを止めることはできないが、結果的に与党に与する彼を支持者はどう見るのだろうか。

 

2019年9月23日 (月)

山本太郎氏への疑問

 山本太郎氏が4月にれいわ新選組(以下、れ新と略す)を立ち上げてから、私はずっと彼に対して釈然としない気持ち悪さを抱いてきた。そして彼はメサイアコンプレックスではないかという疑問が日に日に強まってきた。

 メサイアコンプレックス(以下メサコンと略す)については以前も記事にしたが、ここで書いた事例はあくまでもごく一般の人のことでありいわゆる広義のメサコンのことだ。このような一般の人に関しては、日常生活において距離をおくことでトラブルを回避することができる。

 これに対し、狭義のメサコンというのは、個人が救世主(メサイア)になることを運命づけられているという信念を抱く心理状態のことを指す。そのために他者を助ける行動をするのだが、それは優しさや思いやりからの行動ではなく、自分を満たすためという隠れた目的がある。人を助けることによって自分の価値を見出し、自分を満たそうとするのだ。メサコンの人助けは偽善といっていい。以下参照。

偽善者の心理「メサイアコンプレックス」って知ってる?

 れ新の代表である山本太郎氏はこの狭義のメサコンではないかと私は疑っている。私は精神科医ではないので彼がメサコンだと断定することはできない。しかし、彼の言動には、メサコンを感じさせるものが多数ある。山本太郎氏は自分のことを疑ってくれと言っているが、その言葉どおり私は彼について大いに疑っている。ここでは、私が山本太郎氏をメサコンだと疑う理由とその問題点について指摘しておきたい。

 今は消えてしまったようだが、れ新がホームページを立ち上げた当時、「あなたを幸せにしたいんだ!」とか「本物の好景気を見せてやる」といったキャッチコピーが大きく掲載されていた。前者はれ新の政策が実現できればあなたを幸せにできる、と謳っているのだろう。後者もれ新の財政政策を実現できれば本物の好景気が訪れみんなを幸福にできるという主張のように読み取れる。つまり、自分が政権をとれば困っている人を救済して幸せにできるのだと言っているに等しい。まさに救世主の思考そのものだ。

 そもそも「幸せ」というのは他人が与えるものではないし、まして政治家が国民に与えるものでもない。幸福感とは個人個人の生き方、物事の捉え方の問題であり、金銭的に恵まれていても幸福感を持てない人がいる一方で、貧しくても幸福な人もいる。それが分かっている人なら「あなたを幸せにしたいんだ」などというセリフは決して出てこないだろう。「あなたのために」というのはメサコンの特徴だ。

 れ新の政策の一つに奨学金チャラというのがあるが、彼は街頭演説で奨学金を借りている若者たちに「ごめんね」と謝っている。若者が多額の奨学金を借りて返済に苦労しているのは事実であっても、それは山本氏の責任ではないのだから彼が謝るのはおかしな話だ。しかし、こうやって謝り奨学金チャラを訴えることは、今は自分の力が足りないから苦しい思いをさせているけれど自分が政権をとったら奨学金をチャラにして助けてあげる、と言っているに等しい。これも救世主願望からくる発言に思える。

 れ新のホームページに掲載されている政策を見ると、経済的弱者救済のためのバラマキ政策が上位に掲げられている。ページの頭には「れいわ新選組は、ロスジェネを含む、全ての人々の暮らしを底上げします!」と書かれており、ここでも人々の救済を目玉にしている。

 そしてその政策を実現するのが「薔薇マークキャンペーン」と同じ発想のバラマキ政策だ。山本氏は薔薇マークキャンペーンの代表である松尾匡氏の「この経済政策が民主主義を救う」を読んで感銘し松尾氏に弟子入りを志願したそうだが、松尾氏の理論なら彼が望む「全ての人の暮らしを底上げ」する救済政策が可能だ。だからこそ、これに飛びついたように私には思えてならない。つまり、他の専門家の意見を聞くなどして松尾氏の経済政策を吟味することなく、救世主になるという目的を叶えられる理論に熱中し傾倒してしまったように見える。

 れ新は7月の参院選で重度の難病と障害者のお二人を特定枠を利用して当選させた。難病や障害者の方が国会議員になること自体は否定しない。しかし、彼の場合は自分が落選してもこのような方たちを優先的に国会に送ることで自分が称賛され評価されることまで計算していたのではないかと思えてならない。承認欲求の強いメサコンは、自分が称賛されることで欲求が満たされるので、評価されるための行動をとる。実際、こうしたやり方は注目を浴び、彼を持ち上げた人は多い。

 彼がメサコンではないかと思う理由は他にもある。彼は野党共闘の条件として「消費税5%」を掲げている。先日、日本共産党の志位氏とれ新の山本氏が野党連合政権について合意を交わした。そこでの合意事項は以下である(れ新のホームページより)。

一、野党連合政権をつくるために協力する。
野党と「市民連合」との13項目の政策合意を土台とする。
一、安倍政権が進めようとしている9条改憲に反対する。
一、消費税については以下の点で協力していく。
1、消費税10%増税の中止を最後まで求める。
2、消費税廃止を目標とする。
3、廃止にむかう道筋、財源などについて協議していく。
4、消費税問題での野党共闘の発展のために努力する。

 この合意事項を読む限り、「消費税については野党と市民連合の8%で凍結(10%阻止)を土台とした上で、野党連合政権のために協力する」、ということで合意したと理解できる。つまり10%になる前の段階ではそれを阻止するために協力するが、10%に増税された後のことは決まっていないので、野党共闘を目標に話し合いで一致点を見出す努力をするということだ。

 ところが、彼は野党で共闘の話し合いをする前に「野党が塊になり、消費税を5%に下げることで一緒に戦えるなら、れいわ新選組は捨て石にもなるつもりだ。ただ、これは他の野党の考えもあることで、かなうかはわからない。そうならない場合は単独でやるしかなく、仁義なき戦いが繰り広げられる。」と言い出して合意を反故にしたのだ。(「消費税5%で野党共闘なら捨て石にも」山本太郎氏

 公党同士の約束を簡単に破り、自分勝手な条件を掲げて、他の野党がそれに従わなければ対抗馬を立てると言っているのだ。地道な合意形成のための努力をしようとせず競争的・闘争的な性格であることがよく分かるが、こうした自己中心性もメサコンの特徴だ。共産党は、消費税減税・廃止のために利用されたといっても過言ではない。メサコンの人は自分の目的や利益のために他者を利用する。さらに、独自路線をとりたがる姿勢には、自分の支持者や所属議員を増やして単独政権をとりたいという野望が見え隠れする。一刻も早く権力を握って救世主になりたいという願望が強いことの表れではなかろうか。

 過干渉の親など、メサコンの人は多い。また、単なる一議員であるならそれほど問題は生じないかもしれない。しかし、狭義のメサコンの人が権力を握ったら私はかなり危機的なことになるのではないかと危惧している。

 なぜなら、メサコンは救世主妄想だからだ。妄想というのは訂正のきかない思い込みのことを言うが、自分が救世主になるなどということ自体が妄想そのものだ。ところが本人は正義だと思い込んでいるゆえに他人の助言など聞く耳を持たない。よく考えれば分かるはずだが、れ新の掲げる政策は政権をとったらすぐに実行できるようなものではなく、もし「すぐに実現できる」と思っているのならそれも妄想だろう。妄想で自分勝手な政治などされたらたまったものではない。彼は総理大臣を目指しているようだが、野党第一党でもない弱小政党の党首がそんなことを平然と言ってのけることも妄想状態にあるからではなかろうか。

 メサコンは自己中心的で他者を支配したがる傲慢な性格なので、もし政権をとるようなことになれば独裁政権になる可能性が高い。そして、「国民のため」「弱者のため」といって自分の主張や政策を押し付けようとする。他者を利用することばかり考えているのでトラブルを起こし、まわりの人を巻き込んでいく。競争的・闘争的なのでトラブルが生じても民主的な解決をしようとしない。リーダーとしての資質に欠けるというより、リーダーにしてはいけないタイプだと思う。

 私はれ新という政党自体がかなり独裁体制になるのではないかと思っている。現に、れ新はホームページに規約や綱領を掲げておらず、代表や役員の選出方法や任期など全く分からない。民主的な政党であれば、政党を立ち上げたら速やかに規約や綱領を作成し公表するのではないかと思う。しかし山本氏は規約を公表することもなく全国行脚に出かけてしまった。来る衆院選に向けて、支持者を増やし候補者を探したいという欲望が見え見えだ。

 ちなみに、以下によると、ヒトラーはメサコンであったという分析もあるそうだ。

第二次世界大戦中のヒトラーの精神分析に関する機密文書が発見された

 ヒトラーが被害妄想によってメサコンに陥り、ユダヤ人こそ悪だと考えて大虐殺を実行したというのは、あり得なくはないと思う。もちろん山本氏がヒトラーのようになるなどと言うつもりはないが、政権を握れば独裁的にはなるだろう。

 このように、彼がメサコンだと仮定すれば、今までの彼の言動はすべて納得がいく。山本氏をカリスマなどと持ち上げる人がいるが、私から見たらカリスマなどではなく、肥大した救世主妄想としか思えない。彼がメサコンであるのなら、彼を支持したり評価することは彼の優越感を満たすことになり、彼に利用されていることになる。彼にとっては思う壺ということだ。

 弱者を救うことを強調した演説に感動して支持し応援したものの、その人物が偽善者であれば騙されて大変な目にあうのは私たち国民である。とりわけ財政政策に失敗したなら財政破綻という最悪の事態にもなりかねない。まあ、彼の総理大臣願望は妄想だろうし実現することはないと思うが、野党がかき回され与党を利することになりかねないのは大きな懸念だ。

 私の疑いが当たっているかどうかは分からない。しかし、「世のため人のため」と言う人の中には救世主妄想を持っている人が存在すること、そしてそのような人物を権力者にしてはいけないことは頭に入れておくべきだと思う。

 

 

«山小屋弁護士

フォト

twitter

2020年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のトラックバック

無料ブログはココログ