2017年3月16日 (木)

安倍政権を支えている褒賞システム

 昨日の内田樹さんのツイートを見て、安倍首相のあの強引な姿勢がものすごく納得できた。内田さんの連続ツイートは以下。

 安倍首相が喜ぶことをする、たとえば「日本会議に入る」「靖国に参拝する」「教育勅語をほめたたえる」・・・それに応じて褒賞が与えられる。なんのこっちゃない、安倍首相はご褒美をあげることで、人を操っているのだ。

 安保法制のときの「人間かまくら」による強行採決が思い出されるが、ああいうことをやればもちろん褒賞の対象になるのだろう。稲田朋美防衛相などはきっと沢山のご褒美をもらっているに違いない。安倍首相の取り巻きにあれほど日本会議のメンバーが多いのも頷ける。安倍首相の任期延長を画策していたのもなるほどと思う。閣僚人事を見れば、納得するしかない。安倍首相の強気は、こうしたシステムによって支えられていたのだ。

 しかし、こんな子どもじみた褒賞システムに大の大人が安易に乗っかりちやほやされていると思うと、気分が悪くなる。いったいこの人たちはどこまで主体性がないのか! どこまで自分のことしか考えていないのか! こんな人たちは二度と政治家にしてはならないと思う。

 森友学園事件にしても、菅野完氏・籠池氏の爆弾発言によって裏が少しずつ見えてきた。この問題はもちろん籠池氏による詐取疑惑だけでは済まされない。森友学園事件の背景には間違いなく日本会議などの右翼団体と政治家、官僚が深く関わっている。しかも彼らはご褒美目当てに安倍首相が喜ぶことをやったということなのだろう。安倍首相は自分の思想の実現のために、自分に仕える政治家や官僚、そして極右組織と組んで動いていたがゆえ、平然と強行路線を突っ走っていたのだ。

 政権内では醜い責任逃れが繰り広げられている。恐らく、今安倍首相は相当にうろたえているだろう。そして対策に必死になっているに違いない。さて、今までのように取り巻きたちは安倍首相を庇いつづけるのだろうか? もし安倍首相が持たないような事態になれば、褒賞システムなど何の意味もなくなるだろう。今後の成り行きによっては、これまで安倍首相を持ちあげ擁護してきた人たちも態度を翻すかもしれない。

2017年3月10日 (金)

原発は地震・津波対策をすればいいというものではない

 今日の北海道新聞のトップ記事は「規制委、北電見解認めず 泊隆起『地震の可能性も』」とのタイトルで、原子力規制委員会が泊原発の立地している積丹半島沿岸の地形隆起は地震による可能性があるとして、審査再会を北電に伝えるという内容だった。

 北電はこれまで泊原発の周辺の隆起地形について、「地震性ではない」と主張してきたのだが、規制委は北電の主張を認めないという判断をした。

 泊原発に関して、北電は2004年の留萌南部地震と同程度の地震が起きるケース想定して最大620ガルの地震動、最大12.63メートルの津波想定してきた。しかし、今回の規制委の判断によって、北電の想定が認められない可能性が高くなった。泊原発の周辺の隆起地形が地震によるものだという説は、北海道大学大学院名誉教授で地理学者の小野有五氏がかねてから主張していたことだが、北電は地震隆起説を排除する合理的な説明ができず、規制委も地震隆起説を否定できないのだ。

 今回の規制委の判断によって、泊原発の再稼働は確実に遅れることになるだろう。とりあえず規制委はまっとうな判断をしたと思う。

 ただ、いつも思うのは、原発は一度過酷事故を起こしたら取り返しのつかない破滅的な事態を招くわけで、日本のようにしばしば巨大地震や大津波に襲われる国において100%安全な原発などあり得ないのではないかという疑問だ。これについては「さつきさん」の以下の記事が参考になる。

 電力業界が模索する原発の確率論的地震ハザード審査の危険性 

 福島第一原発の事故は3基もの原発がメルトスルーし、チャイナシンドロームという最悪の事態を招いてしまった。先日の2号機のロボットによる写真撮影や線量測定で、溶融燃料の状態が確認できないばかりか、人も近付けない高線量であることがはっきりした。現時点では溶け落ちた核燃料を取り出す技術はなく、お手上げ状態だ。プールの燃料がどうなっているのかも分からないし、取り出しも極めて困難としか思えない。東電の廃炉に向けた行程表など、絵に画いた餅であることは間違いない。しかも、汚染水はずっと垂れ流し状態で止める術もない。

 チェルノブイリでは石棺で大量の放射能の放出は抑えられたが、福島は石棺にもできず、どうみても史上最悪の原発事故が6年間も続いているのだ。太平洋の汚染は、海の生き物に相当の影響を与えるに違いない。とてつもなく深刻で恐ろしい事態になっている。

 原発とは、ひとたび過酷事故を起こせばこういう壊滅的な事態を引き起こす。もし、再び同じような過酷事故が起きれば、日本は滅亡の危機に瀕するだけでなく、世界中に迷惑をかける。

 原発の稼働にあたって、どれほど耐震基準を高めて対策をとったところで、100%安全などということは考えられない。昨年の熊本地震では最大で2.2メートルもの横ズレが生じたとされる。もし原発直下でマグニチュード7クラスの地震が起きて2メートルものズレが生じたら、技術的に可能な限り耐震性を高めても耐えられるとは思えない。アウターライズ地震が正断層で起きれば、東北地方太平洋沖地震のときより遥かに高い津波に襲われると言われているが、もしそのような津波が起きたなら今の防潮堤では浸水してしまうだろう。

 100%の安全が確保できないのなら、耐震基準を高めるというよりも原発そのものを止めるという選択しかないと思う。地震、津波、火山、台風など自然災害が頻発する日本において、やはり原発という選択はしてはならなかったのだと思わずにはいられない。

 明日であのおぞましい原発事故から7年目になる。あの原発事故は今も現在進行形であり、大量の放射性物質を垂れ流し続けていること、史上最悪の手のつけられない事故であることを忘れてはならない。

2017年2月13日 (月)

インターネットという凶器

 私はもともとアナログ人間で、パソコンやインターネットが普及しはじめた頃もすぐに飛びつく気にはなれずに様子を見ていた。なぜなら、ちょっとした手違いや故障などで文書やデータなどが全て消えてしまうのではないかという恐怖があったからだ。

 しかし、インターネットが普及して周りの人が次々と使うようになると、メールが使えないと他の人たちとのやりとりに参加できないし、インターネット上の情報も得られず不便を感じるようになった。また、講演会や学会での発表ではパワーポイントが必須になってきた。そんなわけでパソコンやインターネットを利用せざるを得なくなり、アナログ人間などとは言っていられなくなった。

 インターネットの発達によって、私たちの生活は格段に便利になった。検索をかければすぐにいろいろな情報が手に入るし、新聞やテレビでは得られないニュースや情報も知ることができる。家に居ながらにして買い物ができるし、学会誌などの掲載された学術論文などもどんどんネットに公開されるようになり、文献の入手も楽になっている。

 しかし、利便性追及の裏には必ずといっていいほど負の部分が潜んでいる。インターネットの発達によって、コンピューターウイルスの感染や個人情報の漏えい、嫌がらせ目的の誹謗中傷などに日々晒されるようになった。しかし、それとは比べ物にならないくらいとんでもなく恐ろしい欠点があるのだ。それを思い知ったのが以下の記事だ。

 「テロは口実」 映画『スノーデン』と酷似する日本 

【岩上安身のツイ録】「ここに目覚めた人がいる!」―― 映画「スノーデン」の監督オリバー・ストーンが岩上安身の質問にビビッドな反応!!スノーデンが明かした米国による無差別的大量盗聴の問題に迫る!! 2017.1.18 

 映画「スノーデン」は見ていないが、事実に基づいて作られているのは間違いないと思う。今、私たちはインターネットを利用した監視社会に取り込まれており、もはや世界はサイバー戦争に突入しているという現実だ。トランプ氏が大統領選で勝つようにロシアが仕組んだと言われているが、あらゆるところでネットによる監視と情報収集、情報操作やサイバー攻撃がはじまっている。

 ドイツのメルケル首相の携帯電話が盗聴されていたことが明るみになったが、国の要人は米国に盗聴され監視されていると見るべきだろう。そればかりか、米国では市民のメールが盗み読みされ、インターネットの閲覧履歴を見られ、交友関係まで探られている。

 もちろん、安倍首相が進めようとしている「共謀罪」も、米国と同じ監視社会を目指している。もし、「共謀罪」が成立したなら、日本国民は監視対象となり政府に楯突く人は間違いなく監視されることになるだろう。しかも日本はマイナンバーで国民を管理しようとしている。共謀罪が成立したら独裁国家になるのは容易いし、真実を伝えようとする告発者は口を封じられる。共謀罪の「テロ防止」などというのが口実に過ぎないということをスノーデン氏は身を持って警告している。

 それだけではない。岩上安身さんは、こんなことを書いている。

スノーデンは、日本の横田基地内で働いていた頃を述懐して、NSAは日本でも盗聴をしていたと証言している。その内容についてスノーデンの言葉を、ストーン監督は映画の中でこう再現する。「(日本への)監視は実行した。日本の通信システムの次は、物的なインフラも乗っとりに。ひそかにプログラムを、送電網や、ダムや、病院にも。…もし日本が同盟国でなくなった日には、彼ら(日本)は終わり。マルウェア(不正な有害ソフト)は日本だけじゃない。メキシコ、ドイツ、オーストリアにも」。こうしたスノーデンの言葉に、映画では日本列島から電気の灯りが消えてゆく、全電源喪失のイメージ画像が重ねられる。

 これが事実なら、インターネットを悪用して特定の国のインフラを停止させ壊滅状態に追い込むのは簡単なことだ。もちろん米国はこのマルウェアの件は事実だとは決して認めないに違いない。しかし、大半のインフラがコンピューターで制御されている現代において、これは核戦争と同じくらいのインパクトがある恐怖だ。原発をメルトダウンされることだって可能だろう。一国をボタンひとつで壊滅状態にできる。まさしく「サイバー戦争」の時代に突入している。

 もちろんこんなことを実行したなら米国は世界から糾弾され信用は地に落ちる。しかし、マルウェアが絶対に起動しないという保証もない。日本が米国との同盟関係を解いたなら、マルウェアの恐怖にさらされる。さりとて米国の望むように共謀罪を成立させ平和憲法を改悪したなら、日本は米国に思いのままに支配され奴隷状態になるだろう。オリバー・ストーン監督は「日本は米国の人質」と言っているそうだが、まさに、追い詰められた状態ではないか。

 インターネットは使い方によっては簡単に凶器となり、人々の命まで簡単に操作できる。のほほんとインターネットの利便性に浸っているどころの話ではない。原子力が平和利用の名のもとに原発という凶器になったように、インターネットも同じ道をたどるのかもしれない。

 利便性を追求してきた人類に襲いかかるのは、サイバー戦争による自滅なのだろうか? それとも核による自滅なのだろうか?

 これを避けるためには人々が競いあうのではなく協力的な社会をつくっていくしかないと思うのだが、果たしてそれが可能なのだろうか。私たちには、これを何とか食い止める良心と時間が残されているのだろうか。

2017年2月 9日 (木)

誤解される「嫌われる勇気」

 先日書いた「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」でもちょっと触れたが、テレビドラマ「嫌われる勇気」の主人公、庵堂蘭子の振る舞いはアドレリアン(アドラー心理学を実践している人)とは言い難いという意見があるらしい。私はテレビを見ていないし、ドラマ制作者の意図も分からないので、この点について言及するつもりはない。しかし書籍「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著)のタイトルが、時に誤解されているのではないかと感じることがある。

 書籍の「嫌われる勇気」は、自己主張して他人に嫌われることを奨励しているわけではない。他人に嫌われることを怖れ、他人に合わせてしまうのは不自由な生き方であるから、自分の人生を生きるためには「嫌われることもいとわない勇気」も必要だと言っているのだ。これは本を読めば容易く理解できることだ。他人に合わせたり、他人の期待に応えるのではなく、自分の人生を生きるべきだというのが書籍「嫌われる勇気」のメインテーマでもあるのだろう。

 他人の人生ではなく自分の人生を生きるというのは、いわゆる「課題の分離」のことを指している。ここに軸足を置いているから、本の内容も「課題の分離」の比重が多くなっているのだろうと私は理解している。

 アドラーは「人生上のほとんどの悩みは対人関係である」と言っているそうだ。私自身の経験を振り返ってみても、人間関係のトラブルの大半は他者の課題に土足で踏み込んでしまうことからくると実感している。嫁と姑のトラブルも、家族間のいさかいも、基本的に他人の課題に土足で踏み込むから起きる。課題の分離ができていれば人間関係におけるトラブルやストレスは激減するだろう。

 「横の関係」つまり「人はみな対等」という意識を持ち、常に他人を尊重していたなら、他人に命令口調で接したり、意見が違うからといって見下したり誹謗中傷したりもしない。

 課題の分離とは、他人の課題に土足で踏み込まない(他者を尊重する)ということと、自分の課題に他人を踏みこませずにトラブルを回避するという二つの側面がある(協力をしない、あるいは協力を拒否するということではない)。そして、「課題の分離」ができるということは、「人はみな対等」という「横の関係」で人間関係を捉えていることを意味する。「課題の分離」と「横の関係」は切り離せない。

 これに対し、人間関係を「縦の関係」で捉えている人は、他者に対して支配的であったり、あるいは依存的であったり、また恨みや妬みが強く嫉妬深かったりする。

 他人から何を言われようと(嫌われても)も自分の課題には絶対に踏み込ませないという人は、一見「嫌われる勇気」があるように見える。しかし、自分の課題には絶対に踏みこませないが、他人の課題には土足で踏み込む(命令したり、見下したり、憎んだりする)ということであればその人は「縦の関係」で生きている。また、事実誤認や誤解について丁寧に説明しても一切聞く耳を持たず自分が絶対に正しいと信じて我が道を邁進する人は、自分の誤りを認めない、あるいは他人を信用しないという点で独善的であり、やはり「縦の関係」で生きているのだと思う。

 私は、書籍タイトルの「嫌われる勇気」の意味するところは、「横の関係」の生き方をするためには、時として「嫌われる(こともいとわない)勇気が必要」ということだと理解している。だから、「縦の関係」の生き方の人が独善的な言動をして嫌われたとしても、「嫌われる勇気」があるということにはならない。

 たとえばトランプ大統領はどうだろう。トランプ氏の差別発言や虚偽発言に対しては多くの人たちが批判している。大統領の就任式での反対デモを見ても分かるが、彼は明らかに多くの米国民に嫌われている。しかし、当人は開き直って平然としている。彼は自分の主張を貫いて嫌われているわけで、「嫌われる勇気」があるように見える。

 しかし、自分と異なる意見を言う人をこき下ろす態度は、完全に他者を見下している。しかも自分を批判した人に対してはすぐに反撃する。理論的に反論するなら分かるが、嘘を言ってでも攻撃する。非常に感情的で、すぐに怒りをぶちまける。実に支配的だ。彼は異なる主張に対して話し合いで解決する姿勢がほとんど見られず、どうみても「縦の関係」で生きている人だ。彼の勇ましさは、書籍「嫌われる勇気」で言うところの「嫌われる勇気」とはほど遠く、傲慢にしか見えない。

 本で言わんとしている「嫌われる勇気」の意味を理解せず、タイトルの「嫌われる勇気」という言葉だけを切り取って、単に傲慢なだけの人を「嫌われる勇気がある」と評してしまえば、誤解を生じかねない。

 書籍「嫌われる勇気」には承認欲求のことも出てくる。これも誤解している人がいるようだ。書籍「嫌われる勇気」では「承認欲求を否定する」と表現しているのだが、これは「承認欲求」という事実や「承認」を否定しているわけではない。「他者に認めてもらうことを目的に行動してはならない」という意味だ。これは、嫌われないために行動(努力)するというのとほぼ同義だろう。だから「承認欲求の否定」も「課題の分離」と密接に関わっている。

 アドラー自体は承認欲求という言葉は使っていないようだが、だからといって「承認欲求を否定する」という表現が、アドラー心理学ではないということにはならない。

 アドラー心理学の最終目的は共同体感覚にあるという。この共同体感覚を身につけるには「横の関係」を築かなければならない。横の関係を築くためには「課題の分離」をする必要がある。また共同体の中で人々が協力関係を築くことが共同体感覚につながるのだが、その前提としても「課題の分離」は不可欠だ。つまり、課題の分離があってこそ支配でも依存でもない協力関係が持てるし、共同体感覚を身につけることができる、と私は理解している。

 書籍「嫌われる勇気」は、共同体感覚を身につけるための基本である「課題の分離」に力点を置いた書籍だと私は思っている。そして、続編の「幸せになる勇気」が補完して核心へと誘導する形になっている。この2冊の本は青年と哲人の対話による物語に仕立てられているゆえに、アドラー心理学を全面的にカバーしているとは言えないかもしれない。しかし、だからといって「嫌われる勇気」が「正統なアドラー心理学ではない」という考え方には賛同できないし、学会で論争するようなことでもないと思う。

 つい最近、向後千春さんの「人生の迷いが消える アドラー心理学のススメ」(技術評論社)を読んだ。この本は他の心理学の考え方も紹介しながらアドラー心理学を分かりやすく解説していて、「嫌われる勇気」には抵抗感があるという方にも読みやすいと思うし、日常生活でのトラブルの解決にも役立つ本だと思う。

 アドラー心理学を身につけ実践するというのは確かに難しい。なぜなら、日本では家庭も学校も職場も「縦の関係」ばかりであり、このような環境の中で「縦の関係」のライフスタイルを選びとってきた人が大半だと思うからだ(私自身は若いときから人はみな対等という意識を持っていたので、アドラー心理学への抵抗感はない。もちろんだからといってきちんと実践できているわけではないが)。「縦の関係」が染みついている人たちが、ライフスタイルを変えるのは容易なことではない。ただ、向後さんの本はそのような人たちに対しても抵抗が少なく理解しやすい書き方になっているように感じる。

 岸見さんも向後さんも、野田俊作さんからアドラー心理学を学んだ方だが、同じアドラー心理学の解説をしていても人によって伝え方や語り口は違う。哲学者である岸見さんのアドラー心理学は哲学的視点も含んだ岸見流だろうし、向後さんは向後流といってもいいのだろう。おそらくアドラー心理学を学び実践している人々はそれぞれ独自の理解でアドラー心理学を捉えていると思うし、誤解がない限りどれが正しいとか正統だということはさほど意味がない気がする。学問というのは次世代に引き継がれるなかで修正されつつ発展していくものだ。

 ただし、「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問」にも書いたように、アドラー心理学を自ら実践しようとはせず「他人を操作するために使う」ということであれば、それはアドラーが望んだこととは正反対のことだろうし、似非アドラー心理学と言われても仕方ないと思う。

【2月13日追記】  野田俊作さんのこちらの記事によると、「課題の分離」「縦の関係・横の関係」などといった表現はアドラー自自身は使っておらず、アドラーの後継者による概念とのことだ。そうした言葉がアドラーの思想を分かりやすく端的に言い変えたもので、すでに一般化されている概念である以上、アドラー自身による表現であるかどうかに拘ることに意味はないと思う。

【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問 
アドラーのトラウマ否定論について思うこと 
野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

2017年2月 6日 (月)

サハリン紀行(2)

サハリン紀行(1) 

 2日目は西部に出かけた。アニワの海岸では一人、皆と反対方向をうろうろしてイソコモリグモを探したが見つからない。露頭見学中にクモを採集するが、ハラビロアシナガグモ、スジシャコグモ、ウスリーハエトリ、ナカムラオニグモ、ウヅキコモリグモなど北海道でおなじみのものばかりだ。見学地に着くといつも皆と違うところをうろうろしている私を、セルゲイ氏はいつも気にかけてくれているのが分かる。なるべく皆から見えるところにいなければならない。

 8月という季節から考え、キバナオニ(黄色)、ニワオニ(橙色)、アカオニ(赤色)の3色のクモが溢れていると思ったのだが、予想は外れた。キバナが圧倒的に多く、ニワとアカはなかなか見つからないのだ。そういえば北海道でもキバナが圧倒的に多いから、そんなものなのかも知れない。もっともクモを探す時間が少ないので、時間をかけて探せばもっといるのだろう。北海道でもおなじみのナカムラオニグモは草地の普通種だ。

 サハリンでは、平地にベニヒカゲ(蝶)が舞っている。ネベリスクのバザール(自由市場)では、オオモンシロチョウを捕まえた。近年、北海道全域に定着してしまったチョウだ。クモのみならずチョウも捕まえたが、捕虫網というのが珍しいらしく好奇心の目で見られてしまった。軒先のオニグモを捕虫網で採っていたときなど、大人も子どももにたにたしながらこちらを注目している。捕まえているのが大きなクモだと知って、かなり面喰っていたようだ。さぞかし変な日本人の集団(変なのは一人だけなのだが)だと思ったに違いない。

 ネベリスクから海岸沿いを北に、ホルムスクに向かった。ここには旧王子製紙の工場が廃墟のように佇んでいる。サハリン南部の森林はかなり伐採が入り原生林とおぼしき森はほとんど見当たらないが、かつてかなりの伐採が行われ王子製紙も栄えたのだろう。無残に伐られた山肌は、北海道の森林の光景とも似ている。ホルムスクからユジノまではいくら車が揺れても瞼が閉じてくる。昨日は初めて見る景色とあって、いねむりもせずに目を凝らしていたが、今日は半分以上いねむりの帰途だ。運転手さん、御苦労さん!

 3日目はススナイ山地に寄った後、北へと向かった。ソコル川で初めて森林の中に入ったのだが、前を歩いていた人が「クモ、クモ」と呼んでいる。森林の中は、タイリクサラグモがあちこちに造網していたのだ。北海道ならどこにでもいるタイリクサラグモをあまり見かけず不思議に思っていたのだが、針葉樹の森林内はタイリクだらけだ。しかし、タイリクばかりでハンモックサラグモなどは全く見られない。森林のクモ相は北海道よりさらに単純なようだ。

 昼食予定地のスタロブスコエは海岸の集落だ。海沿いのでこぼこ道を行くと、岩礁の上にゴマフアザラシが置物のように寝そべっているのが見渡せる。ここにはモンゴリナラ(ミズナラと変種関係)があるが、だいぶ伐採されてしまったらしく、今ではぽつりぽつりとしか見られない。このあたりから北の光景はほんとうに素晴らしい。人工的なものはほとんどない海岸線が続き、湿地が広がる。渚にはシギが群れ、カモメが舞う。北海道の海岸線もかつてはこんな光景だったに違いない。北海道ではほとんどの湿原にビジターセンターのような施設があり、海岸には展望台などがある。人工物が目に入らないようなところは無いに等しい。しかしサハリンには北海道が失ってしまった北の自然の原風景が息づいている。施設ばかり造りたがる日本人は、こういう自然の原風景を忘れてしまったようだ。

 この日はさらに北上し、海岸で琥珀を探した。角がとれた褐色のガラスのかけらのような琥珀が、海岸の砂浜にうちあげられているのだ。小粒だが、こんなところで琥珀が拾えるというのは驚きだ。皆海岸に散らばって、ひとしきり琥珀拾いを楽しんだ。採集するというのはクモに限らす楽しい。しかし採集には得手不得手というのがあるらしい。集合して成果品を比べると、その差は歴然とする。どうも私は得意なほうではないらしい。やはり採集は一人でのんびりやるのが一番いい。

 サハリンの一番細くくびれているあたり、ブズモーリエがこのツアーの最北の地点だ。ここには海を見下ろす山腹に、日本時代の鳥居がそのまま残っている。何やら日本の景色のように見える。鳥居まで登って写真を撮った後、駅前のバザールに寄った。地面に散らばっている褐色のかけらを見つけ、誰かが「琥珀だ」と言う。半信半疑で手に取って眺めるが、ビール瓶のかけらまで琥珀に見えてくる始末だ。

 4日目はアンモナイトの産地見学だ。最初の見学地は乾燥した裸地で、ときおりコモリグモが走り回っている。ここではクモよりアンモナイトを探すほうが面白い。地質屋さんはハンマー片手にさすがに大きいのを掘りだしていたが、小さいのならハンマーなしでもいくつか見つけられる。

 2回目の見学は、山の中の崖地だ。ここは森林に囲まれた河原で、クモの採集の方が面白い。河原の石をひっくり返すと、カワベコモリグモやナミハガケジグモがいる。一人で河原でクモ採りをしていると、高校生のAさん(母親と参加)が崖地の方から「クモを採った」と呼んでいる。彼女の手には綺麗なニワオニグモが握られていた。この数日で彼女はすっかりクモに慣れてしまったらしく、私を真似て素手でクモを採るようになっていた。感謝、感謝! さて、その崖地の上部には巨大なアンモナイトがはまっている。地質に無頓着な私も、このときは「凄い」と見とれてしまった。

 最終日の5日目は、午前中にユジノを一望できるスキー場のてっぺんまで登った。例の車はでこぼこの急坂をものともせず、標高535メートルの山頂に突き進んだ。中腹までグイマツの植林に覆われる山だが、途中にハイマツも見られる。標高が上がるにしたがって、林床の植物が変わっていくのが面白い。

 山頂からは素晴らしい展望が広がっていた。眼下にユジノの街が見渡せる。これでこのツアーの見学は終わりだ。皆が景色を楽しんでいる間、私は山頂の草地で一人チョウ採りにはまっていた。この草地にはチョウがしきりと飛び交っているのだが、これがすばらしく速い。悪戦苦闘だが、これを追いかけるのがまた楽しい。いい歳のおばさんがチョウ採りに興じているのだから、他の人はさぞかし呆れていただろう。

 のどかな山頂のひと時を後に車に乗り込むと、運転手が捕虫網を貸して欲しいという。すぐ横の花にチョウが数頭止まっている。彼は見事に数頭のチョウを仕留め私にプレゼントしてくれた。もしかしたら、彼はずっと捕虫網でチョウを採ってみたかったのかもしれない。海辺で休憩していたときは網でエビを獲っていたし、アンモナイトを見つけるのも得意だ。「気はやさしくて力持ち」の典型のような彼は、どうやら採集好きのようだ。

 このあと、私とM氏は皆と別れてジャロフ氏の自家用車で北に向かった。皆は最後の半日を買い物にあてたのだが、貪欲な私たちは車の中から眺めただけの湿地に未練があった。吉倉真先生の「樺太産黄金蜘蛛科生態と分類」を見ると、サハリンでは平地にコウモリオニグモやコガネオニグモがいることになっている。湿地を眺めただけで帰るのはやはり後ろ髪を引かれる思いがする。そこでジャロフ氏に頼み、湿地探検におもむいたのだ。彼は腿まである長靴まで用意してくれた。

 サハリンと言えど、この日は猛暑だ。その中を長靴をはいて捕虫網片手に湿地のなかをうろつくと汗が吹き出してくる。葦の葉を巻いているのはほとんどがクリイロフクログモで、子グモがふ化する季節だ。水辺には卵のうをつけたカイゾクコモリグモがいる。草間の円網はほとんどがナカムラオニグモだが、なぜかこの湿地のナカムラは幼体ばかりだ。ここのクモは北海道の湿地のクモをより単純にした感じだ。ちょっとがっかりだったが、採集品を良く見るとナカムラオニグモの幼体の中にコウモリオニグモの幼体が紛れ込んでいる。北海道では高山帯でしか見られないコウモリがやはり平地にいるのだ。ただし、もう成体の季節ではないらしい。コガネオニは残念ながら幼体らしきものも採れない。スゲと思われる草地ではツノタテグモの類いと思われる幼体が少し採れたが、やはりクモの季節には遅すぎるようだ。北に行けばいくほど、クモの繁殖期は短期間に凝縮されるのだろう。たぶん6月から7月が良いのだと思う。ともかく短い時間ではあったが湿地も歩くことができた。あとはユジノにもどり、ガガーリン公園で皆と落ち合ったあと最後の晩餐となった。

 クモに関しては季節が遅すぎ、幼体ばかりが目についてとりたてて新しい発見はなかったものの、サハリンの自然の一端を垣間見ることができたのはやはり貴重な体験であり、楽しい一週間だった。そして、お付き合いいただいたエネルギー省の皆さんは、朝から晩までくたくたに疲れたことだろう。我々をコルサコフまで送り届けたときにはさぞかしほっとしたに違いない。

 こうして5日間の見学会はハードスケジュールだったが、無事終了した。不思議なことに一数館の間、雨らしい雨にも降られず、トラブルもなく、すばらしく順調にことが運んだのだ。あとは税関を無事に通過できるかどうかだ。

 翌朝予定より遅れてコルサコフ港に到着した私たちは、出国手続きに追われ、あたふたと税関を通過した。誰も荷物を開けられることもなく皆無事に通過し、安堵のうちに再び「アインス宗谷」の乗客となった。

2017年2月 5日 (日)

サハリン紀行(1)

*この随筆は、サハリンツアー(2001年8月8日から14日)に参加したときの記録で、関西クモ研究会の会誌に投稿したものに修正を加えています。
*なお、参加者のお一人が「
サハリンの地質と化石見学」としてツアーの報告をされていますので、興味のある方はご参照ください。

 北海道でクモを見ていると、サハリンは一度は行ってみたいと思うところだ。氷期に大陸と北海道を結んだというこの島は、北海道に多数の北方系の生物を運ぶ陸橋となった。大雪山の高山帯に細々と息づいている「氷河時代の生き残り」のクモたちも、この島を縦断してきたのだと思うと感慨も深い。

 宗谷岬から目と鼻の先にある島でありながら、サハリンの自然を訪れるツアーは意外とない。聞くところによると、トラブルなしにツアーを行うのは難しいお国柄のようだ。そんな中で「地質見学ツアー」なるものを見つけた。地質見学? 8月じゃクモには遅い! と躊躇したのだが、思いきって締め切り間際に申し込んだ。予定表を見ると、宿泊するホテルはガイドブックには出ておらず、名前はなんとGeologist(地質学者)。しかも、シャワーは水しか出ないらしい。そんなわけで、覚悟を決めて出発することになった。

 企画した旅行会社のT氏とコーディネーターのG氏以外の一般参加者は6名というこぢんまりとしたツアーであるが、自然を見てまわるにはちょうどいい人数だ。男性5人、女性3人の総勢8名は、8月8日の10時に稚内港からコルサコフ行きの「アインス宗谷」に乗り込んだ。

 目と鼻の先のサハリンも、稚内港からコルサコフ港となると5時間30分もかかる。男性たちは免税とやらで1本100円の自販機のビールをさっそく買い込んでいる。船に弱い私はそれを横目で見ながら、ひたすら船の揺れから解放されるのを待つのみだ。サハリン旅行はまず船酔いから幕を開けた。

 コルサコフ港に近づくと、褶曲した地層があらわな露頭が目に飛び込んでくる。港は何もかもが古びて錆色をし、数十年前の港に迷い込んだような錯覚に陥る。船から降り、オンボロバス(日本の中古の観光バス)に揺られて入国手続きの人の列に並んだ。特大のスーツケースを同行のM氏に持たせた私は、代わりにカメラを一手に引き受けて手に持っていた。しかし、これは失敗だった。カメラはX線検査機に通された上(当時はまだデジカメは普及しておらず、フイルムのカメラを持っていた)、税関申込書に記入しろと言う(ロシア語なので、そう言っているらしいとしか分からない)。種出入品(一時的な)に当たるらしい。コンパクトカメラまで記入させられたが、なぜか首にぶら下げていたツァイスの双眼鏡には見向きもしない。こちらのほうが数倍も高いのに! 世話人らしき日本人のおじさんがぶつぶつ言いながら、記入の仕方を教えてくれたが、無愛想な態度に辟易とした。

 なんとか申込書を書き終えて税関を通過したが、隣りでは巨大なおみやげ(自動車のタイヤ!)を持っていたG氏が入国審査で引っかかり、係員と揉めている。気の毒だが、私にはなす術がない。税関を抜け出すと、今回のツアーの世話をしてくれるロシアエネルギー省の地質研究者のジャロフ氏とお手伝いで日本語を勉強中の青年セルゲイ氏、それに運転手が出迎えてくれた。しばらくしてから、何とか税関を通過したG氏がやってきて無事に全員がそろった。

 これから私たちの足となってくれる車はエネルギー省の調査用のものなのだが、トラックの荷台を人が乗れるように改造したような車で、タイヤはダンプカーのそれより巨大だ。これをジャロフ氏はバスと呼んでいたが、舗装道路を砂利道だと勘違いする乗り心地だった。現に、コルサコフからホテルのあるユジノサハリンスクに向かっているときは、砂利道だとばかり思っていたのだが、あとで舗装道路だと知って驚いた。これから5日間この車に乗って走り回ると思うと、ちょっと先が思いやられた。

 サハリンは主要道路は舗装されているものの、わき道はほとんど砂利道だ。それも相当にデコボコしている。日本人であればすぐに道を良くしようという発想になるが、ロシア人はそうではないらしい。彼らは車の方をデコボコ道に合わせ、どこでも走れるような頑丈な車に乗るのだという。エネルギー省の車はサハリンの悪路という悪路もものともしない車だ。おかげでかなりすごい山道も進むことができるし、ちょっとした川も渡ることができる。

 ホテルに到着したのは日本時間の17時半、現地時間の19時だった。ホテルは古い建物ではあるが、予想していたより印象は良く(かなりすごいところだろうと予想していた)、昨晩泊まった稚内の旅館よりきれいだった(というか、こちらは今どきなかなか遭遇しないような古くて雑然とした旅館だった)。そして、嬉しいことにシャワーからはちゃんとお湯が出た。これで、一週間風呂なしという惨事にはならなくて済む。このホテルを基点としてサハリン南部の各地に出向くのだ。

 このホテルは、どうやらロシア人専用らしい。フロントの女性は英語が全く通じない。部屋の鍵をもらうのも、紙に数字を書いたものを見せないと分からない。レストランもなく皆素泊まりらしいが、私たちは棟続きの韓国人の経営しているレストランで食事を摂ることになっている。レストランの入口あたりからキムチの匂いが漂ってくる。

 毎日のスケジュールは、朝食後にホテル前に集合して例の車に乗り込み、日中10時間から12時間がフィールドワークとなる。帰るとすぐ夕食となり、ワインやウオッカを飲みながらの団欒だ。部屋にもどりシャワーを浴びると疲れて何もする気になれない。クモの標本ビンにラベルを放りこんでバタンキューだ。予定していた朝の散歩は、結局2回しか実行できなかった。

 サハリンの街は何もかもが古び、建物はあちこちひびが入ったり壊れたりしているし、路傍にはゴミも目につく。しかし、街を歩く若い女性は美人揃いの上に、皆抜群のスタイルで、しかも体にフィットしたセンスの良い服をまとっている。Tシャツにジーンズが定番といういでたちの日本人とは全く雰囲気が違う。この光景を見て、「掃き溜めに鶴」と言った人もいるとか・・・。あとで聞いたのだが、自分で服を縫う女性が多いらしい。

 そして、日本では渡りの時期を除くと高山の岩場でしか見られないアマツバメが、この古いビル街の上空で群舞している。その見事な飛翔にしばし見とれてしまう。どうやら、建物の屋根などの隙間に営巣しているらしい。

 さて、地質見学など学生のとき実習で行ったくらいで全くピンとこなかったのだが、初日の行動でだいたい様子がつかめた。要するに、見学地点となる場所までただひたすらに車で移動し、現地に着いたら説明を聞き、見学やら採取をするのだ。そして、その見学地点の多くは道端の露頭なのだ。つまり、大半の時間は車の中で、クモ採集はもっぱら道端ということになる。「あそこの林を歩いてみたい」「あの湿地でスイーピングをしたら面白いのが採れるのではないか」と思っても、車はどんどん通りすぎていく。クモ採集は半ばあきらめ、車窓から植物や景観を観察することにした。

 サハリンの景観は基本的には北海道とほとんど変わらない。違うのは落葉針葉樹のグイマツがあるくらいだ。トドマツとグイマツの森林が多く、落葉広葉樹はヤナギ類かカンバ類が目につく。ちょうど北海道の標高800メートルから1000メートルくらいにある針葉樹林帯によく似ている。海岸ちかくにある湿地も、北海道の湿地の景観とそっくりだ。ただし、平地の湿原にハイマツがあるのはさすがにサハリンだ。そして、濃いピンクのヤナギランの群落と藤色のキク科植物の群落が単調な湿地にひときわ華やかな色を添えている。8月中旬ともなると、草原はもはや初秋の漂いがある。そして多くのクモもすでに繁殖期を終え、初秋のクモの季節だった。ここではクモのシーズンは瞬く間に過ぎてしまうのだろう。

 最初に捕えたクモは、朝の散歩で見つけたシロタマヒメグモだった。ちょうど産卵期で、葉をまるめて産室をつくっているのがいくつもあった。北海道で見るシロタマヒメグモは、見るからに「シロタマ」という名がふさわしいクリーム色の腹部をしているが、サハリンのものは黄色かったり、褐色の斑紋が入っていたりするものが多くて、まるで別種のように見える。海峡をひとつ渡っただけでこれほど色彩が違うのは、なんとも不思議な気がする。

 朝食を済ませると、いよいよ例の車に乗り込み見学に出発だ。コルサコフの最初の見学地でまず採ったのは、黒色型のオニグモだ。北海道では見たことがない黒色型だったので、サハリンで見られるとは思ってもいなかった。オニグモは軒先にときどき網を張っているが、あまり多くはない。分布の北限に近いのだろうか。

 コルサコフの東、アニワ湾の一角にある岩壁では、岩のくぼみにオオツリガネヒメグモが多数造網していた。北海道でもそうだが、一般に岩に生息するオオツリガネは体色が黒っぽい。岩の色に合わせた隠蔽色なのだろうか。ユウレイグモ科の雄も1頭採集した。

 サハリンの南東部は湖が多く、湿地も点々としているが、そういうところは地質見学の対象地ではなくどんどん走り抜ける。しかし、このあたりはほとんど自然のままに保たれていて、マスが川に遡上する光景も見ることができた。トゥナイチャ湖岸でようやくナカムラオニグモやアシナガグモなどを少し採集したが、初日はひたすら車に揺られ、ユジノサハリンスクにたどりついたときにはもう薄暗くなっていた。なかなかすごいツアーだ。

続く

2017年1月31日 (火)

野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

 日本アドラー心理学会の初代の会長である野田俊作さんのウェブサイト「野田俊作の補正項」をときどき読んでいるのだが、最近、岸見一郎さんに対する苦言がしばしば出てくる。正確に言うならば、「嫌われる勇気」に対する批判といったほうがいいだろう。野田さんが批判的意見を言うのはもちろん自由なのだけれど、正直なところ私はそれをやや苦々しく思っている。その理由を書きとめておきたいと思う。

 野田さんによる「嫌われる勇気」批判は、このあたりから始まっているのではないかと思う。ここでは書名を書いてはいないが、「嫌われる勇気」を指していることは誰にでも分かる。

 この記事で、野田さんはこんなことを書いている。「彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。」

 またこちらの記事では「アドラー・ブームの火付け役である岸見一郎氏の『嫌われる勇気』は、「課題の分離」ばかり強調して「協力」に関連する考え方をあまり含んでいないので「名目アドラー心理学」だと思っていたが(これはいちおう許容範囲内)、同じ題名を冠したテレビドラマはアドラー心理学に反する考えややり方でいっぱいなので、間違いなく「似而非アドラー心理学」だ(これは完全に許容範囲外)。岸見氏ご自身はこれについてどうお考えなのだろうか。」と書いている。

 もう一つ、トラウマに関する記述についても批判的で、こちらの記事で「なんでも、最近流行の「ブーム型アドラー心理学」では、「トラウマは無い」ということになっているのだそうだ。」と指摘している。私なりに解釈するなら、「嫌われる勇気」の「トラウマを否定する」という書き方が誤解を招くといいたいのだろう。

 そして野田さんは、「嫌われる勇気」は許容範囲内だが、重要な要素を欠いているので「名目アドラー心理学」だと評している。

 一方、私は日本アドラー心理学会の顧問や認定カウンセラーでもある岸見さんがアドラー心理学を正しく理解していないとは思っていない。岸見さんの「アドラー心理学入門」や「不幸の心理 幸福の哲学」も読んでいるが、課題の分離ばかりにこだわっているとも思わないし、援助についても書かれている。トラウマやPTSDについても、それらの症状の存在を否定してはいない。「嫌われる勇気」においてもPTSD症状は存在しないとは書いていない。ただし、「トラウマを否定」という書き方は、読者の誤解を招きやすいのは確かだろう。

 ここで着目すべきは「嫌われる勇気」は岸見さんが一人で書いている本ではないということだ。私は今、野田さんの「アドラー心理学を語る」というシリーズ本の第一巻「性格は変えられる」を読んでいるが(これについては改めて感想などを書きたいと思っている)、野田さんによるアドラー心理学の解説は仔細に渡っていてとても勉強になるし、具体的事例もとりあげていて分かりやすい。しかし、失礼なことを承知で書くなら、いくら優れた解説書であっても、岸見さんや野田さんのアドラー心理学の本が「嫌われる勇気」のように爆発的に売れることはないだろうと思う。

 この違いは、「嫌われる勇気」が単にアドラー心理学の解説書を目指したのではなく、万人に理解できる本にすることで多くの人の手にとってもらうことを目指したことに関わっている。そしておそらくそうした著者らの意図が、野田さんの批判に関係しているのではないかと私は考えている。

 岸見さんにアドラー心理学についての本を出したいと持ちかけたのはライターの古賀史健さんだ。そして「嫌われる勇気」の文章を書いているのも古賀さんだ。この本を書きあげるにあたっては、古賀さんと岸見さん、編集者が議論を重ねているのは間違いないが、企画した古賀さんの方針が強く反映されているのは確かだろう。

 私は古賀さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んだ。古賀さんは多数のベストセラーを手掛けてきたライターで、この本にはご自身の経験を元にした文章術がまとめられている。彼は読者を惹きつけるテクニックを良く知っており、「嫌われる勇気」を書くにあたってももちろん「20歳の…」に書いている文章のテクニックを駆使している(と私は思っている)。

 たとえば、古賀さんは「ライターは翻訳者である」と語っている。これが彼の文章を書くにあたっての基本的姿勢でありポリシーだ。つまり、古賀さんがご自身のフィルターを通して岸見流アドラー心理学を翻訳することで、とっつきにくい心理学を誰にでも分かるように解説したのが「嫌われる勇気」や続編の「幸せになる勇気」なのだと私は理解している。

 他にも、たとえば文章にリズムや説得力を持たせるために断定した書き方を入れるとか、文章の構成が重要だとか、あるいは読者を説得するのではなく納得させる文が良いとか、編集(推敲)では「書き足す」よりも「ハサミを入れる」など、古賀さん流の文章テクニックが紹介されている。青年の大げさな発言などはときに吹き出してしまうが、もちろんこうした誇張も読者を惹きつけるためのテクニックだ。

 ただし、古賀さんの翻訳や、断定、取捨選択の編集テクニックによって、切り取られすぎてしまった部分もあるだろうし、誤解を招きかねない部分も生じてしまったのだろうと私は勝手ながら推測している。そして、そこが野田さんの批判の的になってしまった気がしてならない。

 では、「技術を駆使した分かりやすい文章」によって売れる本を目指すことは不適切なのだろうか? こうした本はまがい物なのだろうか? 私はそうは思わない。私自身、ある方のブログで「嫌われる勇気」を知ってアドラー心理学を知り、この本を出発点に他のアドラー心理学の本も何冊か読んだ。本がベストセラーとなって話題になれば、私のようにこれまで心理学と何ら接点のなかった人がアドラー心理学の存在や概要を知る機会が増えるし、それをきっかけに、アドラー心理学をより詳細に解説している本へ誘導することにも繋がる。

 現に、絶版になっていた野田さんの本が昨年末に改訂・再版されたのも、「嫌われる勇気」に端を発しているのだろう。「嫌われる勇気」も野田さんのシリーズ本も一般の人を対象にした本だが、「嫌われる勇気」はこれまで心理学とは縁のなかったような人も対象にした導入のための本であり、アドラー心理学を詳細に解説している野田さんの本とは立ち位置や役割がやや異なる。

 もし「嫌われる勇気」が間違ったアドラー心理学の本なら由々しきことだが、野田さんも「許容範囲」だとしていて誤りだとまでは言っていない。また私自身は、続編の「幸せになる勇気」の発行で、共同体感覚についてはかなり補足されたと感じている。ただし、古賀流の文章術によって、アドラー心理学を誤解してしまう読者がいるなら、それはそれで問題であることは否定できない。

 私が冒頭で「苦々しく思っている」と書いたのは、この問題をめぐって野田さんの意見しか聞こえてこないことだ。アドラー心理学に関わる人たちの中には、この状況に当惑している人もいるのではなかろうか。野田さんと岸見さん・古賀さんの路線の違いといえばそれまでだが、第三者から見たら本当にそこまで批判すべきことなのだろうか?この状況をいくらかでも改善できないのだろうか?とどうしても感じてしまう。

 そこで、余計なお世話かもしれないが、門外漢の私からひとつの提案をしておきたい。すでに売れてしまった本についてはどうにもならないが、増刷する際には増補改訂版にして、野田さんが不十分だとか誤解を招きやすいと考えている部分に注釈をつけるなり、最後にまとめて解説を加えるという方法があるのではなかろうか。そして、その増補部分は出版社のウェブサイトに掲載するなどして、誰にでも読めるようにするというのはどうだろう。すでに誤解してしまった読者に対しては不十分な対応だろうが、このまま何もしないよりずっといいのではないかと思う。

 もう一つ、野田さんはこちらの記事でアドラー心理学は本や講演では学べないと書いている。本ではアドラー心理学がどういう思想であるかを知ることはできるが、アドラー心理学を身につける、すなわちアドレリアンとして実践するには講習会やワークショップでの体験が必要だということだろう。

 私は「嫌われる勇気」を読んだ人は、以下の三つのタイプに分かれるのではないかと考えている。

1.アドラーの思想を理解できない(しようとしない)。あるいは間違っていると思う。
2.アドラーの思想は理解できるし間違っているとは思わないが、実践しようとは思わない。
3.アドラーの思想を理解し、より深く学んだり実践しようとする。

 このうち圧倒的に多いのが1ないしは2だと思う(単なる勘だけれど)。より深く学んだり講座などを受けて体験的に身につけようと行動に移す人は限られているだろうし、野田さんの本を読んでみても、「本を読めば身につく」というほど簡単なものではなさそうなことも分かる。

 ならば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」がベストセラーになって売れることは意味がないかというと、そうは思わない。これらの本によって、アドラー心理学がどんな思想であるかを知ることはできるし、自分の抱えていた問題に気づく人も多いだろう。上記の1や2の人でも、今後の人生で思い悩んだときに本を読み直し、ライフスタイルの再選択を決意する人もいるのではなかろうか。本が多くの人の手に渡り、アドラーの思想が頭の片隅にでも引っかかることは、それなりに意味があると私は思っている。私も、生きているうちにアドラー心理学に出会えて本当によかったと思っているし、野田さんの本も知ることができた。これも「嫌われる勇気」に出会えたからに他ならない。

 なお、「嫌われる勇気」のテレビドラマについては見ていないし興味もないが、主人公のふるまいがアドレリアンと程遠いのなら、それはドラマの脚本を書いた人の理解の問題が大きいのではないかと思う。

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アドラーのトラウマ否定論について思うこと 
誤解される「嫌われる勇気」

2017年1月29日 (日)

石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」

 昨年末、石城(いしがき)謙吉さんの講演をまとめた書籍「自然は誰のものか」(エコネットワーク発行)が出版された。石城さんは川魚をはじめとした動物の研究者であり、北大苫小牧研究林の林長として森林問題にも関わってこられた方だが、同時に自然保護にも取り組まれてこられた。植物学者の故河野昭一さんもそうだが、自分の研究に没頭するだけではなく自然保護に尽力される研究者に、心から敬意を表さずにはいられない。本書は石城さんの講演会から11話を選んで書籍にまとめたものだが、どの話しも幅広い知識と経験、深い洞察力に裏打ちされている。

 最近は講演会を聞きに行くことがめっきり減ったが、以前はときどき講演会や学習会に参加して、専門の方たちの豊富な知識のおすそ分けに預かった。ただ、悲しいかな、講演会や学習会で知り得た知識や情報のうち頭脳に鮮明に記憶されるのはごく一部であり、話しの多くはなかなか記憶として留まらない。しかし、本書のように講演者が自ら講演内容をまとめて文章として残してくださると、あとで何度も読み返すことで理解を深めることができる。しかも、石城さんの講演は実に中身が濃く、示唆に富んでいる。このような話しをまとめて書籍にした意義は大きい。

 本書のタイトルともなっている第1章の「自然は誰のものか」は1989年の講演記録だから、今から28年も前の時点での話しだ。本章では、日本の大規模開発計画が昭和35年に発足した池田内閣の「全国総合開発計画(一全総)」に端を発し、昭和44年の佐藤内閣による「第二次全国総合開発計画(二全総)」、昭和47年の田中内閣による「日本列島改造論」、昭和52年の「第三次全国総合開発計画(三全総)」、昭和62年の「第四次全国総合開発計画」やリゾート法(総合保養地域整備法)へと受け継がれてきたことが示されている。戦後の高度経済成長の中で進められていった政府の開発計画こそ、日本の自然が次々と失われていった元凶だ。

 乱開発が始まった当初から自然保護に関わってきた人々は、程度の差こそあれこうした背景を理解しているだろう。重要なのは、石城さんが明確に指摘しているように、日本の自然を滅茶苦茶にした開発計画の目的は、中央集権体制の強化と再編にあるということだ。大規模工業開発やリゾート開発の流れの根源にあったのは、国と大資本による地域収奪であり、国と大資本による経済成長のための戦略だ。だから、開発に伴って全国各地で生じた自然破壊、環境破壊に対する反対運動の大半は、まさに国や大資本との闘いだった。そして、今もその構図は続いている。リニア新幹線などはその典型だろう。

 先日、昔書いたエッセイを3編アップし、最後に青字で注釈を添えた。「シギと私」では、東京湾や有明海をはじめとした干潟が失われていったことに触れ、「」では、八ヶ岳山麓のリゾート開発について触れた。海にも山にも押し寄せた開発の嵐は、かろうじて残されていた日本の自然を切り刻み、地方を切り捨ててきた。今更ながら、そのことを痛切に感じる。

 本書では、水や川をめぐる講演も2つ取り上げられているが、実に奥深い。「人間と水」という章に出てくる信玄堤や分水の事例は、現在の治水の見直しにも役立つだろう。武田信玄は、御勅使川(みだいがわ)支流を分けて釜無川との合流点を増やすことで水の勢いを弱めたり、堤防に切れ込みを入れて水の勢いを分散させる信玄堤(霞堤)という治水工事を行った(この工事についてはこちらを参照いただきたい)。こうした手法は自然の摂理に沿った治水といえるだろう。

 また、利水と治水の両方の機能を兼ね備えていた諏訪市の角間川の分水についても取り上げているが、昔の人の知恵に驚かされる。諏訪は石城さんの故郷だが、私の生まれ故郷でもあり、角間川は子どもの頃からなじみがある川だ。石城さんによると、角間川は上流で分水され、諏訪市街の東側にある山の裏側を通って市街地側の斜面に流れ込み、さらに分水されて農業用水や生活用水として使われていたという。

 この話しを知ってすぐに頭に浮かんだのは、諏訪の茶臼山の叔母の家の近くを流れていた小さな川のことだった。子どもの頃、夏休みに叔母のところに遊びに行くと、冷たい水が勢いよく流れているその川に遊びにいったものだが、細い道にそって流れるその川は子どもながらに自然の川とはどこか違うと感じていた。そこで、インターネットで公開されている国土地理院の地図から角間川を辿ってみた。

 なるほど、角間川は上流の2カ所で分水されている。一つは蓼の海(たてのうみ)という人造湖(ため池)を経由して山の鞍部を越し、もう一つは角間新田の上流で分水され鞍部を越えている。それぞれの分水地点からは鞍部に向かって等高線に沿うように水路が掘られ、鞍部を越えて反対側の斜面へと流れているのだ。こんな上流で分水をしていたとは知らなかった。そして、叔母の家の近くに流れていた小川は、角間川の下流部で分水されたものだということも分かった。諏訪の街中にはあちこちに水路があったことは子どもながらに記憶していたが、あの水路の意味に納得した。

 人の手によって本来とは異なる水系に水を流す行為は自然の摂理に反するものだ。しかし、節度をわきまえてさえいれば大きな災害には結び付かないだろうし、むしろ洪水の抑制につながる。自然との共生を目指した先人の知恵だ。ところがダムや河川改修などの大規模な治水や利水事業によって、昔ながらの優れた利水・治水は今ではほとんど姿を消してしまった。諏訪の水路網も今は使われていないという。

 公共事業という名の元で進められたダム建設や河川改修は自然を破壊しただけではなく、ダムの放水による洪水や、河川の直線化による破堤、溢水など新たな災害を生むようにもなってきている。自然を制御しようという考えが根底から間違っていることを教えてくれる。

 本書で取り上げられている講演はいずれも充実した内容のものばかりだが、人間社会の福祉と戦争について取り上げた「動物学からみた人間」についての考察は、考えさせられることが多い。直立二足歩行によって両手を自由に使えるようになり脳が発達して文化を発展させてきた人間は、高齢者や障害者、病人などといった社会的弱者を見捨てないという他の生物には見られない独自の生き方を選んできた。このような生き方を否定するような弱者切り捨ての行く末には、人間の将来はないだろうと石城さんは言う。

 昨年は相模原の障害者施設で入所者や職員多数が殺傷されるという凄惨な事件が起きた。安倍政権は、弱者切り捨ての法案を次々と成立させているばかりか、平和憲法をかなぐり捨てて戦争ができる国へと突き進んでいる。ネットでは気に入らない者、社会的弱者を叩いて優越感に浸ろうとする人が溢れている。人間以外の生物ではありえない殺伐とした光景だ。こんなときだからこそ、福祉と戦争について取り上げたこの章は、意味深いものになっている。

2017年1月20日 (金)

(1985年)

 どうしてその峠に行こうと思ったのか、今となってはよく思い出せないのだが、たぶんあの頃、私の一番好きだった季節、秋のあふれる中を、日頃の雑念を払い落して一人で歩きたかったからではないだろうか。秋といっても、あの山肌一面を鮮やかな紅や黄に染めるような紅葉の美を求めていたのではなかった。私は、あの紅葉特有のはなやいだ色合いは、それほど好きではない。あの色合いは、静かで寂しくありながら厳しい一面を持った秋という季節を象徴するには、何かそぐわない気がしてならない。秋の山は、落ち着いた色合いであるべきだった。だから私の選んだその峠は、はなやかさはなかったし、季節も晩秋の頃だった。遥かかなたの空の下で、北アルプスの山なみが銀白色にきらめいていたから、十月の終わり、あるいは十一月に入っていたかもしれなかった。

 その峠は、信州の一角、北八ヶ岳にあった。そしてそこに行くために、小高い山を越え、原生林の中を歩き、また高原を横切り、池のほとりで腰を下ろさなければならなかったが、その変わりゆく秋の姿を心ゆくまで楽しむことができたのだった。

 夜行日帰りという、ほんのつかの間の山旅であるのに、私は落葉松の季節になると必ず思い出す。というより、あの黄金色の落葉松が私の思い出をゆりおこしてくれるように思う。

 すでに東京の真冬なみ、あるいはもっと寒くなっていたかもしれないその高原のロープウェイ駅には、夜行列車から乗りついで一番のバスに乗ってきた二十人ほどの人たちが思い思いに散らばっていた。私もその駅の冷え切ったコンクリートの一隅に身をこごめて座りこむと、お茶をわかしささやかな朝食をとった。寒さがじわじわと体にしみてくる。眼下には南アルプスの山々が紫を帯びて朝もやの中に横たわっている。高原は一面、いつ冬が訪れてもいいような殺伐とした枯色となり、カラカラと葉ずれの音すら聞こえてきそうだ。人々はそれぞれの思いを、この朝もやの高原に寄せているようだ。私もまた、飽きることなくその一時を山に、高原に、目を据えていた。

 遥かなる山を見つめていると
 忘れられたものが 心の中に
 ぼっ と甦ってくる
 山はいつだって
 おとぎ話を包みこんでいる

 私のこの時ほど朝もやにかすむ山なみをなつかしく、いとおしく感じたことはない。それは、心の中でひそかに想いをいだいている恋人のしぐさを遠くから見つめているおももちにも似ていた。

 ロープウェイを降りたつと、ゆっくり歩きだした。峠は、目の前の山をいくつか越えた向こうだった。しめっぽい針葉樹の林は、真夏のそれより重ったるく感じられたが、あの鼻孔を刺激する樹の香りは、夏山のそれと同じ、なつかしいシラビソ原生林のものだった。あれだけ乗っていたロープウェイなのに、歩きだしてみるとどこに散ったのかと思う位、人々はそれぞれの道に消え、前後の人影は少なかった。私のような気ままな山旅をする人は少ないのかもしれない。いつものゆっくりとしたペースを楽しみながら、横岳の上に出た。

 そこは、北八ッ特有の景色を一望できた。小高くうねる原生林の山々、手鏡のようなちっぽけな池、枯色の丘。これからたどろうとしている道は、視界の途中でとぎれている。遥かかなたまで続くようにも思える。すきとおった空のずっとかなたに、北アルプスの峰々が白く浮き上がっている。その山なみのひとつを、その夏、自分も歩いてきたとは信じがたいほど、きびしく美しい山の姿だった。

 山道は地図で見るよりも起伏に富んでいた。時には、うっそうとした暗い森の中を、時には岩のむき出しになった道を、足元に気をつけながら進まねばならなかった。雪こそなかったが、あたりの草といい石といい、まっ白い霜がはりついていたからだ。それが朝の陽にきらめいている光景は、一瞬足を止めさせた。何でもない路傍の草や石ころであるはずなのに。やがて白一色の世界になってしまう地では、おおいかぶさるような霜が、秋の終わりを告げているかのようだ。その白いベールを足で踏みにじっていくことに、一瞬の戸惑いを感じながら、山道をたどった。

 北八ッの象徴のような原生林では、すでに鳥の地鳴きもまれにしか耳にしない。苔むした、柔らかい大地の感触を踏みしめながら、それは森をさまよっているおももちだった。

 荒涼とした岩原。これもまた北八ッの象徴に違いない。何故こんなところに突如、岩原が広がっているのか。この何とも言えない景色は、そこを通る人々にどんな気持ちを抱かせてきたのだろうか。それはあまりに荒涼としていて、たった一人の私にはとまどいすら感じさせる岩原だった。心地よい秋の風の中で、私はきままな放浪者そのものだった。

 双子池。そのほとりで腰を下ろし、おにぎりをほおばった。古びた山小屋、盛りの中にたたずむ池、静寂そのものの山は、この上なく心を落ちつけてくれた。足元の木の根の間から、ヒメネズミが飛び出してきた時には驚いた。地面にこぼれた何かをくわえると、あっという間にまた巣穴へと引っ込んでしまったものの、穴の入口でそっと私の様子をうかがっていたネズミのことを思うと、ひとりでに楽しくなった。何と他愛のない動物だろう。

 そして、私は最後の高みを目指すべく、枯色の丘に登っていった。そこは本当に枯草の丘というのがぴったりの、小山だった。丘にねころんで北アルプスを見た。こんな景色を見るのも、今年はこれが最後だろう。あまりにも遥かな山々だった。

 その丘をかけ下りたところに峠があった。しかし、そこは今までたどってきた静寂きわまる山ではすでになくなっていた。冷たく幅広い舗装道路が山肌をうねり、きらびやかなドライブインまでが建ち並んでいる。わかってはいるはずの光景だったが、この高原に最もふさわしくないものだ。目をそらせたくなるような、その人間くさい峠を眼下に、私は丘をかけ下りた。私は、その踏み荒らされた峠を早く下るべく、ドライブインの裏手にまわった。

 その古びた道標は、忘れられたように、建物のかげにポツリとたっていた。それを見つけた時、心の中にほのかな安心感があふれてきた。建物のかげに、見放されたように立つ道標に、不思議なことに親しみがわいてくるのだった。

 大河原峠の白茶けた道標は、山を愛する人達のために、立ちつづけているのだろうこの人間に踏みにじられてしまった峠の一角で。華やかなドライブインと、小さな道標を背に、私は秋の谷に足を踏み入れていった。

 帰り道はゆるやかな下り坂だった。落葉松と枯野原の谷は、まさに秋に彩られ、そこを通る小径は、黄金色の草の中へと続いていた。その心地よい小径を飛ぶように下っていると、あの峠のことは頭から消えていた。

 

    峠から

 白茶けた道標が
 忘れられたようにぽつりとあった
 そこからは ゆるやかな下り坂だった
 僕は草の中の小径をたどった

 まぶしいほどの落葉松の中を
 ぽこぽことくぐりぬけた
 その向こうに
 誰かが待っているような気がして

 僕は小走りにかけた
 どこまでも続く
 そののびやかな谷を
 ぽこぽことかけた

 さらさらと草がなり
 僕のひざをくすぐっていた

 僕を包みこんでいったのは
 とろけそうな午後の陽ざしを受けた
 幼い頃の記憶の世界
 枯野の中から
 一匹のキツネがぎょっこりと現れ
 とことこと銀色の小径を横切っていく

 はっと立ち止まると
 枯野だけが
 小麦色にちかちか光っていた

 日曜日だというのに、誰も通らない小径。青い空に手を伸ばすように輝いている落葉松の黄色い小枝。その中をくぐるようにして、この上もない秋の一日を惜しむようにして歩いた。やがて小径は川に沿った狭い谷へと入り、また山道になっていた。秋の一日の思い出を胸に、落葉を踏みしめながらバス停へと急いだ。

 どこにでもありそうなちっぽけな峠や小高い山々。しかし、それは私にとってはかけがいもない、愛すべき世界だった。その冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら思った。あの峠にいつかまた行こう。いつかまたこの径をたどってみよう。しかし、その時もあの道標はあのままの姿で迎えてくれるだろうか。

*信州は私の生まれ故郷でもあり、八ヶ岳や北アルプスの山並みは私にとっては子どもの頃から親しんできた光景だ。巨大都市東京に住んでいた頃、私はときどき思い立ったように一人でふらりと山に向かった。コンクリートに囲まれた都会で暮らしていると、無性に、都会の雑踏を抜け出して一人で山の自然に浸りたいという思いが湧いてくる。北八ヶ岳の大河原峠への山旅も、そんな思いつきの一つにすぎないのだが、あの大河原峠からの黄金色の落葉松の色は、今も脳裏に焼き付いている。あのときは知らなかったのだが、北八ヶ岳に点在する岩塊地や池は、かつての火山活動の賜物だ。日本の山岳のたとえようのない美しい景観は、火山活動によるところが大きい。
 この小文を打ち込みながら、さて、あのとき歩いた道は今はどうなっているのだろうかとグーグルアースを開いてみた。家に居ながらにして、山の中の道ですら辿れてしまうという恐るべき時代になってしまったことにちょっぴり愕然としながら・・・。
 そこに現れた画像は呆気にとられるものだった。ピラタスロープウェイの山麓駅周辺は網の目のように道路が広がり、リゾート地に変わり果てていた。そういえば、母と霧ヶ峰の
殿城山に登ったときも、その山頂から眼下に広がる別荘地の光景に息を飲んだ。殿城山は、もはや別荘地とスキー場に三方を囲まれて孤立した岬のようだった。白樺湖や霧ヶ峰周辺も八ヶ岳山麓も、リゾート開発、別荘地開発の波が押し寄せて、目を覆いたくなるような光景が展開されている。ただし、私の目には大規模リゾート開発のターゲットとされ自然破壊の象徴としか映らない別荘地であっても、そこに住まう人たちにとっては心安らぐ自然に違いない。もちろん、彼らを非難するのはお門違いだ。しかし、こうした状況を単に「時代の流れ」として受け流してしまうことにはどうしても抵抗がある。
 若い頃から山にばかり行っていた父は、歳をとってから霧ヶ峰をはじめとした信州の山々から足が遠のいていた。あまりの変わりように、とても足を向ける気にならなかったのだろう。グーグルアースの画像を見ていると、その気持ちが痛いほど分かる。
 当たり前のことだけれど、山麓を、高原を切り刻んで造られたリゾート地がなかった頃を今の人たちは知らない。そうやって、日本の美しい森や景観がじわじわと蝕まれ、蝕まれた光景が当たり前になっている。嘆いていてもどうにもならないのだけれど、自然の傷跡に、人の欲の浅ましさを感じずにはいられない。

2017年1月17日 (火)

赤鬼の高原

赤鬼の高原(1984年)

 北国の秋は、ひどくせっかちにやってきた。カッと照りつけた、しかしほんの短い夏が終わると同時だった。そのあわただしさに、私はまごついていたのかもしれなかった。あの草原に足を運んでみようと思いたったときは、すでに九月に入っていた。

 草原といっても、そこはかつてエゾマツやトドマツが生い茂っていた所を、ぽっかりと扇状に切りさいたスキー場だ。直線的な濃い緑の森林にふちどられた斜面は、草におおわれ花が咲いていても不自然さがつきまとった。雪のない季節には、無用だとばかりに草が茂り放題になっている。私はその斜面を眺めわたすと、かすかな期待を胸に、踏みわけのついた蕗の中を登りはじめた。

 草原は、まぎれもなく秋に支配されていた。夏の間、おもう存分に伸びた蕗の葉も、だらしなく倒れ、歩くたびにカサカサと音をたてた。ついこの間までは草いきれがたちこめていただろう草原は、もはや生気を失いかけている。遅すぎたのだろうか。

 遅い足取りのその足元に、ふと紫のリンドウが目に入った。ああ、この花だ。あの時も、この花が足元にいくつもこぼれ咲いていたっけ……。

               *

 もう六年も前になるだろうか。まだ東京に住んでいた頃、私は友人と二人で、信州のある高原へ出かけた。列車にゆられ、バスを乗り継ぎ、おりたったその地は霧雨にぬれ、ぼんやりと針葉樹に包まれていた。今から思うと、北海道の山地の感じとも似ていたようだ。あの針葉樹は落葉松だったろうか。木造の宿をとり囲んで、黒々と雨水を含み、そそりたつように並んでいた木々を、私は今でも鮮やかに覚えている。雨の音の他、もの音一つ聞こえない。いや、正確に言うなら、ヒガラの地鳴きくらいしていたかもしれないが、とにかく気の遠くなりそうな静けさだった。都会の騒々しさから抜け出してきた私たちには、その高原のすがすがしさはかけがえもなく尊いもののようで、雨が降っていることすらさほど気にならなかったし、かえって、私たちに落ち着きを与えてくれたように思う。

 その高原は、針葉樹は茂ってはいたが、牧場やスキー場になっている草原がそこかしこにあった。その上、流行りのテニスコートすらいくつかあったが、もはや秋となっては、人影もほとんどない。その誰もいないような草原は、思いもかけぬ秋の花々に彩られていたのだった。群生してゆれているヤナギランは、もう終わりに近かったが、鮮やかなピンクの花はそれほど色あせてもいない。マツムシソウもあちこちで頭をかしげている。私はこの花が大好きだった。まだ幼かった頃、同じ信州の霧ヶ峰で、背丈ほどもあるようなマツムシソウの中をかけまわった記憶が、今でも生き続けていた。その上品な藤色は、秋の草原を彩るのに最もふさわしいと思う。他に何が咲いていただろうか。オミナエシ、アザミ、ノコギリソウ、ワレモコウ……。

 私たちは、霧雨の降る中、外に出た。あたりは一面霧にかすんでいる。どこに行くというあてもなく、湿った落葉を踏みしめながら、スキー場へと足を向けた。探鳥のために持ってきた双眼鏡も、この霧では何の役にも立たない。そればかりか、鳥の声といったら、林のあたりから、ヒガラか何かの小声がとぎれとぎれにしている位だ。テニスコートの脇を抜けると、スキー場の下に出た。踏みあとは小さな川となって雨水が流れ出ている。その流れを飛び越しながら、上へつづく草の中の小路をたどっていった。

 斜面に広がる、いくぶん草丈の低い草原は、そこに咲く花の色も、また葉の色も秋の色をしている。ミルク色に漂う霧が、それをより一層冷たく見せている。そして足元には、あの濃青紫のリンドウの花が、いくつも咲いていた。こんなにたくさんのリンドウを見るのは、ずいぶん久しぶりのことではなかろうか。濃い霧の中を、足元に気を配りながら、どれくらいのリンドウを見ただろう。そして、斜面の中腹あたりまで登った頃、私はそのリンドウの花陰に、真赤な、というより、もう熟れすぎた木の実のようにいくらか黒ずんだ赤いものを見つけた。それは、水滴をしたたらせもう破れそうになった蜘蛛の網に、じっとして動こうともしない。

 成熟したアカオニグモだった。気味の悪いほどの赤く大きい腹部には、真白な斑点がちらばっている。その壊れかけた網や、腹部の成熟しきって黒ずんだ赤色は、この蜘蛛の命がつきるのも間もないことを物語っていた。

 自然の中での、アカオニグモとの初めての出会いだった。本州の高原や、北海道の草原には、どこにでもいるありふれた蜘蛛ではあったが、今まで見たことがなかったのは、この季節にこういう高原に来ることがほとんどなかったからに違いない。ひどく美しい蜘蛛であった。が、その濃すぎる赤は、まわりの静けさにとけこみ、美しさより先に秋の寂しさを漂わせていた。気をつけてあたりを見回すと、ひとつ、ふたつ……と、いくつもの赤い蜘蛛が、霧に濡れた草の中でうずくまっているのだった。

 私がこの蜘蛛を初めて目にしたのは、それよりもさらに四年ほど前だったと思う。それは、大学の生物部の部室だった。秋の尾瀬から帰ってきたというある先輩が、フイルムケースの中から、手のひらにころりと出して見せたのが、アカオニグモだった。それは脚をちぢめて丸まり、ほとんど身動きすらしなかったが、私は何と美しい蜘蛛だろうかと見入ったものであった。

 しかし、高原の冷たい葉陰で、真赤に老熟してたたずんでいるこの蜘蛛を目の当たりにしたとき、私は、散っていく紅葉のような、はかない存在に、驚きにも似たものを感じたのだった。冷気の漂いはじめた、誰もいない高原で、この小さな命たちは熟れた木の実のように、土にかえっていくのだろう。

               *

 私は、あのリンドウの中の赤い蜘蛛のことを思いながらスキー場尾の斜面を登っていた。北海道の草原は信州のそれと違い、大きな蕗が他の草を押しのけるかのように葉を広げている。信州の高原が概して草丈の低い、おだやかさを持った草原であったのに比べ、そのぼうぼうと伸びた茎は、草原を粗雑なものに見せた。が、どちらも、もう枯れゆく運命にある秋の草原であることに変わりはなかった。注意深く足元を見やりながら、しばらく登った頃、私は蕗の葉の間に、一目でそれとわかる網を見つけた。しかし、網はいく本もの糸が切れ、もはや網とはいえないほどいたんでいる。その上、小さな虫がいくつもへばりつき、もう何日もそのままになっているようだ。葉の裏に造られた住居にも、主の姿はない。やはり遅かったのだろうか。

 私はこの草原で、あの赤鬼に会いたかった。勿論、この草原でなくても探せばどこにでもいるはずだが、それでもこの草原で会いたいと思ったのは、ここが、あの信州の高原によく似ているという意識が、心のどこかに働いていたからにちがいない。あの蜘蛛は、潮風がなでて通る海辺の草原よりも、またちっぽけな道端の草地よりも、しっとりと寂しい高原の方がふさわしい気がした。

 さらに登っていった。同じような網がひとつ、ふたつ、だがどれも網の主はすでにいない。やっぱり……。北海道の秋は信州より一足も二足も早かったのだ。やがて踏みわけ道はもはや道ではなくなり、私はバサバサと草を押し分けた。いくども帰ろうか、と思いながらも、なぜかしら足は枯れ草を押し分けていた。

 私があの赤い、それこそ、今にもこぼれ落ちそうな赤鬼を見つけたのは、五つ目くらいの網だったろうか。もう用はなさないのではないかと思えるボロ網の糸をたどると、それはくるりと葉を巻いた中に、小さくうずくまっていた。

 やっぱり生きていてくれたのだった。ひときわ大きくふくらんだ腹部は、見事な濃赤色に染まり、生きているのかと疑うほど、じっとしている。この蜘蛛にはもはや網を直す必要もないし、その力もないことを私はよく知っていた。

 いつのまにか、だいぶ傾いたやわらかな陽射しが草原に落ちていた。心のうちで期待していた、ほのかな赤鬼との再会の喜びは、いつか信州で出会った赤鬼の思い出と重なり、人知れずこぼれ落ちていく小さな命の哀しさへと変わっていた。

 涼風がたってきた。私は草原にくるりと背を向けると、一気に草原をかけおりた。

 

*父が亡くなってから墓参りを兼ねて、懐かしい霧ヶ峰に母と通うようになった。父の墓は霧ヶ峰からの湧水が流れ下る角間川のほとりの地蔵寺にある。通うといっても、年に一度、8月下旬に開かれる蜘蛛学会の大会に合わせて帰省したときだった。その頃は父の命日にも近かった。そんなわけで、8月下旬から9月の初旬にかけてが霧ヶ峰に行く時期になった。
 初秋の霧ヶ峰ではマツムシソウとアカオニグモがそこここで迎えてくれた。ただ、この時期のアカオニグモはまだきれいな赤色になっておらず、くすんだ黄緑にほのかに赤色が差しているような微妙な色をしている。信州の高原にはマツムシソウとアカオニグモがよく似合うといつも思う。
 その母も他界して、霧ヶ峰もちょっぴり遠い存在になったが、霧ヶ峰の光景は私の心の中にずっと生き続けている。ただし、この小文に出てくる信州の高原は霧ヶ峰ではなく、湯の丸高原である。

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